銀ちゃんの愛する女の子
おいしい牛乳(恋人)
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【(15)溺れる】
耳のすぐ近くでゴボゴボと泡の立つ音がする。暗い水中でうっすらと目を開いたら、視界はぼやけて何も見えなかった。怖くて、苦しくて、そして痛い。
———お願い……誰か助けてっ………!!
遠くから声が聞こえる。その声が誰のものなのか、この痛みがどこからくるのか、なぜ苦しいのかさっぱり分からない。怖くて仕方がないのに、その恐怖の振り払い方すら***には分からない。
もがいて手足をばたつかせた。早く水面へ上がらなければ、もう息が続かない。このまま溺れ死ぬの?そう思った瞬間、ようやく頭が水面を突き破り、求めていた空気が勢いよく肺に入ってきた。
ザバァァァァッ———
「ぶはぁぁっ!!……かはっ、はぁっ、はぁっ、」
「ちょいとお姉ちゃん、アンタ風呂で寝ちゃ駄目だよ!年寄りはそれで死んじまうんだから、若くても油断しちゃいけないよぉ」
そこは銭湯の大浴場。大風呂につかってうたた寝をしていた***は、気付くと頭まで湯に潜り、浅い湯船で溺れていた。その腕を見知らぬお婆さんが掴んで、引き上げてくれたのだ。
「す、すみませんっ……ちょっと疲れてて……あの、ありがとうございました」
ぺこりと会釈をすると湯船から上がる。顔が熱いのは恥ずかしいからなのか、のぼせてるからなのか、自分でも分からなかった。
「早く洗って、帰らないと……」
洗い場でのろのろと手を動かして髪を洗う。もうすぐ家に人が来るのだから、早く帰らなければ。そう頭では分かっているのに身体がいうことを聞かない。ぬるめのシャワーを頭から被ると、***はうつむいた。
———銀ちゃん、もう、来ちゃってるかなぁ……
シャンプーの泡が顔に落ちてきて、閉じたまぶたの裏に銀時の姿が浮かぶ。アパートのドアの前で所在なくたたずむ後姿が見える。「っんだよ、***~、まだ帰ってねぇのかよぉ~」とかなんとか言って。
自分の部屋に銀時が来てくれることは、すごく嬉しい。いつもだったら早く会いたくて飛んで帰る。いつ来てもいいようにいちご牛乳を買って冷やしてあるし。
「はぁ……もう、来てるよね、きっと……」
泡を流しながら***は小さく呟く。顔を上げると鏡には情けない顔が映っていた。口はへの字に結ばれて、眉はしょんぼりと下がっている。浮かない顔を見て、***の動きはますます遅くなった。カポ―――ン、と洗面器が床を打つ音が、やけに明るく鳴り響いた。
「なぁ、今度の土曜、お前んち泊まりに行っていい」
突然、銀時にそう言われた瞬間、***の思考は停止して「え?」としか言えなかった。木曜の午後、スーパーのアルバイトはなく、***は万事屋に来ていた。リビングのソファで向かい合って、ドラマ『渡る世間は鬼しかいない』の再放送を見ていた。
ハッとして銀時を見ると、片手にジャンプを持ち、もう一方の手で鼻をほじりながら、無気力な目でテレビを見ている。いつも通りの無気力そうな姿だった。
同時に三つのことして銀ちゃんは器用だなと、ぼんやり思っていた***だったが、言われた言葉を思い出した途端、心臓が飛び跳ねた。一瞬遅れて気付いた質問の意味に、脳内は急速に忙しくなった。
「えっ!?ぎ、銀ちゃん、今、なんて言いました!?」
「おいおい***~、ちゃんと聞いとけよぉ。今すっげぇいいところだったぞ。ピ〇子が息子の彼女にむかって‟アンタみたいな化け猫娘にうちの息子はやりません”って啖呵切ったんだよ。テメェの顔の方がよっぽど化け物みてぇなのに、よくこんなセリフ言えるよなぁ~」
「ちがうちがう!ピ〇子がなんて言ったかじゃなくて、銀ちゃんがなんて言ったのって聞いたんです!その……土曜日……と、泊まるって、ウチに?」
驚いて目を見開いた***は、ソファから身を乗り出すとテーブルに両手をついた。心臓がばくばくと鳴り、おでこから汗が垂れる。叫び出しそうなほど慌てている***を前に、銀時は「はぁ?」と呆れた顔をした。
「っんだよ***~。ピ〇子が喋ってる時にギャーギャーギャーギャーうるせぇなコノヤロー。お前は発情期ですかぁ?……それとさぁ、銀さん何も変なこと言ってねぇけど。彼氏が彼女の家に行くのなんて、別にフツーだろうが。今までだって何度も行ったことあんだし。それともなに、お前、土曜、予定でもあんの?」
「……よ、予定は……ない、けど……」
予定はないが、あまりに急な展開で心がついていかない。確かに銀時の言うとおり、恋人同士なのだから、互いの家を行き来するのなんて当たり前だ。でも泊まりとなったら話が違う。
今までにも神楽が***に「万事屋に泊まっていけ」と誘うことは何度もあった。しかしその度に銀時は「嫁入り前の娘が男の家に泊まっちゃいけません」と反対してたのだ。唯一、***が万事屋に泊まったことがあるのは、銀時が不在で神楽がひとりになる夜だけだった。
———銀ちゃん、急にどうして?今まで何度も駄目って言ってたのに、急に泊まるなんて。ウチに来るなんて……それって、そういうことをしたいって意味?その為に泊まりたいってこと……?
