銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
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【第20話 細い腕のなか】
その日は朝からツイていた。配達中に通る長い登り坂を、ついに自転車で登りきることができた。高台に立ち、信じられない気持ちで登ってきた坂道を見下ろしていると、後ろから声をかけられた。
それはニコニコ牛乳のお得意様で、毎朝***が牛乳を配達する、大きなお屋敷に住む若旦那だった。若旦那は、***が初めて坂道を登りきったことを知り、一緒に喜んでくれた。「めでたい日の記念だから」と言って、今度から配達する牛乳を、***農園のものにしてほしいと言った。***は跳ねるように喜んで、その申し出を受け入れた。
配達を終えて坂を下りながら街を見下ろすと、朝日に照らされたかぶき町が美しくて、心から愛おしく思えた。今日はきっと素敵な一日になる。そう思いながら自転車のペダルをこぐと、酷使した左の足首がチクリと痛んだ。
スーパーのアルバイト中に足首の痛みは強まっていった。足を引きずるような歩き方をする***を見て、普段は人使いの荒い店長が、珍しく病院へ行くように声をかけてきた。「今日は有給にしとくからさ」と優しく言う店長を見て、やっぱり今日はすごくいい日だ、と***は思った。
自転車はこげなかったので、バスで大江戸病院へ向かうことにする。ゆっくりと歩いてバス停へ向かうと、既に行列ができていた。バスはなかなか来ない。目の前の大通りをタクシーが走っていく。隣に並んだ老婦人が、ふと***に声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、このバスはなかなか来ないねぇ……」
「本当ですねぇ、お金に余裕さえあれば、タクシーに乗るんですけどねぇ」
見知らぬ者同士で話しながら、くすくす笑い合うと自然と胸が温かくなった。バスを待つ時間も苦ではない。
今日は本当にいい日だ、と思いながら***は再び大通りへと視線を戻した。数車線ある大きな通りを、自動車やバイクがびゅんびゅんと行き交っていた。
その大きな通りの向こう側に、あるものを見つけて***は目を見開く。それが目に飛び込んできた瞬間に、世界はスローモーションになった。話しかけてくる老婦人の声が聞こえなくなる。行き交う車の轟音も、遠ざかっていく。
じっと見つめた視線の先に、見慣れた銀色の髪がゆらゆらと揺れていた。
大通りを挟んだ反対側の歩道を、銀時が歩いていた。普通に歩いているだけなら、大好きな人を見つけた喜びで、***の胸は高鳴っただろう。足の痛みも忘れて駆け寄り、弾んだ声で「銀ちゃん!」と呼びかけたと思う。
しかし今の***はひとことも声を発することができない。驚きのあまりノドが引きつって、息もできない。駆け出したい気持ちで一歩踏み出した足が、急にすくんで止まってしまい、そこから一歩も動けない。
―――ゆらゆらと頭を揺らしながら歩いている銀時の、腰から下が真っ赤に染まっていた――――
その赤が流れる血だと気付いた瞬間、今日はとんでもなくツイてない日だと***は思った。
こんな日は全然ステキでも良い日でもない。きっと今日は二度と思い出したくない日になるだろう。そう考えながら***は、遠い通りの向こうでゆっくりと歩く銀時の、青ざめた横顔を見つめていた。
その日は朝からツイてなかった。徹夜で酒を飲み、何度も吐きながら万事屋に帰宅した途端、事務所の電話が鳴った。依頼人は若い男で「喧嘩に巻き込まれて追われてんだ。隠れてるが見つかったら殺されちまう!」と、切羽詰まった声でまくしたてた。
面倒くせぇなと思いながらも、あまりに必死な様子の依頼人が憐れになり、銀時は場所を聞き出すと「すぐに行くからそこを動くな」と言って、電話を切った。
運悪くも早朝で、新八はまだ出勤しておらず、神楽は押し入れで爆睡していた。「チッ」と舌打ちをすると、割れそうに痛む頭と吐き気をこらえながら、万事屋を出た。
