短編小説

【主な登場人物】
・セオドール王子
・近衛兵隊の副隊長イグナツ

【注意】
・BL表現を含んでおりますので、苦手な方はご注意ください。








『蒔かれた、種』





「…セオドール様は、誰に対してもお優しいんですね」

第二王子直属の、近衛兵隊の副隊長として新しく就任したイグナツが、主であるセオドール王子にそう言った。

王子は少し驚いたようで、黒い目をパチクリとさせた。

「…優しい? わたしが?」

「ええ。先程、回廊で下女にお声掛けされているお姿を拝見しまして。何やら、彼女のことを褒めていらっしゃいましたね」

「ああ、ルーアンのことか。彼女は洗濯係でね。染み抜きの技術が素晴らしいんだ」

そう言うと、セオドールは嬉しそうな様子で自身の懐からハンカチを取り出し、広げてみせた。

「このハンカチに、うっかりインクをこぼしてしまったんだ。でもホラ。綺麗だろう? 彼女が元通りにしてくれたんだ。そのことに感謝を伝えただけだよ」

セオドールの声色は嬉々としていて、心から喜んでいる様子だった。
一方で、イグナツはそんな王子の姿を見て不可解な気持ちになった。

「王族が、下っ端の女にわざわざ感謝を伝える……?」

王子には聞こえない声で、イグナツは呟いた。

そんな話は、聞いたことがない。
地位が高い者が、下の者を使役し、奉仕させる。
それはこの世の必然であって、わざわざ口に出して感謝を言うものではない。
—少なくとも、それがイグナツの考えだ。

もし、その謝意に裏の意図があるのなら、イグナツにも理解できる。
例えば ―不敬な考えではあるが— 下女に優しくして、自分の味方として引き入れ…
第一王子のヴィルヘイム様を暗殺する、もしくは権力を削ぐ道具として使う…といった風に。

こういった策略は、イグナツ自身が得意とするものだ。
彼は十代の頃から周囲の人間に取り入り、うまく操ることを生きる術として実践してきたのだから。

しかし……目の前にいるこの第二王子が、そんな隠された計略を使うようには、とても見えない。イグナツの今までの経験と、生来の勘がそう告げている。

—ただの箱入り王子様か。愚鈍ではなさそうだが。

きっと、今までの人生で人の悪意になど、晒されたことが無いのだろう。
それとなく、イグナツは目の前の人物を観察する。

体つきを見てみると、それなりに鍛えてはいるようだが、自分のような武人とは比べようがない。
…顔つきは端正で、肌も白い。
男らしい無骨さは無いが、どこか中性的で…儚い雰囲気がある。
前髪で見えづらいが、その奥に隠れた黒い瞳は澄んでいて…惹きこまれてしまいそうだ。

「…イグナツ? どうかしたのか?」

しばらくの間、イグナツは考え込んでいたらしい。常に警戒を怠らない彼としては、珍しい物思いだった。

「…ああ、いえ。少し、考え事をしてしまいました。殿下の眼前で、申し訳ございません」

「いや、気にしなくてもいい。まだ着任して一週間だろう? 慣れていなくても無理はない」

そう言うと、セオドールはふわりと微笑んだ。
何の他意もなく― 本心から、新米の部下を労っているようだ。

その微笑を見たイグナツは…自分の心に、何かの種が蒔かれたような気がした。
それが何の種で、どんな芽を出すのか。
彼には知りようがなかった。

ただ…こう思ったのだ。

なんて綺麗な笑顔なんだろう、と。








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