銀ちゃんに恋する女の子
鼻から牛乳(純情)
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【第10話 獣の微笑み】
―――土方は猛烈にときめいていた。
政治家の資金集めパーティーは、各界のセレブが招待されているだけあって、豪勢なものだった。大きなシャンデリアのきらめく広い会場の、窓は全面ガラス張りで、江戸を遠くまで見晴らすことができた。
婚約者役を引き受けた***が、身支度を整えて会場の前にやってきた時、土方は声を失った。いつもの着物姿も好ましく思っていたが、深い紺色のワンピースに身を包んだ***は、普段からは想像もできないほど大人びて、美しかった。
綺麗にまとめられた髪の後れ毛が、うなじの上で揺れる所や、ハイヒールで持ち上げられた、ふくらはぎの白さに目が行ってしまう。武士としてあるまじき、と自分に言い聞かせて平静を保つ。上がった脈拍を抑えるために、煙草を吸いたかったが、あいにくこの高級ホテルは全面禁煙だった。
身体の線が出ていることや、スカート丈の短さに***は恥じらっているようだった。街では同じ年ごろの娘が、もっと露出の多い着物を着ている。それなのに目の前の***は、膝丈の裾をつまんで、肌を隠すかのように時々引っ張っていた。その様子がいじらしく、そういう品行方正なところが、この娘の自分を惹きつける要因でもあると、土方は思った。
「土方さん、これ、大丈夫ですかね?…洋装ってみんなこんな風にぴたっとしてて、ぺらっとした布なんでしょうか?」
会場前で、真選組、万事屋共に集合した際に、心配そうな顔で***は土方に問いかけた。
「あぁ?まぁ和服とは生地も作りも違ぇからな、着てるうちに慣れる、我慢しろ……それよか***、土方さんじゃねぇよ、名前で呼べっつっただろうが」
「うっ……!そ、そうでした、でも、ちょっとなんか恥ずかしくて……」
「もう時間がねぇからとっとと呼べよ。おら練習しろ」
「と、と、トウシロウサン」
「だからなんでカタコトなんだよ、お前はァ~…」
しょんぼりとした顔の***は「ちょっと練習してきます」と言って、トウシロウサントウシロウサン…とつぶやきながら、ふらふらと離れて行った。はぁ、とため息をつく土方を見て、銀時がさも嬉しそうにげらげらと笑った。
「残念だったね土方くん、***はそう簡単にお前の名前なんて呼んじゃくれねぇよ。だってあいつめっさ初心だもん、お前みたいなケダモノの名前呼べるほど世間擦れしてねぇもん」
「アァ?うるせぇな、初心だろうがなんだろーが、婚約者役やるっつーんだから、無理やりにでも呼ばせてやるよ」
「無理やりにでもってなに?なにするつもり?あんな小娘相手になにができるっつーの?言っとくけど、あいつの後ろに俺たちがいることを忘れんなよ。少しでも手荒なマネしやがったら、身体中の穴という穴に、マヨボロ差し込んでヤニ漬けにしてやるよ、土方くん」
「おー、上等じぇねぇか。ちょうどここは禁煙でな、ヤニ切れでイライラしてたとこなんだ。持ってきてくれるんなら何本でも吸ってやるよ。おめーがあいつの後ろにいようが前にいようが、ここにいる間は俺の女を演じてもらう。おとなしく指くわえて見てろよ、初心な***がケダモノにエスコートされてるさまを」
「てめぇッッッッ!!!!」
いつも飄々としている銀時が、珍しく怒りを露わにした。土方の胸倉をつかむと壁に押し付ける。後頭部が壁にあたる「ゴン」という音を聞いて、飛んできた近藤が慌てて止めに入った。
花見の時もそうだったが、***のこととなると銀時がずいぶん必死になることに、土方は気付いていた。確かに純粋すぎるといっていいほどの***を、守りたくなる気持ちは分かる。しかし土方の目には、銀時がまるで番犬のように見えた。主人に指一本でも触れた男は、構わず噛み殺すような狂暴な犬に。
自分を睨みつける憤怒をにじませた赤い瞳を見つめて、土方は口角を上げてふっと笑うと、嘲るような声で言った。
