銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
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【第34話 幸福】
強い風と雨が窓を打つ。背後から、***の立てる衣ずれの音が聞こえる。身体を離した途端、銀時には周りがよく見えるようになった。薄暗い部屋の赤みがかった照明、異常なまでに大きなベッド、寒いほど効いている冷房。その全てがいかがわしくて、***にはそぐわない。
その***に背を向けて、ベッドのふちに座っている。知らぬ間にブーツを脱ぎ捨てていて、着物の袖から両肩が抜けていた。素足と黒い半袖のシャツから出た腕が冷たい。頭に上っていた血液が、どんどん下がっていく。
「銀ちゃん……」
衣ずれの音が止み、後ろから小さな声が聞こえた。
―――テメーを犯そうとした男の名前を呼んでるヒマがあったら、さっさと逃げやがれコノヤロー。いつまでもこんな部屋にいんじゃねーよ***……―――
ぺたぺたと床を歩く足音が聞こえる。あと数秒で***は部屋を出ていく。ドアが閉まり、それでなにもかも終わる。うつむいて銀色の前髪に遮られた視界には、自分の足しか見えない。身体はどんどん冷えて、手足の指先の感覚がない。
しかし、どれだけ待ってもドアの音は鳴らなかった。気が付くと視界に小さな裸足の足が立っていた。その足はすぐ目の前で、つま先を銀時の方へ向けていた。不審に思い顔を上げた銀時は、あまりの驚きに目を見開いた。
―――乱れていた着物と帯を脱ぎ、長襦袢一枚になった***が、そこに立っていた―――
「なっ……!***っ!なんだその恰好はっ!!」
「えっ!?ごめんなさい!!こ、これも脱いだ方がいい!?ちょっと待って、すぐ脱ぎますから!!」
銀時と同じくらい驚いていた***は、一瞬で泣きそうな顔になった。しかしすぐにぐっと眉間にシワを寄せ、「む、胸が小さいから、あんまり見ないでね」と言うと、襦袢の腰ひもを引き抜こうとした。だが手が震えてうまくいかない。既に一度乱された襦袢の襟元は、ブラが見えそうなほど開いていた。白く薄い布地の向こうに、ショーツのピンク色も透けて見えて、銀時は眩暈を起こしそうだった。
着物を着直す音だと銀時が思っていた衣ずれは、実際には着物を脱ぐ音だった。顔を上げて***を見た銀時の赤い瞳は、まるで泣いているみたいに揺れていた。腰ひもを解こうとする***の手を、上から大きな手がガシッとつかんで止めた。
「いやいやいやいやッ!!なんなの***!?なんで脱いでんだよオメーはぁっ!?」
「えっっ!!?だ、だって……銀ちゃんが脱がそうとしてたから、脱いだほうがいいのかと思って……」
「はぁぁぁぁ!?」
口をあんぐりと開けて言葉を失った銀時の表情よりも、叩かれて赤くなったほほの方が、***は心配だった。
「あの……銀ちゃん、大丈夫ですか?痛かったよね。ごめんね。もうこれ以上無理だと思ったら、手が勝手に動いちゃったんです……」
一歩近づきながら***はそう言って、銀時の顔に手を伸ばす。***が叩いた左ほほは、手のひらで触れると熱かった。こんなことしたくなかった、と思うと***の瞳にじわっと涙が浮かんだ。
「いや、ごめんじゃねぇだろ……え、あの***さん?さっきもう無理だって言ってたよね?これ以上、俺といんのは無理だって分かったんだよね?……だったらさっさと出て行けよ。服まで脱いでお前は何してんの?何がしたいの?」
困惑した顔の銀時が、***を見上げて言う。その言葉を聞いた***は、ふるふると首を横に振った。だらりと垂れた銀時の手を両手で取ると「銀ちゃんの手、冷たい」とつぶやいた。大きな左手を温めるように、***はぎゅっと自分の右胸に、銀時の手のひらを押し当てた。
「オィィィィィ!!なにやってんだオメーはァァァ!ちょっ……やめろって!おい、***!!!」
「やめないっ!!だって……だってもう無理です!!私、これ以上、大人になるのは無理ですっ!!!」
「………は、はぁぁぁぁ!!?」
逃げようとする銀時の手を、***の両手はつかみ続けた。控えめな胸は銀時の大きな手の中にすっぽりと収まってしまう。それが情けなくて、***の顔は真っ赤に染まった。
―――せめて、せめてもうちょっと、胸が大きかったら……こんな色気も柔らかさもない身体、きっと抱き心地も悪いよ……でも、それでも……私が銀ちゃんにあげられるのは、この身体しかない―――
「私、どんなに頑張ってもこれ以上、大人になるのは無理だよ。告白をはぐらかされるのも、泣くのを我慢するのも全然平気だけど……でも、銀ちゃんが他の女の人のものになるのは、耐えられない。今までのお礼を身体で払って、それでお終いになんてできない。あのお姉さんみたいに、銀ちゃんを他の人に譲ることは、私には無理です。そんな大人にはなれないよ。だから銀ちゃん、」
