銀ちゃんの愛する女の子
おいしい牛乳(恋人)
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【(23)金のボタン】
数時間前、スーパーのアルバイトを終えて、***はのんびり歩いていた。そこに黒いワゴン車が乗り付けて、見知った女が出てきた。泣きそうな顔で「すごく困ってるの、***さん助けて」と姫子は言った。
てっきりストーカーから守るためにどこかへ送るとか、家まで一緒に帰るとか、そういうことだと思ったのだ。銀時たちは今夜は仕事だと言っていたし。しかし気付けば、姫子の彼氏が運転する車に乗せられて、キャバクラへと連れてこられていた。
そしてこんな恰好で、こんなところで働いてます。そう言って顔を上げると、呆れ顔の近藤と土方が***を見下ろしていた。
「この店はダメだよ***ちゃん。せめて働くならお妙さんのいるトコにしてくれ……しかし、その姫子さんって人はどこにいるんだ?***ちゃんみたいな純粋な娘を、こんな店に無理やり連れてきてはいけないって、俺はひとつ説教でもしたいね」
「あっ、いえ、近藤さん……断り切れなかった私が悪いんです。人出が足りないって泣かれてしまったら言葉が出なくて……数時間だけならって安請け合いしたのは私なんです」
「***、お前は馬鹿か。キャバ嬢の涙なんざ演技だよ演技!そもそも助けてって言われただけで、のこのこついてくんのは、お人よしを通り越してマヌケだろうが。それでこんな恰好させられて危険な目にあってんのは、自業自得って言うんだよ」
「ひ、土方さん、仰るとおりでございます……」
ぐぅの音も出ないとはこのこと。うなだれた***を土方はまだ「無防備すぎる」「もっと警戒しろ」「少しは頭をつかえ」と責め続けた。この席に座ってすぐ、沖田が松平に呼ばれて離席した直後から、土方のお説教はかれこれ15分以上続いている。
「まぁまぁ、トシ、***ちゃんも反省してるし、結局何も起こらなかったんだ。もう許してやれよ」
近藤にそう言われて、ようやく土方は説教を止めた。たまたま近藤が居合わせて助けてくれたからよかったが、そうでなければ今頃、あの男にいいようにされられていたかもしれない。そう思うと***はぞっとして、鳥肌立った自分の腕をぎゅっと抱きしめた。
「近藤さん、本当にありがとうございました。近藤さんがいなかったら私、あの後どうなってたか……」
「気にするな***ちゃん。嫌がる女の子を無理に連れてこうとする野暮ったい野郎のことなんて、もう忘れた方がいい。こういう店に来る輩に、粋な男はいねぇさ」
「はい、そうですね……あ、でも、助けてくれた近藤さんはとてもかっこよくって素敵でしたよ」
「えっ!!?」
弱々しく笑いながら***が言った言葉に、近藤の心臓はドキンとする。とてもかっこよくって素敵?そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。同じことをお妙に言ってもらいたいが、そんな機会は滅多に無い。少し後ろめたかったが、お妙の代わりに無邪気な***が言ってくれるなら、それも悪くない気がした。
「そ、そうかなぁ***ちゃん、俺は少し出しゃばりすぎたかと思ったが、そ、そんなに、素敵だったかなぁ?」
「素敵でしたよ、近藤さん!あのお客さん相手に紳士的で、さりげなく守ってくれてかっこよかったです、とても!」
「っっ……!***ちゃん!!」
近藤の瞳に涙が浮かんだ。ああ、嬉しい。純朴で裏表のない***に言われたら、それが本当のことに思える。
「ははっ、嬉しいよ***ちゃん……いつかお妙さんにもそう思ってもらえたらいいんだがなぁ」
にじんだ涙を指でぬぐった近藤のつぶやきを、***は聞き逃さなかった。ハッとして身を乗り出すと、近藤の手を両手で取り、ぎゅっと握った。
「もちろんですよ、近藤さん!きっとお妙さんは近藤さんが素敵な人だって知ってると思います。私にしてくれたみたいに、さりげなく紳士的に、かっこよく接したら……そしたら絶対、お妙さんは近藤さんのこと、好きになると思います!」
「***ちゃんっ……!勲、嬉しい!!***ちゃんに言われると、勇気が出てくるよ!オイ、トシ!とっつぁんのことはお前と総悟に任せた。俺は今すぐお妙さんのもとへ行く!愛する女をさりげなく紳士的にかっこよく見守るために!!止めるな、トシ!!!」
「いや、俺ァ、止めねぇけど……けどよ近藤さん、アンタ、あの女の前でさりげなくなんて出来んのか?」
「もちろん出来るさ!さりげなくテーブルの下とか、さりげなく天井の裏とかにね!!」
「さりげないの意味がちげぇだろ!紳士でもなんでもねぇ、そりゃ完全に変態ストーカーだろ!かっこいいどころか完全にアウトだろぉぉぉ!!!」
土方の制止も聞かず、勢いづいた近藤はあっという間に店を出て行った。ぽかんとした***と呆れ顔の土方が残されたソファに、沖田が戻ってきた。
「あれ、近藤さんはどこ行ったんでさぁ……にしても土方さん、この店うさんくせぇですぜ。メス共のなかに何人かヤク中の奴が混ざってらぁ……あ、まさか近藤さん、そんな奴らに捕まったりしてねぇでしょうね?」
「大丈夫だ総悟。近藤さんは怪力女ひと筋で、ヤク中共にはなびかねぇよ。あの人はあのとおり純粋だからな。現に今も***に、素敵だのカッコイイだの言われて、舞い上がって店ぇ出てっちまった」
