銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
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【第31話 初恋】
かぶき町で***農園の牛乳を取る顧客がどんどん増えている。気が付けば、にこにこ牛乳で配達する三分の一を占めていた。
それが***に大きな決意をさせ、長い手紙を母親へと書いた。母からの返事には家族写真が添えられていた。その写真は家族にとって初めての写真撮影だった。三脚を立てて全員そろって撮るのにひと苦労だったと、母は書いていた。
牛乳屋の夫婦に写真を見せると、おじさんは嬉しそうに目を細めて、***を見つめた。
「俺のことは江戸のお父さんだと思っていいんだよ」
そう言っておじさんは、***の頭を優しく撫でた。
「お父さんっていうより、お爺ちゃんって歳でしょアンタは!」
おかみさんはそうツッコミを入れながら、明るくけらけらと笑った。
「へぇ~!***さんってお母さん似なんですね。すっごく綺麗なお母さんじゃないですか」
「え、そうかな新八くん。でも性格は父親譲りだよ私」
土曜日の夕方に万事屋へ行くと、帰りがけの新八と玄関で会った。初めての家族写真が***は嬉しくて、思わず新八を引き留めて見せてしまう。
「それにしても***さん、これすごくいい写真ですね!***さんの家族がとても愉快で、***さんのことを思っているのがよく伝わってきますよ」
新八が微笑みながら見つめた写真の中で、***の家族はたしかに愉快そうに笑っていた。
初めての写真撮影にみんな浮かれている。晴れの着物を着た母は嬉しそうに笑って、父の腕に抱き着いている。照れて顔を赤くした父は、なぜか蝶ネクタイを締めて背広を着ていた。兄はさっきまで農作業をしていたのか泥だらけの作業着姿で、末の弟はカメラに向かって変な顔をして、おちゃらけている。
「それがね新八くん、うち貧乏だから写真撮るのはじめてで、みんな浮かれてるの。お父さんなんて背広着ちゃってるし。銀ちゃんが見たら“お前の家族はおかしい”って言いそうだよねぇ」
「あっ!それが***さん……せっかく***さんが来てくれたのに、銀さん今日もまた飲みに行っちゃったんですよ!台風が来てるってのにあの天パ、何やってんでしょうね。***さんからも今度強く叱ってくださいよ。僕が言っても聞かないんですから」
呆れた顔でそう言ってから、新八は帰って行った。見送りがてら外廊下に出て「万事屋銀ちゃん」の看板の裏に立つ。
空を見上げると遠くに黒い雨雲が見えた。今夜遅くには江戸全域に台風が上陸すると、天気予報で言ってたっけ。明日が配達のない日曜日でよかった。そうほっとすると同時に、こんな天気の日まで飲みに行ってしまった銀時が、まるで自分を避けているみたいで、***は寂しくなる。
「銀ちゃんの馬鹿…………早く帰ってきてよ」
つぶやいて手すりから身を乗り出す。通りを見渡したが、いつもの着流し姿でダルそうに歩く、愛しい人の姿は見つからなかった。
夜9時を過ぎても銀時は帰ってこない。台風が近づき、ぽつぽつと小雨が降り始めた。
「***、どうせ今日は銀ちゃん帰ってこないネ。このまま泊まってくヨロシ。一緒に押入れで寝るアル!」
「神楽ちゃん、ありがとう。私は泊ってもいいんだけど、でも、もし夜中に銀ちゃんが帰ってきて、私が寝てたら“嫁入り前の娘が男の家に上がり込んでんじゃねぇ”とか言って怒りそうだからなぁ……もう少し待っても帰ってこなかったら、神楽ちゃんが私の家に泊まりに来なよ」
「あんな酔っ払いの天パのことなんて、気にしなくていいネ。ここんとこ毎日酒飲んでばっかりアル。給料も払わないくせに自分だけ飲みに行くなんて、銀ちゃんは最低ヨ」
そう言ってほっぺを膨らませた神楽をたしなめる為に、***はファッション雑誌を見ながら、そこに載っている髪型を真似して、神楽の髪を綺麗にセットしてあげた。赤い髪を大人っぽく後ろで一つにまとめて、ウサギの飾りのついたかんざしを挿すと神楽は大喜びで、「***も!***もおそろいにするネ!!」と言った。本当の姉妹のようにキャッキャと騒ぎながら、ああでもないこうでもないと髪を結んで遊んでいると、突然電話が鳴った。
「はい、もしもしヨ~……あっ!オイコラ、この酔っ払い天然パーマァァァ!!毎日毎日酒飲みに行って、いい加減にするアル!!そんな金あるなら酢昆布1年分をこの神楽様に……え?なにアルか?***?」
電話を取るやいなや喋りはじめた神楽の言葉を聞いて、相手が銀時だとすぐに分かった。受話器を耳に当てたまま振り向いた神楽を見て、ソファに座った***は「私?」と首をかしげた。
