銀ちゃんの愛する女の子
おいしい牛乳(恋人)
おなまえをどうぞ
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
【(28)前と横の中間地点】
ピンポーン……———
自分は招かれざる客だ。そう思いながら沖田は万事屋のインターホンを押した。あの3人の嫌そうな顔が目に浮かぶ。きっとメガネはいぶかしげな顔で「なんの用ですか?」と言う。たぶんチャイナは殴り掛かってくる。おそらく天パは、金にならない話ならさっさと帰れと言う。ましてや、用のある相手が***だと知ったら、鬼のような顔で追い帰そうとするだろう。なんせアイツらは***の厳重な警備員のような存在だから。
「はーい、いま開けますね……あれ、総悟くん!万事屋に来るなんてめずらしいね。どうしたの?依頼なら銀ちゃんたちは今、お仕事で出かけちゃってるよ」
戸を開けた***がひとりで留守番をしていたと知り、沖田は肩透かしをくらった。のぞき込んだリビングには、確かに人の気配がない。
「いや、旦那に用はねぇ。アンタのアパートに行ったら誰もいねぇから、どうせここだろうと思ってね……アイツらが出払ってんならちょうどいいや。ちょっと***、ツラァ貸しやがれ」
「え、わ、私?」
ツラを貸せと言いながらも部屋へ上がり込む。居間のソファに我が物顔で座った沖田に、***は手作りプリンと茶を差し出した。
「アンタこれ、旦那に作ってきたんじゃねーのか?俺に出しちまっていーのかよ」
「あ、うん……でも冷蔵庫に差し入れのプリンが他にもあったから、私のはいいかなって。総悟くん、よかったら食べて?」
気まずそうに髪を耳にかけながら、***は笑った。プリンをぱくぱくと食べながら、沖田は要件を話しはじめる。持ってきた風呂敷包みを、テーブルを挟んで座る***にポイっと投げた。
「ほらよ。土方さんが早く***に届けろってうるせぇから、わざわざ持ってきてやったんだ。感謝しろぃ」
「わっ……こ、これって」
風呂敷を解いた***は驚きの声を上げた。それは以前、無理やり連れていかれて働くはめになったキャバクラに、置いてきてしまった荷物だった。着物と下駄と、手提げ袋が転がり出る。
「えっと、なんでこれを土方さんが?」
「アンタ、あの店がつぶれたの知ってるか?キャバ嬢がヤク中だらけだってんで、調べが入ってね。俺ァよく知らねぇが、店長も気づかねぇうちに違法の薬をばらまかれてたらしい。んで、***まで巻き込まれちゃいけねぇってんで、ウチの副長がちょいと隊士を動かして、アンタがあそこに居たって証拠を消したって話でぃ。よかったなァ***、持つべきものは警察のお友達だぜ」
「そ、そうだったの……あのお店の評判があまり良くないのは知ってたけど、まさかそんなことがあったなんて……総悟くん、届けてくれてありがとう。土方さんにもお礼を言わなきゃ。あっ、あれ?これって……」
膝に着物を広げた***はいぶかしげな顔をした。それもそのはず、水色の和服は鋭利な刃物で切り裂かれたように、ビリビリに破れていたから。
ああ、そいつァ、と沖田が説明したのは数週間前のこと。警察が押し入った時には既に、あの店はもぬけの殻だった。店内は何者かに荒らされて、店長だけが呆然と立ち尽くしていた。キャバ嬢も薬物も見つからず、証拠になりそうなものはことごとく破壊されていた。物が散乱する控え室のロッカーから、真選組の隊士が***の荷物を見つけ出したが、その時にはすでに着物は無残な状態だった。
「そういや、土方さんから手紙も預かってんだ。ホレ***、読んでみろよ」
「うん、えーっと……拝啓、******殿、」
“件の店については既知のことと存じ上げます。今後はあのような場所で貴殿に会うことがないよう、心よりお祈り致します。くれぐれもお気をつけ下さるよう、重ねて申し上げます。
さて、同梱した着物ですが、当方としても大変遺憾に感じており、わずかばかりのお礼をさせて頂きたく……”
達筆で書かれた堅苦しい文章は、***にはよく分からなかった。うーん、と頭をひねっていると見かねた沖田が口を挟んだ。
「要するに、アンタの服をボロボロになる前に回収できなくて悪かったってことでぃ。そんで、その詫びに新しいヤツを買ってやるってよ。真選組のなじみの店と話がついてる。あの人ァ忙しいから、かわりに俺が連れてってやらぁ。喜べ***、下級市民にゃこんな機会なかなか無ぇぜ」
「えぇぇっ!?そっ、そんなのダメだよ!着物が破れちゃったのは真選組のせいじゃないし、こんな高価なものを買ってもらうわけには……私、お断りの手紙を書くから、総悟くんから土方さんに渡してもらえる?」
「はぁ?っんな面倒くせーことイヤに決まってらぁ。なんで俺が***のおつかい引き受けなきゃいけねーんだ。こーゆー好意はありがたく受け取っとけよ。アンタみてぇな庶民の服を買う金なんざ俺たちにとっちゃ、はした金でぃ。警察の財力なめんなよ」
まくし立てられて***は「うっ」と押し黙った。無理にとは言わない、気に入ったのがあれば買えばいいと言いくるめて、沖田は***の腕を取る。
その腕をぐいぐいと引っ張りながら万事屋を後にして、向かったのは江戸でも有数の老舗呉服店だった。
「まぁ、とってもお似合いだわ。上品な藤色が、お嬢さまの色白のお肌によく映えていらっしゃる」
「お、お嬢さまって……いや、あ、あのぅ……ちなみにこれって、おいくらでしょうか?」
呉服屋のおかみが告げた金額に、***は白目を剥いて腰を抜かした。連れてこられた呉服屋の試着室で、とっかえひっかえ着せられた着物はどれも、庶民感覚の***には信じられないほどの高値だった。よろよろと尻餅をつく姿を見て、沖田はゲラゲラと笑った。
「値段聞いただけでひっくり返るなんて、情けねぇな***。しっかりしろよ。馬子にも衣装かと思ったが、なに着たところで馬子は馬子だねぃ。どれにすんのかさっさと決めちまいな。その紫のでいーのか?」
