銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
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【第25話 どうしようもない女】
緑のコケがむした大きな岩や、季節ごとに色づく木や植物。青い芝生がどこまでも広がり、大きな池の上には、赤い橋まで架かっていた。障子を開け放った部屋から見える広い庭園は、どこまでも金がかかり、手入れが行き届いている。
見合いの場所として指定された料亭は、思っていた以上に格式高い場所で、庶民的な***は居心地が悪い。
案内されて入った和室に、まだ見合い相手は来ていなかった。すぐにでも料理が運ばれてきそうなほど、準備の整った大きな机の前にちょこんと正座して、***は縮こまった。
「あの、おかみさん、なんていうか私……場違いじゃないですか?」
「そんなことないわよ、***ちゃん。とっても綺麗だから大丈夫。振袖も髪型もよく似合ってるわよぉ。いつもの***ちゃんは気取らない町娘って感じだけど、やっぱり女は化粧で変わるのね。今はすっかり上流階級のお嬢様に見えるわよ!」
普段の着物でやってきた***を見て、おかみさんは「そんなこったろうと思った」と言って呆れた顔をした。あっという間に身ぐるみ剥がされて、晴れ着を着つけられる。橙色の振袖には、白梅と金梅の柄が散りばめられていた。髪をアップにされ、化粧をされ、濃い口紅を引かれた。極めつけに甘い香りの香水を耳の後ろに吹きかけられる。
普段つけない香水に、***の眉間にシワが寄る。しかし、それを見たおかみさんに「これがお見合いをする時の礼儀よ***ちゃん、淑女のたしなみだから我慢なさい」と言われ、何も抵抗できなくなってしまった。
廊下から足音がして、緊張で身体を凍り付かせていると、音もなくふすまが開いた。若旦那と仲介人の男性が入ってくる。
「叔父です」と紹介された男性と、おかみさんは互いに握手を交わし、挨拶をするやいなや、にこやかに喋りはじめた。全身をこわばらせた***の耳には、ふたりの会話はほとんど聞こえなかった。とても気まずくて居心地が悪い。膝の上の手をぎゅっと握りしめて、早く終わってほしいと祈っていると、ふと小さな声が、優しく***の名前を呼んだ。
「***ちゃん」
「…………若さん」
大きな机を挟んで、向かい合って座っている。若旦那に名前を呼ばれて、***の緊張は少し解けた。しかし、一体どんな表情をしたらいいのか分からなくて、眉を八の字に下げた困り顔で見つめる。すると若旦那は、一瞬だけとても申し訳なさそうな表情を浮かべてから、困った顔で微笑み返した。
―――ああ、そうだ、若さんは優しい人だった。毎朝この静かな声で、***ちゃんって呼び止められてたんだっけ……
仲介人同士の会話は盛り上がり、おかみさんと叔父さんがずっと喋り続けている。若旦那と***は、時々求められるがままに「ええ」とか「はい」とか相づちを打つだけだった。
ぼんやりと見つめる机に、続々と運ばれてくる料理はどれも、***が見たこともないほど豪華なものだった。
―――すごいなぁ、こんな料理。きっと銀ちゃんたちなら大興奮だろうな。このすまし汁なんて、神楽ちゃんならきっと鍋から直接飲んじゃうよ。どれも上品なご馳走だけど、でも、全然食べたくない。残しちゃったら、新八くんならタッパーに詰めて持って帰るだろうな。でも、胸が苦しくて、全然食べれそうにない。この料理より銀ちゃんの作ったご飯が食べたい。甘すぎるくらい砂糖が入った卵焼きとか……
手に持ったお椀の中のすまし汁に、うつむいた自分の顔が映っていた。不安で泣きそうな顔をしている。いつまでもこんな顔をしていてはいけないと思い、唇をぎゅっと結んだ。
お椀を机に置くと、ゆれた汁の透明な飛沫が一滴、着物の合わせ襟に飛んだ。声もなく「あ、」という顔をしていると、すっと目の前にハンカチを差し出された。
「***ちゃん、大丈夫?ヤケドしてない?」