いくら鈍くて恋愛に疎い***でも、夜を共にするということは、そうなって然るべきと分かっていた。あまりの急展開に、冷や汗を垂らしながら、抗うように***は色々な質問した。
でも銀ちゃんがウチに来ちゃったら神楽ちゃんはどうするの?定春は?仕事が入るかもよ?いっそ私が万事屋に泊まりましょうか?そうすれば神楽ちゃんと定春と4人で過ごせるよ?
「はぁ~……***、お前さぁ、それ本気で言ってんの?神楽は新しくできた友達んとこに、定春連れて泊まりに行くんだってよ。仕事も夕方には終わるし、ちょうどいいだろ。夜まで依頼受けたら、せっかくの週末も休めねぇし。な〜な〜、最近の俺達ちょっと働きすぎだと思いませんか***さ〜ん?だから、いっそお前んとこに避難しちまおうと思ったのに、え、なに***、俺が行くとなんか困ることでもあんの?自分は俺がいない間に勝手にウチに泊まったくせに?」
「うっ…………」
とぼけたようなぼけっとした銀時の瞳には、少し不機嫌な色が浮かんでいた。拗ねた子供のように唇を尖らせてじっとこちらを見ている。
何よりも***はこの顔に弱い。この顔をされるとどんな願いも叶えてあげたくなってしまう。そして***は、気まずさを取り繕うように弱々しく笑って言った。
「こ、困ることなんてないよっ……」
「あっそ、じゃ、決まりな。土曜の夜行くから。よかったな***、大好きな銀さんが部屋に来てくれてぇ。いちご牛乳、ちゃんと冷やしておけよ~」
そう言うと銀時は、***の「うん、いいよ」という返事も聞かずにジャンプに目を落とした。
もう逃れられない。言いくるめられた感じはするけど、断る理由が見つからない。ただ高鳴る心臓の鼓動だけが耳元でうるさい。泊まりにくるというだけで、何かがあるとまだ決まったわけじゃない。それなのにこんなに慌ててしまう自分が情けなかった。
テレビではまだドラマが続いている。ピ〇子の息子の「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか〜」と言う不甲斐ない声が、リビングに響いていた。
「ねぇ、ちょっと見てあの子、背中にすっごい傷!!」
「えぇ~ほんとだ、ちょ~痛そ~」
その声は浴場を出て脱衣所で身体を拭いている時に、背後から***の耳に届いた。ハッとしてバスタオルを頭から被ると、慌てて背中を隠す。
怖々ふり返ると***と同い年くらいの娘がふたり立ち、こちらをじっと見ている。好奇心丸出しのふたりの視線を受けて、***は居たたまれなくなった。
こんなこと今までに何度もあったし、とっくに慣れっこだ。***はそう自分に言い聞かせると、ふたりに向かって小さく笑いかけた。そしてこの銭湯ではもう何百回も言ったことのある台詞を口にした。
「これ、見苦しくてごめんね。でもずいぶん前のキズだから痛くないんです。心配してくれてありがとう」
***の言葉を聞いたふたりは、急に気まずい表情になって、逃げるように大浴場へと入って行った。去り際に「女の子なのに可哀想だねぇ」という言葉を残して。
———可哀想、かぁ……そんなこと言ったって、しょうがないじゃないか……
小さな溜息と同時に、心の中でピ〇子の息子が嘆いた。窓の外は既に日が暮れかけていて、急いで帰らなければと気持ちばかりが焦る。眉がへなへなと下がり、今にも泣きそうな顔をしていることを、***には構う余裕すらなかった。
「っんだよ、アイツ、まだ帰ってきてねぇのかよ……」
いちご牛乳冷やして待っとけって言ったのに、と独り言を言いながら、銀時は***のアパートのドアに寄りかかった。背中からずるずると座り込むと同時に、はぁぁぁ~と深い溜息が出た。
———っつーか俺、いくら彼女相手とは言え、がっつきすぎじゃね?付き合ってるからって、あんな理由で家に泊めろっつーの無茶すぎるだろ。ド直球に一発ヤラせろっつってるよーなもんじゃねぇか。アレ、俺ダサくね?部活引退するやいなや不良になる野球部員くらい、俺ダサくねェェェ?いい歳したオッサンが情けねぇなコノヤロー、テメェは童貞かっつーの!いや、童貞じゃねぇーよクソがァァァ!
