2、望みと現実
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「――――様!――――様!シャバーン様!」
シャバーンが我に返ったのは、アシームの呼び声のおかげだった。彼は慌てて振り返ると、明らかに元気のなさそうな様子で尋ねた。
「…………何だ」
アシームは、隣のベキートから差し出された小箱を受け取った。そしてシャバーンにそっと手渡した。何が起きたのか理解できていない彼は、目を白黒させている。
「…………何だこれ」
「あの子からの、プレゼントだよ。俺が預かってたんだ」
「えっ!!?」
ベニートの言葉を聞いて素っ頓狂な声を上げると、シャバーンは慌ててプレゼントの封を開けた。そこには美しい青色のブローチが二対入っていた。どうやらマント飾りらしい。彼は大事そうに箱を抱きしめると、さっそく金色のマントの左右に飾りを付けた。ブローチはどうも大粒のサファイアを研磨したものらしく、価格を考えてしまったアシームとジーニーは悲鳴をあげて抱き合った。
「アシームちゃん、おったまげたなぁ。あのお嬢ちゃん、なんつぅ金持ちだ…………」
「うん。なんてったって、ハイサム国務大臣のお嬢様だからね」
「こっ、国務大臣!!?」
ジーニーは人間の姿のまま、1メートルほど飛び上がった。あまりの衝撃に頭が追いついていないらしい。我に返った彼は、思わず主人に噛みついた。
「ちょっとちょっとシャバーン様、あんた話が違うよ」
深刻な顔をするジーニーを置いて、シャバーンは上機嫌にその場をくるくる回っている。どうやら余程贈り物が嬉しかったらしい。
「何だ?それより、どうだっ!これ、似合うだろ?あいつはやっぱりセンスがいいなぁ。洗練されたわしのカッコよさを良くわかってる」
シャバーンはそう言いながら、マントをヒラヒラさせて喜んでいる。その喜び方は、どこから見ても五十路の男というより幼子だ。ジーニーは事の深刻さを理解していない主人に頭を抱えると、謎のダンスの動きを無理矢理止めてこう言った。
「シャバーン様、あなたねぇ。なーんにも分かっちゃいない」
「…………何だ。このわしに説教を垂れるのか?わしの召使いのくせに?」
「ええ、言わせてもらいますよ。これは、この場にいる全員に関わることです。もちろん、俺の大事な友達のアシームにも関わることだ」
シャバーンはうんざりと言いたげな表情を浮かべながら、ジーニーの拘束を振りほどこうともがきながら反論した。
「わしが一体何をしたっていうんだ。国務大臣のお嬢様と親密になれば、ここでのショーがもっと簡単になるだろう?」
そこまで言うと、彼は突然乙女のようにうっとりした眼差しに変わってこう付け加えた。
「そ、れ、に。あの子は…………とーっても可愛くて従順でおとなしくて優しくて素直で可憐で純情で清楚で一途で上品な最高の娘だ!ああ、信じられるか?あんな子がわしを見つめて、なんて言ったと思う?『貴方に会えなくて、苦しかったの』だってさ!」
嬉しさのあまり行動を制限されていることをも忘れて悶絶する主人に、ジーニーは背筋が寒くなるのを感じた。彼はとんでもないものを見た気分を抑えられず、無言でシャバーンを解放した。暫し床でくねくねとのたうち回っている主人に、魔人はついに厳しい口調で現実を突きつけた。
「――――いいですか、シャバーン様。このアグラバーでは、貴族と庶民は結ばれない」
シャバーンは顔を上げると、身体を起こした。そして暫くの沈黙の後、大笑いを始めた。
「ジーニー!お前、本気で言っているのか?わしは世界一のマジシャンだぞ。金だって沢山――――」
「だけど身分は変えられません。あなたが望んだのは、王子様とかじゃありませんから」
シャバーンは少し考えると、右手の指先でブローチを撫でた。ひんやりと冷たいサファイアの感触が、残酷な現実を突きつけてくる。
こんなに思い合っていても、結ばれないというのか。