原付を飛ばして言われた場所に着くと、既に依頼人は男たちに囲まれていた。今まさに斬られそうになっている状況を見て、オイオイこんなに人数いるなんて聞いてねぇけど、とうんざりする。
刀を振り上げている浪人に向かって原付で飛び込むと、数人を倒すことはできたが、同時に原付が大破して使い物にならなくなった。
「オイィィィ!コレェェェ!どーしてくれんだ俺の原付ィ!源外のジジイにまた高ぇ金払うはめになんじゃねーかコノヤロー!!!」
叫びながら、今日はつくづくツイてないと銀時は思う。依頼人の男を脇に抱えて走り出すと、細い路地へと逃げ込んだ。報酬の金を受け取り、男を逃がしてやると、大人数の浪士たちに向き合った。路地だからひとりづつ相手が出来るし楽勝だと踏んで、木刀を抜く。切りかかってくる男たちはいとも容易く倒れたが、最後のひとりだけは腕に覚えがあり、しばらくやりあうはめになった。
あぁ、めんどくせぇと思いながら、男が付き出してきた白刃を避けようとした瞬間、銀時の視界に信じられないものが飛び込んできた。
「なっ……!!!」
銀時の真横にあった物置のかげに、小さな子供がふたりしゃがんで隠れていた。口を押さえた子供は、怯えた目で銀時を見上げていた。避ければ子供の頭が飛ぶと思い、咄嗟に身体で受けると、付き出された白刃は銀時の脇腹に深く突き刺さった。刺さった刀を手でつかんで相手の動きを封じると、その頭に木刀を振り下ろした。浪人は呆気なく倒れた。
「ってぇなチクショー……」
腹から刀を抜いて投げ捨てる。太い血管が切られて大量の血が吹き出した。依頼人の男は既に逃げて、周りの浪士たちはみな気を失っている。意識があるのは自分と、ガタガタ震えるふたりの子供だけ。原付も壊れて、どこへも行くことができない。
最悪だと思いつつ病院へ向かって銀時は歩き出す。後ろから子供が追いかけてくる。シッシッと手で追い払ったが、どこまでも離れずに付いてきた。
昨夜は酒しか飲んでいないから、身体に血液が少ない。わき腹からはドクドクと血が溢れ続けている。こんなことなら家を出る前に貯めといたチョコを食ってくるんだった、と銀時は後悔した。
よろける足を両脇から子供に支えられ、大通りに出る。テキトーに車を借りて病院へ行くかと思っていたが、血だらけの銀時を見て、誰も彼もがぎょっとして、逃げるように離れて行った。
今日は本当にツイてない厄日だと、銀時は思う。変な依頼と変なガキのせいで大ケガして、徹夜明けの頭は思考もままならない。不審なものを見るような周りの目にもイラつく。
っんだよ、俺はなんも悪いことしてねぇよ。運が悪かっただけだっつーの!
ふらふらと歩きながら、何か手っ取り早く病院に行ける手段は無いかと周りを見回す。広い車道には、沢山の自動車が行き交っているのに、そのどれもが銀時の存在を無視するように、走り去っていく。
その大きな通りの向こう側に、あるものを見つけて銀時は目を見開く。それが目に飛び込んできた瞬間に、世界はスローモーションになった。足にしがみつく子供の手の感覚がなくなる。わき腹の傷の痛みも遠のいていく。じっと見つめた視線の先に、***がいた。
動きを止めた***が、じっと銀時のことを見つめていた。なんでアイツあんなとこにいんの?と思う銀時と、目が合った瞬間、***はハッとした顔で、車の行き交う車道へと飛び出してきた。
スローモーションの世界で銀時は、まるで神の奇跡を見ているような気がした。***は一瞬も銀時から目をそらさずに、真っすぐに道路を横切って走ってきた。ひとつの車にもぶつからずに。
あんなに沢山の車が高速で行き交う通りで、なにひとつとして***の邪魔をするものは無かった。車の存在を無視するかのように、***はなんのためらいもなく一直線に銀時へと向かって走ってきた。
ただ***の目には銀時しか映っていなかった。そしてそれを見つめる銀時の目にも、***しか映っていなかった。
息を切らして辿り着いたはいいが、銀時のあまりに酷い状況に、***は言葉を失って、うまく喋れなかった。