「だ、大丈夫です、若さん。ありがとうございます」
受け取った綺麗な白いハンカチは、はしっこに小さな家紋の刺繍があった。折り目正しくぴしっとした布は、透明の汚れすら拭くのが心苦しかった。そっと襟の濡れたところに押し当てた後、そのままハンカチを懐にしまった。顔を上げて「今度、洗ってお返ししますね」と笑って言うと、若旦那はホッとした顔で微笑み返した。
銀時がハンカチを持っているところなんて想像もつかない、と***はぼんやり思っていた。
若いふたりで散歩をしてくるといい、と言われて若旦那とふたりで庭園へと出る。美しい庭が物珍しくて、***はきょろきょろした。
「緑が多いから、ご実家の農園を思い出すんじゃない?」
ゆっくりとした歩調で前を歩く若旦那が、振り返って***に聞いた。座敷では緊張してろくな会話もできなかったが、広い庭でならゆったりとして、落ち着いて***も喋ることができた。
「うちは貧乏農園ですから、こんな綺麗なお庭と比べることはとても……でも、緑のなかを歩くのは気持ちがいいです」
そう言いながら、くだけた表情で笑った***を見て、若旦那も嬉しそうに笑った。ようやく普段の立ち話をする時の雰囲気を取り戻し、会話は弾んだ。若旦那はずいぶんと熱心に、***の家族や農園について質問をした。
池を悠々と泳ぐ錦鯉をはじめて見た***は、その大きさに驚いた。
「ここで釣りはできるのでしょうか?こんなに大きなお魚がとれたら、夕ご飯が豪華になります」
脳裏に万事屋の三人の顔が浮かぶ。尾頭付きの魚のお造りなんて夕食に出た日には、きっとみんな大喜びするだろう。そう思うと自然と顔がほころんだ。
しかし***のその言葉を聞いた若旦那は、驚いて絶句した直後、いきなり腹を抱えて笑いだした。
「***ちゃん、この鯉は観賞用だから、釣ったり食べたりはしないんだよ」
「え、そうなんですか。やだ私、恥ずかしいこと言ってごめんなさい。田舎者丸出しですね……」
恥ずかしさに目を泳がせてそう言った***を、若旦那は優しく見つめた。そして、そっと***の手を取って握ると、池にかかる橋を渡りはじめた。
「***ちゃん……今日はこんなところに来させて、すまない。言い訳みたいだけど、まさかこんなことになるとは、思ってなかったんだ」
橋の真ん中まで来た時に、足を止めた若旦那が、申し訳なさそうな顔で口を開いた。
「え?……あの、それってどういうことでしょう?」
「あの叔父がね、商人たる者、あきないを強固にするために、早く所帯を持って身を固めろとうるさくて……手ごろな相手を工面するから見合いをしろと何度も言うもんだから、つい勢いで、その……好きな人がいると言ってしまった。そうしたら叔父が乗り気になって、その娘にさっそく縁談を持ちかけようと、性急に話をすすめるから、どうしようもなくて……」
その言葉を聞いた瞬間に、***は心からホッとした。やっぱりそうだ、若旦那のような人が、自分なんかを好きになるはずはないと、ずっと思っていた。言い訳をする為の相手として、よく会う***を偶然選んだだけなら、納得できる。
「そうだったんですね!!も、もぉ~若さん!私、びっくりしちゃいました。それならそうと早く言ってくれれば良かったのに。私、ちょっと勘違いしてしまって、すごく緊張しちゃいました。こんな晴れ着なんて着ちゃって私、本気にしちゃうところでした」
困った顔で笑いながら***がそう言うと、若旦那はハッとした顔をする。そして慌てて***の手を、両手で強くにぎった。
「ち、ちがうんだ***ちゃん!勘違いなんかじゃない!俺は本当に……本当に***ちゃんのことが好きで、仲良くなりたいと思っていたんだよ。もっとゆっくり時間をかけて、少しずつ距離が近づいたらいいと、ずっと思ってたんだ。それがこんなことになってしまって……本当に申し訳なくて」
「えっ………や、やだ若さん、謝らないでください。そんな、私、そんなつもりじゃ……」
