銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
おなまえをどうぞ
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
【第16話 届かない深夜2時】
担架から、だらりとぶら下がった腕の、細くて白い手首をつかむと、銀時の腕の中にどさっと小さな身体が落ちてきた。
その身体を抱きしめたことは何度もある。その非力そうな腕が、自分を強く抱きしめ返す感触も、触れるとじんわりと伝わってくる肌のぬくもりも、銀時はよく知っている。
それなのに今、腕の中にある身体からは、全く生気を感じられない。力なく垂れた腕や足は青白く、顔は痛みに歪んでいる。顔や首に小さな切り傷がたくさんついている。長いまつ毛が、まぶたのふちで儚げに震えても、その瞳が開く気配はない。
―――ああ、また、守れなかった……
頭の後ろで冷たい声が聞こえた。振り向いても誰もいない。もう一度腕の中の小さな身体に視線を落とすと、痛みに歪んでいたはずの顔さえ、もう何の力もなく真っ白になっていた。銀時が何度呼び掛けても、その唇は二度と「銀ちゃん」と動くことはない―――――
「***っっっ!!!!!」
叫びのような大声を上げて、目を開いた銀時が布団からガバッと起き上がる。時計は真夜中の2時を指していた。呼吸が乱れて、ひゅうひゅうとノドが鳴る。全身から冷たい汗が吹き出して、寝間着はぐっしょりと濡れていた。
両手で顔を覆って目を強く抑えてから、そのままその手で頭をガシガシと掻いた。
「くそッ………」
うなだれてあぐらをかき、布団にこぶしを叩きつけた。ようやく呼吸が鎮まるが、もう今夜は眠れそうにない。ここ数日はずっと、こんな夜が続いている。***に「もう万事屋へは来るな」と言って別れた日から、毎晩夢の中で、力のない***の身体を腕に抱いた。
真っ暗な部屋で自分の心臓の音だけがうるさい。夜寝ている時の夢の中だけでなく、日中の起きている時にも、まるで白昼夢のように、銀時の脳裏には幾度もあの日のことが蘇った。
―――銀ちゃん!!!!!
瓦礫のなかで自分を呼んだ***の声は、銀時にはまるで、幽霊の声のように聞こえた。ぎょっとして振り返ると、そこには下駄を片方無くして頼りなく立つ、真っ青な顔の***がいた。
心臓がどくんと大きく鳴って、気が付くと銀時は走り出していた。足を引きずるようによろよろと駆けてきた小さな身体を、腕の中に抱きしめた瞬間、***が生きていることを実感して、自分の身体がガタガタと震え始めたのが分かった。
「***!!!!!」
よかった、生きていた。***は確かに自分の腕の中にいる。そう実感すればするほど、一歩間違えれば失っていたかもしれないという恐怖が、腹の底から湧き上がってきた。
ひ弱で細い***の身体が壊れそうなほど、腕に力を入れて抱きしめた。どんなに腕の力を強めても、その恐怖は拭えなかった。
***はどこも痛くなさそうにしていたが、その顔や首には、小さな切り傷がたくさんあった。見れば見る程、傷が増えていく気がする。周りにあるもの全てが、***を傷つけるように思えた。自分の腕では守り切れない。どこか安全なところへ、***を傷つけるものが、何もないところへ。そう考えたら、あの狭い四畳半の部屋しか思い浮かばなかった。
早くこの傷を治さなければ、この無垢で汚れを知らない女の顔に、こんな怪我があってはならない。そう思っていると自然と身体が動いた。
前髪をよけた額の、血のにじんだ小さな傷に口付けると、***が息を飲んで、身体をこわばらせた。
ほどけた包帯の中の細い腕に、紫色の内出血が散らばっていて、それを見た瞬間に心臓が凍り付いた。
―――こんなアザ、さっさと消えやがれ、コノヤロー!!
