銀ちゃんの愛する女の子
おいしい牛乳(恋人)
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【(36)凍てつく怒り】
カスタードクリームに似た甘い香り。玄関のたたきに落ちた白い箱から、割れたビンの破片と液体状のプリンが飛び出す。それを見下ろした時、眼前に***の泣き顔が浮かんだ。ひた隠しにする心の中を銀時に引きずり出されたあの夜、大粒の涙と共に***がこぼした声は、ひどく震えていたっけか。
———差し入れのプリン食べて、おいしいって言わないで欲しかった!私が……彼女の私が作ったプリンの方が、銀ちゃんはおいしいもん……
ようやく***が吐き出したのは、可愛いくらいささやかな嫉妬。ワガママとも言えない小さな願いさえ、無理やり聞き出さないと口にしない頑固な女だ。
恋人より他の女を優先しないでほしい。そんな当たり前の感情すら、***は押し込めようとする。彼氏として以上に万事屋としての銀時を、大切に思っているから。そして他人の幸せのために自分が犠牲になるのを、ためらわないから。***のその性分は出会った時から変わらない。出会う前からずっとそうやって生きてきたと、銀時がいちばんよく分かっている。
だからこそ許せなかった。
「***をどこにやった。早く言え」
「なんのこと?私、***さんに会ってません。ねぇ、それより痛いから離してよ銀さん」
純粋な***の優しさにつけこむ人間が許せない。
そしてそういう人間を遠ざけなかった自分自身に、銀時は怒っていた。姫子の肩を強くつかみ、引き戸に抑えつける。扉がガタガタとうるさく鳴ったが、地を這うような銀時の声は姫子だけでなく、後ろにいる新八と神楽にも届いていた。
「まさかこんな汚い手ぇ使うとはな。お前の目的は分かってんだ、さっさとアイツの居場所を吐きやがれ」
「汚い手だなんてそんな……ただ私は銀さんに、ストーカーから守ってほしいだけよ」
「姫子さん、それは嘘だってバレてるんですよ。この写真にあなたとストーカー男が一緒に写ってます」
新八が差し出した写真を見ても、姫子は顔色ひとつ変えない。人違いよとうそぶく姫子に、神楽が「どこからどう見てもこれはお前ヨ!***をどうするつもりアルか!?私の親友を傷つけたらただじゃおかないネ!」と怒りの声を上げた。
目の前の女に告白をされた時ですら、銀時の感情は1ミリも動かなかった。なのに今この瞬間、ひどい憤りで満たされた胸が引き裂きたいほど苦しかった。
ドガッッッ!!!
「きゃっ!!」
にぎりしめた片手を真横に突き出したら、朱色の壁に拳がめり込んだ。パラパラと崩れた土壁を見て悲鳴を上げた姫子は、眉を八の字に下げて銀時を見つめた。その顔を目にして銀時は、姫子が***をよく観察して真似ていると気づいた。大切なものを汚されるようで、ますます頭に血が上った。
「その顔、胸くそ悪ぃからやめろ。アイツと同じ顔すれば、俺がお前を彼女扱いするとでも思ってんのか」
「ひ、ひどい銀さん、私そんなつもりじゃ」
「じゃぁどーゆーつもりだよ、こんなモンまで***の部屋に入れやがって」
「なっ、なんで、それをっ……」
‟坂田銀時と別れろ さもないと殺す”
その脅迫文を突きつけたら、姫子の瞳が揺らいだ。たじろぎながら「知らない」と逃れようとする。しかし、それとよく似た手紙が姫子の部屋のポストにも入っていたことを、その場の全員が知っていた。言い逃れできない状況に、ついに化けの皮が剝がれはじめた。
「そんなの知らない、私じゃないって言ってるでしょ!」
「はぁぁぁ~……姫子さんよぉ、お前ずいぶんとやり手で、仲間内では‟天下の姫子さま”って呼ばれてるらしいな。かぶき町のあの界隈じゃ悪名高ぇって聞いたぜ」
「あ、悪名なんて、一体誰がそんなこと言うの?」
「そっちが姫さまなら、こっちは女王さまがついてんだ。スナックすまいるのお妙って知ってるか?かぶき町の女王様が言うには、お前の評判の悪さはナンバーワンだってよ。他人の客かっぱらうだけじゃなく、黒い噂も絶えねぇって。だからすまいるはお前を雇わなかったって。ああ、ついでに姫子の通り名も教えてもらったわ。かぶき町のキャバ嬢たちはお前のことを……横取り姫って呼んでるってな」
笑いまじりにそう言って、嘲るように姫子を見下ろす。あのキャバクラで***を働かせたのもコイツだ。性根の腐った相手とも知らずに、あの夜の***は姫子をかばって、最後までその名を隠し通した。その健気さを思い出して、今さら胸が痛んだ。うっうっ、と嗚咽を漏らした姫子が目に涙を貯めていた。
「ごめんなさいっ……***さんを巻き込むつもりはなかったんです。でも私、銀さんのことが好きで、どうしても諦められなかったの。ツライことばかりの人生で、銀さんだけが頼りだったからっ……!」
大粒の涙をこぼして姫子は訴えた。銀時の黒いシャツの襟元をぎゅっとつかみ、すがるような目で見上げる。
悲痛な声でこんなふうに言われて、心優しい人間なら信じただろう。実際に根っからのお人よしの***は、泣いている姫子を放っておけずに何度も救いの手を差し伸べたのだから。銀時は呆れたように肩をがっくりと落として、気だるい声で言った。
「ものまねの努力は認めてやる。声も泣き方も、少しは似てらぁ。***もガキみてぇによく泣くしな。だが残念なことに、アイツはお前とちがって、自分の保身のために泣いたりしねーんだよ。んな安くて汚ねぇ涙を流す女じゃねーんだ。ツライことばっかなのはお前だけじゃねぇ。それを周りのせいにして他人を妬んで生きるのはお前の勝手だがな、***の邪魔は……どんなにツラくても、これが自分の人生だって細っせぇ脚ふんばって生きてる***の邪魔だけは、俺がさせねぇよ」
肩をつかむ手にどんどん力が入り、気付けば指が皮膚に食い込むほど強く、姫子を抑えつけていた。決して逃さない、絶対に許さないという気迫が身体中から溢れて、瞳の奥に怒りの火がともる。感情が高ぶるほど脳内は冷静になり、凍てつくほど冷たい声には棘があった。青ざめて泣き止んだ姫子に、銀時はさらに追い打ちをかけた。
