銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
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【第30話 つよい女】
白いハンカチを眺める度に浮かぶ景色を、まるで走馬灯のようだと銀時は思っていた。それはまさに「幸福」という二文字で言い表せた。それは自分の人生では無い。そして過去でもなく、未来だった。
満面の笑みを浮かべた***が、そこにはいた。腕に赤ん坊を抱いて、まわりには故郷の父親や母親がいた。心の底から幸せそうな***が瞳を細めて、誰かを愛おしそうに見つめていた。それが自分でないことだけは、銀時にはよく分かっていた。
金曜日の夜、スナックお登勢は繁盛している。常連客でにぎわう店内をぐるりと見回して、店主のお登勢は煙草を深く吸った。今夜も滞りなく、酔っ払いたちの夜は平和に過ぎていくだろう。
たったひとりの客を除いては。
カウンターの隅で、銀色の髪がゆらゆら揺れ始めてから、もう一時間近くが経とうとしていた。
「ちょっと銀時ィ、アンタいつまで飲んでるつもりだい。こちとらタダ酒で客をいい気分にさせてやるような、お気楽な商売はやってないんだよ。さっさと帰りな」
「うっせぇな、ババァ~、こんなシケた店で飲んでやってるだけありがたく思えよ。焼酎のいちご牛乳割り出しやがれぇ~」
「そんなけったいなモンはウチは出さないよ」
ちっ、と言いながら銀時はカウンターに突っ伏した。開店直後にふらっと入ってきてから、結構な量の酒を飲んでいる。とっくに酔っ払っているだろうと思っていたが、一瞬見たその顔は、全くのしらふだった。ただ口調だけ、酔ったフリをしている。
まるで酒の力で何かを忘れたくて、無理に酔いたがっているように、お登勢には見えた。
「アンタ、どうしたのさ。いつもは飲んですぐ吐くくせに。なんかあったのかい」
うるせぇっつってんだろ、と言って顔をあげない銀時が、本当は何か言いたいことがあってこの店にやってきたことは分かっている。
さっさと話せばいいのにこの男は、本当に面倒くさい奴だね。そう思いながらもお登勢は、煙草を何本も吹かして待っていてやったのだ。
「アンタ最近、***ちゃんに会ったかい。昨日もその前も、アンタが来てるか、あの子が聞きにきたよ」
何気なくお登勢が口にした名前に、ぴくりと銀時の肩が揺れた。気まずそうにゆっくりと頭を上げて、面倒くさそうな顔で頬杖をつく。しばらく宙をじっと見て考え込んだ顔をしていたが、「はぁ~」とため息をついて、懐から何かを取り出した。
「ババァ、この家紋知ってるか」
「………そりゃアンタ、あの資産家んとこのじゃないかい。なんだいこれ、どうしたのさ」
テーブルに置かれた白いハンカチを見て、お登勢は目を丸くした。万事屋には縁のない富豪一家の家紋が入ったハンカチを、なぜ銀時が持っているのか、さっぱり理解できない。
頭をガシガシとかきながら、銀時はぽつりぽつりと事情を説明した。この資産家の家の若旦那が、***に惚れて見合いを申し込んだ。見合いの席で***はその縁談を断った。偶然飲み屋で若旦那に会った銀時は、***を幸せにしてやれと言われた。そして若旦那は、このハンカチを残して去って行った。
黙って聞いていたお登勢だが、その話をする銀時のしまりのない表情の中に、わずかに滲むいらだちには気付いていた。
「それで銀時、アンタはその若旦那って奴に喧嘩ふっかけて別れてきたってのかい……馬鹿もいい加減にしなよ、その若旦那は何も間違っちゃいないじゃないか。さっさと***ちゃんのことを受け入れてやりな。一年以上もはぐらかしてアンタは大馬鹿だよ。好きなんだろ、銀時、あの子のことが」