ふーん、と言いながら沖田が席に座ると同時に、今度は土方が松平に呼ばれて立ち上がった。グラスの飲み物は飲むなと言って、沖田は***にコロナミンCの瓶を手渡した。ふたりそろって飲んでいると、急に沖田は***の方を見て口を開いた。
「それにしても、アンタようやく……」
じろじろと音がするほど、ドレス姿の***を眺める。のほほんとした顔でコロナミンCを飲む***に、沖田はニヤリと笑ってとんでもないことを口にした。
「***、万事屋の旦那とヤったろ?」
「ぶッッッッッ!!!!!」
ジュースを吹き出して真っ赤な顔で***が絶句すると、沖田はゲラゲラと笑った。ニヤつきながら「図星だろぃ」と言われて、***は慌てて首をぶんぶんと横に振った。
「ち、ちがう、総悟くん、図星じゃない!銀ちゃんとはまだ、そういうことは……って、そんなの人に言うことじゃないでしょう!いくら仲がよくても、女の子にそんなこと聞いちゃダメだからね!怒るよ!!」
「ほぉ~、あの旦那がまだ手ぇ出してねぇって?俺ァ、あの人のことだから、付き合った女はすぐにテメェのもんにしちまうと思ったがね……あぁ、そうか、***がガキっぽいせいか。どーせアンタ、旦那に迫られてもいつもの調子で、恥ずかしがってオドオドしてんだろ?まだしてねぇっつったって、あの人に強いられて、直前くらいまでは行ってんじゃねーのか?」
「なっ!!な、なんでそれを……」
それは図星、と言うような***の顔がヤケドしそうなほど赤くなる。痛い所を点かれたという表情で、顔の横の後れ毛をさっと耳にかけた。ほくそ笑んだ沖田は、やっぱりなと思いながら、改めて***の姿を上から下まで眺めた。
———やっぱりな、どうりで大人っぽくなりやがった。土方コノヤローは相変わらずコイツをガキ扱いしてるが、***はもう男を知らない生娘じゃねぇ。キャバ嬢にも引けを取らねぇくらいの、まぁまぁいい女になってんじゃねぇか……
外見は出会った頃と大差ない。胸が大きくなったわけでもない。相変わらず細っこい身体は魅惑的とは言い難かった。しかし***のまとう雰囲気は、ここ数カ月で大きく変化した。以前の***はこんな笑い方はしなかった。困った時に髪を耳にかける癖は前からだが、今の***がやるとやけに艶っぽい。
付き合って数カ月も経てば、普通の男女はそういう仲になる。そうでない方が珍しいが、***の初心さを考えれば仕方がないかもしれない。あの飄々とした銀時が小娘相手に手こずって、苦悩している姿を想像するとあまりに愉快で、沖田は思わず吹き出した。
「ふははっ、あの人ァ女を大事にするなんてタマじゃねぇからなぁ。万事屋なんてあやしい商売の男だ、どうせ遊びかノリか、そんな爛れきった野郎だろぃ……***も苦労が絶えねぇな、旦那なんかと付き合っちまって」
「そ、そんなことないよ。銀ちゃんは口は悪いけど、ああ見えて女の子にすごく優しいから。むしろ私が子どもすぎて、銀ちゃんに苦労させてるくらいで……」
しょんぼりとした顔でつぶやいた***が、左手でまた髪を耳にかけた。その薬指の指輪の中央についた赤い石が、鈍く光る。自覚もない惚気を聞かされて、沖田はおもしろくない。溜息をついて何気なくテーブルを見ると、***の飲みかけのコロナミンCの瓶が目に入った。いたずらを思いついたサディスティック星の王子の瞳が、キラリと光った。
「なんでぃ、***、そんなに落ち込むなよ。さっきはガキっぽいなんて言ったが、アンタまぁまぁ大人っぽくなってやがらぁ。せっかくキャバクラで働いてんだ、乾杯してなんか飲めよ」
「え、乾杯?それはいいけど、総悟くんもお酒はダメだよ。コロナミンCのおかわりでいい?」
***が席を立った隙に、沖田は隣から拝借した酒を飲みかけの瓶に注いだ。いつか見た泥酔した***の姿が脳裏に蘇って、くつくつと笑う。目に留まった人全員に抱き着いてキスして回ってたっけ。
「はい、総悟くん、どうぞ。あ、えーと……乾杯!」
「オイ、***、なんでぃそりゃ。ずいぶん色気のねぇ乾杯じゃねーか。せめてもうちょっとこっちに来やがれ」
「えっ、わゎゎっ、ちょ、総悟くん!?」
沖田は不満げな顔で、並んで座る***に手を伸ばした。背中から腕を回して、肩をつかむと自分の方へと引き寄せる。ドレスのすそが乱れてスリットが開く。慌てて押さえようとする***の手を制して、露わになった白い太ももを沖田の指先がさらっと撫でた。
「や、ちょ、ちょっと、総悟くん!く、くすぐったいから、やめてよ!!」
「いーじゃねぇかこんくらい。そんな服着て働いてんだ、少しはサービスしろぃ。ほれ乾杯」
悔し気な顔の***にコロナミンCを手渡す。瓶同士がぶつかってカチンと鳴った。小さな唇に瓶の口が添えられるのを、沖田はじっと見つめた。さぁ、早く飲め。これだけ近くにいれば、酒に酔った***はきっと抱き着いてキスをしてくる。下手すれば恋人にも見せたことのない淫らな姿を見せるかもしれない。
「さっさと飲めよ***~。それともジュースじゃ不満ってんならテキーラでもなんでも、無理やりその口に突っ込んで、飲ませてやろうかぃ」
「ひッ、ちょ、ちょっと待ってっ……!」
青ざめた***が慌てて瓶を傾けようとした瞬間、背後からドスの利いた低音の声が響いた。
「オイコラ、総悟、そこまでだ」
ゴンッッッ!!!!!