シャバーンは虚しさのあまりため息を漏らした。すっかり傷心の主人に同情しながら、ジーニーは続けた。
「…………シャバーン様。お願いですからあの娘と過度な接触は控えてください。手に触れるだけでも、この国では重罪になるんです」
ジーニーの言葉に、思わずシャバーンは我を忘れて怒りを顕にした。相手の髭を掴みながら、マジシャンは激昂した。
「わしはっ!あの子を好きになっただけだ。それはあの子も同じ。お前は、好きになったのが悪いっていうのか!?」
最強の魔人も、流石に髭を引っ張れるのは痛かったようである。引っ張られる度に、人間の見た目になったり魔人の姿に戻ったりを繰り返している。見ていられない乱闘状態に、アシームがついに声を上げた。彼は力のかぎり叫ぶと、主人と友人の間に割って入った。
「シャバーン様っ!やめてください、ジーニーに怒らないで」
「うるさい!アシーム、お前は一体どっちの味方なんだ」
「僕は…………っ…………」
アシームは涙目で狼狽えた。そして、大粒の涙を流し始めた。突然の少年の涙に、二人は喧嘩どころでは無くなってしまった。
「おっ、おいどうしたんだ。アシームちゃんが泣くことじゃないだろ」
アシームはジーニーの胸に飛び込むと、声を上げて泣いた。
「うえええぇん…………だってぇ…………シャバーン様が…………可哀想なんだもん…………」
「泣きたいのはこっちだ!お前が泣いてどうするんだ、全く…………」
シャバーンはそう言い放つと、部屋から立ち去ってしまった。残されたジーニーとベキートは、涙を流し続けるアシームを2人がかりで慰め続けるのだった。
次の日も、その次の日も、ラティーファが公演にやってくることはなかった。シャバーンはそれでも気丈に振る舞い続け、両肩にはサファイアのブローチが輝いてた。とはいえ終演日に近づくにつれて、彼の元気は次第に薄れていった。
そんなある日、一人の客人がシャバーンの元を訪れた。ラティーファだと思った彼は笑顔で控え室のカーテンを開けると、嬉しそうに両手を広げた。
「来てくれたんだな!会いたかっ――――」
何かおかしいと思って顔を上げたシャバーンは、驚愕した。眼の前に立っていたのは、なんと彼の師であるカミール氏だった。シャバーンは咳払いをすると、気まずそうに視線をそらしながら尋ねた。
「…………何しに来たんですか、師匠」
「何とは滅茶苦茶な。老体が無理を押して、愛弟子のショーを祝いに来たのだぞ」
カミールはそう言いながらも、どこか元気そうだ。彼はシャバーンの背中を叩くと、素敵な笑みを浮かべた。
「――――それとも、お前は誰か別の人を待っていたのかな?」
ギクリ、と音が出そうなくらいに肩を飛び上がらせたシャバーンは、声を裏返しながら返答した。
「そっ、そっ、そんなわけないでしょう!わっ、わしがなーんで誰かを待つ必要が…………」
焦る彼を尻目に、カミールはにこやかに笑いながら椅子に腰かけた。シャバーンは慌ててアシームに茶を淹れるように命じると、隣に座って苦笑いを浮かべた。
カミールは、かつてシンドバッドの時代に活躍したアラビアで最も偉大なマジシャンだ。国王含め彼の名前を知らないものは居らず、自他称共に弟子もたくさん抱えていた。
「しかし、懐かしいなぁ。お前は弟子たちの中で一番ぼんくらだった。ろくに努力もせず、道具ばっかり集めておったからな」
「うっ…………」
カミールの言う通り、シャバーンは決して良い弟子ではなかった。だが、駄目な子ほど可愛いと言う言葉通り、彼は才能の無く傲慢な弟子を心のどこかで溺愛していた。もちろんシャバーンにその気持ちが届くことは無かったのだが。彼は鬱陶しそうにローブの裾をひらつかせながら、師匠に尋ねた。
「…………で、何しに来たんです」
「お前のことが、少し心配でな」
「わしのことが?心配ですと?笑わせないでください、師匠」
そう言いながらも、シャバーンは内心冷や汗をかいていた。
まさか、ラティーファとのことが噂になっているのか?
