銀ちゃんの愛する女の子
おいしい牛乳(恋人)
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【(35)鈍くて弱い光】
「うぅ~…***~、のぼせちゃったアルぅ~~…」
「だ、大丈夫?さすがの神楽ちゃんでも、銭湯でバタフライ百往復は無理だよぉ……はい氷もらってきたから、少し休もうね」
色白の肌を真っ赤にした神楽が、マッサージチェアでぐったりしている。大浴場にはしゃいで泳ぎまくり、***が髪と身体を洗い終えた時には既に、湯あたりしてのびていたのだ。
***の居候生活はもう1週間になる。家賃や食費で手一杯の万事屋に泊めてもらうのは初めから心苦しかった。銀時は気にするなと言ったが、お風呂の水道代だって馬鹿にならない。少しでも負担にならないよう、数日前からこの大江戸銭湯に来ている。近ごろやけに心配性な銀時が「夜は外に出るな」と渋ったけれど、神楽が一緒だから心配ないと説き伏せた。
おでこに氷嚢をのせた神楽を見ていたら、***まで熱さにぼうっとした。「少し風に当たってくるね」と言うと外に出る。下駄をつっかけて通りに踏み出すと、風呂上がりの火照った身体に夜風が涼しかった。
見上げた夜空でわずかな星がチラチラと瞬く。洗い立ての髪を束ねて簪をさした時、背後から急に声をかけられた。
「***さん、こんばんは」
「えっ……?あら、姫子さん、こんばんは!こんなところで奇遇ですねぇ。お風呂に来られたんですか?」
振り返ると真後ろに姫子がいた。銭湯に来たのかと思ったが、手に何も持っていないので***は首をかしげた。
「いいえ、お風呂じゃないのよ……ねぇ、***さん、ふたりで少し話せるかしら?」
そう言ってにっこりと笑う姫子の声は、有無を言わせないほど、強く響いた。
「あ、じゃぁ、立ち話もなんですし、中に入りませんか?神楽ちゃんをひとりにするのも心配だから」
「神楽ちゃん?……ああ、あのうるさい小娘ね。私、***さんと話がしたいの。早くこっちへ来て」
うるさい小娘という言い方にカチンとくる。しかし異議を唱えるより早く、姫子に腕をつかまれて引っ張られた。その手の力が予想外に強くて、***は口をつぐんだ。連れて行かれたのは銭湯の横のせまい路地。人の気配のない裏路地は、街灯の明かりも届かず真っ暗で、***は少し怖くなった。
「あ、あの、姫子さん、お話ってなんでしょう?こんなに暗いところで女の子だけでいるのは危険だし、私もう帰らないと」
「やだ、***さんたらどうしたの?いつも私が困ってると助けてくれるのに、今日はやけに冷たいのね」
「冷たいだなんてそんな……こ、困ってるって何かあったんですか?私にできることがあるなら手伝いますけど……」
いつもと様子のちがう姫子にたじろいでしまう。正直に言えば、銀時とふたりでカフェに居たのを見てから、姫子と顔を合わせるが気まずかった。情けないと思いながらも、なるべく会わないよう避けてきた。それなのに面と向かって「話がある」なんて言われたら、目を背けてきたことを口にされてしまいそうで恐ろしかった。
「***さん、私、銀さんのことで困ってるのよ」
「っ……!あ、う、えぇっと、そのっ……」
銀さん、という言葉だけで身体がすくむ。恐れていたことが現実になると思うと、震えるほど怖かった。
いくら恋愛慣れしていない***でも、姫子が銀時に好意を持っていることは分かっていた。でも他人の気持ちを自分がどうこうするなんてできないと、ずっと見ないふりをしてきたのだ。もしも姫子に気持ちを打ち明けられたら、銀時の彼女としてどう対処すべきなのだろう。何度考えても***には、その答えが分からなかった。
「ぎ、銀ちゃんのことを私に言われても、その、どうにもできないっていうか……あの、姫子さんから直接本人に言ったらどうでしょう」
「もちろん言ったわよ。銀さんが好きだから付き合ってほしいって。でも***さんがいるからって取り合ってもらえないの」
「へっ、」
告げられた事実に***はまぬけな声を出して固まった。姫子が告白したことも、それを銀時が断ったことも初耳だったから。とにかく何か言わなければと、***は必死で声を振り絞った。
「あ、っと、そ、そうですか……あ、あれ?でも姫子さんには、彼氏さんがいませんでしたっけ?」
「彼氏?ああ、別れたわ」
あっけらかんと言われて嫌な気分にもならない。むしろ、すごい人だなと感心してしまうほど。あなたの彼氏に告白した、と面と向かって言える勇気がすごい。遠慮もせず全く臆さない度胸がすごい。
そして銀時が姫子の告白を断っていたことに、***は心底ホッとしていた。涙もろい姫子に「諦めてください」と告げるのは、きっと骨が折れるだろうと思っていたから。あれ、じゃぁ、私に話って一体なんだろう?そう***がいぶかしんだ時、姫子の口から驚愕の言葉が発せられた。
「ねぇ、***さん……銀さんと別れてよ」
「っ……!!」
あまりの驚きに言葉を失う。目を見開いて姫子を見つめ返すしかできない。完全に思考停止した頭の片隅で「姫子さんは可愛くて綺麗な人だな」とぼんやり思う。この人と付き合いたいと思う男性はきっと沢山いるだろう。のんきなことを考えてぼけっとする***に向かって、姫子は続けて言った。
「***さん、銀さんを私にちょうだいよ。私ストーカーに付きまとわれて困ってるし、仕事もお金も無いし、すごく心細いの。だから銀さんみたいな人に近くにいて欲しいのよ。ねぇ***さん、お願い、私を助けると思って、銀さんを譲ってください」
そう言いながら姫子は微笑むのに、なぜかその顔は能面のように無感情に見えた。三日月形に細めた瞳は笑っていなくて、どこか***を見下している気がした。
恐怖が驚きを追い越して、***の全身から冷たい汗がどっととあふれ出した。ひと言も出せず、弱気に黙り込む***に姫子は追い打ちをかける。
「私、すごく貧乏な家で育ったの。親に愛されたこともないし、普通の仕事もしたことない。だから***さんが羨ましい。実家の農園は繁盛してるんでしょう?お父さんとお母さんも優しいんでしょう?ねぇ、アンタは何もかも持ってるじゃない。私が持ってないものを全部。だから銀さんくらい私に譲ってよ。優しい***さんなら、私にくれるでしょう?」