「ぎっ、銀ちゃん、どうして……すごい血が出て……」
「お~、***、お前なんでこんなとこいんの?っつーかいきなり道路に飛び出してんじゃねぇよ、危ねぇだろーが!」
「そんなこと今は……」
どうしたいいか分からずにオロオロする***と、大ケガをしているのに全く真剣みのない銀時に向かって、子供のうちの一人が突然大きな声で話しかけた。
「おねーちゃん!おにーちゃんは僕たちをかばって刺されちゃったの!すごい血が出てるんだ、早くびょーいんに連れてってあげて!おにーちゃん、死んじゃうよぉっ!!!」
その子供の言葉に***は肩をびくりと震わせた。目を見開いて子供を見た後、「分かった!」と大きくうなずく。そこからの***の動きは、誰にも止められないほど早かった。
銀時が止める間もなく、***は再び車道へと飛び出して行き、偶然走ってきたタクシーの前に両手を広げて立った。そして通りじゅうに響き渡る大きな声で、叫んだ。
「お願い、止まってぇぇぇ!!!!!」
急ブレーキをかけたタクシーが、小さな身体すれすれで止まった。驚いた運転手が声を上げる前に、***は銀時の手を引くと、車内へ転がり込んだ。子供たちに「おにーちゃんは絶対助けるから大丈夫だよ!」と言って、ドアをバタンと閉めた。
大量の血を流す銀時を見て、怯えた顔をする運転手に、身を乗り出した***が声をかけた。
「運転手さん!大江戸病院に急いでください!お金は倍払います!信号無視してでも、最速で向かってください!!!」
***の勢いに押された運転手が、アクセルを強く踏み込んだ。
わき腹を抑えてシートにもたれていた銀時の身体が、ずるずると***に向かって落ちてくる。慌てて頭を胸で受け止めると、そっと銀時の肩に腕を回して、座席に仰向けにさせた。
抱き留めた銀時の身体から、力がどんどん抜けていく。胸にくたりと預けられた顔は、血の気が引いて青ざめている。意識を失う寸前のように、少しずつまぶたが下がっていく。
「銀ちゃん!目を閉じちゃ駄目!ねぇ、起きてて!しっかりしてください!!」
「あ~?っんだようるせぇな、銀さん二日酔いで頭が割れそうなんだけどぉ。徹夜で飲んでたから、今すぐ夢の世界へフライアウェイしたいんですけどぉ」
血で赤く染まり、てらてらと光る銀時の手が、わき腹を抑えている。それでもドクドクと流れ出る血が、銀時の身体の下の***の着物までぐっしょりと濡らした。迷いなく***は銀時の手の上に自分の手を重ねて、ぎゅっと強く押さえつけた。
「イダダダダダッ、おい、テメー***、それわざとか!そこ穴空いてっからもうちょい優しく抑えろよ!痛ぇだろーが!!」
「駄目です!ちゃんと押さえないと血が止まらないから!ねぇ、銀ちゃんお願い、目を開けてて!寝ないでよ!!」
「こんなにぎゅうぎゅう傷口押されて、痛くて寝られるかよ!っつーか***、さっきからうるせぇよ、こっちはケガ人だぞ。もうちょい優しく身体をさするとかできねぇのか……」
憎まれ口を叩きながらも、だんだんと銀時のまぶたが落ちて、もう完全に瞳を閉じている。口だけは達者で、***が何か話しかければ返事が返ってくることだけが、救いだった。
「ぎ、銀ちゃん待って、寝ないで!あの!歌を、歌をうたいましょう!ほらドラ〇もんの歌、いきますよ!!」
「はぁぁぁ!?うるせぇって***!少し黙れよ!」
「デレレデレレ、デレレデレレ、デレレデレレ、デレレレレ……こんなこっといいな~でっきたらいいな~!あんな夢こんな夢いっぱいある~けど~~!ほら、銀ちゃんも歌って!!」
「歌うかよ馬鹿!オイィィ、誰かこいつを四次元ポケットんなかにぶち込んで、永遠にしまっといてくれよォォォ!!」
「ああっ、もぉっ!銀ちゃんが歌ってくれないならいいです!運転手さん、一緒に歌ってください!なるべくおっきな声で!!お金、倍の倍払いますからッ!!!」
「えぇ!?お客さんホントに払ってくれます?それじゃ、しょうがないなぁ。そ、そ~らを自由に飛びたいなぁ~……」