まるで本当に自分のことを好いているかのように、苦しそうな顔をしている若旦那を見て、***は困惑する。
若さんが、私を、好き?仲良くなりたい?そんなわけない。叔父を納得させるために、見合い相手をしてもらっただけ、と言われた方がずっとしっくりくる。
だって若旦那は、自分とは全然身分が違う。銀時だって、金持ちと庶民は相いれないと言っていた。金持ちは金持ちと、庶民は庶民と付き合うのが一番だって、あの銀時も言っていたのに。
若旦那の言葉になんと返していいのか分からない。困惑して戸惑う***の脳裏に、銀時の顔が浮かんできた。困った時にはいつも銀時が助けてくれるのに、今日はそんなことはあり得ない。そう思うと、とてつもなく心細い。
心ここにあらずという瞳で立ち尽くす***を見つめて、若旦那は少し寂しそうな顔で口を開いた。
「***ちゃんが、そんなつもりじゃないことは、俺も分かってるよ。でも……でも俺はね、***ちゃん、ずいぶん前から君のことを見ていた。俺は、自転車で坂を登ってくる***ちゃんのことを、ずっと見てたんだ……」
「わ、若さん……」
「最初の頃は、坂の半分も登れなかった。それが少しづつ距離が伸びて……まさか登りきるなんて思ってなかったから、心底びっくりしたよ。***ちゃんは知る由もないだろうけど、途中で転んで膝をすりむいてる姿を見て、ずいぶん心配した。はじめて登りきった日なんて、窓から身を乗り出して、手を叩いて喜んでしまった……」
「そんな……そんなに前から……」
知らなかった、と小さくつぶやいて***はうつむく。そこには自分の手を握る、若旦那の両手があった。その手は白くつるりとして、繊細な長い指が伸びていた。大工道具や木刀より、筆やそろばんが似合う手だと思った。
―――銀ちゃんの手はもっと大きくて、もっとごつごつしてて、もっと熱い。手の甲にも腕にも太い血管が浮き出ていて、こんな風にぎゅっと握る時はいつもちょっと乱暴で、少し痛いくらいで……
「***ちゃんが、自転車をこいでいる姿に、俺は励まされてきたんだ。自分より年下の女の子が、小さな身体で一生懸命働いている姿に……まるで何かを祈ってるみたいに、真剣な顔をして坂を登ってくる姿が、俺は………俺は、好きだったんだ、ずっと。***ちゃんのことが、ずっと、好きだった」
「………っ!!!」
真剣な顔で言われた言葉に、***は驚きで目を見開く。心臓がばくばくと痛いほど収縮した。人から告白されるなんてはじめてのことで、***はどうしたらいいのか分からない。何を言えば、どう返せば、若旦那を傷つけずにすむだろうか。
「あ、あの、若さん、本当にありがとうございます。そんなに前から見守っててくれたなんて、私、知らなくて……でも、私……」
眉を八の字に下げて、困りきった顔で、***は言い淀む。泣きそうになりながら、瞳を泳がせて若旦那を見つめる。
すると若旦那は、小さくため息をついてから、助け舟を出すように***の言いたいことを先回りして言ってくれた。
「俺のことは、そういうふうには思えないんだね?」
「………は、はい、そうです、ごめんなさ」
「それは、万事屋さんのことが、好きだから?」
「っ!!!」
突然、言われた「万事屋」という言葉に、***は絶句する。若旦那は、全て知っている、という顔をして寂しそうに笑った。
「ごめんね、***ちゃん。かぶき町で噂になることのほとんどが、俺の耳には入るんだ。店をいくつか持ってるから……***ちゃんが万事屋の旦那を好いてることは、ずいぶん皆が騒ぎ立てていたし……」
「じゃ、じゃぁ、どうして………」
見合いなんて申し込んだのか、と疑問に思ったけれど、***はあまりの驚きに、うまく喋れない。
銀時のことを言われた途端、心臓が握りつぶされたかと思うほど、ぎゅうっと締め付けられた。恥ずかしさで、顔に血がばぁっと上るのが分かる。真っ赤に染まった顔で若旦那を見つめることしかできない。
