銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
おなまえをどうぞ
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
【第29話 最愛の人】
夜10時のかぶき町は酔っ払いだらけだ。居酒屋が軒を連ねる飲み屋街は、どこも人で溢れている。
カウンターだけのその店も例外なく満員で、酔客の笑い声や喋り声が響いている。酒のいちご牛乳割りなんて飲み物を出してくれる店は、あまりない。今日はそれが飲みたくて、腐れ縁の相棒を伴ってこの店へとやってきた。
「だぁから~、銀さんもそろそろさぁ、***ちゃんのことをどぉにかすべきだって俺は心配してるわけ!そこんとこ、どう思ってんだよ銀さんよぉ~!!」
隣に座る長谷川は、完全にできあがっている。数杯の酒で酔いが回った顔は赤くなり、やたらと絡んでくる。
「あぁ~?うるせぇぞ、長谷川さんみたいなマダオに心配されたくねぇっつーの!俺の心配より、テメェの明日の生活を心配しろよ」
そう返す銀時も既に、身体全体に酔いが回り始めていた。しかし夜はまだまだこれから、とふたり揃って酒の追加を頼む。カウンター越しに大将が渋い顔をした。
「ふたりとも、ちゃんと金持ってきてんでしょうね?相当ツケが溜まってんですから、今日もタダ酒は困りますよ」
「あ゙ぁ゙~?あんだよぉ、俺たちに出す酒はねぇってのか?じゃぁいちご牛乳だけでもいいから出しやがれクソジジィ~!そんくらいの金なら銀さんだって持ってなくはないっつーの!オイ、長谷川さん、オメーもちょっとは金持ってんだろ?」
「銀さん、俺、金なんてしばらく見てねぇよ。あ、自販機の下で拾った小銭ならあるぜ。えーと、ほら、20円」
長谷川がポケットから出した小銭を見て、銀時はギャハハと笑った。しかし銀時の財布にも、大した金額は入っていなかった。
大将は呆れたように首を振って、いちご牛乳だけをポンとカウンターに置いた。そのいちご牛乳を見て、男ふたりは顔を見合わせると再びゲラゲラと笑った。
銀時の隣の席の客が「おあいそ」と言って立つ。酒が回った赤い顔のふたりは、それにも気が付かないほど大声で笑い続けた。
「はぁ~……なぁ銀さん、さっきの話の続きだけど、本当に***ちゃんのことどう思ってんだよ。まんざらじゃねんだろ?俺もさぁ、あんな若い子がいつまでも銀さんみてぇなどうしようもねぇ男に、ずっと心変わりしないなんて思わなかったぜ。そのうち愛想尽かすだろってさぁ。それがなぁ、もう1年以上だもんなぁ~……」
「オイ、誰がどうしようもねぇ男だよ。長谷川さんの方がよっぽどどうしようもねぇじゃねぇか。底辺生活を生き抜くマダオのサバイバルな1年と、俺たち一般市民の1年を一緒にすんなっつーの……」
話をはぐらかそうとしても、頭に***の顔が浮かんで、言葉が途切れてしまう。「まんざらじゃない」どころじゃないことは、自分でもよく分かっている。
思い返せばこの1年、***は一瞬も心変わりすることなく、来る日も来る日も銀時に会いに来た。最初のうちこそ「そのうち飽きんだろ」とか「さっさと目を覚ませ」と思っていた。
しかし、***のあの澄んだ瞳で見つめられると、確かに銀時の心臓は飛び跳ねたり、締め付けられたりした。純情な気持ちを「銀ちゃん、大好き」と素直な言葉で伝えられることに、紛れもなく喜びを感じていた。
年甲斐もないと内心自虐しながら、それでも銀時は***の顔を見るたびに、自分がときめいていることを認めざるをえなかった。習慣のように万事屋へやってくる***の「ごめんくださぁい」という声を、ずいぶん前から心待ちにするようになっていた。
「はぁぁぁぁ。長谷川さんよぉ、いい歳したオッサンふたりが、酒飲みながらする話じゃねぇだろ。気持ちわりぃからやめろよ」
「なんだよ銀さん、俺はなぁ***ちゃんのことを心配してんだよ。あんないい子がいつまでもはぐらかされてんの見てんのは、忍びねぇじゃねぇか」
中身が空のとっくりをひっくり返しながら、長谷川はうじうじと***の話をし続けた。
銀時の隣の空いた席に、新しい客がすっと座った。ちらりと視界に入ったその男の着流しは上等で、いかにも金持ちそうだった。カウンターの向こうで大将の顔付きが変わる。少し緊張した面持ちで、何も頼まれていないのに酒とつまみを出した。
―――ケッ、っんだよクソジジィ、俺たち貧乏人にはあんな渋い顔したくせに、金持ちには媚びやがって……
「なんていうか***ちゃんはさぁ、絶対に幸せになんなきゃいけねぇって、俺は思うんだよ……こんなマダオにまで優しいあの子がさぁ、ひたむきに銀さんを思ってる姿があまりにも一途っつーか、健気っつーか……」
長谷川に言われるまでもなく、銀時だって***との関係をなんとかすべきだと分かっている。いつまでもはぐらかされて、中途半端な状態の***を可哀そうだと、最近よく思う。