そう念じながらひとつひとつに触れたけれど、もちろんそれは消えなかった。舌の触れたアザや傷からは、灰と鉄の味がした。いつも花のような甘い香りのする***の肌から、そんな味がすることが信じられなかった。
震える身体に唇を這わせながら、自分はまるで犬のようだ、と銀時は思った。傷ついた主人を癒そうと、必死になる憐れな犬だ。そんなことをしたって、何も変わらないと分かっているのに、そうせずにはいられない、愚かな犬。
腕の中で、ぎゅっと瞳を閉じた***の顔を見つめた。緊張して顔を真っ赤に染め、震えていた。ほかより一層深い傷が、下唇からアゴにかけて斜めに走っていた。この深さの傷は治るのに時間がかかる。もしかしたら、消えない痕が残るかもしれない。
呆けた目で唇を寄せようとした時、***はひときわ大きく身体を震わせた。まるで近づかれるのを拒むかのように、小さな手が銀時の腕をぎゅっとつかんだ。こわごわと薄く開かれた瞳いっぱいに、涙が溜まっていた。
―――ぎ、銀ちゃん……ぉねがい、やめて……もう、大丈夫だから……―――
それは懇願だった。これ以上、触れないでほしいという拒絶の。
その瞬間に銀時は、こんなに***を傷つけたのは、テロでも爆発でもなく、自分自身だと気付いた。
悔やんでいることはたくさんあった。屋根の修理なんて仕事がなければ。酒屋の依頼が今日でなければ。依頼人が来たタイミングで、***が万事屋へ来なければ。
でも何よりも許せないのは、***にずっと甘え続けてきた自分自身だった。
万事屋をなんでも屋と説明して、それ以上のことは何も言わなかった。生傷の絶えない新八と神楽を見ても、***は「痛そうだねぇ」と言って手当をするだけで、何も聞かなかった。日常ではあり得ない深手を負った銀時を見ても、ただ戸惑った顔で「おかえりなさい」と笑うだけで、***は何も言わなかった。
何も聞かれないのをいいことに、そこに含まれる危険をひとつも説明してこなかった。もし***がその危険を知ったら、距離を置かれてしまう気がしたから。でも結局は、その甘えのせいで、***を傷つけることになってしまった。
「ねぇ、銀ちゃん……本当に怒ってない?私のせいで面倒なことになって、それでみんなに心配かけちゃったから」
すがるように問いかける***は、あまりにも健気だった。そしてその健気さを、ずっと利用してきた自分に腹が立って、仕方がなかった。
―――怒ってる。ちょー怒ってる
ぶん殴って、ぼこぼこにしたいほど、自分自身に。
いつか銀時は***に、「お前と一緒にいて守ってやる」と言った。それを聞いた***は笑って、「一緒にいて、見守っててね」と言った。
守るどころか、あと一歩で死なせてしまうところだった。ついてしまった傷はどんなに触っても、治すことも消すこともできない。それなら自分にできることは、ひとつしか残されてない。
そして銀時は、迷いなくそれを選択した。
―――***、お前もう万事屋に来んな……こんな思いは、もうこりごりだ……―――
真っ暗な部屋で、ごろんと布団に横になった。月明かりに照らされた天井を眺めていると、最後に見た***の顔が、脳裏に浮かんでくる。言葉を失って震える唇が、それでも何か言おうと「銀ちゃん」と動くのが見えた。扉が閉まる一瞬に、その顔を見つめて思っていたことは、今も変わらない。
―――俺はお前を守れない。守るどころか傷つけてしまう。それなら離れた方がいい。きっとお前もそのうち分かるはずだ。近くにいて失ってしまうより、遠くでも生きていてくれた方が、ずっと幸せだってことに……
「***…………」
小さな銀時のつぶやきに、返事はもちろん返ってこない。自分から突き放したくせに、何を今さら未練がましく呼んでいるんだ、と馬鹿馬鹿しくなる。