銀さんくらい、という言葉で胸の奥がカッと熱くなった。温厚な***が珍しく抱いた強い怒りの感情だった。動悸が激しくなると同時に息が上がり、血が逆流するように全身が熱を持った。眩暈がしそうなほどの憤怒に、***は両足を踏みしめる。ギュッと両手をにぎりしめて、負けるな私、と自分に言い聞かせる。お腹に力を入れたら、震える唇から言葉は自然と出てきた。
「あげない……銀ちゃんは、あげない!」
姫子の瞳を真っ直ぐに見て、***は叫んだ。
「私、何もかもなんて持ってないっ……ただ家族と仕事を必死で守ってきただけ。ただ死に物狂いで生きてるだけです……それを近くで見ててくれるのが銀ちゃんなの。だから私は、なにより銀ちゃんが大切なんです。仕事もお金も、できるなら実家の農園だって、姫子さんにあげてもいい。でも銀ちゃんは……銀ちゃんだけはダメなんです。銀ちゃんを失うくらいなら私、死んだほうがいい……少なくとも神楽ちゃんをうるさい小娘って言うような人にはあげられない!銀ちゃんのことを、銀さんくらいなんて言う人には、絶対に譲れません!!」
心臓が破裂しそうなほどバクバクして胸が痛かった。はぁはぁと呼吸を整える***を、姫子は残念そうに眉を寄せて見ていた。お願いだから諦めて。祈るようにそう思っていたら、姫子の猫なで声が言った。
「残念ねぇ。銀ちゃんを失うくらいなら死んだほうがいい、かぁ……じゃぁ、その通りにしてあげる」
「え?」
何かがトンッと背中に当たって、***は振り返った。誰もいないはずの路地にたくさんの人影。背後に立っていたのは、ニット帽の男だった。帽子のふちから見えた瞳とニヤつく口元に見覚えがあって、***はハッとする。
「あなた姫子さんのッ———!?」
彼氏、と言う声は途切れた。白い布を持った男の手が***の口をふさぎ、鼻まですっぽりと覆った。反射的に吸い込んだ息から、薬品のツンとする匂い。これはマズイと思った時にはもう意識が遠のいていた。
ぐにゃりと脱力した身体を、誰かに抱え上げられた。ぐるんと仰向けにされても視界が真っ暗なのは、星のない江戸の夜空のせいか、それとも視力が暗闇に落ちたせいなのか区別がつかなかった。弱りつつある聴力が「後は好きにして」という姫子の声を拾った直後、***は意識の淵から滑り落ちた。
『お~い、旦那ァ、ちゃんと聞いてやす?あのヤバイキャバクラのことですがねぇ……』
受話器から沖田の声がする。旦那の耳にも入れといた方がいいと思いやして、と語られた話に興味はなかった。以前バイトした“桃色くまさん”という店がつぶれたことも、そこで違法薬物がバラまかれていたことも、銀時はとっくの昔に知っていたから。
「あのさぁ、総一郎くん、その話って俺になんか関係あんの?銀さんもうキャバクラとか行かねーし、風俗も必要ねぇからぁ、ネオン街ゴシップにぜぇ~んぜん興味無いんですけどぉ~」
『総悟でさぁ。旦那には***っつー専属の風俗嬢がいるから関係ねぇでしょうが、ちったぁ聞く耳を持ってくだせぇよ』
「オイィィィィ!!ひとの彼女を風俗嬢呼ばわりたぁ、失礼な奴だなコノヤロー!!うちの***は見たとおりの清純派だぞ?風俗嬢っつーよりどっちかと言えば、呼べばすぐに来てくれるコールガール的な存在なんだよ、アイツはぁ!!!」
『いや、自分の彼女をコールガール呼ばわりする方が、ずっと失礼じゃねーですかい?』
そんなしょうもないやり取りをしながら、銀時は事務机の上で脚を組んだ。ジャンプをめくり受話器を肩に挟む。やる気のない声で相づちを打つが、沖田の方にも大した熱意は感じられない。なに、何なのこの子、何の用で電話してきたの、暇つぶしか?そう思うほど価値のない会話を、唐突にさえぎったのは、ソファにいる新八だった。
「あぁぁぁ!?銀さん!!た、大変です!!!!!」
その大声に驚いた勢いで、銀時はイスごと後ろに倒れた。床に頭をしたたか打ちつけて、目の前に星が飛ぶ。机から垂れ下がるコードの先の受話器から『旦那ァ?もしもーし?』という沖田の声が聞こえた。
起き上がった銀時が、オイぱっつぁん、うるせぇぞ!と言っている間に、近づいてきた新八が机の上に一枚の写真をバンッと叩きつけた。
「こ、これ見て下さい!こないだ神楽ちゃんと僕で不倫調査した時に撮った写真の、このふたり!!」
「っんだよ新八ぃ~、不倫現場の激写だろ?よく撮れてんじゃねーか、ハゲ社長と巨乳ホステスが腕組んでホテル入ってくとこぉ~」
「ちがいます!こっち!このホテルのわきの細い道を見てください!このふたり……姫子さんとストーカー男です!!」
指さされた写真のはし、建物の間の薄暗い通りに男女が立っている。目をこらして見ると、確かにそれは姫子とニット帽を被った男だった。向かい合うふたりは親しげで、男が姫子に何かを手渡している。
「銀さん、これどういうことですか?このふたりが知り合いだったら、ストーカーの話は嘘ってことですよね?姫子さんって一体何者なんですか?何が目的なんですか?」
矢継ぎばやな新八の質問に、銀時は答えない。
めんどくせーことになりやがった、と思っていると更に予想外のことが起こった。バァンッとガラスが割れそうなほど大きな音を立てて玄関の戸が開くと、神楽が転がるように入ってきたのだ。
めずらしく青ざめて、手には下駄を片方だけ持っている。その下駄の見覚えのある小花柄の鼻緒に気付いた瞬間、銀時はぎょっとして息をのんだ。
「銀ちゃんっ、新八っ、大変ネ!!***が……***が誘拐されたアル!!!」
取り乱しながらも神楽は「風に当たってくる」と言った***が、出て行ったきり戻ってこなかった、と語りだした。いつまでも戻らないのをいぶかしんで外に出ると、若い女のふたり組が神楽に声を掛けてきた。数人の男たちが、***らしき女を抱えて連れ去っていくのを見たという。
「なんで***がそんなことされるアルか?あんな誰にも害のないお人よしの女が、さらわれるわけないネ」
しかし女のひとりが言った言葉に神楽は驚愕した。
「あの人、***さんって言うんだ。背中に傷跡のある人だよね。前にこのお風呂で会った時、痛そうなキズだねって失礼なこと言っちゃったんだけど、怒らないで笑ってくれて、優しい人だと思ったからよく覚えてる……うん、間違いなく連れ去られたのは***さんだよ。ホラ、あそこに落ちてる下駄、***さんのじゃない?」
女が言い終わる前に、神楽は路地に落ちていた下駄を拾うと、一目散に万事屋へと駆け出した。
「銀ちゃん!どうして***が誘拐なんてされるアルか!?なんでヨ!!」
「銀さん、このふたりが関係あるはずです!ストーカーも嘘だし、姫子さんは怪しすぎます!!」