「とんでもねぇヤツらを敵に回したな姫子。お前は***から俺を横取りする気だったんだろーが、それは違う。お前は俺から……俺達から***をぶん盗ろうとしたんだ。警察すら出てこねぇような物騒な仕事も請け負う万事屋から、家族同然の女を奪おうってんだ。それなりの覚悟はできてんだろうな?二度とお姫さま気分になれねーように、そのツラぶん殴ってボコボコにすんのも、こちとら朝飯前なんだよ」
殴る気なんてないが、膨れ上がった怒りが銀時の口を勝手に動かした。ガタガタと震える姫子は唇まで真っ白だ。いつもなら「やり過ぎですよ銀さん」と止めに入る新八が何も言わない。背後で神楽が指をバキボキと鳴らす。ふたりだってちゃんと怒っている。大切な***が危険にさらされていることに。
「もっ……桃色くまさんよ」
歯をカチカチと鳴らしながら、姫子が***の居場所を告げる。その後の万事屋の3人の動きは、目にも止まないほど速かった。
「銀さん!!」
そう叫んだ新八が、銀時に向かって木刀を投げた。そのままリビングに引き返し、受話器を上げると「警察ですか?事件です!」と通報する。
「銀ちゃん!!」
神楽が***の下駄を銀時の胸に押し付けた。そのまま姫子に突進すると、素早く馬乗りになって「お前はブタ箱いきじゃァァァ」とプロレス技をかける。
玄関を飛び出してバイクに乗った時、通りの向こうにパトカーが現れた。運転席に真選組の瓶底メガネの隊士がいる。窓を開けて何か話しかけてきたが、銀時は無視して通り過ぎた。どうせ万事屋に行けば分かる。新八と神楽ならしっかりやってくれる。
それよりも今はもっと大切なことがあった。***が今この瞬間に傷ついているかもしれない。そう思うとどれほどアクセルをひねっても、スピードが足りなかった。
———***、ぜってぇ助けるッ……!!!
予想では***以外にも囚われてる者がいる。それが最も気がかりだった。疾走する銀時の脳裏に、いつかの夜に見た***の背中が浮かぶ。月明りに照らされた白い肌にはたくさんの古い傷跡。その傷の理由を家族以外で知っているのは銀時だけだ。
あまりにも似かよった状況に最悪のことを想像すると、身体の芯がゾクッと寒くなった。ケガだけでは済まずに力なく倒れる***を想像して、舌打ちをする。メーターはとっくに振り切り、銀時は流れ星のような速さで夜の街を駆けていった。
走りながら***は、きらびやかだった店が嘘のようだと思った。天井のシャンデリアは割れて、床中にガラス片が散らばっている。壊れたソファやテーブルが隅に追いやられ、広いだけのホールは薄暗い。
ひとりの少女に馬乗りになる男と、それを取り囲む数人の男たち。女の悲鳴が上がったのと、のしかかる男の背中に***が体当たりをしたのは同時だった。「うわ!」と言って男は転がり、取り巻きは「なんだコイツ」という顔で***を見た。突如あらわれた***に驚きながらも、倒れた娘は拘束された手を必死で伸ばしてきた。
「た、助けてっ……!」
「早く立って!走って!!」
助けたい一心で手を取り、立ち上がらせた娘の腕には真新しい青いアザがあった。床に転がる注射器を見て、***はハッとする。さっき逃がした女達の腕にも同じ痕があった。あのアザが全てこうしてつけられた痕だと、その時はじめて気づいた。
つかんだ腕を引いて***が走り出した時、女の子がガタガタと震えはじめた。奇声を上げて倒れこんできたのを慌てて受け止める。顔をのぞきこむと目の焦点が合っていない。小刻みな痙攣の後でガクンと脱力した娘を、抱えて逃げるほどの腕力は***にはなかった。
「なっ、なんで!?どうしてっ……」
「あの銀髪の女なだけあって、根性あるなアンタ」
「っ……!?」
後ろから髪を引っ張られて首がのけぞる。耳元で聞こえた声に振り返ろうとしたが、その前に男が腕を引いて***を床に引きずり倒した。
「きゃぁぁぁ!!!」
悲鳴を上げながらも、***は女の子の手を離さなかった。背後にいたのは予想通りニット帽の男だった。舌打ちをした男が手を大きく振りかぶり、平手で***のほほを打った。バチンッという音がして目から星が飛ぶ。顔が燃えるように熱く、視界がかすむほど痛い。唇の端が叩かれた勢いで切れて、じわっと血がにじんだ。
娘は引き離され、群がる男たちの手で部屋のすみへと連れて行かれた。壁際の暗がりで女がどんな目にあっているのか、***には見えない。でも脱がされた着物と帯が点々と落ちていくのを見て、無力感にへなへなと座り込む。目の前に立った帽子の男が、***のあごをつかみ上を向かせて、ニヤつきながら言った。
「ハハハッ、姫子の言うとおり馬鹿みてぇなお人よしだな***さんよ。あんな女ほっときゃいいのに、わざわざ助けようとするから痛い目みるんだぜ。だが、お前にあの薬は打たないから安心しろ。天人はえげつないブツを寄こすくせに、ヤク中の女は安値でしか買わねぇんだ。だからお前は高値で売り払ってやるよ」
なにを言っているのか分からない。なぜこんなに酷いことができるのか、理解したくもなかった。
キッと睨んだ***の胸に、男が手を伸ばす。ガラスの散らばる床に押し倒され、薄い浴衣越しに破片がチクチクと背中を刺した。乱れた裾から露わになった太ももを男の手が這う。飛び跳ねるように足をばたつかせて、***は必死で抵抗した。
「やだっ、や、やめ、いやだッ!!!」
男を押し返そうと両手を振りまわしたら、もう一度ビンタを食らった。さっきとは反対側のほっぺたを強く叩かれて、口の中が切れた。ケホッとせき込んだら血の混じった唾液が出た。浅い呼吸で肺がひゅーひゅーと鳴る。首元に冷たい何かが突きつけられて、それがナイフだと気づいた瞬間、血の気の引いた全身がカタカタと震えだした。
———こ、殺されるっ……!!!
