銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
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【第27話 たりないふたり】
深いため息が部屋に響いた。窓から刺しこむ西日で、狭い部屋が黄金色に染まった。くたくたの身体をなんとか動かして、着物を脱ぐ。しゅるしゅると音を立てて、分厚い帯と着物が畳に落ちた。
「疲れたぁ……」
思わず漏れた声が、想像以上にかすれた涙声で、自分で自分に呆れてしまう。長襦袢だけの姿で、着物をたたもうと床に広げていると、布の隙間から白いハンカチが落ちた。
―――ああ、終わった、終わったんだ……
そう思うと身体から力が抜けて、***はぺたりと座り込む。ハンカチは綺麗に洗って、着物はクリーニングに出しにいかなきゃ。そう思うのに身体が全然動かない。泣いた目に西日が沁みてちりちりと痛い。
庭から戻ってきた***が号泣しているのを見て、おかみさんはひどく驚いていた。そこにいる全員に申し訳なくて、気が付くと***は、土下座をしていた。泣き続ける***の顔を、若旦那がハンカチで拭いて、何度も「いいんだ***ちゃん、泣かなくていいんだよ」と言ってくれた。綺麗だったハンカチが、大量の涙を吸ってくしゃくしゃになった。
帰りの車で、おかみさんは何度も***に謝っていた。
「泣くほど嫌だったとは思わなかったのよぉ、***ちゃん、ごめんねぇ。昔っから私、縁談ってなるとお節介焼きたくなっちゃって、主人にもいっつも怒られてるの。今回だってあの人が‟***ちゃんには万事屋の旦那がいる”って何度も止めるもんだから、おばさんも意地になっちゃってさぁ。‟若旦那と結婚した方が幸せです!”なんて言って、無理矢理すすめちゃったのよぉ。***ちゃんがそこまで銀さんに本気になってたなんて、思いもしなかったから……」
アパートに着くまで、運転席で謝り続けるおかみさんに、もう大丈夫ですよ、と言って***は苦笑した。車を降りた***が部屋に入るまでずっと、心配そうな顔をしたおかみさんが車から見守り続けていた。
香水の甘い匂いがわずらわしい。涙で剥げかけたメイクも早く落としたい。唇を触ったら、指先に口紅がついた。よろよろと立ち上がってふすまを開ける。着物ではなく寝間着の浴衣を出す。今日はもう疲れたから、銭湯に行ってすぐに寝たい。薄い浴衣を長襦袢の上に羽織る。襟を合わせて腰の位置で布をぎゅっと抑えた。平たい細帯に手を伸ばした瞬間、静かな音が部屋に響いた。
コン、コン、……―――
部屋の扉を誰かがノックしている。その音は遠慮がちで、まるでためらっているかのような音だった。別れ際に見た、おかみさんの申し訳なさそうな顔が脳裏に浮かぶ。
「…………おかみさん?」
心配して戻ってきたんだ。そう思いながら***は慌てて玄関へと走る。帯も締めずに、浴衣の前を両手で押さえただけで、玄関に裸足で降りると、勢いよく扉を開けた。
「おかみさんどうしたんですか、もう」
大丈夫です、と言いかけた口が半開きのまま止まって、言葉を失う。扉の外に立つ人物を見て、***はあまりの驚きに目を見開いた。
ボロアパートの前の公衆電話から、銀時は牛乳屋の主人に電話をかけた。見合いの結果を伝えると、主人は「ハッハッハ」と高らかに笑った。ついさっきおかみも帰ってきて、しょんぼりした顔で「***ちゃんに悪いことした」と言っていたという。
『いやぁ~旦那ぁ、俺ぁずっとカカァに、***ちゃんには旦那という心に決めた人がいるんだから、余計なことすんなって言ってたんだよ。そりゃあの子が、金持ちのボンボンなんかになびくわけねぇって分かってたけど、まさか土下座までして断るたぁねぇ~。***ちゃんはずいぶん女っぷりを上げたな。旦那、お前さん、ずいぶん愛されてるじゃねぇか』
「けっ、クソジシィ。終わってからはどうとでも言えるだろうが。若い娘をあんだけ泣かしといて高笑いっつーのは、どういう了見だ。ったく、嬉しそうな声出しやがってコノヤロー。どいつもこいつも、人の気も知らねぇでテキトーなことばっか言いやがる」
『まぁ、どうせその若旦那っつーのはどうしようもねぇ男だったんだろ?***ちゃんが落ち込んでるといけねぇから、銀さん、後で様子見にいっといてくれよ』
「相変わらず人使いが荒ぇジジィだな」と言った銀時に、主人は笑って電話を切った。受話器を戻すと電話ボックスの中から***の部屋を見つめる。
あの部屋で今、***がどうしてるかは想像もつかない。まだ泣いているかもしれない。それも真っ赤な顔のままで。そして誰を思ってるのかも、分からない。
見合いの席で、***は確かに若旦那の前で、ほほを染めて恥ずかしがっていた。涙を流して抱きしめられていた。結局、見合いは破談になったが、銀時の脳裏にはあの赤い橋の上のふたりが何度も浮かんできた。
「っんだよ………」