運転手まで巻き込んで、なんとか銀時の意識を保とうと***は奮闘した。眠たそうな目をうっすらと開けた銀時が、「助けてドラ〇も~ん!このタクシーにはおかしな人しかいないよぉ!!!」と叫んだ。
その姿を見た***が、ホッとしたのも束の間、わき腹を抑えていた銀時の手から力が抜けて、ずるりと落ちた。
「あっ」と大きな声を出してから、***は自分の手だけで銀時の傷口を抑えた。手のひらに直接血流を感じる。どくんどくん、と心拍に合わせるように大量の血が流れ出てくる。
***の意識はふっと一瞬遠のいて、眩暈を起こしそうになる。それをぐっとこらえて、口だけは必死に動かして歌をうたいつづけた。だけど***には、自分がちゃんと声を出せているのかどうかも、もうよく分からなかった。
「銀ちゃん、ね、ねぇ、起きてっ!目開けて!お願い、寝ないでっ!寝ちゃっだめ、だよぉっ……」
息がつまってうまく喋れない。ケガをしているのは銀時なのに、なぜか息も絶え絶えなのは自分の方だ。心が焦りに支配されて、声の出し方も表情の作り方も分からない。
そんな***の様子に気付いたのか、シートに落ちていた血濡れの銀時の手が動いた。血だらけの大きな手は一直線に***の顔へと伸びてきて、右のほほを包んだ。見下ろすと青ざめた顔でふっと笑って、閉じていた瞳が開いた。
いつもの死んだ魚のような赤い瞳が、優しい眼差しで***をじっと見つめた。
「***、大丈夫だから、っんな顔すんなっつーの」
静かな声でそれだけ言うと、銀時は再び瞳を閉じた。ほほに添えられていた手も離れて、すとんとシートへと落ちる。銀時の手が撫でていったほほに、生温かい血液がべったりと残った。息を吸うと、むっとした濃い鉄の匂いが身体に入ってきた。
***の唇はぶるぶると震えて、それでも必死に「デレレデレレ……」と歌い続けていた。そんなことしかできない自分が、悔しくて仕方がなかった。
細い腕の中で、***の胸に抱かれた銀時は、眠くて眠くて仕方がなかった。昨夜は一睡もせずに悪い酒を飲んだ。朝から動き回って身体は疲れたと叫んでいる。わき腹の傷は深いが、この程度なら多分大丈夫だと、経験から分かる。
目を閉じると視覚を使わない分、他の感覚が研ぎ澄まされた。頭上から「みんなみんなみ~んな、叶えてくれる、不思議なポッケで叶えてく~れ~る~」と歌い続ける***の声が聞こえる。さっき一瞬見た***の顔は真っ青で、自分より先にぶっ倒れそうだったと銀時は思った。
背中の下に敷かれた***の太ももが温かい。その温かさが身体中に広がって心地よい。細い腕で後ろから抱きかかえられて、頭や首の後ろに、***の身体の、ふにふにとした柔らかさを感じる。
―――あれ、こいつって小さくて細くて骨ばってて、もっと弱々しくて頼りないんじゃなかったっけ?いつからこんなに温かくてふわふわになったんだ?―――
目を閉じて能天気にそんなことを考えていると、だんだん傷の痛みも意識も遠のいていった。肩に回された***の腕だけが、力強く銀時を抱き寄せたような気がした。
こんな生き方をしてる自分は、いつかろくでもない場所で、ろくでもない死に方をするだろうと、前々から思っていた。
でも、もしも、いつか永遠に瞳を閉じる時に、こんな風に***の腕に抱かれて、温かく柔らかい身体に包まれて眠りにつくことができたら、最高に幸せじゃねぇかと、薄れていく意識のなかで銀時は考えていた。
―――いま、このまま、コイツのこの腕んなかで死ねたら、今日は最高にツイてるな。パチンコで大量に玉を出すよりも、競馬で大勝ちするよりも、ここで眠れたほうが幸運だ。でも今日は全然ツイてねぇ厄日だから、そう上手くはいかねぇだろ……―――
耳から遠ざかっていく***の歌声が、少しだけ震えたような気がした。おい、そのふざけた歌いつまでうたってんだよ、とおかしくて笑いそうになったが、実際に笑うことはできなかった。強い眠気が襲ってきて、とても抗うことが出来ない。
意識がぷつりと途切れる寸前、真っ暗闇のなかで「銀ちゃん」と叫ぶ泣きそうな声だけが、聞こえたような気がした。