「あー、その顔いいね……俺はあっちにいる奴らと違って、ヤクで飛んでる女に突っ込むより、怯えてんのを無理やり犯す方が好きでね。しかも相手が万事屋の女とくりゃ最高だぜ。あの白髪野郎には一度ムショ送りにされてから、ずっと復讐したかったんだ。なぁ***さん、どーせ助けは来ねぇんだから楽しもうぜ。めいっぱい怖がって俺を喜ばせてくれよ」
左手で刃物を突きつけたまま男は、***の身体をまさぐりだす。襟の合わせを肩までぱっかりと開かれ、イチゴ柄のブラが丸見えになった。顔を背けた***の首から鎖骨までを、ぬるついた舌が舐める。ひどい不快感にぞわわわっと鳥肌が立った。
下着ごと胸を強く揉まれ、性急に浴衣をたくし上げられた。ショーツ越しにお尻を撫でる手の動きは機械のようで、そこには何の感情もなかった。男にとって***はモノ同然で、その身体は肉の塊と同じだった。ふと銀時の大きな手の熱さや優しい触れ方を思い出したら、声を上げて泣き出しそうになった。
———最低だっ……こんなヤツに触られてはじめて、銀ちゃんがどれほど私に優しかったか、慎重に触ってくれてたかに気づくなんて、最悪すぎる。気持ち悪くて反吐が出そう……———
泣くもんかと唇を噛んでこらえる。潤んだ瞳の***を見下ろして、男は楽しそうにショーツに手をかけた。片手だからなかなか脱がせられない。揺らいだナイフが首筋をかすめて、薄皮を切るような小さな傷をいくつも残した。
この傷を見たら銀ちゃんは悲しむだろうな、と思ったら頭の芯がスッと冷えた。怒りは雫が水面を打つように、***のなかに静かに広がって身体の震えを止めた。恐怖が吹き飛んで涙も引っ込む。
自分でも信じられないほど冷静に、ナイフを持つ男の手首を右手でつかんだ。唇がわなないたのは怯えでも不安でもなく、激しい憎悪と敵意のせいだ。
「怖くない……アンタなんか怖くない」
「あ?」
ぽつりとこぼした声に男が顔を上げた。目深に被る帽子からのぞく目と見つめ合った瞬間、***の耳にいつかのお妙の声が蘇った。
———もっと腰を落とすのよ、***さん!重心を低くすれば安定するわ。足を踏ん張って、このパンチングボールを汚いゴリラの顔だと思って、思いっきり殴りなさい!
仰向けに倒れているから、自然と重心は安定した。右手でナイフを押さえているから左手しか動かせない。それでも***は強く握った拳を、思い切り前に突き出した。
バキッッッ!!!
「うぐっっ!!!」
パンチは男の顔面に直撃した。薬指の指輪がちょうど鼻にめり込む。プラスチックの赤い石が割れてポロッと取れた。よろけた男がナイフを落とす。その隙に急いで立ち上がり、次はどうすると考えていたら今度は神楽の声が聞こえてきた。
———***、いい蹴りは心意気が大事アル!変態男はぶちのめすって強く思うネ。
「へ、変態男はっ、ぶちのめす!!!」
ドガッッッ!!!
「ギャッッ!!!」
心で思うだけでなく声に出したら強くなれた。腰を落としたまわし蹴りは、男の横っ面にしっかりと当たる。下駄の歯が刺さるほど、勢いのあるキックだった。顔を押さえて転げまわる男を見下ろして、***は吐き捨てるように言った。
「アンタなんか全然怖くない。アンタに傷つけられても、私はひとつも痛くない。そんなのより……銀ちゃんを悲しませる方がずっと怖い!銀ちゃんが傷つくのを見る方がもっと痛い!アンタの汚い手なんかに、私は触らせない!!銀ちゃんが大切にしてくれたものを、アンタなんかに汚させないっつーの、コノヤロォォォ!!!」
そう言い切るとお登勢の優しい声が耳に響いた。
———***ちゃんにとって、銀時がいちばん大事だってことは、よぉ~く分かったよ。おかしな男の彼女なだけあって、アンタも相当変わりもんだねぇ……
それは違う、と今さら気づいて愕然とする。お登勢の前で泣いたあの時はまだ分かっていなかった。銀時が***に触れる時、その手が何度もためらっていたことを。***が怖がるたび、銀時が怯えたような目で困っていたことを。
———お登勢さん違うんです……私がいちばん大事なのは、銀ちゃんじゃなくて自分だったの。ずっとそうだったの。銀ちゃんが私を大切にしてくれるから、私も私を大切にしようって思えたの。なのに私は、そんなことにも気づかずに何度も銀ちゃんを拒んでしまった……こんな時に、銀ちゃんを失いそうになってようやく分かるなんて大馬鹿だっ……
「このアマッ!ぶっ殺してやる!!」
男は鼻血を流しながら別のナイフを取り出して近づいてきた。胸倉をつかまれ、よろけて床に膝をつく。なすすべなく座り込む***の頭上で、男が腕を振りかざした。鋭利な刃先がキラリと光る。
死ぬかもしれない、とぼんやりする***の耳が、遠くで鳴るエンジン音をとらえた。それは少しずつ近づいてきて、ドカンッと何かを破る。そしてブロロロッというバイクの爆音が部屋中に鳴り響いた。
「なっ、なんだ!!?」
振り上げた手を止めて、男が不審な顔をする。他の男たちも同じように困惑していた。鳴り響く音の正体が***にだけは分かっていた。
暗い廊下の向こうを見つめて一瞬だけまばたきをしたら、まぶたの裏で銀時の赤い瞳が見えた。そのまなざしが優しく笑う。温かい腕に抱きしめられながら、耳元にささやかれた言葉を思い出した。
———ちゃんと出来てたじゃねーか、***。お前しっかり、バカでけぇ声で、銀ちゃん助けてって言えてただろ。……お前は、助けてほしい時に俺の名前さえ呼べれば、それでいいんだっつーの———
「銀ちゃん、助けてッ!!!!!」
全身全霊で叫んだ。暗い廊下の向こうから、今すぐ会いたい人が必ず来てくれると分かっていたから。