「そ、総悟くん、こんな高級品、とてもじゃないけど私には着られないよ……!」
慌てて着物を脱いでもっと手頃なものを、と頼み込む。店で最も安いものでさえ***にとっては高価で、ずいぶんと渋った。
しかし、パステルブルーに近い浅葱色の着物を、これは手頃で普段使いができると店員に強くすすめられ、沖田にも似合うと言われた***は、長く悩んだすえにようやく「じゃぁ、これにします」と言った。
おかみが手をパンッと叩いたら、沢山のスタッフが出てきて、本格的にその着物を***に着つけた。せっかくだからと髪を結ってセットされ、化粧を手直しされた***は、困り果てた顔で沖田を見つめた。
「ったく、女の買い物は長くていけねーや。あ~疲れた、オイ、***~、団子おごってくれよ」
「お団子なら何本でもおごるよ……ねぇ、総悟くん、本当に私これ着てていいのかな?お団子と違って、これすごく高いんだよ?後で請求されても払えないんだけど、今のうちに脱いだ方がよくない?」
「だ~いじょうぶだっつってんだろ、アンタもしつけぇな。どーせ経費で落ちるんだ、遠慮しねーでもっと高ぇヤツにしたってよかったくれーでぃ……それにその着物、まぁまぁ似合ってんだから、***は堂々と胸張って着てりゃいいんだよ」
「そ、そうかなぁ。それならいいけど……あ、長く待たせてごめんね。ああいうお店初めてで、どれも同じに見えて悩んじゃったよ。総悟くんが似合うって言ってくれたから、これに決められたの。ありがとう」
ようやくホッとしたのか、***は微笑みながらぺこっと頭を下げた。謙虚なその態度を見て、多分コイツのこういうところが土方さんの好みなんだろうな、と沖田は思っていた。呉服店の領収書を渡した時の土方の反応が、たやすく想像できる。こんな安物でいいのかと驚く一方で、あの人はきっと嬉しそうな顔をする。庶民的で素朴な***のことだから、慎ましい物しか欲しがらないと分かっていたと、得意げに言うに決まってる。
鬼の副長ともあろう男が、***の前ではやけにくつろいだ表情を浮かべることに、沖田は気付いていた。常に神経を尖らせた仕事人間のあの人が、***の近くでは肩の力を抜く。やわらいだ瞳でこの小娘を見つめる。
都会的で洗練された女より、飾らない***の清純さに惹かれるらしい。妹みたいなものだと土方はのたまっていたが、それは立派な恋慕に見えた。救いようもない愚かな横恋慕に。
———土方さんは大馬鹿でぃ。こんなちんちくりんの地味な娘にたらしこまれちまって、真選組の名が廃れるぜ。それも***には旦那がいるっつーのに……っつーか、あの旦那こそ、なんで***を選んだかねぇ。すぐにおどおどするマヌケなうえに、男を知らない女の相手なんざ、どう考えたって面倒くせぇや———
団子屋を目指して通りを並んで歩く。その脚が止まったのは、カップルで溢れるカフェの前だった。カラフルなスイーツに満ちたガラス張りの喫茶店は、恋人たちでにぎわっている。
男女二人組だらけの店内に、見慣れた銀髪頭を先に見つけたのは***だった。店まであと10メートルというところで「あ」と言って立ち止まり、そのまま動かなくなった。隣で***が息を飲んだので、沖田はその視線の先を追った。そこに知らない女と向かい合って、パフェを食べる銀時がいた。
「ありゃァ、旦那じゃねぇか。なんでぃ、あの人の今日の仕事は女とパフェ食うなんつーお気楽なもんなのか?」
その問いに答えがないので不審に思って横を見ると、***は今までに見たこともない不思議な表情を浮かべて立ちすくんでいた。
それは迷子の子どものように困り果てた顔だった。
八の字に下がった眉の間に、珍しくシワが寄る。見開かれた瞳に驚きと哀しみが渦まいているのに、その行き場が見つからなくて、黒目がユラユラと泳いでいた。
泣き出す寸前のようにわなないた唇を、***は両手でぱっと押さえる。細い指はカタカタと震えて、薬指の指輪の赤い石まで揺れていた。
「ぎ、銀ちゃん、どうして……」
小さくつぶやいた***の顔は、数秒でさぁっと青ざめた。銀時の向かいに座る女は、アイドルのように整った顔でメイクも服もいかにもデートという感じだった。
一方、銀時は一心不乱にパフェをぱくぱくと食べている。しかし、よく見るとスプーンを持っていない方の左手に、女の手が重なっていた。ふたりの不自然な様子に、沖田は眉をひそめた。
「なぁ、***、ありゃァどういうことでぇ。あの女は一体なんなんだ。アンタ死にそうな顔してるが、どうしたんだよ。旦那とあの女のこと何か知ってんのか?」
「ち、ちが……あッ!!!」
***が泣きそうな声を上げた瞬間、ガラス窓の向こうの銀時が、こちらに顔を向けた。沖田と***の存在に気付いた途端、ぼけっとしていた顔が変わって、死んだ魚のような目がギクリと見開かれた。声が聞こえなくてもその口の動きだけで、銀時が「は?」と言ったのが分かった。
「あわわっ……そ、総悟くんっ、私、帰るっ!!」
「お、おい!旦那はいいのかよ!?」
くるりと踵をかえした***が、沖田の横をすり抜けて駆け出した。背後のカフェでは慌てて立ち上がった銀時が、食べかけのパフェをひっくり返していた。
バンッと大きな音をたてて開いたドアから、銀時が飛び出してきた時にはもう、沖田も***を追って走り出していた。その背中に銀時の声が届いた。
「***ッッッ!!!」
前を走る***にも聞こえているはずだが、その足は止まらなかった。小さな背中は一度も後ろを振り返らなかった。
「はぁっ、はぁっ……っ、」
ようやく***が足を止めたのは、追ってくる銀時の姿が見えなくなってからだった。息を切らして立ち止まった***の腕を、沖田は後ろから強くつかんだ。
「***、いきなり飛び出して驚かせんじゃねぇや……オイ、旦那を置いてきちまっていーのかよ。あの人がよその女と手ぇ繋いでたのが、アンタ嫌だったんだろ?」
「ちがっ、はぁッ……ちが、ぅの、」