「大馬鹿はテメーだろうがババァ。俺はな、***に対して責任があんだよ。絶対にアイツが幸せでいるための責任っつーもんが。アイツには家族がいんだぞ。本当に血の繋がった大事な家族が。どんなに遠く離れてたって、娘の幸せを祈ってるような親がいんだ。そんな女に俺みたいな男が、そうやすやすと手ぇつけていいわけねぇだろーが」
いらだちの混ざった声で銀時が言った言葉に、お登勢は心底驚いた。この男の口から「責任」なんて言葉が出てくるとは思っていなかったから。
若旦那とやらは、ずいぶん大きな爪痕を銀時に残していったようだった。そして会ったこともないその男が、どれほど***のことを大切に思っていたのか、お登勢にはよく理解できた。
でも結局、***は銀時を選んだのだ。それが全てではないか。そう思ってお登勢は口を開いた。
「何をうじうじ悩んでんだか知らないけどね銀時、***ちゃんが土下座までして断ったんだから、それが答えじゃないか。金で農園を復興できる?家族と暮らせる?好きでもない男にそんなこと言われたって、女は嬉しかないよ。それに***ちゃんは、そんなもんでなびくような、軽い女じゃないさね」
さも当然というふうに言ったお登勢の言葉は、銀時にはあまり届いていないようだった。相変わらず気だるい目をしたまま、聞いているのか聞いていないのか、よく分からない顔で頬杖をついている。
「………なびけばいいじゃねぇか、好きじゃなくても。一緒にいりゃ好きになんだろそのうち。よく言うじゃねーか、イヤよイヤよもイヤのうちって、アレ、ちょっとちげぇか……まぁ、なんにせよ、あの男の方が俺よかよっぽど***のことを幸せにしてやれんだ。俺はなぁ、どんなに一途に思われ続けたって、アイツの求めるモンは何ひとつ、くれてやれねぇんだよ」
頬杖をついた銀時が投げやりに言い放った。
お登勢は呆れてため息を吐く。この男はいつまでたっても分かっていない。***の気持ちや一番の望みを。
ふと数カ月前の記憶がお登勢の脳裏に蘇ってきた。その記憶の中の***の顔を思い出した途端、胸が強く痛む。
「求めてるのは、あの子じゃなくてアンタの方だよ、銀時。***ちゃんが何を求めたってんだい、言ってみなよ、何もないだろう」
「あぁ?そりゃ幸せになることに決まってんだろーが。女はな、ちゃんとした男と結婚して、ガキ産んで、そーゆー普通の幸せを手に入れるのがいちばん良いに決まってんだよ」
「アンタは間違ってるよ銀時、***ちゃんはね……」
そう言ったお登勢がとつとつと語り始めた。それは数カ月前、銀時が腹を刺されて大怪我をした時のことだった。
「銀ちゃんがケガをして、いま病院に来てるんです」
そう言った***の声は、電話越しにでも分かるほど震えていた。新八と神楽を連れて、お登勢が病院に着いた時、***は治療室の前でぼんやりと立っていた。その姿を見て三人とも息を飲んだ。
着物に大量の血痕がついていて、右ほほにもべったりと血液がついていた。流しで顔を洗って来いと何度も言ったが、銀ちゃんが出てくるかもしれないから、顔を見て安心したいからと言って、***は治療室の前を動こうとしなかった。
落ち込んだ顔の神楽と新八が、***の両脇に立った。
「私が起きて一緒に行ってれば、こんなことにはならなかったネ」
「神楽ちゃん……きっと銀ちゃんは大丈夫だから、そんなこと気にしちゃ駄目だよ」
「昨日銀さんが飲みに行くのを、僕がもっと止めてればよかったんです。二日酔いじゃなきゃ、こんなケガをする人じゃないのに……」
「新八くん、ちがうよ。二日酔いで戦って、この程度のケガなんだから、銀ちゃんはすごいんだよ。だから新八くんが自分を責める必要はないんだよ」
両手でふたりの手をぎゅっと握ると、***は気丈に微笑んだ。治療室のライトが消えるまで、ずいぶん長い間、血濡れの顔の***は、ふたりを励まし続けた。
呆れたお登勢が手ぬぐいで顔をぬぐってやって、ようやく***の顔は綺麗になった。
「お登勢さん、ありがとうございます」
