1、遠いあの人
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遡ることニヶ月前。夕暮れ時に、王宮の一角に立てられたテントの近くで、一人の娘が何かを待っていた。テントの入り口には『マジックランプ・シアター』と書かれている。星と月があしらわれた小さなチケットを大切に握りしめながら、彼女はタペストリーを食い入るように見つめていた。
タペストリーには、立派な髭と原色カラーの服が特徴的な男が描かれている。娘はため息を漏らしながら、頭から被った布が取れないようにしっかりと被り直した。やがて開演のアナウンスが流れると、彼女は地面から足が浮かないように気をつけながらテントの中に進んだ。受付では何故か喋るヘビがチケットを確認していた。
「ママ、あれもマジック?」
「うーん…………どうかしら…………?」
見るからに裕福な格好をしている母子が首を傾げると、ヘビ――――ベキートが嬉しそうに笑った。
「どうだろうねぇ、坊や」
彼は次の人に受付を譲るように促すと、続いての接客に移った。
「はいはーい。お座席は一番うしろの端――――」
ベキートが顔を上げると、そこには先ほどの娘が立っていた。目深にショールを被っているために分かりづらいが、どう見ても先ほどの親子とは比べ物にもならないほどの気品を醸し出している。彼は注意深く顔を覗き込み、小さな悲鳴をあげた。
「げっ…………えっ!?ちょっ、ちょっとちょっとアンタ――――」
娘は美しい所作で自分の口元に人差し指を当てて、静かに首を横に振った。ベキートは咳払いをすると、チケットの半券を尻尾でもぎ取った。彼は少しだけ丁寧にお辞儀をすると、娘に通路を指し示した。
「楽しい時間をお過ごしください、お嬢さん」
「ありがとう、ベキート」
彼女は目立たないように通路の端を歩きながら、自身の座席へと進んだ。周囲の人達はジーニーのマジックを楽しみにやって来ているようだが、娘――――ラティーファだけは違った。彼女はパンフレットに描かれているマジシャンの顔を指先でなぞると、遠い眼差しでふわりと微笑んだ。
やがてショーが始まり、麗しくもどこか頼りないシャバーンが登場した。会場の誰よりも大きな拍手を送りながら、ラティーファは大好きな人のマジックを見守った。一番奥の一番端にある席であるが故に、視線も声援も届かないことは分かっていた。それでも、彼女は幸せだった。
夢を叶えたのね、シャバーン様。
ラティーファは世界一のマジシャンになったシャバーンを、心の底から祝福していた。同時に自分のダンサーになるという夢は、どこかで到底叶えられないことを理解もしていた。そしてもう一つの、彼に出会って芽生えようとしていた夢すらも、芽吹くこと無く腐り落ちる定めだということも。
公演終了後、ラティーファは持ってきたプレゼントをシャバーンに渡す機会を伺った。ところが彼女が後方から前方にまで移動してくるまでの間で、ご婦人方の長蛇の列(というより壁)が出来上がってしまった。
「きゃーっ!シャバーン様、今日も素敵!」
「シャバーン様って可愛くてダンディね」
「えっ、と…………私が、可愛い?」
可愛いと言われてしまい当惑するシャバーン。その反応が、ますます黄色い声を生み出してしまう。やがて、一人のファンが身を乗り出して手を差し出した。
「シャバーン様ぁ!握手してぇ〜!」
その言葉を皮切りに、次々とご婦人方が我先にと手を伸ばす。見かねたアシームが、大声を上げてその場をけん制しようと試みる。
「すっ、すみません!並んでくださぁい!」
もちろん少年の声は黄色い悲鳴にかき消されていく。結局シャバーン自身が苦笑いで『並んでね』とお願いをし、ようやくその場に平穏が訪れた。
そうよね、私なんて行っても迷惑よね。
ラティーファはプレゼントの入った小箱を少しだけ握りしめると、諦めの眼差しで踵を返した。それでもテントから出ようとした刹那、その歩みが止められる。彼女は思うように動かない足を見下ろした。
「…………バカな私。叶わないって、分かっているのに」