胸を押さえた***は息苦しそうに言った。違う違うとくり返しながら何度も首を振って、沖田から逃れようと後ずさる。黒い瞳には今にも溢れそうなほど涙が溜まっていた。荒く乱れた呼吸を続ける顔は、痛みに絶えるように歪んでいた。
———あぁ、そうだ、コイツ、こーゆー顔するんだったっけ……
ひどく苦しそうな***の顔を見た途端、背筋がぞくっとするほどの興奮を覚えた。目の前の女の辛そうな姿に、生粋のドSが喜んでいる。そういえば銀時も、自分と同じサディスティックな男だったと思い出したら、まるで人のオモチャを横取りした気分だった。その優越感はあまりに愉快で、もっと***の苦しむ姿が見たくなった。
「これは俺の憶測だが……アンタ、あの女のこと知ってるんだろ?最近やけに旦那と一緒にいる女とか、そんなとこか?でも今日の旦那の仕事が、あの女とのデートだとは、呑気な***は夢にも思ってなかった。旦那のことだから、出かける前にはメガネとチャイナと一緒だとか言ってたんじゃねぇか?嘘ついてまで、あの女とふたりで会ってるなんて怪しすぎらぁ……それで***は、テメェの彼氏がよその女に誘惑されてるってのに、おっかなくって逃げちまったんだろ?しっぽ巻いて、すたこらさっさと、情けねぇったらありゃしねぇ」
「っっ………、ち、ちがうよ!!」
細い腕を揺すって、***は沖田をふり払おうとした。あてずっぽうで言ったことがあながち間違いじゃないと、涙をこらえる顔で分かった。
もうひと押しで***はへなへなと泣き崩れるだろう。その姿を想像するだけで腹の底から笑いたくなる。どす黒い微笑みを浮かべて、沖田は***の腕をぐいっと引っ張る。近づけた顔を真上から見下ろして、意地の悪い声で問いかけた。
「アンタ、旦那と最後にデートしたのはいつでぃ」
「えっ?……そ、そんなの、」
総悟くんには関係ない、という声を無視して、指先が食い込むほど強く、華奢な二の腕をつかんだ。答えるまで離さないと脅したら、***は痛みに眉をしかめながら、震える声で答えた。
「きょ、去年の10月……銀ちゃんのお誕生日に、遊園地に行ったのが最後……で、でもスーパーに買い出しに一緒に行ったり、いつも万事屋で会ってるから、そんなの気にならないもん」
「んなこたァ聞いてねぇよ。***は知らねぇだろうが、フツーの恋人同士ってのは、もっと頻繁に出かけるもんでぃ。10月っつったら3か月も前じゃねーか。彼女を3か月も放置するたァ、旦那も罪な人だねぃ。それともあの人にとっちゃアンタは、メシ作って掃除してくれる家政婦みてぇなモンなのかねぇ……」
卑屈な声で責め立てると、うつむいた***の肩がぶるぶると震えた。さっさと泣け、泣きじゃくって目も当てられねぇ不細工な顔を見せやがれ。そう思ってほくそ笑んでいたが、***からしぼり出た声は、意外なことに泣き声ではなかった。
「総悟くんに、聞きたいことがあるんだけど」
「あ゙ぁ゙?なんでぃ?」
パッと顔を上げた***が沖田を見つめた。その瞳は全く潤んでいなかった。揺れていた黒目もぴたりと止まり、まっすぐ前を見据えている。「な、なんだよ」と沖田が気圧されるほど、***の目付きは切実だった。しかし、その口から飛び出してきた質問は、全く予想もしない突拍子のないものだった。
「ねぇ、総悟くんっ……あの店で、銀ちゃんが、なんのパフェ食べてたか覚えてる!?」
「は、はぁぁぁぁ!?」
「私、ちゃんと見てなかったせいで思い出せないの。あんまり大きいパフェじゃなかった気がするんだけど、なにパフェだったかなぁ!?」
「いやいやいやっ、アンタ、そんなこと気にしてどうすんでぃ。パフェだろうが何だろうが、んなこたァどうでもいいだろうが!そんなことより、旦那が女と一緒にいたことを心配しやがれ!」
「そ、それは別にいいの。きっと急な依頼で、一緒にカフェに行ったんだよ。ねぇっ、それよりなんのパフェだった?レインボーのカラフルなのだった?大きいチョコのやつだった?総悟くん、思い出せる!?」
すがりつくように、***は沖田の隊服の胸元をぎゅっとつかんで問いかけた。しかたなく記憶を巡ると、たしか銀時が食べていたのはイチゴがのった普通のパフェだった。バニラアイスとコーンフレークが入っていそうな、いたって平凡なイチゴパフェ。
沖田がそう告げた瞬間、***は「はぁぁ~~」とため息をついて膝から崩れ落ちた。地面にしゃがみこんで空を仰ぐ。眉が下がりきった顔は泣き出しそうなのに、開いた唇からは「あはは」と笑い声が零れた。
「そっかぁ、イチゴパフェかぁ……」
「はぁぁ?アンタ、頭イカれちまったのか。テメェの彼氏が浮気してるかもしれねーんだぞ。パフェなんかどうでもいいだろ。旦那のあの慌てぶり思い出して、ちったぁ疑ったらどーでぃ」
ふて腐れたような顔で言った沖田を見上げて、***は弱々しく笑った。うーん、と少しだけ悩んでから、小さな口を開いた。
「銀ちゃんは万事屋さんで、困ってる人なら誰でも依頼人なんだから、女の人と一緒にいたくらいで疑ってたらきりがないよ……ちょっとびっくりたし、逃げちゃったのは確かに情けなかったけど、こう見えて一応、私は銀ちゃんの、その、か、彼女だから、しっかりしなきゃだよね……総悟くんにまで心配かけて、ごめんね。それに気づかってくれて、ありがとう」
「っ……!!」
いじめてやろうと思ったのに。泣き顔を笑ってやる気だったのに。まさかこんな風に微笑んで、ありがとうと言われるなんて。言葉を失った沖田はただ、***をじっと見つめていた。
———コイツは馬鹿か。テメェをいじめた奴にまで無邪気に笑い返しやがって。胸糞わりぃな、ちきしょう……
立ち上がった***がすたすたと歩きはじめる。後ろから追いかける沖田に、今日はもう帰るねと微笑んだ。お団子は今度おごるし、真選組に菓子折りを持ってお礼に行く、と言ったカラッと明るい声は、まるで姉が弟に言い聞かせるような口ぶりだった。
前を歩く背中を見つめた沖田が、何かこの女を困らせる方法はないかと考え込むうちに、***のアパートのある通りにたどり着いていた。