内心うるさく騒ぎながら、頭をガリガリと掻きむしった。再び吐いた溜息が薄く白んで、暗くなった空へと昇っていく。日が暮れて少しづつ空気は冷えていった。
我ながら呆れるほどの強行突破だったと思う。泊まりに行くと言った時の、***の顔が脳裏によみがえってくる。元々の困り眉がますます八の字に下がり、大きな黒い瞳は逃げ場を探すみたいにキョロキョロと泳いでいたっけ。ふたりで夜を過ごすことの意味に気付いた***の顔は、一瞬にしてぶわぁと赤らんだ。
戸惑っていた***は、銀時が少し不機嫌なフリをしたら、あっさり折れた。震える声で「いいよ」と***が言ったのが、心底嬉しい。気まずさを笑顔で隠そうとするのが、いじらしい。
好きな女の淡く赤らんだ頬、おでこの汗をぬぐう細い指先、不安げに開閉する小さな唇を、ジャンプ越しに盗み見た。***の存在すべてに気持ちが高ぶった。
———目の前でそんな可愛い反応されたら、俺だって引くに引けねぇんですけど。男っつーのはテメェの女を、全部自分のモンにしたくて必死になっちまう生きモンなんだっつーのぉ。
しかし、そこまで必死になる理由は他にもある。そもそも全てのはじまりは更に時を遡る。
数週間前の昼下がり、***のいない万事屋で、神楽が何気なく言い放った言葉がきっかけだった。
「これは作りモンのパチモンだけど、***は本物の天使ネ!だって背中に羽根の生えてた跡があったアル。ま、銀ちゃんは知るよしもないだろーけど!」
テレビの中では、寺門通が天使の衣装で舞い踊っていた。消費者金融のCMで天使姿のお通が青空を羽ばたきながら、札束をばら撒いては「ご利用は計画的にネクロマンサー!」「内臓売ってでも返済しろよう怪ぬらりひょん!」と叫んでいる。もう少し仕事選べよな、と思いながらCMを見ていた銀時の耳に、神楽のその大きな声が届いたのだった。
「はぁ?急になんだよ神楽。***が天使だぁ?いや、アイツが天使みてぇに可愛いっつーのは分かるよ?そりゃ、銀さんの彼女だし?でもさぁ、コスプレだったら天使より、ピチピチのナース服とかメイド姿で「ご主人様ぁ」とか、そーゆーちょっとエロ要素のある格好のが、銀さん的には嬉しいよね~。清純なヤツが天使の恰好してても、いかにもって感じで興奮しねぇんだよ。***みてぇなエロいこと何も知らないおぼこい女が、やらしい恰好してるっつーのが男のロマンだか、グッハアァァ!!!痛ってぇー!あにんすんだよ神楽ァ!!」
誰も聞いていないことをべらべらと、鼻の下を伸ばして喋り続ける銀時の横っ面に、神楽の鉄拳が飛んだ。ソファから叩き落された銀時に軽蔑の眼差しを落とした神楽は「卑猥なのは天パだけにするヨロシ。銀ちゃん最低ネ、しばらく***に近づかせないアル」と言い放った。いや、天パは卑猥じゃねぇしと唇を尖らせてソファに戻った銀時に、神楽は勝ち誇った顔をした。そして先ほどの発言の解説を始めたのだった。
「銀ちゃんと違って、私は何度も***の裸見たことあるネ!銭湯でもウチの風呂でも一緒に入ったアル。***の背中に傷跡があったから、それ天使の羽根が生えてた跡みたいって私言ったヨ。そしたら「そんな風に言ってもらったの初めて、ありがとう神楽ちゃん、大好き!」って***笑ってたネ。だから銀ちゃんより私の方がず~っと***のこと知ってるアル!身体の洗い合いっこした仲ヨ。ふはははは、悔しかったら、この神楽さまにひれ伏すがいいネ!」
行儀悪くリビングのテーブルに片足を乗せた神楽が、銀時を見下ろしてほくそ笑む。ソファに座った銀時の身体はわなわなと震えた。
「は、はははは、はぁ~~~!?そそそそそ~んなの全然悔しくないんですけどぉ~!***の裸っぽいモンならとっくに見たことあるしぃ?胸が小せぇのも知ってるしぃ?ちょっとなら触ったことあるしぃ~!?裸の付き合いだか洗い合いだか知らねぇが、全ッ然羨ましくねぇっつーの!ちなみに神楽オメー、***の胸まで触ってねぇだろーな!触ったんならフカフカ系かプニプニ系かどっちか教えてください!お願いします!!」
「そんなこと教えるわけないだろ、この腐れエロ天パァァァァ!!!」
「ガッハアァァァッ!!!」
再び怪力娘の握りこぶしが銀時の横っ面にめり込んだ。ばったりと床に倒れ込んだが、殴られた痛みよりも内心の焦りに強く襲われて、自分でも驚いた。
———イヤイヤイヤ、神楽なんかより俺の方がアイツのことよく知ってるし。下着姿なら何回か見たし。女同士で裸になんのと俺達とではワケが違うだろうが。あのガキっぽい***にだって、銀さんにしか見せない女の部分みてぇなのが、あるに決まってんだろぉぉぉ!え、何それ、めっさ見てぇんですけどぉぉぉ!!!