ちょっと待つネ、と言った神楽が受話器を***に向かって差し出した。
「銀ちゃんがかわれって。めっさ酔っ払ってるアル。セクハラされたらすぐに電話切るのヨ***」
「え、電話でセクハラってどういうこと神楽ちゃん」
おずおずと受話器を受け取って耳に当て、小さな声で「銀ちゃん?」と呼びかけた。
『お~、***~!?お前、明日仕事無ぇよな!?銀さんさぁ、酒飲みに来たはいいけど金無くなっちゃってぇ~、あと雨降ってきたのに傘も無くってぇ~、***、ちょっと来てくんねぇ~!?神楽に言ったらぜってぇキレるから、頼りになんのはお前しかいねぇんだよ。なぁなぁ***さぁ~ん、お願いしますよぉ~!三百円あげるからぁ~!!』
「迎えに行くのはいいけど、銀ちゃん一体いまどこにいるんですか?台風が来てるんだよ?こんな日に飲みに行かなくたっていいのに。最近ずっと万事屋にいないから、みんな心配してます」
『おいおい***~、俺に会えなくて寂しいのは分かるけどさぁ、説教すんなら会ってからにしてくれる?心配しなくても***が大好きな銀さんは、ちゃぁんとかぶき町にいますよぉ~』
「なっ……!で、電話でまでからかわないでくださいっ!」
『ぶはっ!お前さぁ……今、顔真っ赤っかだろ。見なくても分かるわ』
「ぎ、銀ちゃんの馬鹿っ!どこですか!?どこに迎えにいけばいいのっ!?」
電話口でゲラゲラと笑う銀時が言い当てた通り、***の顔は真っ赤だった。悔しがりながらも、銀時の言った住所をメモに取って「すぐに行きますから、それ以上お酒飲まないでね」と言った。銀時は『お~待ってるわ***』と言って電話を切った。
最近会っていなかったから、話すのが久しぶりな気がする。切り際に銀時に名前を呼ばれて、***の胸はきゅんと締め付けられた。
こんな雨のなか、女の子に迎えに来させるなんてあり得ないと神楽が怒ったが、***はそれでも銀時に会えることが嬉しくて、心を弾ませて準備をした。
着物はお洒落着だし、メイク直しもした。髪型は綺麗に後ろでまとめてセットしてある。「可愛い髪型にしてて、ちょうどよかったよ神楽ちゃん」と言いながら鏡の前で身支度をする***に、心配そうな顔で神楽が話しかけた。
「ねぇ、***、本当に行くアルか?銀ちゃんなんかのために無理しなくてもいいネ。私が定春と行ってくるアル」
「いやいやっ!こんな遅くに、未成年の神楽ちゃんを飲み屋に行かせられないよ!私がさっと行って、すぐに連れて帰ってくるから大丈夫。それに……」
「それに、どうしたネ?」
「なんか最近、銀ちゃんに避けられてるような気がしてて、ずっと会いたかったから……だから迎えに行きたいの」
「***……」
口をつぐんだ神楽が少し落ち込んだ顔をする。不思議に思いながらも「遅くならないうちに帰ってくるからね」と言って玄関を出ようとすると、神楽が***の腕を後ろからつかんで引き留めた。
「ねぇ、***……銀ちゃんのこと、まだ宇宙でいちばん好きアルか?」
「えっ……!な、なに神楽ちゃん、そんなこと急に聞かないでよ恥ずかしいじゃん」
笑ってごまかそうとしたが、自分を見つめる神楽の青い瞳がとても真剣で、***は笑うのをやめた。
「どうしたの神楽ちゃん、なにか、あったの?」
「……私、不安ネ……銀ちゃんが最低な天パのせいで、***が銀ちゃんのこと嫌いになっちゃう気がして……そしたら万事屋にも来なくなって、会えなくなっちゃうアル」
「なっ、なに言ってるの神楽ちゃんっ!そんなこと絶対ないよ。私、銀ちゃんのことずっと好きだよ。なかなか伝わらないけどあきらめないし、万事屋にもずっと来るから大丈夫だよ」
「ホント?絶対アルか?他の男に乗り換えたりしないアルか?」
「しないよ!乗り換えるような人なんていないし!」
「銀ちゃんは……、銀ちゃんは馬鹿なうえに、小さいことをネチネチ引きずって、天パの髪の毛みたいにこんがらがる面倒くさい男ネ。だから***が本当に銀ちゃんのことが好きなら、簡単に他の男の前で泣いたりしちゃ駄目アル。簡単に抱きしめられたりしちゃ駄目ヨ。あの天パはそうゆうのすっごく気にするネ。だから気を付けるヨロシ」
「え、か、神楽ちゃん何を言ってるの?他の人なんていないし、万が一いたとしても乗り換えたりなんて絶対しないよ。だって私、銀ちゃんのことが宇宙でいちばん好きだもん」
よく分からないことを言う神楽が、不安そうな顔をしていたので、***は精一杯の笑顔でそう答えた。その言葉を聞いてようやく笑った神楽が、赤い髪からかんざしを引き抜くと、***のまとめた髪にそっと挿した。