「あっ……」
***が急に声を上げて足を止めた。数十メートル先のボロアパートの部屋の前に、銀時が立っているのが見えて、沖田も立ち止まる。
ずいぶん走り回ったのか、銀時はゼーハーと肩で息をして、***の部屋のインターホンを連打していた。しばらくするとドアをドンドンと叩きはじめ、「オイ、***、いんだろ!?開けろ!!」と叫びはじめた。
「ぎ、銀ちゃ、」
「っ……、行くなっ!!」
銀時に向かって駆け出そうとした***の腕を、とっさにつかんで引き留めた。なぜこんなことをするのか、自分でもさっぱり分からなかった。
え?と振り返った***はポカンとしていた。その顔を見ると同時に、沖田はおもむろにポケットから手錠を取り出す。それを***の手首にカチャンとはめ、もう一方を自分の手首に繋いだ。
「なっ……えっ!?ちょっ、そ、総悟くん!?」
「行くなっつってんだよ。頼むから、行かねぇでくだせぇ……***ねぇちゃん」
そうだ、これは姉弟ごっこだ。弟を置き去りにする姉を、困らせているだけ。困っている***の顔を見て楽しみたいだけ。心の中でそう言うのに、なぜだか***の顔を見る気になれない。こんなことをするのはおかしいと思いながら、沖田は手錠をつけてない方の手で***の肩をつかんで、ぐいっと抱き寄せた。
「わゎっ、ねぇ、総悟くん、どうしたの?もしかしてお団子食べてないから怒ってる?そんなに食べたかったの?」
「ちげぇや……俺ァただ、旦那みてーなズルイ男が許せねぇだけでぃ。テメェの彼女をほったらかして、他の女としけこむような汚ねぇ男が、怒られもしねぇでいい思いをするのは癪すぎらぁ」
小さな肩に腕を回して抱きしめると、***の髪から甘い香りがした。華奢な身体は腕のなかにすっぽりと収まる。俺でこんな風なら、俺より体格のいい旦那だったら、まるで抱きつぶすみてーだろうな。そう思ったらより一層、腕に力が入り、戸惑う***を強く抱きしめた。
「***……その着物はアンタにすげぇ似合ってる。せっかく着飾ってんだから、あんな男じゃなくて今日は俺と一緒に居なせぇ。団子じゃなくて、さっきのあのカフェでパフェでも何でもおごってやる。どーせ金もあり余ってるし……そしたら旦那とおあいこで、***も気分が晴れらぁ。なぁ、そーだろ?」
そう言って黙り込んだら、***の片手が背中に回ってポンポンと優しく叩いた。聞き分けのない子どもをあやすような手つきで沖田を撫でながら、微笑むような柔らかく静かな声で「総悟くん」と呼んだ。
「総悟くん、ありがとう。着物を似合うって言ってくれて嬉しい。取り乱しちゃった時も一緒にいてくれて、すごく助かったよ……でも、私、やっぱり今日は銀ちゃんのところに行きたい。他の女の人といたっていいの。デートも出来なくていい。家政婦みたいって思われても全然いい。周りにどう思われても、それでも私は銀ちゃんの彼女だし、それにそんなことより、」
私が銀ちゃんのことを好きって思う気持ちの方が、ずっと強くて、もっと大切だから———
その言葉を聞いた瞬間、沖田の脳裏についさっき見た***の顔が蘇ってきた。カフェで銀時を見つけた時の困り果てた顔。あの時の***は、銀時が他の女と一緒にいることに困っていたんじゃない。そう気付いて、沖田はハッと息を飲んだ。
青ざめた顔で「銀ちゃん、どうして」と言った。あの瞬間、***は確かに怒っていたし哀しんでいた。
でも、なによりも***は、そんな気持ちを抱く自分自身に困っていた。怒りも哀しみも抑えこんで、なんとかして自分の胸だけに留めようと、***はひとりで戦っていた。迷子の子どもような目をして、抗う気持ちの隠し場所を探していたのだ。
逃げ出したのは怖かったからじゃない。隠そうとする思いを銀時に知られてしまうのが、***は嫌だったのだ。
カシャンッ———
地面に何かが落ちた音がすると同時に、腕の中の***が身じろいだ。手錠をかけたはずの細い手首が自由になって、小さな両手で沖田の胸をとんっと押した。
身体が離れて見下ろしたら、沖田の手首から伸びた鎖の先に、開いた手錠がぷらんとぶら下がっていて、地面には簪が1本落ちていた。
「なっ……アンタどうやって、っ……!」
驚きに瞳を見開いた沖田の頭に、***の手が伸びてくる。その手は親が子どもを慈しむような優しい手つきで、栗色の髪をサラサラと撫でた。
「総悟くん、私もう行かなきゃ。お団子は今度一緒に食べに行くって約束する。今日はいろいろ、ありがとう」
ふわっと微笑んでそう言い残した***は、くるりと身をひるがえして駆け出した。引きとめる間もなく、声を掛ける余裕もなかった。
「銀ちゃんッッッ!!!」
全力で駆ける***が、大きな声で銀時を呼んだ。思い返してみれば、逃げる時も駆け寄る時も、***の瞳にはあの銀髪男の姿しか映っていなかった。どんな時も、他のどんなものも、銀時を見つめる***の邪魔をするなんてできない。
「ははっ、こいつァすげぇや……」
簪を拾い上げると、沖田は呆れたように笑った。開いた手錠を見下ろして、あんな小娘にしてやられたと思うと悔しくて仕方がない。オドオドしてマヌケで、押せば簡単に倒れそうに見える***は、想像よりずっと頑固で、思った以上に手ごわい女だ。
———横恋慕なんて、土方クソヤローのような大馬鹿のすることだ。報われない恋なんざ、くだらねぇ。俺のような男が***なんかを相手にするわけがねぇ。頼まれたってあんなイカれた女はお断りだ。後ろなんてふり向かずに、前だけを見ている女。横なんてひと目も見ずに、ただまっすぐ前へと駆けていくような、あんな女相手に、横恋慕なんざ、俺は絶対にしねぇ……———
ほどけた黒髪を揺らしながら、***は一直線に銀時へと駆けていく。立ち尽くした沖田は、だんだんと離れて小さくなっていく背中から、なぜか目を離せなくて、いつまでもずっと見つめ続けていた。
---------------------------------------------------