「うぐッッッッ!!!」
いきなりソファの真後ろに現れた土方が、重たいアルコール瓶の底を、沖田の頭のてっぺんに叩きつけた。それと同時に土方は、***の手からコロナミンCをすばやく取り上げた。ぐらっと倒れた沖田がぶつかって、***の髪のお団子が、片方だけリボンが緩んでほどけた。
「痛ッてぇな、土方コノヤロー!何すんでさぁ!」
「そりゃこっちのセリフだ。オメーこそ***に何してやがる……それよか総悟、お前の出番だぞ。とっつぁんがシャンパンタワー作るらしいから、お前行ってタワーのてっぺんからテキーラ流し込んでこい。それであのジジィ潰して、さっさと帰るぞ」
「ったく、もう少しでおもしれぇモンが見れたってのに、土方さんは野暮でいけねぇや……へーへー、行きゃぁいいんだろ、分かりやしたよ~」
酒瓶を受け取って、沖田はダルそうに席を立った。
ソファに座った土方を、ひどい疲れが襲った。松平に同席する間ずっと、両腕にキャバ嬢たちがすがりついていたから。強い香水に胸やけがした。耳障りな「土方さぁん」の声をようやく振り切って戻った席で、***が出迎える。およそキャバクラには似つかわしくない純朴な笑顔で「お疲れさまです、土方さん」と言われたら、荒んでいた心が癒えた。
「***、お前そろそろ帰れ。シャンパンタワーが終われば、俺と総悟も引き上げる。なんなら家まで送ってやるから、今のうちに準備しとけ」
「そんな、これ以上ご迷惑はかけられません……店長さんと9時までって約束なので、もう少ししたら帰ります。だから大丈夫です」
煙草に火をつけながら横目で見た***は、そろえた膝の上のスカートの裾を、指で引っ張りながら居心地悪そうにしていた。たやすく開くスリットのせいで、脚が露わにならないよう、しきりに手で抑えている。
「ったく、しょうがねぇな……ほら、コレかけとけ」
「わっ!ぁ、ありがとうございます……」
土方は制服のジャケットを脱ぐと、白い膝小僧にかけた。これで少しは隠れるだろう。他の女たちの露出に比べれば生足なんて大したことはない。しかし普段は和装で、夏でも肌をさらさない***からすれば、ミニスカートなんて慣れないはずだ。それに———
———それに、こっちだって目のやり場に困ってしょうがねぇ……
煙をふーっと吐き出しながら、土方はやれやれと自嘲気味に頭を振った。小一時間前の記憶が蘇ってきた。
変な客に連れて行かれそうになる***に気付いた時、土方はひどく荒れた。腰の刀に手をやり駆け出そうとしたのを、近藤と沖田が押しとどめた。松平のひいきの店で騒ぎを起こすなと言った近藤に、その後は全てを任せて、遠目で***を見守っている間、気が気じゃなかった。
「あれ?……あの、土方さん、首のところに、何か」
ぼうっと記憶に浸っていたら、***がふと土方に声をかけた。おずおずと伸びてきた細い指が、土方の耳の下あたりに遠慮がちに触れた。
「あ゙ぁ゙?」
くわえ煙草のまま不思議な顔をしていたら、言いにくそうに***がささやいた。
「ここに唇の跡があるんです。その、口紅の……」
「なっ……!?あー……クソッ、あの女どもか」
さっきまで腕にぶらさがっていた女につけられたと気付き、勢いよくシャツの袖で拭おうとしたが、***の手が止めた。服につくと取れなくなると言って微笑むと、ソファをすりすりと移動して、土方と向き合うように座り直す。
「土方さん、少し横を向いてくれますか?」
そう言って***は、土方の首に温かいおしぼりを押し当てた。耳のすぐ下、首のやや後ろ側を、ぬるいタオルと***の細い指がなぞる。
なかなか取れないと言って目を細めた***が、首筋をのぞきこむから、顔が近づく。少し頭を動かせばキスすらできそうな距離だ。そんなことは武士としてあるまじき、と言い聞かせて土方は高鳴る鼓動を必死で抑え込んだ。
———ったく、コイツは、完全に無意識でこーゆーことをするから危ねぇんだ。相手が俺じゃなかったらどうにかなってるぞ……
「はい、土方さん、綺麗になりました」
「お、おぉ、手間かけたな」
ふにゃっと笑った***が首をかしげて土方を見上げる。よく見ると髪のリボンがほどけて、結ったお団子の片方が取れかかっていた。
「オイ、お前、髪が取れてんぞ。ソレ、直せんのか」
「えっ……?わっ、ほんとだ、いつの間に」
驚いた***が右手で髪に触れると、ほころびはさらに広がって、リボンと長い髪が肩にぱさりと落ちた。
「あっ、イタッ、あ、あれ?な、なにこれ……」
「オイ、***、それ以上触んじゃねぇ。首んとこのボタンに引っかかってやがる」
え、と言ってうつむいても、襟の中央の金のボタンは***の視界には入らない。ほどけた髪が一筋ボタンに絡まって、ピンと引っ張られていた。むやみに動く***の手で引っ張られた黒髪は、今にも千切れてしまいそう。思わず土方は***の細い指を上からつかんで制した。
「す、すみません、土方さん、よく見えなくて……あの、もしかして、すごく絡まっちゃってますか?」
「絡まってるどころか切れちまいそうだ。解いてやるから、ちょっと大人しくしてろ」
今度は土方が身を乗り出して、***の首元を覗き込む。安い金メッキのボタンの裏側は、手荒に縫いつけられて糸がねじれていた。そこに更に***の黒髪が巻き付いて、収拾がつかなくなっている。
「ひ、土方さん、重ね重ね、ごめんなさい」