そう言っているうちに***の瞳は熱くなり、涙がどんどん溜まっていく。潤んだ視界のなかの銀時は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。なんだコイツ、一体なにを言い出すんだ、とその表情が語っている。
「だから銀ちゃん、私を大人にしてよ。む、胸は小さいし、上手く声も出せないけど……でもあのお姉さんより、私の方が銀ちゃんのこと好きです。だから銀ちゃん、このまま抱いてください。銀ちゃんになら私、どんな風にされても嬉しいから……―――」
―――どんなことをされても好きだから。こういうことをする相手は、私は銀ちゃんじゃなきゃ、やだよ……
絞り出すような声でそう言った***の足は、恥ずかしさと緊張でガタガタと震えた。銀時は***の言葉を聞いた直後、一瞬だけぐっと苦しそうな顔をした。ギリギリと音がするほど奥歯を噛んだ後で「チッ」と舌打ちをして、***の胸に当てられた左手を前へと強く押し出す。ドンッと押された***は、わっ、と言って数歩よろけてから尻餅をついた。
「っんだよ、クソッ……なんなんだよお前はっ!この期に及んでまだそんなこと言いやがって……よく考えろ***、俺はお前を犯そうとしたんだぞ。そんなろくでもねぇ奴にすがりつくな!さっさと出て行け、早く逃げろ***!いつまでもこんな部屋にいんじゃねーよっ!!」
「ち、違います!銀ちゃんはそんなことしてない!唇が切れないようにしてくれたし、ビンタも避けなかった!あんなに優しい手つきで、人を犯すことなんてできない!そんなに……そんなに悲しい目をしてる人が、ろくでもない奴なわけないっ!そんなにツラそうな顔して抱かれたら、私は好きになる一方です!!」
「っ………!!もう、もうやめろよ***、いい加減にしろって……お前には行くとこがあんだろうが!!アイツの…………あの男のことに行けよっっっ!!!」
そう叫んだ銀時が指さしたのは、ベッドの上に落ちている若旦那のハンカチだった。ハッとした***が言葉を失っているうちに銀時が近づいてきて、すぐ目の前にしゃがんだ。
「アイツなら……あの男とならお前は幸せになれんだ。おい、***、耳の穴かっぽじってよぉく聞け」
銀時が***の両肩をぐっとつかむ。何を言われるのか分からなくて怖い。目をそらしたいのに、力強い赤い瞳から逃げられない。
「ぎ、銀ちゃん、あのっ、」
「***、いい加減あきらめろって。俺じゃお前を幸せにできねぇって、よく分かっただろ。俺じゃ駄目なんだ。こんな薄汚れた街で生きてる俺とじゃ、お前は幸せになれねぇよ。アイツは……あの男なら、お前を家族のところへ帰してやれる。アイツと一緒に田舎に帰れよ***。お前にはそれがいちばんいいんだ。アイツと一緒んなってガキ産んで、父ちゃんと母ちゃんを喜ばしてやれよ。そうやって幸せになってくれよ頼むから。俺の為にテメーの幸せと家族を捨てるな***。お前にそんなことさせたら……お前が幸せになれなかったら、俺は一生自分を許せねぇんだよ。ろくでもねぇ芝居までした俺の気持ちも、いい加減分かれコノヤロー……」
肩を押さえる銀時の手は、襦袢越しでも分かるほど冷たかった。声は有無を言わせないほど強いのに、瞳は底なしに悲しそうだった。
嵐みたいな人だ、と***は思う。引き寄せられるたび、突き放される。近づいては離れて行く。傷つけた後で幸せになれと言う。嵐のような銀時に***の心は乱れ続けて、吹き飛ばされそうだ。
窓を叩く強い雨の音がする。嵐の中で頼りなく立つ自分が、誰の手を取りたいのかということだけが、***にはよく分かっていた。
「銀ちゃんがそんなふうに思っててくれたなんて、私、知らなかった……」
そう言った***は唇を噛んでうつむいた。手のうちまで見せたことを銀時は少し後悔する。芝居をし通せば、***は銀時を軽蔑してすっぱり忘れられて、もっと楽だったろう。それでも本心を伝えられたことで銀時は、心が晴れるような気もしていた。人の頼みを断れない***のことだから、これだけ言って聞かせれば、若旦那と故郷へ帰ることを決心できるはずだ。
ぱっと顔をあげた***は、決意を固めた表情をしていた。キッと睨むような目つきで、銀時のシャツの胸元を両手でつかんだ。やれやれ、ようやく決意できたか、手間かけさせやがって、と内心呆れていた銀時に向かって、***が言い放った言葉は、全く予想もしないことだった。
「ぎ、銀ちゃんこそ、耳の穴をかっぽじってよく聞いてください……あのね、銀ちゃん……私はもう、実家には帰りません」
そこまで言ってから***は少し口をつぐんだ。小さく息を吸い身体の力を抜くと、銀時を見上げて優しく微笑んだ。
―――銀ちゃん、私、牛乳屋さんを継ぐことにしたよ。
「……………………………………………は?」
突然、***が言い放ったことが理解できず、銀時は頭が真っ白になった。
「い、いやいやいやいやいや!!待て待て待て待て!!え?なに?おい、***、お前、今なんつった?銀さんまだ酔っ払ってんのかな?今なんか幻聴が聞こえたよーな……いや、まさかな。そんなこたァあるはずないって。ははは、お前が牛乳屋を継ぐとかどーとか、」