しかし、本当に***にとって、自分と結ばれることが正しいのか、自分は相応しくないのではないかという疑いが、いつまでたっても晴れない。
なぜなら***は、銀時が知る限りこのかぶき町でいちばん純粋で汚れなく、まっすぐに生きている女だから。あんな女が不幸になるなんて絶対に許されない。必ず幸せにならなきゃならない。そう誰より強く思っているのは、他でもない銀時だった。
だからこそ、自分を一途に思い続ける***の気持ちに、そうやすやすと答える勇気が、いつまでもたっても銀時には持てなかった。
「前から何度も言ってんだろーが長谷川さん、アイツにとっちゃ俺は保護者みてぇなモンだって。***が心底惚れるようないい男が現れるまで見守ってやってるだけだって。アイツだって分かってるっつーの。俺なんかとじゃ到底幸せにはなれねぇって」
いちご牛乳をすすりながら、銀時はそう言ったが、こんな言い訳もそろそろ通じなくなってきた、と自分でも分かっていた。
「それは違いますよ、坂田さん」
その静かで落ち着いた声は、銀時のすぐ隣の男から発せられた。長谷川の方を向いていた顔を、ぱっと反対側に向けると、隣の席に座る若い男と目が合った。
あれ、誰だっけコイツと思うと同時に、その男の澄んだ黒い瞳にひきつけられた。それが誰だか分かった瞬間、銀時の酔いは一瞬で覚めた。それと同時に心臓も止まったかと思った。さっと冷えて鮮明になった頭に、その男が***を抱きしめていた時の映像が、ありありと蘇ってきた。
「お前は……」
「お初にお目にかかります、万事屋の旦那。この間、見合いの席に来ていらっしゃったけど、こうしてお会いするのは初めてですね」
そういって穏やかな微笑みを浮かべた男は、数週間前に***と見合いをした若旦那だった。飲み屋には似合わない清廉なたたずまいと、端正な顔立ち。狭いカウンターに肘をついて、だらしなくいちご牛乳を飲む銀時とは対象的に、若旦那は背筋を伸ばして酒のお猪口を傾けていた。
「お前……、若旦那っつったか。なんで俺のこと知ってんだよ。なんであの見合いの席に俺たちが居たこと知ってんだよ。オメーはあれか、千里眼かなんかですか、サイコメトラーですかぁ?」
「いやまさかそんな……ひけらかすようで嫌なんですが、あの料亭は俺の経営している店ですから、その日にどんな客が入るかくらいは把握してます……ああ、ちょっと大将、このふたりにも酒出してやっておくれ。お代はいいから」
へい、と頭を下げた大将が、すばやく銀時と長谷川の前に徳利を置いた。そのやり取りだけで、この店も若旦那が経営しているのだと瞬時に分かった。
「オイオイ銀さん、なにその人知り合い?ずいぶん太っ腹な友達がいたんじぇねぇーか、俺にも紹介しろよ」
後ろで長谷川がそう言ったが、銀時は無視した。
―――なんだコイツ、***が手に入らなかったことをまだ根に持ってんのか?その腹いせでもしようってか。いい度胸じゃねぇか、お坊ちゃんが。喧嘩ならいくらでも買ってやるよ。
疑うような目で自分を見る銀時に気付いて、若旦那は少し驚いた顔をしてから、愛想のいい顔で「あはは」と笑った。
「すみません、どうも、俺はあんまりこういう飲み屋に来ないもんで……珍しく来てみたら、前からお会いしたかった旦那がいたから、つい声をかけてしまった。無礼をお許し下さい。旦那は、***ちゃんのことを、ずいぶん大切に思っていらっしゃるんですね」
「あ゙ぁ?思ってらっしゃるもなにも、***とはちょっと仲がいいだけだっつーの。お前は見合いで***にフラれてんだろうが。今さら俺にたてついた所で、アイツの心は変わんねぇぞ。女々しいことしてねぇで、きっぱり諦めやがれ」
トゲのある銀時の言葉に若旦那は「ふっ」と笑った。それは決して見下したりとか馬鹿したりするような類のものではなく、「そんなことはとっくに分かっている」という、諦めの含まれた笑いだった。
「坂田さん、ここでお会いしたのも何かの縁ですから、少し俺の話を聞いてもらえないですか。***ちゃんのことです。多分、坂田さんも知っておくべきだと、俺は思うんです」
「はぁ?***のこと?お前はアイツの何を知ってんだよ?高級料亭にガチガチに緊張して、縁談断るのにぴーぴー泣くようなガキだってことくれぇだろうが」
「いいえ、坂田さん。***ちゃんはガキなんかじゃありません。立派な女性です。それも真剣にひとりの人を、心から愛している大人の女です」
若旦那のその言葉に、銀時は目を見開いて動きを止めた。じっと自分を見る若旦那の黒い瞳は、やはり***の瞳に似ていた。まっすぐで純粋で汚れが無い。こういう目をした人間がいちばん怖いと、咄嗟に感じる。だから若旦那が静かに語り始めると、心臓がばくばくと脈を打ち始めた―――
長く急な坂道を、自転車で登ってくる女の子に気が付いたのは、一年以上前の秋だった。ふと見下ろした窓の外で、大きな荷台の自転車を立ちこぎをする女の子が、よろよろと坂を登っていた。その姿があまりにも不安定で今にも倒れそうで、目が離せなった。案の定、半分も登れずにその娘は自転車を降りて、手で押しはじめた。