ラティーファは終演後の寸暇を楽しんでいるベキートに近づくと、プレゼントの小箱を差し出した。彼は飛び起きると、いつもと違って悲しそうな声でこう尋ねた。
「…………いいのか?自分で渡さなくて」
「ええ、いいの。私が行ったら、きっと…………迷惑になるから」
ラティーファの言うことも最もだった。アグラバーには明確な身分の別がある。もちろん明に結婚相手を決められているのは王女だけだが、慣習として貴族は庶民と結婚することは許されていなかった。それどころか、互いに思い合うだけで家名の恥だと考える者も決して少なくは無かった。それ故に、互いに余計な問題に巻き込まれないようにするために、泣く泣く距離を置く恋人同士も多い。
ラティーファはプレゼントをベキートに託すと、今度こそその場を去ろうと歩き出した。ところがその背に聞き覚えのある声が投げかけられた。
「――――なんで帰るんだ。偉大なマジシャンに、挨拶もせんつもりか」
ラティーファの頭の中が真っ白に染まる。振り向いてはいけないことは、誰よりも分かっていた。だが、心のなかで芽吹いた恋心には逆らうことは出来なかった。初めて抱く感情と衝動に駆られ、彼女は振り返った。顔を隠していたショールがふわりとその場に舞い落ち、薄布のヴェールだけが綻ぶ口元を辛うじて隠している。
二人は人目も気にせず、手を伸ばせば指が触れ合う距離で見つめ合った。咄嗟に状況を把握したジーニーは、人間の姿で2人に声をかけた。
「…………シャバーン様、ここだと目立ちます。控室へご移動を」
シャバーンは遮られたことに対する苛立ちを覚えたが、同時にこの場で感極まって抱きしめずに済んだことに感謝した。彼は咳払いをすると、ジーニーにぶっきらぼうに指示を出した。
「ああ、分かった。…………客は全員帰らせるように。控室には、アシームとベキートとお前以外のスタッフを近づかせるな」
「かしこまりました、ご主人様」
恭しく頭を下げたジーニーは、顔を上げてラティーファを見た。ショーでの明るさと対照的な思慮に富んだ視線は、注意深く彼女を瞬時に観察した。ラティーファという人物の分析が終わると、ジーニーは小さなため息を漏らしてから奥を指し示した。
「…………あちらです。先にご案内します、お嬢様」
「…………ありがとう」
ラティーファを控室に通すと、ジーニーは主人がどこかへ行ってしまったことを確認した。それから彼女に近づいて険しい顔を向けた。
「…………一体、あんたどういう目ぇしてるんだ?」
「えっと…………それは…………どういう意味ですか?」
「あんたは本当に良い人だ。優しさも思慮も地位も、何でも持ってる。なのに、なんで――――」
なんで、あんなクソみたいな男を好きになったんだ。
けれども、ジーニーがそう言い終わる前にシャバーンが現れた。どうやら本気で身だしなみを整えてきたらしく、部屋にはサンダルウッドとシダーウッドのエキゾチックな香りが漂っている。彼は妙に近い距離に立っている魔人に怪訝な眼差しを向けると、猫を追い払うような仕草をした。
――――ああ。やっぱコイツは、歴代ベストに入る最悪な主人だ。
「では、ごゆっくり」
「ああ。邪魔するなよ、ジーニー」
シャバーンの二面性に辟易しながら、ジーニーは苦笑いを浮かべながら頭を下げた。
「はいはい、邪魔しませんよ。…………アンタの発情なんて見たくもないんでね」
「…………何か言ったか?」
「いえ、何も」
んもーっ、間抜けなくせに察しは良いんだから。めんどくせぇ奴だなぁ…………
ジーニーは心のなかで本日何度目かの悪態をついた。彼はにこやかな笑みを浮かべながらカーテンを閉めるために布へ手をかけた。刹那、ラティーファが視界に入る。純情可憐という言葉以外に的確な表現が見当たらないその姿は、ジーニーにとってあまりに幼気だった。アグラバーの慣例では適齢期なのだろうが、世間も男女の理も知らない彼女を自分の主人と二人っきりにするのは、魔人にとって良心が咎める行為だった。けれども、主人の命令は絶対である。ジーニーはため息を漏らすと、目を伏せながらカーテンを閉めるのだった。
