短編小説

【主な登場人物】
・少年のセオドール王子
・ソフィアおばあ様
・エミーリャ(ソフィアの侍女)
(・ティモ)

【注意事項】
耳が聞こえない方に対する不快な表現が含まれておりますが、当事者の方々を傷付ける意図はございません。「物語の表現」としてご容赦いただければ幸いです。

【時系列】
セオドール少年が、ティモと友達になった後のお話です。
『風と友達になった日』を先にお読みいただいた方が分かりやすいかと思います。




『憩いの時』




「おばあ様!」

少年の元気な声が、普段は物静かな離宮の部屋の中に響いた。

「ソフィアおばあ様!」

名前を呼ばれた女性は、窓際のソファーからゆっくりと立ち上がり、少年に笑顔を向けた。

「セオドール様、お声が大きいですよ」

護衛係である兵士に注意されると、少年は「あっ、ごめんなさい…」と素直に謝った。
しかし、興奮は冷めやまない様子だった。

この少年の名前は、セオドール・ド・ベルン。
アイネスベルン王国の第二王子である。

そしてセオドール王子に名前を呼ばれた女性は、彼の祖母であるソフィア・ド・ベルンだ。
ソフィアは今年、齢60になるが、かつての王妃らしく背筋を凛と伸ばし、落ち着いた黒のドレスを身にまとっている。
それでいて、表情はとても柔和だ。

この日は数ヶ月に一度の「可愛い孫が遊びに来てくれる特別な日」なのだ。
自然と、目尻が下がるのも致し方がない。

「セオドール、 よく 来てくれたわね」

出来るだけゆっくりと、分かりやすく、また聞き取りやすいように、ソフィアはそう言った。

実のところ、ソフィアはいま現在、耳がほとんど聞こえていない。
セオドールにかけた言葉も、自分では聞こえないのだ。
元国王であり、夫でもあったジェイコブから度重なる暴力を振るわれた結果だった。
生来気が弱かったジェイコブは、若くして大国アイネスベルン王国の君主となったのだが…その重圧からか、酒に酔っては妻のソフィアに暴力を振るっていた。

そんな夫のことを、ソフィアは彼女なりに愛し、懸命に支えていたが― その夫も、随分と前に亡くなってしまった。

それから彼女は国政の表舞台からは引退し、王族が所有するこの離宮で余生を過ごしている。
普段は少数の使用人と護衛兵、そして一人の侍女と共につつましい日々を送っているが、そんな生活の中で最も心躍る日が、この「孫のセオドールが会いに来てくれる日」なのである。

「おばあ様!」

満面の笑みをたたえながら自分の元へとやって来てくれた孫を、ソフィアはぎゅうっと抱きしめ、その柔らかい頬にキスを落とした。
セオドールも、大好きな祖母の体を抱き返し、「お返し!」と言わんばかりに彼女の両頬に親愛のキスをした。

「おばあ様、えっとね…」

今日のセオドールは、いつも以上に高揚している様子だった。
きっと何か、彼にとって特別嬉しいことがあったのだろう。
耳は聞こえずとも、感情豊かな孫の様子を見れば、それは一目瞭然だった。

(今日、おばあ様に…話す、したいこと…たくさん、ある!)

セオドールは、勉強した手話を使いながら、必死にソフィアに言いたいことを伝えようとしていた。
しかし、手話はまだまだ勉強中で、流暢にはとても扱えない。
もどかしさを感じたセオドールは、祖母に長年仕えている侍女・エミーリャに協力を仰いだ。

「ごめんね、エミーリャ。おばあ様に、僕が言うことを通訳してくれないかな?」

「もちろんでございます、殿下」

エミーリャは笑顔で快諾してくれた。

「それじゃあ…」と、セオドールが一息をつく。

「あのね、おばあ様! それにエミーリャも! 僕、『友達』ができたんだ!」

セオドールの瞳が、夜空の星のように輝き始めた。

「少し前に、運輸大臣のエルヴィン卿に無理を言って視察に同行させてもらったんだ」

セオドールの話を、エミーリャは流暢な手話と豊かな表情でソフィアに伝えてくれている。
そしてソフィアは二人の顔を交互に見ながら、「うん、うん」と熱心に話を聞いてくれている。