そう思うと焦る気持ちを抑えられない。身体の洗い合い?背中の傷跡?そんなの初耳だ。いや、なんで俺の知らねぇ***のことを神楽が知ってんだよ。独占力の強い銀時とって、それは耐えがたい。自分の彼女のことは自分が一番よく知っていると、いつでも確信していたい性分なのだ。
むしろ今までよく我慢してきた。正直に言えば、***の身体をモノにするチャンスは何度もあったし、その気になればたやすい事だったと思う。それでも我慢してきたのは、初心な恋人を大切にしたかったからで、***が覚悟ができるまで待とうと、納得できていたから。
しかし神楽の言葉によってそれが揺らいだ。理性という床が抜けて崖から落ちるように、今すぐ***を抱きたい。身体も心も丸ごと、自分のモノにしたいという強い願望が湧きおこった。
そうしてあの木曜日の午後、のほほんとした顔でテレビを見ている***に向かって「お前んち泊まりに行っていい?」と聞いたのだ。それはもう何気ない素振りで、無気力ないつもの銀さんですよ、という顔をして。
実際には心の中のピ〇子が‟神楽みたいな化け猫娘にうちの***はやりません!”と鬼の形相で叫んでいたというのに。
「チッ……やっぱ俺、ちょ〜ダサいんですけど」
家主不在の部屋の前に座り込んで、自嘲気味に呟いた。掻きむしった髪からはシャンプーの香りがする。仕事のあと神楽と定春を見送り、風呂に入ってからここに来た。思えばそれも準備万端のようで格好悪い。
一体いつになったら***は帰ってくるのか。どうせいちご牛乳でも買いに行ってんだろ、と思った。そのうちコンビニ袋を下げて「銀ちゃん、待たせてごめんね」とか言って帰ってくる。そうしたら「寒空の下にオッサンを待たせんなよ、風邪ひくだろうが」と小言を言ってゲンコツでも落とせば、お互い緊張が解けるはずだ。
しかし、その思惑は予想外に裏切られた。
アパートの前の通り、その少し先に街灯に照らされた***の姿が見えた。カラカラと下駄を鳴らして、こちらに向かって歩いてくる。宵闇の中で座り込む銀時には、まだ気付いていない。
「なっ!………アイツ……っ!!」
いつもの着物の姿ではなく、寝間着の浴衣に綿入の半纏を羽織っている。手には風呂敷包みと洗面器。ひとつにまとめて右肩に垂らされた黒髪は洗い立てでしっとりとしている。
どこからどう見てもそれは銭湯帰りだった。
「っ……、くそっ……」
自分の顔に一気に血が上るのが分かった。これはマズイ。あと数秒もすれば顔を合わせるというのに。まるで童貞みたいに頬が紅くなり、湧き上がる期待に口元がだらしなく緩む。こんなに情けない顔を見られてたまるかと、銀時はうずくまるように頭を伏せた。
しかし好きな女の艶っぽい姿はどうしても見たい。それも風呂上りのなまめかしさを見逃すのはもったいない。両膝の上で組んだ腕の中、ほんの少し顔を上げる。じっと息をひそめて、顔を覆った腕の隙間から、近づいてくる***を銀時は見つめ続けた。
「あ、」
小さく声が出て、慌てて***は手で口を覆った。薄暗闇のなか部屋の扉の前に座る銀時を見つけたから。アパートの敷地に入る直前で、思わず足が止まった。
———や、やっぱり銀ちゃん、もう来てる……
風呂上がりの身体が夜風でようやく冷めたと思ったのに、銀時の存在に気付いた瞬間、一瞬で全身に血がめぐった。
「どうしよう……」
どうするも何も早く声をかけるべきだと分かっているのに、緊張で身体がこわばる。足が勝手にじりじりと下がり、思わず前の通り道に逆戻りしてしまう。いや、これじゃ駄目だ、でもまだ心の準備ができない。そう葛藤する度に、***は路地を行ったり来たり。アパートに近づいては離れ、離れてはまた戻ってを繰り返した。
———寒くなってきたし、いつまでも銀ちゃんを待たせちゃ駄目だよね。だ、大丈夫、ウチに銀ちゃんが来るなんて、よくあることだよ。いつも通り笑っていればいいの!「いちご牛乳冷えてるよ」って言ってお菓子食べて、テレビでも見れば、緊張も解けるよ!頑張れ私!!
何度も何度も通りを行き来して、最後はアパートの入り口で深呼吸をした。薄闇の中でも月明かりに照らされて、銀時の髪は鈍く光っていた。
どんなに暗くても、どんなに遠くても、これから何が起こるか分からなくて不安でも、銀時の姿が視界に入ると、やっぱり***の胸はときめいた。一度ぎゅっと唇を噛んでから、意を決して一歩踏み出した。
「銀ちゃん、お、遅くなってごめんなさい!」
そう声をかけながら近づいていくと、銀時がゆっくりと顔をあげる。暗闇の中で赤い瞳と目が合って、その瞬間に***の心臓はドキッと大きく跳ねた。
それはほんの刹那、勘違いかと思うほど一瞬だけ、獲物を狙う獣みたいな鋭い眼差しを、銀時から感じた気がして。
———あぁ、どうしよう。顔が熱い。顔だけじゃない、すごくドキドキして身体中の血が沸騰してるみたい。おかしいな。お風呂でのぼせてから、もうだいぶ経つのに……まだ心臓がうるさくて、溺れてるみたいに息苦しい。どうしよう銀ちゃん、私このまま死んじゃいそうなくらい緊張してるよ……
いつもはうるさい程のかぶき町の喧騒も、今夜はやけに遠く聞こえる。ふたりを柔らかく照らす月明かりはあまりに静かで、***は自分の心音が、銀時にも届いている気がして不安になった。
まだ宵の口、夜空の月は低い位置で輝いている。夜はまだこれからと優しく笑うみたいに。
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【(15)溺れる】end
"きみは天使(1)"
君のいちばんじゃないと意味がないから
耳のすぐ近くでゴボゴボと泡の立つ音がする。暗い水中でうっすらと目を開いたら、視界はぼやけて何も見えなかった。怖くて、苦しくて、そして痛い。
———お願い……誰か助けてっ………!!
