銀ちゃんの愛する女の子
おいしい牛乳(恋人)
おなまえをどうぞ
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
【(30)酒と泪】
眠らない街、かぶき町に酔っ払いが溢れる土曜の夜。スナックお登勢もまた常連客でにぎわい大盛況だ。見慣れた顔ぶれが酔い騒ぐ店内はすこぶる平和で、滞りなく夜が更けていく。
しかし、カウンターのなかに立つ店主のお登勢は煙草を何本も吸いながら、ひどくイラだっていた。
「ちょっと銀時ィ、アンタのその腑抜けたツラ、一発ぶん殴ってやろうか。そうすりゃちったぁ目が覚めるだろ。さっきから聞いてもない話をペラペラペラペラ、うざったいったらありゃしない」
「っんだと、このクソババア!客に向かってぶん殴るたぁ、なんつー口のきき方だゴラァ!こんなしょぼくれた店にわざわざ来てやってんだ、ありがたく愚痴のひとつでも聞きやがれ。黙って酒出せコノヤロー!!」
「金もないヤツに出す酒は無いね。アンタみたいなたちの悪い客は、最初っからお断りだよ。とっとと帰んな」
開店直後にふらっと入ってきた銀時は、既にどこかで酒を引っかけてきた後で、ほろ酔いの赤らんだ顔をしていた。カウンターの壁側いちばん端の席に座り、行儀悪く頬杖をついて聞いてもないのにペラペラと喋り出す。お情けで一杯だけ酒を出してやった後、お登勢は聞くともなしに銀時の声に耳を傾けていた。しかし、その話のあまりのくだらなさに呆れ返って、ついに声を荒げたのだった。
「それじゃぁ何かい、アンタ、***ちゃんが警察のヤツらに着物を弁償されたのが気に食わないってーのかい?別にあの子が自分からねだって買ってもらったわけじゃあるまいし、それをネチネチ言ったって仕方がないじゃないさ。そんな女々しいこと言って、銀時、アンタ自分が情けなくないのかい」
「だぁぁぁ~から、それだけじゃねーんだよ!着物だけじゃなくて、***の簪までソイツが持ってたんだっつーの!服しかり簪しかり、女がテメェの身に着けるもんをやすやすと他人に預けんなって言ってんのぉ~!俺は***をそんなチャラついた子に育てた覚えはねぇんだけど。アイツがぼけっとしてるせいで、悪い虫がどんどん群がってくんだけどぉ。***って何なの?ゴキブリポイポイなの?彼女が困ったヤツのせいで、こちとら頭がパーンする寸前なんですけどぉぉぉ~~!!!」
「困ったヤツはアンタだよ、銀時。そもそもアンタが女とふたりで喫茶店なんかに行くのが悪いのさ。パフェごときで釣られて、ゴキブリみたいにホイホイ出て行って、そっちの方がよっぽどチャラついてるよ。***ちゃんが逃げ出すのだって当然さ。アタシだったらこんなヤツはとっくにお払い箱だね。それなのに、あの子は怒りもしないし疑いもしなかったんだろ?まったく、アンタみたいな馬鹿にはもったいないくらいの、出来た彼女だよ***ちゃんは!」
ケッ!と言ってそっぽを向いた銀時の横顔には、イラだちよりも焦りがにじんでいた。欲しいものが手に入らない子どもが、地団駄を踏んで悔しがっているみたいに。お登勢は腕を組んで煙草を吹かすと、その横顔をじっと見つめる。数週間前、逃げ出した***を探して、開店準備中のスナックに飛び込んできた時も、この男は同じ顔をしていた。
『***来てるか!?ババァ、アイツ見た!?』
つめ寄ってきた時の銀時は、普段のヤル気のない顔からは想像できないほど切実な表情をしていた。いつもは飄々として、死んだ魚のような目をしている男が、***のことに関してはひどく感情的になる。
思い返せば***と付き合う前から、銀時はそうだったと気付いて、お登勢は呆れたように小さく笑った。ふたりが出会った時からずっと、銀時は***の周りをウロウロする犬のようだった。頼りない主人を必死で守ろうとする犬の、忠誠心が強ければ強いほど、見返りに求める愛情も大きくなる。
———本当にどうしようもない男だね。自分が***ちゃんに何を求めてて、何に怒ってるのかもよく分かってないくせに、あの子のことばかり責めちまってさ……これじゃぁ飼い主の愛情を確かめようと、いたずらしたり甘噛みしたりする犬と一緒だよ、まったく……
「要するにさ銀時、アンタは***ちゃんが怒らなかったのが不満なんだろう?あの子の服のひとつ簪のひとつで、自分は大騒ぎしてるっていうのに、他の女と一緒にいるアンタを見ても、あの子が笑ってすませたのが物足りなかったんじゃないのかい?本当に憐れな男だね。***ちゃんがヤキモチでも焼いて、小言のひとつでも言ってくれりゃー満足かい?」
「オイオイオイオイ、何言ってんだよババァ。年寄りはもう寝る時間か?せめて寝言は寝てから言えよな。ドSの俺がそんなこと思うわけねーだろ。ヤキモチなんざ***に焼かせるくらいなら、おしるこにぶち込んで俺が食うっつーのぉ。んなくだらねぇこといちいち気にするかよ、童貞じゃあるまいし。どいつもこいつもワケわかんねぇ勘違いばっかしやがって、そんなんじゃねぇよコノヤロー、俺はただ***が……」
口ごもった銀時が空のグラスをテーブルにドンッと置く。お登勢の視線から逃げるように、赤い瞳は気まずそうに宙を泳いだ。銀髪をガシガシと掻きむしって、あ゙~~~っと声を上げた後、ようやく言葉を続けた。
「……俺は***が……死んじまいそーな青い顔してたアイツが、あっけらかんとしてんのが納得いかねぇんだよ。ず~っと空元気にヘラヘラ笑って、何にも言ってこないのが気に食わねぇんだよ、ちくしょぉ~……」
長く女を生きてきて、こんな街でスナックを営んでいれば、恋愛の何たるかは知り尽くしている。あらゆる恋人たちをお登勢は見てきた。想い合いで長く続く恋も、ふとしたすれ違いでダメになる恋も数多あった。