―――どうせ登りきれない、それに危ないのだから、最初からそうやって押して登ってくればいいのに……
そう思っていたが、その娘は毎日毎日その坂を自転車で登り続けた。窓からその姿を見ることが毎朝の習慣になった。今日はどこまで登れるだろう、昨日より進むだろうか。気が付くと名前も知らないその女の子を、応援するようになっていた。
どうしても話がしてみたくなって声をかけると、***はとても愛想がよかった。無邪気な笑顔で挨拶をしてくれた。かぶき町に住んでいるとは思えないほど、その笑顔は純粋だった。もっと仲良くなりたいと自然と思い、毎朝***が来る時間に外へ出て挨拶を交わし、立ち話をするようになった。
「数カ月前、***ちゃんはあの坂を登りきったんです。あの長く急な坂を。他人のことだというのに、信じられないくらい俺は嬉しかった。飛び出して行って***ちゃんの手を握りたいくらい」
不思議なことにその日以降、***の顔つきは変わった。それまでは自転車をこぐことに集中するだけの表情だった。しかし今ではまるで、何かを強く祈るような、神々しいほど真剣な表情であの坂を登ってくるようになった。
一生懸命で健気な***の姿に胸を打たれた。その一方で、なぜそこまで必死になってあの坂を登るのだろう、という疑問も抱いた。
「俺はね坂田さん、このかぶき町という街に大して愛着がないんです。だから、もし***ちゃんと夫婦になれたらこの街を出て、あの子の故郷で一緒に農園をやってもいいと思っていた。でも……あの見合いの席で、とてもそんなことは言えませんでした。坂田さん、***ちゃんがどうして、あんなに必死にあの坂を登るかご存じですか?あの坂を登りながら、あの子が何を祈っているか、聞いたことがありますか?」
じっと黙る銀時の沈黙を否定と取った若旦那は、静かに微笑んだ。お猪口の酒に少しだけ唇をつけてから、静かに前を見つめた。その瞳が、過去に見た景色をもう一度見るように小さく揺れる。そこに愛しい女がいるかのように、それは優しい眼差しだった。
―――私は……私が、あの坂を登り続ける理由は、その……坂田銀時さんのことが、好きだからです―――
大粒の涙をぼたぼたとこぼしながら、***はそう言った。言われた瞬間は意味が分からなくて、若旦那は戸惑うしかできなかった。その戸惑いを感じ取った***は、嗚咽まじりに必死に訴えた。
「最初はっ、あの坂を登り切ったら……ぅう、田舎の農園がうまくいって、家族が楽に暮らせるようになるって、が、願掛けをしてたんです……でも、今はそうじゃなくてっ……今はっ、銀ちゃんがっ……銀ちゃんが、今日も生きていますようにって……今日も元気でいてくれますようにって、ひぃっく……し、死んじゃいませんようにって、それだけを私、祈ってるんですっ……」
若旦那の手の中で***の小さな手が、ガタガタと震えた。その身体は強張って、立っているのもやっとだった。
絞り出すような声で***は、あの坂を登りきると毎朝、今日も銀時が生きていてくれることに安堵する、と言った。この街に銀時が生きていて、その近くに居られたら自分は幸せで、それだけで充分なのだと、必死で訴えた。
「だから若さん……若さんの気持ちには、答えられないです……本当にごめんなさい。私は、銀ちゃんのことがいちばん大切で、他のことはどうなってもいいと思うような、浅はかな人間です。でも、そのくらいの気持ちで祈らないと、銀ちゃんはすぐにどこかへ行ってしまいそうで……どうしようもないくらい、銀ちゃんのことが好きで、ただこの街で一緒に生きていたいんです。だから、結婚とか家庭とかっ……そ、そういうことは全然、考えられないんです……」
ごめんなさいと言った***が、頭を下げようとすると同時に、若旦那は思わずその小さな身体を抱きしめていた。涙を流し続け、嗚咽をあげ続ける***は、抱きしめられていることにすら、気付いていないようだった。
腕の中で「銀ちゃん」と涙声で言う***の小さな身体は、あまりにも健気で儚くて、今にも壊れてしまいそうだった。
まぶたに焼き付いた***の泣いている姿を、若旦那は思い出す。透明な涙の粒は、本人の意思とは関係なく溢れ続けた。どんなに涙を流しても、***の心の寂しさや悲しみは薄れていかないように、若旦那には見えた。
それでもその辛さに必死に耐える***を見て、こんなに美しい涙を流す人を他に見たことがないと思った。
「坂田さん、俺は自分が***ちゃんを幸せにできると思ってました。金で農園を復興させられる、故郷の家族と一緒に暮らせる、所帯を持って子供を育てられる。それがあの子の幸せだろうと思っていました。これまでの人生で、そうしてやりたいと心から思った女性は、***ちゃんがはじめてでした。噂で***ちゃんが坂田さんに惚れてると聞いても、諦めきれなかったんです。……でもね、あんな風に目の前で泣かれたら……俺は自分が馬鹿だったと気付きました」