思い出すたび、いらだちに似た行き場のない感情が湧き上がってくる。今すぐ***に会いたい。今どんな顔で自分を見るのか知りたい。触れたら赤くなるか確かめたい。流れる涙をぬぐってやりたい。
しかし、もし***の頭に少しでも別の男が存在していたら、どうしたらいいのだろう。あの若旦那が相手なら、それは充分あり得る。ひと目見て、誠実で心の綺麗な人間だと分かるような、あの男なら。
会って確かめるしかねぇだろ、そう思いながら銀時は***の部屋の扉の前に立った。インターホンを押せばいいのに、勇気が出ずに扉をノックした。コンコンと響いた音が弱々しくて、自分でも呆れてしまう。***が出てきてほしいような、出てこないでほしいような複雑な気持ちのせいで、続けてノックができない。
「ハッ、馬鹿か俺は……」
自嘲気味な笑いを漏らして、立ち尽くしていると、扉が勢いよく開いた。
「なっ………!!!」
扉を開けた***は何かを言っていたが、銀時の耳には聞き取れなかった。それよりも***の姿の方が衝撃的で、銀時は目を見開く。
羽織った浴衣の前を、手で押さえただけで帯を締めていない。胸元がいつもよりはだけて、薄い襦袢の下に肌色が透けて見える。裸足で玄関に立ち、走ってきたのか裾が乱れて、膝の上まで生足が見えていた。
「ぎ、銀ちゃんっ!!?な、なにしてんですか!!?」
「ちょ、お前、そりゃこっちのセリフだろーが!なんつー恰好してやがんだ!帯ぐらい締めろよ馬鹿!!」
そう言いながら慌てて部屋に滑り込んだ銀時が、後ろ手にバタンと扉を閉めた。狭い玄関でふたりして動きを止めて見合った直後、ハッとした***が自分の恰好に気付いて、あわあわと顔を真っ赤にする。
「だ、だって、おかみさんが来たのかと思ってッ……まさかっ、銀ちゃんだと思わなかったから……ちょ、ちょっと一回出て、外で待ってて下さいっ!すぐに、着物に着替えるからっ……!」
そう言って胸元を片手で押さえたまま、もう一方の手で銀時の胸を押す。しかし、その身体はびくともしなかった。真っ赤な顔を上げると、自分を見下ろす銀時と、ばちっと音がしそうなほど視線がかち合う。見上げた顔がすごく真剣で、***は困惑する。「な、なんですか」と言っている間に、銀時がずかずかと部屋へ上がっていった。
「なになになに!?***っ、なにコレ!なにこの振袖?結婚式でもあったのかよ?ド派手過ぎね?え、何、お前こーゆー趣味だったの?西郷のとこのオカマが着るヤツみてぇじゃねぇか!」
畳に広がる着物を見た銀時が、表情とは裏腹にすっとんきょうな声を上げた。慌てて***も部屋に上がり、銀時を追おうとしたが、自分の恰好を思い出して立ち止まる。このまま近づいたら、あられもない姿を見られてしまう。くるりと銀時に背を向けて立つと、そこは台所の流しの前だった。
「あ、あの、あのっ、銀ちゃんっ!その、押入れに帯があるから!!取ってくださいッ!!すぐにちゃんとするから、ちょっと待って……」
後ろ手に押入れを指差して***が叫ぶ。ドスドスという足音とふすまをあける音が聞こえた。ふと見下ろした自分の胸元が、信じられないほど開いていて、***は慌てて両手で胸を抑えた。火が出そうなほど顔が熱くて、こんな姿見られたくないと思うと自然とうつむいてしまう。
「なぁ、***、あれなに、あんなド派手な振袖着て、お前どこ行ってたんだよ」
すぐ後ろで銀時の声がしたから、帯を受け取ろうと片手を差し出した。しかしその手には何も触れず、かわりに背中全体にずし、と何かがのしかかってきた。
「え!?」と驚きの声を上げた時には既に、真後ろに立った銀時に抱きすくめられていた。帯を持った銀時の手が、するりと腹に回って、太い腕で締め付ける。後ろから大きな身体で圧されて、かかとが浮くほど、シンクに押さえつけられた。
浴衣越しに銀時の体温が背中いっぱいに広がって、***の身体は恥ずかしさで固くなる。背中に当たる銀時の胸から逃げようと、顔を伏せて前かがみになった。
「っ………!!ちょっとっ、銀ちゃん、苦しいよっ」
「なにお前、首まで真っ赤じゃん」
その声が聞こえた直後、うなじに温かい何かが当たった。後れ毛が揺れる襟足に、ふに、と触れた熱い物が銀時の唇だと気付いた時には、それは既にゆっくりと動きはじめていた。あむ、と唇で噛むように、髪の生え際からうなじの真ん中まで移動していく。
「ひっ……ぁ!ぎ、んちゃ、」
くすぐったさに似た、ぞわりとした感覚が首筋から全身へと走る。きゅっと肩をすくめて更にうつむくと、浴衣の襟から現れた首の骨のでっぱりにまで、銀時の唇が触れた。
「やぁっ……!!!」
唇の触れた所から、全身にビリッと電流が走った気がした。びくりと肩が揺れて、つま先立ちした足がガクガクと震える。顔も首も熱くて、見なくても真っ赤になっていることが分かる。
「~~~~~っ!!ぎ、銀ちゃん、帯をっ、……」
震える声でそう言うと、銀時の身体が少し離れた。ほっとしたのも束の間で、急に両脇から大きな手が入ってくる。乱暴な手つきで腰に帯を巻かれた。前に回った細帯が一度後ろで交差され、また前へと戻ってくる。うつむいた***の目に、素早く動く銀時の手が、腰の前で帯をぎゅっと締めるのが見えた。その手はやっぱり大きくて、血管が浮いていて、ごつごつとしていた。