彼の心配を他所に、カミールはお茶を一口飲みながらこう言った。
「あんなに完璧なマジックをお前が披露するとは、正直驚きだ。まるで別人とでも言うべきか」
相変わらず鋭い師の言葉に、シャバーンはたじろいだ。ジーニーの力で魔法が使えるようになったおかげなどとは、口が裂けても言えない。カミールはさらにこう続けた。
「それに、今日のお前はうわの空だった。観客の目はマジックで誤魔化せても、師匠の目は欺けんぞ」
そこまで言うと、彼は弟子をまじまじと覗き込んだ。それからマントを留めている二対のブローチに気づくと、宝石の輝きを冷静な眼差しで見つめながら尋ねた。
「…………単刀直入に尋ねるが、気になる娘でもいるのか?しかも、かなり年下の」
「へっ…………?」
なんという察しの良さだ。
シャバーンはいよいよ狼狽えを隠すことが出来なくなり、大きく目を見開いている。そんな彼にため息をつくと、カミールは畳み掛けるように警告した。
「どうなんだ。悪いことは言わんからやめておけ。自分の年を考えろ。どうせまたお前の片思い――――」
「片思いなんかじゃありません!」
シャバーンは反射的に立ち上がると、肩を怒らせながら激昂した。そのまま、彼は我を忘れて師匠に噛みついた。
「わしとあの子は互いに想い合っています!年齢も身分も関係なく、ただただ好きなんです」
言い終わってから、シャバーンはハッとした。カミールも目の前で唖然としている。
「…………シャバーン。お前、その娘は一体誰なんだ?」
「そっ、それは……その……」
「答えなさい」
シャバーンは目を閉じて息を吐いた。それから観念したように白状した。
「…………ハイサム国務大臣のご令嬢、ラティーファ様です」
その場の時間が止まる。カミールは長年生きてきたなかで一、二を争う衝撃に耐えながら、頭を抱えて呟いた。
「…………あの娘か」
「ご存知なのですか?」
シャバーンの問いに、カミールが静かに頷く。
「ああ、ラティーファ嬢はとても良い子だ。アグラバーの男にとって、あの子は理想の娘だ。お前が惹かれるのも無理はない」
そこまで言うと、彼は厳しい口調で弟子を睨みつけた。
「いいか、シャバーン。決して報われぬ恋だ。あの娘は賢いゆえ、それを承知のうえで密かに恋い慕っているのだろう。だが、お前は恐らく…………いや、間違いなくあの娘と違って現実が見えていない」
痛いところを突かれたシャバーンは、反論できず俯くことしか出来ない。カミールは立ち上がると、心配でやって来たアシームにお茶の礼を述べてそのまま返ってしまった。ただならぬ空気感に、少年はカミールを追いかた。
「待ってください!」
「おお、アシーム。あやつの下で良く頑張っているな。偉いと思うぞ」
茶化すように頭を撫でてくるカミールを、アシームは精一杯睨みつけた。そして震える声で尋ねた。
「誤魔化さないでください。シャバーン様に一体何を言ったんですか」
老マジシャンはため息をつくと、簡潔に答えた。
「正直に言ってやっただけだ。あの娘とは結ばれることはないと」
一言だけで何の話をしたのかを察したアシームは、肩を震わせながら叫んだ。
「なんて酷いことを……!シャバーン様は確かに時々滅茶苦茶でダメ人間ですし、何より性格が悪い人です。だけど、だけど…………変わったんです。あの人と出会って、シャバーン様は確かに変わったんです!あの人はきっと――――」
アシームの声を遮るように、カミールが割って入る。
「あの娘は、シャバーンにとってファム・ファタルだ。あの従順さと一途さは、あいつにとって毒でしかない」
気弱なアシームのことである。これくらいで引き下がるだろうとカミールは思っていた。だが、今日の彼は違った。少年はしっかりとカミールを見据えている。
「僕は違うと思ってます。僕は、あの人こそがシャバーン様の運命だと思います。だって…………だって…………」
アシームは深呼吸した。そして、はっきりとこう言った。その声は、どこか所々詰まっている。
「だって……僕もベキートも、今のシャバーン様の方が……ほんのちょっぴり…………大好きなんですから…………っ」
両目に大粒の涙を浮かべるアシームを見て、カミールは良心が痛む感覚に陥った。そして目の前の少年と同じくらい――――いやそれ以上に彼の弟子も、悲しみと絶望とやるせなさに打ちひしがれていることに気づかされた。カミールは己の浅はかさに頭を抱えると、深い溜息を零してからこう言った。