自嘲気味に頭を掻いて、若旦那は寂し気に笑った。酒が無いとやってられないという風に、酒をぐいっと煽る。黙り込んだ銀時を見つめると、まるで自分を励ますかのように膝の上で握った手にぐっと力を込めた。
「坂田さん、これは俺からのお願いだ。***ちゃんを幸せにしてやってください。どうか、あの子をガキだなんて言わずに、向き合ってやってください。***ちゃんは坂田さんのことを心から愛してます。何の見返りも求めずに無条件で、あなたが生きていることだけを祈ってるような女の子を、不幸になんてしちゃいけない」
そう言った若旦那は、懐から白いハンカチを出すとテーブルに置いた。それは見合いの席で、***の涙を拭いてやっていたものだった。小さな家紋の刺繍を、銀時はじっと見つめた。
ちゃめっ気のある表情で少し笑った若旦那は、すっとそのハンカチを銀時の方へと差し出した。
「あんな嫌な思いをした後でも、***ちゃんは変わらずに俺に接してくれました。このハンカチもいつも通り笑って返しにきてくれたんです。あんなに優しい人は他にいません。これは俺が坂田さんに出来る唯一の小さな復讐です。***ちゃんが泣いたら、これで涙を拭いてあげてください。それが嫌だったらもうあの子を、泣かせないでください。***ちゃんは俺にとっても、最愛の人だから……」
そこまで言うと若旦那は、満足そうにため息をついて口をつぐんだ。銀時は目の前のハンカチを見つめ続けた。それは真っ白で染みひとつない。まるで***や若旦那の心そのもののように見えた。
「………けよ」
「え?すみません坂田さん、聞こえませんでした」
ずっと黙っていた銀時が突然つぶやいた。しかしその声は、飲み屋の雑音にかき消された。首をかしげた若旦那が銀時を見つめる。ばっと顔を若旦那の方へと向けた銀時が、睨むように目を細めた。
「アイツが泣いたら、お前が拭きに行けよ。黙って聞いてりゃベラベラ勝手なこと言いやがって、コノヤロー。***の気持ちがなんだってんだ。テメーが本当にアイツのことを最愛の女って思ってんなら、俺なんかに託してんじゃねぇよ。***はこの街でいちばん涙もろいガキなんだ。俺といようが誰といようが、アイツはぴーぴー泣いてんだよ。何が幸せにしてあげてくださいだ。テメーで幸せにしろよ。一回フラれたくらいで諦める程度の女を、最愛だなんて軽々しく言ってんじゃねぇよ」
トゲどころか刃物のようにその声は尖っていた。赤い瞳には怒りが浮かんでいた。それに驚いた若旦那は、ハッと息を飲んで言葉を失う。何も言い返せないでいるうちに、更に銀時が言葉を重ねた。
「いいか、若旦那さんよぉ……お前みてぇな若造には到底できねぇだろうが、俺はこの一年ずぅーっと***のことをフリ続けてきた。何度好きだと言われようが、何度すがりつかれようが跳ねのけてきた。それでもアイツはいまだに諦めねぇ。そういうのを最愛って言うんじゃねぇのかよ。お前が本気で***を好きだってんならアイツと同じくらいことやってみせろ。そうすりゃ俺は何度だって***をフリ続けてやるっつーの」
―――ガタンッ!!!
思わず伸びた手が、銀時の胸倉をつかんだ。柔和だった若旦那の顔には、強い怒りと軽蔑の色が浮かんでいた。
「旦那、あんたそれ、本気で言ってんのか」
「あぁ?本気に決まってんだろ。ちったぁ酒が入ってるが、***のことをテキトーに言ったりしねぇよ。なんたって俺はアイツの保護者だからな」
その言葉を聞いた若旦那は、胸倉をつかむ手に更に力を入れた。しかし、へらへらと笑う銀時を見て、若旦那の瞳には怒りよりも悲しみが浮かんでいた。ぱっと銀時をつかんでいた手を離すと、若旦那は大将に「おあいそ」と言った。
「こんなところで旦那と喧嘩しても、***ちゃんは悲しむだけです。それに俺は喧嘩なんて柄じゃない。腕の立つ旦那と違って、俺は書き物や帳簿あわせばかりしてるような、ひ弱な人間だから。でも、残念です。***ちゃんを思う気持ちは一緒だと思っていたから、旦那とは分かり合えるような気がしてたんです。でも勘違いでした」
そう言って寂し気に笑った若旦那は、三人分の勘定を払うと店から出て行った。後ろで長谷川が「なぁ、あれ誰だよ。***ちゃん見合いしたの?俺知らねぇんだけど、なぁ銀さん説明しろよ」と言い続けていたが、銀時はとても喋れそうにない。
目の前に白いハンカチだけがぽつんと残されていた。
飲み屋の客たちの声はうるさい。しかし銀時の世界は音が消えたように静かだ。ただ***が泣きながら「銀ちゃん」と呼ぶ声が聞こえたような気がした。***の泣き顔が頭に浮かぶ。しかし、銀時にはかける言葉すら思いつかない。
ハンカチの白さだけが目に痛い。それは若旦那が持っているのにふさわしい。そして***の綺麗な涙を拭くのにふさわしい。一点の汚れもなく真っ白なその布を、銀時は触れることすら恐ろしかった。