それでも唇が勝手に発してしまった名前を、銀時は心底愛おしく思った。冷たい空気に吸い込まれた声は、呆気ないほど一瞬で、消えて行ってしまった。
「っん………ぁれ、ぎ……ぎんちゃん?」
狭い四畳半の部屋、布団の中で***は目を開いた。すぐ近くから大きな声で、自分の名前が呼ばれた気がする。その声は、誰よりも会いたい思っている人の声だった。
ゆっくりと布団から起き上がり、きょろきょろと部屋を見回す。暗い部屋には、もちろん誰もいなかった。部屋中が冬の冷気で冷え切っている。両腕で身体を抱きしめながら歩き、玄関の扉をそっと開ける。まさかと思いながらも、わずかな期待をかけて、顔だけ扉の外に出す。誰もいないアパートの敷地を、月明かりだけが照らしていた。
「……いるわけ、ないよねぇ……」
そっと扉を閉めて、部屋の電気をつける。時計は2時30分を示していた。まだ早いけれど今日も配達の仕事がある。どうせもう寝られそうにないから、起きて準備をはじめてしまおう。
冷たい水で顔を洗う。手も顔も氷水につけたみたいに一瞬で冷えて、一気に目が覚める。手探りで掛けてある手ぬぐいを取ると、顔を拭いた。
冬は水が冷たくて、顔を洗えばすぐに目が覚めるからいい。ほら、まぶたもほっぺたもこんなに冷たい。そう思いながら、顔に当てた手ぬぐいで、水気を拭きとっていたけれど、いつまでたってもそれを顔から外すことができない。
「っふ、ぅ……ぅうっ……ぅ゙ぁっ……」
冷水で冷えたはずのまぶたが、とても熱い。水気を拭いても拭いても、溢れてくる涙で、ほほが乾かない。
銀時の前では泣かないと決めてから、何度こうやってひとりで泣いただろう。ひとりで泣いて、ひとりで元気を出してきただろう。どんなに悲しくても立ち上がれたのは、結局のところはいつでも、銀時が***を受け入れてくれたからだ。
それなのに銀時は、もう万事屋へ来るなと言った。あの日、扉が閉まった後、原付が走り去る音が部屋に響いてきた。立ち尽くして動けずに、ただ耳をすましていた。遠ざかるその音が聞こえなくなった瞬間、***の瞳から、大量の涙が溢れだした。
遅れてやってきた悲しみは、とても強い力で***の心を押し潰した。
―――銀ちゃん、どうして?もうこりごりってどういうこと?もう私には会いたくないってこと?そんな風に放り出されて、私はどうしたらいいの?私はこんなに、銀ちゃんのことが好きなのに……
聞きたいことや言いたいことが頭に浮かぶたびに、最後に見た銀時の顔が脳裏に蘇って、胸を締め付けた。まるで「こっちに来るな」と言うように、突き放されたのは自分の方なのに、どうして銀時があんなに傷ついた顔をするのだろう。
だけどあの傷ついた顔に、***は見覚えがあった。あの瞳の哀しい色を、***はよく知っていた。
―――銀ちゃん、お母さんと同じ目をしてた………
出稼ぎで江戸へ出てくる前、娘と離れる寂しさに耐えられなかった母親が、***を突き放した。その時の母が***に見せた顔と、同じ顔を銀時はしていた。
自分では守れないから。自分ではいつか傷つけてしまうから。少しでも生き残る希望のある場所へと、まるで追いやるように***から逃げて、離れて行った母と同じ目をしていた。
それがどれほど哀しくて、つらいことかは、***がいちばんよく分かっている。だからもし、本当に銀時があの時の母と同じ気持ちなら、***は銀時に会いたいと思っては、いけないことになってしまう。そう考えると、心臓が破れそうになるほど哀しくて苦しい。
「……ぎ、んちゃん……ッぅう、ひぃっく……」
にぎりしめた手ぬぐいを口に当てて、嗚咽まじりに***は声を上げた。こんな風に泣いている時、いつも銀時が近くにいてくれたのに。お前は本当にしょうがねぇやつだなと言って、頭を撫でてくれたのに。今はもう、その大きくて優しい手すらつかめない。