「どうして、見合いなんて申し込んだのか、だよね?俺は……俺のほうが、万事屋の旦那よりも***ちゃんのことを好いてると思ったから。あつかましいけど、坂田銀時さんより俺のほうが、***ちゃんのことを、幸せにできそうな気がしたんだ……」
淡々と静かな声で言われた言葉に、***は唖然とする。若旦那は、***が銀時を好きということだけでなく、銀時がどんな男かまで知っているのだ。
例えば「いまは仕事に精一杯で結婚なんて考えられない」とか、「お金持ちの人との交際なんて自分には荷が重い」とか、そんな理由を適当に作って、断ろうと思っていた。
しかし、どうやらそれは無理そうだった。本当のことを言わなければ、若旦那はきっと納得しない。例え傷つけることになっても、***の本当の気持ちを言わなければならない。そうでなければ、こんなにまっすぐな瞳をした人を、説得なんてできない。
―――どうして銀ちゃんには嘘をついて、若さんには本当のことを言うの。本当に好きな人には好きと言ってもらえないのに、私を好いてくれる人の気持ちは、どうして踏みにじらなきゃなんないの。銀ちゃんの言うように、若さんがろくでもない男だったら、どんなに楽だろう……
目の前の男に手を握られていても、考えるのは別の男のことだ。目の前の男にまっすぐに見つめられて、好きだと言われても、頭に浮かんでくるのは全部、銀時のことだ。
―――こんなに真剣に、若さんが思いを伝えてくれているのに、私、銀ちゃんのことしか考えてない。若さんはずっと優しいのに、私は今すぐ銀ちゃんのところへ行きたいって、ずっと思ってる。私、一体いつから、こんなにひどい人間になったんだろう……
失恋の痛みは***もよく知っている。この一年ずっと、銀時に気持ちをはぐらかされ続けているから。同じ痛みを、自分が若旦那に与えることになると思うと、押しつぶされそうに胸が苦しい。
それでも、若旦那の気持ちを受け入れることは絶対にできない自分が、とんでもなく嫌な女だと思う。そう思うと自然に、開かれた瞳にぶわっと涙が浮かんできた。
―――どうしようもないくらい、銀ちゃんを好きな気持ちが、他人を傷つけるなんて、思ってもみなかった。でも、それでも、私は……本当のことを言わなくちゃ。
顔を上げて若旦那を見つめる。泣きたいのは相手の方なのだから、自分は泣いてはいけないと思った。ぐっと息をつめて、涙をこらえながら「若さん」と言った。
「私は……私が、あの坂を登り続ける理由は、その……坂田銀時さんのことが、好きだからです」
精一杯涙をこらえて、絶対に泣かないと思っていたのに、銀時の名前を口にした瞬間、瞳から涙が溢れた。ぽたぽたと落ちる大粒の雫で、ほほが濡れるのを感じる。
銀時のことが好きで好きで、どうしたらいいのか分からない。銀時のことさえ好きでいられたら、他の人のことなんてどうでもいい。他の人がどうなったっていい。
誰も傷つけたくないと思って、ずっと生きてきたはずなのに、いつの間にか銀時のことしか考えていなかった。そんな身勝手な自分に、***は初めて気付いた。それがあまりにも自分勝手で、***は吐き気すら覚える。
ぼたぼたと大粒の涙を流しながら、***は自分の気持ちを必死で伝えた。何度も何度も「ごめんなさい」と謝った。
一生懸命に言葉を選んで喋ったけれど、何をどう伝えても、結局は若旦那を傷つけざるをえないという事実に、***の心は壊れそうなほど痛んだ。
膝がガタガタと震えて、若旦那に握られた手で支えられて、ようやく立っていられる。ただただ心細くて、哀しくて、いますぐ誰かに抱きしめてもらいたかった。
―――誰かじゃない、他の誰でもダメだ……いますぐ、銀ちゃんに抱きしめてもらいたい。そうじゃなきゃ、私は壊れてしまいそうだ……
どうしようもない女だ、と***は思った。この胸の痛みは、銀時に嘘をついた罰だ。そう思ったらますます瞳からは涙が溢れてきた。涙で覆われた視界は、何もかもがぼやけて、目の前にいる若旦那の顔も、周りの景色もよく見えなかった。
ただ、銀時の顔だけが、ずっと頭に浮かんで消えなかった。