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【第20話 細い腕のなか】end
その日は朝からツイていた。配達中に通る長い登り坂を、ついに自転車で登りきることができた。高台に立ち、信じられない気持ちで登ってきた坂道を見下ろしていると、後ろから声をかけられた。
それはニコニコ牛乳のお得意様で、毎朝***が牛乳を配達する、大きなお屋敷に住む若旦那だった。若旦那は、***が初めて坂道を登りきったことを知り、一緒に喜んでくれた。「めでたい日の記念だから」と言って、今度から配達する牛乳を、***農園のものにしてほしいと言った。***は跳ねるように喜んで、その申し出を受け入れた。
配達を終えて坂を下りながら街を見下ろすと、朝日に照らされたかぶき町が美しくて、心から愛おしく思えた。今日はきっと素敵な一日になる。そう思いながら自転車のペダルをこぐと、酷使した左の足首がチクリと痛んだ。
スーパーのアルバイト中に足首の痛みは強まっていった。足を引きずるような歩き方をする***を見て、普段は人使いの荒い店長が、珍しく病院へ行くように声をかけてきた。「今日は有給にしとくからさ」と優しく言う店長を見て、やっぱり今日はすごくいい日だ、と***は思った。
自転車はこげなかったので、バスで大江戸病院へ向かうことにする。ゆっくりと歩いてバス停へ向かうと、既に行列ができていた。バスはなかなか来ない。目の前の大通りをタクシーが走っていく。隣に並んだ老婦人が、ふと***に声をかけてきた。
「お嬢ちゃん、このバスはなかなか来ないねぇ……」
「本当ですねぇ、お金に余裕さえあれば、タクシーに乗るんですけどねぇ」
見知らぬ者同士で話しながら、くすくす笑い合うと自然と胸が温かくなった。バスを待つ時間も苦ではない。
今日は本当にいい日だ、と思いながら***は再び大通りへと視線を戻した。数車線ある大きな通りを、自動車やバイクがびゅんびゅんと行き交っていた。
その大きな通りの向こう側に、あるものを見つけて***は目を見開く。それが目に飛び込んできた瞬間に、世界はスローモーションになった。話しかけてくる老婦人の声が聞こえなくなる。行き交う車の轟音も、遠ざかっていく。
じっと見つめた視線の先に、見慣れた銀色の髪がゆらゆらと揺れていた。
大通りを挟んだ反対側の歩道を、銀時が歩いていた。普通に歩いているだけなら、大好きな人を見つけた喜びで、***の胸は高鳴っただろう。足の痛みも忘れて駆け寄り、弾んだ声で「銀ちゃん!」と呼びかけたと思う。
しかし今の***はひとことも声を発することができない。驚きのあまりノドが引きつって、息もできない。駆け出したい気持ちで一歩踏み出した足が、急にすくんで止まってしまい、そこから一歩も動けない。
―――ゆらゆらと頭を揺らしながら歩いている銀時の、腰から下が真っ赤に染まっていた――――
その赤が流れる血だと気付いた瞬間、今日はとんでもなくツイてない日だと***は思った。
こんな日は全然ステキでも良い日でもない。きっと今日は二度と思い出したくない日になるだろう。そう考えながら***は、遠い通りの向こうでゆっくりと歩く銀時の、青ざめた横顔を見つめていた。
その日は朝からツイてなかった。徹夜で酒を飲み、何度も吐きながら万事屋に帰宅した途端、事務所の電話が鳴った。依頼人は若い男で「喧嘩に巻き込まれて追われてんだ。隠れてるが見つかったら殺されちまう!」と、切羽詰まった声でまくしたてた。
面倒くせぇなと思いながらも、あまりに必死な様子の依頼人が憐れになり、銀時は場所を聞き出すと「すぐに行くからそこを動くな」と言って、電話を切った。
運悪くも早朝で、新八はまだ出勤しておらず、神楽は押し入れで爆睡していた。「チッ」と舌打ちをすると、割れそうに痛む頭と吐き気をこらえながら、万事屋を出た。
原付を飛ばして言われた場所に着くと、既に依頼人は男たちに囲まれていた。今まさに斬られそうになっている状況を見て、オイオイこんなに人数いるなんて聞いてねぇけど、とうんざりする。
