銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
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【第35話 青空】
背中に置かれた手のひらが熱い。強く抱きしめられた腕の中がいつもの高い温度で、***は心底ホッとした。もう大丈夫、いつもの銀ちゃんだ。そう思ったら急に、身体から力が抜けた。
色んなことが一度に起きた夜だった。初めてのことばかりだった。銀時の温もりと香りに包まれて初めて***は、自分が疲れていることに気が付いた。
―――いま、何時だろう?きっと真夜中だ。今朝も早くから配達だったから、もう眠たい……
どんどん力が抜けて銀時の肩に回していた手が、ぱたんとシーツに落ちた。それと同時に、抱き寄せる銀時の腕の力が強まったから、うっとりしてしまう。銀色の跳ねた毛先がほほを撫でるのが心地よい。もう少しで***が瞳を閉じそうになった時、小さな声が耳に届いた。
「……か、***……」
「え……?ごめん……なんですか?」
「いいのかって聞いてんだよ***。俺でいいのか」
「え、うん。私、銀ちゃんが好きですよ?」
「ちげぇよ馬鹿、お前が俺のことを好きなのは分かってるって。そーじゃなくて、本当に俺でいいのかって聞いてんだよ。***、本当にお前の相手は、俺でいいのか」
そう言いながら銀時は、更に強く***を抱き寄せた。いつものテキトーな口調なのに、腕の力は切実だった。それがまるで傷付くのを恐れているように感じて、***はハッとする。絶対に銀時を傷つけたくないと思ったら、疲れや眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「うん、私、銀ちゃんがいいです」
「……糖尿寸前で、無職同然のオッサンだぞ」
「ぷっ!ふふっ、糖尿はちょっと心配だけど、無職同然のオッサンの銀ちゃんが大好きだよ」
「……パチンコですぐスるし、酒飲んですぐ吐くぞ」
「ふはっ、知ってるよ。出会った時も酔っ払って吐いてました。私あの時からずっと、銀ちゃんのことが好きだったよ」
「…………ケチ臭いし、うさん臭いし、足臭いぞ」
「あははっ、同じこと新八くんと神楽ちゃんが言ってたけど、私はそうは思わないよ。足が臭いところも好きだよ銀ちゃん」
はぁぁぁ~信じらんねぇ、という呆れた声が耳元で聞こえた。そっと腕を解かれ身体が離れる。両肩を大きな手でつかまれ、赤い瞳にじっと見つめられる。再び開いた銀時の唇から、普段の声とは全く違う、とても真剣で静かな声が漏れ出た。
「***、俺はたぶん、お前より先に死ぬ。それもろくでもねぇ死に方でおっ死ぬ。そうじゃなくてもこんな生き方だ。突然いなくなることもある。そうなったらお前はひとりで取り残されるんだぞ。それでもいいのか***。それでもお前は本当に俺と一緒にいてぇのか?」
その言葉だけで、銀時がどうして今まで***の気持ちをはぐらかしてきたのかが、よく分かった。
こんなに優しい人は他にいない、と思うと***の胸は痛いほど締め付けられた。死んだ魚のような目を、***はじっと見つめる。銀時と同じくらい真剣で、静かな声が唇から溢れた。
「私のことを、先に死なれた位であきらめるような、簡単な女だと思わないでよ銀ちゃん。銀ちゃんが死んじゃった後も、私、ずっと銀ちゃんのことが好きだよ。たとえ取り残されても、銀ちゃんが居たこの街で生きてる限り私はひとりじゃない。だから銀ちゃんはそのままの生き方で生きてください。銀ちゃんが生きてる間も死んだ後も、私はこの街に……銀ちゃんのそばにいます」
赤い瞳がゆらゆらと揺れて、奥歯を噛みしめている銀時の表情は苦しそうで、何か悪いことを言っただろうかと不安になる。
大丈夫?と聞こうとした瞬間、再び強く抱き寄せられて息を飲んだ。そして耳に熱い息がかかるくらいの近さで、銀時の声が聞こえてきた。
―――好きだ、***、もうどこにも行かせねぇよ。ずっとそばにいろよ。好きだから、俺はお前が……―――
その声が耳に入った瞬間、***の世界は停止した。ずっと心をかき乱し続けた嵐が、唐突に去っていった。
ずっと欲しかった言葉なのに、いざ銀時から言われると、すぐには信じられなくて、うまく答えられない。ただとても止められないほどの大粒の涙が、せきを切ったように瞳から溢れ出していく。
「ほ、ほんとに?……ほんとに銀ちゃん?」
声もなく銀時が笑って、うなずくのが分かった。「嘘でこんなこと言うワケねーだろ」と言って、ゆっくりと身体を離していく。見つめた赤い瞳はもう揺れていなかった。銀時は***のほほに手を添えて、ミミズ張れの上を伝う涙を指でぬぐった。
「ぎ、ぎんちゃ……わ、私、どこにも、ぃかないよ……っと、ずっと銀ちゃんの、そばにいるっ」
「ぶっ!!お前泣きすぎだろ。脱水で死ぬぞ。カラカラに干からびて酢昆布みてぇなシワシワの婆ちゃんになるぞ」
「だ、だってっ、銀ちゃんが急に色んなこと、するから……」
「へーへー、いろんなことして悪かったよ。え、なに***、じゃーお前、銀さんのこと嫌いになった?」
「なっ!なってないです!!好きだよ銀ちゃんのことがっ!!!」
真っ赤な顔で叫ぶ***の涙は全然止まらなくて、銀時は呆れたように笑った。銀時の大きな親指が、ほほを伝う雫を受け止めた。濡れた親指がほほを何度かなでた後、そっと***の上唇に触れた。左から右へ。上唇の後は同じ動きで下唇を。壊れやすいものに触れるみたいに繊細な手つきで。
「あ゙ーーくそ……もう無理、我慢の限界」
「え?」
なんの我慢ですか、と***が聞く前に顔が近づいてきていて、目を閉じる間もないうちに、***の唇に銀時の唇が重なっていた。