その声はずっと聞こえていた。
大丈夫じゃなくても大丈夫と言い、平気じゃないくせに平気なふりをする***が、心の中で「助けて」と叫ぶ時、その声はいつも銀時に届いた。
遡ること数分前、銀時は目的の店にたどり着いた。通りには数台のパトカーと警察官、そしてボロボロの女たち。その女たちの中に***の姿がなかった。バイクのまま路地に入ると、小太りの男がやせ細った女に乱暴しようとしていた。木刀で殴って男を失神させた銀時を見て、女はハッとした顔で声を掛けてきた。
「坂田銀時さん、ですね!?かぶき町の万事屋の!!」
そうだと答えると女は泣き出した。嗚咽まじりの声で******という人が自分たちを逃がし、逃げおくれた女を助ける為にひとり中に戻ったと言う。悪い予感が的中して嫌な汗がドッと吹き出た。意識のない小太りの男を片手で引きずり、裏口を突き破って廊下を進むと「銀ちゃん、助けて」という***の叫び声が聞こえた。
「な、なんで万事屋がここにっ」
***に向かって刃物を振り上げる男が、銀時を見て青ざめた。それに向かって、連れてきた小太りの男を投げつける。吹き飛ばされる寸前、男の手のナイフの先端が***のほほをかすめていくのが、スローモーションで見えた。頬骨の上に数センチの傷がついていく間も、***はまばたきもせずにじっと銀時を見つめていた。
「***っ!!!!!」
乗り捨てたバイクが壁に激突する。ブレーキランプが粉々に砕けて、赤い破片が飛び散った。
座り込む小さな身体に手を伸ばし、ぐいっと引き寄せる。ガバッと胸に抱え込んだら、***も両手を広げてすがりついてきた。引き寄せ合う力があまりにも強くて、ふたりそろってよろけて床に膝をついた。
「銀ちゃん!!!!!」
そう叫ぶ***がのけぞるほど、強く抱きしめた。浴衣の背中には細かいガラスの破片が刺さっていて、手で払うと布にポツポツと赤い血が浮かんだ。首筋にはたくさんの小さな切り傷。乱れた服から見える胸元は冷えて青ざめていた。それでも***の意識がしっかりしていて、致命傷もないことが銀時を心底ホッとさせた。
「……った、***、俺が悪かった」
言葉は口から勝手にこぼれたが、一体なにに謝っているのか自分でも分からなかった。こんな目にあわせて悪かった。もっと早く助けにこなくて悪かった。俺のような男が彼氏で悪かった。謝るべきことがあり過ぎる。
胸にすがりつく***がぶんぶんと首を振った。身じろいで離れると、眉を八の字に下げたいつもの困り顔が、泣き笑いのようにくしゃっと歪んで銀時を見上げた。
「ぎ、銀ちゃんは何も悪くない!私はどこも痛くないし、全然大丈夫です。私が助けてって叫んだら、本当に助けに来てくれた!だから銀ちゃんはなんにも悪くないですっ……!!」
薄桃色の唇はそう言いながら震えていた。必死で微笑んでいるが、本当は怖くて仕方がなかっただろう。女たちを逃がすのだって、逃げ遅れたひとりを助けに戻るのだって、死ぬほど勇気が要ったはず。
それなのに***が「助けて」と叫んだのは、銀時のバイクの音を聞いて、助けが来たと確信してからだ。それはまるで、***を守ると誓った銀時の約束を、銀時自身に破らせないようにするために見えた。
———んだよ、コイツ……自分が死にそうな時だって、他人のためにギリギリまで我慢すんじゃねーか、この馬鹿女が……
ホラ全然へーきだよ?どこも痛くないよ?と笑おうとする***を、銀時は何も言わずに見下ろした。よく見ると***の顔には、手のひらの赤い痕がついていた。平手で打たれた両のほっぺたが薄っすらと腫れている。切れた唇の端は内出血を起こして、既に青いアザになっていた。頬骨の上の切り傷を、赤い血液がぷっくりと覆っている。無事で良かったという安堵を、傷つけられたという怒りがたやすく追い越していった。
「チッ……くそがっ!!」
悔しい、忌々しい、憎らしい、許しがたい。
愛する女を傷つけられて、怒りとその周辺の感情が一気に溢れ出した。銀ちゃん?と不安げに言った***を立ち上がらせ、自分の背後に下がらせた。サッと走らせた視線の先に十数人の男たち。ナイフや刀を手に持つ者もいる。壁に叩きつけられたニット帽の男がゆらりと立ち上がり、銀時に向かって叫んだ。
「万事屋、あん時はよくも、刑務所送りにしてくれたな!」
武器を振りかざした男たちが、一気に近づいてくる。後ろで***がヒッと悲鳴を上げた。銀時の木刀をにぎる手に、その手に力をこめる腕に、歯を食いしばった顔に、ビキビキと血管が浮かぶ。血液が沸騰して髪が逆立つ。とめどなく吹き出す怒りに任せて、銀時が上げた雄たけびは空気をビリビリと震わせた。
「今度は全員まとめて地獄に送ってやらぁ!!!!!」
(そうでなければ、この怒りが鎮まるわけがない)
----------------------------------------------
【(36)凍てつく怒り】end
"星の降る夜"(2)
失ってはじめて気づくなんて もうやめよう
☆途中、若干の暴力的な表現があります。苦手な方はご遠慮ください
【(36)凍てつく怒り】
カスタードクリームに似た甘い香り。玄関のたたきに落ちた白い箱から、割れたビンの破片と液体状のプリンが飛び出す。それを見下ろした時、眼前に***の泣き顔が浮かんだ。ひた隠しにする心の中を銀時に引きずり出されたあの夜、大粒の涙と共に***がこぼした声は、ひどく震えていたっけか。
———差し入れのプリン食べて、おいしいって言わないで欲しかった!私が……彼女の私が作ったプリンの方が、銀ちゃんはおいしいもん……