「継ぐんです銀ちゃん。私、牛乳屋さんを継ぐことにしたんです。今すぐじゃないけど、おじさんとおかみさんがうちの農園の売り上げがすごく良いから、ゆくゆくは私にお店を譲るって約束してくれたんです。ほら、あのふたりには子供がいないから……銀ちゃん、私、にこにこ牛乳の次期社長だよ。だから田舎にはもう、帰らないんです」
「はぁぁぁぁ!?ちょ、***、待てって!急になに言ってんだよ!そんなこと銀さんひと言も聞いてねぇけど!?っんな大事なこと勝手に決めてんじゃねーよ!そんなに軽々しく社長になれると思うなよ***。社長っつーのはな、銀さんくらいの手腕がないとやってけねーんだって。お前みてぇな小娘には無理だって。そーゆーことは決める前にちゃんと俺に相談しろよ!報告連絡相談だろーが!なに俺に断りもなく決めてんだよこの馬鹿ッ!!」
「ばっ、馬鹿って……!言おうとしたよ何度も!でも銀ちゃん飲みに行ってばっかりで、万事屋に全然いなかったじゃないですか!」
そう言い返す***の怒った顔は、必死さのあまり赤く染まっていた。その顔を見た瞬間、胸に懐かしさと愛おしさが蘇ってくる。冷えていた心が温められて癒されていく。いや、駄目だ、癒されてる場合じゃない。コイツの間違った選択を正してやらなければ。その手立てなら、まだあるはずだ。
***の薄い肩をつかむ手にぎゅっと力を入れると、再び銀時は口を開いた。
「アイツは……あの男はどうすんだよ!あの野郎は***と結婚したがってんだぞ?そんでお前の故郷まで一緒に行ってもいいっつってんだぞ!?どう考えてもイイ男じゃねぇかよ!いつまでも牛乳屋なんて細々とした商売やってねーで、さっさと玉の輿に乗れって!そんで家族まるごと幸せにしてもらえって!一回断ったくらいどうってことねぇよ。金持ちっつーのは太っ腹だから、地べたに頭こすりつけて、靴のひとつでも舐めればもっかいチャンスくれるって!銀さんも協力してやっから!!」
「ちょ、ちょっと待って、銀ちゃん!若さんはもう、私と結婚する気なんてないです!だって若さんが……」
必死の形相の銀時に見つめられて、***はたじろいだ。しかし、それでもゆっくりと若旦那のことを語り始めた。縁談を断ってしばらくたった後で、若旦那は***に「***ちゃんがこの街で働いていくことを応援したい」と言った。そして本当に力になってくれた。
若旦那は資産家同士の繋がりのある知り合いや、たくさんの仕事仲間に***農園の牛乳を大々的にすすめてくれたのだ。顔の広い若旦那のおかげで、かぶき町の上流階級の間で、***の得意客は続々と増えた。牛乳屋自体の売り上げも比例して伸びたことを受けて、以前から話には出ていた***に店を継がせるという事に、牛乳屋の夫婦が本腰を入れたのだ。
「私がこの街で働くことを、若さんは応援してくれてるんです……だから銀ちゃん、若さんは私と結婚する気は無いんです。玉の輿もなにも私にはもう無いんだよ」
そう言ってへらりと笑った***を見て「でっけぇ魚逃しといて、何笑ってんのお前は」と言いながら、銀時は必死で次の一手を考えていた。どうする、あと何がある、あと俺に言えることはなんだ。そしてようやく浮かんできた最後の一手は、***の田舎の家族のことだった。
「そ、そうだ、***っ!!お前の父ちゃんと母ちゃんはどーすんだよ!兄弟もいんだろ!大事な家族だろーが!4年も働いて稼ぎまくったんだ、そろそろ帰ってこいって母ちゃんは思ってるって。父ちゃんだって一人娘がこんな街にいるのは心配でたまんねぇって。さっさと帰れよ***。帰って家族そろって笑って暮らせよ。いつまでも俺みてーなろくでもねぇ男に入れ込んでるって知ったら、親が泣くぞこの不良娘っ!!!」
それを聞いた***が、銀時の両手を振り払って立ち上がる。走ってベッドに飛び乗ると、枕元に散らばった手提げの中身を拾いはじめる。ベッドの真ん中にぺたりと座った***が「銀ちゃん!来てください!これを見て下さい!!」と叫んだ。
あんだよ、と言って頭をガシガシと掻きながら、銀時もベッドにのり、あぐらをかいて座った。面倒くさそうな顔をした銀時の目の前に、***は一枚の写真を突きつけた。
「これが、私の、家族ですっっっっ!!!!」
そういって見せられた写真には、***の家族が並んで映っていた。そこには、***に瓜二つの顔でにっこり笑う母親がいた。その母親に抱き着かれた父親の顔は、茹でダコのように赤くなっていた。泥だらけの兄、おちゃらけた弟。それはどこまでも愉快で、果てしなく愛情深かった。これが家族というものか、と銀時は思った。
しかし、その写真の中でいちばん銀時の目を引き付けて、心臓が口から出そうになるほど驚かせたのは、家族そのものではなく、家族全員で掲げている、横断幕のような白い布だった。
その白い布は家族の前に広げられ、そこには墨汁で大きく書かれた***の母親の文字が並んでいた。
“頑張れ、***!