一体自分に何ができるというのだろう。いつも***を受け入れて、守ってくれた銀時を失ってしまって。なんとかして銀時を取り戻したいのに、自分にできることなんて、もう何も無い気がして、***は自分の無力さに打ちひしがれる。
何も思いつかない、自信もまったく無い。それなのに銀時への思いは、ますます膨らむばかりだ。
―――銀ちゃん、今すぐ会いたいよ。会いたくないなんて言わないでよ。家族に会うのを怖がってた私に、会いたいって認めろって言ってくれたの銀ちゃんでしょう。私、その時よりもずっと、他の誰よりももっと、いちばん銀ちゃんに会いたいよ……―――
台所の流しの下に、うずくまるように座り込んで、***は泣き続けた。涙が止まらなくて、顔に押し付けた手ぬぐいを、抱きしめるように腕に巻き付けていた。
薄っすらと開けた瞳で、ぼんやりと腕の中を見る。涙でぐっしょりと濡れた手ぬぐいは、銀時が自分の顔を拭いてくれたものだと気付く。はっとして顔を上げる。
壁に貼られたお通のポスターは、新八がくれたもの。布団の横でくたりとしている白くまのぬいぐるみは、神楽とおそろいのもの。玄関にぽつんと置かれた鼻緒の取れた下駄は、銀時が直してくれたもの。あのテレビは銀時が持ってきてくれた。あのちゃぶ台で四人でご飯を食べた。
部屋の何を見ても、どこを見ても、そこには万事屋の、銀時の面影がひそんでいる。それに気づいた途端、流れてやまない涙を抑えることも忘れて、ただかすれた声だけが、唇から零れ落ちていた。
「…ぃ、銀ちゃん……ぁ、いたい、会いたいよぉ……」
(おねがい、私から大切な人を奪わないで)
-------------------------------------------
【第16話 届かない深夜2時】end
担架から、だらりとぶら下がった腕の、細くて白い手首をつかむと、銀時の腕の中にどさっと小さな身体が落ちてきた。
その身体を抱きしめたことは何度もある。その非力そうな腕が、自分を強く抱きしめ返す感触も、触れるとじんわりと伝わってくる肌のぬくもりも、銀時はよく知っている。
それなのに今、腕の中にある身体からは、全く生気を感じられない。力なく垂れた腕や足は青白く、顔は痛みに歪んでいる。顔や首に小さな切り傷がたくさんついている。長いまつ毛が、まぶたのふちで儚げに震えても、その瞳が開く気配はない。
―――ああ、また、守れなかった……
頭の後ろで冷たい声が聞こえた。振り向いても誰もいない。もう一度腕の中の小さな身体に視線を落とすと、痛みに歪んでいたはずの顔さえ、もう何の力もなく真っ白になっていた。銀時が何度呼び掛けても、その唇は二度と「銀ちゃん」と動くことはない―――――
「***っっっ!!!!!」
叫びのような大声を上げて、目を開いた銀時が布団からガバッと起き上がる。時計は真夜中の2時を指していた。呼吸が乱れて、ひゅうひゅうとノドが鳴る。全身から冷たい汗が吹き出して、寝間着はぐっしょりと濡れていた。
両手で顔を覆って目を強く抑えてから、そのままその手で頭をガシガシと掻いた。
「くそッ………」
うなだれてあぐらをかき、布団にこぶしを叩きつけた。ようやく呼吸が鎮まるが、もう今夜は眠れそうにない。ここ数日はずっと、こんな夜が続いている。***に「もう万事屋へは来るな」と言って別れた日から、毎晩夢の中で、力のない***の身体を腕に抱いた。
真っ暗な部屋で自分の心臓の音だけがうるさい。夜寝ている時の夢の中だけでなく、日中の起きている時にも、まるで白昼夢のように、銀時の脳裏には幾度もあの日のことが蘇った。
―――銀ちゃん!!!!!