ようやく***が吐き出したのは、可愛いくらいささやかな嫉妬。ワガママとも言えない小さな願いさえ、無理やり聞き出さないと口にしない頑固な女だ。
恋人より他の女を優先しないでほしい。そんな当たり前の感情すら、***は押し込めようとする。彼氏として以上に万事屋としての銀時を、大切に思っているから。そして他人の幸せのために自分が犠牲になるのを、ためらわないから。***のその性分は出会った時から変わらない。出会う前からずっとそうやって生きてきたと、銀時がいちばんよく分かっている。
だからこそ許せなかった。
「***をどこにやった。早く言え」
「なんのこと?私、***さんに会ってません。ねぇ、それより痛いから離してよ銀さん」
純粋な***の優しさにつけこむ人間が許せない。
そしてそういう人間を遠ざけなかった自分自身に、銀時は怒っていた。姫子の肩を強くつかみ、引き戸に抑えつける。扉がガタガタとうるさく鳴ったが、地を這うような銀時の声は姫子だけでなく、後ろにいる新八と神楽にも届いていた。
「まさかこんな汚い手ぇ使うとはな。お前の目的は分かってんだ、さっさとアイツの居場所を吐きやがれ」
「汚い手だなんてそんな……ただ私は銀さんに、ストーカーから守ってほしいだけよ」
「姫子さん、それは嘘だってバレてるんですよ。この写真にあなたとストーカー男が一緒に写ってます」
新八が差し出した写真を見ても、姫子は顔色ひとつ変えない。人違いよとうそぶく姫子に、神楽が「どこからどう見てもこれはお前ヨ!***をどうするつもりアルか!?私の親友を傷つけたらただじゃおかないネ!」と怒りの声を上げた。
目の前の女に告白をされた時ですら、銀時の感情は1ミリも動かなかった。なのに今この瞬間、ひどい憤りで満たされた胸が引き裂きたいほど苦しかった。
ドガッッッ!!!
「きゃっ!!」
にぎりしめた片手を真横に突き出したら、朱色の壁に拳がめり込んだ。パラパラと崩れた土壁を見て悲鳴を上げた姫子は、眉を八の字に下げて銀時を見つめた。その顔を目にして銀時は、姫子が***をよく観察して真似ていると気づいた。大切なものを汚されるようで、ますます頭に血が上った。
「その顔、胸くそ悪ぃからやめろ。アイツと同じ顔すれば、俺がお前を彼女扱いするとでも思ってんのか」
「ひ、ひどい銀さん、私そんなつもりじゃ」
「じゃぁどーゆーつもりだよ、こんなモンまで***の部屋に入れやがって」
「なっ、なんで、それをっ……」
‟坂田銀時と別れろ さもないと殺す”
その脅迫文を突きつけたら、姫子の瞳が揺らいだ。たじろぎながら「知らない」と逃れようとする。しかし、それとよく似た手紙が姫子の部屋のポストにも入っていたことを、その場の全員が知っていた。言い逃れできない状況に、ついに化けの皮が剝がれはじめた。
「そんなの知らない、私じゃないって言ってるでしょ!」
「はぁぁぁ~……姫子さんよぉ、お前ずいぶんとやり手で、仲間内では‟天下の姫子さま”って呼ばれてるらしいな。かぶき町のあの界隈じゃ悪名高ぇって聞いたぜ」
「あ、悪名なんて、一体誰がそんなこと言うの?」
「そっちが姫さまなら、こっちは女王さまがついてんだ。スナックすまいるのお妙って知ってるか?かぶき町の女王様が言うには、お前の評判の悪さはナンバーワンだってよ。他人の客かっぱらうだけじゃなく、黒い噂も絶えねぇって。だからすまいるはお前を雇わなかったって。ああ、ついでに姫子の通り名も教えてもらったわ。かぶき町のキャバ嬢たちはお前のことを……横取り姫って呼んでるってな」
笑いまじりにそう言って、嘲るように姫子を見下ろす。あのキャバクラで***を働かせたのもコイツだ。性根の腐った相手とも知らずに、あの夜の***は姫子をかばって、最後までその名を隠し通した。その健気さを思い出して、今さら胸が痛んだ。うっうっ、と嗚咽を漏らした姫子が目に涙を貯めていた。
「ごめんなさいっ……***さんを巻き込むつもりはなかったんです。でも私、銀さんのことが好きで、どうしても諦められなかったの。ツライことばかりの人生で、銀さんだけが頼りだったからっ……!」
大粒の涙をこぼして姫子は訴えた。銀時の黒いシャツの襟元をぎゅっとつかみ、すがるような目で見上げる。
悲痛な声でこんなふうに言われて、心優しい人間なら信じただろう。実際に根っからのお人よしの***は、泣いている姫子を放っておけずに何度も救いの手を差し伸べたのだから。銀時は呆れたように肩をがっくりと落として、気だるい声で言った。
「ものまねの努力は認めてやる。声も泣き方も、少しは似てらぁ。***もガキみてぇによく泣くしな。だが残念なことに、アイツはお前とちがって、自分の保身のために泣いたりしねーんだよ。んな安くて汚ねぇ涙を流す女じゃねーんだ。ツライことばっかなのはお前だけじゃねぇ。それを周りのせいにして他人を妬んで生きるのはお前の勝手だがな、***の邪魔は……どんなにツラくても、これが自分の人生だって細っせぇ脚ふんばって生きてる***の邪魔だけは、俺がさせねぇよ」
肩をつかむ手にどんどん力が入り、気付けば指が皮膚に食い込むほど強く、姫子を抑えつけていた。決して逃さない、絶対に許さないという気迫が身体中から溢れて、瞳の奥に怒りの火がともる。感情が高ぶるほど脳内は冷静になり、凍てつくほど冷たい声には棘があった。青ざめて泣き止んだ姫子に、銀時はさらに追い打ちをかけた。