***がそう言ってペコリと頭を下げた時、治療室の扉が開いて、中から銀時の乗ったストレッチャーが出てきた。まだ意識のない銀時が病室へと運ばれていく。全員で追いかけ病室の前で待っていると、中から出てきた医者が「目が覚めましたから、入っていいですよ」と言った。
「銀ちゃん!!」
「銀さん!!」
そう言って神楽と新八が走り出し、病室へと飛び込んでいった。お登勢も一歩踏み出したところで、***がやってこないことに気付き足を止めた。振り向くと***は、廊下で立ち止まり、ガタガタと震えていた。
「***ちゃん、どうしたのさ……銀時の顔見て安心したいんじゃないのかい」
「お、お登勢さん、私……」
そうつぶやいた直後、***は膝から力が抜けたように、床にへなへなと座り込んだ。慌てて駆け寄ったお登勢が両肩をつかんで支えると、「うぇぇん」という子供のような声を上げて、泣き始めた。
「こ、こんなにっ、怖い思いは、っぅ、初めてで……」
「……だったら***ちゃん、なおさら早くあの馬鹿の顔を見てやりゃいいだろ?ほら、立って」
「っ………!だ、駄目なんです、お登勢さん……こんな顔、銀ちゃんには見せられないっ……」
驚きで目を見開いたお登勢の前で、***は大粒の涙を流しながら、病室に入ることを頑なに拒んだ。お登勢の手を祈るように両手で強く握ると、必死で声を振り絞った。
「銀ちゃんがっ……そんな顔すんなって言ってたから……だからっ、見せたくないんです。こんな風に泣いてたら、銀ちゃんは自分を責めちゃう。そしたら銀ちゃんは優しいから、きっと私から離れていっちゃうんです……だから私、こんなに弱い自分を見せたくないんです。お登勢さんお願いです。私は帰ったって事にしてください。泣いてた事は内緒で……おねがい、お登勢さん、一生のお願いです」
すがりつくように***は何度もお登勢の手を握りしめた。ため息をついて「分かったよ***ちゃん」と言うと、ようやく***はほっとした顔になり、身体の力を抜いた。
「***ちゃん、そんなに泣かなくたっていいんだ。銀時はそう簡単に死ぬタマじゃないんだから」
「そうですね、お登勢さん……それなら尚更、私はもっと強くならなきゃ……いつでも笑っていられるようにならなきゃ、強い銀ちゃんのそばにはいられないですよね。私、お登勢さんのような強い女性になりたいです。銀ちゃんに相応しい人間になりたいんです」
そう言って***は無理やり笑顔を浮かべたが、その瞳からはとめどなく涙が流れ続けていた。
病室から神楽と新八の元気な声に混ざって、いつも通りの気だるげな銀時の声が聞こえた。口をつぐんだ***は、その声に静かに耳を澄ましていた。しかし、しばらくして立ち上がると、お登勢にぺこりと頭を下げて、何も言わずに踵を返して廊下を歩いて行った。その足取りは力強かったが、遠ざかっていく背中があまりにも小さくて、お登勢は心配で仕方がなかった。
話し終えたお登勢が「ふぅ~」と長く煙草の煙を吐いた。カウンターに頬杖をついた銀時の赤い瞳は、不思議な色を放っていて、何を考えているのか分からなかった。
「***ちゃんは、アンタに置いてかれたくないから強くなりたいって、いつも笑ってそばにいたいって、それだけを望んでんだ。あの子に強くなるよう求めたのは銀時、アンタだよ。あの子に泣かないように求めてんのも、ずっと笑ってるように求めてんのも、全部、銀時、アンタだろ。違うかい」
何も言わない銀時が、ふと目線を動かした先は白いハンカチだった。あまりにも白く、折り目正しいそれは、銀時には不釣り合いだと、お登勢は思った。
こんなものがなくても、***の涙をぬぐうことはこの男ならできるのだから。こんなものじゃなく、その大きな手で涙をぬぐってもらうことを、***はいちばん望んでいるのだから。
「……危ねぇ……あともう少しで、本当にアイツを俺のモンにしちまうところだった……」
いつものうるさい口調からは信じられないほど、静かな声で銀時はつぶやいた。そしてその言葉に驚いたお登勢は固まって、言葉を失いかけた。