人一倍独占欲が強いくせにあまのじゃくな銀時の相手は、***のような小娘には荷が重い。ましてや万事屋なんて稼業なら尚更。純情で一途な***が銀時と付き合うことで、どれほど苦労をしているかと思ったら、お登勢の胸はチクチクと痛んだ。
「いつまでもグチグチ言ってないで、アンタは少し***ちゃんを見習ったらどうだい。あんなに物わかりのいい娘、そうそう居ないよ。なんでも屋なんてやってる男と付き合って、よその女と一緒にいることにも何も言わないってのはさ、それだけ***ちゃんがアンタを信じてるって証拠じゃないかい。若い女が健気で泣かせるよ。それを気に食わないなんて言うのはね銀時、アンタのひとりよがりのワガママだよ」
説き伏せるように言ったお登勢を、銀時は悔しそうに睨んでいた。この男は馬鹿だが愚かではない。***の気持ちなんてよく分かっている。ただそれが自分の思った形で表現されなかったのが不満なだけで。
「クソッ、老いぼれが説教垂れやがって、余計なお世話だっつーの!っんだよ、***のヤロー、いままでさんざん金魚のフンみてぇに銀ちゃん銀ちゃんって付きまとってきたくせに。うるせぇくらい好き好きって引っ付いてきたくせに。なに急に大人しくなってんだよ……なんなんだよソレ。マジで意味分かんねぇ。女ってなんなんだよコノヤロォォォ……」
そう言った銀時の頬杖をつく腕がぐらっと傾いて、赤らんだ顔がずるずると滑っていった。テーブルの上で腕を組むと、顔を横向きに倒して瞳を閉じる。ちょっと寝んじゃないよ、とお登勢が言い終わる前に、既に寝息を立てはじめていた。
タダ酒で酔っ払って、愚痴を吐き散らした挙句に寝てしまうような最低な客を、どうやって放り出してやろうかと考えていたところで、店の引き戸が開いた。
「お登勢さん、こんばんは。銀ちゃん、来てますか?」
開いた引き戸の隙間から、***がひょこっと顔を出す。お登勢がカウンター越しに突っ伏した銀時を指さすと、***は苦笑いを浮かべた。だらしなく開いた銀時の口から「ぐごぉぉぉぉ」といびきが鳴っていた。
「あらら、ちょ、ちょっと銀ちゃん……ねぇ、起きてください!お店に迷惑だよ。もうすぐご飯できるから帰りましょう。新八くんと神楽ちゃんがカレー作ってくれてるから、ねぇ、銀ちゃん!」
***が顔をのぞきこみながら声を掛けて、背中をゆすっても銀時は全く目覚めない。ぐーすかと眠りこける銀髪頭に向かって、お登勢が酒瓶を振り下ろそうとしたら、***がぎょっとした顔で押しとどめた。
「すっ、すみません、お登勢さん……もしかして銀ちゃん、だいぶお酒飲んでましたか?」
「大して飲んでないけどねぇ。悪酔いして野暮ったいことぐちぐち喋って、そのまま寝ちまったよ」
寝ている銀時の前髪を、***が指先でそっと払う。眉間にシワの寄ったしかめツラの寝顔が露わになった。
そのまま銀色の髪を撫でようとした***の手が、怖がるようにふと止まる。小さな手は宙をさまよった後、細い指をぎゅっと握りしめた。
ヨダレを垂らす寝顔を愛おしそうに見ていた***が、お登勢の視線に気付くと、眉を下げて困ったように笑った。その微笑みはどこか寂しそうに見えた。
「***ちゃん、なにか飲んでいくかい。まだ夕飯まで、少し時間があるだろう?」
「えっ、あ、で、でも私、お酒飲めないので、」
「オレンジジュースでいいね」
戸惑う***を制して、銀時の隣に座らせる。酔客だらけの店内で、背筋をすっと伸ばして椅子に座った***の姿は、花のように凛としていた。
はじめてこの店に***が来た時のことを、お登勢は思い出す。銀時に連れて来られ、松葉杖をついてひょこひょこ歩いていたっけ。ふとした瞬間の無防備な顔や、笑った時のあどけなさは変わらないのに、あの頃の子どもっぽさはもう、今の***にはない。
水色の着物は朝露のように爽やかで、***によく似合っていた。無地の反物はひと目で上質だと分かる。細部までこだわって仕立てられた服は、***を普段より大人っぽく見せていた。
「それが真選組にもらった呉服かい?よく似合ってるじゃないか***ちゃん。ぐーすか寝てるこの馬鹿が、くだらないイチャモンつけただろうけど耳を貸さなくていいんだよ。その服はアンタが一生懸命働いて、いろんな人に親切にしてきた褒美みたいなもんなんだからさ」
「ありがとうございます、お登勢さん。私には上品すぎて、着るのは気が引けるんですけど……でも、これくらい背伸びしてもいいかなって」
「背伸びなんかじゃなく、アンタにぴったりだよ。ずいぶんと大人びてアタシは驚いたくらいさ」
えへへ、と恥ずかしそうに笑って、***は長い髪を耳にかけた。眠っている銀時にちらりと視線を落とした***のすぐ真横に、のんきな寝顔と組んだ腕の左手が置かれていた。
銀時の白い着流しの左袖を見て、***はふと何かに気付いた。あれ、と言いながら細い指先がつまんだ袖口に、茶色いシミがついている。
「やだ銀ちゃん、袖にシミがついてる……お登勢さん、なんでしょうこれ、なんかベタベタして、チョコレートかなぁ?」
「なんだい汚いね。子どもみたいに汚しちまって。どうせまたどっかでパフェでも食ったんだろ。いい大人がシミだらけの服で出歩いて、恥ずかしくないのかねぇ」
「っっ………!!」
何の気もなしにお登勢が発した言葉に、とつぜん***の肩がびくりと震えた。
銀時の袖のシミを食い入るように見つめた後、ばっと背けた顔がみるみるうちに青ざめていく。震える両手がすがるようにグラスをつかんだら、波立つオレンジジュースの中で氷がカラカラとうるさく鳴った。
「ちょいと***ちゃん、どうしたのさ?急に真っ青になっちまって……気分でも悪いのかい?」
「ぉ、お登勢さん、どうしよう……わ、私っ、」
———私、銀ちゃんの彼女、失格かもしれない……!