刀を振り上げている浪人に向かって原付で飛び込むと、数人を倒すことはできたが、同時に原付が大破して使い物にならなくなった。
「オイィィィ!コレェェェ!どーしてくれんだ俺の原付ィ!源外のジジイにまた高ぇ金払うはめになんじゃねーかコノヤロー!!!」
叫びながら、今日はつくづくツイてないと銀時は思う。依頼人の男を脇に抱えて走り出すと、細い路地へと逃げ込んだ。報酬の金を受け取り、男を逃がしてやると、大人数の浪士たちに向き合った。路地だからひとりづつ相手が出来るし楽勝だと踏んで、木刀を抜く。切りかかってくる男たちはいとも容易く倒れたが、最後のひとりだけは腕に覚えがあり、しばらくやりあうはめになった。
あぁ、めんどくせぇと思いながら、男が付き出してきた白刃を避けようとした瞬間、銀時の視界に信じられないものが飛び込んできた。
「なっ……!!!」
銀時の真横にあった物置のかげに、小さな子供がふたりしゃがんで隠れていた。口を押さえた子供は、怯えた目で銀時を見上げていた。避ければ子供の頭が飛ぶと思い、咄嗟に身体で受けると、付き出された白刃は銀時の脇腹に深く突き刺さった。刺さった刀を手でつかんで相手の動きを封じると、その頭に木刀を振り下ろした。浪人は呆気なく倒れた。
「ってぇなチクショー……」
腹から刀を抜いて投げ捨てる。太い血管が切られて大量の血が吹き出した。依頼人の男は既に逃げて、周りの浪士たちはみな気を失っている。意識があるのは自分と、ガタガタ震えるふたりの子供だけ。原付も壊れて、どこへも行くことができない。
最悪だと思いつつ病院へ向かって銀時は歩き出す。後ろから子供が追いかけてくる。シッシッと手で追い払ったが、どこまでも離れずに付いてきた。
昨夜は酒しか飲んでいないから、身体に血液が少ない。わき腹からはドクドクと血が溢れ続けている。こんなことなら家を出る前に貯めといたチョコを食ってくるんだった、と銀時は後悔した。
よろける足を両脇から子供に支えられ、大通りに出る。テキトーに車を借りて病院へ行くかと思っていたが、血だらけの銀時を見て、誰も彼もがぎょっとして、逃げるように離れて行った。
今日は本当にツイてない厄日だと、銀時は思う。変な依頼と変なガキのせいで大ケガして、徹夜明けの頭は思考もままならない。不審なものを見るような周りの目にもイラつく。
っんだよ、俺はなんも悪いことしてねぇよ。運が悪かっただけだっつーの!
ふらふらと歩きながら、何か手っ取り早く病院に行ける手段は無いかと周りを見回す。広い車道には、沢山の自動車が行き交っているのに、そのどれもが銀時の存在を無視するように、走り去っていく。
その大きな通りの向こう側に、あるものを見つけて銀時は目を見開く。それが目に飛び込んできた瞬間に、世界はスローモーションになった。足にしがみつく子供の手の感覚がなくなる。わき腹の傷の痛みも遠のいていく。じっと見つめた視線の先に、***がいた。
動きを止めた***が、じっと銀時のことを見つめていた。なんでアイツあんなとこにいんの?と思う銀時と、目が合った瞬間、***はハッとした顔で、車の行き交う車道へと飛び出してきた。
スローモーションの世界で銀時は、まるで神の奇跡を見ているような気がした。***は一瞬も銀時から目をそらさずに、真っすぐに道路を横切って走ってきた。ひとつの車にもぶつからずに。
あんなに沢山の車が高速で行き交う通りで、なにひとつとして***の邪魔をするものは無かった。車の存在を無視するかのように、***はなんのためらいもなく一直線に銀時へと向かって走ってきた。
ただ***の目には銀時しか映っていなかった。そしてそれを見つめる銀時の目にも、***しか映っていなかった。
息を切らして辿り着いたはいいが、銀時のあまりに酷い状況に、***は言葉を失って、うまく喋れなかった。
「ぎっ、銀ちゃん、どうして……すごい血が出て……」
「お~、***、お前なんでこんなとこいんの?っつーかいきなり道路に飛び出してんじゃねぇよ、危ねぇだろーが!」