「……なに言ってんのさ銀時、そうしてやんのが***ちゃんにとって一番いいってアタシは言ったんだよ。物わかりの悪いヤツだねアンタはほんとに」
「畜生…」と言いながら銀時は頬杖をついた手で、前髪をぐしゃりと握った。伏せられた顔が太い腕で隠れて、表情が見えない。しかし口元はまるで自嘲するかのように、へらりと笑っていた。
「……いつ死ぬか分かんねぇ男のモンになんのが、幸せだと思うのかよババァ。いつ居なくなるか分かんねぇ男の隣で、ヘラヘラ笑って生きて、先に逝っちまったヤツの墓参りしながら歳取ってくのが、本当に幸せかよババァ。そんなろくでもねぇ人生は、***に似合わねぇだろ……平和な男と一緒んなって子供産んで、家族と笑って暮らすのが、アイツにはいちばん似合うじゃねぇか。そうやって幸せんなんなきゃ、いけねぇんだよアイツは」
そう言った銀時の唇は笑っているのに、その声は苦し気だった。まるで自分に言い聞かせるように、銀時がひと息で言い切った言葉を聞いて、お登勢はしばらく黙っていた。しかし「はぁ~」とため息をついて、深く煙草を吸うと口を開いた。
「逝っちまったヤツの墓参りしながら、歳取ったアタシから言わせるとね銀時……女には、分かってたって止めらんない気持ちってもんがあるんだよ。ろくでもない人生になるって分かってたって、どうしようもない時があんのさ。それを幸せかどうか決めるのは他人じゃない。それを決めんのは銀時、アンタじゃなくて***ちゃんだ。あの子はもうとっくに心を決めてるよ、アンタがぐずぐずしてる間にね」
にぎわう店の酔っ払いたちの声で店内は騒がしい。しかしカウンターのお登勢と銀時の周りは静まり返っていた。ボリュームを絞ったラジオから、天気予報のアナウンスが聞こえる。
“江戸全域に大型台風が近づいてきています……”
柄にもなく考え込むような表情の銀時が、椅子からふらりと立ち上がった。そのまま音もなく扉へと歩き出す。
その顔をじっと見ても、銀時が何を考えているのか、お登勢にはさっぱり分からなかった。少なくとも悪酔いはしてなさそうだから、まぁ大丈夫だろうと思っていたところに、信じられない言葉が届いた。
「ババァ……***が俺に愛想を尽かしたら、その資産家とやらに口利きして、もういっぺんアイツと若旦那の縁談を取り持ってやってくれよ。老いぼれても、かぶき町牛耳ってるバアさんなら、そんくらいできんだろ」
「ちょっ……ちょっと銀時!アンタ何言ってんだい!そんなことアタシがするわけないだろ!そもそも***ちゃんは、アンタに愛想を尽かしたりしやしないよ!!」
叫ぶように言ったお登勢の言葉に、銀時が足を止めた。扉を開けようとしていた手も止まり、引き戸の縁をぐっとつかんだ。その腕はまるで何かに怒っているかのように、太い血管が浮き上がっていた。
顔だけ振り向いた銀時が、肩越しにお登勢を見る。その赤い瞳はいつも通りやる気がなさそうで、死んだ魚のような目だった。そしてそれは底抜けに寂しそうで、ぞっとするほど冷たかった。
アンタ何考えてんだい、と言おうとしたお登勢の口が動く前に、銀時の冷えた声が響いた。
「愛想も尽かすだろ。惚れた男がとんでもねぇ女たらしで、一途な純情も簡単に踏みにじれる外道だって分かれば、さすがの***だって目ぇ覚ますっつーの」
それだけ言うと扉を開けて、あっという間に銀時は出て行ってしまった。お登勢が引き留める隙も無かった。「ビシャンッ」という音を立てて、乱暴に開け閉めされた引き戸が、ガタガタと音を立てた。
“今季、最大の台風は勢力を増しており、両日中に江戸へ直撃する進路をたどっています……”
天気予報のアナウンスだけがお登勢の耳に響く。
「あの馬鹿……」
不安げにつぶやいた声は、誰にも届かない。
ため息と共に長く吐いた紫煙だけが、まるで悪い予言のように、いつまでも天井近くで渦を巻いて残り続けた。