さて、控え室ではジーニーの心配通り、シャバーンが虎視眈々と機会を伺っていた。もちろん、キスのタイミングである。そんなことを知る由もなく、ラティーファは瞳を輝かせながら控え室の衣装や舞台小物を観察していた。久々に会えたというのに、いざ二人っきりになると何を話せばよいか分からなくなることはシャバーンの悩みだった。彼は勇気を出して、ラティーファの腕をつかんだ。
「げっ、元気にしてたか?」
暫し、ラティーファがきょとんとした顔で彼を見る。だが刹那、少しだけ寂しそうな顔で彼女は首を横に振った。どうやら元気ではなかったようだ。シャバーンはその反応を見て、心配のあまり下心など飛んでいってしまった。
「だっ、大丈夫か!?調子が悪いのか?どこか具合でも――――」
「ううん、違うの。ただ…………」
ラティーファは少し間を置くと、シャバーンへと控えめに抱きついた。気品漂う花の香りがふわりと、彼の鼻と胸を熱く擽る。
「――――貴方に会えなくて、ずっと苦しかったの」
「ラティーファ…………」
シャバーンは嬉しさのあまり、身体を支えきれず斜めになって倒れそうになった。慌てて正気に戻った彼は、一息ついて華奢な身体を抱きしめた。確かな温もりがシャバーンの手を介して伝わってくる。
「シャバーン様…………」
「ラティーファ、わしは…………」
二人は顔を上げて見つめ合った。少し間隔を詰めれば、簡単に唇と唇が触れてしまいそうな距離である。ラティーファの魅力的な唇をチラリと見て、シャバーンは生唾を呑んだ。彼は片手でラティーファのヴェールを外しながら、意を決してこう言った。
「――――あっ、あのっ!ラティーファっ!」
「なぁに?シャバーン様」
呑気に返事をしてくるラティーファに焦れったさを感じながら、シャバーンは赤面しながらも言葉を続けた。端々は噛みまくりの滅茶苦茶な調音である。
「ちょっ、ちょっと目を閉じてくれないか?あっ、あと、ちょっと息止めててくれないか?」
「えっ?良いけど、どうしたの?」
首を傾げるラティーファを前に、彼は強引に唇を奪いたい衝動に駆られた。だが辛うじて残っている理性に思考を引きずり戻すと、そっぽを向いてぶっきらぼうに呟いた。
「いっ、いいから早くしてくれ」
「…………分かった。いいわよ」
そう言って、ラティーファが目を閉じて息を止める。黒く長い睫毛は春に舞う蝶の羽のようであり、少しだけ上気した頬は陽だまりのように無邪気な可愛らしさを醸し出している。シャバーンは息を呑むと、震える両手を彼女の両肩に乗せて目を閉じた。口髭がかすかに振動しているのは、緊張で口許が震えているせいだ。
そして、二人の唇が重なる――――――――
「痛たたたたたっ!なっ、何するんだこのポンコツ絨毯っ!!」
と思ったのも束の間、なんとシャバーンが突然仰け反った。ラティーファが目を開けると、そこには魔法の絨毯に首根っこを掴まれているマジシャンが居た。絨毯に叩き回されながら悲鳴を上げるシャバーンに唖然としていると、その場にジーニーがやって来た。
「お嬢さん、王女様の使いが来ています」
ラティーファはその言葉を聞いて、瞬きの逢瀬が終わったことを悟った。彼女はショールをかぶり直すと、ヴェールを付け直して一礼した。
「お邪魔しました。王女様に、父が戻る前に連絡を下さいとお願いしていたの」
「そ、そうか…………」
シャバーンはなんとか絨毯を引き剥がすと、身なりを整えてラティーファの前に立った。改めて見ると、気品あふれる彼女の立ち姿は身分の違いをまざまざと感じさせられる。シャバーンが別れの言葉に戸惑っているうちに、ラティーファは出口の方へと歩き出してしまった。その背中がとても寂しそうに見えて、彼は思わず手を伸ばした。だが、その手がもう一度ラティーファに触れることは無かった。代わりにシャバーンは、悲痛な声でこう言った。
「もうしばらく、わしはここにいる!」
その言葉に、ラティーファは歩みを止めた。そして肩越しに愛する人を見ると、悲哀に満ちた笑顔でこう言った。