「そんなこと今は……」
どうしたいいか分からずにオロオロする***と、大ケガをしているのに全く真剣みのない銀時に向かって、子供のうちの一人が突然大きな声で話しかけた。
「おねーちゃん!おにーちゃんは僕たちをかばって刺されちゃったの!すごい血が出てるんだ、早くびょーいんに連れてってあげて!おにーちゃん、死んじゃうよぉっ!!!」
その子供の言葉に***は肩をびくりと震わせた。目を見開いて子供を見た後、「分かった!」と大きくうなずく。そこからの***の動きは、誰にも止められないほど早かった。
銀時が止める間もなく、***は再び車道へと飛び出して行き、偶然走ってきたタクシーの前に両手を広げて立った。そして通りじゅうに響き渡る大きな声で、叫んだ。
「お願い、止まってぇぇぇ!!!!!」
急ブレーキをかけたタクシーが、小さな身体すれすれで止まった。驚いた運転手が声を上げる前に、***は銀時の手を引くと、車内へ転がり込んだ。子供たちに「おにーちゃんは絶対助けるから大丈夫だよ!」と言って、ドアをバタンと閉めた。
大量の血を流す銀時を見て、怯えた顔をする運転手に、身を乗り出した***が声をかけた。
「運転手さん!大江戸病院に急いでください!お金は倍払います!信号無視してでも、最速で向かってください!!!」
***の勢いに押された運転手が、アクセルを強く踏み込んだ。
わき腹を抑えてシートにもたれていた銀時の身体が、ずるずると***に向かって落ちてくる。慌てて頭を胸で受け止めると、そっと銀時の肩に腕を回して、座席に仰向けにさせた。
抱き留めた銀時の身体から、力がどんどん抜けていく。胸にくたりと預けられた顔は、血の気が引いて青ざめている。意識を失う寸前のように、少しずつまぶたが下がっていく。
「銀ちゃん!目を閉じちゃ駄目!ねぇ、起きてて!しっかりしてください!!」
「あ~?っんだようるせぇな、銀さん二日酔いで頭が割れそうなんだけどぉ。徹夜で飲んでたから、今すぐ夢の世界へフライアウェイしたいんですけどぉ」
血で赤く染まり、てらてらと光る銀時の手が、わき腹を抑えている。それでもドクドクと流れ出る血が、銀時の身体の下の***の着物までぐっしょりと濡らした。迷いなく***は銀時の手の上に自分の手を重ねて、ぎゅっと強く押さえつけた。
「イダダダダダッ、おい、テメー***、それわざとか!そこ穴空いてっからもうちょい優しく抑えろよ!痛ぇだろーが!!」
「駄目です!ちゃんと押さえないと血が止まらないから!ねぇ、銀ちゃんお願い、目を開けてて!寝ないでよ!!」
「こんなにぎゅうぎゅう傷口押されて、痛くて寝られるかよ!っつーか***、さっきからうるせぇよ、こっちはケガ人だぞ。もうちょい優しく身体をさするとかできねぇのか……」
憎まれ口を叩きながらも、だんだんと銀時のまぶたが落ちて、もう完全に瞳を閉じている。口だけは達者で、***が何か話しかければ返事が返ってくることだけが、救いだった。
「ぎ、銀ちゃん待って、寝ないで!あの!歌を、歌をうたいましょう!ほらドラ〇もんの歌、いきますよ!!」
「はぁぁぁ!?うるせぇって***!少し黙れよ!」
「デレレデレレ、デレレデレレ、デレレデレレ、デレレレレ……こんなこっといいな~でっきたらいいな~!あんな夢こんな夢いっぱいある~けど~~!ほら、銀ちゃんも歌って!!」
「歌うかよ馬鹿!オイィィ、誰かこいつを四次元ポケットんなかにぶち込んで、永遠にしまっといてくれよォォォ!!」
「ああっ、もぉっ!銀ちゃんが歌ってくれないならいいです!運転手さん、一緒に歌ってください!なるべくおっきな声で!!お金、倍の倍払いますからッ!!!」
「えぇ!?お客さんホントに払ってくれます?それじゃ、しょうがないなぁ。そ、そ~らを自由に飛びたいなぁ~……」
運転手まで巻き込んで、なんとか銀時の意識を保とうと***は奮闘した。眠たそうな目をうっすらと開けた銀時が、「助けてドラ〇も~ん!このタクシーにはおかしな人しかいないよぉ!!!」と叫んだ。