驚きで目を見開いた***を、嬉しそうな銀時の瞳が見つめていた。唇に触れた柔らかさからは、なぜか雨の匂いがした。頭の片隅で「どうして銀ちゃんから雨の香りがするんだろう?」と冷静につぶやく声が聞こえた。
―――初めてのキスは絶対に銀ちゃんとがいいって、ずっと思ってた。でも叶わないかもとも思ってた―――
「………んっ!」
ようやく動けるようになった***が、ぎゅっと瞳を閉じる。すると銀時の唇がより強く押しつけられて、その温度まで分け合うみたいな口づけをした。口を閉じているはずなのに、涙のしょっぱい味を少しだけ感じて、恥ずかしさに顔が熱くなる。息もできない数秒間が永遠のように続き、ゆっくりと熱い唇が離れて行った。
離れた後も銀時は、ほほを撫でてくれたけれど、***の涙は止まりそうになかった。
「おい***、お前いつまで泣いてんだよ。大好きな銀さんが手に入ったんだぞ。よかったじゃねぇか、喜べよ。いつもみてぇに頭から花咲かして、馬鹿みたいな顔で笑うとこ見せろって」
「うぅ~~っ、ば、馬鹿みたい、じゃないもんっ……こんなに、泣かせてるのっ、ぎ、銀ちゃんですっ!」
「っんだよ、じゃーお前どーしたら泣きやむんだよ。そんなに泣くとホントに干からびて死ぬぞ。どうすんの?どうしたいのお前?銀さんにどーしてほしいか言えよコノヤロー」
銀時にしてほしいことは沢山あった。もう一度好きと言って欲しい。抱きしめて欲しい。二度と離さないで欲しい。でも、その全てを追いやるほど、いま一番してほしいことは―――――
「……して、銀ちゃん、キスしてください……」
―――ずっとずっと、して欲しかったから……
***がそう言うと、銀時はふっと笑った。***の後頭部を手で抑えて、再び唇を重ねる。今度はふたりとも瞳を閉じていた。
ゆっくりと身体を押されて、気が付くとシーツに背中が埋もれていた。頭がベッドに沈む瞬間に唇が離れて、銀時が「***、」とつぶやくのが聞こえた。***も名前を呼び返そうとしたのに、そんなの待てないというように性急に口づけが再開された。その時はじめて***は、銀時もキスをしたがっていたと分かった。それがあまりにも幸せで、まるで夢みたいだ、と思う。
顔の両脇に銀時が手をついて、唇が熱くなるほど何度もキスをしてもらった。深い幸福感に包まれた***は閉じた瞳を、開けなくなった。
「え、オイ***、まさかお前、寝んの?この状況で?」
「ぎ、んちゃん、だって、もう……ねむたくて……」
「オイィィィ!!」
無防備すぎだろ!という声が遠く聞こえたが、抗いようのない眠気が襲ってくる。薄れる意識のなか、必死に伸ばした手で銀時の着物をぎゅっとつかんだ。
―――ねぇ銀ちゃん、私、銀ちゃんにこうしてもらう為に生まれてきた気がする。銀ちゃんにキスをしてもらう為に、生きてきた気がするの……これが夢なら二度と目覚めたくない。このままずっと、ふたりでここにいたい……この嵐の夜のなかに。私はこの手を離さないから、銀ちゃんも私を離さないで……―――
そう強く願っていたから、目を覚ました時にも銀時がすぐ近くにいると思っていた。身体中を銀時の香りに包まれているのに、目を閉じたまま伸ばした手はシーツの上をどこまで行っても、銀時に触れることはなかった。変だな、と思って瞳を開けた時、大きなベッドには自分ひとりしかいないことに、***は気づいた。
「……銀ちゃん………?」
起き上がるとパサッと身体から何か落ちた。水色の渦巻き模様の着物。ベッドから降りてそれを拾って袖に腕を通すと、確かに銀時の匂いがした。でも部屋に人の気配がない。
部屋を見回すと、ソファに***の着物が掛けられていた。泥汚れが取れて乾いている。テーブルに手提げ袋とかんざしが置いてあり、かんざしの取れたはずのウサギの飾りは元通りに直っていた。手提げの中のがま口財布を開いたら、中には札が戻っていた。
「どうして……、銀ちゃん……帰っちゃったの?」
―――それとも、昨夜のことは夢だったの?
目を見開いてあたりを見回す。電気は消され、カーテンが開いていた。差し込む朝日に部屋中が照らされている。デジタル時計は7:21を表示して、窓の外には晴天の青空が広がっていた。
唇にはまだキスの感触が残っていた。指で唇に触れた時に、両手首に包帯が巻かれていることに気づいた。ハッとして窓ガラスに写った自分を見ると、左ほほのひっかき傷の上には大きな絆創膏が、噛まれた鎖骨と吸われた胸元には小さな絆創膏がついていた。襦袢をめくると、転んで打った両ひざに湿布が貼られていた。
夢じゃない。昨夜のことは現実だ。でも一体どこまでが現実で、どこからが夢か、判断がつかない。疲れた身体を抱きしめられたところまでは、よく覚えている。それで銀時が「好きだ」と言ってくれたと思う。その声を聞いたら、たくさん涙が出た。恥ずかしげもなくキスをせがんだら、銀時は笑って応えてくれた気がする。
もう二度と離すもんかと思って、必死で銀時に手を伸ばしたのに、どうして自分は今ひとりなんだろう。そう思ったら唐突に寂しさと後悔が襲ってきた。
―――絶対につかんでいなきゃいけなかったのに、寝てしまうなんて私は大馬鹿だ……―――
涙がじわりと浮かんで、足が勝手にふらふらと動く。大きすぎる銀時の着物の裾が床をこすった。廊下の途中にバスルームのドアがあり、少し開いた隙間から蛍光灯の光が見えた。
「っ……!!!」
そこに銀時がいると思って勢いよく開く。しかし目に飛び込んできたのは、ユニットバスの閉じられたシャワーカーテンだけだった。そこにも銀時の姿はなくて、ただ浴槽の前に見慣れた黒いブーツが脱ぎ捨ててあった。倒れているブーツを見た瞬間、***は膝から崩れ落ちた。
―――着物も靴も置いて帰っちゃうなんて……銀ちゃんはそんなに昨日のことが嫌だったの?そんなに私から逃げたくなったの?それならどうして……あんなに優しくしてくれたの?それとも、それもぜんぶ夢だったの?