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【第25話 どうしようもない女】end
緑のコケがむした大きな岩や、季節ごとに色づく木や植物。青い芝生がどこまでも広がり、大きな池の上には、赤い橋まで架かっていた。障子を開け放った部屋から見える広い庭園は、どこまでも金がかかり、手入れが行き届いている。
見合いの場所として指定された料亭は、思っていた以上に格式高い場所で、庶民的な***は居心地が悪い。
案内されて入った和室に、まだ見合い相手は来ていなかった。すぐにでも料理が運ばれてきそうなほど、準備の整った大きな机の前にちょこんと正座して、***は縮こまった。
「あの、おかみさん、なんていうか私……場違いじゃないですか?」
「そんなことないわよ、***ちゃん。とっても綺麗だから大丈夫。振袖も髪型もよく似合ってるわよぉ。いつもの***ちゃんは気取らない町娘って感じだけど、やっぱり女は化粧で変わるのね。今はすっかり上流階級のお嬢様に見えるわよ!」
普段の着物でやってきた***を見て、おかみさんは「そんなこったろうと思った」と言って呆れた顔をした。あっという間に身ぐるみ剥がされて、晴れ着を着つけられる。橙色の振袖には、白梅と金梅の柄が散りばめられていた。髪をアップにされ、化粧をされ、濃い口紅を引かれた。極めつけに甘い香りの香水を耳の後ろに吹きかけられる。
普段つけない香水に、***の眉間にシワが寄る。しかし、それを見たおかみさんに「これがお見合いをする時の礼儀よ***ちゃん、淑女のたしなみだから我慢なさい」と言われ、何も抵抗できなくなってしまった。
廊下から足音がして、緊張で身体を凍り付かせていると、音もなくふすまが開いた。若旦那と仲介人の男性が入ってくる。
「叔父です」と紹介された男性と、おかみさんは互いに握手を交わし、挨拶をするやいなや、にこやかに喋りはじめた。全身をこわばらせた***の耳には、ふたりの会話はほとんど聞こえなかった。とても気まずくて居心地が悪い。膝の上の手をぎゅっと握りしめて、早く終わってほしいと祈っていると、ふと小さな声が、優しく***の名前を呼んだ。
「***ちゃん」
「…………若さん」
大きな机を挟んで、向かい合って座っている。若旦那に名前を呼ばれて、***の緊張は少し解けた。しかし、一体どんな表情をしたらいいのか分からなくて、眉を八の字に下げた困り顔で見つめる。すると若旦那は、一瞬だけとても申し訳なさそうな表情を浮かべてから、困った顔で微笑み返した。
―――ああ、そうだ、若さんは優しい人だった。毎朝この静かな声で、***ちゃんって呼び止められてたんだっけ……
仲介人同士の会話は盛り上がり、おかみさんと叔父さんがずっと喋り続けている。若旦那と***は、時々求められるがままに「ええ」とか「はい」とか相づちを打つだけだった。
ぼんやりと見つめる机に、続々と運ばれてくる料理はどれも、***が見たこともないほど豪華なものだった。
―――すごいなぁ、こんな料理。きっと銀ちゃんたちなら大興奮だろうな。このすまし汁なんて、神楽ちゃんならきっと鍋から直接飲んじゃうよ。どれも上品なご馳走だけど、でも、全然食べたくない。残しちゃったら、新八くんならタッパーに詰めて持って帰るだろうな。でも、胸が苦しくて、全然食べれそうにない。この料理より銀ちゃんの作ったご飯が食べたい。甘すぎるくらい砂糖が入った卵焼きとか……
手に持ったお椀の中のすまし汁に、うつむいた自分の顔が映っていた。不安で泣きそうな顔をしている。いつまでもこんな顔をしていてはいけないと思い、唇をぎゅっと結んだ。
お椀を机に置くと、ゆれた汁の透明な飛沫が一滴、着物の合わせ襟に飛んだ。声もなく「あ、」という顔をしていると、すっと目の前にハンカチを差し出された。
「***ちゃん、大丈夫?ヤケドしてない?」
「だ、大丈夫です、若さん。ありがとうございます」