「それで、その視察先の一つの伯爵家でね、同い年ぐらいの男の子と友達になったんだ! ティモって名前の子で、すごく物知りで、一緒に居てとっても楽しいんだ! おまけに、足もすごく速いんだよ! いつかおばあ様たちに紹介したいなぁ」

一通り話し終えたセオドールを、ソフィアはにっこりと微笑んで優しく抱きしめた。
そして、彼の目をしっかりと見ながら「セオドールに いい お友達が できて、 おばあ様も 嬉しいわ」と言った。

「わたくしも その子と 会ってみたいわ」

「本当!?」

セオドールの大きな瞳は、喜びにあふれていた。孫の愛らしい姿に、ソフィアは顔をほころばせる。

「もちろんよ」

それから、ソフィアは部屋の中央にある大きな机の上に、羊皮紙とインク、そして羽ペン二本を用意した。
そして優雅な仕草で椅子に座り、羊皮紙にさらさらと文章を書いてゆく。

(新しいお友達のことや、セオドールの近況がもっと知りたいわ。教えてくれるかしら?)

流麗かつ、とても読みやすい文字だ。

それを見たセオドールは勢いよく頷き、ソフィアと対面になるように椅子に腰かけた。

「筆談」は、ソフィアとセオドール特有のコミュニケーション方法だ。


…耳が聞こえないソフィアとの対話には、「面倒事」が多い。
互いが手話で話をするか、時間のかかる筆談をするか、それともエミーリャに通訳してもらって会話を成立させるか。
ほとんどの人は、ソフィアとの「会話」を避けたがる。
やり取りに、ひと手間もふた手間もかかるからだ。

事実、もう一人の孫であるヴィルヘイムは、めったにこの離宮にはやって来ない。
―とは言え、彼の場合は次期国王としての勉学や実践授業、鍛錬など、やる事が多すぎて離宮に顔を出せないだけかもしれないが。
ましてや、現国王である息子のヨーゼフや、その妻マルグリットとはもう何年も顔を合わせていない。

引退した王族が住まうこの離宮は、「王族の墓場」としても揶揄されている。現役世代が好んで来る場所ではないのだ。

ソフィア自身はここでの穏やかな生活は気に入っているが、時折無性に寂しいと思う時がある。
自分自身の存在が、まるで無かったかのように思えるからだ。

だからこそ、自分のことを好いてくれて、手話まで学んでくれているセオドールのことを、ソフィアは特別愛しく思っていた。

つつましい生活の中で、こんなにも素直で利発な可愛い孫が遊びに来てくれる。それだけで、ソフィアは幸せだった。
…とは言え。本音を言えば、この愛しい孫ともっと頻繁に会いたい。つい、そんな事を願ってしまう。
しかしセオドールの生活が分刻みでやることを決められているのを知っているからこそ、ソフィアは自分勝手な願いは心の底にそっとしまっている。

―今はただ、目の前にいる孫との語らいの時間を楽しもう。

□■□

静かな部屋の中に響くのは、紙の上で踊るペン先の音と、暖炉がパチパチとはぜる音のみだ。
エミーリャと護衛兵たちは、二人の時間を邪魔しないようにと少し離れた場所から見守ってくれている。

セオドールは、美しい姿勢で文章を綴る祖母の姿を見るのが大好きだった。
祖母が書く、流れるように美麗な書体が大好きだった。
彼女の文章から感じられる教養あふれる言葉遣いや、豊かな表現力が大好きだった。

―いつか、自分もソフィアおばあ様のように知的で流麗な文章が書きたい。

それが、セオドールの目標のひとつだった。

優しく、穏やかに流れる二人だけの時間。
セオドールにとっても、ソフィアにとっても、この時間はかけがえのないものだった。

しかし、楽しいひと時は矢のように過ぎ去る。
刻一刻と、祖母と一緒にいられる時間が無くなってゆく。



「…………」

ふと、セオドールは羽ペンの動きを止めた。そして、その場で固まってしまった。
先程とは打って変わって、表情が暗くなっている。

「セオドール? どうか したの?」

そんな孫の様子に、ソフィアは心配になった。いつもは元気いっぱいのセオドールが、何やら思いつめたような顔をしているのだ。

(…おばあ様。ちょっとだけ、抱きしめる…してもらっても、いい?)