思考が空回りして何も分からない。ただ銀時が恋しい。這いつくばって浴槽に近づき、ブーツをひとつ拾うと胸に抱いた。持ち主を失ったそれは冷たくて頼りない。同じように***も銀時を失ったと思うと、悲しみが溢れ出した。
「う、ぅ、うわあぁぁぁぁぁん!!!!!ぎんちゃぁぁぁぁぁん!!!!!」
ぺたりと座り込んだ***は、子供のように大きな声を上げて泣いた。嗚咽と大粒の涙がこらえられない。届かないと分かっていながら、勝手にノドがもう一度大きな声で「ぎんちゃぁぁぁぁん!」と叫んだ。
「うるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!」
聞き慣れた愛しい声がすぐ近くから聞こえると同時に、シャワーカーテンがシャッと開いた。「へ?」と言った***の前に、バスタブの中から枕を抱いた銀時が現れた。
「人が気持ちよく寝てんのに、耳元でギャーギャーギャーギャーうるせぇんだよコノヤロー!お前は発情期ですかぁぁぁ!?俺はこんなうるせぇ目覚まし時計、かけた覚えはないんですけどぉぉぉぉ!!!?」
「銀ちゃん!?か、帰っちゃったんじゃないんですかっ!!?」
「帰ってねぇよ!まだよい子はおねむの時間だろーが!二度寝三度寝したって許される時間だろーが!よ~く寝て朝っぱらから泣き叫ぶほど元気な***とは違ってなぁ、こちとら全然寝てねぇんだよ!ぐーぐー寝るお前の子守やら、ケガの手当やら、服の洗濯やらで夜通し大忙しだったの!ようやくひと段落してやっと寝れたと思ったら、またぴーぴー泣きやがって!俺は***の母ちゃんかよ!なんなのお前は?赤ちゃんか?赤ちゃんなんですか?おしゃぶりの代わりにブーツに吸いついてる赤ちゃんなんですかぁぁぁ!!?」
「あかっ、赤ちゃんじゃないです!!だ、だって起きたら銀ちゃんがいなくて、包帯が巻かれてるし、かんざしは直ってるし、お金が元に戻ってるし、びっくりしたんだもん!!全部、夢だったのかと思って悲しくなっちゃったんだもん!!!」
泣きながら怒る***を立ち上がらせて、銀時は呆れた顔をした。バスルームを出てソファに***を座らせると、面倒くさそうな表情の銀時は、***の前にしゃがんだ。泣きはらした***の目元を指で撫でた銀時は、「ガキみてぇ」と言って笑った。
「夢じゃねぇよ***、夢にされてたまるかよ。これでも銀さん、結構がんばったんですけど。かんざし直すのとケガの手当すんのに、ペンチと救急箱貸せって言った時のフロントの兄ちゃんの顔ひどかったぜ。犯罪者でも見るみたいな目で見られて、「ケーサツ沙汰だけはやめてくださいね」とか言われてよぉ。ものっそい気まずかったんですけどぉ。着物洗って部屋戻ってきたらお前はぐーすか寝てるし?ほっぺた引っ張っても頭はたいても全然起きねぇし?傷の手当てしてやっても、ありがとうも言わねぇしぃ~?」
「ご、ごめんね銀ちゃん。寝てる間に色々してくれて、ありがとう……でも、あの……どうしてお風呂で寝てたの?一緒に居てほしかったです。あんなに大きなベッドなら、十分ふたりで寝れるんだから」
「お前なぁ~……っとに、これだからガキは……、俺がどこで寝ようが俺の自由だろうが!っんなことより、***ちゃぁ~ん、自分がとんでもねぇ格好してるって、分かってますかぁ!?」
へ、と口を半開きにして自分の身体を見下ろした瞬間、***は声を失った。銀時の着物を羽織っているが、前は開いていて中の襦袢が丸見えだった。身体の線も下着の色も薄く透けて、ニヤニヤと笑う銀時に見られていた。
「あわぁあああああ!!!ど、どこ見てるんですかぁ!!馬鹿ぁぁぁ!!!」
思わず手に持っていたブーツを銀時の顔に思い切り押しつけて、上からぎゅう、と抑えつけた。恥ずかしさに顔から火が出そうだ。
「イテイテイテッ!く、臭っ!俺の靴くっさッ!!」
「~~~~っ!お風呂で着替えるから、絶対に入ってこないでください!!」
身支度を終えた時、時刻はもう8:20だった。部屋を出て誰もいない廊下で、エレベーターが10階までやってくるのを待つ。扉の上の階数表記が5、6、7と変わるのを見上げて、ぼーっとしていたら、隣で銀時が「ぶっ」と吹き出した。
「え、な、なんですか?私、なんか変?」
「いや、このホテルで夜通し男と一緒にいて、なんにもしねぇでただ寝て帰ってく女って、***しかいねぇだろーなって思ったら、笑えてきた」
「うっ……た、確かに……でも、それをいうなら銀ちゃんだって、なんにもしないでただ寝て帰る男です」
「おぉ~、似たもの同士仲良く帰ろうや。オラ、乗るぞ」
エレベーターのドアが開き、踏み出す銀時に手をつかまれて、ぎゅっと握られた。その手を見つめたら、まだ大事なことを聞けていないと、***は気づいた。
―――ねぇ、銀ちゃん、私たちってどうなったの?ただの似たもの同士で終わりなの?銀ちゃん、私のこと好きって言った?なんにもしないで帰るって、あのキスもなかったってこと?それともあれは全部、夢だったの?
エレベーターの中でそれを聞こうと口を開いたのに、声が出ない。いざ聞いて「は?なんのことだよ」と言われたら、ショックすぎる。ああ、どうしよう、と銀時の手をにぎったままうつむいていたら、急に足元からフワッとした浮遊感が這い上がってきた。
「ひぃっ……!おち、落ちるッ!落ちるぅぅぅ!!!」
「は?なに***、お前まだエレベーター怖ぇの?昨日乗った時は全然へーきだったじゃねぇかよ」
にぎった手はそのままに、反対の手で銀時の肩にぎゅっとつかまった。銀時の二の腕に顔を押しつけ、身体を縮こまらせる。ゲラゲラと笑った銀時が「お前すげー震えてんじゃん」と言うので、恥ずかしさに顔が赤くなる。それでも落下するような感覚が怖くて、すがりつくしかできない。
「オイ、***、ちょっと手ぇ離してみ」
「ヤダヤダヤダ!銀ちゃん、は、離さないでっ!」
「いや、ちげぇって、ちょっと一回……」
そう言った銀時が手をぱっと離した。「あっ」と言って泣きそうになった***の身体が、強い力で抱き寄せられて、肩と膝裏に回った大きな手で抱え上げられた。
「わっ、ぎ、銀ちゃんっ!?」