か細く震える声で***がそう言った。
驚いたお登勢は「何言ってるのさ」と言いかけたが、***の瞳が涙で潤みはじめたので、口をつぐんだ。ぽたっと大きな音を立てて涙粒がひとつ落ちたら、雫は後から後から溢れだす。***が手のひらでほほを拭っても追いつかず、テーブルに透明のシミがいくつもできた。
「お登勢さ、やだ、な、泣きたく、ないのに……」
「そんなに弱気になって、***ちゃんらしくないじゃないか。どうしたんだい?銀時に何かひどいことでも言われたのかい?」
ふるふるとかぶりを振って、***は必死に「違うんです」と言った。涙をぬぐいながら何度も髪を耳にかける。泣きながら深く悩んでいる姿が苦しそうで、お登勢がたまらず「言ってごらんよ」と促すと、ようやく***は口を開いた。
「すこし前に銀ちゃんが、その……女の人とふたりでいるのを見てからずっと……私、不安でしかたがないんです。万事屋に銀ちゃんがいないと、どこにいるんだろう、誰と一緒なんだろうって心配になって……そんなこと思いたくないのに、このチョコの汚れもどこでついたのか、誰と一緒だったのか、無意識に気になっちゃう……こんな、銀ちゃんを疑うようなこと、したくないのにッ」
両腕で自分の身体を抱くようにした***に、お登勢は胸がつまった。他人とデートまがいのことする恋人を見たら、誰だって不安になる。ましてや***のような若い娘なら疑って当然なのに、それを彼女失格だなんて大袈裟だ。小刻みに揺れる***の肩をぽんっと優しく叩いて、お登勢は励ますように言った。
「不安になるのは当たり前さ。惚れた男がよその女と密会してんの見て、嫌じゃない女なんていやしないよ。ましてや銀時みたいなちゃらんぽらんな男は、気にしすぎなほど心配したっていいくらいさ。遠慮せずにどこで誰と何してんだって聞きゃぁいい。もしも、この馬鹿が間違いを起こすようなことがあったら、それを叱ってやれんのは***ちゃんだけなんだ。銀時はアンタの彼氏なんだからさ」
きっぱりとした口調でお登勢がそう言うと、***の身体から力が抜けた。「あぁ」と諦めるようなため息を吐いて、小さな肩がすとんと落ちる。
ほほに残る涙の跡を手でぬぐった***は、意外なことに首を横にふった。潤んだ瞳はどこまでも澄きとおり、お登勢が戸惑うほど切実な光を宿して、じっと見つめ返してきた。
「お登勢さん、私……困ってる人を放っておけない銀ちゃんが好きです。今までに私は何度も、銀ちゃんに助けてもらったから、それがどんなにありがたいことか、よく分かってます。だからこそ、そうやって頑張ってる銀ちゃんを疑ったり、不安になったりする自分がイヤなんです……こんな着物で大人になった気がしても、中身はワガママな子どもと同じで……いつか銀ちゃんの足手まといになりそうで、そんな自分が怖くてたまらない……銀ちゃんが女の人と一緒にいることよりも……か、彼女は私なのにって妬んでる自分の方が、ずっと恐ろしい。だってそんなの銀ちゃんの相手にふさわしくない。早く変わらなきゃって、もっと大人にならなきゃって、私、ずっと思ってるんです」
震える声がよどみなく言った言葉はおそらく、***が何度も悩み、考え抜いてたどり着いた答えだ。煙草を指に挟んだ手でおでこを抑えると、お登勢は「はぁ~」とため息を吐く。
突っ伏した銀時は、あいかわらず熟睡している。のんきな寝顔に、鬼嫁の酒瓶をもう一度振り下ろしたくなったが、どうせ***が止めるからやめた。
———女は一生の幸せを欲しがり、男は一時の快楽を求める、っていうのはよくある話だけどねぇ。それにしたって、なんの因果でこんなに純粋な子が、銀時みたいなヤツに惚れちまったんだか……
「つまりさ、***ちゃん……アンタは銀時の仕事を邪魔しないために、自分の気持ちを押し殺そうっていうのかい?それがどんだけツライことか、分かってて言ってんだろうね?」
「はい、分かってます。ずっと銀ちゃんと一緒にいられるなら、私、どんなにツラくても耐えます」
即座に返ってきた答えと、真剣なまなざしに呆気に取られたお登勢は、この娘はとんでもない女だと思った。
銀時とは違って***は馬鹿ではない、しかし呆れるほど愚かな女だ。自分の選択がどれほど苦しいものか分かっていながら、それを選ぶことをためらわないなんて、馬鹿げている。しかし、そんな愚かな***の願いに比べたら、銀時が求めていることなんて鼻くそほどちっぽけに見えた。
凛とたたずむ***を見つめて、世間知らずの田舎娘がいい女になったと、お登勢は微笑んだ。出会った時からずっと、銀時への一途な思いは薄まることなく、時がたつほど強まるばかりだ。あともう一歩この子に、腑抜けた男を尻に敷くくらいの力量があれば、若い頃の自分にも負けない。そう思いながらお登勢は、自嘲気味にフッと笑った。向こう見ずでなりふり構わない若い純情に老婆心が働いて、お登勢は優しい声で語りかけた。
「***ちゃんにとって、銀時がいちばん大事だってことは、よぉ~く分かったよ。おかしな男の彼女なだけあって、アンタも相当変わりもんだねぇ……でもアタシはそういう変わりもんがめっぽう好きさ。***ちゃん、ツラくなったらいつでも言いに来な。アンタが出来ないなら、アタシが代わりにコイツをぶん殴ってやるよ。だから、もう彼女失格だなんて言わないで、シャンとして笑ってりゃいいじゃないか」
「はい、私、銀ちゃんの……その、か、彼女としてもっと頑張ります……あの、急に取り乱して泣いたりしてごめんなさい。お登勢さんの顔を見たら、気が緩んじゃって……」
「いいんだよ、***ちゃん。こういう店に酒と泪はつきものさ。飲みたいだけ飲んで泣きたいだけ泣いて、イヤなことは全部水に流しちまえばいい。ま、アンタは酒は飲んじゃいないけどね」
そう言って顔を見合わせたら、どちらからともなく吹き出した。赤くなった目元をゆるませて、くすくすと笑う***の表情は清々しい。ジュースのおかわりを出しながら、お登勢が眠りこける銀時の悪口を言ったら、***は鈴が鳴るような声でけらけらと笑った。
「ねぇ、君、この店でなにしてるの?」
「えっ……?」
お登勢と***がたわいない世間話をしていると、思いもよらない邪魔が入った。常連ではない若い男性客が、カウンター席の***の隣に座って、話しかけてきた。面食らいながらも***が人当たりのいい笑みを浮かべるものだから、男は勢いを増して前のめりになった。
「君さっきからジュースだけで、全然飲んでないよね。酒も飲まないのに飲み屋に居るってことは、出会いでも求めに来てるんじゃない?」
「ち、ちがいますっ!私そんなんじゃ、」
「ねぇ、せっかくだから俺と一緒に別の店に行かない?もっといい店に連れて行ってあげるからさ」
「ちょっとお客さん、その子はアタシの知り合いだよ。女を引っかけたいんだったら、ここじゃなく花街へ行きなよ。さっさと出てってくんな」
お登勢の声を無視した男は、***をジロジロと眺めながら、その細い腕をつかんだ。行こうよ、と言った男に腕を引かれて***は椅子から下ろされた。充血した瞳を泳がせて「嫌です、やめてください」と言う。
しびれを切らした男が、***の華奢な肩に腕を回そうとした瞬間のことだった———
ガタンッッッ!!!