受け取った綺麗な白いハンカチは、はしっこに小さな家紋の刺繍があった。折り目正しくぴしっとした布は、透明の汚れすら拭くのが心苦しかった。そっと襟の濡れたところに押し当てた後、そのままハンカチを懐にしまった。顔を上げて「今度、洗ってお返ししますね」と笑って言うと、若旦那はホッとした顔で微笑み返した。
銀時がハンカチを持っているところなんて想像もつかない、と***はぼんやり思っていた。
若いふたりで散歩をしてくるといい、と言われて若旦那とふたりで庭園へと出る。美しい庭が物珍しくて、***はきょろきょろした。
「緑が多いから、ご実家の農園を思い出すんじゃない?」
ゆっくりとした歩調で前を歩く若旦那が、振り返って***に聞いた。座敷では緊張してろくな会話もできなかったが、広い庭でならゆったりとして、落ち着いて***も喋ることができた。
「うちは貧乏農園ですから、こんな綺麗なお庭と比べることはとても……でも、緑のなかを歩くのは気持ちがいいです」
そう言いながら、くだけた表情で笑った***を見て、若旦那も嬉しそうに笑った。ようやく普段の立ち話をする時の雰囲気を取り戻し、会話は弾んだ。若旦那はずいぶんと熱心に、***の家族や農園について質問をした。
池を悠々と泳ぐ錦鯉をはじめて見た***は、その大きさに驚いた。
「ここで釣りはできるのでしょうか?こんなに大きなお魚がとれたら、夕ご飯が豪華になります」
脳裏に万事屋の三人の顔が浮かぶ。尾頭付きの魚のお造りなんて夕食に出た日には、きっとみんな大喜びするだろう。そう思うと自然と顔がほころんだ。
しかし***のその言葉を聞いた若旦那は、驚いて絶句した直後、いきなり腹を抱えて笑いだした。
「***ちゃん、この鯉は観賞用だから、釣ったり食べたりはしないんだよ」
「え、そうなんですか。やだ私、恥ずかしいこと言ってごめんなさい。田舎者丸出しですね……」
恥ずかしさに目を泳がせてそう言った***を、若旦那は優しく見つめた。そして、そっと***の手を取って握ると、池にかかる橋を渡りはじめた。
「***ちゃん……今日はこんなところに来させて、すまない。言い訳みたいだけど、まさかこんなことになるとは、思ってなかったんだ」
橋の真ん中まで来た時に、足を止めた若旦那が、申し訳なさそうな顔で口を開いた。
「え?……あの、それってどういうことでしょう?」
「あの叔父がね、商人たる者、あきないを強固にするために、早く所帯を持って身を固めろとうるさくて……手ごろな相手を工面するから見合いをしろと何度も言うもんだから、つい勢いで、その……好きな人がいると言ってしまった。そうしたら叔父が乗り気になって、その娘にさっそく縁談を持ちかけようと、性急に話をすすめるから、どうしようもなくて……」
その言葉を聞いた瞬間に、***は心からホッとした。やっぱりそうだ、若旦那のような人が、自分なんかを好きになるはずはないと、ずっと思っていた。言い訳をする為の相手として、よく会う***を偶然選んだだけなら、納得できる。
「そうだったんですね!!も、もぉ~若さん!私、びっくりしちゃいました。それならそうと早く言ってくれれば良かったのに。私、ちょっと勘違いしてしまって、すごく緊張しちゃいました。こんな晴れ着なんて着ちゃって私、本気にしちゃうところでした」
困った顔で笑いながら***がそう言うと、若旦那はハッとした顔をする。そして慌てて***の手を、両手で強くにぎった。
「ち、ちがうんだ***ちゃん!勘違いなんかじゃない!俺は本当に……本当に***ちゃんのことが好きで、仲良くなりたいと思っていたんだよ。もっとゆっくり時間をかけて、少しずつ距離が近づいたらいいと、ずっと思ってたんだ。それがこんなことになってしまって……本当に申し訳なくて」
「えっ………や、やだ若さん、謝らないでください。そんな、私、そんなつもりじゃ……」
まるで本当に自分のことを好いているかのように、苦しそうな顔をしている若旦那を見て、***は困惑する。