-----------------------------------------
【第29話 最愛の人】end
夜10時のかぶき町は酔っ払いだらけだ。居酒屋が軒を連ねる飲み屋街は、どこも人で溢れている。
カウンターだけのその店も例外なく満員で、酔客の笑い声や喋り声が響いている。酒のいちご牛乳割りなんて飲み物を出してくれる店は、あまりない。今日はそれが飲みたくて、腐れ縁の相棒を伴ってこの店へとやってきた。
「だぁから~、銀さんもそろそろさぁ、***ちゃんのことをどぉにかすべきだって俺は心配してるわけ!そこんとこ、どう思ってんだよ銀さんよぉ~!!」
隣に座る長谷川は、完全にできあがっている。数杯の酒で酔いが回った顔は赤くなり、やたらと絡んでくる。
「あぁ~?うるせぇぞ、長谷川さんみたいなマダオに心配されたくねぇっつーの!俺の心配より、テメェの明日の生活を心配しろよ」
そう返す銀時も既に、身体全体に酔いが回り始めていた。しかし夜はまだまだこれから、とふたり揃って酒の追加を頼む。カウンター越しに大将が渋い顔をした。
「ふたりとも、ちゃんと金持ってきてんでしょうね?相当ツケが溜まってんですから、今日もタダ酒は困りますよ」
「あ゙ぁ゙~?あんだよぉ、俺たちに出す酒はねぇってのか?じゃぁいちご牛乳だけでもいいから出しやがれクソジジィ~!そんくらいの金なら銀さんだって持ってなくはないっつーの!オイ、長谷川さん、オメーもちょっとは金持ってんだろ?」
「銀さん、俺、金なんてしばらく見てねぇよ。あ、自販機の下で拾った小銭ならあるぜ。えーと、ほら、20円」
長谷川がポケットから出した小銭を見て、銀時はギャハハと笑った。しかし銀時の財布にも、大した金額は入っていなかった。
大将は呆れたように首を振って、いちご牛乳だけをポンとカウンターに置いた。そのいちご牛乳を見て、男ふたりは顔を見合わせると再びゲラゲラと笑った。
銀時の隣の席の客が「おあいそ」と言って立つ。酒が回った赤い顔のふたりは、それにも気が付かないほど大声で笑い続けた。
「はぁ~……なぁ銀さん、さっきの話の続きだけど、本当に***ちゃんのことどう思ってんだよ。まんざらじゃねんだろ?俺もさぁ、あんな若い子がいつまでも銀さんみてぇなどうしようもねぇ男に、ずっと心変わりしないなんて思わなかったぜ。そのうち愛想尽かすだろってさぁ。それがなぁ、もう1年以上だもんなぁ~……」
「オイ、誰がどうしようもねぇ男だよ。長谷川さんの方がよっぽどどうしようもねぇじゃねぇか。底辺生活を生き抜くマダオのサバイバルな1年と、俺たち一般市民の1年を一緒にすんなっつーの……」
話をはぐらかそうとしても、頭に***の顔が浮かんで、言葉が途切れてしまう。「まんざらじゃない」どころじゃないことは、自分でもよく分かっている。
思い返せばこの1年、***は一瞬も心変わりすることなく、来る日も来る日も銀時に会いに来た。最初のうちこそ「そのうち飽きんだろ」とか「さっさと目を覚ませ」と思っていた。
しかし、***のあの澄んだ瞳で見つめられると、確かに銀時の心臓は飛び跳ねたり、締め付けられたりした。純情な気持ちを「銀ちゃん、大好き」と素直な言葉で伝えられることに、紛れもなく喜びを感じていた。
年甲斐もないと内心自虐しながら、それでも銀時は***の顔を見るたびに、自分がときめいていることを認めざるをえなかった。習慣のように万事屋へやってくる***の「ごめんくださぁい」という声を、ずいぶん前から心待ちにするようになっていた。
「はぁぁぁぁ。長谷川さんよぉ、いい歳したオッサンふたりが、酒飲みながらする話じゃねぇだろ。気持ちわりぃからやめろよ」
「なんだよ銀さん、俺はなぁ***ちゃんのことを心配してんだよ。あんないい子がいつまでもはぐらかされてんの見てんのは、忍びねぇじゃねぇか」
中身が空のとっくりをひっくり返しながら、長谷川はうじうじと***の話をし続けた。
銀時の隣の空いた席に、新しい客がすっと座った。ちらりと視界に入ったその男の着流しは上等で、いかにも金持ちそうだった。カウンターの向こうで大将の顔付きが変わる。少し緊張した面持ちで、何も頼まれていないのに酒とつまみを出した。
―――ケッ、っんだよクソジジィ、俺たち貧乏人にはあんな渋い顔したくせに、金持ちには媚びやがって……
「なんていうか***ちゃんはさぁ、絶対に幸せになんなきゃいけねぇって、俺は思うんだよ……こんなマダオにまで優しいあの子がさぁ、ひたむきに銀さんを思ってる姿があまりにも一途っつーか、健気っつーか……」
長谷川に言われるまでもなく、銀時だって***との関係をなんとかすべきだと分かっている。いつまでもはぐらかされて、中途半端な状態の***を可哀そうだと、最近よく思う。
しかし、本当に***にとって、自分と結ばれることが正しいのか、自分は相応しくないのではないかという疑いが、いつまでたっても晴れない。