「ちょっとぉぉぉ、お兄さぁぁぁん!悪いんだけどさぁ!!コイツ俺んだからぁぁぁ!!!」
「きゃあッッ!!?ぎ……銀ちゃん!!?」
いきなり立ち上がった銀時が、後ろから***の肩をつかんで抱き寄せた。太い腕を小さな身体の前に回して、右手で***の左肩をつかむと、ぐいっと男から引き離す。もう一方の手では、男の腕をひねり上げていた。痛みに顔を歪めた男が「なんなんだお前!」と声を荒げたが、銀時は涼しい顔で返した。
「なんなんだってそりゃぁ、俺はコイツの彼氏で、コイツは俺の彼女に決まってんだろーが!ナンパすんのは構わねぇけど、気安く俺の女に触んないでくれる?お兄さんみたいな人はここじゃなくて、キャバクラとか行った方がいいんじゃねーの?いい店紹介してやるよ。‟桃色くまさん”っつーんだけどさ、女に群がるゴキブリみてぇな、お兄さんにそっくりの客がウジャウジャいるから、多分気に入ると思うよ。ホイ、これ電話番号ね」
パッと離した手で紙切れを差し出した銀時を、男は怒りに満ちた目で見た。しかし冷ややかな笑みを浮かべた銀時が、瞳だけでギロリと睨みつけたら、男はあっという間に店から出て行った。
お登勢はその一部始終を何も言わずに見ていたが、背後から抱き寄せられた***には、銀時の顔すら見えていなかった。包み込まれた腕のなかで、驚いた***はただ口をぽかんと開けていた。
「ったくよ~……人が気持ちよく寝れそうだったっつーのに、耳元でギャーギャーギャーギャー騒ぎやがって、お前らは発情期ですかコノヤロォォォ!どいつもこいつもガキみてぇにうるせーんだよ。っつーか、なんなんだよあのナンパ野郎は!?あんな客入れてんじゃねーよクソババァ!!***も***だぞ。あんな変態にやすやすと付け込まれてんじゃねぇっつーの!!!」
「ごごご、ごめんね銀ちゃん、私、びっくりしちゃって」
気だるげに頭をガリガリとかく銀時の腕のなかで、慌てた***がくるりとふり返り、ふたりは向き合った。ナンパしてきた男よりも、突然目覚めた銀時に***は驚いていて、その顔は戸惑いを隠せない。お登勢は静かに煙草を吸いながら、銀時と***をじっと眺めていた。そして、ある違和感に気付いてゆっくりと口を開く。
「銀時……アンタ、いつ起きたんだい?」
「あ゙ぁん?いつ起きたっつーか……別に寝てねぇけど。もうちょっとで夢の世界へフライアウェイできそうだったのに、オメーらがうるくて寝れなかったって言っただろーが」
「へっ………!!?」
すっとんきょうな声を上げた***が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。その顔を見下ろして、銀時はゲラゲラと笑い出した。
「お前、すぐそのマヌケヅラするよな」
笑いまじりの言葉は、***の耳には入らない。ぽかんとしていた顔が一瞬ぎくりと強張ってから、急に引きつる。必死で笑おうとした小さな唇がわななきながら「ぎ、銀ちゃん、嘘でしょう?」と言った。
ニヤニヤと笑った銀時が「んー、なにが?」と聞き返しながら、***の両肩をガシッとつかんだ。
「嘘って何?銀さん、嘘ついてねーけど?***は何が嘘だと思ってんだよ、なぁ?」
「っ……だ、だって、銀ちゃん、さっきまでいびきかいて寝てたよね?ヨダレも垂らして……な、何も聞いてないよね?いま、起きたばっかり、ですよね?」
すがるような目で***はそう言うと、銀時の黒いシャツの胸元を両手でぎゅっと握りしめた。
「あんだよ***~、お前まで銀さんを疑ってんの?だから、起きてたんだってずっと……***がこれをチョコレートっつってた時から」
「っっ……!!!」
白い着流しの左袖、その袖口の茶色いシミを眼前に突き出されて、***はハッと息を飲む。あわあわとしながら見開いた大きな瞳のなかで、黒目がおびえるように揺れはじめた。
「っぎ、銀ちゃっ……、」
「ちなみに***、お前勘違いしてんぞ。これチョコレートじゃねーから。パフェなんざ食ってねぇから。っつーかパフェは週イチでしか食えねーから。これチョコじゃなくて、みたらしのタレだわ。昼間に団子食ったんだよ団子。んで、食ってる途中で礼儀のなってねぇ犬に1本盗まれて、すったもんだした時についたんだな多分……っつーことでぇ、***ちゃ~ん!もぉ心配しなくても大丈夫ですよぉ~!!銀さんはひとりで団子食ってただけですからねぇ~~!!そんなんで不安になってシクシク泣かなくていいんですよぉぉぉ~~~!!!」
「ッッ———!!!」
異様なほど嬉々とした声でそう言った銀時は、***の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。乱れた長い髪のなかで、***の顔はさぁーっと青ざめていく。反論するどころか声も出ない。呼吸さえ忘れて、ただおびえるように銀時を見上げていた。
さっきよりも取り乱した様子を心配したお登勢が、声を掛けようとしたが、それよりも先に***が動いた。
ガタンッッ!!!
跳ねるように***が踵を返す。その身体に当たったカウンターのイスがグラついた。銀時の腕の中から脱け出て、***はまっすぐに出口へと駆け出そうとした。乱れた髪もそのままの顔には「逃げなきゃ」という文字が書かれているようだ。
しかし、銀時がそれを許さない。華奢な手首を大きな手でつかんで引き留めたら、***の小さな身体がぐんっと後ろに引き戻された。おそるおそる振り返った***は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。それを見下ろしてドス黒い笑顔を浮かべた銀時が、地の底を這うような低い声を出した。
「逃がさねぇよ***……もう逃がさねぇ」
「あ、ぅ、ぎっ……ゃ、やだっ……!」
ヤダじゃねーし、と言いながら、銀時は***の手首をつかんだまま歩き出す。お登勢が「その子をどうする気だい?」と叫ぶと、ニヤつきながら振り返り、心底楽しそうな声で答えた。
「うるせーなクソババァ、あいにく俺ァオメーなんかに殴られたって反省しねぇ男だから。テメェの彼女ぴーぴー泣かせて、ちょっくら楽しんでくるわ。こっからは若ぇモンの時間なんで、年寄りは大人しく歯ァ磨いて寝ろっつーの……よ~~し、そんじゃぁ***~~、ちょ~っと銀さんと仲良くお話しよっかぁぁぁ~~!!」
「ひぃっ……!お、お登勢さんッ!!!」
真っ青な顔をした***が、お登勢に助けを求めた。だが何もしてやれることのないお登勢は、呆れかえった顔で首を横に振る。