「……いいから***、少し黙れ、顔上げろ」
互いの息が当たるほどの近さで、顔を寄せ合っている状況に、土方はおかしな気持ちになりそうだった。
いや、そんなつもりはない。ただ髪を解いてやるだけ、人助けだ人助け。そう言い聞かせるのに、指で触れた黒髪から花のような香りがして、ぐっと奥歯を噛む。キャバ嬢たちの人工的な香水とは違う、瑞々しい香りだった。少し首を反らした***のまぶたの先で、長いまつ毛が震えている。きゅっと結ばれた朱色の小さな唇は、触れてみたくなるほどふっくらとしていた。
相手が自分でなければ、襲われてもおかしくない。そう思うと土方は***の無防備さがまた心配になった。
「オイ***、お前、少しはテメェが女だって自覚しろよ。さっきの野郎みてぇな頭のおかしい男に、また絡まれたらどうする。今日は偶然、俺たちが居たがこんな幸運はいつまでも続かねぇ」
「土方さん……さっきはご心配をおかけして、本当にすみませんでした……あっ、そうだ!そういえば店長さんに、変な客に絡まれたら外国人のフリをして、言葉が通じないって顔すれば大丈夫って教わってました。次はちゃんと自分でなんとかしますから、もう大丈夫です!」
ヘラヘラと笑った***が能天気に返すから、呆れた土方は深くため息をついた。ボタンに絡まる髪はまだ取れない。1本1本解いても、外したそばからまた別の髪が絡んでくる。土方の手は金のボタンと***の柔らかい髪を、あてどなくさまよった。手を動かす度に、曲げた指の関節が***の胸元をかすめる。
必死で平常心を保つ土方とは対照的に、***はのほほんとして何も気にしていない。
「言葉が通じねぇフリしたくらいで、こんな店の客が追い払えるわけねぇだろうが。むしろ好都合だって付け込まれるだけだ……俺にだって髪触らせたりすんなよ***、警戒心が足りねぇってさっきも言っただろ」
「で、でも土方さんは……女の子に付け込むような男の人じゃないですから」
眉を八の字下げた困り顔で、うつむいた***が首元のボタンに手探りで指を伸ばした。黒髪と金のボタンと、土方の骨ばった指と***の華奢な指が、まぜこぜになる。ひんやりとした指先と触れ合ったら、急に身体がフワフワして土方は落ち着かなくなった。
「………どうして分かるんだよ」
「え?」
「どうして俺が、女に付け込むような男じゃねぇって、お前に分かるんだよ、***」
きょとんとした***が土方を見上げる。その目に警戒心は無い。膝に掛かる上着の隙間から、白いふくらはぎがチラリと見えた。静かに息を吸ったら、やはり***の髪が甘く香り立つ。
警察官としてとか、近くに上司がいるとか、武士としてとか、そういうことが頭から抜け落ちた。酔い騒ぐ人々の声が遠のいて、ただ***の澄んだ黒い瞳とふわりとした唇だけが、土方の視界を占領していた。
———キスも簡単にできるじゃねぇか、この馬鹿……
金のボタンごと華奢な指をつかんで、さらに顔を寄せたが***は避けようともしない。
「あの……土方さん?」
「***………」
もう少しで唇が触れ合う。ふたりを邪魔をするものは何もない、そう思った瞬間だった———
バシャッッッ!!!!!
「きゃッ!!!ひ、土方さ、えっ!!?」
「なっ……!?く、クマッ!!?」
液体が降ってきたと思ったら、土方の真後ろにピンクのクマが立っていた。ふわふわの手には空のグラスを持ち、悪びれる様子もなくたたずんでいる。近距離から放たれた酒は、土方よりも***に多く掛かっていた。
「ひ、土方さん、大丈夫ですか!?あ、制服が!」
「いや、俺は大したことない。お前の方が……」
まるで狙ったかのように、酒は***の顔をよけてぶちまけられていた。紅いチャイナドレスの襟から胸元にかけてびっしょりと濡れて、髪と赤いリボンが白い首に張り付いている。そこから落ちた水滴が、膝の上の土方の制服を濡らした。
「すみません土方さん、私、着替えてもう帰ります。ジャケット汚してしまったので、洗って返してもいいですか?」
「いや、そりゃ別に構わねぇが……」
「何度もご迷惑をおかけして、ごめんなさい。じゃぁ、あの、失礼します」
「あ、オイッ、***!」
立ち上がってぺこりとお辞儀をした***は、上着を胸に抱いて駆け出した。土方の声にも振り返らない。髪はボタンに絡まったまま酒まで浴びて、汚れた上着より***の方が土方は心配だった。
そもそもアイツ、こんな遅い時間にひとりで帰るのか?それはダメだと思い、一歩踏み出した途端、その肩を後ろから何かがつかんで、強い力で押し戻した。
「あ゙ぁ゙ッ!?なんだよオメーはァ!!?」
ぐぐぐっと肩をつかんだのは、着ぐるみのクマだった。被り物の笑顔と、その手のとてつもない力強さのギャップにぎょっとする。人工的な目は底なし沼のようにどす黒く、着ぐるみ全体から殺気を感じた。
ぞわっと鳥肌立つ土方をソファに押し戻すと、クマは何も言わずに歩き出した。呆気に取られた土方の視界で、着ぐるみは***を追うように店の奥へと続く角を曲がって消えた。
「な、なんなんだ、ありゃぁ……」
ちょうどその時、店の中央でシャンパンタワーの最上部から酒が注がれはじめた。朝まで乱痴気騒ぎの続くうさんくさい店から、脱出するのはもうそろそろだ。