「ほら、これで怖くねぇだろ?」
床から足が離れたことで、浮遊感がなくなった。でも横抱きで密着したことにドキドキして、赤くなった顔がますます熱くなる。
「あ、ありがと銀ちゃん……あの…、落とさないでね」
恥ずかしさにうつむいて上目遣いで銀時を見つめると、小さな声でつぶやく。すると銀時は、ふっと笑って***を見つめ返すと、静かな声で答えた。
「落とさねぇし、離さねぇよ***……昨日言っただろ、もうどこにも行かせねぇって、ずっとそばにいろって」
「っ………!!!!!」
―――やっぱり、やっぱり夢じゃなかった。私の思いは銀ちゃんに届いたんだ。夢だったんじゃなくて、夢が叶ってたんだ……
じわっと浮かんだ涙を必死でこらえる。付き合うとか恋人同士とかそういう言葉で言い表すのは違う気がして、精一杯考えて絞り出した言葉を***はささやいた。
「銀ちゃん……私、銀ちゃんのことがすごく好きだよ。今までもこれからもずっと。それは、もしかして……銀ちゃんも同じですか?」
「はっ、お前すげぇ真っ赤……そーだよ***、俺もお前と同じだよ。昨日も言ってやったのに夢にしてんじゃねぇよコノヤロー。ぴーぴー泣いてる***も、よだれ垂らしてぐーすか寝てる***も、茹でダコみてぇに真っ赤んなる***も、ぜぇ~んぶ銀さんのもんで~す。離せって言われても、もぉ離しませぇ~ん」
ふざけた口調でも、***を見下ろす赤い瞳が優しくて、それが真実だと分かる。恥ずかしくて、でも嬉しくて幸せで***は「銀ちゃん、大好き」と言って、銀時の肩に回した手にぎゅっと力を入れた。
「知ってる。昨日泣いてるお前にさんざん言われた」
そう言った銀時が肩を抱く腕を動かして、***の身体を引き寄せた。横向きに落とされた顔が近づいてきて、ちゅう、という音を立ててキスをした。驚きに目を見開いた***の顔は、湯気が出そうなほど赤くなる。
「もっかいしていい」
「銀ちゃ、」
答える前に再び唇が重なっていて、***は「んっ!」と声を上げた。とても恥ずかしいのに、キスの感触が懐かしくて愛しい。もっとしてほしい、と思った***が瞳を閉じようとした瞬間だった。
チンッ―――
「「あ、」」
エレベーターのドアが開くと、ホテルの受付係の男が立っていた。抱き合ってキスをする銀時と***を見て、男は驚いていたが、銀時の顔を見た瞬間「あ~…」と胡散臭いものを見るような顔になった。それだけでその男が昨夜、銀時を犯罪者扱いをしたフロントの男だと、***にも分かった。すぐにビジネススマイルを張り付けた男は、エレベーターの中のふたりに向かって45度のお辞儀をした。
「ご来店ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「お~、兄ちゃん、昨日はありがとね。助かったわ。ホラ、コイツ、俺の彼女なんだけどぉ、ドMすぎてさぁ、もっともっとぉ~ってうるせぇもんだから、俺もちょっと色々やりすぎちゃってぇ。ケーサツ沙汰とまではいかねぇけど、もう身体中ボロボロだし、腰はたたねぇしで、朝からこんなザマよ。なぁ~***、お前ドMだもんなぁ。昨日は銀さんにさんざんいたぶられて、楽しかったよなぁ」
「なっ……!!!」
ニヤニヤと下世話な顔で笑った銀時が、***を見下ろす。ありもしないことを突然言われて、***は言葉も出ない。顔に大きな絆創膏を貼り、腕に包帯を巻き、銀時に抱えられた***を、男は哀れみに満ちた目で見て「お楽しみ頂けてなによりです」と言うと苦笑いをした。
「ちっ、ちがっ、違いますっ!違うんですっ、か、勘違いです、お兄さぁぁぁん!!!」
首まで真っ赤になった***が、ようやく声を取り戻して叫んだ時には、既にふたりが降りたエレベーターに男は乗りこんで、扉が閉まっていた。
その後も銀時は***を下ろすことなくホテルを出て、通りを歩きはじめた。真っ赤な顔からプンプンと怒りの煙を出した***が、銀時の肩をぐいぐいと押した。
「おろ、下ろしてください!もう大丈夫だから!」
「あれぇ~、***、さっき「銀ちゃん離さないでぇ」って甘えた声で言ってたじゃん。いいって、遠慮すんなって。銀さんに甘えなさいよ。夜通し可愛がられて、もう足腰立たねぇ生まれたての子鹿なんだから」
「ちがいますっ!遠慮してないし、可愛がられてないし、生まれたての子鹿じゃないしぃぃぃ!」
どんなに押しても銀時の身体はびくともしない。それどころかますます力強く抱き寄せられて、されるがまま運ばれていく。大きな声で騒ぐ二人に、行き交う街の人たちはぎょっとした顔をする。しかし、その会話を聞いて何ごとかを察すると、誰も彼もが「あぁ…」と哀れみを込めた目で***を見た。
「ぎ、銀ちゃんのせいで、みんなに勘違いされちゃいます!お願いだから下ろしてよ!」
「別にいーじゃねーかよ勘違いされたって。もーお前は俺のもんだろーが。煮るなり焼くなり縛るなりできんのは、彼氏の特権だろ」
「かっ……彼氏っ……!!!」
そう言えばさっき銀時は、***のことを彼女と言った。そのことに気づいた瞬間、怒りを飛び越えるように、喜びがわき上がってくる。「ああっ」と叫んだ***は、真っ赤な顔をぎゅっと銀時の首筋に押しつけて抱きついた。
「も、もぉ~~~!銀ちゃんの馬鹿ぁぁぁ」
「その馬鹿がお前の彼氏だよ。そんでこの茹でダコみてぇなのが銀さんの彼女でぇ~す!!!」
まるで通り中に聞かせるように、銀時が大きな声で叫ぶ。抱きついたまま「ひぃ~!恥ずかしいからやめてよぉ!」と言った***の耳元で、銀時が不安げな声を出した。
「え、なに、***、お前、俺の彼女じゃねーの?もう銀さんのこと嫌いになっちゃった?」
「なっ!なってないよ!!好きだよ!!銀ちゃんが大好きだよ!!!」
慌てて叫びながら見上げると、声とは裏腹に、してやったりという顔の銀時が満足げに笑っていた。その肩越しに街の人の「はいはい、このバカップルが」という呆れた顔が見えた。
「ぎぎぎぎぎぎぎ、銀ちゃん、か、彼女になんてことを、させるんですかぁぁぁぁ!!!!!」
「ギャハハハハハッ、お前すっげぇ顔!まぁ、彼氏に好きって言うのが彼女のつとめだろ。そんで彼女に好きって言うのが彼氏のつとめだからな、なぁ、***」