「おら、これでいーだろ。ったくオメーは本当に世話が焼けるよ。娘が帯も締めねぇスケスケの恰好で、男を部屋に上げてるなんて知ったら、田舎のとーちゃんが泣くっつーの」
「あ、上げてないもんっ!銀ちゃんが勝手に入ってきたんじゃないですかっ!!」
「お前がそんな恰好で出てくるからだろーが!あれか、お前は露出狂か?露出狂の痴女なのか?俺じゃなかったらどーすんだよ馬鹿!!」
怒った口調のまま銀時が、***の肩をつかんで、くるりと向きを変えさせた。顔を見られたくなくて、***は両手で隠そうとしたが、その手首を銀時に強くつかまれた。
「***さぁ、銀さんの質問に答えてねぇけど、分かってんの?」
「え……?な、なにが?」
「あの着物着て、どこ行ってたってさっきから聞いてんだけど。全然答えねぇじゃん。もしかしてお前、俺に言えねぇようなとこに行ったの?あんな派手な振袖着て?そんな濃い口紅つけて?今だって、とんだアバズレみてぇな顔してっけど」
「…………っ!!!」
目を見開いた***の顔は、一瞬で青くなった。唇が震えてうまく息ができない。
どうしよう、どうしたらいい。もう銀時に嘘をつきたくない。でも見合いをしたことを、銀時にだけは知られたくない。泣きそうになりながら、必死に考えた答えを、***は震える声で絞り出した。
「あ、あの、牛乳屋のおかみさんと、その、ご飯に行ったの……え、えーと、お金持ちのお客さんが招待してくれたから、ちゃんとした格好をしなさいっておかみさんが……あの着物もおかみさんが着せてくれて、化粧も、淑女のたしなみだからって……」
嘘はついてない。でも真実には少し足りない。その罪悪感に胸が痛くて、涙が出そうになる。でも銀時にだけは疑われたくない。そう思ってすがるように見上げた銀時の顔が、まるで怒っているような表情だったから、***は声が出せなくなった。
部屋に入ってすぐ、ぱっと赤くなった***を見たら、銀時はもう制御が効かなくなって、もっと***が赤くなる姿が見たくなった。その***が今、目の前で顔を青くして、嘘をついた。
―――はい、嘘、ひとつめ。
心の中で誰かがつぶやいた。「ふーん」と言いながら冷たい目で***を見下ろす。銀時の怒りを感じ取った***が、口をつぐんで、身体を強張らせた。
「金持ちの客って男?お前さ、その男の前でもそーゆー顔すんの?そーやって赤くなったり、泣きそうな顔すんの?俺さぁ、あんま人前でそーゆー顔すんなって***に言ったよな」
「え?……きゃっ!銀ちゃん、や、やめっ!!」
台所に押し付けていた***の身体の、細い腰を両手でつかみ、持ち上げる。流しのふちに座らせると、銀時と同じ視線の高さに浮いた***の身体は、ぐらぐらと前後に揺れた。後ろに落ちないよう自然と***の身体は前傾になり、銀時の胸に両手をついて、身体を支えていた。
身体が再び近づいたことで、***の顔に赤みがさす。雑に巻いた帯のせいで胸元がはだけて、中の薄い襦袢が見えている。その下に白い肌と、鎖骨のはじまりから終わりまでが透けて見えた。
「なぁ、どーなんだよ***、お前、その男の前でもこんなに首まで真っ赤にすんの?」
「っ………!」
片手を細い首に這わせたら、指先がするりと襦袢の中に滑り込んだ。鎖骨にそって指先を動かすと、白い肌がばぁっと紅色に染まった。「ひぁっ」と小さな叫びをあげた***の目が、じわりと潤んだ。耳たぶの先まで真っ赤だった。
「……し、しないよ銀ちゃん、他の人の前でこんなに赤くならない……恥ずかしくてこんな風になっちゃうの、銀ちゃんのせいだもん、いつも……」
涙声で***が言う。頭のなかで「嘘、ふたつめ」という声がした。首から滑らせた手を、***のほほに添わせる。親指で唇を撫でたら、濃い口紅の色が移った。こんなに艶っぽい唇を他の男が間近で見たと思うと、ますます***をいじめたくなった。
「あっそ、ならもっと俺に見せろよ、茹でダコみてぇに真っ赤になるとこ」
そう言いながらもう一度、***の下唇を端から端までゆっくりと親指でなぞった。そしてその指で小さな耳たぶを強くつねると、口紅の色が移って、ますます赤く見える。
「いッ……やッ、ぃ、痛いよ、銀ちゃんっ」
痛がる声を無視して、***の顔を横に向かせる。小さな耳に顔を近づけて、耳たぶに歯を立てて噛みついた。耳たぶはふにゃりとして熱い。唇とどちらの方が柔らかいのだろうと考えていたら、バニラのような香水の甘い匂いがして、くらりと眩暈を起こしそうになった。
「やぁっ、ぎん、ちゃ、いたぃっ……」
痛がる***の声に、支配欲が満たされる。犬のように噛みつきながら、甘い匂いも味わいたくて、耳の後ろに舌を這わせた。***の両手が弱々しく銀時の胸を押す。「ぁあっ!」という***の悲鳴は、泣いてるかと思うほど鼻声だった。
「なぁ、***、泣けよ。その男の前でも泣いたんだろ、目ぇ真っ赤にして化粧も落ちてんじゃん」