【(28)前と横の中間地点】end
ありがとうと君に言われるとなんだか切ない
ピンポーン……———
自分は招かれざる客だ。そう思いながら沖田は万事屋のインターホンを押した。あの3人の嫌そうな顔が目に浮かぶ。きっとメガネはいぶかしげな顔で「なんの用ですか?」と言う。たぶんチャイナは殴り掛かってくる。おそらく天パは、金にならない話ならさっさと帰れと言う。ましてや、用のある相手が***だと知ったら、鬼のような顔で追い帰そうとするだろう。なんせアイツらは***の厳重な警備員のような存在だから。
「はーい、いま開けますね……あれ、総悟くん!万事屋に来るなんてめずらしいね。どうしたの?依頼なら銀ちゃんたちは今、お仕事で出かけちゃってるよ」
戸を開けた***がひとりで留守番をしていたと知り、沖田は肩透かしをくらった。のぞき込んだリビングには、確かに人の気配がない。
「いや、旦那に用はねぇ。アンタのアパートに行ったら誰もいねぇから、どうせここだろうと思ってね……アイツらが出払ってんならちょうどいいや。ちょっと***、ツラァ貸しやがれ」
「え、わ、私?」
ツラを貸せと言いながらも部屋へ上がり込む。居間のソファに我が物顔で座った沖田に、***は手作りプリンと茶を差し出した。
「アンタこれ、旦那に作ってきたんじゃねーのか?俺に出しちまっていーのかよ」
「あ、うん……でも冷蔵庫に差し入れのプリンが他にもあったから、私のはいいかなって。総悟くん、よかったら食べて?」
気まずそうに髪を耳にかけながら、***は笑った。プリンをぱくぱくと食べながら、沖田は要件を話しはじめる。持ってきた風呂敷包みを、テーブルを挟んで座る***にポイっと投げた。
「ほらよ。土方さんが早く***に届けろってうるせぇから、わざわざ持ってきてやったんだ。感謝しろぃ」
「わっ……こ、これって」
風呂敷を解いた***は驚きの声を上げた。それは以前、無理やり連れていかれて働くはめになったキャバクラに、置いてきてしまった荷物だった。着物と下駄と、手提げ袋が転がり出る。
「えっと、なんでこれを土方さんが?」
「アンタ、あの店がつぶれたの知ってるか?キャバ嬢がヤク中だらけだってんで、調べが入ってね。俺ァよく知らねぇが、店長も気づかねぇうちに違法の薬をばらまかれてたらしい。んで、***まで巻き込まれちゃいけねぇってんで、ウチの副長がちょいと隊士を動かして、アンタがあそこに居たって証拠を消したって話でぃ。よかったなァ***、持つべきものは警察のお友達だぜ」
「そ、そうだったの……あのお店の評判があまり良くないのは知ってたけど、まさかそんなことがあったなんて……総悟くん、届けてくれてありがとう。土方さんにもお礼を言わなきゃ。あっ、あれ?これって……」
膝に着物を広げた***はいぶかしげな顔をした。それもそのはず、水色の和服は鋭利な刃物で切り裂かれたように、ビリビリに破れていたから。
ああ、そいつァ、と沖田が説明したのは数週間前のこと。警察が押し入った時には既に、あの店はもぬけの殻だった。店内は何者かに荒らされて、店長だけが呆然と立ち尽くしていた。キャバ嬢も薬物も見つからず、証拠になりそうなものはことごとく破壊されていた。物が散乱する控え室のロッカーから、真選組の隊士が***の荷物を見つけ出したが、その時にはすでに着物は無残な状態だった。
「そういや、土方さんから手紙も預かってんだ。ホレ***、読んでみろよ」
「うん、えーっと……拝啓、******殿、」
“件の店については既知のことと存じ上げます。今後はあのような場所で貴殿に会うことがないよう、心よりお祈り致します。くれぐれもお気をつけ下さるよう、重ねて申し上げます。
さて、同梱した着物ですが、当方としても大変遺憾に感じており、わずかばかりのお礼をさせて頂きたく……”
達筆で書かれた堅苦しい文章は、***にはよく分からなかった。うーん、と頭をひねっていると見かねた沖田が口を挟んだ。
「要するに、アンタの服をボロボロになる前に回収できなくて悪かったってことでぃ。そんで、その詫びに新しいヤツを買ってやるってよ。真選組のなじみの店と話がついてる。あの人ァ忙しいから、かわりに俺が連れてってやらぁ。喜べ***、下級市民にゃこんな機会なかなか無ぇぜ」
「えぇぇっ!?そっ、そんなのダメだよ!着物が破れちゃったのは真選組のせいじゃないし、こんな高価なものを買ってもらうわけには……私、お断りの手紙を書くから、総悟くんから土方さんに渡してもらえる?」
「はぁ?っんな面倒くせーことイヤに決まってらぁ。なんで俺が***のおつかい引き受けなきゃいけねーんだ。こーゆー好意はありがたく受け取っとけよ。アンタみてぇな庶民の服を買う金なんざ俺たちにとっちゃ、はした金でぃ。警察の財力なめんなよ」
まくし立てられて***は「うっ」と押し黙った。無理にとは言わない、気に入ったのがあれば買えばいいと言いくるめて、沖田は***の腕を取る。
その腕をぐいぐいと引っ張りながら万事屋を後にして、向かったのは江戸でも有数の老舗呉服店だった。
「まぁ、とってもお似合いだわ。上品な藤色が、お嬢さまの色白のお肌によく映えていらっしゃる」
「お、お嬢さまって……いや、あ、あのぅ……ちなみにこれって、おいくらでしょうか?」
呉服屋のおかみが告げた金額に、***は白目を剥いて腰を抜かした。連れてこられた呉服屋の試着室で、とっかえひっかえ着せられた着物はどれも、庶民感覚の***には信じられないほどの高値だった。よろよろと尻餅をつく姿を見て、沖田はゲラゲラと笑った。
「値段聞いただけでひっくり返るなんて、情けねぇな***。しっかりしろよ。馬子にも衣装かと思ったが、なに着たところで馬子は馬子だねぃ。どれにすんのかさっさと決めちまいな。その紫のでいーのか?」
「そ、総悟くん、こんな高級品、とてもじゃないけど私には着られないよ……!」