「…………私も側にいるわ。ずっと、心だけは…………」
その言葉を残して、ラティーファは立ち去ってしまった。残されたシャバーンは、いつまでも空虚に伸ばされた手を眺めることしか出来なかった。
タペストリーには、立派な髭と原色カラーの服が特徴的な男が描かれている。娘はため息を漏らしながら、頭から被った布が取れないようにしっかりと被り直した。やがて開演のアナウンスが流れると、彼女は地面から足が浮かないように気をつけながらテントの中に進んだ。受付では何故か喋るヘビがチケットを確認していた。
「ママ、あれもマジック?」
「うーん…………どうかしら…………?」
見るからに裕福な格好をしている母子が首を傾げると、ヘビ――――ベキートが嬉しそうに笑った。
「どうだろうねぇ、坊や」
彼は次の人に受付を譲るように促すと、続いての接客に移った。
「はいはーい。お座席は一番うしろの端――――」
ベキートが顔を上げると、そこには先ほどの娘が立っていた。目深にショールを被っているために分かりづらいが、どう見ても先ほどの親子とは比べ物にもならないほどの気品を醸し出している。彼は注意深く顔を覗き込み、小さな悲鳴をあげた。
「げっ…………えっ!?ちょっ、ちょっとちょっとアンタ――――」
娘は美しい所作で自分の口元に人差し指を当てて、静かに首を横に振った。ベキートは咳払いをすると、チケットの半券を尻尾でもぎ取った。彼は少しだけ丁寧にお辞儀をすると、娘に通路を指し示した。
「楽しい時間をお過ごしください、お嬢さん」
「ありがとう、ベキート」
彼女は目立たないように通路の端を歩きながら、自身の座席へと進んだ。周囲の人達はジーニーのマジックを楽しみにやって来ているようだが、娘――――ラティーファだけは違った。彼女はパンフレットに描かれているマジシャンの顔を指先でなぞると、遠い眼差しでふわりと微笑んだ。
やがてショーが始まり、麗しくもどこか頼りないシャバーンが登場した。会場の誰よりも大きな拍手を送りながら、ラティーファは大好きな人のマジックを見守った。一番奥の一番端にある席であるが故に、視線も声援も届かないことは分かっていた。それでも、彼女は幸せだった。
夢を叶えたのね、シャバーン様。
ラティーファは世界一のマジシャンになったシャバーンを、心の底から祝福していた。同時に自分のダンサーになるという夢は、どこかで到底叶えられないことを理解もしていた。そしてもう一つの、彼に出会って芽生えようとしていた夢すらも、芽吹くこと無く腐り落ちる定めだということも。
公演終了後、ラティーファは持ってきたプレゼントをシャバーンに渡す機会を伺った。ところが彼女が後方から前方にまで移動してくるまでの間で、ご婦人方の長蛇の列(というより壁)が出来上がってしまった。
「きゃーっ!シャバーン様、今日も素敵!」
「シャバーン様って可愛くてダンディね」
「えっ、と…………私が、可愛い?」
可愛いと言われてしまい当惑するシャバーン。その反応が、ますます黄色い声を生み出してしまう。やがて、一人のファンが身を乗り出して手を差し出した。
「シャバーン様ぁ!握手してぇ〜!」
その言葉を皮切りに、次々とご婦人方が我先にと手を伸ばす。見かねたアシームが、大声を上げてその場をけん制しようと試みる。
「すっ、すみません!並んでくださぁい!」
もちろん少年の声は黄色い悲鳴にかき消されていく。結局シャバーン自身が苦笑いで『並んでね』とお願いをし、ようやくその場に平穏が訪れた。
そうよね、私なんて行っても迷惑よね。
ラティーファはプレゼントの入った小箱を少しだけ握りしめると、諦めの眼差しで踵を返した。それでもテントから出ようとした刹那、その歩みが止められる。彼女は思うように動かない足を見下ろした。
「…………バカな私。叶わないって、分かっているのに」
ラティーファは終演後の寸暇を楽しんでいるベキートに近づくと、プレゼントの小箱を差し出した。彼は飛び起きると、いつもと違って悲しそうな声でこう尋ねた。
「…………いいのか?自分で渡さなくて」