かぶき町中に***農園を届けろ!!”
その文字の羅列を見た瞬間、銀時の身体から力が抜けた。
「っんだよ、これぇ。お前の家族おかしいだろ……」
「ぷっ!アハハッ!銀ちゃんなら、そう言うと思いました。私の家族は変わってるんです。万事屋の皆と同じくらいおかしくて、愉快で、家族思いなんです。あ、あと、これお母さんの手紙……いままで手紙の最後はいつも“***の幸せを祈っています”だったんだけど……」
にこにこと笑った***が、手紙の一枚を手渡してきた。指さされた最後の一文に目を落とす。
“かぶき町で、できるなら銀ちゃんの隣で、***が幸せでいることを、お母さんは心から祈っています”
それは嘘偽りのない母親の言葉だった。
銀時は息を飲んで、手紙と写真とを交互に見る。これでもう、銀時には何も手札が残っていない。***を田舎に帰すのが自分の役目だと思っていたのに、それを***の家族が望んでいないなんて、予想もしなかった。
困惑した顔の銀時を見つめて、***は小さく微笑んだ。あぐらをかいた銀時の近くに、膝だけ動かしてすりすりと近づいてくる。
「銀ちゃん……田舎に帰って、家族と一緒に幸せになれって言ってくれてありがとう。すごく嬉しかった。やっぱり銀ちゃんは宇宙でいちばん優しいです。でも……でもね、銀ちゃん、ひとつだけ間違ってるよ」
「っんだよ!俺がいつどこで何を間違えたっつーんだよ!!」
キッと***を睨みながら言い返した銀時の、その両ほほに***はそっと手を添えた。小さな冷たい手のひらが、顔をひんやりと癒して心地よかった。
「さっき銀ちゃんは、自分の為に家族を捨てるなって私に言ったよね?それは違います……私は、家族を捨てて銀ちゃんを選ぶんじゃないよ……家族が、私に、銀ちゃんを選べって言うの。家族が私に、この街で生きていけって言うの。この街をこんなに好きになれたのは銀ちゃんおかげだよ。だから私は銀ちゃんのそばで、この街中に牛乳を届けたいんです。それが私の幸せで、家族の幸せなんです。ごめんね銀ちゃん、私、そういうふうにしか幸せになれなくて……でもお願いです……銀ちゃん、そんな私を許してください」
そう言った***は明るく微笑んでいた。しかし、その瞳から大粒の涙が溢れてきて、ほほに透明の軌跡を残して落ちていった。久しぶりに見た***の涙は、今まで見たことのないほど綺麗で、他のなによりもその涙に触れたいと思った。
雨粒を落とすようにぼたぼたと泣きながら、それでも銀時に向かって微笑みつづける***を見た瞬間、銀時の手から手紙と写真が滑り落ちた。自分でも気が付かないうちに膝立ちになった銀時は、目の前の***の身体を強く抱き寄せていた。
「***っ、」
「ぎ、銀ちゃん……」
小さな声で名前を呼び合う。抱きしめる銀時の腕の力は、***の身体がのけぞるほど強かった。***もそれにこたえるように銀時の胸に顔を押し付けて、細い腕で背中をぎゅっと抱きしめ返した。それはまるで、嵐の中のふたりが強い風に吹き飛ばされないように、互いにしがみつき合っているみたいだった。
冷静になった銀時の頭に、***の言葉が次々と蘇る。
―――銀ちゃんを他の人に譲ることは私には無理です。
他の男に***をとられたくないという本心をずっと認められない銀時を、***は一瞬で追い越してみせた。
―――銀ちゃん、私、牛乳屋さんを継ぐことにしたよ。
この街で生きていくことを、***はたったひとりで決めて、この街で生きていく術を、たったひとりで手に入れてみせた。
―――銀ちゃんのそばで、この街中に牛乳を届けたいんです。それが私の幸せで、家族の幸せなんです―――
誰かを幸せにするなんてできないと決めつけていた銀時に向かって、***は自分や家族だけでなく、この街中の幸福さえ小さな肩に乗せて、微笑んでみせた。
嵐みたいな女だ、と銀時は思う。何度突き放してもまたやってくる。離れても近づいてくる。自分を傷つけた人間さえ、いともたやすく癒してしまう。
***は嵐のように、銀時の心を乱してやまない。それなのに心乱されることが、こんなにも幸せでしかたがない。
腕の中の***がもぞもぞと動いて、銀時の肩に顔をのせた。背中に回した手は、二度と離さないと言わんばかりの強さで銀時の肩をつかんでいた。
「銀ちゃん、お願い……他の人と結婚しろとか、家に帰れとか、言わないでよ……私、銀ちゃんのそばにいたいんです……」
「………っんだよ、ちきしょう……このド根性女が。わかったよ、俺の負けだよ***、もう言わねぇって……」
窓の外の風雨の音がしずまりはじめていた。嵐が過ぎ去った後、その腕の中に誰を抱いていたいかだけは、銀時にはよく分かっていた。
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【第34話 幸福】end