遠くから声が聞こえる。その声が誰のものなのか、この痛みがどこからくるのか、なぜ苦しいのかさっぱり分からない。怖くて仕方がないのに、その恐怖の振り払い方すら***には分からない。
もがいて手足をばたつかせた。早く水面へ上がらなければ、もう息が続かない。このまま溺れ死ぬの?そう思った瞬間、ようやく頭が水面を突き破り、求めていた空気が勢いよく肺に入ってきた。
ザバァァァァッ———
「ぶはぁぁっ!!……かはっ、はぁっ、はぁっ、」
「ちょいとお姉ちゃん、アンタ風呂で寝ちゃ駄目だよ!年寄りはそれで死んじまうんだから、若くても油断しちゃいけないよぉ」
そこは銭湯の大浴場。大風呂につかってうたた寝をしていた***は、気付くと頭まで湯に潜り、浅い湯船で溺れていた。その腕を見知らぬお婆さんが掴んで、引き上げてくれたのだ。
「す、すみませんっ……ちょっと疲れてて……あの、ありがとうございました」
ぺこりと会釈をすると湯船から上がる。顔が熱いのは恥ずかしいからなのか、のぼせてるからなのか、自分でも分からなかった。
「早く洗って、帰らないと……」
洗い場でのろのろと手を動かして髪を洗う。もうすぐ家に人が来るのだから、早く帰らなければ。そう頭では分かっているのに身体がいうことを聞かない。ぬるめのシャワーを頭から被ると、***はうつむいた。
———銀ちゃん、もう、来ちゃってるかなぁ……
シャンプーの泡が顔に落ちてきて、閉じたまぶたの裏に銀時の姿が浮かぶ。アパートのドアの前で所在なくたたずむ後姿が見える。「っんだよ、***~、まだ帰ってねぇのかよぉ~」とかなんとか言って。
自分の部屋に銀時が来てくれることは、すごく嬉しい。いつもだったら早く会いたくて飛んで帰る。いつ来てもいいようにいちご牛乳を買って冷やしてあるし。
「はぁ……もう、来てるよね、きっと……」
泡を流しながら***は小さく呟く。顔を上げると鏡には情けない顔が映っていた。口はへの字に結ばれて、眉はしょんぼりと下がっている。浮かない顔を見て、***の動きはますます遅くなった。カポ―――ン、と洗面器が床を打つ音が、やけに明るく鳴り響いた。
「なぁ、今度の土曜、お前んち泊まりに行っていい」
突然、銀時にそう言われた瞬間、***の思考は停止して「え?」としか言えなかった。木曜の午後、スーパーのアルバイトはなく、***は万事屋に来ていた。リビングのソファで向かい合って、ドラマ『渡る世間は鬼しかいない』の再放送を見ていた。
ハッとして銀時を見ると、片手にジャンプを持ち、もう一方の手で鼻をほじりながら、無気力な目でテレビを見ている。いつも通りの無気力そうな姿だった。
同時に三つのことして銀ちゃんは器用だなと、ぼんやり思っていた***だったが、言われた言葉を思い出した途端、心臓が飛び跳ねた。一瞬遅れて気付いた質問の意味に、脳内は急速に忙しくなった。
「えっ!?ぎ、銀ちゃん、今、なんて言いました!?」
「おいおい***~、ちゃんと聞いとけよぉ。今すっげぇいいところだったぞ。ピ〇子が息子の彼女にむかって‟アンタみたいな化け猫娘にうちの息子はやりません”って啖呵切ったんだよ。テメェの顔の方がよっぽど化け物みてぇなのに、よくこんなセリフ言えるよなぁ~」
「ちがうちがう!ピ〇子がなんて言ったかじゃなくて、銀ちゃんがなんて言ったのって聞いたんです!その……土曜日……と、泊まるって、ウチに?」
驚いて目を見開いた***は、ソファから身を乗り出すとテーブルに両手をついた。心臓がばくばくと鳴り、おでこから汗が垂れる。叫び出しそうなほど慌てている***を前に、銀時は「はぁ?」と呆れた顔をした。
「っんだよ***~。ピ〇子が喋ってる時にギャーギャーギャーギャーうるせぇなコノヤロー。お前は発情期ですかぁ?……それとさぁ、銀さん何も変なこと言ってねぇけど。彼氏が彼女の家に行くのなんて、別にフツーだろうが。今までだって何度も行ったことあんだし。それともなに、お前、土曜、予定でもあんの?」
「……よ、予定は……ない、けど……」
予定はないが、あまりに急な展開で心がついていかない。確かに銀時の言うとおり、恋人同士なのだから、互いの家を行き来するのなんて当たり前だ。でも泊まりとなったら話が違う。
今までにも神楽が***に「万事屋に泊まっていけ」と誘うことは何度もあった。しかしその度に銀時は「嫁入り前の娘が男の家に泊まっちゃいけません」と反対してたのだ。唯一、***が万事屋に泊まったことがあるのは、銀時が不在で神楽がひとりになる夜だけだった。
———銀ちゃん、急にどうして?今まで何度も駄目って言ってたのに、急に泊まるなんて。ウチに来るなんて……それって、そういうことをしたいって意味?その為に泊まりたいってこと……?