慌てて着物を脱いでもっと手頃なものを、と頼み込む。店で最も安いものでさえ***にとっては高価で、ずいぶんと渋った。
しかし、パステルブルーに近い浅葱色の着物を、これは手頃で普段使いができると店員に強くすすめられ、沖田にも似合うと言われた***は、長く悩んだすえにようやく「じゃぁ、これにします」と言った。
おかみが手をパンッと叩いたら、沢山のスタッフが出てきて、本格的にその着物を***に着つけた。せっかくだからと髪を結ってセットされ、化粧を手直しされた***は、困り果てた顔で沖田を見つめた。
「ったく、女の買い物は長くていけねーや。あ~疲れた、オイ、***~、団子おごってくれよ」
「お団子なら何本でもおごるよ……ねぇ、総悟くん、本当に私これ着てていいのかな?お団子と違って、これすごく高いんだよ?後で請求されても払えないんだけど、今のうちに脱いだ方がよくない?」
「だ~いじょうぶだっつってんだろ、アンタもしつけぇな。どーせ経費で落ちるんだ、遠慮しねーでもっと高ぇヤツにしたってよかったくれーでぃ……それにその着物、まぁまぁ似合ってんだから、***は堂々と胸張って着てりゃいいんだよ」
「そ、そうかなぁ。それならいいけど……あ、長く待たせてごめんね。ああいうお店初めてで、どれも同じに見えて悩んじゃったよ。総悟くんが似合うって言ってくれたから、これに決められたの。ありがとう」
ようやくホッとしたのか、***は微笑みながらぺこっと頭を下げた。謙虚なその態度を見て、多分コイツのこういうところが土方さんの好みなんだろうな、と沖田は思っていた。呉服店の領収書を渡した時の土方の反応が、たやすく想像できる。こんな安物でいいのかと驚く一方で、あの人はきっと嬉しそうな顔をする。庶民的で素朴な***のことだから、慎ましい物しか欲しがらないと分かっていたと、得意げに言うに決まってる。
鬼の副長ともあろう男が、***の前ではやけにくつろいだ表情を浮かべることに、沖田は気付いていた。常に神経を尖らせた仕事人間のあの人が、***の近くでは肩の力を抜く。やわらいだ瞳でこの小娘を見つめる。
都会的で洗練された女より、飾らない***の清純さに惹かれるらしい。妹みたいなものだと土方はのたまっていたが、それは立派な恋慕に見えた。救いようもない愚かな横恋慕に。
———土方さんは大馬鹿でぃ。こんなちんちくりんの地味な娘にたらしこまれちまって、真選組の名が廃れるぜ。それも***には旦那がいるっつーのに……っつーか、あの旦那こそ、なんで***を選んだかねぇ。すぐにおどおどするマヌケなうえに、男を知らない女の相手なんざ、どう考えたって面倒くせぇや———
団子屋を目指して通りを並んで歩く。その脚が止まったのは、カップルで溢れるカフェの前だった。カラフルなスイーツに満ちたガラス張りの喫茶店は、恋人たちでにぎわっている。
男女二人組だらけの店内に、見慣れた銀髪頭を先に見つけたのは***だった。店まであと10メートルというところで「あ」と言って立ち止まり、そのまま動かなくなった。隣で***が息を飲んだので、沖田はその視線の先を追った。そこに知らない女と向かい合って、パフェを食べる銀時がいた。
「ありゃァ、旦那じゃねぇか。なんでぃ、あの人の今日の仕事は女とパフェ食うなんつーお気楽なもんなのか?」
その問いに答えがないので不審に思って横を見ると、***は今までに見たこともない不思議な表情を浮かべて立ちすくんでいた。
それは迷子の子どものように困り果てた顔だった。
八の字に下がった眉の間に、珍しくシワが寄る。見開かれた瞳に驚きと哀しみが渦まいているのに、その行き場が見つからなくて、黒目がユラユラと泳いでいた。
泣き出す寸前のようにわなないた唇を、***は両手でぱっと押さえる。細い指はカタカタと震えて、薬指の指輪の赤い石まで揺れていた。
「ぎ、銀ちゃん、どうして……」
小さくつぶやいた***の顔は、数秒でさぁっと青ざめた。銀時の向かいに座る女は、アイドルのように整った顔でメイクも服もいかにもデートという感じだった。
一方、銀時は一心不乱にパフェをぱくぱくと食べている。しかし、よく見るとスプーンを持っていない方の左手に、女の手が重なっていた。ふたりの不自然な様子に、沖田は眉をひそめた。
「なぁ、***、ありゃァどういうことでぇ。あの女は一体なんなんだ。アンタ死にそうな顔してるが、どうしたんだよ。旦那とあの女のこと何か知ってんのか?」
「ち、ちが……あッ!!!」
***が泣きそうな声を上げた瞬間、ガラス窓の向こうの銀時が、こちらに顔を向けた。沖田と***の存在に気付いた途端、ぼけっとしていた顔が変わって、死んだ魚のような目がギクリと見開かれた。声が聞こえなくてもその口の動きだけで、銀時が「は?」と言ったのが分かった。
「あわわっ……そ、総悟くんっ、私、帰るっ!!」
「お、おい!旦那はいいのかよ!?」
くるりと踵をかえした***が、沖田の横をすり抜けて駆け出した。背後のカフェでは慌てて立ち上がった銀時が、食べかけのパフェをひっくり返していた。
バンッと大きな音をたてて開いたドアから、銀時が飛び出してきた時にはもう、沖田も***を追って走り出していた。その背中に銀時の声が届いた。
「***ッッッ!!!」
前を走る***にも聞こえているはずだが、その足は止まらなかった。小さな背中は一度も後ろを振り返らなかった。
「はぁっ、はぁっ……っ、」
ようやく***が足を止めたのは、追ってくる銀時の姿が見えなくなってからだった。息を切らして立ち止まった***の腕を、沖田は後ろから強くつかんだ。
「***、いきなり飛び出して驚かせんじゃねぇや……オイ、旦那を置いてきちまっていーのかよ。あの人がよその女と手ぇ繋いでたのが、アンタ嫌だったんだろ?」
「ちがっ、はぁッ……ちが、ぅの、」
胸を押さえた***は息苦しそうに言った。違う違うとくり返しながら何度も首を振って、沖田から逃れようと後ずさる。黒い瞳には今にも溢れそうなほど涙が溜まっていた。荒く乱れた呼吸を続ける顔は、痛みに絶えるように歪んでいた。