「恋のお守りネ!つけていくヨロシ!!」
「ありがとう神楽ちゃん、行ってきます!」
風は強まっていたが雨はまだ小雨だった。どうせ濡れるから足袋を脱いで、素足に下駄をつっかけて駆け出す。
「待ってるわ***」と言った銀時の声が耳にずっと残っていて、足が勝手に走り出してしまう。早く銀時に会いたい。今すぐ声が聞きたい。どうしても伝えたいことがある。万事屋へ帰ってからでもいいのに、早く見せたくて母の手紙と写真を、手提げ袋に忍ばせてきた。かんざしの先でウサギの飾りが揺れるのが分かる。親友が貸してくれた恋のお守りだ。そう思うと***の心は強くなる気がした。
傘が無いから持ってこいと言われたのに、***は薄紅色の自分の傘を、1本だけしか持って来なかった。
―――もしかしたら、相合傘ができるかもしれない……きっと銀ちゃんは、なんで2本持って来ないんだよって怒るな。それにいざ一緒の傘に入ったら私、赤くなっちゃって馬鹿にされるだろうけど……―――
子供っぽいことをしてると、***は自分でも分かっている。でもしばらく会えなかったから、今日はいつもより銀時に近づきたい。同じ傘に入って、できるなら勇気を出して自分から、あのたくましい腕に手を回してみたい。今日ならそれができる気がする。写真の中の母が、父にそうしていたように。
言われた住所の場所へやってくると、それはかぶき町の中でもよりいかがわしい、ピンクの看板だらけの通りにある飲み屋だった。店の前の軒下で傘をたたみ、雨に少し濡れた前髪を手で整える。背伸びして引き戸のガラス越しに店内をのぞくと、見慣れたサングラスの男が扉のすぐ向こう側に立っていた。
「あ、……長谷川さん!銀ちゃんいますか?」
そう言いながら戸をガラガラと開けると、慌てた顔の長谷川が通せんぼをするように両手を広げて仁王立ちした。
「***ちゃん、入っちゃ駄目だ!今日は帰ったほうがいい!銀さんなら、俺が連れて帰るからっ!!!」
「なに言ってるんですか長谷川さん、どうせふたりともお金持ってないんですよね?立替えときますから、一緒に帰りましょうよ」
そう言って***は、長谷川の肩を押して店内に入る。視線を泳がせて銀時を見つけた瞬間に、ハッと息を飲んで動けなくなった。
それはまるで頭を殴られたような衝撃だった。
世界が止まって、雨の音も人々のざわめきも、全て遠ざかっていった。急に視界が狭くなって、ある一点しか見えなくなる。
口を半開きにした***の頭の片隅で「私いますごくマヌケな顔してる」と思う、やけに冷静なもうひとりの自分がいた。
―――音の無い世界の、せまい視界の中で、見知らぬ女性と銀時がキスをしていた。
言葉を失って固まった***に向かって、長谷川が何か話しかけていたが聞き取れなかった。カウンターに座る銀時に、隣の女はもたれかかるように抱き着いていた。その肩に銀時は手を回して、抱き寄せていた。女の方を向いた銀時の顔は見えない。ピンクのマニキュアをした指が、銀色の髪に絡みついて、頭を抱えるようにキスをしていた。
何秒間だったのか***にはよく分からなかった。ふたりのキスは永遠に続くように感じた。気が付いた時には、酔って赤い顔の銀時がへらりと笑って、***を見ていた。いつも通りの死んだ魚のような目だった。
席から立ち上がった銀時が、女と連れだって近づいてくる。***はひと言も声が出せずに、指一本動かせなかった。
「***~!遅ぇよ~!待ちくたびれたじゃねぇか、さっさと金!あと傘ぁ~!こぉんな巨乳でべっぴんのオネーサンがさぁ、相手してくれるっていうから、今日は銀さん頑張っちゃおっかな~って張り切ってんのに、***が遅ぇからあとちょっとで逃げられちまうとこだったっつーの!」
「やだぁ、銀さん、この子がさっき言ってた牛乳屋の子?こんな子供っぽい子に、そんなエッチなこと言っちゃダメよぉ」
くんずほぐれつ、という表現がぴったりだと思う。女は長い髪を指でもてあそびながら、銀時に肩を抱かれていた。ふたりが近づくとむせ返るほど甘い香水の香りがした。
銀時が***の手提げの中から、がま口を取り出す。そこから勘定を払い、***の手にポンと財布を戻した。開けっ放しのがま口の中には小銭しか残ってなかった。
「ホテル代も借りるわ」という信じられない言葉を聞いた瞬間、ようやく***の身体は動いた。ぱっと顔を上げて、目の前を通り過ぎる銀時と女を見つめた。
「ぎ……ぎ、んちゃん……」
「なんだよ***、お前なんで傘1本しか持ってこねぇんだよ。これからイイコトしよーって相手を、雨に濡らすわけにいかねぇだろうが」