ナンパ男から引き離すために、後ろから***を抱き寄せた時の銀時は、主人を守る忠犬のようだった。男を追い払った時の敵意丸出しの顔は、怒りに満ちた狂犬のようだった。そして***の腕をつかんで逃すまいとした時は、まるで獲物を見つけた獣のような目をしていた。お登勢はその全てを見ていた。
そして今、ガタガタと震える***を、ウキウキとした銀時が引きずっていく。その銀時の後ろ姿はまるで、喜びに尻尾をふりまくる大型犬のようだ。
———まったくどっちが金魚のフンなんだか……しょげかえってた憐れな犬が、主人の優しさを知った途端、大喜びして獣にまでなっちまうなんてね……飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったもんだ。***ちゃんもそりゃぁ苦労するだろうね、あんな手に負えない野犬を飼っちまってさ
「銀時ィ、無茶なことして***ちゃんを傷つけたら、タダじゃおかないよ」
その声は誰にも届かない。銀時と***は足早に、あっという間に店から出て行った。ビシャンッと乱暴に閉められた引き戸を見つめて、お登勢は深いため息とともにフッと小さく笑った。
あいかわらず店はにぎやかなのに、銀時と***がいなくなった途端、静かになった気がする。
大騒ぎする馬鹿な男と発狂しそうな愚かな女が消えて、スナックの夜はすこぶる平和だった。
-------------------------------------------------
【(30)酒と泪】end
‟彼と彼女の大狂騒 中篇”
近づきたいよ君の理想に
眠らない街、かぶき町に酔っ払いが溢れる土曜の夜。スナックお登勢もまた常連客でにぎわい大盛況だ。見慣れた顔ぶれが酔い騒ぐ店内はすこぶる平和で、滞りなく夜が更けていく。
しかし、カウンターのなかに立つ店主のお登勢は煙草を何本も吸いながら、ひどくイラだっていた。
「ちょっと銀時ィ、アンタのその腑抜けたツラ、一発ぶん殴ってやろうか。そうすりゃちったぁ目が覚めるだろ。さっきから聞いてもない話をペラペラペラペラ、うざったいったらありゃしない」
「っんだと、このクソババア!客に向かってぶん殴るたぁ、なんつー口のきき方だゴラァ!こんなしょぼくれた店にわざわざ来てやってんだ、ありがたく愚痴のひとつでも聞きやがれ。黙って酒出せコノヤロー!!」
「金もないヤツに出す酒は無いね。アンタみたいなたちの悪い客は、最初っからお断りだよ。とっとと帰んな」
開店直後にふらっと入ってきた銀時は、既にどこかで酒を引っかけてきた後で、ほろ酔いの赤らんだ顔をしていた。カウンターの壁側いちばん端の席に座り、行儀悪く頬杖をついて聞いてもないのにペラペラと喋り出す。お情けで一杯だけ酒を出してやった後、お登勢は聞くともなしに銀時の声に耳を傾けていた。しかし、その話のあまりのくだらなさに呆れ返って、ついに声を荒げたのだった。
「それじゃぁ何かい、アンタ、***ちゃんが警察のヤツらに着物を弁償されたのが気に食わないってーのかい?別にあの子が自分からねだって買ってもらったわけじゃあるまいし、それをネチネチ言ったって仕方がないじゃないさ。そんな女々しいこと言って、銀時、アンタ自分が情けなくないのかい」
「だぁぁぁ~から、それだけじゃねーんだよ!着物だけじゃなくて、***の簪までソイツが持ってたんだっつーの!服しかり簪しかり、女がテメェの身に着けるもんをやすやすと他人に預けんなって言ってんのぉ~!俺は***をそんなチャラついた子に育てた覚えはねぇんだけど。アイツがぼけっとしてるせいで、悪い虫がどんどん群がってくんだけどぉ。***って何なの?ゴキブリポイポイなの?彼女が困ったヤツのせいで、こちとら頭がパーンする寸前なんですけどぉぉぉ~~!!!」
「困ったヤツはアンタだよ、銀時。そもそもアンタが女とふたりで喫茶店なんかに行くのが悪いのさ。パフェごときで釣られて、ゴキブリみたいにホイホイ出て行って、そっちの方がよっぽどチャラついてるよ。***ちゃんが逃げ出すのだって当然さ。アタシだったらこんなヤツはとっくにお払い箱だね。それなのに、あの子は怒りもしないし疑いもしなかったんだろ?まったく、アンタみたいな馬鹿にはもったいないくらいの、出来た彼女だよ***ちゃんは!」
ケッ!と言ってそっぽを向いた銀時の横顔には、イラだちよりも焦りがにじんでいた。欲しいものが手に入らない子どもが、地団駄を踏んで悔しがっているみたいに。お登勢は腕を組んで煙草を吹かすと、その横顔をじっと見つめる。数週間前、逃げ出した***を探して、開店準備中のスナックに飛び込んできた時も、この男は同じ顔をしていた。
『***来てるか!?ババァ、アイツ見た!?』
つめ寄ってきた時の銀時は、普段のヤル気のない顔からは想像できないほど切実な表情をしていた。いつもは飄々として、死んだ魚のような目をしている男が、***のことに関してはひどく感情的になる。
思い返せば***と付き合う前から、銀時はそうだったと気付いて、お登勢は呆れたように小さく笑った。ふたりが出会った時からずっと、銀時は***の周りをウロウロする犬のようだった。頼りない主人を必死で守ろうとする犬の、忠誠心が強ければ強いほど、見返りに求める愛情も大きくなる。
———本当にどうしようもない男だね。自分が***ちゃんに何を求めてて、何に怒ってるのかもよく分かってないくせに、あの子のことばかり責めちまってさ……これじゃぁ飼い主の愛情を確かめようと、いたずらしたり甘噛みしたりする犬と一緒だよ、まったく……
「要するにさ銀時、アンタは***ちゃんが怒らなかったのが不満なんだろう?あの子の服のひとつ簪のひとつで、自分は大騒ぎしてるっていうのに、他の女と一緒にいるアンタを見ても、あの子が笑ってすませたのが物足りなかったんじゃないのかい?本当に憐れな男だね。***ちゃんがヤキモチでも焼いて、小言のひとつでも言ってくれりゃー満足かい?」
「オイオイオイオイ、何言ってんだよババァ。年寄りはもう寝る時間か?せめて寝言は寝てから言えよな。ドSの俺がそんなこと思うわけねーだろ。ヤキモチなんざ***に焼かせるくらいなら、おしるこにぶち込んで俺が食うっつーのぉ。んなくだらねぇこといちいち気にするかよ、童貞じゃあるまいし。どいつもこいつもワケわかんねぇ勘違いばっかしやがって、そんなんじゃねぇよコノヤロー、俺はただ***が……」