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【(23)金のボタン】end
ウォーアイニー(2)
募ル思ヒ チラリズム 君ガ触レタラ フワフワ
数時間前、スーパーのアルバイトを終えて、***はのんびり歩いていた。そこに黒いワゴン車が乗り付けて、見知った女が出てきた。泣きそうな顔で「すごく困ってるの、***さん助けて」と姫子は言った。
てっきりストーカーから守るためにどこかへ送るとか、家まで一緒に帰るとか、そういうことだと思ったのだ。銀時たちは今夜は仕事だと言っていたし。しかし気付けば、姫子の彼氏が運転する車に乗せられて、キャバクラへと連れてこられていた。
そしてこんな恰好で、こんなところで働いてます。そう言って顔を上げると、呆れ顔の近藤と土方が***を見下ろしていた。
「この店はダメだよ***ちゃん。せめて働くならお妙さんのいるトコにしてくれ……しかし、その姫子さんって人はどこにいるんだ?***ちゃんみたいな純粋な娘を、こんな店に無理やり連れてきてはいけないって、俺はひとつ説教でもしたいね」
「あっ、いえ、近藤さん……断り切れなかった私が悪いんです。人出が足りないって泣かれてしまったら言葉が出なくて……数時間だけならって安請け合いしたのは私なんです」
「***、お前は馬鹿か。キャバ嬢の涙なんざ演技だよ演技!そもそも助けてって言われただけで、のこのこついてくんのは、お人よしを通り越してマヌケだろうが。それでこんな恰好させられて危険な目にあってんのは、自業自得って言うんだよ」
「ひ、土方さん、仰るとおりでございます……」
ぐぅの音も出ないとはこのこと。うなだれた***を土方はまだ「無防備すぎる」「もっと警戒しろ」「少しは頭をつかえ」と責め続けた。この席に座ってすぐ、沖田が松平に呼ばれて離席した直後から、土方のお説教はかれこれ15分以上続いている。
「まぁまぁ、トシ、***ちゃんも反省してるし、結局何も起こらなかったんだ。もう許してやれよ」
近藤にそう言われて、ようやく土方は説教を止めた。たまたま近藤が居合わせて助けてくれたからよかったが、そうでなければ今頃、あの男にいいようにされられていたかもしれない。そう思うと***はぞっとして、鳥肌立った自分の腕をぎゅっと抱きしめた。
「近藤さん、本当にありがとうございました。近藤さんがいなかったら私、あの後どうなってたか……」
「気にするな***ちゃん。嫌がる女の子を無理に連れてこうとする野暮ったい野郎のことなんて、もう忘れた方がいい。こういう店に来る輩に、粋な男はいねぇさ」
「はい、そうですね……あ、でも、助けてくれた近藤さんはとてもかっこよくって素敵でしたよ」
「えっ!!?」
弱々しく笑いながら***が言った言葉に、近藤の心臓はドキンとする。とてもかっこよくって素敵?そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。同じことをお妙に言ってもらいたいが、そんな機会は滅多に無い。少し後ろめたかったが、お妙の代わりに無邪気な***が言ってくれるなら、それも悪くない気がした。
「そ、そうかなぁ***ちゃん、俺は少し出しゃばりすぎたかと思ったが、そ、そんなに、素敵だったかなぁ?」
「素敵でしたよ、近藤さん!あのお客さん相手に紳士的で、さりげなく守ってくれてかっこよかったです、とても!」
「っっ……!***ちゃん!!」
近藤の瞳に涙が浮かんだ。ああ、嬉しい。純朴で裏表のない***に言われたら、それが本当のことに思える。
「ははっ、嬉しいよ***ちゃん……いつかお妙さんにもそう思ってもらえたらいいんだがなぁ」
にじんだ涙を指でぬぐった近藤のつぶやきを、***は聞き逃さなかった。ハッとして身を乗り出すと、近藤の手を両手で取り、ぎゅっと握った。
「もちろんですよ、近藤さん!きっとお妙さんは近藤さんが素敵な人だって知ってると思います。私にしてくれたみたいに、さりげなく紳士的に、かっこよく接したら……そしたら絶対、お妙さんは近藤さんのこと、好きになると思います!」
「***ちゃんっ……!勲、嬉しい!!***ちゃんに言われると、勇気が出てくるよ!オイ、トシ!とっつぁんのことはお前と総悟に任せた。俺は今すぐお妙さんのもとへ行く!愛する女をさりげなく紳士的にかっこよく見守るために!!止めるな、トシ!!!」
「いや、俺ァ、止めねぇけど……けどよ近藤さん、アンタ、あの女の前でさりげなくなんて出来んのか?」
「もちろん出来るさ!さりげなくテーブルの下とか、さりげなく天井の裏とかにね!!」
「さりげないの意味がちげぇだろ!紳士でもなんでもねぇ、そりゃ完全に変態ストーカーだろ!かっこいいどころか完全にアウトだろぉぉぉ!!!」
土方の制止も聞かず、勢いづいた近藤はあっという間に店を出て行った。ぽかんとした***と呆れ顔の土方が残されたソファに、沖田が戻ってきた。
「あれ、近藤さんはどこ行ったんでさぁ……にしても土方さん、この店うさんくせぇですぜ。メス共のなかに何人かヤク中の奴が混ざってらぁ……あ、まさか近藤さん、そんな奴らに捕まったりしてねぇでしょうね?」
「大丈夫だ総悟。近藤さんは怪力女ひと筋で、ヤク中共にはなびかねぇよ。あの人はあのとおり純粋だからな。現に今も***に、素敵だのカッコイイだの言われて、舞い上がって店ぇ出てっちまった」