そう言った銀時が、***の手の中から薄紅色の傘を取り上げた。
「じゃぁな***。銀さんはこっから大人の時間だから。ガキはさっさと帰って寝ろよぉ」
大きな手が***の頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でて、離れて行った。乱れた前髪の隙間から見上げたら、肩を抱かれた女と目が合った。女は***のことを、まるで捨てられた犬でも見るみたいな憐れみの目で見下ろした。
ひろげた薄紅色の傘に、似合いのカップルのようにふたりが収まって、雨の中へと歩き出す。
ふたりを追いかけるように、雨の降りしきる通りへ***の足はよろよろと勝手に動いた。強くなってきた雨にほほを打たれながら***は、馬鹿みたいだ、と思った。
―――銀ちゃんは迎えに来いなんて言ってなかった。お金と傘が無いから来いって言っただけだった。それをてっきり一緒に帰れるものだと勘違いして……相合傘をできるかもなんて、腕を組めるかもなんて勝手に期待して……なんて私は馬鹿なんだろう……―――
遠ざかる薄紅色の傘を見ているうちに、ある事実に気付いた***の心臓は、氷のように冷たくなった。
自分がいままで銀時を好きだと言って、はばからずにいられたのは、銀時が他に女を作らなかったからだ。モテないなんて言いながらも、本気を出せばいくらでも恋人を作れそうな銀時が、偶然今までひとりで居てくれたから、***は何の遠慮もなく銀時に会いに行けたのだ。
―――思いに答えてもらえなくても、はぐらかされても、銀ちゃんが受け入れてくれてたから、私は今まで恋をしていられたんだ。銀ちゃんに他に好きな人ができて「お前とはもう終わりだ」って言われたら、私の恋はそこでおしまいだったんだ……―――
「***ちゃん、大丈夫か?送ってやるから帰ろうや。銀さんは今日は悪酔いしてんだ。いつもはあんな女に引っかかったりしねぇ……明日また話せばいいじゃねぇか、な?」
気が付くと***は、長谷川の差し出したビニール傘の下にいた。焦点の合わない目でぼぉっとしている***を、長谷川はサングラス越しに心配そうにのぞき込んでいる。
「なぁ、***ちゃん、これ渡しとけって銀さんが……俺はよく分かんねぇが、なんか大事なモンなんだろ?」
長谷川から手渡されたのは、若旦那の家の家紋が刺繍された、白いハンカチだった。それを見た瞬間、***はハッとして目を見開く。耳に神楽の言葉が蘇ってきた。
―――本当に銀ちゃんのことが好きなら、簡単に他の男の前で泣いたりしちゃ駄目アル。簡単に抱きしめられたりしちゃ駄目ヨ。あの天パはそうゆうのすっごく気にするネ―――
ぱっと顔を上げると、雨でかすんだ景色のずっと先に、薄紅色の傘で去って行く銀時と女の姿が見えた。雨脚が強まっていて、あともう少しで見えなくなりそうだ。
―――銀ちゃん、お願い、嘘だって言って。悪い冗談だって。子供だましに引っかかるなんて馬鹿だなって笑ってよ。私はきっと大泣きするから、頭を撫でて抱きしめてよ。そうじゃなきゃ私はどうしたらいいのか分からないよ。こんな気持ちは、こんな恋は初めてだから、何が正解か、どうしたらいいのか見当もつかないよ……
手渡されたハンカチをぎゅっとにぎる。視線の先で薄紅色の傘が角を曲がって見えなくなった。一度も***を振り向くことなく、銀時は行ってしまった。
その瞬間に瞳が熱くなって、一瞬で涙が溢れた。こらえようとする間もなく嗚咽が漏れて、うつむくと両目からボタボタと水滴が落ちた。
「……ん、っぅ、ぎ、んちゃん、銀ちゃんっっっ!!」
宇宙でいちばん好きな人の名前を呼んだ。名前を呼ぶしかできない自分が、***は情けない。でも初めての恋の、初めての衝撃で、一体自分がどうしたらいいのか全く分からない。
ただひとつだけ分かっていることは、銀時を失いたくないということだけだった。そしてその銀時が、もう少しで手の届かないところへ行ってしまうということだけだった。
―――はじめてだから、私の初めては全部銀ちゃんだから、その銀ちゃんが去ってしまったら、何が正しいのか私には分からない。ねぇ銀ちゃん、私はどうしたらいい?このままあきらめて帰ればいい?そうしたら笑って帰ってきてくれる?それか、ここでずっと泣いてたら、戻ってきてくれる?それとも……―――
「あっ!オイッ!***ちゃん!!」
背後から長谷川の声が聞こえたが、***の足は勝手に走り出していた。雨粒がどんどん大きくなって、強く***のほほに打ち付けた。
何度ぬぐっても顔が濡れているのは、雨のせいなのか流れる涙のせいなのか、もはや***には、よく分からなかった。