-----------------------------------------
【第30話 つよい女】end
白いハンカチを眺める度に浮かぶ景色を、まるで走馬灯のようだと銀時は思っていた。それはまさに「幸福」という二文字で言い表せた。それは自分の人生では無い。そして過去でもなく、未来だった。
満面の笑みを浮かべた***が、そこにはいた。腕に赤ん坊を抱いて、まわりには故郷の父親や母親がいた。心の底から幸せそうな***が瞳を細めて、誰かを愛おしそうに見つめていた。それが自分でないことだけは、銀時にはよく分かっていた。
金曜日の夜、スナックお登勢は繁盛している。常連客でにぎわう店内をぐるりと見回して、店主のお登勢は煙草を深く吸った。今夜も滞りなく、酔っ払いたちの夜は平和に過ぎていくだろう。
たったひとりの客を除いては。
カウンターの隅で、銀色の髪がゆらゆら揺れ始めてから、もう一時間近くが経とうとしていた。
「ちょっと銀時ィ、アンタいつまで飲んでるつもりだい。こちとらタダ酒で客をいい気分にさせてやるような、お気楽な商売はやってないんだよ。さっさと帰りな」
「うっせぇな、ババァ~、こんなシケた店で飲んでやってるだけありがたく思えよ。焼酎のいちご牛乳割り出しやがれぇ~」
「そんなけったいなモンはウチは出さないよ」
ちっ、と言いながら銀時はカウンターに突っ伏した。開店直後にふらっと入ってきてから、結構な量の酒を飲んでいる。とっくに酔っ払っているだろうと思っていたが、一瞬見たその顔は、全くのしらふだった。ただ口調だけ、酔ったフリをしている。
まるで酒の力で何かを忘れたくて、無理に酔いたがっているように、お登勢には見えた。
「アンタ、どうしたのさ。いつもは飲んですぐ吐くくせに。なんかあったのかい」
うるせぇっつってんだろ、と言って顔をあげない銀時が、本当は何か言いたいことがあってこの店にやってきたことは分かっている。
さっさと話せばいいのにこの男は、本当に面倒くさい奴だね。そう思いながらもお登勢は、煙草を何本も吹かして待っていてやったのだ。
「アンタ最近、***ちゃんに会ったかい。昨日もその前も、アンタが来てるか、あの子が聞きにきたよ」
何気なくお登勢が口にした名前に、ぴくりと銀時の肩が揺れた。気まずそうにゆっくりと頭を上げて、面倒くさそうな顔で頬杖をつく。しばらく宙をじっと見て考え込んだ顔をしていたが、「はぁ~」とため息をついて、懐から何かを取り出した。
「ババァ、この家紋知ってるか」
「………そりゃアンタ、あの資産家んとこのじゃないかい。なんだいこれ、どうしたのさ」
テーブルに置かれた白いハンカチを見て、お登勢は目を丸くした。万事屋には縁のない富豪一家の家紋が入ったハンカチを、なぜ銀時が持っているのか、さっぱり理解できない。
頭をガシガシとかきながら、銀時はぽつりぽつりと事情を説明した。この資産家の家の若旦那が、***に惚れて見合いを申し込んだ。見合いの席で***はその縁談を断った。偶然飲み屋で若旦那に会った銀時は、***を幸せにしてやれと言われた。そして若旦那は、このハンカチを残して去って行った。
黙って聞いていたお登勢だが、その話をする銀時のしまりのない表情の中に、わずかに滲むいらだちには気付いていた。
「それで銀時、アンタはその若旦那って奴に喧嘩ふっかけて別れてきたってのかい……馬鹿もいい加減にしなよ、その若旦那は何も間違っちゃいないじゃないか。さっさと***ちゃんのことを受け入れてやりな。一年以上もはぐらかしてアンタは大馬鹿だよ。好きなんだろ、銀時、あの子のことが」
「大馬鹿はテメーだろうがババァ。俺はな、***に対して責任があんだよ。絶対にアイツが幸せでいるための責任っつーもんが。アイツには家族がいんだぞ。本当に血の繋がった大事な家族が。どんなに遠く離れてたって、娘の幸せを祈ってるような親がいんだ。そんな女に俺みたいな男が、そうやすやすと手ぇつけていいわけねぇだろーが」