———あぁ、そうだ、コイツ、こーゆー顔するんだったっけ……
ひどく苦しそうな***の顔を見た途端、背筋がぞくっとするほどの興奮を覚えた。目の前の女の辛そうな姿に、生粋のドSが喜んでいる。そういえば銀時も、自分と同じサディスティックな男だったと思い出したら、まるで人のオモチャを横取りした気分だった。その優越感はあまりに愉快で、もっと***の苦しむ姿が見たくなった。
「これは俺の憶測だが……アンタ、あの女のこと知ってるんだろ?最近やけに旦那と一緒にいる女とか、そんなとこか?でも今日の旦那の仕事が、あの女とのデートだとは、呑気な***は夢にも思ってなかった。旦那のことだから、出かける前にはメガネとチャイナと一緒だとか言ってたんじゃねぇか?嘘ついてまで、あの女とふたりで会ってるなんて怪しすぎらぁ……それで***は、テメェの彼氏がよその女に誘惑されてるってのに、おっかなくって逃げちまったんだろ?しっぽ巻いて、すたこらさっさと、情けねぇったらありゃしねぇ」
「っっ………、ち、ちがうよ!!」
細い腕を揺すって、***は沖田をふり払おうとした。あてずっぽうで言ったことがあながち間違いじゃないと、涙をこらえる顔で分かった。
もうひと押しで***はへなへなと泣き崩れるだろう。その姿を想像するだけで腹の底から笑いたくなる。どす黒い微笑みを浮かべて、沖田は***の腕をぐいっと引っ張る。近づけた顔を真上から見下ろして、意地の悪い声で問いかけた。
「アンタ、旦那と最後にデートしたのはいつでぃ」
「えっ?……そ、そんなの、」
総悟くんには関係ない、という声を無視して、指先が食い込むほど強く、華奢な二の腕をつかんだ。答えるまで離さないと脅したら、***は痛みに眉をしかめながら、震える声で答えた。
「きょ、去年の10月……銀ちゃんのお誕生日に、遊園地に行ったのが最後……で、でもスーパーに買い出しに一緒に行ったり、いつも万事屋で会ってるから、そんなの気にならないもん」
「んなこたァ聞いてねぇよ。***は知らねぇだろうが、フツーの恋人同士ってのは、もっと頻繁に出かけるもんでぃ。10月っつったら3か月も前じゃねーか。彼女を3か月も放置するたァ、旦那も罪な人だねぃ。それともあの人にとっちゃアンタは、メシ作って掃除してくれる家政婦みてぇなモンなのかねぇ……」
卑屈な声で責め立てると、うつむいた***の肩がぶるぶると震えた。さっさと泣け、泣きじゃくって目も当てられねぇ不細工な顔を見せやがれ。そう思ってほくそ笑んでいたが、***からしぼり出た声は、意外なことに泣き声ではなかった。
「総悟くんに、聞きたいことがあるんだけど」
「あ゙ぁ゙?なんでぃ?」
パッと顔を上げた***が沖田を見つめた。その瞳は全く潤んでいなかった。揺れていた黒目もぴたりと止まり、まっすぐ前を見据えている。「な、なんだよ」と沖田が気圧されるほど、***の目付きは切実だった。しかし、その口から飛び出してきた質問は、全く予想もしない突拍子のないものだった。
「ねぇ、総悟くんっ……あの店で、銀ちゃんが、なんのパフェ食べてたか覚えてる!?」
「は、はぁぁぁぁ!?」
「私、ちゃんと見てなかったせいで思い出せないの。あんまり大きいパフェじゃなかった気がするんだけど、なにパフェだったかなぁ!?」
「いやいやいやっ、アンタ、そんなこと気にしてどうすんでぃ。パフェだろうが何だろうが、んなこたァどうでもいいだろうが!そんなことより、旦那が女と一緒にいたことを心配しやがれ!」
「そ、それは別にいいの。きっと急な依頼で、一緒にカフェに行ったんだよ。ねぇっ、それよりなんのパフェだった?レインボーのカラフルなのだった?大きいチョコのやつだった?総悟くん、思い出せる!?」
すがりつくように、***は沖田の隊服の胸元をぎゅっとつかんで問いかけた。しかたなく記憶を巡ると、たしか銀時が食べていたのはイチゴがのった普通のパフェだった。バニラアイスとコーンフレークが入っていそうな、いたって平凡なイチゴパフェ。
沖田がそう告げた瞬間、***は「はぁぁ~~」とため息をついて膝から崩れ落ちた。地面にしゃがみこんで空を仰ぐ。眉が下がりきった顔は泣き出しそうなのに、開いた唇からは「あはは」と笑い声が零れた。
「そっかぁ、イチゴパフェかぁ……」
「はぁぁ?アンタ、頭イカれちまったのか。テメェの彼氏が浮気してるかもしれねーんだぞ。パフェなんかどうでもいいだろ。旦那のあの慌てぶり思い出して、ちったぁ疑ったらどーでぃ」
ふて腐れたような顔で言った沖田を見上げて、***は弱々しく笑った。うーん、と少しだけ悩んでから、小さな口を開いた。
「銀ちゃんは万事屋さんで、困ってる人なら誰でも依頼人なんだから、女の人と一緒にいたくらいで疑ってたらきりがないよ……ちょっとびっくりたし、逃げちゃったのは確かに情けなかったけど、こう見えて一応、私は銀ちゃんの、その、か、彼女だから、しっかりしなきゃだよね……総悟くんにまで心配かけて、ごめんね。それに気づかってくれて、ありがとう」
「っ……!!」
いじめてやろうと思ったのに。泣き顔を笑ってやる気だったのに。まさかこんな風に微笑んで、ありがとうと言われるなんて。言葉を失った沖田はただ、***をじっと見つめていた。
———コイツは馬鹿か。テメェをいじめた奴にまで無邪気に笑い返しやがって。胸糞わりぃな、ちきしょう……
立ち上がった***がすたすたと歩きはじめる。後ろから追いかける沖田に、今日はもう帰るねと微笑んだ。お団子は今度おごるし、真選組に菓子折りを持ってお礼に行く、と言ったカラッと明るい声は、まるで姉が弟に言い聞かせるような口ぶりだった。
前を歩く背中を見つめた沖田が、何かこの女を困らせる方法はないかと考え込むうちに、***のアパートのある通りにたどり着いていた。
「あっ……」