台風がもうすぐそこまで迫ってきていた。
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【第31話 初恋】end
かぶき町で***農園の牛乳を取る顧客がどんどん増えている。気が付けば、にこにこ牛乳で配達する三分の一を占めていた。
それが***に大きな決意をさせ、長い手紙を母親へと書いた。母からの返事には家族写真が添えられていた。その写真は家族にとって初めての写真撮影だった。三脚を立てて全員そろって撮るのにひと苦労だったと、母は書いていた。
牛乳屋の夫婦に写真を見せると、おじさんは嬉しそうに目を細めて、***を見つめた。
「俺のことは江戸のお父さんだと思っていいんだよ」
そう言っておじさんは、***の頭を優しく撫でた。
「お父さんっていうより、お爺ちゃんって歳でしょアンタは!」
おかみさんはそうツッコミを入れながら、明るくけらけらと笑った。
「へぇ~!***さんってお母さん似なんですね。すっごく綺麗なお母さんじゃないですか」
「え、そうかな新八くん。でも性格は父親譲りだよ私」
土曜日の夕方に万事屋へ行くと、帰りがけの新八と玄関で会った。初めての家族写真が***は嬉しくて、思わず新八を引き留めて見せてしまう。
「それにしても***さん、これすごくいい写真ですね!***さんの家族がとても愉快で、***さんのことを思っているのがよく伝わってきますよ」
新八が微笑みながら見つめた写真の中で、***の家族はたしかに愉快そうに笑っていた。
初めての写真撮影にみんな浮かれている。晴れの着物を着た母は嬉しそうに笑って、父の腕に抱き着いている。照れて顔を赤くした父は、なぜか蝶ネクタイを締めて背広を着ていた。兄はさっきまで農作業をしていたのか泥だらけの作業着姿で、末の弟はカメラに向かって変な顔をして、おちゃらけている。
「それがね新八くん、うち貧乏だから写真撮るのはじめてで、みんな浮かれてるの。お父さんなんて背広着ちゃってるし。銀ちゃんが見たら“お前の家族はおかしい”って言いそうだよねぇ」
「あっ!それが***さん……せっかく***さんが来てくれたのに、銀さん今日もまた飲みに行っちゃったんですよ!台風が来てるってのにあの天パ、何やってんでしょうね。***さんからも今度強く叱ってくださいよ。僕が言っても聞かないんですから」
呆れた顔でそう言ってから、新八は帰って行った。見送りがてら外廊下に出て「万事屋銀ちゃん」の看板の裏に立つ。
空を見上げると遠くに黒い雨雲が見えた。今夜遅くには江戸全域に台風が上陸すると、天気予報で言ってたっけ。明日が配達のない日曜日でよかった。そうほっとすると同時に、こんな天気の日まで飲みに行ってしまった銀時が、まるで自分を避けているみたいで、***は寂しくなる。
「銀ちゃんの馬鹿…………早く帰ってきてよ」
つぶやいて手すりから身を乗り出す。通りを見渡したが、いつもの着流し姿でダルそうに歩く、愛しい人の姿は見つからなかった。
夜9時を過ぎても銀時は帰ってこない。台風が近づき、ぽつぽつと小雨が降り始めた。
「***、どうせ今日は銀ちゃん帰ってこないネ。このまま泊まってくヨロシ。一緒に押入れで寝るアル!」
「神楽ちゃん、ありがとう。私は泊ってもいいんだけど、でも、もし夜中に銀ちゃんが帰ってきて、私が寝てたら“嫁入り前の娘が男の家に上がり込んでんじゃねぇ”とか言って怒りそうだからなぁ……もう少し待っても帰ってこなかったら、神楽ちゃんが私の家に泊まりに来なよ」
「あんな酔っ払いの天パのことなんて、気にしなくていいネ。ここんとこ毎日酒飲んでばっかりアル。給料も払わないくせに自分だけ飲みに行くなんて、銀ちゃんは最低ヨ」
そう言ってほっぺを膨らませた神楽をたしなめる為に、***はファッション雑誌を見ながら、そこに載っている髪型を真似して、神楽の髪を綺麗にセットしてあげた。赤い髪を大人っぽく後ろで一つにまとめて、ウサギの飾りのついたかんざしを挿すと神楽は大喜びで、「***も!***もおそろいにするネ!!」と言った。本当の姉妹のようにキャッキャと騒ぎながら、ああでもないこうでもないと髪を結んで遊んでいると、突然電話が鳴った。
「はい、もしもしヨ~……あっ!オイコラ、この酔っ払い天然パーマァァァ!!毎日毎日酒飲みに行って、いい加減にするアル!!そんな金あるなら酢昆布1年分をこの神楽様に……え?なにアルか?***?」
電話を取るやいなや喋りはじめた神楽の言葉を聞いて、相手が銀時だとすぐに分かった。受話器を耳に当てたまま振り向いた神楽を見て、ソファに座った***は「私?」と首をかしげた。