セオドールは少し恥じらいながら、手話でそう伝えた。

ソフィアは「どうして?」や「何かあったの?」といった質問はせず、セオドールをソファーへと招いた。二人掛けのソファーに座ると、ソフィアはセオドールの肩を抱き、彼の頭を優しく撫でた。
そして、彼をぎゅっと抱きしめた。

初めこそ少し恥ずかしそうにしていたセオドールだったが、祖母の優しさと体の温もりに安心したのか、自分も腕を回し、祖母を抱き返した。

それがどのくらい続いただろうか。

心が少し落ち着いてきたのか、セオドールは少しだけ祖母から体を離した。
そして、ソフィアと、近くに控えていたエミーリャに向かって手話で(僕、王子で大丈夫?)と言った。
ソフィアとエミーリャは、その言葉に驚いた。

「殿下…それはどういう意味でしょうか…?」

エミーリャが心配そうに尋ねる。

「うん…最近、ちょっと思うことがあって…」

そう答えるセオドールの声は小さく、不安げだった。

エミーリャはセオドールの耳元で、「護衛兵たちには部屋から一度出て行ってもらいますか…?」とささやいた。

「王子で大丈夫か」という言葉をそのまま受け取るならば、セオドールは今、何らかの理由で王子としての自信を失いそうになっている。
話を詳しく聞くにしても、兵士たちには聞かれない方が良いのではないか…。エミーリャはそう思ったのだ。

「…うん。ありがとう、エミーリャ。そうしてもらえるかな…?」

「承知いたしました」

エミーリャは、兵士たちにしばらくの間、3人だけにしてくれないかと頼んでくれた。

普段の離宮であれば、ここに住まう貴人たちを狙おうとする輩はほとんどいない。
しかし、今は王国の第二王子であるセオドール殿下がいる。
万が一のことも考えられるため、初めは渋っていた兵士たちだったが、「窓から離れた場所で話をされるなら…」と、最終的には譲歩してくれた。

護衛兵たちが部屋を後にしたことを確認すると、ソフィアはセオドールとエミーリャを先程の机へと招いた。

そしてしばらくの沈黙ののち、セオドールは重い口を開いた。

「僕なんかが、この国の王子でいいのかなと思って…」
セオドールの言葉を、エミーリャが手話で伝えてくれる。

「どうして そう 思うの?」

ソフィアは自分の言葉で、孫にそう問うた。

「……僕は、ヴィルヘイム兄上みたいに優秀じゃないから……」

机の上を見つめながら、セオドールは自信の無い声で己の気持ちを吐露した。

ソフィアは、「あなたもとても優秀よ」と言いたいのをぐっと堪え、セオドールに話の続きを促した。

「ヴィルヘイム兄上は、本当にすごい王子様なんだ。あまり会える機会は無いけれど、訓練場で近衛兵の人たちと手合わせする姿をよく見かけるんだ。兄上は、兵士の人と互角にやりあってるんだよ! 
その姿がすごく格好良くて。
…でも、僕にはとても無理そうだなって思うんだ…」

―…それはお兄様と7歳も年の差があるから、仕方がないんじゃないかしら…とソフィアは思ったが、もう少し、セオドールの気持ちを聞くことにした。

「剣の腕前だけじゃないんだ。兄上はいつも堂々としていて、外国の言葉も流暢に話すし、女の人のエスコートもすごくスマートなんだよ。
…だから、父上や母上からは『ヴィルヘイム兄上を見習いなさい』っていつも言われちゃうんだ」

「まぁ… そうなの」

ソフィアが、相づちを打つ。

しばらくの沈黙があり、そしてまたセオドールは話を続けた。

「…話は少し変わるんだけど、僕は色んな人とお話するのが大好きなんだ。だからつい、王宮にいる人たちにも色々と話しかけちゃうんだけど…、それもやっぱり注意されちゃって。
父上は『臣下や使用人に軽々しく声を掛けるな、王族としての威厳が無くなる』って言うし、母上は『いい加減、一国の王子らしく落ち着いた行動をしなさい』って言うんだ」