下駄をにぎる神楽と、写真をさしだす新八に見つめられて、銀時は口をつぐんだ。何をどう説明したらいいのか。ぐるぐると思考を回転させて考えこんでいると、遠くの受話器から『おぉ~~い馬鹿ども~~~、俺の話も聞きやがれぇ~~~』と沖田の声がした。頭をガリガリと掻いて電話を耳に当てた銀時が、今それどころじゃないと言うよりも先に、沖田の早口が響いた。
『アンタらが姫子っつってんのは、あの店のキャバ嬢ですかい?もしそうならソイツが店をつぶした主犯でさ。行方不明だった女たちのうちひとりが、摘発された人身売買の密輸船から見つかりやしてね。その姫子って野郎にヤバイ薬を盛られて、ヤクの売人どもにレイプされたあげく、奴隷として天人に売り飛ばされる途中だったんでさぁ』
「なっ……んで、それを早く言わねんだよ!!!!」
沖田の言葉に銀時のひたいから汗が噴き出した。
焦った声で叫ぶと同時に、ふたたび玄関の戸が開く音が部屋に響いた。もしかして***が帰ってきたのか。神楽の話は間違いだったのかと、わずかな望みをかけて目をやった玄関には、姫子が立っていた。
「ごめんくださぁい。銀さん、お家まで送ってもらえますか?」
首をかしげて微笑む姫子の声色は、ほんの少し***に似ていた。わざと真似ているのだと気づいたら、ひどい不快感に吐き気がこみ上げてきた。視界が狭まるほどの怒りを必死でこらえ、受話器を耳に強く押し当てる。その向こうで『旦那、聞いてやす?』と沖田がくり返していた。
「……沖田くん、今すぐパトカー出せ。いち台、万事屋に寄こして。んで、あともう何台かを、」
言うだけ言って返事は聞かずに電話を切った。それなりに有能な沖田がこの機会を逃すはずがない。それにわざわざ万事屋に電話をしてきたのは、銀時と同じように沖田も***を心配しているからだ。
電話を置くとドスドスと足音を立てて、玄関に向かった。ふわりと微笑んだ姫子が「はい、これ、差し入れのプリン」と言って白い箱を差し出す。
「お前っ……———!!!」
玄関の段差を降りた勢いのまま、銀時は姫子の肩を強くつかんだ。悲鳴を上げた姫子の手から、白い箱が落ちていくのがスローモーションで見えた。床石に叩きつけられて、プリンの容器の瓶が割れるガシャンッという大きな音と同時に、銀時の耳に***の声が響いた。
———銀ちゃん、助けてッ!!!!!
ズキズキと頭痛がする。重たいまぶたを開いたら、見知らぬ女の子が***を見下ろしていた。大丈夫?と言った娘は瘦せて顔色が悪く、着物の袖から出る腕には、いくつもの青いアザがあった。ひりひりとノドが痛んで「大丈夫」と答えた***の声は、かすれて言葉にならない。両の手首と足首に手錠がはめられているせいで、起き上がるのもひと苦労だった。
「ここは……あなたたちは……」
部屋には20人ほどの若い女たちがいた。皆、***と同じように腕と脚を拘束されて、疲れ切った顔をしている。ぐったりとして倒れている者までいる。
荒らされた部屋には見覚えがあった。扉の外れたスチールロッカー、横倒しになったソファ、そして床に転がるピンク色のクマの着ぐるみを見て、ここはあの店の控室だと***は気づいた。
「アタシ達はここの元キャバ嬢だよ。アンタと同じように気を失って、知らないうちに誘拐されてたの……それで、」
そこまで言って、娘はワッと泣き出した。不自由な両手を伸ばして、***が震える肩を撫でたら、その子は泣きながら全てを教えてくれた。
この店で働くうちに知らぬ間に薬物中毒になっていた。違法と分かってても買わずにいられず、稼ぎをすべて巻き上げられた。支払いが追い付かなくなり、売人の男たちに「身体で払え」と言われ乱暴された。それすらできないほど薬物依存が進んだ子が、奴隷として天人に売り払われていった。その話を聞いて驚愕した***は、震える声で言った。
「うっ、売り払うなんて、そんなの嘘でしょう?そんな酷いこと、ふつうの人間ができっこない」
「できるのよアイツらなら!女を金ヅルとしか思ってないヤツらだもん!薬漬けで働けなくなって、金も無ければ用済みで、レイプされた子たちが何人も売られたんだからっ……つ、次は私かもしれない……ぅ、うわぁぁぁん!!」
泣き崩れた少女に***の慰めの声は届かない。ぐるりと見まわすと、絶望的な表情の女たち。どんよりとした空気に***も暗い気持ちになる。無理かもしれない、この子たちも私も助からないかも。そう思いかけた頭をぶんぶんと振った。
落ち込むな***、何か手立てがあるはず。そう自分に言い聞かせる。幸運にも***は薬を盛られてないし乱暴もされてない。元気な自分が何かしなきゃと、拘束された両手を見下ろしたら、ふと***の耳にいつの日かのキャサリンの声が蘇ってきた。
———鍵ッ娘キャサリンニ掛カレバ、コンナノ目ェ閉ジテタッテ開ケラレル———
「そっ、そうだ!皆すごいラッキーだよ!実は私、こう見えて手錠外しが得意なの!鍵ッ娘キャサリンならぬ鍵ッ娘***さんが、すぐに全員自由にしてあげるからね!!」
わざと明るい声で言って、***は髪から簪を引き抜いた。まず自分の手足の手錠をすばやく解く。次に泣いている娘の腕を取って、手際よく枷を外したら「わぁ!すごい!」と言って泣き止んだ。うずくまっていた女たちが、私も私もと集まってくる。不自由だった手足が解放されると、みんなホッとして明るい顔になった。
「ねぇ***さん!あのドアの鍵も開けられる?」
女のひとりが目を輝かせて扉を指さした。ドアノブは壊れていて扉自体は簡単に開く。しかし、ドアの外にかかる鎖が南京錠で固定されて、5センチほどの隙間しか開かない。ぶら下がる南京錠を見て、***はため息をつきそうになった。手錠以外の解き方は習ってない。でもここで弱気な顔を見せたら、せっかくの明るい雰囲気が台無しだ。
「も、もちろん!これだって開けられるよ!」
期待に満ちた女たちの視線を背に、***はドアの隙間に腕を入れた。手のひらより大きな南京錠をつかみ、その鍵穴に簪を差し込む。手探りでガチャガチャとしたが、鍵の仕組みが分からない。冷や汗を流す***はそれでも不安を気取られないよう、必死で手を動かし続けた。
———ああっ、全然開かない!神さま仏さまっ、どうか私に力をください!どうやったら開くの!?どうすればいいの!?銀ちゃんならこんなの力ずくで壊しちゃうのに!!もうお願い、銀ちゃん、助けてっ!!!