瓦礫のなかで自分を呼んだ***の声は、銀時にはまるで、幽霊の声のように聞こえた。ぎょっとして振り返ると、そこには下駄を片方無くして頼りなく立つ、真っ青な顔の***がいた。
心臓がどくんと大きく鳴って、気が付くと銀時は走り出していた。足を引きずるようによろよろと駆けてきた小さな身体を、腕の中に抱きしめた瞬間、***が生きていることを実感して、自分の身体がガタガタと震え始めたのが分かった。
「***!!!!!」
よかった、生きていた。***は確かに自分の腕の中にいる。そう実感すればするほど、一歩間違えれば失っていたかもしれないという恐怖が、腹の底から湧き上がってきた。
ひ弱で細い***の身体が壊れそうなほど、腕に力を入れて抱きしめた。どんなに腕の力を強めても、その恐怖は拭えなかった。
***はどこも痛くなさそうにしていたが、その顔や首には、小さな切り傷がたくさんあった。見れば見る程、傷が増えていく気がする。周りにあるもの全てが、***を傷つけるように思えた。自分の腕では守り切れない。どこか安全なところへ、***を傷つけるものが、何もないところへ。そう考えたら、あの狭い四畳半の部屋しか思い浮かばなかった。
早くこの傷を治さなければ、この無垢で汚れを知らない女の顔に、こんな怪我があってはならない。そう思っていると自然と身体が動いた。
前髪をよけた額の、血のにじんだ小さな傷に口付けると、***が息を飲んで、身体をこわばらせた。
ほどけた包帯の中の細い腕に、紫色の内出血が散らばっていて、それを見た瞬間に心臓が凍り付いた。
―――こんなアザ、さっさと消えやがれ、コノヤロー!!
そう念じながらひとつひとつに触れたけれど、もちろんそれは消えなかった。舌の触れたアザや傷からは、灰と鉄の味がした。いつも花のような甘い香りのする***の肌から、そんな味がすることが信じられなかった。
震える身体に唇を這わせながら、自分はまるで犬のようだ、と銀時は思った。傷ついた主人を癒そうと、必死になる憐れな犬だ。そんなことをしたって、何も変わらないと分かっているのに、そうせずにはいられない、愚かな犬。
腕の中で、ぎゅっと瞳を閉じた***の顔を見つめた。緊張して顔を真っ赤に染め、震えていた。ほかより一層深い傷が、下唇からアゴにかけて斜めに走っていた。この深さの傷は治るのに時間がかかる。もしかしたら、消えない痕が残るかもしれない。
呆けた目で唇を寄せようとした時、***はひときわ大きく身体を震わせた。まるで近づかれるのを拒むかのように、小さな手が銀時の腕をぎゅっとつかんだ。こわごわと薄く開かれた瞳いっぱいに、涙が溜まっていた。
―――ぎ、銀ちゃん……ぉねがい、やめて……もう、大丈夫だから……―――
それは懇願だった。これ以上、触れないでほしいという拒絶の。
その瞬間に銀時は、こんなに***を傷つけたのは、テロでも爆発でもなく、自分自身だと気付いた。
悔やんでいることはたくさんあった。屋根の修理なんて仕事がなければ。酒屋の依頼が今日でなければ。依頼人が来たタイミングで、***が万事屋へ来なければ。
でも何よりも許せないのは、***にずっと甘え続けてきた自分自身だった。
万事屋をなんでも屋と説明して、それ以上のことは何も言わなかった。生傷の絶えない新八と神楽を見ても、***は「痛そうだねぇ」と言って手当をするだけで、何も聞かなかった。日常ではあり得ない深手を負った銀時を見ても、ただ戸惑った顔で「おかえりなさい」と笑うだけで、***は何も言わなかった。
何も聞かれないのをいいことに、そこに含まれる危険をひとつも説明してこなかった。もし***がその危険を知ったら、距離を置かれてしまう気がしたから。でも結局は、その甘えのせいで、***を傷つけることになってしまった。