「そう…」

「僕は…、僕に親切にしてくれた人たちにお礼を言いたいし、彼らの話をもっと聞きたいだけなんだけど。でも、そう思うこと自体が、もう『王子としてふさわしくない』んだろうね…」

セオドールの表情は暗く落ち込んでいた。

年上の兄と比較ばかりされ。
自分の行動や考え方を「王子らしくない」と否定される。

10歳のセオドールは、ソフィアが思っていた以上に非難の目や批判、そして重圧に晒されている。

王族の先達として、そして彼の祖母として、どうセオドールに声をかけるべきだろうか。



…確かに「王族」としては、国王夫妻が言っていることは正しいだろう。

それでも…、とソフィアは思う。




しばらく考えたのち、ソフィアは穏やかながらもハッキリとした口調で、こう言った。

「あなたは そのままで 大丈夫」

その言葉に、セオドールが顔を上げ、祖母の顔を見た。

「セオドール。あなたは 優しくて とても 賢くて いい子。お兄様と 比べないで」

「…でも」

ソフィアはセオドールに向かって、優しく微笑みかけた。

「あなたの 良さを 分かってくれる 人が 必ず いるわ。わたくしも エミーリャも、 そう。
それに… 新しい お友達の ティモ君も きっと そうよ」

ティモの名前が出てきたことで、セオドールは少し顔をほころばせた。

「…そうかな?」

「そうよ」

…「孫に甘い」と言われればそれまでだ。
しかし、周囲の人間がすでにセオドールに多くの苦言を呈しているのであれば、わざわざ自分がまた彼の自尊心を傷付ける必要などない。

ソフィアは愛しい孫の目をしっかりと見ながら、「セオドールは 素晴らしい子。臣下の 人たちにも 優しくできる、 素敵な 王子さまよ」と言った。

「おばあ様は いつでも あなたの 味方よ。愛しているわ」

ソフィアは椅子から立ち上がり、再びセオドールを抱きしめてくれた。

「…うん、ありがとう、おばあ様。僕も愛してる」


その時、部屋のドアがノックされた。そして、外から護衛兵が声をかけてきた。

「セオドール殿下。そろそろ、王宮へと戻られるお時間です」

名残惜しいが、「祖母と孫の語らいの時間」は終わってしまったようだ。

それでも、セオドールの表情には、いくらか安堵の感情が見てとれた。

ソフィアの言葉で全てが解決したわけではないが、セオドールの良さを分かっている人物がちゃんといることを伝えられたのは良かったとソフィアは思う。

護衛の兵たちに連れられ、外の馬車へと向かうセオドールを、ソフィアとエミーリャは玄関まで見送った。
馬車の御者がドアを開け、セオドールの手を取ろうとした時。
エミーリャが小走りで馬車の近くまでやってきた。

「? エミーリャ、どうかしたの?」

不思議そうにしているセオドールの耳元で、エミーリャはそっとつぶやいた。

「殿下は、お若い頃のソフィア様とそっくりですよ」

それを聞いたセオドールは、目をパチクリとさせた。
そして、「え! 本当に!?」と驚きの声を発した。

しかし兵士たちと御者に急かされ、セオドールは馬車に押し込められてしまった。
それでも、扉が閉まる直前に、「エミーリャ!今度その話、詳しく教えて!」と興奮気味に叫んだ。

豪奢な馬車は、無情にも離宮から遠ざかっていくが、馬車後部の窓超しに、セオドールが笑顔でずっと手を振ってくれていた。

馬車が完全に見えなくなってから、エミーリャは主人の待つ玄関へと戻った。

(セオドールに何て言ったの?)

怪訝さ半分、好奇心半分でソフィアはエミーリャに尋ねた。

しかしエミーリャは、イタズラっ子のような表情で、(秘密ですよ)と答えるだけだった。

(まぁ。それが主人に対する態度?)

クスクスと笑いながら、ソフィアは侍女の―いや、「愛しい恋人」の腕を取り、自分たちの部屋へと帰っていった。




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