「っ………!!な、泣いてないっ!!!」
小さな耳から離れた銀時の頭の中で「嘘、みっつめ」という声がまた聞こえた。***の腰に回した腕に力が入り、ますます距離が近づく。
「っんでだよ……お前、なんで俺の前で泣かねぇの?前はぴーぴー泣いてたじゃねぇか。ガキみてぇに、赤んぼみてぇに、さっさと泣けよ***、久々に銀さんに泣くとこ見せてみろって」
今にも泣きそうなほど***の瞳は潤んでいたが、ぎゅっと唇を噛んでこらえていた。小さな両手に急に力がこもり、銀時の服の胸元をぎゅっと掴んだ。キッと銀時を見上げた目には、怒りが浮かんでいた。
「だって……銀ちゃんがっ、銀ちゃんのことが、好きだから!!だから私、泣きたくないんだもん!泣いたら……泣いたら銀ちゃんに、子供扱いされるからっ、そしたら、ずっと銀ちゃんの彼女になれないからっ、それがヤダから、泣かないんですっ!!ま、真っ赤になっちゃうのも、泣かないのも、全部、銀ちゃんのことが好きだからですっ!!!」
まくし立てるように***が言った理由を聞いて、驚きで固まる銀時が、口をあんぐりと開けた。胸から離れた***の手が一瞬迷ってから、恐る恐る銀時の首に回された。ぎゅっと抱き着いてきた***の顔が、首筋に押し付けられた。
「他の人の前で……他の人のためになんて、泣かないもん。銀ちゃんの為にしか、私は泣かないもん……」
つぶやいた***の声が、顔のすぐ下から聞こえてくる。脳裏に若旦那の前で泣いていた***の姿が浮かんできた。「嘘、よっつめ」という声が聞こえたが、いらだちは湧いてこなかった。
いらだちよりも、どうしようも無いほどの甘い感覚が、背中を這うように銀時の全身を駆け巡る。
「はぁぁぁぁ~…お前さぁ、いや、分かってたけどさぁ……本当に俺のことが好きだね」
呆れた声でそう言いながら、銀時は***の背中に腕を回した。その腕で強く抱きしめると、***はゆっくりと力を抜いて、銀時の胸に身体を預けた。
「うん、本当に好きだよ、銀ちゃん、それだけは信じててよ……」
部屋に射し込んでいた西日が、気付いたら夕焼けに代わり、部屋中が紅に染まっていた。
「で、どうだったんだよ金持ちとのメシは。さぞ豪華だったんだろ。庶民な***の口には合わなかったんじゃねぇの?」
「……ぅん、うん、上品で豪華だったけど、全然美味しくなかったよ。銀ちゃんの卵焼きの方がずっと美味しかったよ」
「いや、銀さんの卵焼きは庶民の味じゃねーから、上品で豪華なプロの味だから。お前どさくさに紛れて、俺の料理の腕けなしてんじゃねーよ!」
くすくすと笑った***が、銀時の首から腕をほどいて離れた。じっと銀時を見つめた***の顔を、窓から差し込む夕暮れが、オレンジ色に染めた。
「銀ちゃん、私……嘘つきました」
「は?なんだよ今さら」
「うん、私………銀ちゃんのこと、好きじゃない」
「はぁっ!!?どどどど、どういうことだよ***!今まで散々‟銀ちゃん好きぃ~”っつっといて、急に心変わりすんのかお前は!!?なんなんだお前は!カ〇ラか?女心と木村カ〇ラの髪型かっ!?」
背中に回した腕に力を入れたまま、***を見つめる銀時の額から、汗がダラダラと垂れた。
支配欲と激情に駆られて、少しやり過ぎたかもしれない。どうしよう、謝ったほうがいいのかコレ、と目をぐるぐる回して考えている銀時に向かって、***はへらりと微笑むと口を開いた。
「好きって言葉じゃ、この気持ちは全然足りないよ、銀ちゃん……私、銀ちゃんのこと、大好きです」
言葉を失った銀時に向かって、***は首を傾げて「聞いてる?」と言った。その顔は夕焼け色に染まって真っ赤だった。
こんなに赤く染まった***の顔は、この世界中でただひとり、自分しか見たことがないだろう。そう思うと狂おしいほど***が愛おしくて、たまらなく甘い感覚が、銀時の心を満たした。
「まぁた、お前は、よくそんな恥ずかしいこと言えるよな……ちゃんと聞いてっから、もっかい言えよ」
そう言いながら再び抱き寄せると、***は迷いなく銀時の首に腕を回して、ぎゅっと抱き着いてきた。甘い声が耳元で響いた。
「何回でも言います。だって本当のことだもん。銀ちゃん、大好き」
「あんだって?聞こえなかった、もっかい言って***」
「もぉ、ちゃんと聞いててよ……銀ちゃん、だいすき」
「もっかい」
「銀ちゃん、大好き、大好きだよ」
銀時に求められるがままに、***は何度も「大好き」とささやき続けた。その声に夢中になっている間に、銀時は若旦那の顔なんて忘れてしまっていた。
***がどんな嘘をつこうが、はっきりしている真実はひとつだけだ、と銀時は思う。さっきまで嘘の数を数えていた心の声が、大声で叫ぶのが聞こえた。
―――くせになる程のこの甘い感覚を、他の男になんて味あわせてたまるか―――
少しづつ消えゆく夕焼けも、今はまだ部屋中を紅く照らし続けている。抱き合うふたりが、溶けて消えてしまいそうなほど、それは甘い光だった。