口ごもった銀時が空のグラスをテーブルにドンッと置く。お登勢の視線から逃げるように、赤い瞳は気まずそうに宙を泳いだ。銀髪をガシガシと掻きむしって、あ゙~~~っと声を上げた後、ようやく言葉を続けた。
「……俺は***が……死んじまいそーな青い顔してたアイツが、あっけらかんとしてんのが納得いかねぇんだよ。ず~っと空元気にヘラヘラ笑って、何にも言ってこないのが気に食わねぇんだよ、ちくしょぉ~……」
長く女を生きてきて、こんな街でスナックを営んでいれば、恋愛の何たるかは知り尽くしている。あらゆる恋人たちをお登勢は見てきた。想い合いで長く続く恋も、ふとしたすれ違いでダメになる恋も数多あった。
人一倍独占欲が強いくせにあまのじゃくな銀時の相手は、***のような小娘には荷が重い。ましてや万事屋なんて稼業なら尚更。純情で一途な***が銀時と付き合うことで、どれほど苦労をしているかと思ったら、お登勢の胸はチクチクと痛んだ。
「いつまでもグチグチ言ってないで、アンタは少し***ちゃんを見習ったらどうだい。あんなに物わかりのいい娘、そうそう居ないよ。なんでも屋なんてやってる男と付き合って、よその女と一緒にいることにも何も言わないってのはさ、それだけ***ちゃんがアンタを信じてるって証拠じゃないかい。若い女が健気で泣かせるよ。それを気に食わないなんて言うのはね銀時、アンタのひとりよがりのワガママだよ」
説き伏せるように言ったお登勢を、銀時は悔しそうに睨んでいた。この男は馬鹿だが愚かではない。***の気持ちなんてよく分かっている。ただそれが自分の思った形で表現されなかったのが不満なだけで。
「クソッ、老いぼれが説教垂れやがって、余計なお世話だっつーの!っんだよ、***のヤロー、いままでさんざん金魚のフンみてぇに銀ちゃん銀ちゃんって付きまとってきたくせに。うるせぇくらい好き好きって引っ付いてきたくせに。なに急に大人しくなってんだよ……なんなんだよソレ。マジで意味分かんねぇ。女ってなんなんだよコノヤロォォォ……」
そう言った銀時の頬杖をつく腕がぐらっと傾いて、赤らんだ顔がずるずると滑っていった。テーブルの上で腕を組むと、顔を横向きに倒して瞳を閉じる。ちょっと寝んじゃないよ、とお登勢が言い終わる前に、既に寝息を立てはじめていた。
タダ酒で酔っ払って、愚痴を吐き散らした挙句に寝てしまうような最低な客を、どうやって放り出してやろうかと考えていたところで、店の引き戸が開いた。
「お登勢さん、こんばんは。銀ちゃん、来てますか?」
開いた引き戸の隙間から、***がひょこっと顔を出す。お登勢がカウンター越しに突っ伏した銀時を指さすと、***は苦笑いを浮かべた。だらしなく開いた銀時の口から「ぐごぉぉぉぉ」といびきが鳴っていた。
「あらら、ちょ、ちょっと銀ちゃん……ねぇ、起きてください!お店に迷惑だよ。もうすぐご飯できるから帰りましょう。新八くんと神楽ちゃんがカレー作ってくれてるから、ねぇ、銀ちゃん!」
***が顔をのぞきこみながら声を掛けて、背中をゆすっても銀時は全く目覚めない。ぐーすかと眠りこける銀髪頭に向かって、お登勢が酒瓶を振り下ろそうとしたら、***がぎょっとした顔で押しとどめた。
「すっ、すみません、お登勢さん……もしかして銀ちゃん、だいぶお酒飲んでましたか?」
「大して飲んでないけどねぇ。悪酔いして野暮ったいことぐちぐち喋って、そのまま寝ちまったよ」
寝ている銀時の前髪を、***が指先でそっと払う。眉間にシワの寄ったしかめツラの寝顔が露わになった。
そのまま銀色の髪を撫でようとした***の手が、怖がるようにふと止まる。小さな手は宙をさまよった後、細い指をぎゅっと握りしめた。
ヨダレを垂らす寝顔を愛おしそうに見ていた***が、お登勢の視線に気付くと、眉を下げて困ったように笑った。その微笑みはどこか寂しそうに見えた。
「***ちゃん、なにか飲んでいくかい。まだ夕飯まで、少し時間があるだろう?」
「えっ、あ、で、でも私、お酒飲めないので、」
「オレンジジュースでいいね」
戸惑う***を制して、銀時の隣に座らせる。酔客だらけの店内で、背筋をすっと伸ばして椅子に座った***の姿は、花のように凛としていた。
はじめてこの店に***が来た時のことを、お登勢は思い出す。銀時に連れて来られ、松葉杖をついてひょこひょこ歩いていたっけ。ふとした瞬間の無防備な顔や、笑った時のあどけなさは変わらないのに、あの頃の子どもっぽさはもう、今の***にはない。
水色の着物は朝露のように爽やかで、***によく似合っていた。無地の反物はひと目で上質だと分かる。細部までこだわって仕立てられた服は、***を普段より大人っぽく見せていた。
「それが真選組にもらった呉服かい?よく似合ってるじゃないか***ちゃん。ぐーすか寝てるこの馬鹿が、くだらないイチャモンつけただろうけど耳を貸さなくていいんだよ。その服はアンタが一生懸命働いて、いろんな人に親切にしてきた褒美みたいなもんなんだからさ」
「ありがとうございます、お登勢さん。私には上品すぎて、着るのは気が引けるんですけど……でも、これくらい背伸びしてもいいかなって」
「背伸びなんかじゃなく、アンタにぴったりだよ。ずいぶんと大人びてアタシは驚いたくらいさ」
えへへ、と恥ずかしそうに笑って、***は長い髪を耳にかけた。眠っている銀時にちらりと視線を落とした***のすぐ真横に、のんきな寝顔と組んだ腕の左手が置かれていた。
銀時の白い着流しの左袖を見て、***はふと何かに気付いた。あれ、と言いながら細い指先がつまんだ袖口に、茶色いシミがついている。
「やだ銀ちゃん、袖にシミがついてる……お登勢さん、なんでしょうこれ、なんかベタベタして、チョコレートかなぁ?」
「なんだい汚いね。子どもみたいに汚しちまって。どうせまたどっかでパフェでも食ったんだろ。いい大人がシミだらけの服で出歩いて、恥ずかしくないのかねぇ」
「っっ………!!」
何の気もなしにお登勢が発した言葉に、とつぜん***の肩がびくりと震えた。
銀時の袖のシミを食い入るように見つめた後、ばっと背けた顔がみるみるうちに青ざめていく。震える両手がすがるようにグラスをつかんだら、波立つオレンジジュースの中で氷がカラカラとうるさく鳴った。
「ちょいと***ちゃん、どうしたのさ?急に真っ青になっちまって……気分でも悪いのかい?」
「ぉ、お登勢さん、どうしよう……わ、私っ、」
———私、銀ちゃんの彼女、失格かもしれない……!