ふーん、と言いながら沖田が席に座ると同時に、今度は土方が松平に呼ばれて立ち上がった。グラスの飲み物は飲むなと言って、沖田は***にコロナミンCの瓶を手渡した。ふたりそろって飲んでいると、急に沖田は***の方を見て口を開いた。
「それにしても、アンタようやく……」
じろじろと音がするほど、ドレス姿の***を眺める。のほほんとした顔でコロナミンCを飲む***に、沖田はニヤリと笑ってとんでもないことを口にした。
「***、万事屋の旦那とヤったろ?」
「ぶッッッッッ!!!!!」
ジュースを吹き出して真っ赤な顔で***が絶句すると、沖田はゲラゲラと笑った。ニヤつきながら「図星だろぃ」と言われて、***は慌てて首をぶんぶんと横に振った。
「ち、ちがう、総悟くん、図星じゃない!銀ちゃんとはまだ、そういうことは……って、そんなの人に言うことじゃないでしょう!いくら仲がよくても、女の子にそんなこと聞いちゃダメだからね!怒るよ!!」
「ほぉ~、あの旦那がまだ手ぇ出してねぇって?俺ァ、あの人のことだから、付き合った女はすぐにテメェのもんにしちまうと思ったがね……あぁ、そうか、***がガキっぽいせいか。どーせアンタ、旦那に迫られてもいつもの調子で、恥ずかしがってオドオドしてんだろ?まだしてねぇっつったって、あの人に強いられて、直前くらいまでは行ってんじゃねーのか?」
「なっ!!な、なんでそれを……」
それは図星、と言うような***の顔がヤケドしそうなほど赤くなる。痛い所を点かれたという表情で、顔の横の後れ毛をさっと耳にかけた。ほくそ笑んだ沖田は、やっぱりなと思いながら、改めて***の姿を上から下まで眺めた。
———やっぱりな、どうりで大人っぽくなりやがった。土方コノヤローは相変わらずコイツをガキ扱いしてるが、***はもう男を知らない生娘じゃねぇ。キャバ嬢にも引けを取らねぇくらいの、まぁまぁいい女になってんじゃねぇか……
外見は出会った頃と大差ない。胸が大きくなったわけでもない。相変わらず細っこい身体は魅惑的とは言い難かった。しかし***のまとう雰囲気は、ここ数カ月で大きく変化した。以前の***はこんな笑い方はしなかった。困った時に髪を耳にかける癖は前からだが、今の***がやるとやけに艶っぽい。
付き合って数カ月も経てば、普通の男女はそういう仲になる。そうでない方が珍しいが、***の初心さを考えれば仕方がないかもしれない。あの飄々とした銀時が小娘相手に手こずって、苦悩している姿を想像するとあまりに愉快で、沖田は思わず吹き出した。
「ふははっ、あの人ァ女を大事にするなんてタマじゃねぇからなぁ。万事屋なんてあやしい商売の男だ、どうせ遊びかノリか、そんな爛れきった野郎だろぃ……***も苦労が絶えねぇな、旦那なんかと付き合っちまって」
「そ、そんなことないよ。銀ちゃんは口は悪いけど、ああ見えて女の子にすごく優しいから。むしろ私が子どもすぎて、銀ちゃんに苦労させてるくらいで……」
しょんぼりとした顔でつぶやいた***が、左手でまた髪を耳にかけた。その薬指の指輪の中央についた赤い石が、鈍く光る。自覚もない惚気を聞かされて、沖田はおもしろくない。溜息をついて何気なくテーブルを見ると、***の飲みかけのコロナミンCの瓶が目に入った。いたずらを思いついたサディスティック星の王子の瞳が、キラリと光った。
「なんでぃ、***、そんなに落ち込むなよ。さっきはガキっぽいなんて言ったが、アンタまぁまぁ大人っぽくなってやがらぁ。せっかくキャバクラで働いてんだ、乾杯してなんか飲めよ」
「え、乾杯?それはいいけど、総悟くんもお酒はダメだよ。コロナミンCのおかわりでいい?」
***が席を立った隙に、沖田は隣から拝借した酒を飲みかけの瓶に注いだ。いつか見た泥酔した***の姿が脳裏に蘇って、くつくつと笑う。目に留まった人全員に抱き着いてキスして回ってたっけ。
「はい、総悟くん、どうぞ。あ、えーと……乾杯!」
「オイ、***、なんでぃそりゃ。ずいぶん色気のねぇ乾杯じゃねーか。せめてもうちょっとこっちに来やがれ」
「えっ、わゎゎっ、ちょ、総悟くん!?」
沖田は不満げな顔で、並んで座る***に手を伸ばした。背中から腕を回して、肩をつかむと自分の方へと引き寄せる。ドレスのすそが乱れてスリットが開く。慌てて押さえようとする***の手を制して、露わになった白い太ももを沖田の指先がさらっと撫でた。
「や、ちょ、ちょっと、総悟くん!く、くすぐったいから、やめてよ!!」
「いーじゃねぇかこんくらい。そんな服着て働いてんだ、少しはサービスしろぃ。ほれ乾杯」
悔し気な顔の***にコロナミンCを手渡す。瓶同士がぶつかってカチンと鳴った。小さな唇に瓶の口が添えられるのを、沖田はじっと見つめた。さぁ、早く飲め。これだけ近くにいれば、酒に酔った***はきっと抱き着いてキスをしてくる。下手すれば恋人にも見せたことのない淫らな姿を見せるかもしれない。
「さっさと飲めよ***~。それともジュースじゃ不満ってんならテキーラでもなんでも、無理やりその口に突っ込んで、飲ませてやろうかぃ」
「ひッ、ちょ、ちょっと待ってっ……!」
青ざめた***が慌てて瓶を傾けようとした瞬間、背後からドスの利いた低音の声が響いた。
「オイコラ、総悟、そこまでだ」
ゴンッッッ!!!!!