「とんでもねぇヤツらを敵に回したな姫子。お前は***から俺を横取りする気だったんだろーが、それは違う。お前は俺から……俺達から***をぶん盗ろうとしたんだ。警察すら出てこねぇような物騒な仕事も請け負う万事屋から、家族同然の女を奪おうってんだ。それなりの覚悟はできてんだろうな?二度とお姫さま気分になれねーように、そのツラぶん殴ってボコボコにすんのも、こちとら朝飯前なんだよ」
殴る気なんてないが、膨れ上がった怒りが銀時の口を勝手に動かした。ガタガタと震える姫子は唇まで真っ白だ。いつもなら「やり過ぎですよ銀さん」と止めに入る新八が何も言わない。背後で神楽が指をバキボキと鳴らす。ふたりだってちゃんと怒っている。大切な***が危険にさらされていることに。
「もっ……桃色くまさんよ」
歯をカチカチと鳴らしながら、姫子が***の居場所を告げる。その後の万事屋の3人の動きは、目にも止まないほど速かった。
「銀さん!!」
そう叫んだ新八が、銀時に向かって木刀を投げた。そのままリビングに引き返し、受話器を上げると「警察ですか?事件です!」と通報する。
「銀ちゃん!!」
神楽が***の下駄を銀時の胸に押し付けた。そのまま姫子に突進すると、素早く馬乗りになって「お前はブタ箱いきじゃァァァ」とプロレス技をかける。
玄関を飛び出してバイクに乗った時、通りの向こうにパトカーが現れた。運転席に真選組の瓶底メガネの隊士がいる。窓を開けて何か話しかけてきたが、銀時は無視して通り過ぎた。どうせ万事屋に行けば分かる。新八と神楽ならしっかりやってくれる。
それよりも今はもっと大切なことがあった。***が今この瞬間に傷ついているかもしれない。そう思うとどれほどアクセルをひねっても、スピードが足りなかった。
———***、ぜってぇ助けるッ……!!!
予想では***以外にも囚われてる者がいる。それが最も気がかりだった。疾走する銀時の脳裏に、いつかの夜に見た***の背中が浮かぶ。月明りに照らされた白い肌にはたくさんの古い傷跡。その傷の理由を家族以外で知っているのは銀時だけだ。
あまりにも似かよった状況に最悪のことを想像すると、身体の芯がゾクッと寒くなった。ケガだけでは済まずに力なく倒れる***を想像して、舌打ちをする。メーターはとっくに振り切り、銀時は流れ星のような速さで夜の街を駆けていった。
走りながら***は、きらびやかだった店が嘘のようだと思った。天井のシャンデリアは割れて、床中にガラス片が散らばっている。壊れたソファやテーブルが隅に追いやられ、広いだけのホールは薄暗い。
ひとりの少女に馬乗りになる男と、それを取り囲む数人の男たち。女の悲鳴が上がったのと、のしかかる男の背中に***が体当たりをしたのは同時だった。「うわ!」と言って男は転がり、取り巻きは「なんだコイツ」という顔で***を見た。突如あらわれた***に驚きながらも、倒れた娘は拘束された手を必死で伸ばしてきた。
「た、助けてっ……!」
「早く立って!走って!!」
助けたい一心で手を取り、立ち上がらせた娘の腕には真新しい青いアザがあった。床に転がる注射器を見て、***はハッとする。さっき逃がした女達の腕にも同じ痕があった。あのアザが全てこうしてつけられた痕だと、その時はじめて気づいた。
つかんだ腕を引いて***が走り出した時、女の子がガタガタと震えはじめた。奇声を上げて倒れこんできたのを慌てて受け止める。顔をのぞきこむと目の焦点が合っていない。小刻みな痙攣の後でガクンと脱力した娘を、抱えて逃げるほどの腕力は***にはなかった。
「なっ、なんで!?どうしてっ……」
「あの銀髪の女なだけあって、根性あるなアンタ」
「っ……!?」
後ろから髪を引っ張られて首がのけぞる。耳元で聞こえた声に振り返ろうとしたが、その前に男が腕を引いて***を床に引きずり倒した。
「きゃぁぁぁ!!!」
悲鳴を上げながらも、***は女の子の手を離さなかった。背後にいたのは予想通りニット帽の男だった。舌打ちをした男が手を大きく振りかぶり、平手で***のほほを打った。バチンッという音がして目から星が飛ぶ。顔が燃えるように熱く、視界がかすむほど痛い。唇の端が叩かれた勢いで切れて、じわっと血がにじんだ。
娘は引き離され、群がる男たちの手で部屋のすみへと連れて行かれた。壁際の暗がりで女がどんな目にあっているのか、***には見えない。でも脱がされた着物と帯が点々と落ちていくのを見て、無力感にへなへなと座り込む。目の前に立った帽子の男が、***のあごをつかみ上を向かせて、ニヤつきながら言った。
「ハハハッ、姫子の言うとおり馬鹿みてぇなお人よしだな***さんよ。あんな女ほっときゃいいのに、わざわざ助けようとするから痛い目みるんだぜ。だが、お前にあの薬は打たないから安心しろ。天人はえげつないブツを寄こすくせに、ヤク中の女は安値でしか買わねぇんだ。だからお前は高値で売り払ってやるよ」
なにを言っているのか分からない。なぜこんなに酷いことができるのか、理解したくもなかった。
キッと睨んだ***の胸に、男が手を伸ばす。ガラスの散らばる床に押し倒され、薄い浴衣越しに破片がチクチクと背中を刺した。乱れた裾から露わになった太ももを男の手が這う。飛び跳ねるように足をばたつかせて、***は必死で抵抗した。
「やだっ、や、やめ、いやだッ!!!」
男を押し返そうと両手を振りまわしたら、もう一度ビンタを食らった。さっきとは反対側のほっぺたを強く叩かれて、口の中が切れた。ケホッとせき込んだら血の混じった唾液が出た。浅い呼吸で肺がひゅーひゅーと鳴る。首元に冷たい何かが突きつけられて、それがナイフだと気づいた瞬間、血の気の引いた全身がカタカタと震えだした。
———こ、殺されるっ……!!!