いらだちの混ざった声で銀時が言った言葉に、お登勢は心底驚いた。この男の口から「責任」なんて言葉が出てくるとは思っていなかったから。
若旦那とやらは、ずいぶん大きな爪痕を銀時に残していったようだった。そして会ったこともないその男が、どれほど***のことを大切に思っていたのか、お登勢にはよく理解できた。
でも結局、***は銀時を選んだのだ。それが全てではないか。そう思ってお登勢は口を開いた。
「何をうじうじ悩んでんだか知らないけどね銀時、***ちゃんが土下座までして断ったんだから、それが答えじゃないか。金で農園を復興できる?家族と暮らせる?好きでもない男にそんなこと言われたって、女は嬉しかないよ。それに***ちゃんは、そんなもんでなびくような、軽い女じゃないさね」
さも当然というふうに言ったお登勢の言葉は、銀時にはあまり届いていないようだった。相変わらず気だるい目をしたまま、聞いているのか聞いていないのか、よく分からない顔で頬杖をついている。
「………なびけばいいじゃねぇか、好きじゃなくても。一緒にいりゃ好きになんだろそのうち。よく言うじゃねーか、イヤよイヤよもイヤのうちって、アレ、ちょっとちげぇか……まぁ、なんにせよ、あの男の方が俺よかよっぽど***のことを幸せにしてやれんだ。俺はなぁ、どんなに一途に思われ続けたって、アイツの求めるモンは何ひとつ、くれてやれねぇんだよ」
頬杖をついた銀時が投げやりに言い放った。
お登勢は呆れてため息を吐く。この男はいつまでたっても分かっていない。***の気持ちや一番の望みを。
ふと数カ月前の記憶がお登勢の脳裏に蘇ってきた。その記憶の中の***の顔を思い出した途端、胸が強く痛む。
「求めてるのは、あの子じゃなくてアンタの方だよ、銀時。***ちゃんが何を求めたってんだい、言ってみなよ、何もないだろう」
「あぁ?そりゃ幸せになることに決まってんだろーが。女はな、ちゃんとした男と結婚して、ガキ産んで、そーゆー普通の幸せを手に入れるのがいちばん良いに決まってんだよ」
「アンタは間違ってるよ銀時、***ちゃんはね……」
そう言ったお登勢がとつとつと語り始めた。それは数カ月前、銀時が腹を刺されて大怪我をした時のことだった。
「銀ちゃんがケガをして、いま病院に来てるんです」
そう言った***の声は、電話越しにでも分かるほど震えていた。新八と神楽を連れて、お登勢が病院に着いた時、***は治療室の前でぼんやりと立っていた。その姿を見て三人とも息を飲んだ。
着物に大量の血痕がついていて、右ほほにもべったりと血液がついていた。流しで顔を洗って来いと何度も言ったが、銀ちゃんが出てくるかもしれないから、顔を見て安心したいからと言って、***は治療室の前を動こうとしなかった。
落ち込んだ顔の神楽と新八が、***の両脇に立った。
「私が起きて一緒に行ってれば、こんなことにはならなかったネ」
「神楽ちゃん……きっと銀ちゃんは大丈夫だから、そんなこと気にしちゃ駄目だよ」
「昨日銀さんが飲みに行くのを、僕がもっと止めてればよかったんです。二日酔いじゃなきゃ、こんなケガをする人じゃないのに……」
「新八くん、ちがうよ。二日酔いで戦って、この程度のケガなんだから、銀ちゃんはすごいんだよ。だから新八くんが自分を責める必要はないんだよ」
両手でふたりの手をぎゅっと握ると、***は気丈に微笑んだ。治療室のライトが消えるまで、ずいぶん長い間、血濡れの顔の***は、ふたりを励まし続けた。
呆れたお登勢が手ぬぐいで顔をぬぐってやって、ようやく***の顔は綺麗になった。
「お登勢さん、ありがとうございます」
***がそう言ってペコリと頭を下げた時、治療室の扉が開いて、中から銀時の乗ったストレッチャーが出てきた。まだ意識のない銀時が病室へと運ばれていく。全員で追いかけ病室の前で待っていると、中から出てきた医者が「目が覚めましたから、入っていいですよ」と言った。
「銀ちゃん!!」