「うぐッッッッ!!!」
いきなりソファの真後ろに現れた土方が、重たいアルコール瓶の底を、沖田の頭のてっぺんに叩きつけた。それと同時に土方は、***の手からコロナミンCをすばやく取り上げた。ぐらっと倒れた沖田がぶつかって、***の髪のお団子が、片方だけリボンが緩んでほどけた。
「痛ッてぇな、土方コノヤロー!何すんでさぁ!」
「そりゃこっちのセリフだ。オメーこそ***に何してやがる……それよか総悟、お前の出番だぞ。とっつぁんがシャンパンタワー作るらしいから、お前行ってタワーのてっぺんからテキーラ流し込んでこい。それであのジジィ潰して、さっさと帰るぞ」
「ったく、もう少しでおもしれぇモンが見れたってのに、土方さんは野暮でいけねぇや……へーへー、行きゃぁいいんだろ、分かりやしたよ~」
酒瓶を受け取って、沖田はダルそうに席を立った。
ソファに座った土方を、ひどい疲れが襲った。松平に同席する間ずっと、両腕にキャバ嬢たちがすがりついていたから。強い香水に胸やけがした。耳障りな「土方さぁん」の声をようやく振り切って戻った席で、***が出迎える。およそキャバクラには似つかわしくない純朴な笑顔で「お疲れさまです、土方さん」と言われたら、荒んでいた心が癒えた。
「***、お前そろそろ帰れ。シャンパンタワーが終われば、俺と総悟も引き上げる。なんなら家まで送ってやるから、今のうちに準備しとけ」
「そんな、これ以上ご迷惑はかけられません……店長さんと9時までって約束なので、もう少ししたら帰ります。だから大丈夫です」
煙草に火をつけながら横目で見た***は、そろえた膝の上のスカートの裾を、指で引っ張りながら居心地悪そうにしていた。たやすく開くスリットのせいで、脚が露わにならないよう、しきりに手で抑えている。
「ったく、しょうがねぇな……ほら、コレかけとけ」
「わっ!ぁ、ありがとうございます……」
土方は制服のジャケットを脱ぐと、白い膝小僧にかけた。これで少しは隠れるだろう。他の女たちの露出に比べれば生足なんて大したことはない。しかし普段は和装で、夏でも肌をさらさない***からすれば、ミニスカートなんて慣れないはずだ。それに———
———それに、こっちだって目のやり場に困ってしょうがねぇ……
煙をふーっと吐き出しながら、土方はやれやれと自嘲気味に頭を振った。小一時間前の記憶が蘇ってきた。
変な客に連れて行かれそうになる***に気付いた時、土方はひどく荒れた。腰の刀に手をやり駆け出そうとしたのを、近藤と沖田が押しとどめた。松平のひいきの店で騒ぎを起こすなと言った近藤に、その後は全てを任せて、遠目で***を見守っている間、気が気じゃなかった。
「あれ?……あの、土方さん、首のところに、何か」
ぼうっと記憶に浸っていたら、***がふと土方に声をかけた。おずおずと伸びてきた細い指が、土方の耳の下あたりに遠慮がちに触れた。
「あ゙ぁ゙?」
くわえ煙草のまま不思議な顔をしていたら、言いにくそうに***がささやいた。
「ここに唇の跡があるんです。その、口紅の……」
「なっ……!?あー……クソッ、あの女どもか」
さっきまで腕にぶらさがっていた女につけられたと気付き、勢いよくシャツの袖で拭おうとしたが、***の手が止めた。服につくと取れなくなると言って微笑むと、ソファをすりすりと移動して、土方と向き合うように座り直す。
「土方さん、少し横を向いてくれますか?」
そう言って***は、土方の首に温かいおしぼりを押し当てた。耳のすぐ下、首のやや後ろ側を、ぬるいタオルと***の細い指がなぞる。
なかなか取れないと言って目を細めた***が、首筋をのぞきこむから、顔が近づく。少し頭を動かせばキスすらできそうな距離だ。そんなことは武士としてあるまじき、と言い聞かせて土方は高鳴る鼓動を必死で抑え込んだ。
———ったく、コイツは、完全に無意識でこーゆーことをするから危ねぇんだ。相手が俺じゃなかったらどうにかなってるぞ……
「はい、土方さん、綺麗になりました」
「お、おぉ、手間かけたな」
ふにゃっと笑った***が首をかしげて土方を見上げる。よく見ると髪のリボンがほどけて、結ったお団子の片方が取れかかっていた。
「オイ、お前、髪が取れてんぞ。ソレ、直せんのか」
「えっ……?わっ、ほんとだ、いつの間に」
驚いた***が右手で髪に触れると、ほころびはさらに広がって、リボンと長い髪が肩にぱさりと落ちた。
「あっ、イタッ、あ、あれ?な、なにこれ……」
「オイ、***、それ以上触んじゃねぇ。首んとこのボタンに引っかかってやがる」
え、と言ってうつむいても、襟の中央の金のボタンは***の視界には入らない。ほどけた髪が一筋ボタンに絡まって、ピンと引っ張られていた。むやみに動く***の手で引っ張られた黒髪は、今にも千切れてしまいそう。思わず土方は***の細い指を上からつかんで制した。
「す、すみません、土方さん、よく見えなくて……あの、もしかして、すごく絡まっちゃってますか?」
「絡まってるどころか切れちまいそうだ。解いてやるから、ちょっと大人しくしてろ」
今度は土方が身を乗り出して、***の首元を覗き込む。安い金メッキのボタンの裏側は、手荒に縫いつけられて糸がねじれていた。そこに更に***の黒髪が巻き付いて、収拾がつかなくなっている。
「ひ、土方さん、重ね重ね、ごめんなさい」
「……いいから***、少し黙れ、顔上げろ」