「…………あいつがもし本当に困ったときは、私を頼るように伝えてくれ。国王陛下とは、ハイサムよりも長い付き合いだからな」
「カミール様……?」
「ただし心に留めておきなさい、アシーム。この世にはどうにもならんこともある。…………そして、何れか一方しか選べんこともある」
カミールの言葉にアシームが首を傾げる。この少年にはまだ少し早すぎたか、と老マジシャンは笑った。
「…………よくわからないけれど、覚えておきます」
純粋なアシームはそう言うと、頭を下げてシャバーンの元へと戻っていった。残されたカミールは、憂いを帯びた面持ちで王宮を見上げた。
「――――シャバーン。本当に、お前は愚かな弟子だ」
その言葉には、微かな悲哀が滲んでいた。
アシームが戻ると、すぐにベキートが飛んでやって来た。いつもと明らかに違う様子で動揺している彼に、少年は恐る恐る尋ねた。
「な、何かあったの…………?」
「シャバーンのヤツに会うのか?今はやめとけ。…………かーなり荒れてる」
「えっ…………」
アシームが驚いていると、間髪入れず怒号と何かが割れる音が聞こえてきた。それは間違いなく、シャバーンの憤激の声だった。
「ふざけるなっ!わしは!わしは…………わしは、世界一偉大なマジシャンなんだぞ!?どうして好きな女の一人も自由に愛することが出来ないんだ!?」
「ですからシャバーン様。世界一のマジシャンって言っても貴族からしてみれば平民ですし――――」
そんなジーニーの苦肉のフォローは、返って火に油を注いだらしい。シャバーンは自分よりもずっと体格の大きい魔人を睨みつけると、怒りで口髭を震わせて叫んだ。
「だったら何だ!?どっかの国の王だの王子だの何かの大臣になりたいとでも願えばよかったのか!?あぁ!?わしの一体何がいけなかったんだ?答えてみろ!わしのっ!何が!いけないんだ!?」
おっと、こりゃまずいぞ。
すっかり破壊神に成り果てたシャバーンの暴走は止まらない。ジーニーは慎重に言葉を選びながら、主人に適切な返事をしようと試みた。
「シャバーン様、あの…………それは…………」
しかし魔人の努力も虚しく、シャバーンはついに高価な香水瓶も床に叩きつけた。その場にけたたましく、ガラスが割れる音が鳴り響いた。シダーウッドとサンダルウッドの爽やかな香りがその場に充満する。同時にガラス片の1つが腕を鋭く切り裂き、ジーニーがうめき声を上げた。
「わしの何がいけないんだ!?年も、性格も、器用さも、身分も、何でわしはいつだって自分ではどうしようもない所ばかり責められるんだ。何で…………何でっ…………!!」
そこまで言うと、シャバーンは言葉を詰まらせて床に崩れ落ちた。絹の豪奢な服に身を包みながらも肩を震わせて泣く姿は、あまりに憐れな存在だった。ジーニーはガラスの破片で腕を怪我したことも忘れ、主人に寄り添った。気がつけば、シャバーンは泣いていた。
「わしの何が…………何が駄目なんだ…………?商人の息子のままだったら…………そうだったら、あの子の傍に居ても良かったのか…………?」
「シャバーン様…………」
ジーニーの瞳に僅かに涙が光る。シャバーンは顔を歪めて号泣しながら、駄々をこねる子どものように床を何度も叩いている。
「分かってるんだ、分かってるんだ…………わしがマジシャンを目指したからあの子に出会えたことくらい…………なのに、なのに…………っ!!」
絞り出すようにそう言うシャバーンに耐えきれず、ジーニーは主人の肩を抱いた。憎いときはとことん憎いのに、憐れなときはとことん憐れで共感できる。それがシャバーンの不思議な魅力なのだろう。魔人は伏し目がちになりながらも、いつもと違って穏やかで優しい声でこう言った。
「シャバーン様。貴方は貴方のままで良いんですよ。貴方だから、ラティーファ様は好きになったんですから」
その言葉に、シャバーンの涙腺が崩壊した。彼は子どものように泣きじゃくりながら、ジーニーの肩に顔を埋めた。
「ううっ…………ジーニー…………わしは…………あの子が好きなんだ…………どうしようもなく…………好きなんだ…………っ…………ダメなのも、許されないのも、罪深いことも、全部分かっているのに…………っ」
「ええ、わかりますよ」
「だけど…………だけど…………わしにはあの子しか居ないんだ…………例え、あの子にはわし以上の男が沢山いたとしても…………」
なんだ、分かってたんだ。