強い風と雨が窓を打つ。背後から、***の立てる衣ずれの音が聞こえる。身体を離した途端、銀時には周りがよく見えるようになった。薄暗い部屋の赤みがかった照明、異常なまでに大きなベッド、寒いほど効いている冷房。その全てがいかがわしくて、***にはそぐわない。
その***に背を向けて、ベッドのふちに座っている。知らぬ間にブーツを脱ぎ捨てていて、着物の袖から両肩が抜けていた。素足と黒い半袖のシャツから出た腕が冷たい。頭に上っていた血液が、どんどん下がっていく。
「銀ちゃん……」
衣ずれの音が止み、後ろから小さな声が聞こえた。
―――テメーを犯そうとした男の名前を呼んでるヒマがあったら、さっさと逃げやがれコノヤロー。いつまでもこんな部屋にいんじゃねーよ***……―――
ぺたぺたと床を歩く足音が聞こえる。あと数秒で***は部屋を出ていく。ドアが閉まり、それでなにもかも終わる。うつむいて銀色の前髪に遮られた視界には、自分の足しか見えない。身体はどんどん冷えて、手足の指先の感覚がない。
しかし、どれだけ待ってもドアの音は鳴らなかった。気が付くと視界に小さな裸足の足が立っていた。その足はすぐ目の前で、つま先を銀時の方へ向けていた。不審に思い顔を上げた銀時は、あまりの驚きに目を見開いた。
―――乱れていた着物と帯を脱ぎ、長襦袢一枚になった***が、そこに立っていた―――
「なっ……!***っ!なんだその恰好はっ!!」
「えっ!?ごめんなさい!!こ、これも脱いだ方がいい!?ちょっと待って、すぐ脱ぎますから!!」
銀時と同じくらい驚いていた***は、一瞬で泣きそうな顔になった。しかしすぐにぐっと眉間にシワを寄せ、「む、胸が小さいから、あんまり見ないでね」と言うと、襦袢の腰ひもを引き抜こうとした。だが手が震えてうまくいかない。既に一度乱された襦袢の襟元は、ブラが見えそうなほど開いていた。白く薄い布地の向こうに、ショーツのピンク色も透けて見えて、銀時は眩暈を起こしそうだった。
着物を着直す音だと銀時が思っていた衣ずれは、実際には着物を脱ぐ音だった。顔を上げて***を見た銀時の赤い瞳は、まるで泣いているみたいに揺れていた。腰ひもを解こうとする***の手を、上から大きな手がガシッとつかんで止めた。
「いやいやいやいやッ!!なんなの***!?なんで脱いでんだよオメーはぁっ!?」
「えっっ!!?だ、だって……銀ちゃんが脱がそうとしてたから、脱いだほうがいいのかと思って……」
「はぁぁぁぁ!?」
口をあんぐりと開けて言葉を失った銀時の表情よりも、叩かれて赤くなったほほの方が、***は心配だった。
「あの……銀ちゃん、大丈夫ですか?痛かったよね。ごめんね。もうこれ以上無理だと思ったら、手が勝手に動いちゃったんです……」
一歩近づきながら***はそう言って、銀時の顔に手を伸ばす。***が叩いた左ほほは、手のひらで触れると熱かった。こんなことしたくなかった、と思うと***の瞳にじわっと涙が浮かんだ。
「いや、ごめんじゃねぇだろ……え、あの***さん?さっきもう無理だって言ってたよね?これ以上、俺といんのは無理だって分かったんだよね?……だったらさっさと出て行けよ。服まで脱いでお前は何してんの?何がしたいの?」
困惑した顔の銀時が、***を見上げて言う。その言葉を聞いた***は、ふるふると首を横に振った。だらりと垂れた銀時の手を両手で取ると「銀ちゃんの手、冷たい」とつぶやいた。大きな左手を温めるように、***はぎゅっと自分の右胸に、銀時の手のひらを押し当てた。
「オィィィィィ!!なにやってんだオメーはァァァ!ちょっ……やめろって!おい、***!!!」
「やめないっ!!だって……だってもう無理です!!私、これ以上、大人になるのは無理ですっ!!!」
「………は、はぁぁぁぁ!!?」
逃げようとする銀時の手を、***の両手はつかみ続けた。控えめな胸は銀時の大きな手の中にすっぽりと収まってしまう。それが情けなくて、***の顔は真っ赤に染まった。
―――せめて、せめてもうちょっと、胸が大きかったら……こんな色気も柔らかさもない身体、きっと抱き心地も悪いよ……でも、それでも……私が銀ちゃんにあげられるのは、この身体しかない―――
「私、どんなに頑張ってもこれ以上、大人になるのは無理だよ。告白をはぐらかされるのも、泣くのを我慢するのも全然平気だけど……でも、銀ちゃんが他の女の人のものになるのは、耐えられない。今までのお礼を身体で払って、それでお終いになんてできない。あのお姉さんみたいに、銀ちゃんを他の人に譲ることは、私には無理です。そんな大人にはなれないよ。だから銀ちゃん、」
そう言っているうちに***の瞳は熱くなり、涙がどんどん溜まっていく。潤んだ視界のなかの銀時は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。なんだコイツ、一体なにを言い出すんだ、とその表情が語っている。