若さんが、私を、好き?仲良くなりたい?そんなわけない。叔父を納得させるために、見合い相手をしてもらっただけ、と言われた方がずっとしっくりくる。
だって若旦那は、自分とは全然身分が違う。銀時だって、金持ちと庶民は相いれないと言っていた。金持ちは金持ちと、庶民は庶民と付き合うのが一番だって、あの銀時も言っていたのに。
若旦那の言葉になんと返していいのか分からない。困惑して戸惑う***の脳裏に、銀時の顔が浮かんできた。困った時にはいつも銀時が助けてくれるのに、今日はそんなことはあり得ない。そう思うと、とてつもなく心細い。
心ここにあらずという瞳で立ち尽くす***を見つめて、若旦那は少し寂しそうな顔で口を開いた。
「***ちゃんが、そんなつもりじゃないことは、俺も分かってるよ。でも……でも俺はね、***ちゃん、ずいぶん前から君のことを見ていた。俺は、自転車で坂を登ってくる***ちゃんのことを、ずっと見てたんだ……」
「わ、若さん……」
「最初の頃は、坂の半分も登れなかった。それが少しづつ距離が伸びて……まさか登りきるなんて思ってなかったから、心底びっくりしたよ。***ちゃんは知る由もないだろうけど、途中で転んで膝をすりむいてる姿を見て、ずいぶん心配した。はじめて登りきった日なんて、窓から身を乗り出して、手を叩いて喜んでしまった……」
「そんな……そんなに前から……」
知らなかった、と小さくつぶやいて***はうつむく。そこには自分の手を握る、若旦那の両手があった。その手は白くつるりとして、繊細な長い指が伸びていた。大工道具や木刀より、筆やそろばんが似合う手だと思った。
―――銀ちゃんの手はもっと大きくて、もっとごつごつしてて、もっと熱い。手の甲にも腕にも太い血管が浮き出ていて、こんな風にぎゅっと握る時はいつもちょっと乱暴で、少し痛いくらいで……
「***ちゃんが、自転車をこいでいる姿に、俺は励まされてきたんだ。自分より年下の女の子が、小さな身体で一生懸命働いている姿に……まるで何かを祈ってるみたいに、真剣な顔をして坂を登ってくる姿が、俺は………俺は、好きだったんだ、ずっと。***ちゃんのことが、ずっと、好きだった」
「………っ!!!」
真剣な顔で言われた言葉に、***は驚きで目を見開く。心臓がばくばくと痛いほど収縮した。人から告白されるなんてはじめてのことで、***はどうしたらいいのか分からない。何を言えば、どう返せば、若旦那を傷つけずにすむだろうか。
「あ、あの、若さん、本当にありがとうございます。そんなに前から見守っててくれたなんて、私、知らなくて……でも、私……」
眉を八の字に下げて、困りきった顔で、***は言い淀む。泣きそうになりながら、瞳を泳がせて若旦那を見つめる。
すると若旦那は、小さくため息をついてから、助け舟を出すように***の言いたいことを先回りして言ってくれた。
「俺のことは、そういうふうには思えないんだね?」
「………は、はい、そうです、ごめんなさ」
「それは、万事屋さんのことが、好きだから?」
「っ!!!」
突然、言われた「万事屋」という言葉に、***は絶句する。若旦那は、全て知っている、という顔をして寂しそうに笑った。
「ごめんね、***ちゃん。かぶき町で噂になることのほとんどが、俺の耳には入るんだ。店をいくつか持ってるから……***ちゃんが万事屋の旦那を好いてることは、ずいぶん皆が騒ぎ立てていたし……」
「じゃ、じゃぁ、どうして………」
見合いなんて申し込んだのか、と疑問に思ったけれど、***はあまりの驚きに、うまく喋れない。
銀時のことを言われた途端、心臓が握りつぶされたかと思うほど、ぎゅうっと締め付けられた。恥ずかしさで、顔に血がばぁっと上るのが分かる。真っ赤に染まった顔で若旦那を見つめることしかできない。
「どうして、見合いなんて申し込んだのか、だよね?俺は……俺のほうが、万事屋の旦那よりも***ちゃんのことを好いてると思ったから。あつかましいけど、坂田銀時さんより俺のほうが、***ちゃんのことを、幸せにできそうな気がしたんだ……」