いくら鈍くて恋愛に疎い***でも、夜を共にするということは、そうなって然るべきと分かっていた。あまりの急展開に、冷や汗を垂らしながら、抗うように***は色々な質問した。
でも銀ちゃんがウチに来ちゃったら神楽ちゃんはどうするの?定春は?仕事が入るかもよ?いっそ私が万事屋に泊まりましょうか?そうすれば神楽ちゃんと定春と4人で過ごせるよ?
「はぁ~……***、お前さぁ、それ本気で言ってんの?神楽は新しくできた友達んとこに、定春連れて泊まりに行くんだってよ。仕事も夕方には終わるし、ちょうどいいだろ。夜まで依頼受けたら、せっかくの週末も休めねぇし。な〜な〜、最近の俺達ちょっと働きすぎだと思いませんか***さ〜ん?だから、いっそお前んとこに避難しちまおうと思ったのに、え、なに***、俺が行くとなんか困ることでもあんの?自分は俺がいない間に勝手にウチに泊まったくせに?」
「うっ…………」
とぼけたようなぼけっとした銀時の瞳には、少し不機嫌な色が浮かんでいた。拗ねた子供のように唇を尖らせてじっとこちらを見ている。
何よりも***はこの顔に弱い。この顔をされるとどんな願いも叶えてあげたくなってしまう。そして***は、気まずさを取り繕うように弱々しく笑って言った。
「こ、困ることなんてないよっ……」
「あっそ、じゃ、決まりな。土曜の夜行くから。よかったな***、大好きな銀さんが部屋に来てくれてぇ。いちご牛乳、ちゃんと冷やしておけよ~」
そう言うと銀時は、***の「うん、いいよ」という返事も聞かずにジャンプに目を落とした。
もう逃れられない。言いくるめられた感じはするけど、断る理由が見つからない。ただ高鳴る心臓の鼓動だけが耳元でうるさい。泊まりにくるというだけで、何かがあるとまだ決まったわけじゃない。それなのにこんなに慌ててしまう自分が情けなかった。
テレビではまだドラマが続いている。ピ〇子の息子の「そんなこと言ったってしょうがないじゃないか〜」と言う不甲斐ない声が、リビングに響いていた。
「ねぇ、ちょっと見てあの子、背中にすっごい傷!!」
「えぇ~ほんとだ、ちょ~痛そ~」
その声は浴場を出て脱衣所で身体を拭いている時に、背後から***の耳に届いた。ハッとしてバスタオルを頭から被ると、慌てて背中を隠す。
怖々ふり返ると***と同い年くらいの娘がふたり立ち、こちらをじっと見ている。好奇心丸出しのふたりの視線を受けて、***は居たたまれなくなった。
こんなこと今までに何度もあったし、とっくに慣れっこだ。***はそう自分に言い聞かせると、ふたりに向かって小さく笑いかけた。そしてこの銭湯ではもう何百回も言ったことのある台詞を口にした。
「これ、見苦しくてごめんね。でもずいぶん前のキズだから痛くないんです。心配してくれてありがとう」
***の言葉を聞いたふたりは、急に気まずい表情になって、逃げるように大浴場へと入って行った。去り際に「女の子なのに可哀想だねぇ」という言葉を残して。
———可哀想、かぁ……そんなこと言ったって、しょうがないじゃないか……
小さな溜息と同時に、心の中でピ〇子の息子が嘆いた。窓の外は既に日が暮れかけていて、急いで帰らなければと気持ちばかりが焦る。眉がへなへなと下がり、今にも泣きそうな顔をしていることを、***には構う余裕すらなかった。
「っんだよ、アイツ、まだ帰ってきてねぇのかよ……」
いちご牛乳冷やして待っとけって言ったのに、と独り言を言いながら、銀時は***のアパートのドアに寄りかかった。背中からずるずると座り込むと同時に、はぁぁぁ~と深い溜息が出た。
———っつーか俺、いくら彼女相手とは言え、がっつきすぎじゃね?付き合ってるからって、あんな理由で家に泊めろっつーの無茶すぎるだろ。ド直球に一発ヤラせろっつってるよーなもんじゃねぇか。アレ、俺ダサくね?部活引退するやいなや不良になる野球部員くらい、俺ダサくねェェェ?いい歳したオッサンが情けねぇなコノヤロー、テメェは童貞かっつーの!いや、童貞じゃねぇーよクソがァァァ!