―――好き、***、すっげぇ好き。
抱き寄せられた耳元でそうささやかれて、***はもう全てどうでもよくなった。ただ幸福感で心が晴れ渡っていく。甘くささやかれた耳も、見つめられる顔もヤケドしそうなほど熱い。恥ずかしさに潤んだ瞳で見上げた銀時は、嬉しそうに笑っていた。朝日に照らされた銀色の髪がキラキラと光っている。銀時の後ろに広がる青空は、雲ひとつなく澄み切っていた。
何度伝えても伝えきれない。恥ずかしさで***の声はとても小さいけれど、青空に響いて街中に広がっていけばいいと願うほど、思いは強く大きい。
「私もっ!私も、銀ちゃんのこと、大好き!!!」
(夢じゃない、空がこんなに青いから)
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【第35話 青空】end
背中に置かれた手のひらが熱い。強く抱きしめられた腕の中がいつもの高い温度で、***は心底ホッとした。もう大丈夫、いつもの銀ちゃんだ。そう思ったら急に、身体から力が抜けた。
色んなことが一度に起きた夜だった。初めてのことばかりだった。銀時の温もりと香りに包まれて初めて***は、自分が疲れていることに気が付いた。
―――いま、何時だろう?きっと真夜中だ。今朝も早くから配達だったから、もう眠たい……
どんどん力が抜けて銀時の肩に回していた手が、ぱたんとシーツに落ちた。それと同時に、抱き寄せる銀時の腕の力が強まったから、うっとりしてしまう。銀色の跳ねた毛先がほほを撫でるのが心地よい。もう少しで***が瞳を閉じそうになった時、小さな声が耳に届いた。
「……か、***……」
「え……?ごめん……なんですか?」
「いいのかって聞いてんだよ***。俺でいいのか」
「え、うん。私、銀ちゃんが好きですよ?」
「ちげぇよ馬鹿、お前が俺のことを好きなのは分かってるって。そーじゃなくて、本当に俺でいいのかって聞いてんだよ。***、本当にお前の相手は、俺でいいのか」
そう言いながら銀時は、更に強く***を抱き寄せた。いつものテキトーな口調なのに、腕の力は切実だった。それがまるで傷付くのを恐れているように感じて、***はハッとする。絶対に銀時を傷つけたくないと思ったら、疲れや眠気が一瞬で吹き飛んだ。
「うん、私、銀ちゃんがいいです」
「……糖尿寸前で、無職同然のオッサンだぞ」
「ぷっ!ふふっ、糖尿はちょっと心配だけど、無職同然のオッサンの銀ちゃんが大好きだよ」
「……パチンコですぐスるし、酒飲んですぐ吐くぞ」
「ふはっ、知ってるよ。出会った時も酔っ払って吐いてました。私あの時からずっと、銀ちゃんのことが好きだったよ」
「…………ケチ臭いし、うさん臭いし、足臭いぞ」
「あははっ、同じこと新八くんと神楽ちゃんが言ってたけど、私はそうは思わないよ。足が臭いところも好きだよ銀ちゃん」
はぁぁぁ~信じらんねぇ、という呆れた声が耳元で聞こえた。そっと腕を解かれ身体が離れる。両肩を大きな手でつかまれ、赤い瞳にじっと見つめられる。再び開いた銀時の唇から、普段の声とは全く違う、とても真剣で静かな声が漏れ出た。
「***、俺はたぶん、お前より先に死ぬ。それもろくでもねぇ死に方でおっ死ぬ。そうじゃなくてもこんな生き方だ。突然いなくなることもある。そうなったらお前はひとりで取り残されるんだぞ。それでもいいのか***。それでもお前は本当に俺と一緒にいてぇのか?」
その言葉だけで、銀時がどうして今まで***の気持ちをはぐらかしてきたのかが、よく分かった。
こんなに優しい人は他にいない、と思うと***の胸は痛いほど締め付けられた。死んだ魚のような目を、***はじっと見つめる。銀時と同じくらい真剣で、静かな声が唇から溢れた。
「私のことを、先に死なれた位であきらめるような、簡単な女だと思わないでよ銀ちゃん。銀ちゃんが死んじゃった後も、私、ずっと銀ちゃんのことが好きだよ。たとえ取り残されても、銀ちゃんが居たこの街で生きてる限り私はひとりじゃない。だから銀ちゃんはそのままの生き方で生きてください。銀ちゃんが生きてる間も死んだ後も、私はこの街に……銀ちゃんのそばにいます」
赤い瞳がゆらゆらと揺れて、奥歯を噛みしめている銀時の表情は苦しそうで、何か悪いことを言っただろうかと不安になる。
大丈夫?と聞こうとした瞬間、再び強く抱き寄せられて息を飲んだ。そして耳に熱い息がかかるくらいの近さで、銀時の声が聞こえてきた。
―――好きだ、***、もうどこにも行かせねぇよ。ずっとそばにいろよ。好きだから、俺はお前が……―――
その声が耳に入った瞬間、***の世界は停止した。ずっと心をかき乱し続けた嵐が、唐突に去っていった。
ずっと欲しかった言葉なのに、いざ銀時から言われると、すぐには信じられなくて、うまく答えられない。ただとても止められないほどの大粒の涙が、せきを切ったように瞳から溢れ出していく。
「ほ、ほんとに?……ほんとに銀ちゃん?」
声もなく銀時が笑って、うなずくのが分かった。「嘘でこんなこと言うワケねーだろ」と言って、ゆっくりと身体を離していく。見つめた赤い瞳はもう揺れていなかった。銀時は***のほほに手を添えて、ミミズ張れの上を伝う涙を指でぬぐった。
「ぎ、ぎんちゃ……わ、私、どこにも、ぃかないよ……っと、ずっと銀ちゃんの、そばにいるっ」
「ぶっ!!お前泣きすぎだろ。脱水で死ぬぞ。カラカラに干からびて酢昆布みてぇなシワシワの婆ちゃんになるぞ」
「だ、だってっ、銀ちゃんが急に色んなこと、するから……」
「へーへー、いろんなことして悪かったよ。え、なに***、じゃーお前、銀さんのこと嫌いになった?」
「なっ!なってないです!!好きだよ銀ちゃんのことがっ!!!」
真っ赤な顔で叫ぶ***の涙は全然止まらなくて、銀時は呆れたように笑った。銀時の大きな親指が、ほほを伝う雫を受け止めた。濡れた親指がほほを何度かなでた後、そっと***の上唇に触れた。左から右へ。上唇の後は同じ動きで下唇を。壊れやすいものに触れるみたいに繊細な手つきで。