「銀さん!!」
そう言って神楽と新八が走り出し、病室へと飛び込んでいった。お登勢も一歩踏み出したところで、***がやってこないことに気付き足を止めた。振り向くと***は、廊下で立ち止まり、ガタガタと震えていた。
「***ちゃん、どうしたのさ……銀時の顔見て安心したいんじゃないのかい」
「お、お登勢さん、私……」
そうつぶやいた直後、***は膝から力が抜けたように、床にへなへなと座り込んだ。慌てて駆け寄ったお登勢が両肩をつかんで支えると、「うぇぇん」という子供のような声を上げて、泣き始めた。
「こ、こんなにっ、怖い思いは、っぅ、初めてで……」
「……だったら***ちゃん、なおさら早くあの馬鹿の顔を見てやりゃいいだろ?ほら、立って」
「っ………!だ、駄目なんです、お登勢さん……こんな顔、銀ちゃんには見せられないっ……」
驚きで目を見開いたお登勢の前で、***は大粒の涙を流しながら、病室に入ることを頑なに拒んだ。お登勢の手を祈るように両手で強く握ると、必死で声を振り絞った。
「銀ちゃんがっ……そんな顔すんなって言ってたから……だからっ、見せたくないんです。こんな風に泣いてたら、銀ちゃんは自分を責めちゃう。そしたら銀ちゃんは優しいから、きっと私から離れていっちゃうんです……だから私、こんなに弱い自分を見せたくないんです。お登勢さんお願いです。私は帰ったって事にしてください。泣いてた事は内緒で……おねがい、お登勢さん、一生のお願いです」
すがりつくように***は何度もお登勢の手を握りしめた。ため息をついて「分かったよ***ちゃん」と言うと、ようやく***はほっとした顔になり、身体の力を抜いた。
「***ちゃん、そんなに泣かなくたっていいんだ。銀時はそう簡単に死ぬタマじゃないんだから」
「そうですね、お登勢さん……それなら尚更、私はもっと強くならなきゃ……いつでも笑っていられるようにならなきゃ、強い銀ちゃんのそばにはいられないですよね。私、お登勢さんのような強い女性になりたいです。銀ちゃんに相応しい人間になりたいんです」
そう言って***は無理やり笑顔を浮かべたが、その瞳からはとめどなく涙が流れ続けていた。
病室から神楽と新八の元気な声に混ざって、いつも通りの気だるげな銀時の声が聞こえた。口をつぐんだ***は、その声に静かに耳を澄ましていた。しかし、しばらくして立ち上がると、お登勢にぺこりと頭を下げて、何も言わずに踵を返して廊下を歩いて行った。その足取りは力強かったが、遠ざかっていく背中があまりにも小さくて、お登勢は心配で仕方がなかった。
話し終えたお登勢が「ふぅ~」と長く煙草の煙を吐いた。カウンターに頬杖をついた銀時の赤い瞳は、不思議な色を放っていて、何を考えているのか分からなかった。
「***ちゃんは、アンタに置いてかれたくないから強くなりたいって、いつも笑ってそばにいたいって、それだけを望んでんだ。あの子に強くなるよう求めたのは銀時、アンタだよ。あの子に泣かないように求めてんのも、ずっと笑ってるように求めてんのも、全部、銀時、アンタだろ。違うかい」
何も言わない銀時が、ふと目線を動かした先は白いハンカチだった。あまりにも白く、折り目正しいそれは、銀時には不釣り合いだと、お登勢は思った。
こんなものがなくても、***の涙をぬぐうことはこの男ならできるのだから。こんなものじゃなく、その大きな手で涙をぬぐってもらうことを、***はいちばん望んでいるのだから。
「……危ねぇ……あともう少しで、本当にアイツを俺のモンにしちまうところだった……」
いつものうるさい口調からは信じられないほど、静かな声で銀時はつぶやいた。そしてその言葉に驚いたお登勢は固まって、言葉を失いかけた。
「……なに言ってんのさ銀時、そうしてやんのが***ちゃんにとって一番いいってアタシは言ったんだよ。物わかりの悪いヤツだねアンタはほんとに」