ガチャッ!!!
「へぁっ!?あっ……開きました!!」
祈るように銀時の名を心のなかで叫びながら、半分やけくそで簪を思い切り強く押したら、偶然にも南京錠は外れた。後ろに立つ女の子たちが「わっ」と嬉しそうな声を上げた。
鎖を解いて***はひとり暗い廊下に出る。数十メートル先に店の裏口があった。裏口に鍵はかかってなかったが、扉の外に見張りの男がひとり座っていた。小太りの男はパイプ椅子で居眠りをしていて、顔を出した***にも全く気づかない。
———今なら、逃げられる……!!!
急いで控室に戻ると、***は女たち全員に「今すぐ逃げよう」と力強い声で言った。
「でも……***さん、ほんとに逃げ切れるかな?途中で捕まったら、もっとひどい目にあうかも。助けがくるのを待ったほうがいいんじゃ……それにここを出たところでどうしたらいいの?ヤク中の私たちを誰が助けてくれるの?刑務所送りなんてヤダよぉ」
女の子たちはひどく怯えた目をしていた。その恐怖も不安も、***は痛いほどよく分かる。己を虐げる相手に従順でいた方が苦しみが少ないと、諦めたくなる気持ちも悲しいほど理解できた。でも、だからこそ、この子達と助かりたいと強く思う。
「みんな、もう十分ひどい目にあってる。無理やり薬を飲まされて苦しかったよね。お金を盗られて嫌だったよね。痛くてしかたがなかったよね、死にそうなほど怖かったよね……こんなにツライ思いをした子たちが刑務所送りになんてなるはずない。そんなこと私が絶対させない。私、皆と全員一緒に助かりたい。だから、来るか分からない助けを待つより、自分たちの足で走って逃げたいです……私ひとりじゃ心細いから、皆も一緒に来てくれないかな?」
こんな状況でも不思議と笑うことができた。多分、この場に銀時がいたら「その馬鹿みてぇな顔すんのやめろ」とあきれるだろう。それほど能天気な笑顔を浮かべた***を見て、女たちは心を決めた。
全員で列になり息をひそめて廊下を進む。小太りの男は相変わらずぐっすりと眠っていた。開けた扉を抑えて***が目で合図すると、女たちは裏口から飛び出していった。
最後のひとりは、いちばん最初に***をのぞきこんでいた少女だった。不安そうに***の手をぎゅっと握る。言葉もなくうなずいて、ふたり一緒に裏口を出ようとした瞬間だった。
「きゃぁぁぁ!誰か、助けてっ!!!」
「っ……!!?」
背後から聞こえた悲鳴にハッとして、***は足を止めた。振りむいた廊下の向こう、控室より先の遠くの店内から、その声は聞こえた。まだ残っている子がいたのかと、反射的に戻ろうとした***の手を、少女が強くつかんで引き留めた。見張りの小太りの男に気づかれないよう息を殺して、娘は早口でまくし立てた。
「***さん、無理だよ!あの子は***さんが来る前に、アイツらに連れてかれたの。きっと今ごろ……っ、もう助からないから、私たちだけでも逃げよう!」
必死な少女の声を聞いて、頭のなかの冷静な***が「この子の言う通りだ、どうせ助けられっこない」と言った。相手が何人いるのかも分からないのに、ひ弱な女ひとりに何ができる。丸腰で後先考えずに飛び出して行くなんて、馬鹿としか言いようがない。
分かりすぎるほど分かっているのに、でも———。
そう思いながら***は小さく微笑んだ。その微笑みを見た少女が息を飲んで目を見開いた。女の子のほほには、まだ涙の跡があった。その顔に***はそっと手を伸ばして、乾いた涙の筋を指で撫でながら、優しい声でささやいた。
「心配してくれて、ありがとう。先に出た子達を連れて、かぶき町の万事屋銀ちゃんっていう店を訪ねてくれますか?そこに銀髪で死んだ魚のような目をした坂田銀時という人がいるから、******が呼んでるって伝えて。万事屋は困ってる人を助けてくれるから、あなたや他の子たちの力になってくれるはずです……私は大丈夫だから、さぁ行って!早く、走って!!」
あっ、と言った少女が呆気に取られているうちに、手を振り払ってその身体をドンッとドアの外に押し出す。すぐさま閉まった扉の向こうで「***さん」と何度か呼ぶ声がしてから、しばらくして駆けだす足音が聞こえた。ハァッと吐いた深いため息が、安堵なのか諦めなのか***にも分からなかった。
うつむくと片方だけ下駄の脱げた足が見える。気を抜くと膝がガタガタ震えてしまうのが情けなかった。背後からは、顔も知らない女が「助けて」と泣き叫ぶ声が聞こえる。
「馬鹿だって分かってる……でも、見捨てられない」
顔を上げた***は、踵を返して駆けだした。
廊下の先にどんな景色があるのか予想もできない。でも昔の記憶と重なる今の状況に、背中の古い傷がズキズキとうずく気がした。弱気になりかけるたび***の耳元で、いつかの夜の優しい銀時の声が響く。その時の言葉が何度も、心を熱くさせた。
———知ってるか***、後先考えずに飛び出して行って、こーゆーでっけぇケガする馬鹿のことを、世間では時々、正義のヒーローって呼ぶこともあんだぞ。誰も助けられなくても、傷しか残らなくても、それでも生き抜いたヤツを可哀そうだなんて俺は思わねぇ……———
こんな無謀なことをして、きっと馬鹿だと怒られる。銀時だけじゃない。神楽や新八、もしかしたらお登勢にまで怒鳴られるかもしれない。それでも***は、走り続ける足を止められなかった。
———正義のヒーローになんて、なれなくていい。私はただ、銀ちゃんの彼女として恥ずかしくない自分でいたいだけ。困っている人を放っておけないのが銀ちゃんだから、どうしたって見捨てられない優しい人だから……だから私は、銀ちゃんのそういう優しさに、ふさわしい人間でありたい———
自然と震え出す両手の指を、***は胸の前でぎゅっと組んだ。願いごとをするみたいに両手を結ぶ。その薬指にはめられた指輪で、赤いプラスチックの宝石が、かぶき町の夜空の星のように弱く、今にも消えそうなほど鈍い光で輝いていた。
-----------------------------------------------
【(35)鈍くて弱い光】end
"星の降る夜"(1)
あなたのいない世界じゃどんな願いも叶わないから
「うぅ~…***~、のぼせちゃったアルぅ~~…」
「だ、大丈夫?さすがの神楽ちゃんでも、銭湯でバタフライ百往復は無理だよぉ……はい氷もらってきたから、少し休もうね」