「あー、その顔いいね……俺はあっちにいる奴らと違って、ヤクで飛んでる女に突っ込むより、怯えてんのを無理やり犯す方が好きでね。しかも相手が万事屋の女とくりゃ最高だぜ。あの白髪野郎には一度ムショ送りにされてから、ずっと復讐したかったんだ。なぁ***さん、どーせ助けは来ねぇんだから楽しもうぜ。めいっぱい怖がって俺を喜ばせてくれよ」
左手で刃物を突きつけたまま男は、***の身体をまさぐりだす。襟の合わせを肩までぱっかりと開かれ、イチゴ柄のブラが丸見えになった。顔を背けた***の首から鎖骨までを、ぬるついた舌が舐める。ひどい不快感にぞわわわっと鳥肌が立った。
下着ごと胸を強く揉まれ、性急に浴衣をたくし上げられた。ショーツ越しにお尻を撫でる手の動きは機械のようで、そこには何の感情もなかった。男にとって***はモノ同然で、その身体は肉の塊と同じだった。ふと銀時の大きな手の熱さや優しい触れ方を思い出したら、声を上げて泣き出しそうになった。
———最低だっ……こんなヤツに触られてはじめて、銀ちゃんがどれほど私に優しかったか、慎重に触ってくれてたかに気づくなんて、最悪すぎる。気持ち悪くて反吐が出そう……———
泣くもんかと唇を噛んでこらえる。潤んだ瞳の***を見下ろして、男は楽しそうにショーツに手をかけた。片手だからなかなか脱がせられない。揺らいだナイフが首筋をかすめて、薄皮を切るような小さな傷をいくつも残した。
この傷を見たら銀ちゃんは悲しむだろうな、と思ったら頭の芯がスッと冷えた。怒りは雫が水面を打つように、***のなかに静かに広がって身体の震えを止めた。恐怖が吹き飛んで涙も引っ込む。
自分でも信じられないほど冷静に、ナイフを持つ男の手首を右手でつかんだ。唇がわなないたのは怯えでも不安でもなく、激しい憎悪と敵意のせいだ。
「怖くない……アンタなんか怖くない」
「あ?」
ぽつりとこぼした声に男が顔を上げた。目深に被る帽子からのぞく目と見つめ合った瞬間、***の耳にいつかのお妙の声が蘇った。
———もっと腰を落とすのよ、***さん!重心を低くすれば安定するわ。足を踏ん張って、このパンチングボールを汚いゴリラの顔だと思って、思いっきり殴りなさい!
仰向けに倒れているから、自然と重心は安定した。右手でナイフを押さえているから左手しか動かせない。それでも***は強く握った拳を、思い切り前に突き出した。
バキッッッ!!!
「うぐっっ!!!」
パンチは男の顔面に直撃した。薬指の指輪がちょうど鼻にめり込む。プラスチックの赤い石が割れてポロッと取れた。よろけた男がナイフを落とす。その隙に急いで立ち上がり、次はどうすると考えていたら今度は神楽の声が聞こえてきた。
———***、いい蹴りは心意気が大事アル!変態男はぶちのめすって強く思うネ。
「へ、変態男はっ、ぶちのめす!!!」
ドガッッッ!!!
「ギャッッ!!!」
心で思うだけでなく声に出したら強くなれた。腰を落としたまわし蹴りは、男の横っ面にしっかりと当たる。下駄の歯が刺さるほど、勢いのあるキックだった。顔を押さえて転げまわる男を見下ろして、***は吐き捨てるように言った。
「アンタなんか全然怖くない。アンタに傷つけられても、私はひとつも痛くない。そんなのより……銀ちゃんを悲しませる方がずっと怖い!銀ちゃんが傷つくのを見る方がもっと痛い!アンタの汚い手なんかに、私は触らせない!!銀ちゃんが大切にしてくれたものを、アンタなんかに汚させないっつーの、コノヤロォォォ!!!」
そう言い切るとお登勢の優しい声が耳に響いた。
———***ちゃんにとって、銀時がいちばん大事だってことは、よぉ~く分かったよ。おかしな男の彼女なだけあって、アンタも相当変わりもんだねぇ……
それは違う、と今さら気づいて愕然とする。お登勢の前で泣いたあの時はまだ分かっていなかった。銀時が***に触れる時、その手が何度もためらっていたことを。***が怖がるたび、銀時が怯えたような目で困っていたことを。
———お登勢さん違うんです……私がいちばん大事なのは、銀ちゃんじゃなくて自分だったの。ずっとそうだったの。銀ちゃんが私を大切にしてくれるから、私も私を大切にしようって思えたの。なのに私は、そんなことにも気づかずに何度も銀ちゃんを拒んでしまった……こんな時に、銀ちゃんを失いそうになってようやく分かるなんて大馬鹿だっ……
「このアマッ!ぶっ殺してやる!!」
男は鼻血を流しながら別のナイフを取り出して近づいてきた。胸倉をつかまれ、よろけて床に膝をつく。なすすべなく座り込む***の頭上で、男が腕を振りかざした。鋭利な刃先がキラリと光る。
死ぬかもしれない、とぼんやりする***の耳が、遠くで鳴るエンジン音をとらえた。それは少しずつ近づいてきて、ドカンッと何かを破る。そしてブロロロッというバイクの爆音が部屋中に鳴り響いた。
「なっ、なんだ!!?」
振り上げた手を止めて、男が不審な顔をする。他の男たちも同じように困惑していた。鳴り響く音の正体が***にだけは分かっていた。
暗い廊下の向こうを見つめて一瞬だけまばたきをしたら、まぶたの裏で銀時の赤い瞳が見えた。そのまなざしが優しく笑う。温かい腕に抱きしめられながら、耳元にささやかれた言葉を思い出した。