「だから銀ちゃん、私を大人にしてよ。む、胸は小さいし、上手く声も出せないけど……でもあのお姉さんより、私の方が銀ちゃんのこと好きです。だから銀ちゃん、このまま抱いてください。銀ちゃんになら私、どんな風にされても嬉しいから……―――」
―――どんなことをされても好きだから。こういうことをする相手は、私は銀ちゃんじゃなきゃ、やだよ……
絞り出すような声でそう言った***の足は、恥ずかしさと緊張でガタガタと震えた。銀時は***の言葉を聞いた直後、一瞬だけぐっと苦しそうな顔をした。ギリギリと音がするほど奥歯を噛んだ後で「チッ」と舌打ちをして、***の胸に当てられた左手を前へと強く押し出す。ドンッと押された***は、わっ、と言って数歩よろけてから尻餅をついた。
「っんだよ、クソッ……なんなんだよお前はっ!この期に及んでまだそんなこと言いやがって……よく考えろ***、俺はお前を犯そうとしたんだぞ。そんなろくでもねぇ奴にすがりつくな!さっさと出て行け、早く逃げろ***!いつまでもこんな部屋にいんじゃねーよっ!!」
「ち、違います!銀ちゃんはそんなことしてない!唇が切れないようにしてくれたし、ビンタも避けなかった!あんなに優しい手つきで、人を犯すことなんてできない!そんなに……そんなに悲しい目をしてる人が、ろくでもない奴なわけないっ!そんなにツラそうな顔して抱かれたら、私は好きになる一方です!!」
「っ………!!もう、もうやめろよ***、いい加減にしろって……お前には行くとこがあんだろうが!!アイツの…………あの男のことに行けよっっっ!!!」
そう叫んだ銀時が指さしたのは、ベッドの上に落ちている若旦那のハンカチだった。ハッとした***が言葉を失っているうちに銀時が近づいてきて、すぐ目の前にしゃがんだ。
「アイツなら……あの男とならお前は幸せになれんだ。おい、***、耳の穴かっぽじってよぉく聞け」
銀時が***の両肩をぐっとつかむ。何を言われるのか分からなくて怖い。目をそらしたいのに、力強い赤い瞳から逃げられない。
「ぎ、銀ちゃん、あのっ、」
「***、いい加減あきらめろって。俺じゃお前を幸せにできねぇって、よく分かっただろ。俺じゃ駄目なんだ。こんな薄汚れた街で生きてる俺とじゃ、お前は幸せになれねぇよ。アイツは……あの男なら、お前を家族のところへ帰してやれる。アイツと一緒に田舎に帰れよ***。お前にはそれがいちばんいいんだ。アイツと一緒んなってガキ産んで、父ちゃんと母ちゃんを喜ばしてやれよ。そうやって幸せになってくれよ頼むから。俺の為にテメーの幸せと家族を捨てるな***。お前にそんなことさせたら……お前が幸せになれなかったら、俺は一生自分を許せねぇんだよ。ろくでもねぇ芝居までした俺の気持ちも、いい加減分かれコノヤロー……」
肩を押さえる銀時の手は、襦袢越しでも分かるほど冷たかった。声は有無を言わせないほど強いのに、瞳は底なしに悲しそうだった。
嵐みたいな人だ、と***は思う。引き寄せられるたび、突き放される。近づいては離れて行く。傷つけた後で幸せになれと言う。嵐のような銀時に***の心は乱れ続けて、吹き飛ばされそうだ。
窓を叩く強い雨の音がする。嵐の中で頼りなく立つ自分が、誰の手を取りたいのかということだけが、***にはよく分かっていた。
「銀ちゃんがそんなふうに思っててくれたなんて、私、知らなかった……」
そう言った***は唇を噛んでうつむいた。手のうちまで見せたことを銀時は少し後悔する。芝居をし通せば、***は銀時を軽蔑してすっぱり忘れられて、もっと楽だったろう。それでも本心を伝えられたことで銀時は、心が晴れるような気もしていた。人の頼みを断れない***のことだから、これだけ言って聞かせれば、若旦那と故郷へ帰ることを決心できるはずだ。
ぱっと顔をあげた***は、決意を固めた表情をしていた。キッと睨むような目つきで、銀時のシャツの胸元を両手でつかんだ。やれやれ、ようやく決意できたか、手間かけさせやがって、と内心呆れていた銀時に向かって、***が言い放った言葉は、全く予想もしないことだった。
「ぎ、銀ちゃんこそ、耳の穴をかっぽじってよく聞いてください……あのね、銀ちゃん……私はもう、実家には帰りません」
そこまで言ってから***は少し口をつぐんだ。小さく息を吸い身体の力を抜くと、銀時を見上げて優しく微笑んだ。
―――銀ちゃん、私、牛乳屋さんを継ぐことにしたよ。
「……………………………………………は?」
突然、***が言い放ったことが理解できず、銀時は頭が真っ白になった。
「い、いやいやいやいやいや!!待て待て待て待て!!え?なに?おい、***、お前、今なんつった?銀さんまだ酔っ払ってんのかな?今なんか幻聴が聞こえたよーな……いや、まさかな。そんなこたァあるはずないって。ははは、お前が牛乳屋を継ぐとかどーとか、」