色白の肌を真っ赤にした神楽が、マッサージチェアでぐったりしている。大浴場にはしゃいで泳ぎまくり、***が髪と身体を洗い終えた時には既に、湯あたりしてのびていたのだ。
***の居候生活はもう1週間になる。家賃や食費で手一杯の万事屋に泊めてもらうのは初めから心苦しかった。銀時は気にするなと言ったが、お風呂の水道代だって馬鹿にならない。少しでも負担にならないよう、数日前からこの大江戸銭湯に来ている。近ごろやけに心配性な銀時が「夜は外に出るな」と渋ったけれど、神楽が一緒だから心配ないと説き伏せた。
おでこに氷嚢をのせた神楽を見ていたら、***まで熱さにぼうっとした。「少し風に当たってくるね」と言うと外に出る。下駄をつっかけて通りに踏み出すと、風呂上がりの火照った身体に夜風が涼しかった。
見上げた夜空でわずかな星がチラチラと瞬く。洗い立ての髪を束ねて簪をさした時、背後から急に声をかけられた。
「***さん、こんばんは」
「えっ……?あら、姫子さん、こんばんは!こんなところで奇遇ですねぇ。お風呂に来られたんですか?」
振り返ると真後ろに姫子がいた。銭湯に来たのかと思ったが、手に何も持っていないので***は首をかしげた。
「いいえ、お風呂じゃないのよ……ねぇ、***さん、ふたりで少し話せるかしら?」
そう言ってにっこりと笑う姫子の声は、有無を言わせないほど、強く響いた。
「あ、じゃぁ、立ち話もなんですし、中に入りませんか?神楽ちゃんをひとりにするのも心配だから」
「神楽ちゃん?……ああ、あのうるさい小娘ね。私、***さんと話がしたいの。早くこっちへ来て」
うるさい小娘という言い方にカチンとくる。しかし異議を唱えるより早く、姫子に腕をつかまれて引っ張られた。その手の力が予想外に強くて、***は口をつぐんだ。連れて行かれたのは銭湯の横のせまい路地。人の気配のない裏路地は、街灯の明かりも届かず真っ暗で、***は少し怖くなった。
「あ、あの、姫子さん、お話ってなんでしょう?こんなに暗いところで女の子だけでいるのは危険だし、私もう帰らないと」
「やだ、***さんたらどうしたの?いつも私が困ってると助けてくれるのに、今日はやけに冷たいのね」
「冷たいだなんてそんな……こ、困ってるって何かあったんですか?私にできることがあるなら手伝いますけど……」
いつもと様子のちがう姫子にたじろいでしまう。正直に言えば、銀時とふたりでカフェに居たのを見てから、姫子と顔を合わせるが気まずかった。情けないと思いながらも、なるべく会わないよう避けてきた。それなのに面と向かって「話がある」なんて言われたら、目を背けてきたことを口にされてしまいそうで恐ろしかった。
「***さん、私、銀さんのことで困ってるのよ」
「っ……!あ、う、えぇっと、そのっ……」
銀さん、という言葉だけで身体がすくむ。恐れていたことが現実になると思うと、震えるほど怖かった。
いくら恋愛慣れしていない***でも、姫子が銀時に好意を持っていることは分かっていた。でも他人の気持ちを自分がどうこうするなんてできないと、ずっと見ないふりをしてきたのだ。もしも姫子に気持ちを打ち明けられたら、銀時の彼女としてどう対処すべきなのだろう。何度考えても***には、その答えが分からなかった。
「ぎ、銀ちゃんのことを私に言われても、その、どうにもできないっていうか……あの、姫子さんから直接本人に言ったらどうでしょう」
「もちろん言ったわよ。銀さんが好きだから付き合ってほしいって。でも***さんがいるからって取り合ってもらえないの」
「へっ、」
告げられた事実に***はまぬけな声を出して固まった。姫子が告白したことも、それを銀時が断ったことも初耳だったから。とにかく何か言わなければと、***は必死で声を振り絞った。
「あ、っと、そ、そうですか……あ、あれ?でも姫子さんには、彼氏さんがいませんでしたっけ?」
「彼氏?ああ、別れたわ」
あっけらかんと言われて嫌な気分にもならない。むしろ、すごい人だなと感心してしまうほど。あなたの彼氏に告白した、と面と向かって言える勇気がすごい。遠慮もせず全く臆さない度胸がすごい。
そして銀時が姫子の告白を断っていたことに、***は心底ホッとしていた。涙もろい姫子に「諦めてください」と告げるのは、きっと骨が折れるだろうと思っていたから。あれ、じゃぁ、私に話って一体なんだろう?そう***がいぶかしんだ時、姫子の口から驚愕の言葉が発せられた。
「ねぇ、***さん……銀さんと別れてよ」
「っ……!!」
あまりの驚きに言葉を失う。目を見開いて姫子を見つめ返すしかできない。完全に思考停止した頭の片隅で「姫子さんは可愛くて綺麗な人だな」とぼんやり思う。この人と付き合いたいと思う男性はきっと沢山いるだろう。のんきなことを考えてぼけっとする***に向かって、姫子は続けて言った。
「***さん、銀さんを私にちょうだいよ。私ストーカーに付きまとわれて困ってるし、仕事もお金も無いし、すごく心細いの。だから銀さんみたいな人に近くにいて欲しいのよ。ねぇ***さん、お願い、私を助けると思って、銀さんを譲ってください」
そう言いながら姫子は微笑むのに、なぜかその顔は能面のように無感情に見えた。三日月形に細めた瞳は笑っていなくて、どこか***を見下している気がした。
恐怖が驚きを追い越して、***の全身から冷たい汗がどっととあふれ出した。ひと言も出せず、弱気に黙り込む***に姫子は追い打ちをかける。
「私、すごく貧乏な家で育ったの。親に愛されたこともないし、普通の仕事もしたことない。だから***さんが羨ましい。実家の農園は繁盛してるんでしょう?お父さんとお母さんも優しいんでしょう?ねぇ、アンタは何もかも持ってるじゃない。私が持ってないものを全部。だから銀さんくらい私に譲ってよ。優しい***さんなら、私にくれるでしょう?」
銀さんくらい、という言葉で胸の奥がカッと熱くなった。温厚な***が珍しく抱いた強い怒りの感情だった。動悸が激しくなると同時に息が上がり、血が逆流するように全身が熱を持った。眩暈がしそうなほどの憤怒に、***は両足を踏みしめる。ギュッと両手をにぎりしめて、負けるな私、と自分に言い聞かせる。お腹に力を入れたら、震える唇から言葉は自然と出てきた。