———ちゃんと出来てたじゃねーか、***。お前しっかり、バカでけぇ声で、銀ちゃん助けてって言えてただろ。……お前は、助けてほしい時に俺の名前さえ呼べれば、それでいいんだっつーの———
「銀ちゃん、助けてッ!!!!!」
全身全霊で叫んだ。暗い廊下の向こうから、今すぐ会いたい人が必ず来てくれると分かっていたから。
その声はずっと聞こえていた。
大丈夫じゃなくても大丈夫と言い、平気じゃないくせに平気なふりをする***が、心の中で「助けて」と叫ぶ時、その声はいつも銀時に届いた。
遡ること数分前、銀時は目的の店にたどり着いた。通りには数台のパトカーと警察官、そしてボロボロの女たち。その女たちの中に***の姿がなかった。バイクのまま路地に入ると、小太りの男がやせ細った女に乱暴しようとしていた。木刀で殴って男を失神させた銀時を見て、女はハッとした顔で声を掛けてきた。
「坂田銀時さん、ですね!?かぶき町の万事屋の!!」
そうだと答えると女は泣き出した。嗚咽まじりの声で******という人が自分たちを逃がし、逃げおくれた女を助ける為にひとり中に戻ったと言う。悪い予感が的中して嫌な汗がドッと吹き出た。意識のない小太りの男を片手で引きずり、裏口を突き破って廊下を進むと「銀ちゃん、助けて」という***の叫び声が聞こえた。
「な、なんで万事屋がここにっ」
***に向かって刃物を振り上げる男が、銀時を見て青ざめた。それに向かって、連れてきた小太りの男を投げつける。吹き飛ばされる寸前、男の手のナイフの先端が***のほほをかすめていくのが、スローモーションで見えた。頬骨の上に数センチの傷がついていく間も、***はまばたきもせずにじっと銀時を見つめていた。
「***っ!!!!!」
乗り捨てたバイクが壁に激突する。ブレーキランプが粉々に砕けて、赤い破片が飛び散った。
座り込む小さな身体に手を伸ばし、ぐいっと引き寄せる。ガバッと胸に抱え込んだら、***も両手を広げてすがりついてきた。引き寄せ合う力があまりにも強くて、ふたりそろってよろけて床に膝をついた。
「銀ちゃん!!!!!」
そう叫ぶ***がのけぞるほど、強く抱きしめた。浴衣の背中には細かいガラスの破片が刺さっていて、手で払うと布にポツポツと赤い血が浮かんだ。首筋にはたくさんの小さな切り傷。乱れた服から見える胸元は冷えて青ざめていた。それでも***の意識がしっかりしていて、致命傷もないことが銀時を心底ホッとさせた。
「……った、***、俺が悪かった」
言葉は口から勝手にこぼれたが、一体なにに謝っているのか自分でも分からなかった。こんな目にあわせて悪かった。もっと早く助けにこなくて悪かった。俺のような男が彼氏で悪かった。謝るべきことがあり過ぎる。
胸にすがりつく***がぶんぶんと首を振った。身じろいで離れると、眉を八の字に下げたいつもの困り顔が、泣き笑いのようにくしゃっと歪んで銀時を見上げた。
「ぎ、銀ちゃんは何も悪くない!私はどこも痛くないし、全然大丈夫です。私が助けてって叫んだら、本当に助けに来てくれた!だから銀ちゃんはなんにも悪くないですっ……!!」
薄桃色の唇はそう言いながら震えていた。必死で微笑んでいるが、本当は怖くて仕方がなかっただろう。女たちを逃がすのだって、逃げ遅れたひとりを助けに戻るのだって、死ぬほど勇気が要ったはず。
それなのに***が「助けて」と叫んだのは、銀時のバイクの音を聞いて、助けが来たと確信してからだ。それはまるで、***を守ると誓った銀時の約束を、銀時自身に破らせないようにするために見えた。
———んだよ、コイツ……自分が死にそうな時だって、他人のためにギリギリまで我慢すんじゃねーか、この馬鹿女が……
ホラ全然へーきだよ?どこも痛くないよ?と笑おうとする***を、銀時は何も言わずに見下ろした。よく見ると***の顔には、手のひらの赤い痕がついていた。平手で打たれた両のほっぺたが薄っすらと腫れている。切れた唇の端は内出血を起こして、既に青いアザになっていた。頬骨の上の切り傷を、赤い血液がぷっくりと覆っている。無事で良かったという安堵を、傷つけられたという怒りがたやすく追い越していった。
「チッ……くそがっ!!」
悔しい、忌々しい、憎らしい、許しがたい。
愛する女を傷つけられて、怒りとその周辺の感情が一気に溢れ出した。銀ちゃん?と不安げに言った***を立ち上がらせ、自分の背後に下がらせた。サッと走らせた視線の先に十数人の男たち。ナイフや刀を手に持つ者もいる。壁に叩きつけられたニット帽の男がゆらりと立ち上がり、銀時に向かって叫んだ。
「万事屋、あん時はよくも、刑務所送りにしてくれたな!」
武器を振りかざした男たちが、一気に近づいてくる。後ろで***がヒッと悲鳴を上げた。銀時の木刀をにぎる手に、その手に力をこめる腕に、歯を食いしばった顔に、ビキビキと血管が浮かぶ。血液が沸騰して髪が逆立つ。とめどなく吹き出す怒りに任せて、銀時が上げた雄たけびは空気をビリビリと震わせた。
「今度は全員まとめて地獄に送ってやらぁ!!!!!」
(そうでなければ、この怒りが鎮まるわけがない)
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【(36)凍てつく怒り】end
"星の降る夜"(2)
失ってはじめて気づくなんて もうやめよう