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【第27話 たりないふたり】end
深いため息が部屋に響いた。窓から刺しこむ西日で、狭い部屋が黄金色に染まった。くたくたの身体をなんとか動かして、着物を脱ぐ。しゅるしゅると音を立てて、分厚い帯と着物が畳に落ちた。
「疲れたぁ……」
思わず漏れた声が、想像以上にかすれた涙声で、自分で自分に呆れてしまう。長襦袢だけの姿で、着物をたたもうと床に広げていると、布の隙間から白いハンカチが落ちた。
―――ああ、終わった、終わったんだ……
そう思うと身体から力が抜けて、***はぺたりと座り込む。ハンカチは綺麗に洗って、着物はクリーニングに出しにいかなきゃ。そう思うのに身体が全然動かない。泣いた目に西日が沁みてちりちりと痛い。
庭から戻ってきた***が号泣しているのを見て、おかみさんはひどく驚いていた。そこにいる全員に申し訳なくて、気が付くと***は、土下座をしていた。泣き続ける***の顔を、若旦那がハンカチで拭いて、何度も「いいんだ***ちゃん、泣かなくていいんだよ」と言ってくれた。綺麗だったハンカチが、大量の涙を吸ってくしゃくしゃになった。
帰りの車で、おかみさんは何度も***に謝っていた。
「泣くほど嫌だったとは思わなかったのよぉ、***ちゃん、ごめんねぇ。昔っから私、縁談ってなるとお節介焼きたくなっちゃって、主人にもいっつも怒られてるの。今回だってあの人が‟***ちゃんには万事屋の旦那がいる”って何度も止めるもんだから、おばさんも意地になっちゃってさぁ。‟若旦那と結婚した方が幸せです!”なんて言って、無理矢理すすめちゃったのよぉ。***ちゃんがそこまで銀さんに本気になってたなんて、思いもしなかったから……」
アパートに着くまで、運転席で謝り続けるおかみさんに、もう大丈夫ですよ、と言って***は苦笑した。車を降りた***が部屋に入るまでずっと、心配そうな顔をしたおかみさんが車から見守り続けていた。
香水の甘い匂いがわずらわしい。涙で剥げかけたメイクも早く落としたい。唇を触ったら、指先に口紅がついた。よろよろと立ち上がってふすまを開ける。着物ではなく寝間着の浴衣を出す。今日はもう疲れたから、銭湯に行ってすぐに寝たい。薄い浴衣を長襦袢の上に羽織る。襟を合わせて腰の位置で布をぎゅっと抑えた。平たい細帯に手を伸ばした瞬間、静かな音が部屋に響いた。
コン、コン、……―――
部屋の扉を誰かがノックしている。その音は遠慮がちで、まるでためらっているかのような音だった。別れ際に見た、おかみさんの申し訳なさそうな顔が脳裏に浮かぶ。
「…………おかみさん?」
心配して戻ってきたんだ。そう思いながら***は慌てて玄関へと走る。帯も締めずに、浴衣の前を両手で押さえただけで、玄関に裸足で降りると、勢いよく扉を開けた。
「おかみさんどうしたんですか、もう」
大丈夫です、と言いかけた口が半開きのまま止まって、言葉を失う。扉の外に立つ人物を見て、***はあまりの驚きに目を見開いた。
ボロアパートの前の公衆電話から、銀時は牛乳屋の主人に電話をかけた。見合いの結果を伝えると、主人は「ハッハッハ」と高らかに笑った。ついさっきおかみも帰ってきて、しょんぼりした顔で「***ちゃんに悪いことした」と言っていたという。
『いやぁ~旦那ぁ、俺ぁずっとカカァに、***ちゃんには旦那という心に決めた人がいるんだから、余計なことすんなって言ってたんだよ。そりゃあの子が、金持ちのボンボンなんかになびくわけねぇって分かってたけど、まさか土下座までして断るたぁねぇ~。***ちゃんはずいぶん女っぷりを上げたな。旦那、お前さん、ずいぶん愛されてるじゃねぇか』
「けっ、クソジシィ。終わってからはどうとでも言えるだろうが。若い娘をあんだけ泣かしといて高笑いっつーのは、どういう了見だ。ったく、嬉しそうな声出しやがってコノヤロー。どいつもこいつも、人の気も知らねぇでテキトーなことばっか言いやがる」
『まぁ、どうせその若旦那っつーのはどうしようもねぇ男だったんだろ?***ちゃんが落ち込んでるといけねぇから、銀さん、後で様子見にいっといてくれよ』
「相変わらず人使いが荒ぇジジィだな」と言った銀時に、主人は笑って電話を切った。受話器を戻すと電話ボックスの中から***の部屋を見つめる。
あの部屋で今、***がどうしてるかは想像もつかない。まだ泣いているかもしれない。それも真っ赤な顔のままで。そして誰を思ってるのかも、分からない。
見合いの席で、***は確かに若旦那の前で、ほほを染めて恥ずかしがっていた。涙を流して抱きしめられていた。結局、見合いは破談になったが、銀時の脳裏にはあの赤い橋の上のふたりが何度も浮かんできた。
「っんだよ………」
思い出すたび、いらだちに似た行き場のない感情が湧き上がってくる。今すぐ***に会いたい。今どんな顔で自分を見るのか知りたい。触れたら赤くなるか確かめたい。流れる涙をぬぐってやりたい。