ちょっと待つネ、と言った神楽が受話器を***に向かって差し出した。
「銀ちゃんがかわれって。めっさ酔っ払ってるアル。セクハラされたらすぐに電話切るのヨ***」
「え、電話でセクハラってどういうこと神楽ちゃん」
おずおずと受話器を受け取って耳に当て、小さな声で「銀ちゃん?」と呼びかけた。
『お~、***~!?お前、明日仕事無ぇよな!?銀さんさぁ、酒飲みに来たはいいけど金無くなっちゃってぇ~、あと雨降ってきたのに傘も無くってぇ~、***、ちょっと来てくんねぇ~!?神楽に言ったらぜってぇキレるから、頼りになんのはお前しかいねぇんだよ。なぁなぁ***さぁ~ん、お願いしますよぉ~!三百円あげるからぁ~!!』
「迎えに行くのはいいけど、銀ちゃん一体いまどこにいるんですか?台風が来てるんだよ?こんな日に飲みに行かなくたっていいのに。最近ずっと万事屋にいないから、みんな心配してます」
『おいおい***~、俺に会えなくて寂しいのは分かるけどさぁ、説教すんなら会ってからにしてくれる?心配しなくても***が大好きな銀さんは、ちゃぁんとかぶき町にいますよぉ~』
「なっ……!で、電話でまでからかわないでくださいっ!」
『ぶはっ!お前さぁ……今、顔真っ赤っかだろ。見なくても分かるわ』
「ぎ、銀ちゃんの馬鹿っ!どこですか!?どこに迎えにいけばいいのっ!?」
電話口でゲラゲラと笑う銀時が言い当てた通り、***の顔は真っ赤だった。悔しがりながらも、銀時の言った住所をメモに取って「すぐに行きますから、それ以上お酒飲まないでね」と言った。銀時は『お~待ってるわ***』と言って電話を切った。
最近会っていなかったから、話すのが久しぶりな気がする。切り際に銀時に名前を呼ばれて、***の胸はきゅんと締め付けられた。
こんな雨のなか、女の子に迎えに来させるなんてあり得ないと神楽が怒ったが、***はそれでも銀時に会えることが嬉しくて、心を弾ませて準備をした。
着物はお洒落着だし、メイク直しもした。髪型は綺麗に後ろでまとめてセットしてある。「可愛い髪型にしてて、ちょうどよかったよ神楽ちゃん」と言いながら鏡の前で身支度をする***に、心配そうな顔で神楽が話しかけた。
「ねぇ、***、本当に行くアルか?銀ちゃんなんかのために無理しなくてもいいネ。私が定春と行ってくるアル」
「いやいやっ!こんな遅くに、未成年の神楽ちゃんを飲み屋に行かせられないよ!私がさっと行って、すぐに連れて帰ってくるから大丈夫。それに……」
「それに、どうしたネ?」
「なんか最近、銀ちゃんに避けられてるような気がしてて、ずっと会いたかったから……だから迎えに行きたいの」
「***……」
口をつぐんだ神楽が少し落ち込んだ顔をする。不思議に思いながらも「遅くならないうちに帰ってくるからね」と言って玄関を出ようとすると、神楽が***の腕を後ろからつかんで引き留めた。
「ねぇ、***……銀ちゃんのこと、まだ宇宙でいちばん好きアルか?」
「えっ……!な、なに神楽ちゃん、そんなこと急に聞かないでよ恥ずかしいじゃん」
笑ってごまかそうとしたが、自分を見つめる神楽の青い瞳がとても真剣で、***は笑うのをやめた。
「どうしたの神楽ちゃん、なにか、あったの?」
「……私、不安ネ……銀ちゃんが最低な天パのせいで、***が銀ちゃんのこと嫌いになっちゃう気がして……そしたら万事屋にも来なくなって、会えなくなっちゃうアル」
「なっ、なに言ってるの神楽ちゃんっ!そんなこと絶対ないよ。私、銀ちゃんのことずっと好きだよ。なかなか伝わらないけどあきらめないし、万事屋にもずっと来るから大丈夫だよ」
「ホント?絶対アルか?他の男に乗り換えたりしないアルか?」
「しないよ!乗り換えるような人なんていないし!」
「銀ちゃんは……、銀ちゃんは馬鹿なうえに、小さいことをネチネチ引きずって、天パの髪の毛みたいにこんがらがる面倒くさい男ネ。だから***が本当に銀ちゃんのことが好きなら、簡単に他の男の前で泣いたりしちゃ駄目アル。簡単に抱きしめられたりしちゃ駄目ヨ。あの天パはそうゆうのすっごく気にするネ。だから気を付けるヨロシ」
「え、か、神楽ちゃん何を言ってるの?他の人なんていないし、万が一いたとしても乗り換えたりなんて絶対しないよ。だって私、銀ちゃんのことが宇宙でいちばん好きだもん」
よく分からないことを言う神楽が、不安そうな顔をしていたので、***は精一杯の笑顔でそう答えた。その言葉を聞いてようやく笑った神楽が、赤い髪からかんざしを引き抜くと、***のまとめた髪にそっと挿した。
「恋のお守りネ!つけていくヨロシ!!」