ジーニーは意外な発言に目を丸くしながら、主人の頭をそっと撫でた。そして内心、この男は貪欲な性格の割には随分とピュアな恋情を抱いているのだなと感心した。
そんなジーニーの驚きなど知る由もなく、シャバーンは涙を流しながら独白を続けた。
「わしは…………わしは、あの子が好きだ。あの子が居なかったら、生きてなんていけない。最初は嬉しかったさ。心が自分のものになっただけでな」
シャバーンは自分の両肩を抱くと、震える声で続けた。
「だけど…………だけど…………っ!!欲深いわしは、あの子を生涯自分の側に留め置かないと気が狂いそうなんだ…………っ!!」
そこまで言うと、彼はジーニーの肩を掴んで狂気的な眼差しでこう言った。
「嫌なんだ。あの娘が…………ラティーファが他の男のモノになるなんて…………許せないんだ!!認められないんだ。わしのモノになる以外、許せないんだ」
呪いにも似た恋情を零しながら、シャバーンは膝から再び床に崩れ落ちた。普段の尊大さは何処かに消え去り、その姿は最早貧相と云う言葉が相応しい。
アシームとベキートはそんなシャバーンの姿を遠巻きに眺めながら、言葉を失っていた。そして互いにどうすべきか悩みながら、やり場のない同情と悲しみを抱えて床を見つめることしか出来ないのだった。
シャバーンが我に返ったのは、アシームの呼び声のおかげだった。彼は慌てて振り返ると、明らかに元気のなさそうな様子で尋ねた。
「…………何だ」
アシームは、隣のベキートから差し出された小箱を受け取った。そしてシャバーンにそっと手渡した。何が起きたのか理解できていない彼は、目を白黒させている。
「…………何だこれ」
「あの子からの、プレゼントだよ。俺が預かってたんだ」
「えっ!!?」
ベニートの言葉を聞いて素っ頓狂な声を上げると、シャバーンは慌ててプレゼントの封を開けた。そこには美しい青色のブローチが二対入っていた。どうやらマント飾りらしい。彼は大事そうに箱を抱きしめると、さっそく金色のマントの左右に飾りを付けた。ブローチはどうも大粒のサファイアを研磨したものらしく、価格を考えてしまったアシームとジーニーは悲鳴をあげて抱き合った。
「アシームちゃん、おったまげたなぁ。あのお嬢ちゃん、なんつぅ金持ちだ…………」
「うん。なんてったって、ハイサム国務大臣のお嬢様だからね」
「こっ、国務大臣!!?」
ジーニーは人間の姿のまま、1メートルほど飛び上がった。あまりの衝撃に頭が追いついていないらしい。我に返った彼は、思わず主人に噛みついた。
「ちょっとちょっとシャバーン様、あんた話が違うよ」
深刻な顔をするジーニーを置いて、シャバーンは上機嫌にその場をくるくる回っている。どうやら余程贈り物が嬉しかったらしい。
「何だ?それより、どうだっ!これ、似合うだろ?あいつはやっぱりセンスがいいなぁ。洗練されたわしのカッコよさを良くわかってる」
シャバーンはそう言いながら、マントをヒラヒラさせて喜んでいる。その喜び方は、どこから見ても五十路の男というより幼子だ。ジーニーは事の深刻さを理解していない主人に頭を抱えると、謎のダンスの動きを無理矢理止めてこう言った。
「シャバーン様、あなたねぇ。なーんにも分かっちゃいない」
「…………何だ。このわしに説教を垂れるのか?わしの召使いのくせに?」
「ええ、言わせてもらいますよ。これは、この場にいる全員に関わることです。もちろん、俺の大事な友達のアシームにも関わることだ」
シャバーンはうんざりと言いたげな表情を浮かべながら、ジーニーの拘束を振りほどこうともがきながら反論した。
「わしが一体何をしたっていうんだ。国務大臣のお嬢様と親密になれば、ここでのショーがもっと簡単になるだろう?」
そこまで言うと、彼は突然乙女のようにうっとりした眼差しに変わってこう付け加えた。
「そ、れ、に。あの子は…………とーっても可愛くて従順でおとなしくて優しくて素直で可憐で純情で清楚で一途で上品な最高の娘だ!ああ、信じられるか?あんな子がわしを見つめて、なんて言ったと思う?『貴方に会えなくて、苦しかったの』だってさ!」
嬉しさのあまり行動を制限されていることをも忘れて悶絶する主人に、ジーニーは背筋が寒くなるのを感じた。彼はとんでもないものを見た気分を抑えられず、無言でシャバーンを解放した。暫し床でくねくねとのたうち回っている主人に、魔人はついに厳しい口調で現実を突きつけた。
「――――いいですか、シャバーン様。このアグラバーでは、貴族と庶民は結ばれない」