「ええ、いいの。私が行ったら、きっと…………迷惑になるから」
ラティーファの言うことも最もだった。アグラバーには明確な身分の別がある。もちろん明に結婚相手を決められているのは王女だけだが、慣習として貴族は庶民と結婚することは許されていなかった。それどころか、互いに思い合うだけで家名の恥だと考える者も決して少なくは無かった。それ故に、互いに余計な問題に巻き込まれないようにするために、泣く泣く距離を置く恋人同士も多い。
ラティーファはプレゼントをベキートに託すと、今度こそその場を去ろうと歩き出した。ところがその背に聞き覚えのある声が投げかけられた。
「――――なんで帰るんだ。偉大なマジシャンに、挨拶もせんつもりか」
ラティーファの頭の中が真っ白に染まる。振り向いてはいけないことは、誰よりも分かっていた。だが、心のなかで芽吹いた恋心には逆らうことは出来なかった。初めて抱く感情と衝動に駆られ、彼女は振り返った。顔を隠していたショールがふわりとその場に舞い落ち、薄布のヴェールだけが綻ぶ口元を辛うじて隠している。
二人は人目も気にせず、手を伸ばせば指が触れ合う距離で見つめ合った。咄嗟に状況を把握したジーニーは、人間の姿で2人に声をかけた。
「…………シャバーン様、ここだと目立ちます。控室へご移動を」
シャバーンは遮られたことに対する苛立ちを覚えたが、同時にこの場で感極まって抱きしめずに済んだことに感謝した。彼は咳払いをすると、ジーニーにぶっきらぼうに指示を出した。
「ああ、分かった。…………客は全員帰らせるように。控室には、アシームとベキートとお前以外のスタッフを近づかせるな」
「かしこまりました、ご主人様」
恭しく頭を下げたジーニーは、顔を上げてラティーファを見た。ショーでの明るさと対照的な思慮に富んだ視線は、注意深く彼女を瞬時に観察した。ラティーファという人物の分析が終わると、ジーニーは小さなため息を漏らしてから奥を指し示した。
「…………あちらです。先にご案内します、お嬢様」
「…………ありがとう」
ラティーファを控室に通すと、ジーニーは主人がどこかへ行ってしまったことを確認した。それから彼女に近づいて険しい顔を向けた。
「…………一体、あんたどういう目ぇしてるんだ?」
「えっと…………それは…………どういう意味ですか?」
「あんたは本当に良い人だ。優しさも思慮も地位も、何でも持ってる。なのに、なんで――――」
なんで、あんなクソみたいな男を好きになったんだ。
けれども、ジーニーがそう言い終わる前にシャバーンが現れた。どうやら本気で身だしなみを整えてきたらしく、部屋にはサンダルウッドとシダーウッドのエキゾチックな香りが漂っている。彼は妙に近い距離に立っている魔人に怪訝な眼差しを向けると、猫を追い払うような仕草をした。
――――ああ。やっぱコイツは、歴代ベストに入る最悪な主人だ。
「では、ごゆっくり」
「ああ。邪魔するなよ、ジーニー」
シャバーンの二面性に辟易しながら、ジーニーは苦笑いを浮かべながら頭を下げた。
「はいはい、邪魔しませんよ。…………アンタの発情なんて見たくもないんでね」
「…………何か言ったか?」
「いえ、何も」
んもーっ、間抜けなくせに察しは良いんだから。めんどくせぇ奴だなぁ…………
ジーニーは心のなかで本日何度目かの悪態をついた。彼はにこやかな笑みを浮かべながらカーテンを閉めるために布へ手をかけた。刹那、ラティーファが視界に入る。純情可憐という言葉以外に的確な表現が見当たらないその姿は、ジーニーにとってあまりに幼気だった。アグラバーの慣例では適齢期なのだろうが、世間も男女の理も知らない彼女を自分の主人と二人っきりにするのは、魔人にとって良心が咎める行為だった。けれども、主人の命令は絶対である。ジーニーはため息を漏らすと、目を伏せながらカーテンを閉めるのだった。