「あげない……銀ちゃんは、あげない!」
姫子の瞳を真っ直ぐに見て、***は叫んだ。
「私、何もかもなんて持ってないっ……ただ家族と仕事を必死で守ってきただけ。ただ死に物狂いで生きてるだけです……それを近くで見ててくれるのが銀ちゃんなの。だから私は、なにより銀ちゃんが大切なんです。仕事もお金も、できるなら実家の農園だって、姫子さんにあげてもいい。でも銀ちゃんは……銀ちゃんだけはダメなんです。銀ちゃんを失うくらいなら私、死んだほうがいい……少なくとも神楽ちゃんをうるさい小娘って言うような人にはあげられない!銀ちゃんのことを、銀さんくらいなんて言う人には、絶対に譲れません!!」
心臓が破裂しそうなほどバクバクして胸が痛かった。はぁはぁと呼吸を整える***を、姫子は残念そうに眉を寄せて見ていた。お願いだから諦めて。祈るようにそう思っていたら、姫子の猫なで声が言った。
「残念ねぇ。銀ちゃんを失うくらいなら死んだほうがいい、かぁ……じゃぁ、その通りにしてあげる」
「え?」
何かがトンッと背中に当たって、***は振り返った。誰もいないはずの路地にたくさんの人影。背後に立っていたのは、ニット帽の男だった。帽子のふちから見えた瞳とニヤつく口元に見覚えがあって、***はハッとする。
「あなた姫子さんのッ———!?」
彼氏、と言う声は途切れた。白い布を持った男の手が***の口をふさぎ、鼻まですっぽりと覆った。反射的に吸い込んだ息から、薬品のツンとする匂い。これはマズイと思った時にはもう意識が遠のいていた。
ぐにゃりと脱力した身体を、誰かに抱え上げられた。ぐるんと仰向けにされても視界が真っ暗なのは、星のない江戸の夜空のせいか、それとも視力が暗闇に落ちたせいなのか区別がつかなかった。弱りつつある聴力が「後は好きにして」という姫子の声を拾った直後、***は意識の淵から滑り落ちた。
『お~い、旦那ァ、ちゃんと聞いてやす?あのヤバイキャバクラのことですがねぇ……』
受話器から沖田の声がする。旦那の耳にも入れといた方がいいと思いやして、と語られた話に興味はなかった。以前バイトした“桃色くまさん”という店がつぶれたことも、そこで違法薬物がバラまかれていたことも、銀時はとっくの昔に知っていたから。
「あのさぁ、総一郎くん、その話って俺になんか関係あんの?銀さんもうキャバクラとか行かねーし、風俗も必要ねぇからぁ、ネオン街ゴシップにぜぇ~んぜん興味無いんですけどぉ~」
『総悟でさぁ。旦那には***っつー専属の風俗嬢がいるから関係ねぇでしょうが、ちったぁ聞く耳を持ってくだせぇよ』
「オイィィィィ!!ひとの彼女を風俗嬢呼ばわりたぁ、失礼な奴だなコノヤロー!!うちの***は見たとおりの清純派だぞ?風俗嬢っつーよりどっちかと言えば、呼べばすぐに来てくれるコールガール的な存在なんだよ、アイツはぁ!!!」
『いや、自分の彼女をコールガール呼ばわりする方が、ずっと失礼じゃねーですかい?』
そんなしょうもないやり取りをしながら、銀時は事務机の上で脚を組んだ。ジャンプをめくり受話器を肩に挟む。やる気のない声で相づちを打つが、沖田の方にも大した熱意は感じられない。なに、何なのこの子、何の用で電話してきたの、暇つぶしか?そう思うほど価値のない会話を、唐突にさえぎったのは、ソファにいる新八だった。
「あぁぁぁ!?銀さん!!た、大変です!!!!!」
その大声に驚いた勢いで、銀時はイスごと後ろに倒れた。床に頭をしたたか打ちつけて、目の前に星が飛ぶ。机から垂れ下がるコードの先の受話器から『旦那ァ?もしもーし?』という沖田の声が聞こえた。
起き上がった銀時が、オイぱっつぁん、うるせぇぞ!と言っている間に、近づいてきた新八が机の上に一枚の写真をバンッと叩きつけた。
「こ、これ見て下さい!こないだ神楽ちゃんと僕で不倫調査した時に撮った写真の、このふたり!!」
「っんだよ新八ぃ~、不倫現場の激写だろ?よく撮れてんじゃねーか、ハゲ社長と巨乳ホステスが腕組んでホテル入ってくとこぉ~」
「ちがいます!こっち!このホテルのわきの細い道を見てください!このふたり……姫子さんとストーカー男です!!」
指さされた写真のはし、建物の間の薄暗い通りに男女が立っている。目をこらして見ると、確かにそれは姫子とニット帽を被った男だった。向かい合うふたりは親しげで、男が姫子に何かを手渡している。
「銀さん、これどういうことですか?このふたりが知り合いだったら、ストーカーの話は嘘ってことですよね?姫子さんって一体何者なんですか?何が目的なんですか?」
矢継ぎばやな新八の質問に、銀時は答えない。
めんどくせーことになりやがった、と思っていると更に予想外のことが起こった。バァンッとガラスが割れそうなほど大きな音を立てて玄関の戸が開くと、神楽が転がるように入ってきたのだ。
めずらしく青ざめて、手には下駄を片方だけ持っている。その下駄の見覚えのある小花柄の鼻緒に気付いた瞬間、銀時はぎょっとして息をのんだ。
「銀ちゃんっ、新八っ、大変ネ!!***が……***が誘拐されたアル!!!」
取り乱しながらも神楽は「風に当たってくる」と言った***が、出て行ったきり戻ってこなかった、と語りだした。いつまでも戻らないのをいぶかしんで外に出ると、若い女のふたり組が神楽に声を掛けてきた。数人の男たちが、***らしき女を抱えて連れ去っていくのを見たという。
「なんで***がそんなことされるアルか?あんな誰にも害のないお人よしの女が、さらわれるわけないネ」
しかし女のひとりが言った言葉に神楽は驚愕した。
「あの人、***さんって言うんだ。背中に傷跡のある人だよね。前にこのお風呂で会った時、痛そうなキズだねって失礼なこと言っちゃったんだけど、怒らないで笑ってくれて、優しい人だと思ったからよく覚えてる……うん、間違いなく連れ去られたのは***さんだよ。ホラ、あそこに落ちてる下駄、***さんのじゃない?」
女が言い終わる前に、神楽は路地に落ちていた下駄を拾うと、一目散に万事屋へと駆け出した。
「銀ちゃん!どうして***が誘拐なんてされるアルか!?なんでヨ!!」
「銀さん、このふたりが関係あるはずです!ストーカーも嘘だし、姫子さんは怪しすぎます!!」