内心うるさく騒ぎながら、頭をガリガリと掻きむしった。再び吐いた溜息が薄く白んで、暗くなった空へと昇っていく。日が暮れて少しづつ空気は冷えていった。
我ながら呆れるほどの強行突破だったと思う。泊まりに行くと言った時の、***の顔が脳裏によみがえってくる。元々の困り眉がますます八の字に下がり、大きな黒い瞳は逃げ場を探すみたいにキョロキョロと泳いでいたっけ。ふたりで夜を過ごすことの意味に気付いた***の顔は、一瞬にしてぶわぁと赤らんだ。
戸惑っていた***は、銀時が少し不機嫌なフリをしたら、あっさり折れた。震える声で「いいよ」と***が言ったのが、心底嬉しい。気まずさを笑顔で隠そうとするのが、いじらしい。
好きな女の淡く赤らんだ頬、おでこの汗をぬぐう細い指先、不安げに開閉する小さな唇を、ジャンプ越しに盗み見た。***の存在すべてに気持ちが高ぶった。
———目の前でそんな可愛い反応されたら、俺だって引くに引けねぇんですけど。男っつーのはテメェの女を、全部自分のモンにしたくて必死になっちまう生きモンなんだっつーのぉ。
しかし、そこまで必死になる理由は他にもある。そもそも全てのはじまりは更に時を遡る。
数週間前の昼下がり、***のいない万事屋で、神楽が何気なく言い放った言葉がきっかけだった。
「これは作りモンのパチモンだけど、***は本物の天使ネ!だって背中に羽根の生えてた跡があったアル。ま、銀ちゃんは知るよしもないだろーけど!」
テレビの中では、寺門通が天使の衣装で舞い踊っていた。消費者金融のCMで天使姿のお通が青空を羽ばたきながら、札束をばら撒いては「ご利用は計画的にネクロマンサー!」「内臓売ってでも返済しろよう怪ぬらりひょん!」と叫んでいる。もう少し仕事選べよな、と思いながらCMを見ていた銀時の耳に、神楽のその大きな声が届いたのだった。
「はぁ?急になんだよ神楽。***が天使だぁ?いや、アイツが天使みてぇに可愛いっつーのは分かるよ?そりゃ、銀さんの彼女だし?でもさぁ、コスプレだったら天使より、ピチピチのナース服とかメイド姿で「ご主人様ぁ」とか、そーゆーちょっとエロ要素のある格好のが、銀さん的には嬉しいよね~。清純なヤツが天使の恰好してても、いかにもって感じで興奮しねぇんだよ。***みてぇなエロいこと何も知らないおぼこい女が、やらしい恰好してるっつーのが男のロマンだか、グッハアァァ!!!痛ってぇー!あにんすんだよ神楽ァ!!」
誰も聞いていないことをべらべらと、鼻の下を伸ばして喋り続ける銀時の横っ面に、神楽の鉄拳が飛んだ。ソファから叩き落された銀時に軽蔑の眼差しを落とした神楽は「卑猥なのは天パだけにするヨロシ。銀ちゃん最低ネ、しばらく***に近づかせないアル」と言い放った。いや、天パは卑猥じゃねぇしと唇を尖らせてソファに戻った銀時に、神楽は勝ち誇った顔をした。そして先ほどの発言の解説を始めたのだった。
「銀ちゃんと違って、私は何度も***の裸見たことあるネ!銭湯でもウチの風呂でも一緒に入ったアル。***の背中に傷跡があったから、それ天使の羽根が生えてた跡みたいって私言ったヨ。そしたら「そんな風に言ってもらったの初めて、ありがとう神楽ちゃん、大好き!」って***笑ってたネ。だから銀ちゃんより私の方がず~っと***のこと知ってるアル!身体の洗い合いっこした仲ヨ。ふはははは、悔しかったら、この神楽さまにひれ伏すがいいネ!」
行儀悪くリビングのテーブルに片足を乗せた神楽が、銀時を見下ろしてほくそ笑む。ソファに座った銀時の身体はわなわなと震えた。
「は、はははは、はぁ~~~!?そそそそそ~んなの全然悔しくないんですけどぉ~!***の裸っぽいモンならとっくに見たことあるしぃ?胸が小せぇのも知ってるしぃ?ちょっとなら触ったことあるしぃ~!?裸の付き合いだか洗い合いだか知らねぇが、全ッ然羨ましくねぇっつーの!ちなみに神楽オメー、***の胸まで触ってねぇだろーな!触ったんならフカフカ系かプニプニ系かどっちか教えてください!お願いします!!」
「そんなこと教えるわけないだろ、この腐れエロ天パァァァァ!!!」
「ガッハアァァァッ!!!」
再び怪力娘の握りこぶしが銀時の横っ面にめり込んだ。ばったりと床に倒れ込んだが、殴られた痛みよりも内心の焦りに強く襲われて、自分でも驚いた。
———イヤイヤイヤ、神楽なんかより俺の方がアイツのことよく知ってるし。下着姿なら何回か見たし。女同士で裸になんのと俺達とではワケが違うだろうが。あのガキっぽい***にだって、銀さんにしか見せない女の部分みてぇなのが、あるに決まってんだろぉぉぉ!え、何それ、めっさ見てぇんですけどぉぉぉ!!!