「畜生…」と言いながら銀時は頬杖をついた手で、前髪をぐしゃりと握った。伏せられた顔が太い腕で隠れて、表情が見えない。しかし口元はまるで自嘲するかのように、へらりと笑っていた。
「……いつ死ぬか分かんねぇ男のモンになんのが、幸せだと思うのかよババァ。いつ居なくなるか分かんねぇ男の隣で、ヘラヘラ笑って生きて、先に逝っちまったヤツの墓参りしながら歳取ってくのが、本当に幸せかよババァ。そんなろくでもねぇ人生は、***に似合わねぇだろ……平和な男と一緒んなって子供産んで、家族と笑って暮らすのが、アイツにはいちばん似合うじゃねぇか。そうやって幸せんなんなきゃ、いけねぇんだよアイツは」
そう言った銀時の唇は笑っているのに、その声は苦し気だった。まるで自分に言い聞かせるように、銀時がひと息で言い切った言葉を聞いて、お登勢はしばらく黙っていた。しかし「はぁ~」とため息をついて、深く煙草を吸うと口を開いた。
「逝っちまったヤツの墓参りしながら、歳取ったアタシから言わせるとね銀時……女には、分かってたって止めらんない気持ちってもんがあるんだよ。ろくでもない人生になるって分かってたって、どうしようもない時があんのさ。それを幸せかどうか決めるのは他人じゃない。それを決めんのは銀時、アンタじゃなくて***ちゃんだ。あの子はもうとっくに心を決めてるよ、アンタがぐずぐずしてる間にね」
にぎわう店の酔っ払いたちの声で店内は騒がしい。しかしカウンターのお登勢と銀時の周りは静まり返っていた。ボリュームを絞ったラジオから、天気予報のアナウンスが聞こえる。
“江戸全域に大型台風が近づいてきています……”
柄にもなく考え込むような表情の銀時が、椅子からふらりと立ち上がった。そのまま音もなく扉へと歩き出す。
その顔をじっと見ても、銀時が何を考えているのか、お登勢にはさっぱり分からなかった。少なくとも悪酔いはしてなさそうだから、まぁ大丈夫だろうと思っていたところに、信じられない言葉が届いた。
「ババァ……***が俺に愛想を尽かしたら、その資産家とやらに口利きして、もういっぺんアイツと若旦那の縁談を取り持ってやってくれよ。老いぼれても、かぶき町牛耳ってるバアさんなら、そんくらいできんだろ」
「ちょっ……ちょっと銀時!アンタ何言ってんだい!そんなことアタシがするわけないだろ!そもそも***ちゃんは、アンタに愛想を尽かしたりしやしないよ!!」
叫ぶように言ったお登勢の言葉に、銀時が足を止めた。扉を開けようとしていた手も止まり、引き戸の縁をぐっとつかんだ。その腕はまるで何かに怒っているかのように、太い血管が浮き上がっていた。
顔だけ振り向いた銀時が、肩越しにお登勢を見る。その赤い瞳はいつも通りやる気がなさそうで、死んだ魚のような目だった。そしてそれは底抜けに寂しそうで、ぞっとするほど冷たかった。
アンタ何考えてんだい、と言おうとしたお登勢の口が動く前に、銀時の冷えた声が響いた。
「愛想も尽かすだろ。惚れた男がとんでもねぇ女たらしで、一途な純情も簡単に踏みにじれる外道だって分かれば、さすがの***だって目ぇ覚ますっつーの」
それだけ言うと扉を開けて、あっという間に銀時は出て行ってしまった。お登勢が引き留める隙も無かった。「ビシャンッ」という音を立てて、乱暴に開け閉めされた引き戸が、ガタガタと音を立てた。
“今季、最大の台風は勢力を増しており、両日中に江戸へ直撃する進路をたどっています……”
天気予報のアナウンスだけがお登勢の耳に響く。
「あの馬鹿……」
不安げにつぶやいた声は、誰にも届かない。
ため息と共に長く吐いた紫煙だけが、まるで悪い予言のように、いつまでも天井近くで渦を巻いて残り続けた。
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【第30話 つよい女】end