「ありがとう神楽ちゃん、行ってきます!」
風は強まっていたが雨はまだ小雨だった。どうせ濡れるから足袋を脱いで、素足に下駄をつっかけて駆け出す。
「待ってるわ***」と言った銀時の声が耳にずっと残っていて、足が勝手に走り出してしまう。早く銀時に会いたい。今すぐ声が聞きたい。どうしても伝えたいことがある。万事屋へ帰ってからでもいいのに、早く見せたくて母の手紙と写真を、手提げ袋に忍ばせてきた。かんざしの先でウサギの飾りが揺れるのが分かる。親友が貸してくれた恋のお守りだ。そう思うと***の心は強くなる気がした。
傘が無いから持ってこいと言われたのに、***は薄紅色の自分の傘を、1本だけしか持って来なかった。
―――もしかしたら、相合傘ができるかもしれない……きっと銀ちゃんは、なんで2本持って来ないんだよって怒るな。それにいざ一緒の傘に入ったら私、赤くなっちゃって馬鹿にされるだろうけど……―――
子供っぽいことをしてると、***は自分でも分かっている。でもしばらく会えなかったから、今日はいつもより銀時に近づきたい。同じ傘に入って、できるなら勇気を出して自分から、あのたくましい腕に手を回してみたい。今日ならそれができる気がする。写真の中の母が、父にそうしていたように。
言われた住所の場所へやってくると、それはかぶき町の中でもよりいかがわしい、ピンクの看板だらけの通りにある飲み屋だった。店の前の軒下で傘をたたみ、雨に少し濡れた前髪を手で整える。背伸びして引き戸のガラス越しに店内をのぞくと、見慣れたサングラスの男が扉のすぐ向こう側に立っていた。
「あ、……長谷川さん!銀ちゃんいますか?」
そう言いながら戸をガラガラと開けると、慌てた顔の長谷川が通せんぼをするように両手を広げて仁王立ちした。
「***ちゃん、入っちゃ駄目だ!今日は帰ったほうがいい!銀さんなら、俺が連れて帰るからっ!!!」
「なに言ってるんですか長谷川さん、どうせふたりともお金持ってないんですよね?立替えときますから、一緒に帰りましょうよ」
そう言って***は、長谷川の肩を押して店内に入る。視線を泳がせて銀時を見つけた瞬間に、ハッと息を飲んで動けなくなった。
それはまるで頭を殴られたような衝撃だった。
世界が止まって、雨の音も人々のざわめきも、全て遠ざかっていった。急に視界が狭くなって、ある一点しか見えなくなる。
口を半開きにした***の頭の片隅で「私いますごくマヌケな顔してる」と思う、やけに冷静なもうひとりの自分がいた。
―――音の無い世界の、せまい視界の中で、見知らぬ女性と銀時がキスをしていた。
言葉を失って固まった***に向かって、長谷川が何か話しかけていたが聞き取れなかった。カウンターに座る銀時に、隣の女はもたれかかるように抱き着いていた。その肩に銀時は手を回して、抱き寄せていた。女の方を向いた銀時の顔は見えない。ピンクのマニキュアをした指が、銀色の髪に絡みついて、頭を抱えるようにキスをしていた。
何秒間だったのか***にはよく分からなかった。ふたりのキスは永遠に続くように感じた。気が付いた時には、酔って赤い顔の銀時がへらりと笑って、***を見ていた。いつも通りの死んだ魚のような目だった。
席から立ち上がった銀時が、女と連れだって近づいてくる。***はひと言も声が出せずに、指一本動かせなかった。
「***~!遅ぇよ~!待ちくたびれたじゃねぇか、さっさと金!あと傘ぁ~!こぉんな巨乳でべっぴんのオネーサンがさぁ、相手してくれるっていうから、今日は銀さん頑張っちゃおっかな~って張り切ってんのに、***が遅ぇからあとちょっとで逃げられちまうとこだったっつーの!」
「やだぁ、銀さん、この子がさっき言ってた牛乳屋の子?こんな子供っぽい子に、そんなエッチなこと言っちゃダメよぉ」
くんずほぐれつ、という表現がぴったりだと思う。女は長い髪を指でもてあそびながら、銀時に肩を抱かれていた。ふたりが近づくとむせ返るほど甘い香水の香りがした。
銀時が***の手提げの中から、がま口を取り出す。そこから勘定を払い、***の手にポンと財布を戻した。開けっ放しのがま口の中には小銭しか残ってなかった。
「ホテル代も借りるわ」という信じられない言葉を聞いた瞬間、ようやく***の身体は動いた。ぱっと顔を上げて、目の前を通り過ぎる銀時と女を見つめた。
「ぎ……ぎ、んちゃん……」
「なんだよ***、お前なんで傘1本しか持ってこねぇんだよ。これからイイコトしよーって相手を、雨に濡らすわけにいかねぇだろうが」
そう言った銀時が、***の手の中から薄紅色の傘を取り上げた。