シャバーンは顔を上げると、身体を起こした。そして暫くの沈黙の後、大笑いを始めた。
「ジーニー!お前、本気で言っているのか?わしは世界一のマジシャンだぞ。金だって沢山――――」
「だけど身分は変えられません。あなたが望んだのは、王子様とかじゃありませんから」
シャバーンは少し考えると、右手の指先でブローチを撫でた。ひんやりと冷たいサファイアの感触が、残酷な現実を突きつけてくる。
こんなに思い合っていても、結ばれないというのか。
シャバーンは虚しさのあまりため息を漏らした。すっかり傷心の主人に同情しながら、ジーニーは続けた。
「…………シャバーン様。お願いですからあの娘と過度な接触は控えてください。手に触れるだけでも、この国では重罪になるんです」
ジーニーの言葉に、思わずシャバーンは我を忘れて怒りを顕にした。相手の髭を掴みながら、マジシャンは激昂した。
「わしはっ!あの子を好きになっただけだ。それはあの子も同じ。お前は、好きになったのが悪いっていうのか!?」
最強の魔人も、流石に髭を引っ張れるのは痛かったようである。引っ張られる度に、人間の見た目になったり魔人の姿に戻ったりを繰り返している。見ていられない乱闘状態に、アシームがついに声を上げた。彼は力のかぎり叫ぶと、主人と友人の間に割って入った。
「シャバーン様っ!やめてください、ジーニーに怒らないで」
「うるさい!アシーム、お前は一体どっちの味方なんだ」
「僕は…………っ…………」
アシームは涙目で狼狽えた。そして、大粒の涙を流し始めた。突然の少年の涙に、二人は喧嘩どころでは無くなってしまった。
「おっ、おいどうしたんだ。アシームちゃんが泣くことじゃないだろ」
アシームはジーニーの胸に飛び込むと、声を上げて泣いた。
「うえええぇん…………だってぇ…………シャバーン様が…………可哀想なんだもん…………」
「泣きたいのはこっちだ!お前が泣いてどうするんだ、全く…………」
シャバーンはそう言い放つと、部屋から立ち去ってしまった。残されたジーニーとベキートは、涙を流し続けるアシームを2人がかりで慰め続けるのだった。
次の日も、その次の日も、ラティーファが公演にやってくることはなかった。シャバーンはそれでも気丈に振る舞い続け、両肩にはサファイアのブローチが輝いてた。とはいえ終演日に近づくにつれて、彼の元気は次第に薄れていった。
そんなある日、一人の客人がシャバーンの元を訪れた。ラティーファだと思った彼は笑顔で控え室のカーテンを開けると、嬉しそうに両手を広げた。
「来てくれたんだな!会いたかっ――――」
何かおかしいと思って顔を上げたシャバーンは、驚愕した。眼の前に立っていたのは、なんと彼の師であるカミール氏だった。シャバーンは咳払いをすると、気まずそうに視線をそらしながら尋ねた。
「…………何しに来たんですか、師匠」
「何とは滅茶苦茶な。老体が無理を押して、愛弟子のショーを祝いに来たのだぞ」
カミールはそう言いながらも、どこか元気そうだ。彼はシャバーンの背中を叩くと、素敵な笑みを浮かべた。
「――――それとも、お前は誰か別の人を待っていたのかな?」
ギクリ、と音が出そうなくらいに肩を飛び上がらせたシャバーンは、声を裏返しながら返答した。
「そっ、そっ、そんなわけないでしょう!わっ、わしがなーんで誰かを待つ必要が…………」
焦る彼を尻目に、カミールはにこやかに笑いながら椅子に腰かけた。シャバーンは慌ててアシームに茶を淹れるように命じると、隣に座って苦笑いを浮かべた。
カミールは、かつてシンドバッドの時代に活躍したアラビアで最も偉大なマジシャンだ。国王含め彼の名前を知らないものは居らず、自他称共に弟子もたくさん抱えていた。
「しかし、懐かしいなぁ。お前は弟子たちの中で一番ぼんくらだった。ろくに努力もせず、道具ばっかり集めておったからな」
「うっ…………」
カミールの言う通り、シャバーンは決して良い弟子ではなかった。だが、駄目な子ほど可愛いと言う言葉通り、彼は才能の無く傲慢な弟子を心のどこかで溺愛していた。もちろんシャバーンにその気持ちが届くことは無かったのだが。彼は鬱陶しそうにローブの裾をひらつかせながら、師匠に尋ねた。
「…………で、何しに来たんです」
「お前のことが、少し心配でな」
「わしのことが?心配ですと?笑わせないでください、師匠」
そう言いながらも、シャバーンは内心冷や汗をかいていた。
まさか、ラティーファとのことが噂になっているのか?