しかし、もし***の頭に少しでも別の男が存在していたら、どうしたらいいのだろう。あの若旦那が相手なら、それは充分あり得る。ひと目見て、誠実で心の綺麗な人間だと分かるような、あの男なら。
会って確かめるしかねぇだろ、そう思いながら銀時は***の部屋の扉の前に立った。インターホンを押せばいいのに、勇気が出ずに扉をノックした。コンコンと響いた音が弱々しくて、自分でも呆れてしまう。***が出てきてほしいような、出てこないでほしいような複雑な気持ちのせいで、続けてノックができない。
「ハッ、馬鹿か俺は……」
自嘲気味な笑いを漏らして、立ち尽くしていると、扉が勢いよく開いた。
「なっ………!!!」
扉を開けた***は何かを言っていたが、銀時の耳には聞き取れなかった。それよりも***の姿の方が衝撃的で、銀時は目を見開く。
羽織った浴衣の前を、手で押さえただけで帯を締めていない。胸元がいつもよりはだけて、薄い襦袢の下に肌色が透けて見える。裸足で玄関に立ち、走ってきたのか裾が乱れて、膝の上まで生足が見えていた。
「ぎ、銀ちゃんっ!!?な、なにしてんですか!!?」
「ちょ、お前、そりゃこっちのセリフだろーが!なんつー恰好してやがんだ!帯ぐらい締めろよ馬鹿!!」
そう言いながら慌てて部屋に滑り込んだ銀時が、後ろ手にバタンと扉を閉めた。狭い玄関でふたりして動きを止めて見合った直後、ハッとした***が自分の恰好に気付いて、あわあわと顔を真っ赤にする。
「だ、だって、おかみさんが来たのかと思ってッ……まさかっ、銀ちゃんだと思わなかったから……ちょ、ちょっと一回出て、外で待ってて下さいっ!すぐに、着物に着替えるからっ……!」
そう言って胸元を片手で押さえたまま、もう一方の手で銀時の胸を押す。しかし、その身体はびくともしなかった。真っ赤な顔を上げると、自分を見下ろす銀時と、ばちっと音がしそうなほど視線がかち合う。見上げた顔がすごく真剣で、***は困惑する。「な、なんですか」と言っている間に、銀時がずかずかと部屋へ上がっていった。
「なになになに!?***っ、なにコレ!なにこの振袖?結婚式でもあったのかよ?ド派手過ぎね?え、何、お前こーゆー趣味だったの?西郷のとこのオカマが着るヤツみてぇじゃねぇか!」
畳に広がる着物を見た銀時が、表情とは裏腹にすっとんきょうな声を上げた。慌てて***も部屋に上がり、銀時を追おうとしたが、自分の恰好を思い出して立ち止まる。このまま近づいたら、あられもない姿を見られてしまう。くるりと銀時に背を向けて立つと、そこは台所の流しの前だった。
「あ、あの、あのっ、銀ちゃんっ!その、押入れに帯があるから!!取ってくださいッ!!すぐにちゃんとするから、ちょっと待って……」
後ろ手に押入れを指差して***が叫ぶ。ドスドスという足音とふすまをあける音が聞こえた。ふと見下ろした自分の胸元が、信じられないほど開いていて、***は慌てて両手で胸を抑えた。火が出そうなほど顔が熱くて、こんな姿見られたくないと思うと自然とうつむいてしまう。
「なぁ、***、あれなに、あんなド派手な振袖着て、お前どこ行ってたんだよ」
すぐ後ろで銀時の声がしたから、帯を受け取ろうと片手を差し出した。しかしその手には何も触れず、かわりに背中全体にずし、と何かがのしかかってきた。
「え!?」と驚きの声を上げた時には既に、真後ろに立った銀時に抱きすくめられていた。帯を持った銀時の手が、するりと腹に回って、太い腕で締め付ける。後ろから大きな身体で圧されて、かかとが浮くほど、シンクに押さえつけられた。
浴衣越しに銀時の体温が背中いっぱいに広がって、***の身体は恥ずかしさで固くなる。背中に当たる銀時の胸から逃げようと、顔を伏せて前かがみになった。
「っ………!!ちょっとっ、銀ちゃん、苦しいよっ」
「なにお前、首まで真っ赤じゃん」
その声が聞こえた直後、うなじに温かい何かが当たった。後れ毛が揺れる襟足に、ふに、と触れた熱い物が銀時の唇だと気付いた時には、それは既にゆっくりと動きはじめていた。あむ、と唇で噛むように、髪の生え際からうなじの真ん中まで移動していく。
「ひっ……ぁ!ぎ、んちゃ、」
くすぐったさに似た、ぞわりとした感覚が首筋から全身へと走る。きゅっと肩をすくめて更にうつむくと、浴衣の襟から現れた首の骨のでっぱりにまで、銀時の唇が触れた。
「やぁっ……!!!」
唇の触れた所から、全身にビリッと電流が走った気がした。びくりと肩が揺れて、つま先立ちした足がガクガクと震える。顔も首も熱くて、見なくても真っ赤になっていることが分かる。
「~~~~~っ!!ぎ、銀ちゃん、帯をっ、……」
震える声でそう言うと、銀時の身体が少し離れた。ほっとしたのも束の間で、急に両脇から大きな手が入ってくる。乱暴な手つきで腰に帯を巻かれた。前に回った細帯が一度後ろで交差され、また前へと戻ってくる。うつむいた***の目に、素早く動く銀時の手が、腰の前で帯をぎゅっと締めるのが見えた。その手はやっぱり大きくて、血管が浮いていて、ごつごつとしていた。