そう思うと焦る気持ちを抑えられない。身体の洗い合い?背中の傷跡?そんなの初耳だ。いや、なんで俺の知らねぇ***のことを神楽が知ってんだよ。独占力の強い銀時とって、それは耐えがたい。自分の彼女のことは自分が一番よく知っていると、いつでも確信していたい性分なのだ。
むしろ今までよく我慢してきた。正直に言えば、***の身体をモノにするチャンスは何度もあったし、その気になればたやすい事だったと思う。それでも我慢してきたのは、初心な恋人を大切にしたかったからで、***が覚悟ができるまで待とうと、納得できていたから。
しかし神楽の言葉によってそれが揺らいだ。理性という床が抜けて崖から落ちるように、今すぐ***を抱きたい。身体も心も丸ごと、自分のモノにしたいという強い願望が湧きおこった。
そうしてあの木曜日の午後、のほほんとした顔でテレビを見ている***に向かって「お前んち泊まりに行っていい?」と聞いたのだ。それはもう何気ない素振りで、無気力ないつもの銀さんですよ、という顔をして。
実際には心の中のピ〇子が‟神楽みたいな化け猫娘にうちの***はやりません!”と鬼の形相で叫んでいたというのに。
「チッ……やっぱ俺、ちょ〜ダサいんですけど」
家主不在の部屋の前に座り込んで、自嘲気味に呟いた。掻きむしった髪からはシャンプーの香りがする。仕事のあと神楽と定春を見送り、風呂に入ってからここに来た。思えばそれも準備万端のようで格好悪い。
一体いつになったら***は帰ってくるのか。どうせいちご牛乳でも買いに行ってんだろ、と思った。そのうちコンビニ袋を下げて「銀ちゃん、待たせてごめんね」とか言って帰ってくる。そうしたら「寒空の下にオッサンを待たせんなよ、風邪ひくだろうが」と小言を言ってゲンコツでも落とせば、お互い緊張が解けるはずだ。
しかし、その思惑は予想外に裏切られた。
アパートの前の通り、その少し先に街灯に照らされた***の姿が見えた。カラカラと下駄を鳴らして、こちらに向かって歩いてくる。宵闇の中で座り込む銀時には、まだ気付いていない。
「なっ!………アイツ……っ!!」
いつもの着物の姿ではなく、寝間着の浴衣に綿入の半纏を羽織っている。手には風呂敷包みと洗面器。ひとつにまとめて右肩に垂らされた黒髪は洗い立てでしっとりとしている。
どこからどう見てもそれは銭湯帰りだった。
「っ……、くそっ……」
自分の顔に一気に血が上るのが分かった。これはマズイ。あと数秒もすれば顔を合わせるというのに。まるで童貞みたいに頬が紅くなり、湧き上がる期待に口元がだらしなく緩む。こんなに情けない顔を見られてたまるかと、銀時はうずくまるように頭を伏せた。
しかし好きな女の艶っぽい姿はどうしても見たい。それも風呂上りのなまめかしさを見逃すのはもったいない。両膝の上で組んだ腕の中、ほんの少し顔を上げる。じっと息をひそめて、顔を覆った腕の隙間から、近づいてくる***を銀時は見つめ続けた。
「あ、」
小さく声が出て、慌てて***は手で口を覆った。薄暗闇のなか部屋の扉の前に座る銀時を見つけたから。アパートの敷地に入る直前で、思わず足が止まった。
———や、やっぱり銀ちゃん、もう来てる……
風呂上がりの身体が夜風でようやく冷めたと思ったのに、銀時の存在に気付いた瞬間、一瞬で全身に血がめぐった。
「どうしよう……」
どうするも何も早く声をかけるべきだと分かっているのに、緊張で身体がこわばる。足が勝手にじりじりと下がり、思わず前の通り道に逆戻りしてしまう。いや、これじゃ駄目だ、でもまだ心の準備ができない。そう葛藤する度に、***は路地を行ったり来たり。アパートに近づいては離れ、離れてはまた戻ってを繰り返した。
———寒くなってきたし、いつまでも銀ちゃんを待たせちゃ駄目だよね。だ、大丈夫、ウチに銀ちゃんが来るなんて、よくあることだよ。いつも通り笑っていればいいの!「いちご牛乳冷えてるよ」って言ってお菓子食べて、テレビでも見れば、緊張も解けるよ!頑張れ私!!
何度も何度も通りを行き来して、最後はアパートの入り口で深呼吸をした。薄闇の中でも月明かりに照らされて、銀時の髪は鈍く光っていた。
どんなに暗くても、どんなに遠くても、これから何が起こるか分からなくて不安でも、銀時の姿が視界に入ると、やっぱり***の胸はときめいた。一度ぎゅっと唇を噛んでから、意を決して一歩踏み出した。
「銀ちゃん、お、遅くなってごめんなさい!」
そう声をかけながら近づいていくと、銀時がゆっくりと顔をあげる。暗闇の中で赤い瞳と目が合って、その瞬間に***の心臓はドキッと大きく跳ねた。
それはほんの刹那、勘違いかと思うほど一瞬だけ、獲物を狙う獣みたいな鋭い眼差しを、銀時から感じた気がして。
———あぁ、どうしよう。顔が熱い。顔だけじゃない、すごくドキドキして身体中の血が沸騰してるみたい。おかしいな。お風呂でのぼせてから、もうだいぶ経つのに……まだ心臓がうるさくて、溺れてるみたいに息苦しい。どうしよう銀ちゃん、私このまま死んじゃいそうなくらい緊張してるよ……
いつもはうるさい程のかぶき町の喧騒も、今夜はやけに遠く聞こえる。ふたりを柔らかく照らす月明かりはあまりに静かで、***は自分の心音が、銀時にも届いている気がして不安になった。
まだ宵の口、夜空の月は低い位置で輝いている。夜はまだこれからと優しく笑うみたいに。
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【(15)溺れる】end
"きみは天使(1)"
君のいちばんじゃないと意味がないから