「あ゙ーーくそ……もう無理、我慢の限界」
「え?」
なんの我慢ですか、と***が聞く前に顔が近づいてきていて、目を閉じる間もないうちに、***の唇に銀時の唇が重なっていた。
驚きで目を見開いた***を、嬉しそうな銀時の瞳が見つめていた。唇に触れた柔らかさからは、なぜか雨の匂いがした。頭の片隅で「どうして銀ちゃんから雨の香りがするんだろう?」と冷静につぶやく声が聞こえた。
―――初めてのキスは絶対に銀ちゃんとがいいって、ずっと思ってた。でも叶わないかもとも思ってた―――
「………んっ!」
ようやく動けるようになった***が、ぎゅっと瞳を閉じる。すると銀時の唇がより強く押しつけられて、その温度まで分け合うみたいな口づけをした。口を閉じているはずなのに、涙のしょっぱい味を少しだけ感じて、恥ずかしさに顔が熱くなる。息もできない数秒間が永遠のように続き、ゆっくりと熱い唇が離れて行った。
離れた後も銀時は、ほほを撫でてくれたけれど、***の涙は止まりそうになかった。
「おい***、お前いつまで泣いてんだよ。大好きな銀さんが手に入ったんだぞ。よかったじゃねぇか、喜べよ。いつもみてぇに頭から花咲かして、馬鹿みたいな顔で笑うとこ見せろって」
「うぅ~~っ、ば、馬鹿みたい、じゃないもんっ……こんなに、泣かせてるのっ、ぎ、銀ちゃんですっ!」
「っんだよ、じゃーお前どーしたら泣きやむんだよ。そんなに泣くとホントに干からびて死ぬぞ。どうすんの?どうしたいのお前?銀さんにどーしてほしいか言えよコノヤロー」
銀時にしてほしいことは沢山あった。もう一度好きと言って欲しい。抱きしめて欲しい。二度と離さないで欲しい。でも、その全てを追いやるほど、いま一番してほしいことは―――――
「……して、銀ちゃん、キスしてください……」
―――ずっとずっと、して欲しかったから……
***がそう言うと、銀時はふっと笑った。***の後頭部を手で抑えて、再び唇を重ねる。今度はふたりとも瞳を閉じていた。
ゆっくりと身体を押されて、気が付くとシーツに背中が埋もれていた。頭がベッドに沈む瞬間に唇が離れて、銀時が「***、」とつぶやくのが聞こえた。***も名前を呼び返そうとしたのに、そんなの待てないというように性急に口づけが再開された。その時はじめて***は、銀時もキスをしたがっていたと分かった。それがあまりにも幸せで、まるで夢みたいだ、と思う。
顔の両脇に銀時が手をついて、唇が熱くなるほど何度もキスをしてもらった。深い幸福感に包まれた***は閉じた瞳を、開けなくなった。
「え、オイ***、まさかお前、寝んの?この状況で?」
「ぎ、んちゃん、だって、もう……ねむたくて……」
「オイィィィ!!」
無防備すぎだろ!という声が遠く聞こえたが、抗いようのない眠気が襲ってくる。薄れる意識のなか、必死に伸ばした手で銀時の着物をぎゅっとつかんだ。
―――ねぇ銀ちゃん、私、銀ちゃんにこうしてもらう為に生まれてきた気がする。銀ちゃんにキスをしてもらう為に、生きてきた気がするの……これが夢なら二度と目覚めたくない。このままずっと、ふたりでここにいたい……この嵐の夜のなかに。私はこの手を離さないから、銀ちゃんも私を離さないで……―――
そう強く願っていたから、目を覚ました時にも銀時がすぐ近くにいると思っていた。身体中を銀時の香りに包まれているのに、目を閉じたまま伸ばした手はシーツの上をどこまで行っても、銀時に触れることはなかった。変だな、と思って瞳を開けた時、大きなベッドには自分ひとりしかいないことに、***は気づいた。
「……銀ちゃん………?」
起き上がるとパサッと身体から何か落ちた。水色の渦巻き模様の着物。ベッドから降りてそれを拾って袖に腕を通すと、確かに銀時の匂いがした。でも部屋に人の気配がない。
部屋を見回すと、ソファに***の着物が掛けられていた。泥汚れが取れて乾いている。テーブルに手提げ袋とかんざしが置いてあり、かんざしの取れたはずのウサギの飾りは元通りに直っていた。手提げの中のがま口財布を開いたら、中には札が戻っていた。
「どうして……、銀ちゃん……帰っちゃったの?」
―――それとも、昨夜のことは夢だったの?
目を見開いてあたりを見回す。電気は消され、カーテンが開いていた。差し込む朝日に部屋中が照らされている。デジタル時計は7:21を表示して、窓の外には晴天の青空が広がっていた。
唇にはまだキスの感触が残っていた。指で唇に触れた時に、両手首に包帯が巻かれていることに気づいた。ハッとして窓ガラスに写った自分を見ると、左ほほのひっかき傷の上には大きな絆創膏が、噛まれた鎖骨と吸われた胸元には小さな絆創膏がついていた。襦袢をめくると、転んで打った両ひざに湿布が貼られていた。
夢じゃない。昨夜のことは現実だ。でも一体どこまでが現実で、どこからが夢か、判断がつかない。疲れた身体を抱きしめられたところまでは、よく覚えている。それで銀時が「好きだ」と言ってくれたと思う。その声を聞いたら、たくさん涙が出た。恥ずかしげもなくキスをせがんだら、銀時は笑って応えてくれた気がする。
もう二度と離すもんかと思って、必死で銀時に手を伸ばしたのに、どうして自分は今ひとりなんだろう。そう思ったら唐突に寂しさと後悔が襲ってきた。
―――絶対につかんでいなきゃいけなかったのに、寝てしまうなんて私は大馬鹿だ……―――
涙がじわりと浮かんで、足が勝手にふらふらと動く。大きすぎる銀時の着物の裾が床をこすった。廊下の途中にバスルームのドアがあり、少し開いた隙間から蛍光灯の光が見えた。
「っ……!!!」
そこに銀時がいると思って勢いよく開く。しかし目に飛び込んできたのは、ユニットバスの閉じられたシャワーカーテンだけだった。そこにも銀時の姿はなくて、ただ浴槽の前に見慣れた黒いブーツが脱ぎ捨ててあった。倒れているブーツを見た瞬間、***は膝から崩れ落ちた。
―――着物も靴も置いて帰っちゃうなんて……銀ちゃんはそんなに昨日のことが嫌だったの?そんなに私から逃げたくなったの?それならどうして……あんなに優しくしてくれたの?それとも、それもぜんぶ夢だったの?