「ねぇ、銀ちゃん……本当に怒ってない?私のせいで面倒なことになって、それでみんなに心配かけちゃったから」
すがるように問いかける***は、あまりにも健気だった。そしてその健気さを、ずっと利用してきた自分に腹が立って、仕方がなかった。
―――怒ってる。ちょー怒ってる
ぶん殴って、ぼこぼこにしたいほど、自分自身に。
いつか銀時は***に、「お前と一緒にいて守ってやる」と言った。それを聞いた***は笑って、「一緒にいて、見守っててね」と言った。
守るどころか、あと一歩で死なせてしまうところだった。ついてしまった傷はどんなに触っても、治すことも消すこともできない。それなら自分にできることは、ひとつしか残されてない。
そして銀時は、迷いなくそれを選択した。
―――***、お前もう万事屋に来んな……こんな思いは、もうこりごりだ……―――
真っ暗な部屋で、ごろんと布団に横になった。月明かりに照らされた天井を眺めていると、最後に見た***の顔が、脳裏に浮かんでくる。言葉を失って震える唇が、それでも何か言おうと「銀ちゃん」と動くのが見えた。扉が閉まる一瞬に、その顔を見つめて思っていたことは、今も変わらない。
―――俺はお前を守れない。守るどころか傷つけてしまう。それなら離れた方がいい。きっとお前もそのうち分かるはずだ。近くにいて失ってしまうより、遠くでも生きていてくれた方が、ずっと幸せだってことに……
「***…………」
小さな銀時のつぶやきに、返事はもちろん返ってこない。自分から突き放したくせに、何を今さら未練がましく呼んでいるんだ、と馬鹿馬鹿しくなる。
それでも唇が勝手に発してしまった名前を、銀時は心底愛おしく思った。冷たい空気に吸い込まれた声は、呆気ないほど一瞬で、消えて行ってしまった。
「っん………ぁれ、ぎ……ぎんちゃん?」
狭い四畳半の部屋、布団の中で***は目を開いた。すぐ近くから大きな声で、自分の名前が呼ばれた気がする。その声は、誰よりも会いたい思っている人の声だった。
ゆっくりと布団から起き上がり、きょろきょろと部屋を見回す。暗い部屋には、もちろん誰もいなかった。部屋中が冬の冷気で冷え切っている。両腕で身体を抱きしめながら歩き、玄関の扉をそっと開ける。まさかと思いながらも、わずかな期待をかけて、顔だけ扉の外に出す。誰もいないアパートの敷地を、月明かりだけが照らしていた。
「……いるわけ、ないよねぇ……」
そっと扉を閉めて、部屋の電気をつける。時計は2時30分を示していた。まだ早いけれど今日も配達の仕事がある。どうせもう寝られそうにないから、起きて準備をはじめてしまおう。
冷たい水で顔を洗う。手も顔も氷水につけたみたいに一瞬で冷えて、一気に目が覚める。手探りで掛けてある手ぬぐいを取ると、顔を拭いた。
冬は水が冷たくて、顔を洗えばすぐに目が覚めるからいい。ほら、まぶたもほっぺたもこんなに冷たい。そう思いながら、顔に当てた手ぬぐいで、水気を拭きとっていたけれど、いつまでたってもそれを顔から外すことができない。
「っふ、ぅ……ぅうっ……ぅ゙ぁっ……」
冷水で冷えたはずのまぶたが、とても熱い。水気を拭いても拭いても、溢れてくる涙で、ほほが乾かない。
銀時の前では泣かないと決めてから、何度こうやってひとりで泣いただろう。ひとりで泣いて、ひとりで元気を出してきただろう。どんなに悲しくても立ち上がれたのは、結局のところはいつでも、銀時が***を受け入れてくれたからだ。