「おら、これでいーだろ。ったくオメーは本当に世話が焼けるよ。娘が帯も締めねぇスケスケの恰好で、男を部屋に上げてるなんて知ったら、田舎のとーちゃんが泣くっつーの」
「あ、上げてないもんっ!銀ちゃんが勝手に入ってきたんじゃないですかっ!!」
「お前がそんな恰好で出てくるからだろーが!あれか、お前は露出狂か?露出狂の痴女なのか?俺じゃなかったらどーすんだよ馬鹿!!」
怒った口調のまま銀時が、***の肩をつかんで、くるりと向きを変えさせた。顔を見られたくなくて、***は両手で隠そうとしたが、その手首を銀時に強くつかまれた。
「***さぁ、銀さんの質問に答えてねぇけど、分かってんの?」
「え……?な、なにが?」
「あの着物着て、どこ行ってたってさっきから聞いてんだけど。全然答えねぇじゃん。もしかしてお前、俺に言えねぇようなとこに行ったの?あんな派手な振袖着て?そんな濃い口紅つけて?今だって、とんだアバズレみてぇな顔してっけど」
「…………っ!!!」
目を見開いた***の顔は、一瞬で青くなった。唇が震えてうまく息ができない。
どうしよう、どうしたらいい。もう銀時に嘘をつきたくない。でも見合いをしたことを、銀時にだけは知られたくない。泣きそうになりながら、必死に考えた答えを、***は震える声で絞り出した。
「あ、あの、牛乳屋のおかみさんと、その、ご飯に行ったの……え、えーと、お金持ちのお客さんが招待してくれたから、ちゃんとした格好をしなさいっておかみさんが……あの着物もおかみさんが着せてくれて、化粧も、淑女のたしなみだからって……」
嘘はついてない。でも真実には少し足りない。その罪悪感に胸が痛くて、涙が出そうになる。でも銀時にだけは疑われたくない。そう思ってすがるように見上げた銀時の顔が、まるで怒っているような表情だったから、***は声が出せなくなった。
部屋に入ってすぐ、ぱっと赤くなった***を見たら、銀時はもう制御が効かなくなって、もっと***が赤くなる姿が見たくなった。その***が今、目の前で顔を青くして、嘘をついた。
―――はい、嘘、ひとつめ。
心の中で誰かがつぶやいた。「ふーん」と言いながら冷たい目で***を見下ろす。銀時の怒りを感じ取った***が、口をつぐんで、身体を強張らせた。
「金持ちの客って男?お前さ、その男の前でもそーゆー顔すんの?そーやって赤くなったり、泣きそうな顔すんの?俺さぁ、あんま人前でそーゆー顔すんなって***に言ったよな」
「え?……きゃっ!銀ちゃん、や、やめっ!!」
台所に押し付けていた***の身体の、細い腰を両手でつかみ、持ち上げる。流しのふちに座らせると、銀時と同じ視線の高さに浮いた***の身体は、ぐらぐらと前後に揺れた。後ろに落ちないよう自然と***の身体は前傾になり、銀時の胸に両手をついて、身体を支えていた。
身体が再び近づいたことで、***の顔に赤みがさす。雑に巻いた帯のせいで胸元がはだけて、中の薄い襦袢が見えている。その下に白い肌と、鎖骨のはじまりから終わりまでが透けて見えた。
「なぁ、どーなんだよ***、お前、その男の前でもこんなに首まで真っ赤にすんの?」
「っ………!」
片手を細い首に這わせたら、指先がするりと襦袢の中に滑り込んだ。鎖骨にそって指先を動かすと、白い肌がばぁっと紅色に染まった。「ひぁっ」と小さな叫びをあげた***の目が、じわりと潤んだ。耳たぶの先まで真っ赤だった。
「……し、しないよ銀ちゃん、他の人の前でこんなに赤くならない……恥ずかしくてこんな風になっちゃうの、銀ちゃんのせいだもん、いつも……」
涙声で***が言う。頭のなかで「嘘、ふたつめ」という声がした。首から滑らせた手を、***のほほに添わせる。親指で唇を撫でたら、濃い口紅の色が移った。こんなに艶っぽい唇を他の男が間近で見たと思うと、ますます***をいじめたくなった。
「あっそ、ならもっと俺に見せろよ、茹でダコみてぇに真っ赤になるとこ」
そう言いながらもう一度、***の下唇を端から端までゆっくりと親指でなぞった。そしてその指で小さな耳たぶを強くつねると、口紅の色が移って、ますます赤く見える。
「いッ……やッ、ぃ、痛いよ、銀ちゃんっ」
痛がる声を無視して、***の顔を横に向かせる。小さな耳に顔を近づけて、耳たぶに歯を立てて噛みついた。耳たぶはふにゃりとして熱い。唇とどちらの方が柔らかいのだろうと考えていたら、バニラのような香水の甘い匂いがして、くらりと眩暈を起こしそうになった。
「やぁっ、ぎん、ちゃ、いたぃっ……」
痛がる***の声に、支配欲が満たされる。犬のように噛みつきながら、甘い匂いも味わいたくて、耳の後ろに舌を這わせた。***の両手が弱々しく銀時の胸を押す。「ぁあっ!」という***の悲鳴は、泣いてるかと思うほど鼻声だった。
「なぁ、***、泣けよ。その男の前でも泣いたんだろ、目ぇ真っ赤にして化粧も落ちてんじゃん」
「っ………!!な、泣いてないっ!!!」