下駄をにぎる神楽と、写真をさしだす新八に見つめられて、銀時は口をつぐんだ。何をどう説明したらいいのか。ぐるぐると思考を回転させて考えこんでいると、遠くの受話器から『おぉ~~い馬鹿ども~~~、俺の話も聞きやがれぇ~~~』と沖田の声がした。頭をガリガリと掻いて電話を耳に当てた銀時が、今それどころじゃないと言うよりも先に、沖田の早口が響いた。
『アンタらが姫子っつってんのは、あの店のキャバ嬢ですかい?もしそうならソイツが店をつぶした主犯でさ。行方不明だった女たちのうちひとりが、摘発された人身売買の密輸船から見つかりやしてね。その姫子って野郎にヤバイ薬を盛られて、ヤクの売人どもにレイプされたあげく、奴隷として天人に売り飛ばされる途中だったんでさぁ』
「なっ……んで、それを早く言わねんだよ!!!!」
沖田の言葉に銀時のひたいから汗が噴き出した。
焦った声で叫ぶと同時に、ふたたび玄関の戸が開く音が部屋に響いた。もしかして***が帰ってきたのか。神楽の話は間違いだったのかと、わずかな望みをかけて目をやった玄関には、姫子が立っていた。
「ごめんくださぁい。銀さん、お家まで送ってもらえますか?」
首をかしげて微笑む姫子の声色は、ほんの少し***に似ていた。わざと真似ているのだと気づいたら、ひどい不快感に吐き気がこみ上げてきた。視界が狭まるほどの怒りを必死でこらえ、受話器を耳に強く押し当てる。その向こうで『旦那、聞いてやす?』と沖田がくり返していた。
「……沖田くん、今すぐパトカー出せ。いち台、万事屋に寄こして。んで、あともう何台かを、」
言うだけ言って返事は聞かずに電話を切った。それなりに有能な沖田がこの機会を逃すはずがない。それにわざわざ万事屋に電話をしてきたのは、銀時と同じように沖田も***を心配しているからだ。
電話を置くとドスドスと足音を立てて、玄関に向かった。ふわりと微笑んだ姫子が「はい、これ、差し入れのプリン」と言って白い箱を差し出す。
「お前っ……———!!!」
玄関の段差を降りた勢いのまま、銀時は姫子の肩を強くつかんだ。悲鳴を上げた姫子の手から、白い箱が落ちていくのがスローモーションで見えた。床石に叩きつけられて、プリンの容器の瓶が割れるガシャンッという大きな音と同時に、銀時の耳に***の声が響いた。
———銀ちゃん、助けてッ!!!!!
ズキズキと頭痛がする。重たいまぶたを開いたら、見知らぬ女の子が***を見下ろしていた。大丈夫?と言った娘は瘦せて顔色が悪く、着物の袖から出る腕には、いくつもの青いアザがあった。ひりひりとノドが痛んで「大丈夫」と答えた***の声は、かすれて言葉にならない。両の手首と足首に手錠がはめられているせいで、起き上がるのもひと苦労だった。
「ここは……あなたたちは……」
部屋には20人ほどの若い女たちがいた。皆、***と同じように腕と脚を拘束されて、疲れ切った顔をしている。ぐったりとして倒れている者までいる。
荒らされた部屋には見覚えがあった。扉の外れたスチールロッカー、横倒しになったソファ、そして床に転がるピンク色のクマの着ぐるみを見て、ここはあの店の控室だと***は気づいた。
「アタシ達はここの元キャバ嬢だよ。アンタと同じように気を失って、知らないうちに誘拐されてたの……それで、」
そこまで言って、娘はワッと泣き出した。不自由な両手を伸ばして、***が震える肩を撫でたら、その子は泣きながら全てを教えてくれた。
この店で働くうちに知らぬ間に薬物中毒になっていた。違法と分かってても買わずにいられず、稼ぎをすべて巻き上げられた。支払いが追い付かなくなり、売人の男たちに「身体で払え」と言われ乱暴された。それすらできないほど薬物依存が進んだ子が、奴隷として天人に売り払われていった。その話を聞いて驚愕した***は、震える声で言った。
「うっ、売り払うなんて、そんなの嘘でしょう?そんな酷いこと、ふつうの人間ができっこない」
「できるのよアイツらなら!女を金ヅルとしか思ってないヤツらだもん!薬漬けで働けなくなって、金も無ければ用済みで、レイプされた子たちが何人も売られたんだからっ……つ、次は私かもしれない……ぅ、うわぁぁぁん!!」
泣き崩れた少女に***の慰めの声は届かない。ぐるりと見まわすと、絶望的な表情の女たち。どんよりとした空気に***も暗い気持ちになる。無理かもしれない、この子たちも私も助からないかも。そう思いかけた頭をぶんぶんと振った。
落ち込むな***、何か手立てがあるはず。そう自分に言い聞かせる。幸運にも***は薬を盛られてないし乱暴もされてない。元気な自分が何かしなきゃと、拘束された両手を見下ろしたら、ふと***の耳にいつの日かのキャサリンの声が蘇ってきた。
———鍵ッ娘キャサリンニ掛カレバ、コンナノ目ェ閉ジテタッテ開ケラレル———
「そっ、そうだ!皆すごいラッキーだよ!実は私、こう見えて手錠外しが得意なの!鍵ッ娘キャサリンならぬ鍵ッ娘***さんが、すぐに全員自由にしてあげるからね!!」
わざと明るい声で言って、***は髪から簪を引き抜いた。まず自分の手足の手錠をすばやく解く。次に泣いている娘の腕を取って、手際よく枷を外したら「わぁ!すごい!」と言って泣き止んだ。うずくまっていた女たちが、私も私もと集まってくる。不自由だった手足が解放されると、みんなホッとして明るい顔になった。
「ねぇ***さん!あのドアの鍵も開けられる?」
女のひとりが目を輝かせて扉を指さした。ドアノブは壊れていて扉自体は簡単に開く。しかし、ドアの外にかかる鎖が南京錠で固定されて、5センチほどの隙間しか開かない。ぶら下がる南京錠を見て、***はため息をつきそうになった。手錠以外の解き方は習ってない。でもここで弱気な顔を見せたら、せっかくの明るい雰囲気が台無しだ。
「も、もちろん!これだって開けられるよ!」
期待に満ちた女たちの視線を背に、***はドアの隙間に腕を入れた。手のひらより大きな南京錠をつかみ、その鍵穴に簪を差し込む。手探りでガチャガチャとしたが、鍵の仕組みが分からない。冷や汗を流す***はそれでも不安を気取られないよう、必死で手を動かし続けた。
———ああっ、全然開かない!神さま仏さまっ、どうか私に力をください!どうやったら開くの!?どうすればいいの!?銀ちゃんならこんなの力ずくで壊しちゃうのに!!もうお願い、銀ちゃん、助けてっ!!!