その姿を見た***が、ホッとしたのも束の間、わき腹を抑えていた銀時の手から力が抜けて、ずるりと落ちた。
「あっ」と大きな声を出してから、***は自分の手だけで銀時の傷口を抑えた。手のひらに直接血流を感じる。どくんどくん、と心拍に合わせるように大量の血が流れ出てくる。
***の意識はふっと一瞬遠のいて、眩暈を起こしそうになる。それをぐっとこらえて、口だけは必死に動かして歌をうたいつづけた。だけど***には、自分がちゃんと声を出せているのかどうかも、もうよく分からなかった。
「銀ちゃん、ね、ねぇ、起きてっ!目開けて!お願い、寝ないでっ!寝ちゃっだめ、だよぉっ……」
息がつまってうまく喋れない。ケガをしているのは銀時なのに、なぜか息も絶え絶えなのは自分の方だ。心が焦りに支配されて、声の出し方も表情の作り方も分からない。
そんな***の様子に気付いたのか、シートに落ちていた血濡れの銀時の手が動いた。血だらけの大きな手は一直線に***の顔へと伸びてきて、右のほほを包んだ。見下ろすと青ざめた顔でふっと笑って、閉じていた瞳が開いた。
いつもの死んだ魚のような赤い瞳が、優しい眼差しで***をじっと見つめた。
「***、大丈夫だから、っんな顔すんなっつーの」
静かな声でそれだけ言うと、銀時は再び瞳を閉じた。ほほに添えられていた手も離れて、すとんとシートへと落ちる。銀時の手が撫でていったほほに、生温かい血液がべったりと残った。息を吸うと、むっとした濃い鉄の匂いが身体に入ってきた。
***の唇はぶるぶると震えて、それでも必死に「デレレデレレ……」と歌い続けていた。そんなことしかできない自分が、悔しくて仕方がなかった。
細い腕の中で、***の胸に抱かれた銀時は、眠くて眠くて仕方がなかった。昨夜は一睡もせずに悪い酒を飲んだ。朝から動き回って身体は疲れたと叫んでいる。わき腹の傷は深いが、この程度なら多分大丈夫だと、経験から分かる。
目を閉じると視覚を使わない分、他の感覚が研ぎ澄まされた。頭上から「みんなみんなみ~んな、叶えてくれる、不思議なポッケで叶えてく~れ~る~」と歌い続ける***の声が聞こえる。さっき一瞬見た***の顔は真っ青で、自分より先にぶっ倒れそうだったと銀時は思った。
背中の下に敷かれた***の太ももが温かい。その温かさが身体中に広がって心地よい。細い腕で後ろから抱きかかえられて、頭や首の後ろに、***の身体の、ふにふにとした柔らかさを感じる。
―――あれ、こいつって小さくて細くて骨ばってて、もっと弱々しくて頼りないんじゃなかったっけ?いつからこんなに温かくてふわふわになったんだ?―――
目を閉じて能天気にそんなことを考えていると、だんだん傷の痛みも意識も遠のいていった。肩に回された***の腕だけが、力強く銀時を抱き寄せたような気がした。
こんな生き方をしてる自分は、いつかろくでもない場所で、ろくでもない死に方をするだろうと、前々から思っていた。
でも、もしも、いつか永遠に瞳を閉じる時に、こんな風に***の腕に抱かれて、温かく柔らかい身体に包まれて眠りにつくことができたら、最高に幸せじゃねぇかと、薄れていく意識のなかで銀時は考えていた。
―――いま、このまま、コイツのこの腕んなかで死ねたら、今日は最高にツイてるな。パチンコで大量に玉を出すよりも、競馬で大勝ちするよりも、ここで眠れたほうが幸運だ。でも今日は全然ツイてねぇ厄日だから、そう上手くはいかねぇだろ……―――
耳から遠ざかっていく***の歌声が、少しだけ震えたような気がした。おい、そのふざけた歌いつまでうたってんだよ、とおかしくて笑いそうになったが、実際に笑うことはできなかった。強い眠気が襲ってきて、とても抗うことが出来ない。
意識がぷつりと途切れる寸前、真っ暗闇のなかで「銀ちゃん」と叫ぶ泣きそうな声だけが、聞こえたような気がした。
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【第20話 細い腕のなか】end