互いの息が当たるほどの近さで、顔を寄せ合っている状況に、土方はおかしな気持ちになりそうだった。
いや、そんなつもりはない。ただ髪を解いてやるだけ、人助けだ人助け。そう言い聞かせるのに、指で触れた黒髪から花のような香りがして、ぐっと奥歯を噛む。キャバ嬢たちの人工的な香水とは違う、瑞々しい香りだった。少し首を反らした***のまぶたの先で、長いまつ毛が震えている。きゅっと結ばれた朱色の小さな唇は、触れてみたくなるほどふっくらとしていた。
相手が自分でなければ、襲われてもおかしくない。そう思うと土方は***の無防備さがまた心配になった。
「オイ***、お前、少しはテメェが女だって自覚しろよ。さっきの野郎みてぇな頭のおかしい男に、また絡まれたらどうする。今日は偶然、俺たちが居たがこんな幸運はいつまでも続かねぇ」
「土方さん……さっきはご心配をおかけして、本当にすみませんでした……あっ、そうだ!そういえば店長さんに、変な客に絡まれたら外国人のフリをして、言葉が通じないって顔すれば大丈夫って教わってました。次はちゃんと自分でなんとかしますから、もう大丈夫です!」
ヘラヘラと笑った***が能天気に返すから、呆れた土方は深くため息をついた。ボタンに絡まる髪はまだ取れない。1本1本解いても、外したそばからまた別の髪が絡んでくる。土方の手は金のボタンと***の柔らかい髪を、あてどなくさまよった。手を動かす度に、曲げた指の関節が***の胸元をかすめる。
必死で平常心を保つ土方とは対照的に、***はのほほんとして何も気にしていない。
「言葉が通じねぇフリしたくらいで、こんな店の客が追い払えるわけねぇだろうが。むしろ好都合だって付け込まれるだけだ……俺にだって髪触らせたりすんなよ***、警戒心が足りねぇってさっきも言っただろ」
「で、でも土方さんは……女の子に付け込むような男の人じゃないですから」
眉を八の字下げた困り顔で、うつむいた***が首元のボタンに手探りで指を伸ばした。黒髪と金のボタンと、土方の骨ばった指と***の華奢な指が、まぜこぜになる。ひんやりとした指先と触れ合ったら、急に身体がフワフワして土方は落ち着かなくなった。
「………どうして分かるんだよ」
「え?」
「どうして俺が、女に付け込むような男じゃねぇって、お前に分かるんだよ、***」
きょとんとした***が土方を見上げる。その目に警戒心は無い。膝に掛かる上着の隙間から、白いふくらはぎがチラリと見えた。静かに息を吸ったら、やはり***の髪が甘く香り立つ。
警察官としてとか、近くに上司がいるとか、武士としてとか、そういうことが頭から抜け落ちた。酔い騒ぐ人々の声が遠のいて、ただ***の澄んだ黒い瞳とふわりとした唇だけが、土方の視界を占領していた。
———キスも簡単にできるじゃねぇか、この馬鹿……
金のボタンごと華奢な指をつかんで、さらに顔を寄せたが***は避けようともしない。
「あの……土方さん?」
「***………」
もう少しで唇が触れ合う。ふたりを邪魔をするものは何もない、そう思った瞬間だった———
バシャッッッ!!!!!
「きゃッ!!!ひ、土方さ、えっ!!?」
「なっ……!?く、クマッ!!?」
液体が降ってきたと思ったら、土方の真後ろにピンクのクマが立っていた。ふわふわの手には空のグラスを持ち、悪びれる様子もなくたたずんでいる。近距離から放たれた酒は、土方よりも***に多く掛かっていた。
「ひ、土方さん、大丈夫ですか!?あ、制服が!」
「いや、俺は大したことない。お前の方が……」
まるで狙ったかのように、酒は***の顔をよけてぶちまけられていた。紅いチャイナドレスの襟から胸元にかけてびっしょりと濡れて、髪と赤いリボンが白い首に張り付いている。そこから落ちた水滴が、膝の上の土方の制服を濡らした。
「すみません土方さん、私、着替えてもう帰ります。ジャケット汚してしまったので、洗って返してもいいですか?」
「いや、そりゃ別に構わねぇが……」
「何度もご迷惑をおかけして、ごめんなさい。じゃぁ、あの、失礼します」
「あ、オイッ、***!」
立ち上がってぺこりとお辞儀をした***は、上着を胸に抱いて駆け出した。土方の声にも振り返らない。髪はボタンに絡まったまま酒まで浴びて、汚れた上着より***の方が土方は心配だった。
そもそもアイツ、こんな遅い時間にひとりで帰るのか?それはダメだと思い、一歩踏み出した途端、その肩を後ろから何かがつかんで、強い力で押し戻した。
「あ゙ぁ゙ッ!?なんだよオメーはァ!!?」
ぐぐぐっと肩をつかんだのは、着ぐるみのクマだった。被り物の笑顔と、その手のとてつもない力強さのギャップにぎょっとする。人工的な目は底なし沼のようにどす黒く、着ぐるみ全体から殺気を感じた。
ぞわっと鳥肌立つ土方をソファに押し戻すと、クマは何も言わずに歩き出した。呆気に取られた土方の視界で、着ぐるみは***を追うように店の奥へと続く角を曲がって消えた。
「な、なんなんだ、ありゃぁ……」
ちょうどその時、店の中央でシャンパンタワーの最上部から酒が注がれはじめた。朝まで乱痴気騒ぎの続くうさんくさい店から、脱出するのはもうそろそろだ。
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【(23)金のボタン】end
ウォーアイニー(2)
募ル思ヒ チラリズム 君ガ触レタラ フワフワ