「継ぐんです銀ちゃん。私、牛乳屋さんを継ぐことにしたんです。今すぐじゃないけど、おじさんとおかみさんがうちの農園の売り上げがすごく良いから、ゆくゆくは私にお店を譲るって約束してくれたんです。ほら、あのふたりには子供がいないから……銀ちゃん、私、にこにこ牛乳の次期社長だよ。だから田舎にはもう、帰らないんです」
「はぁぁぁぁ!?ちょ、***、待てって!急になに言ってんだよ!そんなこと銀さんひと言も聞いてねぇけど!?っんな大事なこと勝手に決めてんじゃねーよ!そんなに軽々しく社長になれると思うなよ***。社長っつーのはな、銀さんくらいの手腕がないとやってけねーんだって。お前みてぇな小娘には無理だって。そーゆーことは決める前にちゃんと俺に相談しろよ!報告連絡相談だろーが!なに俺に断りもなく決めてんだよこの馬鹿ッ!!」
「ばっ、馬鹿って……!言おうとしたよ何度も!でも銀ちゃん飲みに行ってばっかりで、万事屋に全然いなかったじゃないですか!」
そう言い返す***の怒った顔は、必死さのあまり赤く染まっていた。その顔を見た瞬間、胸に懐かしさと愛おしさが蘇ってくる。冷えていた心が温められて癒されていく。いや、駄目だ、癒されてる場合じゃない。コイツの間違った選択を正してやらなければ。その手立てなら、まだあるはずだ。
***の薄い肩をつかむ手にぎゅっと力を入れると、再び銀時は口を開いた。
「アイツは……あの男はどうすんだよ!あの野郎は***と結婚したがってんだぞ?そんでお前の故郷まで一緒に行ってもいいっつってんだぞ!?どう考えてもイイ男じゃねぇかよ!いつまでも牛乳屋なんて細々とした商売やってねーで、さっさと玉の輿に乗れって!そんで家族まるごと幸せにしてもらえって!一回断ったくらいどうってことねぇよ。金持ちっつーのは太っ腹だから、地べたに頭こすりつけて、靴のひとつでも舐めればもっかいチャンスくれるって!銀さんも協力してやっから!!」
「ちょ、ちょっと待って、銀ちゃん!若さんはもう、私と結婚する気なんてないです!だって若さんが……」
必死の形相の銀時に見つめられて、***はたじろいだ。しかし、それでもゆっくりと若旦那のことを語り始めた。縁談を断ってしばらくたった後で、若旦那は***に「***ちゃんがこの街で働いていくことを応援したい」と言った。そして本当に力になってくれた。
若旦那は資産家同士の繋がりのある知り合いや、たくさんの仕事仲間に***農園の牛乳を大々的にすすめてくれたのだ。顔の広い若旦那のおかげで、かぶき町の上流階級の間で、***の得意客は続々と増えた。牛乳屋自体の売り上げも比例して伸びたことを受けて、以前から話には出ていた***に店を継がせるという事に、牛乳屋の夫婦が本腰を入れたのだ。
「私がこの街で働くことを、若さんは応援してくれてるんです……だから銀ちゃん、若さんは私と結婚する気は無いんです。玉の輿もなにも私にはもう無いんだよ」
そう言ってへらりと笑った***を見て「でっけぇ魚逃しといて、何笑ってんのお前は」と言いながら、銀時は必死で次の一手を考えていた。どうする、あと何がある、あと俺に言えることはなんだ。そしてようやく浮かんできた最後の一手は、***の田舎の家族のことだった。
「そ、そうだ、***っ!!お前の父ちゃんと母ちゃんはどーすんだよ!兄弟もいんだろ!大事な家族だろーが!4年も働いて稼ぎまくったんだ、そろそろ帰ってこいって母ちゃんは思ってるって。父ちゃんだって一人娘がこんな街にいるのは心配でたまんねぇって。さっさと帰れよ***。帰って家族そろって笑って暮らせよ。いつまでも俺みてーなろくでもねぇ男に入れ込んでるって知ったら、親が泣くぞこの不良娘っ!!!」
それを聞いた***が、銀時の両手を振り払って立ち上がる。走ってベッドに飛び乗ると、枕元に散らばった手提げの中身を拾いはじめる。ベッドの真ん中にぺたりと座った***が「銀ちゃん!来てください!これを見て下さい!!」と叫んだ。
あんだよ、と言って頭をガシガシと掻きながら、銀時もベッドにのり、あぐらをかいて座った。面倒くさそうな顔をした銀時の目の前に、***は一枚の写真を突きつけた。
「これが、私の、家族ですっっっっ!!!!」
そういって見せられた写真には、***の家族が並んで映っていた。そこには、***に瓜二つの顔でにっこり笑う母親がいた。その母親に抱き着かれた父親の顔は、茹でダコのように赤くなっていた。泥だらけの兄、おちゃらけた弟。それはどこまでも愉快で、果てしなく愛情深かった。これが家族というものか、と銀時は思った。
しかし、その写真の中でいちばん銀時の目を引き付けて、心臓が口から出そうになるほど驚かせたのは、家族そのものではなく、家族全員で掲げている、横断幕のような白い布だった。
その白い布は家族の前に広げられ、そこには墨汁で大きく書かれた***の母親の文字が並んでいた。
“頑張れ、***!