ガチャッ!!!
「へぁっ!?あっ……開きました!!」
祈るように銀時の名を心のなかで叫びながら、半分やけくそで簪を思い切り強く押したら、偶然にも南京錠は外れた。後ろに立つ女の子たちが「わっ」と嬉しそうな声を上げた。
鎖を解いて***はひとり暗い廊下に出る。数十メートル先に店の裏口があった。裏口に鍵はかかってなかったが、扉の外に見張りの男がひとり座っていた。小太りの男はパイプ椅子で居眠りをしていて、顔を出した***にも全く気づかない。
———今なら、逃げられる……!!!
急いで控室に戻ると、***は女たち全員に「今すぐ逃げよう」と力強い声で言った。
「でも……***さん、ほんとに逃げ切れるかな?途中で捕まったら、もっとひどい目にあうかも。助けがくるのを待ったほうがいいんじゃ……それにここを出たところでどうしたらいいの?ヤク中の私たちを誰が助けてくれるの?刑務所送りなんてヤダよぉ」
女の子たちはひどく怯えた目をしていた。その恐怖も不安も、***は痛いほどよく分かる。己を虐げる相手に従順でいた方が苦しみが少ないと、諦めたくなる気持ちも悲しいほど理解できた。でも、だからこそ、この子達と助かりたいと強く思う。
「みんな、もう十分ひどい目にあってる。無理やり薬を飲まされて苦しかったよね。お金を盗られて嫌だったよね。痛くてしかたがなかったよね、死にそうなほど怖かったよね……こんなにツライ思いをした子たちが刑務所送りになんてなるはずない。そんなこと私が絶対させない。私、皆と全員一緒に助かりたい。だから、来るか分からない助けを待つより、自分たちの足で走って逃げたいです……私ひとりじゃ心細いから、皆も一緒に来てくれないかな?」
こんな状況でも不思議と笑うことができた。多分、この場に銀時がいたら「その馬鹿みてぇな顔すんのやめろ」とあきれるだろう。それほど能天気な笑顔を浮かべた***を見て、女たちは心を決めた。
全員で列になり息をひそめて廊下を進む。小太りの男は相変わらずぐっすりと眠っていた。開けた扉を抑えて***が目で合図すると、女たちは裏口から飛び出していった。
最後のひとりは、いちばん最初に***をのぞきこんでいた少女だった。不安そうに***の手をぎゅっと握る。言葉もなくうなずいて、ふたり一緒に裏口を出ようとした瞬間だった。
「きゃぁぁぁ!誰か、助けてっ!!!」
「っ……!!?」
背後から聞こえた悲鳴にハッとして、***は足を止めた。振りむいた廊下の向こう、控室より先の遠くの店内から、その声は聞こえた。まだ残っている子がいたのかと、反射的に戻ろうとした***の手を、少女が強くつかんで引き留めた。見張りの小太りの男に気づかれないよう息を殺して、娘は早口でまくし立てた。
「***さん、無理だよ!あの子は***さんが来る前に、アイツらに連れてかれたの。きっと今ごろ……っ、もう助からないから、私たちだけでも逃げよう!」
必死な少女の声を聞いて、頭のなかの冷静な***が「この子の言う通りだ、どうせ助けられっこない」と言った。相手が何人いるのかも分からないのに、ひ弱な女ひとりに何ができる。丸腰で後先考えずに飛び出して行くなんて、馬鹿としか言いようがない。
分かりすぎるほど分かっているのに、でも———。
そう思いながら***は小さく微笑んだ。その微笑みを見た少女が息を飲んで目を見開いた。女の子のほほには、まだ涙の跡があった。その顔に***はそっと手を伸ばして、乾いた涙の筋を指で撫でながら、優しい声でささやいた。
「心配してくれて、ありがとう。先に出た子達を連れて、かぶき町の万事屋銀ちゃんっていう店を訪ねてくれますか?そこに銀髪で死んだ魚のような目をした坂田銀時という人がいるから、******が呼んでるって伝えて。万事屋は困ってる人を助けてくれるから、あなたや他の子たちの力になってくれるはずです……私は大丈夫だから、さぁ行って!早く、走って!!」
あっ、と言った少女が呆気に取られているうちに、手を振り払ってその身体をドンッとドアの外に押し出す。すぐさま閉まった扉の向こうで「***さん」と何度か呼ぶ声がしてから、しばらくして駆けだす足音が聞こえた。ハァッと吐いた深いため息が、安堵なのか諦めなのか***にも分からなかった。
うつむくと片方だけ下駄の脱げた足が見える。気を抜くと膝がガタガタ震えてしまうのが情けなかった。背後からは、顔も知らない女が「助けて」と泣き叫ぶ声が聞こえる。
「馬鹿だって分かってる……でも、見捨てられない」
顔を上げた***は、踵を返して駆けだした。
廊下の先にどんな景色があるのか予想もできない。でも昔の記憶と重なる今の状況に、背中の古い傷がズキズキとうずく気がした。弱気になりかけるたび***の耳元で、いつかの夜の優しい銀時の声が響く。その時の言葉が何度も、心を熱くさせた。
———知ってるか***、後先考えずに飛び出して行って、こーゆーでっけぇケガする馬鹿のことを、世間では時々、正義のヒーローって呼ぶこともあんだぞ。誰も助けられなくても、傷しか残らなくても、それでも生き抜いたヤツを可哀そうだなんて俺は思わねぇ……———
こんな無謀なことをして、きっと馬鹿だと怒られる。銀時だけじゃない。神楽や新八、もしかしたらお登勢にまで怒鳴られるかもしれない。それでも***は、走り続ける足を止められなかった。
———正義のヒーローになんて、なれなくていい。私はただ、銀ちゃんの彼女として恥ずかしくない自分でいたいだけ。困っている人を放っておけないのが銀ちゃんだから、どうしたって見捨てられない優しい人だから……だから私は、銀ちゃんのそういう優しさに、ふさわしい人間でありたい———
自然と震え出す両手の指を、***は胸の前でぎゅっと組んだ。願いごとをするみたいに両手を結ぶ。その薬指にはめられた指輪で、赤いプラスチックの宝石が、かぶき町の夜空の星のように弱く、今にも消えそうなほど鈍い光で輝いていた。
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【(35)鈍くて弱い光】end
"星の降る夜"(1)
あなたのいない世界じゃどんな願いも叶わないから