彼の心配を他所に、カミールはお茶を一口飲みながらこう言った。
「あんなに完璧なマジックをお前が披露するとは、正直驚きだ。まるで別人とでも言うべきか」
相変わらず鋭い師の言葉に、シャバーンはたじろいだ。ジーニーの力で魔法が使えるようになったおかげなどとは、口が裂けても言えない。カミールはさらにこう続けた。
「それに、今日のお前はうわの空だった。観客の目はマジックで誤魔化せても、師匠の目は欺けんぞ」
そこまで言うと、彼は弟子をまじまじと覗き込んだ。それからマントを留めている二対のブローチに気づくと、宝石の輝きを冷静な眼差しで見つめながら尋ねた。
「…………単刀直入に尋ねるが、気になる娘でもいるのか?しかも、かなり年下の」
「へっ…………?」
なんという察しの良さだ。
シャバーンはいよいよ狼狽えを隠すことが出来なくなり、大きく目を見開いている。そんな彼にため息をつくと、カミールは畳み掛けるように警告した。
「どうなんだ。悪いことは言わんからやめておけ。自分の年を考えろ。どうせまたお前の片思い――――」
「片思いなんかじゃありません!」
シャバーンは反射的に立ち上がると、肩を怒らせながら激昂した。そのまま、彼は我を忘れて師匠に噛みついた。
「わしとあの子は互いに想い合っています!年齢も身分も関係なく、ただただ好きなんです」
言い終わってから、シャバーンはハッとした。カミールも目の前で唖然としている。
「…………シャバーン。お前、その娘は一体誰なんだ?」
「そっ、それは……その……」
「答えなさい」
シャバーンは目を閉じて息を吐いた。それから観念したように白状した。
「…………ハイサム国務大臣のご令嬢、ラティーファ様です」
その場の時間が止まる。カミールは長年生きてきたなかで一、二を争う衝撃に耐えながら、頭を抱えて呟いた。
「…………あの娘か」
「ご存知なのですか?」
シャバーンの問いに、カミールが静かに頷く。
「ああ、ラティーファ嬢はとても良い子だ。アグラバーの男にとって、あの子は理想の娘だ。お前が惹かれるのも無理はない」
そこまで言うと、彼は厳しい口調で弟子を睨みつけた。
「いいか、シャバーン。決して報われぬ恋だ。あの娘は賢いゆえ、それを承知のうえで密かに恋い慕っているのだろう。だが、お前は恐らく…………いや、間違いなくあの娘と違って現実が見えていない」
痛いところを突かれたシャバーンは、反論できず俯くことしか出来ない。カミールは立ち上がると、心配でやって来たアシームにお茶の礼を述べてそのまま返ってしまった。ただならぬ空気感に、少年はカミールを追いかた。
「待ってください!」
「おお、アシーム。あやつの下で良く頑張っているな。偉いと思うぞ」
茶化すように頭を撫でてくるカミールを、アシームは精一杯睨みつけた。そして震える声で尋ねた。
「誤魔化さないでください。シャバーン様に一体何を言ったんですか」
老マジシャンはため息をつくと、簡潔に答えた。
「正直に言ってやっただけだ。あの娘とは結ばれることはないと」
一言だけで何の話をしたのかを察したアシームは、肩を震わせながら叫んだ。
「なんて酷いことを……!シャバーン様は確かに時々滅茶苦茶でダメ人間ですし、何より性格が悪い人です。だけど、だけど…………変わったんです。あの人と出会って、シャバーン様は確かに変わったんです!あの人はきっと――――」
アシームの声を遮るように、カミールが割って入る。
「あの娘は、シャバーンにとってファム・ファタルだ。あの従順さと一途さは、あいつにとって毒でしかない」
気弱なアシームのことである。これくらいで引き下がるだろうとカミールは思っていた。だが、今日の彼は違った。少年はしっかりとカミールを見据えている。
「僕は違うと思ってます。僕は、あの人こそがシャバーン様の運命だと思います。だって…………だって…………」
アシームは深呼吸した。そして、はっきりとこう言った。その声は、どこか所々詰まっている。
「だって……僕もベキートも、今のシャバーン様の方が……ほんのちょっぴり…………大好きなんですから…………っ」
両目に大粒の涙を浮かべるアシームを見て、カミールは良心が痛む感覚に陥った。そして目の前の少年と同じくらい――――いやそれ以上に彼の弟子も、悲しみと絶望とやるせなさに打ちひしがれていることに気づかされた。カミールは己の浅はかさに頭を抱えると、深い溜息を零してからこう言った。
「…………あいつがもし本当に困ったときは、私を頼るように伝えてくれ。国王陛下とは、ハイサムよりも長い付き合いだからな」
「カミール様……?」
「ただし心に留めておきなさい、アシーム。この世にはどうにもならんこともある。…………そして、何れか一方しか選べんこともある」
カミールの言葉にアシームが首を傾げる。この少年にはまだ少し早すぎたか、と老マジシャンは笑った。
「…………よくわからないけれど、覚えておきます」
純粋なアシームはそう言うと、頭を下げてシャバーンの元へと戻っていった。残されたカミールは、憂いを帯びた面持ちで王宮を見上げた。
「――――シャバーン。本当に、お前は愚かな弟子だ」