小さな耳から離れた銀時の頭の中で「嘘、みっつめ」という声がまた聞こえた。***の腰に回した腕に力が入り、ますます距離が近づく。
「っんでだよ……お前、なんで俺の前で泣かねぇの?前はぴーぴー泣いてたじゃねぇか。ガキみてぇに、赤んぼみてぇに、さっさと泣けよ***、久々に銀さんに泣くとこ見せてみろって」
今にも泣きそうなほど***の瞳は潤んでいたが、ぎゅっと唇を噛んでこらえていた。小さな両手に急に力がこもり、銀時の服の胸元をぎゅっと掴んだ。キッと銀時を見上げた目には、怒りが浮かんでいた。
「だって……銀ちゃんがっ、銀ちゃんのことが、好きだから!!だから私、泣きたくないんだもん!泣いたら……泣いたら銀ちゃんに、子供扱いされるからっ、そしたら、ずっと銀ちゃんの彼女になれないからっ、それがヤダから、泣かないんですっ!!ま、真っ赤になっちゃうのも、泣かないのも、全部、銀ちゃんのことが好きだからですっ!!!」
まくし立てるように***が言った理由を聞いて、驚きで固まる銀時が、口をあんぐりと開けた。胸から離れた***の手が一瞬迷ってから、恐る恐る銀時の首に回された。ぎゅっと抱き着いてきた***の顔が、首筋に押し付けられた。
「他の人の前で……他の人のためになんて、泣かないもん。銀ちゃんの為にしか、私は泣かないもん……」
つぶやいた***の声が、顔のすぐ下から聞こえてくる。脳裏に若旦那の前で泣いていた***の姿が浮かんできた。「嘘、よっつめ」という声が聞こえたが、いらだちは湧いてこなかった。
いらだちよりも、どうしようも無いほどの甘い感覚が、背中を這うように銀時の全身を駆け巡る。
「はぁぁぁぁ~…お前さぁ、いや、分かってたけどさぁ……本当に俺のことが好きだね」
呆れた声でそう言いながら、銀時は***の背中に腕を回した。その腕で強く抱きしめると、***はゆっくりと力を抜いて、銀時の胸に身体を預けた。
「うん、本当に好きだよ、銀ちゃん、それだけは信じててよ……」
部屋に射し込んでいた西日が、気付いたら夕焼けに代わり、部屋中が紅に染まっていた。
「で、どうだったんだよ金持ちとのメシは。さぞ豪華だったんだろ。庶民な***の口には合わなかったんじゃねぇの?」
「……ぅん、うん、上品で豪華だったけど、全然美味しくなかったよ。銀ちゃんの卵焼きの方がずっと美味しかったよ」
「いや、銀さんの卵焼きは庶民の味じゃねーから、上品で豪華なプロの味だから。お前どさくさに紛れて、俺の料理の腕けなしてんじゃねーよ!」
くすくすと笑った***が、銀時の首から腕をほどいて離れた。じっと銀時を見つめた***の顔を、窓から差し込む夕暮れが、オレンジ色に染めた。
「銀ちゃん、私……嘘つきました」
「は?なんだよ今さら」
「うん、私………銀ちゃんのこと、好きじゃない」
「はぁっ!!?どどどど、どういうことだよ***!今まで散々‟銀ちゃん好きぃ~”っつっといて、急に心変わりすんのかお前は!!?なんなんだお前は!カ〇ラか?女心と木村カ〇ラの髪型かっ!?」
背中に回した腕に力を入れたまま、***を見つめる銀時の額から、汗がダラダラと垂れた。
支配欲と激情に駆られて、少しやり過ぎたかもしれない。どうしよう、謝ったほうがいいのかコレ、と目をぐるぐる回して考えている銀時に向かって、***はへらりと微笑むと口を開いた。
「好きって言葉じゃ、この気持ちは全然足りないよ、銀ちゃん……私、銀ちゃんのこと、大好きです」
言葉を失った銀時に向かって、***は首を傾げて「聞いてる?」と言った。その顔は夕焼け色に染まって真っ赤だった。
こんなに赤く染まった***の顔は、この世界中でただひとり、自分しか見たことがないだろう。そう思うと狂おしいほど***が愛おしくて、たまらなく甘い感覚が、銀時の心を満たした。
「まぁた、お前は、よくそんな恥ずかしいこと言えるよな……ちゃんと聞いてっから、もっかい言えよ」
そう言いながら再び抱き寄せると、***は迷いなく銀時の首に腕を回して、ぎゅっと抱き着いてきた。甘い声が耳元で響いた。
「何回でも言います。だって本当のことだもん。銀ちゃん、大好き」
「あんだって?聞こえなかった、もっかい言って***」
「もぉ、ちゃんと聞いててよ……銀ちゃん、だいすき」
「もっかい」
「銀ちゃん、大好き、大好きだよ」
銀時に求められるがままに、***は何度も「大好き」とささやき続けた。その声に夢中になっている間に、銀時は若旦那の顔なんて忘れてしまっていた。
***がどんな嘘をつこうが、はっきりしている真実はひとつだけだ、と銀時は思う。さっきまで嘘の数を数えていた心の声が、大声で叫ぶのが聞こえた。
―――くせになる程のこの甘い感覚を、他の男になんて味あわせてたまるか―――
少しづつ消えゆく夕焼けも、今はまだ部屋中を紅く照らし続けている。抱き合うふたりが、溶けて消えてしまいそうなほど、それは甘い光だった。
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【第27話 たりないふたり】end