「どっちがケダモノだよ……テメェの顔、鏡で見てみやがれ」
「………チッ」
つかんでいたシャツを乱暴に離すと、銀時は離れていった。
万事屋の面々が持ち場につく。もうすぐ開場されて、パーティーがはじまる。壁に向かって立って、ぶつぶつと名前を呼ぶ練習をしている***に、土方が声をかけた。
「おい、もう始まるぞ」
「わ、分かりました、トウシロウサン」
「全然変わってねぇじゃねーか!なんのための練習だよ!おい、近藤さん、どうすりゃいいんだコレ」
「そうだなぁ」と言った近藤が、首をひねって少し考えてから、あっという顔をすると***を見つめた。
「なぁ、***ちゃんには、お父さんとお母さんはいるか?」
「え?両親は田舎にいますけど……」
「例えばだけど、お母さんがお父さんを呼ぶ時ってどんな感じだろう。こう妻が夫を呼ぶ時みたいな感じて、トシの名前を呼ぶことはできないかな?」
「母が父を呼ぶ時ですか…?」
記憶をたぐりよせるように、***は両親の顔を思い浮かべる。確かに母は親しみをこめて父の名を呼ぶ。あの呼び方は確かに愛する人を呼ぶときの声だ。
―――でもそれって、お母さんがお父さんを呼ぶ時だけだろうか……
そんなことを考えながら、***は土方を見つめる。そうだ、私はこの人の婚約者役なのだから、愛情を込めて名前を呼ばなければ。好きな人の名前を呼ぶような、わくわくした気持ちで。
あ、なんか今なら呼べそうだ、と***は思った。
自然と口角が上がって、土方の瞳孔の開いた瞳を優しく見つめた。さっきまでは引きつってうまく出なかった声が、自然と唇からこぼれた―――
「十四郎さん……」
一瞬にして様子の変わった***を見て、土方も近藤も動きを止めた。先ほどのロボットのような呼び方とは打って変わって、その声は愛しい人を呼ぶような、甘い響きに満ちていた。
「………ッ!!!」
「***ちゃん、いいじゃないか!そうそうその調子でパーティーの間、トシのことを本当の婚約者だと思って、接してやってくれ」
「わぁっ!よかったぁ、近藤さんのおかげです!大丈夫ですよね、呼べてますよね、十四郎さん?」
「お、おお、いいんじゃねぇか、さっきよかマシだろ」
胸元を抑えて「ふぅ~よかったぁ」と言って、ほっとした顔をしている***を横目に見て、土方の胸はどぎまぎした。
―――ああ、こんな時、一本でも煙草が吸えりゃぁ
高まった鼓動がおさまる前に、ホテルのボーイがやってきて参列者の案内をはじめた。近藤に見送られて、ふたりでゲストの列へと入っていく。
「おい、***、腕つかまれ」
「え、あ、はい…こうですか?」
軽く曲げた土方の腕に、するりと白い手が入ってきた。その指の細さと身体に当たった腕のひ弱さに、土方は不安になる。周りには参列者が増え、ぞろぞろと会場の入り口へと流れていく。
人の波にまぎれて、油断すると***だけ弾き飛ばされてしまいそうだ。何も言わずに一瞬腕を解くと、肩に手を回して引き寄せた。
初心な娘が嫌がりはしないだろうかと、横目で***を見ると、自分を見上げて小さく微笑んでいた。まるで自分たちは長年連れ添ってきて、こうするのが当然とでもいうように、***はおとなしく身体を預けてきた。
煙草が吸いたくて、たまらなかった。
開け放たれた扉から、会場に一歩入った瞬間、***は顔を輝かせた。
「ぅわぁぁぁ~……十四郎さん、見てください、あのツララの親玉みたいなやつ、すごく綺麗です」
「ぶっ!なんだよツララの親玉って、シャンデリアだろうが」
「シャ?シャングリラ?そういうものがあるんですか?」
「は?そんなことも知らねぇのか、こうゆう高級ホテルには必ずある。くだらねぇ俗っぽい照明だよ」
「へぇ~、高級ホテルなんて来たことないですもん。田舎にもあんなものなかったから、はじめて見ました……きらきらしてて、宝石みたいですね」
セレブばかりのパーティー会場で、天井を見上げているのなんて、***ひとりだった。瞳を輝かせている横顔を見て、土方は心が温かくなった。