かぶき町中に***農園を届けろ!!”
その文字の羅列を見た瞬間、銀時の身体から力が抜けた。
「っんだよ、これぇ。お前の家族おかしいだろ……」
「ぷっ!アハハッ!銀ちゃんなら、そう言うと思いました。私の家族は変わってるんです。万事屋の皆と同じくらいおかしくて、愉快で、家族思いなんです。あ、あと、これお母さんの手紙……いままで手紙の最後はいつも“***の幸せを祈っています”だったんだけど……」
にこにこと笑った***が、手紙の一枚を手渡してきた。指さされた最後の一文に目を落とす。
“かぶき町で、できるなら銀ちゃんの隣で、***が幸せでいることを、お母さんは心から祈っています”
それは嘘偽りのない母親の言葉だった。
銀時は息を飲んで、手紙と写真とを交互に見る。これでもう、銀時には何も手札が残っていない。***を田舎に帰すのが自分の役目だと思っていたのに、それを***の家族が望んでいないなんて、予想もしなかった。
困惑した顔の銀時を見つめて、***は小さく微笑んだ。あぐらをかいた銀時の近くに、膝だけ動かしてすりすりと近づいてくる。
「銀ちゃん……田舎に帰って、家族と一緒に幸せになれって言ってくれてありがとう。すごく嬉しかった。やっぱり銀ちゃんは宇宙でいちばん優しいです。でも……でもね、銀ちゃん、ひとつだけ間違ってるよ」
「っんだよ!俺がいつどこで何を間違えたっつーんだよ!!」
キッと***を睨みながら言い返した銀時の、その両ほほに***はそっと手を添えた。小さな冷たい手のひらが、顔をひんやりと癒して心地よかった。
「さっき銀ちゃんは、自分の為に家族を捨てるなって私に言ったよね?それは違います……私は、家族を捨てて銀ちゃんを選ぶんじゃないよ……家族が、私に、銀ちゃんを選べって言うの。家族が私に、この街で生きていけって言うの。この街をこんなに好きになれたのは銀ちゃんおかげだよ。だから私は銀ちゃんのそばで、この街中に牛乳を届けたいんです。それが私の幸せで、家族の幸せなんです。ごめんね銀ちゃん、私、そういうふうにしか幸せになれなくて……でもお願いです……銀ちゃん、そんな私を許してください」
そう言った***は明るく微笑んでいた。しかし、その瞳から大粒の涙が溢れてきて、ほほに透明の軌跡を残して落ちていった。久しぶりに見た***の涙は、今まで見たことのないほど綺麗で、他のなによりもその涙に触れたいと思った。
雨粒を落とすようにぼたぼたと泣きながら、それでも銀時に向かって微笑みつづける***を見た瞬間、銀時の手から手紙と写真が滑り落ちた。自分でも気が付かないうちに膝立ちになった銀時は、目の前の***の身体を強く抱き寄せていた。
「***っ、」
「ぎ、銀ちゃん……」
小さな声で名前を呼び合う。抱きしめる銀時の腕の力は、***の身体がのけぞるほど強かった。***もそれにこたえるように銀時の胸に顔を押し付けて、細い腕で背中をぎゅっと抱きしめ返した。それはまるで、嵐の中のふたりが強い風に吹き飛ばされないように、互いにしがみつき合っているみたいだった。
冷静になった銀時の頭に、***の言葉が次々と蘇る。
―――銀ちゃんを他の人に譲ることは私には無理です。
他の男に***をとられたくないという本心をずっと認められない銀時を、***は一瞬で追い越してみせた。
―――銀ちゃん、私、牛乳屋さんを継ぐことにしたよ。
この街で生きていくことを、***はたったひとりで決めて、この街で生きていく術を、たったひとりで手に入れてみせた。
―――銀ちゃんのそばで、この街中に牛乳を届けたいんです。それが私の幸せで、家族の幸せなんです―――
誰かを幸せにするなんてできないと決めつけていた銀時に向かって、***は自分や家族だけでなく、この街中の幸福さえ小さな肩に乗せて、微笑んでみせた。
嵐みたいな女だ、と銀時は思う。何度突き放してもまたやってくる。離れても近づいてくる。自分を傷つけた人間さえ、いともたやすく癒してしまう。
***は嵐のように、銀時の心を乱してやまない。それなのに心乱されることが、こんなにも幸せでしかたがない。
腕の中の***がもぞもぞと動いて、銀時の肩に顔をのせた。背中に回した手は、二度と離さないと言わんばかりの強さで銀時の肩をつかんでいた。
「銀ちゃん、お願い……他の人と結婚しろとか、家に帰れとか、言わないでよ……私、銀ちゃんのそばにいたいんです……」
「………っんだよ、ちきしょう……このド根性女が。わかったよ、俺の負けだよ***、もう言わねぇって……」
窓の外の風雨の音がしずまりはじめていた。嵐が過ぎ去った後、その腕の中に誰を抱いていたいかだけは、銀時にはよく分かっていた。
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【第34話 幸福】end