思考が空回りして何も分からない。ただ銀時が恋しい。這いつくばって浴槽に近づき、ブーツをひとつ拾うと胸に抱いた。持ち主を失ったそれは冷たくて頼りない。同じように***も銀時を失ったと思うと、悲しみが溢れ出した。
「う、ぅ、うわあぁぁぁぁぁん!!!!!ぎんちゃぁぁぁぁぁん!!!!!」
ぺたりと座り込んだ***は、子供のように大きな声を上げて泣いた。嗚咽と大粒の涙がこらえられない。届かないと分かっていながら、勝手にノドがもう一度大きな声で「ぎんちゃぁぁぁぁん!」と叫んだ。
「うるせぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!」
聞き慣れた愛しい声がすぐ近くから聞こえると同時に、シャワーカーテンがシャッと開いた。「へ?」と言った***の前に、バスタブの中から枕を抱いた銀時が現れた。
「人が気持ちよく寝てんのに、耳元でギャーギャーギャーギャーうるせぇんだよコノヤロー!お前は発情期ですかぁぁぁ!?俺はこんなうるせぇ目覚まし時計、かけた覚えはないんですけどぉぉぉぉ!!!?」
「銀ちゃん!?か、帰っちゃったんじゃないんですかっ!!?」
「帰ってねぇよ!まだよい子はおねむの時間だろーが!二度寝三度寝したって許される時間だろーが!よ~く寝て朝っぱらから泣き叫ぶほど元気な***とは違ってなぁ、こちとら全然寝てねぇんだよ!ぐーぐー寝るお前の子守やら、ケガの手当やら、服の洗濯やらで夜通し大忙しだったの!ようやくひと段落してやっと寝れたと思ったら、またぴーぴー泣きやがって!俺は***の母ちゃんかよ!なんなのお前は?赤ちゃんか?赤ちゃんなんですか?おしゃぶりの代わりにブーツに吸いついてる赤ちゃんなんですかぁぁぁ!!?」
「あかっ、赤ちゃんじゃないです!!だ、だって起きたら銀ちゃんがいなくて、包帯が巻かれてるし、かんざしは直ってるし、お金が元に戻ってるし、びっくりしたんだもん!!全部、夢だったのかと思って悲しくなっちゃったんだもん!!!」
泣きながら怒る***を立ち上がらせて、銀時は呆れた顔をした。バスルームを出てソファに***を座らせると、面倒くさそうな表情の銀時は、***の前にしゃがんだ。泣きはらした***の目元を指で撫でた銀時は、「ガキみてぇ」と言って笑った。
「夢じゃねぇよ***、夢にされてたまるかよ。これでも銀さん、結構がんばったんですけど。かんざし直すのとケガの手当すんのに、ペンチと救急箱貸せって言った時のフロントの兄ちゃんの顔ひどかったぜ。犯罪者でも見るみたいな目で見られて、「ケーサツ沙汰だけはやめてくださいね」とか言われてよぉ。ものっそい気まずかったんですけどぉ。着物洗って部屋戻ってきたらお前はぐーすか寝てるし?ほっぺた引っ張っても頭はたいても全然起きねぇし?傷の手当てしてやっても、ありがとうも言わねぇしぃ~?」
「ご、ごめんね銀ちゃん。寝てる間に色々してくれて、ありがとう……でも、あの……どうしてお風呂で寝てたの?一緒に居てほしかったです。あんなに大きなベッドなら、十分ふたりで寝れるんだから」
「お前なぁ~……っとに、これだからガキは……、俺がどこで寝ようが俺の自由だろうが!っんなことより、***ちゃぁ~ん、自分がとんでもねぇ格好してるって、分かってますかぁ!?」
へ、と口を半開きにして自分の身体を見下ろした瞬間、***は声を失った。銀時の着物を羽織っているが、前は開いていて中の襦袢が丸見えだった。身体の線も下着の色も薄く透けて、ニヤニヤと笑う銀時に見られていた。
「あわぁあああああ!!!ど、どこ見てるんですかぁ!!馬鹿ぁぁぁ!!!」
思わず手に持っていたブーツを銀時の顔に思い切り押しつけて、上からぎゅう、と抑えつけた。恥ずかしさに顔から火が出そうだ。
「イテイテイテッ!く、臭っ!俺の靴くっさッ!!」
「~~~~っ!お風呂で着替えるから、絶対に入ってこないでください!!」
身支度を終えた時、時刻はもう8:20だった。部屋を出て誰もいない廊下で、エレベーターが10階までやってくるのを待つ。扉の上の階数表記が5、6、7と変わるのを見上げて、ぼーっとしていたら、隣で銀時が「ぶっ」と吹き出した。
「え、な、なんですか?私、なんか変?」
「いや、このホテルで夜通し男と一緒にいて、なんにもしねぇでただ寝て帰ってく女って、***しかいねぇだろーなって思ったら、笑えてきた」
「うっ……た、確かに……でも、それをいうなら銀ちゃんだって、なんにもしないでただ寝て帰る男です」
「おぉ~、似たもの同士仲良く帰ろうや。オラ、乗るぞ」
エレベーターのドアが開き、踏み出す銀時に手をつかまれて、ぎゅっと握られた。その手を見つめたら、まだ大事なことを聞けていないと、***は気づいた。
―――ねぇ、銀ちゃん、私たちってどうなったの?ただの似たもの同士で終わりなの?銀ちゃん、私のこと好きって言った?なんにもしないで帰るって、あのキスもなかったってこと?それともあれは全部、夢だったの?
エレベーターの中でそれを聞こうと口を開いたのに、声が出ない。いざ聞いて「は?なんのことだよ」と言われたら、ショックすぎる。ああ、どうしよう、と銀時の手をにぎったままうつむいていたら、急に足元からフワッとした浮遊感が這い上がってきた。
「ひぃっ……!おち、落ちるッ!落ちるぅぅぅ!!!」
「は?なに***、お前まだエレベーター怖ぇの?昨日乗った時は全然へーきだったじゃねぇかよ」
にぎった手はそのままに、反対の手で銀時の肩にぎゅっとつかまった。銀時の二の腕に顔を押しつけ、身体を縮こまらせる。ゲラゲラと笑った銀時が「お前すげー震えてんじゃん」と言うので、恥ずかしさに顔が赤くなる。それでも落下するような感覚が怖くて、すがりつくしかできない。
「オイ、***、ちょっと手ぇ離してみ」
「ヤダヤダヤダ!銀ちゃん、は、離さないでっ!」
「いや、ちげぇって、ちょっと一回……」
そう言った銀時が手をぱっと離した。「あっ」と言って泣きそうになった***の身体が、強い力で抱き寄せられて、肩と膝裏に回った大きな手で抱え上げられた。
「わっ、ぎ、銀ちゃんっ!?」
「ほら、これで怖くねぇだろ?」
床から足が離れたことで、浮遊感がなくなった。でも横抱きで密着したことにドキドキして、赤くなった顔がますます熱くなる。
「あ、ありがと銀ちゃん……あの…、落とさないでね」
恥ずかしさにうつむいて上目遣いで銀時を見つめると、小さな声でつぶやく。すると銀時は、ふっと笑って***を見つめ返すと、静かな声で答えた。
「落とさねぇし、離さねぇよ***……昨日言っただろ、もうどこにも行かせねぇって、ずっとそばにいろって」