なぜなら***は、銀時が知る限りこのかぶき町でいちばん純粋で汚れなく、まっすぐに生きている女だから。あんな女が不幸になるなんて絶対に許されない。必ず幸せにならなきゃならない。そう誰より強く思っているのは、他でもない銀時だった。
だからこそ、自分を一途に思い続ける***の気持ちに、そうやすやすと答える勇気が、いつまでもたっても銀時には持てなかった。
「前から何度も言ってんだろーが長谷川さん、アイツにとっちゃ俺は保護者みてぇなモンだって。***が心底惚れるようないい男が現れるまで見守ってやってるだけだって。アイツだって分かってるっつーの。俺なんかとじゃ到底幸せにはなれねぇって」
いちご牛乳をすすりながら、銀時はそう言ったが、こんな言い訳もそろそろ通じなくなってきた、と自分でも分かっていた。
「それは違いますよ、坂田さん」
その静かで落ち着いた声は、銀時のすぐ隣の男から発せられた。長谷川の方を向いていた顔を、ぱっと反対側に向けると、隣の席に座る若い男と目が合った。
あれ、誰だっけコイツと思うと同時に、その男の澄んだ黒い瞳にひきつけられた。それが誰だか分かった瞬間、銀時の酔いは一瞬で覚めた。それと同時に心臓も止まったかと思った。さっと冷えて鮮明になった頭に、その男が***を抱きしめていた時の映像が、ありありと蘇ってきた。
「お前は……」
「お初にお目にかかります、万事屋の旦那。この間、見合いの席に来ていらっしゃったけど、こうしてお会いするのは初めてですね」
そういって穏やかな微笑みを浮かべた男は、数週間前に***と見合いをした若旦那だった。飲み屋には似合わない清廉なたたずまいと、端正な顔立ち。狭いカウンターに肘をついて、だらしなくいちご牛乳を飲む銀時とは対象的に、若旦那は背筋を伸ばして酒のお猪口を傾けていた。
「お前……、若旦那っつったか。なんで俺のこと知ってんだよ。なんであの見合いの席に俺たちが居たこと知ってんだよ。オメーはあれか、千里眼かなんかですか、サイコメトラーですかぁ?」
「いやまさかそんな……ひけらかすようで嫌なんですが、あの料亭は俺の経営している店ですから、その日にどんな客が入るかくらいは把握してます……ああ、ちょっと大将、このふたりにも酒出してやっておくれ。お代はいいから」
へい、と頭を下げた大将が、すばやく銀時と長谷川の前に徳利を置いた。そのやり取りだけで、この店も若旦那が経営しているのだと瞬時に分かった。
「オイオイ銀さん、なにその人知り合い?ずいぶん太っ腹な友達がいたんじぇねぇーか、俺にも紹介しろよ」
後ろで長谷川がそう言ったが、銀時は無視した。
―――なんだコイツ、***が手に入らなかったことをまだ根に持ってんのか?その腹いせでもしようってか。いい度胸じゃねぇか、お坊ちゃんが。喧嘩ならいくらでも買ってやるよ。
疑うような目で自分を見る銀時に気付いて、若旦那は少し驚いた顔をしてから、愛想のいい顔で「あはは」と笑った。
「すみません、どうも、俺はあんまりこういう飲み屋に来ないもんで……珍しく来てみたら、前からお会いしたかった旦那がいたから、つい声をかけてしまった。無礼をお許し下さい。旦那は、***ちゃんのことを、ずいぶん大切に思っていらっしゃるんですね」
「あ゙ぁ?思ってらっしゃるもなにも、***とはちょっと仲がいいだけだっつーの。お前は見合いで***にフラれてんだろうが。今さら俺にたてついた所で、アイツの心は変わんねぇぞ。女々しいことしてねぇで、きっぱり諦めやがれ」
トゲのある銀時の言葉に若旦那は「ふっ」と笑った。それは決して見下したりとか馬鹿したりするような類のものではなく、「そんなことはとっくに分かっている」という、諦めの含まれた笑いだった。
「坂田さん、ここでお会いしたのも何かの縁ですから、少し俺の話を聞いてもらえないですか。***ちゃんのことです。多分、坂田さんも知っておくべきだと、俺は思うんです」
「はぁ?***のこと?お前はアイツの何を知ってんだよ?高級料亭にガチガチに緊張して、縁談断るのにぴーぴー泣くようなガキだってことくれぇだろうが」
「いいえ、坂田さん。***ちゃんはガキなんかじゃありません。立派な女性です。それも真剣にひとりの人を、心から愛している大人の女です」
若旦那のその言葉に、銀時は目を見開いて動きを止めた。じっと自分を見る若旦那の黒い瞳は、やはり***の瞳に似ていた。まっすぐで純粋で汚れが無い。こういう目をした人間がいちばん怖いと、咄嗟に感じる。だから若旦那が静かに語り始めると、心臓がばくばくと脈を打ち始めた―――
長く急な坂道を、自転車で登ってくる女の子に気が付いたのは、一年以上前の秋だった。ふと見下ろした窓の外で、大きな荷台の自転車を立ちこぎをする女の子が、よろよろと坂を登っていた。その姿があまりにも不安定で今にも倒れそうで、目が離せなった。案の定、半分も登れずにその娘は自転車を降りて、手で押しはじめた。