さて、控え室ではジーニーの心配通り、シャバーンが虎視眈々と機会を伺っていた。もちろん、キスのタイミングである。そんなことを知る由もなく、ラティーファは瞳を輝かせながら控え室の衣装や舞台小物を観察していた。久々に会えたというのに、いざ二人っきりになると何を話せばよいか分からなくなることはシャバーンの悩みだった。彼は勇気を出して、ラティーファの腕をつかんだ。
「げっ、元気にしてたか?」
暫し、ラティーファがきょとんとした顔で彼を見る。だが刹那、少しだけ寂しそうな顔で彼女は首を横に振った。どうやら元気ではなかったようだ。シャバーンはその反応を見て、心配のあまり下心など飛んでいってしまった。
「だっ、大丈夫か!?調子が悪いのか?どこか具合でも――――」
「ううん、違うの。ただ…………」
ラティーファは少し間を置くと、シャバーンへと控えめに抱きついた。気品漂う花の香りがふわりと、彼の鼻と胸を熱く擽る。
「――――貴方に会えなくて、ずっと苦しかったの」
「ラティーファ…………」
シャバーンは嬉しさのあまり、身体を支えきれず斜めになって倒れそうになった。慌てて正気に戻った彼は、一息ついて華奢な身体を抱きしめた。確かな温もりがシャバーンの手を介して伝わってくる。
「シャバーン様…………」
「ラティーファ、わしは…………」
二人は顔を上げて見つめ合った。少し間隔を詰めれば、簡単に唇と唇が触れてしまいそうな距離である。ラティーファの魅力的な唇をチラリと見て、シャバーンは生唾を呑んだ。彼は片手でラティーファのヴェールを外しながら、意を決してこう言った。
「――――あっ、あのっ!ラティーファっ!」
「なぁに?シャバーン様」
呑気に返事をしてくるラティーファに焦れったさを感じながら、シャバーンは赤面しながらも言葉を続けた。端々は噛みまくりの滅茶苦茶な調音である。
「ちょっ、ちょっと目を閉じてくれないか?あっ、あと、ちょっと息止めててくれないか?」
「えっ?良いけど、どうしたの?」
首を傾げるラティーファを前に、彼は強引に唇を奪いたい衝動に駆られた。だが辛うじて残っている理性に思考を引きずり戻すと、そっぽを向いてぶっきらぼうに呟いた。
「いっ、いいから早くしてくれ」
「…………分かった。いいわよ」
そう言って、ラティーファが目を閉じて息を止める。黒く長い睫毛は春に舞う蝶の羽のようであり、少しだけ上気した頬は陽だまりのように無邪気な可愛らしさを醸し出している。シャバーンは息を呑むと、震える両手を彼女の両肩に乗せて目を閉じた。口髭がかすかに振動しているのは、緊張で口許が震えているせいだ。
そして、二人の唇が重なる――――――――
「痛たたたたたっ!なっ、何するんだこのポンコツ絨毯っ!!」
と思ったのも束の間、なんとシャバーンが突然仰け反った。ラティーファが目を開けると、そこには魔法の絨毯に首根っこを掴まれているマジシャンが居た。絨毯に叩き回されながら悲鳴を上げるシャバーンに唖然としていると、その場にジーニーがやって来た。
「お嬢さん、王女様の使いが来ています」
ラティーファはその言葉を聞いて、瞬きの逢瀬が終わったことを悟った。彼女はショールをかぶり直すと、ヴェールを付け直して一礼した。
「お邪魔しました。王女様に、父が戻る前に連絡を下さいとお願いしていたの」
「そ、そうか…………」
シャバーンはなんとか絨毯を引き剥がすと、身なりを整えてラティーファの前に立った。改めて見ると、気品あふれる彼女の立ち姿は身分の違いをまざまざと感じさせられる。シャバーンが別れの言葉に戸惑っているうちに、ラティーファは出口の方へと歩き出してしまった。その背中がとても寂しそうに見えて、彼は思わず手を伸ばした。だが、その手がもう一度ラティーファに触れることは無かった。代わりにシャバーンは、悲痛な声でこう言った。
「もうしばらく、わしはここにいる!」
その言葉に、ラティーファは歩みを止めた。そして肩越しに愛する人を見ると、悲哀に満ちた笑顔でこう言った。
「…………私も側にいるわ。ずっと、心だけは…………」
その言葉を残して、ラティーファは立ち去ってしまった。残されたシャバーンは、いつまでも空虚に伸ばされた手を眺めることしか出来なかった。