「っ………!!!!!」
―――やっぱり、やっぱり夢じゃなかった。私の思いは銀ちゃんに届いたんだ。夢だったんじゃなくて、夢が叶ってたんだ……
じわっと浮かんだ涙を必死でこらえる。付き合うとか恋人同士とかそういう言葉で言い表すのは違う気がして、精一杯考えて絞り出した言葉を***はささやいた。
「銀ちゃん……私、銀ちゃんのことがすごく好きだよ。今までもこれからもずっと。それは、もしかして……銀ちゃんも同じですか?」
「はっ、お前すげぇ真っ赤……そーだよ***、俺もお前と同じだよ。昨日も言ってやったのに夢にしてんじゃねぇよコノヤロー。ぴーぴー泣いてる***も、よだれ垂らしてぐーすか寝てる***も、茹でダコみてぇに真っ赤んなる***も、ぜぇ~んぶ銀さんのもんで~す。離せって言われても、もぉ離しませぇ~ん」
ふざけた口調でも、***を見下ろす赤い瞳が優しくて、それが真実だと分かる。恥ずかしくて、でも嬉しくて幸せで***は「銀ちゃん、大好き」と言って、銀時の肩に回した手にぎゅっと力を入れた。
「知ってる。昨日泣いてるお前にさんざん言われた」
そう言った銀時が肩を抱く腕を動かして、***の身体を引き寄せた。横向きに落とされた顔が近づいてきて、ちゅう、という音を立ててキスをした。驚きに目を見開いた***の顔は、湯気が出そうなほど赤くなる。
「もっかいしていい」
「銀ちゃ、」
答える前に再び唇が重なっていて、***は「んっ!」と声を上げた。とても恥ずかしいのに、キスの感触が懐かしくて愛しい。もっとしてほしい、と思った***が瞳を閉じようとした瞬間だった。
チンッ―――
「「あ、」」
エレベーターのドアが開くと、ホテルの受付係の男が立っていた。抱き合ってキスをする銀時と***を見て、男は驚いていたが、銀時の顔を見た瞬間「あ~…」と胡散臭いものを見るような顔になった。それだけでその男が昨夜、銀時を犯罪者扱いをしたフロントの男だと、***にも分かった。すぐにビジネススマイルを張り付けた男は、エレベーターの中のふたりに向かって45度のお辞儀をした。
「ご来店ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
「お~、兄ちゃん、昨日はありがとね。助かったわ。ホラ、コイツ、俺の彼女なんだけどぉ、ドMすぎてさぁ、もっともっとぉ~ってうるせぇもんだから、俺もちょっと色々やりすぎちゃってぇ。ケーサツ沙汰とまではいかねぇけど、もう身体中ボロボロだし、腰はたたねぇしで、朝からこんなザマよ。なぁ~***、お前ドMだもんなぁ。昨日は銀さんにさんざんいたぶられて、楽しかったよなぁ」
「なっ……!!!」
ニヤニヤと下世話な顔で笑った銀時が、***を見下ろす。ありもしないことを突然言われて、***は言葉も出ない。顔に大きな絆創膏を貼り、腕に包帯を巻き、銀時に抱えられた***を、男は哀れみに満ちた目で見て「お楽しみ頂けてなによりです」と言うと苦笑いをした。
「ちっ、ちがっ、違いますっ!違うんですっ、か、勘違いです、お兄さぁぁぁん!!!」
首まで真っ赤になった***が、ようやく声を取り戻して叫んだ時には、既にふたりが降りたエレベーターに男は乗りこんで、扉が閉まっていた。
その後も銀時は***を下ろすことなくホテルを出て、通りを歩きはじめた。真っ赤な顔からプンプンと怒りの煙を出した***が、銀時の肩をぐいぐいと押した。
「おろ、下ろしてください!もう大丈夫だから!」
「あれぇ~、***、さっき「銀ちゃん離さないでぇ」って甘えた声で言ってたじゃん。いいって、遠慮すんなって。銀さんに甘えなさいよ。夜通し可愛がられて、もう足腰立たねぇ生まれたての子鹿なんだから」
「ちがいますっ!遠慮してないし、可愛がられてないし、生まれたての子鹿じゃないしぃぃぃ!」
どんなに押しても銀時の身体はびくともしない。それどころかますます力強く抱き寄せられて、されるがまま運ばれていく。大きな声で騒ぐ二人に、行き交う街の人たちはぎょっとした顔をする。しかし、その会話を聞いて何ごとかを察すると、誰も彼もが「あぁ…」と哀れみを込めた目で***を見た。
「ぎ、銀ちゃんのせいで、みんなに勘違いされちゃいます!お願いだから下ろしてよ!」
「別にいーじゃねーかよ勘違いされたって。もーお前は俺のもんだろーが。煮るなり焼くなり縛るなりできんのは、彼氏の特権だろ」
「かっ……彼氏っ……!!!」
そう言えばさっき銀時は、***のことを彼女と言った。そのことに気づいた瞬間、怒りを飛び越えるように、喜びがわき上がってくる。「ああっ」と叫んだ***は、真っ赤な顔をぎゅっと銀時の首筋に押しつけて抱きついた。
「も、もぉ~~~!銀ちゃんの馬鹿ぁぁぁ」
「その馬鹿がお前の彼氏だよ。そんでこの茹でダコみてぇなのが銀さんの彼女でぇ~す!!!」
まるで通り中に聞かせるように、銀時が大きな声で叫ぶ。抱きついたまま「ひぃ~!恥ずかしいからやめてよぉ!」と言った***の耳元で、銀時が不安げな声を出した。
「え、なに、***、お前、俺の彼女じゃねーの?もう銀さんのこと嫌いになっちゃった?」
「なっ!なってないよ!!好きだよ!!銀ちゃんが大好きだよ!!!」
慌てて叫びながら見上げると、声とは裏腹に、してやったりという顔の銀時が満足げに笑っていた。その肩越しに街の人の「はいはい、このバカップルが」という呆れた顔が見えた。
「ぎぎぎぎぎぎぎ、銀ちゃん、か、彼女になんてことを、させるんですかぁぁぁぁ!!!!!」
「ギャハハハハハッ、お前すっげぇ顔!まぁ、彼氏に好きって言うのが彼女のつとめだろ。そんで彼女に好きって言うのが彼氏のつとめだからな、なぁ、***」
―――好き、***、すっげぇ好き。
抱き寄せられた耳元でそうささやかれて、***はもう全てどうでもよくなった。ただ幸福感で心が晴れ渡っていく。甘くささやかれた耳も、見つめられる顔もヤケドしそうなほど熱い。恥ずかしさに潤んだ瞳で見上げた銀時は、嬉しそうに笑っていた。朝日に照らされた銀色の髪がキラキラと光っている。銀時の後ろに広がる青空は、雲ひとつなく澄み切っていた。
何度伝えても伝えきれない。恥ずかしさで***の声はとても小さいけれど、青空に響いて街中に広がっていけばいいと願うほど、思いは強く大きい。
「私もっ!私も、銀ちゃんのこと、大好き!!!」
(夢じゃない、空がこんなに青いから)
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【第35話 青空】end