―――どうせ登りきれない、それに危ないのだから、最初からそうやって押して登ってくればいいのに……
そう思っていたが、その娘は毎日毎日その坂を自転車で登り続けた。窓からその姿を見ることが毎朝の習慣になった。今日はどこまで登れるだろう、昨日より進むだろうか。気が付くと名前も知らないその女の子を、応援するようになっていた。
どうしても話がしてみたくなって声をかけると、***はとても愛想がよかった。無邪気な笑顔で挨拶をしてくれた。かぶき町に住んでいるとは思えないほど、その笑顔は純粋だった。もっと仲良くなりたいと自然と思い、毎朝***が来る時間に外へ出て挨拶を交わし、立ち話をするようになった。
「数カ月前、***ちゃんはあの坂を登りきったんです。あの長く急な坂を。他人のことだというのに、信じられないくらい俺は嬉しかった。飛び出して行って***ちゃんの手を握りたいくらい」
不思議なことにその日以降、***の顔つきは変わった。それまでは自転車をこぐことに集中するだけの表情だった。しかし今ではまるで、何かを強く祈るような、神々しいほど真剣な表情であの坂を登ってくるようになった。
一生懸命で健気な***の姿に胸を打たれた。その一方で、なぜそこまで必死になってあの坂を登るのだろう、という疑問も抱いた。
「俺はね坂田さん、このかぶき町という街に大して愛着がないんです。だから、もし***ちゃんと夫婦になれたらこの街を出て、あの子の故郷で一緒に農園をやってもいいと思っていた。でも……あの見合いの席で、とてもそんなことは言えませんでした。坂田さん、***ちゃんがどうして、あんなに必死にあの坂を登るかご存じですか?あの坂を登りながら、あの子が何を祈っているか、聞いたことがありますか?」
じっと黙る銀時の沈黙を否定と取った若旦那は、静かに微笑んだ。お猪口の酒に少しだけ唇をつけてから、静かに前を見つめた。その瞳が、過去に見た景色をもう一度見るように小さく揺れる。そこに愛しい女がいるかのように、それは優しい眼差しだった。
―――私は……私が、あの坂を登り続ける理由は、その……坂田銀時さんのことが、好きだからです―――
大粒の涙をぼたぼたとこぼしながら、***はそう言った。言われた瞬間は意味が分からなくて、若旦那は戸惑うしかできなかった。その戸惑いを感じ取った***は、嗚咽まじりに必死に訴えた。
「最初はっ、あの坂を登り切ったら……ぅう、田舎の農園がうまくいって、家族が楽に暮らせるようになるって、が、願掛けをしてたんです……でも、今はそうじゃなくてっ……今はっ、銀ちゃんがっ……銀ちゃんが、今日も生きていますようにって……今日も元気でいてくれますようにって、ひぃっく……し、死んじゃいませんようにって、それだけを私、祈ってるんですっ……」
若旦那の手の中で***の小さな手が、ガタガタと震えた。その身体は強張って、立っているのもやっとだった。
絞り出すような声で***は、あの坂を登りきると毎朝、今日も銀時が生きていてくれることに安堵する、と言った。この街に銀時が生きていて、その近くに居られたら自分は幸せで、それだけで充分なのだと、必死で訴えた。
「だから若さん……若さんの気持ちには、答えられないです……本当にごめんなさい。私は、銀ちゃんのことがいちばん大切で、他のことはどうなってもいいと思うような、浅はかな人間です。でも、そのくらいの気持ちで祈らないと、銀ちゃんはすぐにどこかへ行ってしまいそうで……どうしようもないくらい、銀ちゃんのことが好きで、ただこの街で一緒に生きていたいんです。だから、結婚とか家庭とかっ……そ、そういうことは全然、考えられないんです……」
ごめんなさいと言った***が、頭を下げようとすると同時に、若旦那は思わずその小さな身体を抱きしめていた。涙を流し続け、嗚咽をあげ続ける***は、抱きしめられていることにすら、気付いていないようだった。
腕の中で「銀ちゃん」と涙声で言う***の小さな身体は、あまりにも健気で儚くて、今にも壊れてしまいそうだった。
まぶたに焼き付いた***の泣いている姿を、若旦那は思い出す。透明な涙の粒は、本人の意思とは関係なく溢れ続けた。どんなに涙を流しても、***の心の寂しさや悲しみは薄れていかないように、若旦那には見えた。
それでもその辛さに必死に耐える***を見て、こんなに美しい涙を流す人を他に見たことがないと思った。
「坂田さん、俺は自分が***ちゃんを幸せにできると思ってました。金で農園を復興させられる、故郷の家族と一緒に暮らせる、所帯を持って子供を育てられる。それがあの子の幸せだろうと思っていました。これまでの人生で、そうしてやりたいと心から思った女性は、***ちゃんがはじめてでした。噂で***ちゃんが坂田さんに惚れてると聞いても、諦めきれなかったんです。……でもね、あんな風に目の前で泣かれたら……俺は自分が馬鹿だったと気付きました」