その言葉には、微かな悲哀が滲んでいた。
アシームが戻ると、すぐにベキートが飛んでやって来た。いつもと明らかに違う様子で動揺している彼に、少年は恐る恐る尋ねた。
「な、何かあったの…………?」
「シャバーンのヤツに会うのか?今はやめとけ。…………かーなり荒れてる」
「えっ…………」
アシームが驚いていると、間髪入れず怒号と何かが割れる音が聞こえてきた。それは間違いなく、シャバーンの憤激の声だった。
「ふざけるなっ!わしは!わしは…………わしは、世界一偉大なマジシャンなんだぞ!?どうして好きな女の一人も自由に愛することが出来ないんだ!?」
「ですからシャバーン様。世界一のマジシャンって言っても貴族からしてみれば平民ですし――――」
そんなジーニーの苦肉のフォローは、返って火に油を注いだらしい。シャバーンは自分よりもずっと体格の大きい魔人を睨みつけると、怒りで口髭を震わせて叫んだ。
「だったら何だ!?どっかの国の王だの王子だの何かの大臣になりたいとでも願えばよかったのか!?あぁ!?わしの一体何がいけなかったんだ?答えてみろ!わしのっ!何が!いけないんだ!?」
おっと、こりゃまずいぞ。
すっかり破壊神に成り果てたシャバーンの暴走は止まらない。ジーニーは慎重に言葉を選びながら、主人に適切な返事をしようと試みた。
「シャバーン様、あの…………それは…………」
しかし魔人の努力も虚しく、シャバーンはついに高価な香水瓶も床に叩きつけた。その場にけたたましく、ガラスが割れる音が鳴り響いた。シダーウッドとサンダルウッドの爽やかな香りがその場に充満する。同時にガラス片の1つが腕を鋭く切り裂き、ジーニーがうめき声を上げた。
「わしの何がいけないんだ!?年も、性格も、器用さも、身分も、何でわしはいつだって自分ではどうしようもない所ばかり責められるんだ。何で…………何でっ…………!!」
そこまで言うと、シャバーンは言葉を詰まらせて床に崩れ落ちた。絹の豪奢な服に身を包みながらも肩を震わせて泣く姿は、あまりに憐れな存在だった。ジーニーはガラスの破片で腕を怪我したことも忘れ、主人に寄り添った。気がつけば、シャバーンは泣いていた。
「わしの何が…………何が駄目なんだ…………?商人の息子のままだったら…………そうだったら、あの子の傍に居ても良かったのか…………?」
「シャバーン様…………」
ジーニーの瞳に僅かに涙が光る。シャバーンは顔を歪めて号泣しながら、駄々をこねる子どものように床を何度も叩いている。
「分かってるんだ、分かってるんだ…………わしがマジシャンを目指したからあの子に出会えたことくらい…………なのに、なのに…………っ!!」
絞り出すようにそう言うシャバーンに耐えきれず、ジーニーは主人の肩を抱いた。憎いときはとことん憎いのに、憐れなときはとことん憐れで共感できる。それがシャバーンの不思議な魅力なのだろう。魔人は伏し目がちになりながらも、いつもと違って穏やかで優しい声でこう言った。
「シャバーン様。貴方は貴方のままで良いんですよ。貴方だから、ラティーファ様は好きになったんですから」
その言葉に、シャバーンの涙腺が崩壊した。彼は子どものように泣きじゃくりながら、ジーニーの肩に顔を埋めた。
「ううっ…………ジーニー…………わしは…………あの子が好きなんだ…………どうしようもなく…………好きなんだ…………っ…………ダメなのも、許されないのも、罪深いことも、全部分かっているのに…………っ」
「ええ、わかりますよ」
「だけど…………だけど…………わしにはあの子しか居ないんだ…………例え、あの子にはわし以上の男が沢山いたとしても…………」
なんだ、分かってたんだ。
ジーニーは意外な発言に目を丸くしながら、主人の頭をそっと撫でた。そして内心、この男は貪欲な性格の割には随分とピュアな恋情を抱いているのだなと感心した。
そんなジーニーの驚きなど知る由もなく、シャバーンは涙を流しながら独白を続けた。
「わしは…………わしは、あの子が好きだ。あの子が居なかったら、生きてなんていけない。最初は嬉しかったさ。心が自分のものになっただけでな」
シャバーンは自分の両肩を抱くと、震える声で続けた。
「だけど…………だけど…………っ!!欲深いわしは、あの子を生涯自分の側に留め置かないと気が狂いそうなんだ…………っ!!」
そこまで言うと、彼はジーニーの肩を掴んで狂気的な眼差しでこう言った。
「嫌なんだ。あの娘が…………ラティーファが他の男のモノになるなんて…………許せないんだ!!認められないんだ。わしのモノになる以外、許せないんだ」
呪いにも似た恋情を零しながら、シャバーンは膝から再び床に崩れ落ちた。普段の尊大さは何処かに消え去り、その姿は最早貧相と云う言葉が相応しい。
アシームとベキートはそんなシャバーンの姿を遠巻きに眺めながら、言葉を失っていた。そして互いにどうすべきか悩みながら、やり場のない同情と悲しみを抱えて床を見つめることしか出来ないのだった。
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