***が急に声を上げて足を止めた。数十メートル先のボロアパートの部屋の前に、銀時が立っているのが見えて、沖田も立ち止まる。
ずいぶん走り回ったのか、銀時はゼーハーと肩で息をして、***の部屋のインターホンを連打していた。しばらくするとドアをドンドンと叩きはじめ、「オイ、***、いんだろ!?開けろ!!」と叫びはじめた。
「ぎ、銀ちゃ、」
「っ……、行くなっ!!」
銀時に向かって駆け出そうとした***の腕を、とっさにつかんで引き留めた。なぜこんなことをするのか、自分でもさっぱり分からなかった。
え?と振り返った***はポカンとしていた。その顔を見ると同時に、沖田はおもむろにポケットから手錠を取り出す。それを***の手首にカチャンとはめ、もう一方を自分の手首に繋いだ。
「なっ……えっ!?ちょっ、そ、総悟くん!?」
「行くなっつってんだよ。頼むから、行かねぇでくだせぇ……***ねぇちゃん」
そうだ、これは姉弟ごっこだ。弟を置き去りにする姉を、困らせているだけ。困っている***の顔を見て楽しみたいだけ。心の中でそう言うのに、なぜだか***の顔を見る気になれない。こんなことをするのはおかしいと思いながら、沖田は手錠をつけてない方の手で***の肩をつかんで、ぐいっと抱き寄せた。
「わゎっ、ねぇ、総悟くん、どうしたの?もしかしてお団子食べてないから怒ってる?そんなに食べたかったの?」
「ちげぇや……俺ァただ、旦那みてーなズルイ男が許せねぇだけでぃ。テメェの彼女をほったらかして、他の女としけこむような汚ねぇ男が、怒られもしねぇでいい思いをするのは癪すぎらぁ」
小さな肩に腕を回して抱きしめると、***の髪から甘い香りがした。華奢な身体は腕のなかにすっぽりと収まる。俺でこんな風なら、俺より体格のいい旦那だったら、まるで抱きつぶすみてーだろうな。そう思ったらより一層、腕に力が入り、戸惑う***を強く抱きしめた。
「***……その着物はアンタにすげぇ似合ってる。せっかく着飾ってんだから、あんな男じゃなくて今日は俺と一緒に居なせぇ。団子じゃなくて、さっきのあのカフェでパフェでも何でもおごってやる。どーせ金もあり余ってるし……そしたら旦那とおあいこで、***も気分が晴れらぁ。なぁ、そーだろ?」
そう言って黙り込んだら、***の片手が背中に回ってポンポンと優しく叩いた。聞き分けのない子どもをあやすような手つきで沖田を撫でながら、微笑むような柔らかく静かな声で「総悟くん」と呼んだ。
「総悟くん、ありがとう。着物を似合うって言ってくれて嬉しい。取り乱しちゃった時も一緒にいてくれて、すごく助かったよ……でも、私、やっぱり今日は銀ちゃんのところに行きたい。他の女の人といたっていいの。デートも出来なくていい。家政婦みたいって思われても全然いい。周りにどう思われても、それでも私は銀ちゃんの彼女だし、それにそんなことより、」
私が銀ちゃんのことを好きって思う気持ちの方が、ずっと強くて、もっと大切だから———
その言葉を聞いた瞬間、沖田の脳裏についさっき見た***の顔が蘇ってきた。カフェで銀時を見つけた時の困り果てた顔。あの時の***は、銀時が他の女と一緒にいることに困っていたんじゃない。そう気付いて、沖田はハッと息を飲んだ。
青ざめた顔で「銀ちゃん、どうして」と言った。あの瞬間、***は確かに怒っていたし哀しんでいた。
でも、なによりも***は、そんな気持ちを抱く自分自身に困っていた。怒りも哀しみも抑えこんで、なんとかして自分の胸だけに留めようと、***はひとりで戦っていた。迷子の子どもような目をして、抗う気持ちの隠し場所を探していたのだ。
逃げ出したのは怖かったからじゃない。隠そうとする思いを銀時に知られてしまうのが、***は嫌だったのだ。
カシャンッ———
地面に何かが落ちた音がすると同時に、腕の中の***が身じろいだ。手錠をかけたはずの細い手首が自由になって、小さな両手で沖田の胸をとんっと押した。
身体が離れて見下ろしたら、沖田の手首から伸びた鎖の先に、開いた手錠がぷらんとぶら下がっていて、地面には簪が1本落ちていた。
「なっ……アンタどうやって、っ……!」
驚きに瞳を見開いた沖田の頭に、***の手が伸びてくる。その手は親が子どもを慈しむような優しい手つきで、栗色の髪をサラサラと撫でた。
「総悟くん、私もう行かなきゃ。お団子は今度一緒に食べに行くって約束する。今日はいろいろ、ありがとう」
ふわっと微笑んでそう言い残した***は、くるりと身をひるがえして駆け出した。引きとめる間もなく、声を掛ける余裕もなかった。
「銀ちゃんッッッ!!!」
全力で駆ける***が、大きな声で銀時を呼んだ。思い返してみれば、逃げる時も駆け寄る時も、***の瞳にはあの銀髪男の姿しか映っていなかった。どんな時も、他のどんなものも、銀時を見つめる***の邪魔をするなんてできない。
「ははっ、こいつァすげぇや……」
簪を拾い上げると、沖田は呆れたように笑った。開いた手錠を見下ろして、あんな小娘にしてやられたと思うと悔しくて仕方がない。オドオドしてマヌケで、押せば簡単に倒れそうに見える***は、想像よりずっと頑固で、思った以上に手ごわい女だ。
———横恋慕なんて、土方クソヤローのような大馬鹿のすることだ。報われない恋なんざ、くだらねぇ。俺のような男が***なんかを相手にするわけがねぇ。頼まれたってあんなイカれた女はお断りだ。後ろなんてふり向かずに、前だけを見ている女。横なんてひと目も見ずに、ただまっすぐ前へと駆けていくような、あんな女相手に、横恋慕なんざ、俺は絶対にしねぇ……———
ほどけた黒髪を揺らしながら、***は一直線に銀時へと駆けていく。立ち尽くした沖田は、だんだんと離れて小さくなっていく背中から、なぜか目を離せなくて、いつまでもずっと見つめ続けていた。
---------------------------------------------------
【(28)前と横の中間地点】end
ありがとうと君に言われるとなんだか切ない