「じゃぁな***。銀さんはこっから大人の時間だから。ガキはさっさと帰って寝ろよぉ」
大きな手が***の頭を乱暴にぐしゃぐしゃと撫でて、離れて行った。乱れた前髪の隙間から見上げたら、肩を抱かれた女と目が合った。女は***のことを、まるで捨てられた犬でも見るみたいな憐れみの目で見下ろした。
ひろげた薄紅色の傘に、似合いのカップルのようにふたりが収まって、雨の中へと歩き出す。
ふたりを追いかけるように、雨の降りしきる通りへ***の足はよろよろと勝手に動いた。強くなってきた雨にほほを打たれながら***は、馬鹿みたいだ、と思った。
―――銀ちゃんは迎えに来いなんて言ってなかった。お金と傘が無いから来いって言っただけだった。それをてっきり一緒に帰れるものだと勘違いして……相合傘をできるかもなんて、腕を組めるかもなんて勝手に期待して……なんて私は馬鹿なんだろう……―――
遠ざかる薄紅色の傘を見ているうちに、ある事実に気付いた***の心臓は、氷のように冷たくなった。
自分がいままで銀時を好きだと言って、はばからずにいられたのは、銀時が他に女を作らなかったからだ。モテないなんて言いながらも、本気を出せばいくらでも恋人を作れそうな銀時が、偶然今までひとりで居てくれたから、***は何の遠慮もなく銀時に会いに行けたのだ。
―――思いに答えてもらえなくても、はぐらかされても、銀ちゃんが受け入れてくれてたから、私は今まで恋をしていられたんだ。銀ちゃんに他に好きな人ができて「お前とはもう終わりだ」って言われたら、私の恋はそこでおしまいだったんだ……―――
「***ちゃん、大丈夫か?送ってやるから帰ろうや。銀さんは今日は悪酔いしてんだ。いつもはあんな女に引っかかったりしねぇ……明日また話せばいいじゃねぇか、な?」
気が付くと***は、長谷川の差し出したビニール傘の下にいた。焦点の合わない目でぼぉっとしている***を、長谷川はサングラス越しに心配そうにのぞき込んでいる。
「なぁ、***ちゃん、これ渡しとけって銀さんが……俺はよく分かんねぇが、なんか大事なモンなんだろ?」
長谷川から手渡されたのは、若旦那の家の家紋が刺繍された、白いハンカチだった。それを見た瞬間、***はハッとして目を見開く。耳に神楽の言葉が蘇ってきた。
―――本当に銀ちゃんのことが好きなら、簡単に他の男の前で泣いたりしちゃ駄目アル。簡単に抱きしめられたりしちゃ駄目ヨ。あの天パはそうゆうのすっごく気にするネ―――
ぱっと顔を上げると、雨でかすんだ景色のずっと先に、薄紅色の傘で去って行く銀時と女の姿が見えた。雨脚が強まっていて、あともう少しで見えなくなりそうだ。
―――銀ちゃん、お願い、嘘だって言って。悪い冗談だって。子供だましに引っかかるなんて馬鹿だなって笑ってよ。私はきっと大泣きするから、頭を撫でて抱きしめてよ。そうじゃなきゃ私はどうしたらいいのか分からないよ。こんな気持ちは、こんな恋は初めてだから、何が正解か、どうしたらいいのか見当もつかないよ……
手渡されたハンカチをぎゅっとにぎる。視線の先で薄紅色の傘が角を曲がって見えなくなった。一度も***を振り向くことなく、銀時は行ってしまった。
その瞬間に瞳が熱くなって、一瞬で涙が溢れた。こらえようとする間もなく嗚咽が漏れて、うつむくと両目からボタボタと水滴が落ちた。
「……ん、っぅ、ぎ、んちゃん、銀ちゃんっっっ!!」
宇宙でいちばん好きな人の名前を呼んだ。名前を呼ぶしかできない自分が、***は情けない。でも初めての恋の、初めての衝撃で、一体自分がどうしたらいいのか全く分からない。
ただひとつだけ分かっていることは、銀時を失いたくないということだけだった。そしてその銀時が、もう少しで手の届かないところへ行ってしまうということだけだった。
―――はじめてだから、私の初めては全部銀ちゃんだから、その銀ちゃんが去ってしまったら、何が正しいのか私には分からない。ねぇ銀ちゃん、私はどうしたらいい?このままあきらめて帰ればいい?そうしたら笑って帰ってきてくれる?それか、ここでずっと泣いてたら、戻ってきてくれる?それとも……―――
「あっ!オイッ!***ちゃん!!」
背後から長谷川の声が聞こえたが、***の足は勝手に走り出していた。雨粒がどんどん大きくなって、強く***のほほに打ち付けた。
何度ぬぐっても顔が濡れているのは、雨のせいなのか流れる涙のせいなのか、もはや***には、よく分からなかった。
台風がもうすぐそこまで迫ってきていた。
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【第31話 初恋】end