淡々と静かな声で言われた言葉に、***は唖然とする。若旦那は、***が銀時を好きということだけでなく、銀時がどんな男かまで知っているのだ。
例えば「いまは仕事に精一杯で結婚なんて考えられない」とか、「お金持ちの人との交際なんて自分には荷が重い」とか、そんな理由を適当に作って、断ろうと思っていた。
しかし、どうやらそれは無理そうだった。本当のことを言わなければ、若旦那はきっと納得しない。例え傷つけることになっても、***の本当の気持ちを言わなければならない。そうでなければ、こんなにまっすぐな瞳をした人を、説得なんてできない。
―――どうして銀ちゃんには嘘をついて、若さんには本当のことを言うの。本当に好きな人には好きと言ってもらえないのに、私を好いてくれる人の気持ちは、どうして踏みにじらなきゃなんないの。銀ちゃんの言うように、若さんがろくでもない男だったら、どんなに楽だろう……
目の前の男に手を握られていても、考えるのは別の男のことだ。目の前の男にまっすぐに見つめられて、好きだと言われても、頭に浮かんでくるのは全部、銀時のことだ。
―――こんなに真剣に、若さんが思いを伝えてくれているのに、私、銀ちゃんのことしか考えてない。若さんはずっと優しいのに、私は今すぐ銀ちゃんのところへ行きたいって、ずっと思ってる。私、一体いつから、こんなにひどい人間になったんだろう……
失恋の痛みは***もよく知っている。この一年ずっと、銀時に気持ちをはぐらかされ続けているから。同じ痛みを、自分が若旦那に与えることになると思うと、押しつぶされそうに胸が苦しい。
それでも、若旦那の気持ちを受け入れることは絶対にできない自分が、とんでもなく嫌な女だと思う。そう思うと自然に、開かれた瞳にぶわっと涙が浮かんできた。
―――どうしようもないくらい、銀ちゃんを好きな気持ちが、他人を傷つけるなんて、思ってもみなかった。でも、それでも、私は……本当のことを言わなくちゃ。
顔を上げて若旦那を見つめる。泣きたいのは相手の方なのだから、自分は泣いてはいけないと思った。ぐっと息をつめて、涙をこらえながら「若さん」と言った。
「私は……私が、あの坂を登り続ける理由は、その……坂田銀時さんのことが、好きだからです」
精一杯涙をこらえて、絶対に泣かないと思っていたのに、銀時の名前を口にした瞬間、瞳から涙が溢れた。ぽたぽたと落ちる大粒の雫で、ほほが濡れるのを感じる。
銀時のことが好きで好きで、どうしたらいいのか分からない。銀時のことさえ好きでいられたら、他の人のことなんてどうでもいい。他の人がどうなったっていい。
誰も傷つけたくないと思って、ずっと生きてきたはずなのに、いつの間にか銀時のことしか考えていなかった。そんな身勝手な自分に、***は初めて気付いた。それがあまりにも自分勝手で、***は吐き気すら覚える。
ぼたぼたと大粒の涙を流しながら、***は自分の気持ちを必死で伝えた。何度も何度も「ごめんなさい」と謝った。
一生懸命に言葉を選んで喋ったけれど、何をどう伝えても、結局は若旦那を傷つけざるをえないという事実に、***の心は壊れそうなほど痛んだ。
膝がガタガタと震えて、若旦那に握られた手で支えられて、ようやく立っていられる。ただただ心細くて、哀しくて、いますぐ誰かに抱きしめてもらいたかった。
―――誰かじゃない、他の誰でもダメだ……いますぐ、銀ちゃんに抱きしめてもらいたい。そうじゃなきゃ、私は壊れてしまいそうだ……
どうしようもない女だ、と***は思った。この胸の痛みは、銀時に嘘をついた罰だ。そう思ったらますます瞳からは涙が溢れてきた。涙で覆われた視界は、何もかもがぼやけて、目の前にいる若旦那の顔も、周りの景色もよく見えなかった。
ただ、銀時の顔だけが、ずっと頭に浮かんで消えなかった。
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【第25話 どうしようもない女】end