自嘲気味に頭を掻いて、若旦那は寂し気に笑った。酒が無いとやってられないという風に、酒をぐいっと煽る。黙り込んだ銀時を見つめると、まるで自分を励ますかのように膝の上で握った手にぐっと力を込めた。
「坂田さん、これは俺からのお願いだ。***ちゃんを幸せにしてやってください。どうか、あの子をガキだなんて言わずに、向き合ってやってください。***ちゃんは坂田さんのことを心から愛してます。何の見返りも求めずに無条件で、あなたが生きていることだけを祈ってるような女の子を、不幸になんてしちゃいけない」
そう言った若旦那は、懐から白いハンカチを出すとテーブルに置いた。それは見合いの席で、***の涙を拭いてやっていたものだった。小さな家紋の刺繍を、銀時はじっと見つめた。
ちゃめっ気のある表情で少し笑った若旦那は、すっとそのハンカチを銀時の方へと差し出した。
「あんな嫌な思いをした後でも、***ちゃんは変わらずに俺に接してくれました。このハンカチもいつも通り笑って返しにきてくれたんです。あんなに優しい人は他にいません。これは俺が坂田さんに出来る唯一の小さな復讐です。***ちゃんが泣いたら、これで涙を拭いてあげてください。それが嫌だったらもうあの子を、泣かせないでください。***ちゃんは俺にとっても、最愛の人だから……」
そこまで言うと若旦那は、満足そうにため息をついて口をつぐんだ。銀時は目の前のハンカチを見つめ続けた。それは真っ白で染みひとつない。まるで***や若旦那の心そのもののように見えた。
「………けよ」
「え?すみません坂田さん、聞こえませんでした」
ずっと黙っていた銀時が突然つぶやいた。しかしその声は、飲み屋の雑音にかき消された。首をかしげた若旦那が銀時を見つめる。ばっと顔を若旦那の方へと向けた銀時が、睨むように目を細めた。
「アイツが泣いたら、お前が拭きに行けよ。黙って聞いてりゃベラベラ勝手なこと言いやがって、コノヤロー。***の気持ちがなんだってんだ。テメーが本当にアイツのことを最愛の女って思ってんなら、俺なんかに託してんじゃねぇよ。***はこの街でいちばん涙もろいガキなんだ。俺といようが誰といようが、アイツはぴーぴー泣いてんだよ。何が幸せにしてあげてくださいだ。テメーで幸せにしろよ。一回フラれたくらいで諦める程度の女を、最愛だなんて軽々しく言ってんじゃねぇよ」
トゲどころか刃物のようにその声は尖っていた。赤い瞳には怒りが浮かんでいた。それに驚いた若旦那は、ハッと息を飲んで言葉を失う。何も言い返せないでいるうちに、更に銀時が言葉を重ねた。
「いいか、若旦那さんよぉ……お前みてぇな若造には到底できねぇだろうが、俺はこの一年ずぅーっと***のことをフリ続けてきた。何度好きだと言われようが、何度すがりつかれようが跳ねのけてきた。それでもアイツはいまだに諦めねぇ。そういうのを最愛って言うんじゃねぇのかよ。お前が本気で***を好きだってんならアイツと同じくらいことやってみせろ。そうすりゃ俺は何度だって***をフリ続けてやるっつーの」
―――ガタンッ!!!
思わず伸びた手が、銀時の胸倉をつかんだ。柔和だった若旦那の顔には、強い怒りと軽蔑の色が浮かんでいた。
「旦那、あんたそれ、本気で言ってんのか」
「あぁ?本気に決まってんだろ。ちったぁ酒が入ってるが、***のことをテキトーに言ったりしねぇよ。なんたって俺はアイツの保護者だからな」
その言葉を聞いた若旦那は、胸倉をつかむ手に更に力を入れた。しかし、へらへらと笑う銀時を見て、若旦那の瞳には怒りよりも悲しみが浮かんでいた。ぱっと銀時をつかんでいた手を離すと、若旦那は大将に「おあいそ」と言った。
「こんなところで旦那と喧嘩しても、***ちゃんは悲しむだけです。それに俺は喧嘩なんて柄じゃない。腕の立つ旦那と違って、俺は書き物や帳簿あわせばかりしてるような、ひ弱な人間だから。でも、残念です。***ちゃんを思う気持ちは一緒だと思っていたから、旦那とは分かり合えるような気がしてたんです。でも勘違いでした」
そう言って寂し気に笑った若旦那は、三人分の勘定を払うと店から出て行った。後ろで長谷川が「なぁ、あれ誰だよ。***ちゃん見合いしたの?俺知らねぇんだけど、なぁ銀さん説明しろよ」と言い続けていたが、銀時はとても喋れそうにない。
目の前に白いハンカチだけがぽつんと残されていた。
飲み屋の客たちの声はうるさい。しかし銀時の世界は音が消えたように静かだ。ただ***が泣きながら「銀ちゃん」と呼ぶ声が聞こえたような気がした。***の泣き顔が頭に浮かぶ。しかし、銀時にはかける言葉すら思いつかない。
ハンカチの白さだけが目に痛い。それは若旦那が持っているのにふさわしい。そして***の綺麗な涙を拭くのにふさわしい。一点の汚れもなく真っ白なその布を、銀時は触れることすら恐ろしかった。
-----------------------------------------
【第29話 最愛の人】end