それなのに銀時は、もう万事屋へ来るなと言った。あの日、扉が閉まった後、原付が走り去る音が部屋に響いてきた。立ち尽くして動けずに、ただ耳をすましていた。遠ざかるその音が聞こえなくなった瞬間、***の瞳から、大量の涙が溢れだした。
遅れてやってきた悲しみは、とても強い力で***の心を押し潰した。
―――銀ちゃん、どうして?もうこりごりってどういうこと?もう私には会いたくないってこと?そんな風に放り出されて、私はどうしたらいいの?私はこんなに、銀ちゃんのことが好きなのに……
聞きたいことや言いたいことが頭に浮かぶたびに、最後に見た銀時の顔が脳裏に蘇って、胸を締め付けた。まるで「こっちに来るな」と言うように、突き放されたのは自分の方なのに、どうして銀時があんなに傷ついた顔をするのだろう。
だけどあの傷ついた顔に、***は見覚えがあった。あの瞳の哀しい色を、***はよく知っていた。
―――銀ちゃん、お母さんと同じ目をしてた………
出稼ぎで江戸へ出てくる前、娘と離れる寂しさに耐えられなかった母親が、***を突き放した。その時の母が***に見せた顔と、同じ顔を銀時はしていた。
自分では守れないから。自分ではいつか傷つけてしまうから。少しでも生き残る希望のある場所へと、まるで追いやるように***から逃げて、離れて行った母と同じ目をしていた。
それがどれほど哀しくて、つらいことかは、***がいちばんよく分かっている。だからもし、本当に銀時があの時の母と同じ気持ちなら、***は銀時に会いたいと思っては、いけないことになってしまう。そう考えると、心臓が破れそうになるほど哀しくて苦しい。
「……ぎ、んちゃん……ッぅう、ひぃっく……」
にぎりしめた手ぬぐいを口に当てて、嗚咽まじりに***は声を上げた。こんな風に泣いている時、いつも銀時が近くにいてくれたのに。お前は本当にしょうがねぇやつだなと言って、頭を撫でてくれたのに。今はもう、その大きくて優しい手すらつかめない。
一体自分に何ができるというのだろう。いつも***を受け入れて、守ってくれた銀時を失ってしまって。なんとかして銀時を取り戻したいのに、自分にできることなんて、もう何も無い気がして、***は自分の無力さに打ちひしがれる。
何も思いつかない、自信もまったく無い。それなのに銀時への思いは、ますます膨らむばかりだ。
―――銀ちゃん、今すぐ会いたいよ。会いたくないなんて言わないでよ。家族に会うのを怖がってた私に、会いたいって認めろって言ってくれたの銀ちゃんでしょう。私、その時よりもずっと、他の誰よりももっと、いちばん銀ちゃんに会いたいよ……―――
台所の流しの下に、うずくまるように座り込んで、***は泣き続けた。涙が止まらなくて、顔に押し付けた手ぬぐいを、抱きしめるように腕に巻き付けていた。
薄っすらと開けた瞳で、ぼんやりと腕の中を見る。涙でぐっしょりと濡れた手ぬぐいは、銀時が自分の顔を拭いてくれたものだと気付く。はっとして顔を上げる。
壁に貼られたお通のポスターは、新八がくれたもの。布団の横でくたりとしている白くまのぬいぐるみは、神楽とおそろいのもの。玄関にぽつんと置かれた鼻緒の取れた下駄は、銀時が直してくれたもの。あのテレビは銀時が持ってきてくれた。あのちゃぶ台で四人でご飯を食べた。
部屋の何を見ても、どこを見ても、そこには万事屋の、銀時の面影がひそんでいる。それに気づいた途端、流れてやまない涙を抑えることも忘れて、ただかすれた声だけが、唇から零れ落ちていた。
「…ぃ、銀ちゃん……ぁ、いたい、会いたいよぉ……」
(おねがい、私から大切な人を奪わないで)
-------------------------------------------
【第16話 届かない深夜2時】end