か細く震える声で***がそう言った。
驚いたお登勢は「何言ってるのさ」と言いかけたが、***の瞳が涙で潤みはじめたので、口をつぐんだ。ぽたっと大きな音を立てて涙粒がひとつ落ちたら、雫は後から後から溢れだす。***が手のひらでほほを拭っても追いつかず、テーブルに透明のシミがいくつもできた。
「お登勢さ、やだ、な、泣きたく、ないのに……」
「そんなに弱気になって、***ちゃんらしくないじゃないか。どうしたんだい?銀時に何かひどいことでも言われたのかい?」
ふるふるとかぶりを振って、***は必死に「違うんです」と言った。涙をぬぐいながら何度も髪を耳にかける。泣きながら深く悩んでいる姿が苦しそうで、お登勢がたまらず「言ってごらんよ」と促すと、ようやく***は口を開いた。
「すこし前に銀ちゃんが、その……女の人とふたりでいるのを見てからずっと……私、不安でしかたがないんです。万事屋に銀ちゃんがいないと、どこにいるんだろう、誰と一緒なんだろうって心配になって……そんなこと思いたくないのに、このチョコの汚れもどこでついたのか、誰と一緒だったのか、無意識に気になっちゃう……こんな、銀ちゃんを疑うようなこと、したくないのにッ」
両腕で自分の身体を抱くようにした***に、お登勢は胸がつまった。他人とデートまがいのことする恋人を見たら、誰だって不安になる。ましてや***のような若い娘なら疑って当然なのに、それを彼女失格だなんて大袈裟だ。小刻みに揺れる***の肩をぽんっと優しく叩いて、お登勢は励ますように言った。
「不安になるのは当たり前さ。惚れた男がよその女と密会してんの見て、嫌じゃない女なんていやしないよ。ましてや銀時みたいなちゃらんぽらんな男は、気にしすぎなほど心配したっていいくらいさ。遠慮せずにどこで誰と何してんだって聞きゃぁいい。もしも、この馬鹿が間違いを起こすようなことがあったら、それを叱ってやれんのは***ちゃんだけなんだ。銀時はアンタの彼氏なんだからさ」
きっぱりとした口調でお登勢がそう言うと、***の身体から力が抜けた。「あぁ」と諦めるようなため息を吐いて、小さな肩がすとんと落ちる。
ほほに残る涙の跡を手でぬぐった***は、意外なことに首を横にふった。潤んだ瞳はどこまでも澄きとおり、お登勢が戸惑うほど切実な光を宿して、じっと見つめ返してきた。
「お登勢さん、私……困ってる人を放っておけない銀ちゃんが好きです。今までに私は何度も、銀ちゃんに助けてもらったから、それがどんなにありがたいことか、よく分かってます。だからこそ、そうやって頑張ってる銀ちゃんを疑ったり、不安になったりする自分がイヤなんです……こんな着物で大人になった気がしても、中身はワガママな子どもと同じで……いつか銀ちゃんの足手まといになりそうで、そんな自分が怖くてたまらない……銀ちゃんが女の人と一緒にいることよりも……か、彼女は私なのにって妬んでる自分の方が、ずっと恐ろしい。だってそんなの銀ちゃんの相手にふさわしくない。早く変わらなきゃって、もっと大人にならなきゃって、私、ずっと思ってるんです」
震える声がよどみなく言った言葉はおそらく、***が何度も悩み、考え抜いてたどり着いた答えだ。煙草を指に挟んだ手でおでこを抑えると、お登勢は「はぁ~」とため息を吐く。
突っ伏した銀時は、あいかわらず熟睡している。のんきな寝顔に、鬼嫁の酒瓶をもう一度振り下ろしたくなったが、どうせ***が止めるからやめた。
———女は一生の幸せを欲しがり、男は一時の快楽を求める、っていうのはよくある話だけどねぇ。それにしたって、なんの因果でこんなに純粋な子が、銀時みたいなヤツに惚れちまったんだか……
「つまりさ、***ちゃん……アンタは銀時の仕事を邪魔しないために、自分の気持ちを押し殺そうっていうのかい?それがどんだけツライことか、分かってて言ってんだろうね?」
「はい、分かってます。ずっと銀ちゃんと一緒にいられるなら、私、どんなにツラくても耐えます」
即座に返ってきた答えと、真剣なまなざしに呆気に取られたお登勢は、この娘はとんでもない女だと思った。
銀時とは違って***は馬鹿ではない、しかし呆れるほど愚かな女だ。自分の選択がどれほど苦しいものか分かっていながら、それを選ぶことをためらわないなんて、馬鹿げている。しかし、そんな愚かな***の願いに比べたら、銀時が求めていることなんて鼻くそほどちっぽけに見えた。
凛とたたずむ***を見つめて、世間知らずの田舎娘がいい女になったと、お登勢は微笑んだ。出会った時からずっと、銀時への一途な思いは薄まることなく、時がたつほど強まるばかりだ。あともう一歩この子に、腑抜けた男を尻に敷くくらいの力量があれば、若い頃の自分にも負けない。そう思いながらお登勢は、自嘲気味にフッと笑った。向こう見ずでなりふり構わない若い純情に老婆心が働いて、お登勢は優しい声で語りかけた。
「***ちゃんにとって、銀時がいちばん大事だってことは、よぉ~く分かったよ。おかしな男の彼女なだけあって、アンタも相当変わりもんだねぇ……でもアタシはそういう変わりもんがめっぽう好きさ。***ちゃん、ツラくなったらいつでも言いに来な。アンタが出来ないなら、アタシが代わりにコイツをぶん殴ってやるよ。だから、もう彼女失格だなんて言わないで、シャンとして笑ってりゃいいじゃないか」
「はい、私、銀ちゃんの……その、か、彼女としてもっと頑張ります……あの、急に取り乱して泣いたりしてごめんなさい。お登勢さんの顔を見たら、気が緩んじゃって……」
「いいんだよ、***ちゃん。こういう店に酒と泪はつきものさ。飲みたいだけ飲んで泣きたいだけ泣いて、イヤなことは全部水に流しちまえばいい。ま、アンタは酒は飲んじゃいないけどね」
そう言って顔を見合わせたら、どちらからともなく吹き出した。赤くなった目元をゆるませて、くすくすと笑う***の表情は清々しい。ジュースのおかわりを出しながら、お登勢が眠りこける銀時の悪口を言ったら、***は鈴が鳴るような声でけらけらと笑った。
「ねぇ、君、この店でなにしてるの?」
「えっ……?」
お登勢と***がたわいない世間話をしていると、思いもよらない邪魔が入った。常連ではない若い男性客が、カウンター席の***の隣に座って、話しかけてきた。面食らいながらも***が人当たりのいい笑みを浮かべるものだから、男は勢いを増して前のめりになった。
「君さっきからジュースだけで、全然飲んでないよね。酒も飲まないのに飲み屋に居るってことは、出会いでも求めに来てるんじゃない?」
「ち、ちがいますっ!私そんなんじゃ、」
「ねぇ、せっかくだから俺と一緒に別の店に行かない?もっといい店に連れて行ってあげるからさ」
「ちょっとお客さん、その子はアタシの知り合いだよ。女を引っかけたいんだったら、ここじゃなく花街へ行きなよ。さっさと出てってくんな」
お登勢の声を無視した男は、***をジロジロと眺めながら、その細い腕をつかんだ。行こうよ、と言った男に腕を引かれて***は椅子から下ろされた。充血した瞳を泳がせて「嫌です、やめてください」と言う。
しびれを切らした男が、***の華奢な肩に腕を回そうとした瞬間のことだった———
ガタンッッッ!!!
「ちょっとぉぉぉ、お兄さぁぁぁん!悪いんだけどさぁ!!コイツ俺んだからぁぁぁ!!!」
「きゃあッッ!!?ぎ……銀ちゃん!!?」
いきなり立ち上がった銀時が、後ろから***の肩をつかんで抱き寄せた。太い腕を小さな身体の前に回して、右手で***の左肩をつかむと、ぐいっと男から引き離す。もう一方の手では、男の腕をひねり上げていた。痛みに顔を歪めた男が「なんなんだお前!」と声を荒げたが、銀時は涼しい顔で返した。
「なんなんだってそりゃぁ、俺はコイツの彼氏で、コイツは俺の彼女に決まってんだろーが!ナンパすんのは構わねぇけど、気安く俺の女に触んないでくれる?お兄さんみたいな人はここじゃなくて、キャバクラとか行った方がいいんじゃねーの?いい店紹介してやるよ。‟桃色くまさん”っつーんだけどさ、女に群がるゴキブリみてぇな、お兄さんにそっくりの客がウジャウジャいるから、多分気に入ると思うよ。ホイ、これ電話番号ね」
パッと離した手で紙切れを差し出した銀時を、男は怒りに満ちた目で見た。しかし冷ややかな笑みを浮かべた銀時が、瞳だけでギロリと睨みつけたら、男はあっという間に店から出て行った。
お登勢はその一部始終を何も言わずに見ていたが、背後から抱き寄せられた***には、銀時の顔すら見えていなかった。包み込まれた腕のなかで、驚いた***はただ口をぽかんと開けていた。
「ったくよ~……人が気持ちよく寝れそうだったっつーのに、耳元でギャーギャーギャーギャー騒ぎやがって、お前らは発情期ですかコノヤロォォォ!どいつもこいつもガキみてぇにうるせーんだよ。っつーか、なんなんだよあのナンパ野郎は!?あんな客入れてんじゃねーよクソババァ!!***も***だぞ。あんな変態にやすやすと付け込まれてんじゃねぇっつーの!!!」
「ごごご、ごめんね銀ちゃん、私、びっくりしちゃって」
気だるげに頭をガリガリとかく銀時の腕のなかで、慌てた***がくるりとふり返り、ふたりは向き合った。ナンパしてきた男よりも、突然目覚めた銀時に***は驚いていて、その顔は戸惑いを隠せない。お登勢は静かに煙草を吸いながら、銀時と***をじっと眺めていた。そして、ある違和感に気付いてゆっくりと口を開く。
「銀時……アンタ、いつ起きたんだい?」
「あ゙ぁん?いつ起きたっつーか……別に寝てねぇけど。もうちょっとで夢の世界へフライアウェイできそうだったのに、オメーらがうるくて寝れなかったって言っただろーが」
「へっ………!!?」
すっとんきょうな声を上げた***が、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。その顔を見下ろして、銀時はゲラゲラと笑い出した。
「お前、すぐそのマヌケヅラするよな」
笑いまじりの言葉は、***の耳には入らない。ぽかんとしていた顔が一瞬ぎくりと強張ってから、急に引きつる。必死で笑おうとした小さな唇がわななきながら「ぎ、銀ちゃん、嘘でしょう?」と言った。
ニヤニヤと笑った銀時が「んー、なにが?」と聞き返しながら、***の両肩をガシッとつかんだ。
「嘘って何?銀さん、嘘ついてねーけど?***は何が嘘だと思ってんだよ、なぁ?」
「っ……だ、だって、銀ちゃん、さっきまでいびきかいて寝てたよね?ヨダレも垂らして……な、何も聞いてないよね?いま、起きたばっかり、ですよね?」
すがるような目で***はそう言うと、銀時の黒いシャツの胸元を両手でぎゅっと握りしめた。
「あんだよ***~、お前まで銀さんを疑ってんの?だから、起きてたんだってずっと……***がこれをチョコレートっつってた時から」
「っっ……!!!」
白い着流しの左袖、その袖口の茶色いシミを眼前に突き出されて、***はハッと息を飲む。あわあわとしながら見開いた大きな瞳のなかで、黒目がおびえるように揺れはじめた。
「っぎ、銀ちゃっ……、」
「ちなみに***、お前勘違いしてんぞ。これチョコレートじゃねーから。パフェなんざ食ってねぇから。っつーかパフェは週イチでしか食えねーから。これチョコじゃなくて、みたらしのタレだわ。昼間に団子食ったんだよ団子。んで、食ってる途中で礼儀のなってねぇ犬に1本盗まれて、すったもんだした時についたんだな多分……っつーことでぇ、***ちゃ~ん!もぉ心配しなくても大丈夫ですよぉ~!!銀さんはひとりで団子食ってただけですからねぇ~~!!そんなんで不安になってシクシク泣かなくていいんですよぉぉぉ~~~!!!」
「ッッ———!!!」
異様なほど嬉々とした声でそう言った銀時は、***の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。乱れた長い髪のなかで、***の顔はさぁーっと青ざめていく。反論するどころか声も出ない。呼吸さえ忘れて、ただおびえるように銀時を見上げていた。
さっきよりも取り乱した様子を心配したお登勢が、声を掛けようとしたが、それよりも先に***が動いた。
ガタンッッ!!!
跳ねるように***が踵を返す。その身体に当たったカウンターのイスがグラついた。銀時の腕の中から脱け出て、***はまっすぐに出口へと駆け出そうとした。乱れた髪もそのままの顔には「逃げなきゃ」という文字が書かれているようだ。
しかし、銀時がそれを許さない。華奢な手首を大きな手でつかんで引き留めたら、***の小さな身体がぐんっと後ろに引き戻された。おそるおそる振り返った***は、今にも泣きだしそうな顔をしていた。それを見下ろしてドス黒い笑顔を浮かべた銀時が、地の底を這うような低い声を出した。
「逃がさねぇよ***……もう逃がさねぇ」
「あ、ぅ、ぎっ……ゃ、やだっ……!」
ヤダじゃねーし、と言いながら、銀時は***の手首をつかんだまま歩き出す。お登勢が「その子をどうする気だい?」と叫ぶと、ニヤつきながら振り返り、心底楽しそうな声で答えた。
「うるせーなクソババァ、あいにく俺ァオメーなんかに殴られたって反省しねぇ男だから。テメェの彼女ぴーぴー泣かせて、ちょっくら楽しんでくるわ。こっからは若ぇモンの時間なんで、年寄りは大人しく歯ァ磨いて寝ろっつーの……よ~~し、そんじゃぁ***~~、ちょ~っと銀さんと仲良くお話しよっかぁぁぁ~~!!」
「ひぃっ……!お、お登勢さんッ!!!」
真っ青な顔をした***が、お登勢に助けを求めた。だが何もしてやれることのないお登勢は、呆れかえった顔で首を横に振る。
ナンパ男から引き離すために、後ろから***を抱き寄せた時の銀時は、主人を守る忠犬のようだった。男を追い払った時の敵意丸出しの顔は、怒りに満ちた狂犬のようだった。そして***の腕をつかんで逃すまいとした時は、まるで獲物を見つけた獣のような目をしていた。お登勢はその全てを見ていた。
そして今、ガタガタと震える***を、ウキウキとした銀時が引きずっていく。その銀時の後ろ姿はまるで、喜びに尻尾をふりまくる大型犬のようだ。
———まったくどっちが金魚のフンなんだか……しょげかえってた憐れな犬が、主人の優しさを知った途端、大喜びして獣にまでなっちまうなんてね……飼い犬に手を噛まれるとはよく言ったもんだ。***ちゃんもそりゃぁ苦労するだろうね、あんな手に負えない野犬を飼っちまってさ
「銀時ィ、無茶なことして***ちゃんを傷つけたら、タダじゃおかないよ」
その声は誰にも届かない。銀時と***は足早に、あっという間に店から出て行った。ビシャンッと乱暴に閉められた引き戸を見つめて、お登勢は深いため息とともにフッと小さく笑った。
あいかわらず店はにぎやかなのに、銀時と***がいなくなった途端、静かになった気がする。
大騒ぎする馬鹿な男と発狂しそうな愚かな女が消えて、スナックの夜はすこぶる平和だった。
-------------------------------------------------
【(30)酒と泪】end
‟彼と彼女の大狂騒 中篇”
近づきたいよ君の理想に