その後も見るものすべてが物珍しいのか、***はなにかにつけて「十四郎さん、これはなんですか」と聞いてきた。土方はそれにひとつひとつ丁寧に答えた。
周りに人が多い時には肩を抱き寄せながら。声が届かないときは耳に顔を寄せながら。
ガラス張りの窓の近くへ行くと、***は目を見開いて景色を眺めた。子供のような顔である一点を指さすと、「あっちの方が真選組の屯所のあるほうですよね?」と言った。
土方が「そうだ」と頷くと、婚約者らしくない言葉だと心配したのか、背伸びをして内緒話をするように「以前、うかがった時に地図を見ながら行ったので分かりました」と、はにかみながら***は言った。
土方もまた婚約者らしくない話になってしまう為、そっと***の耳元に顔を寄せるとささやいた。
「***がいつも登ってる急な坂は……あの辺りだな。あれからずいぶん経つが、登り切れたのか?」
そう聞かれた***は嬉しそうに顔をほころばせて、再び背伸びをすると、土方の耳元にささやき返した。
「十四郎さん、覚えてくれてたんですね!すごいですよ、もうすぐ頂上まで登れそうです」
周りが騒々しくて、「そうか、よかったな」と言った声は、***の耳には届かなかった。しかし土方は、多分***は、あの長い坂の半分も登れていないのだろうと想像して、自然と笑いが込み上げてきた。
理由が分からないが、楽しそうに笑った土方を見て、***も嬉しくなって微笑んだ。
「十四郎さん、これマヨネーズつけたらおいしそうですよ?」
テーブルに並んだ料理を指さして、***が言う。
「おい、こんな高級ホテルにマヨネーズが常備してあるわけねぇだろ。もちろん俺としては不本意だがな。マイマヨネーズもさっき近藤さんに没収された」
「えっ!?ありますよマヨネーズ」
そう言って***は、パーティー用の小さなバッグのがま口をパカリとあけた。土方がのぞき込むと、その中にはレギュラーサイズのマヨネーズが1本だけ入っていた。
「はっ!!?お前、これだけ入れて持ってきたのかよ!?」
「えっ!?駄目でした!?……だってパーティーに何を持って行けばいいのか分からなかったから……」
「いや、もっと必要なもんがあるだろ、女が使う細々したもんとか」
「で、でも……十四郎さんと一緒のパーティーだから、十四郎さんが必要なものの方がいいかなって思って、持ってきてみたんですけど……」
そう言ってしゅんとした***を見て、土方の胸がぎゅっと締め付けられた。
―――なにこれ、なにコイツ、すげぇいい子なんだけどぉ!子犬みてぇにしょんぼりしてんのもすげぇ可愛いんだけどぉぉぉ!
頭の中の叫びを振り払うように、ガシガシと後頭部をかく。肩を落としてバッグの口を閉めようとしている***に手を伸ばすと、頭をぽんと撫でた。
「***、ありがとよ、つけて食ってみよーぜ」
その返答を聞いた***は、ぱっと顔を明るくした。
ウェイターや他の客が見ていないかふたりできょろきょろする。土方の「今だ」を合図に、***がこっそり出したマヨネーズを料理にかける。ふたりでぱくりと食べる。
「んんッ!……やっぱりマヨネーズは最高ですね!」
「おい***、もっとかけろ全然足りねぇ」
マヨネーズだらけの料理を口に含んだ***が、口元を両手で覆って土方をちらりと見た。何も言わずに土方がふっと笑うと、***は微笑んで「おいしい」と小さな声で言った。
このパーティー会場でふたりだけの秘密を共有する、共犯者同士の目くばせとつぶやきだった。
ふと周りを見回すと、すました顔で社交辞令を言い合う、いけ好かないセレブ達ばかりだった。
宝石のようなシャンデリアにも、江戸を見渡せる眺望にも、美味しい料理にも、誰も見向きもしない。野心を隠しもせず、損得勘定ばかりして、退屈そうにパーティーを過ごしている。
本来こういう場が死ぬほど嫌いな土方も、仕事の上で致し方なく参加する時がある。しかし今日ほど気持ちが穏やかに過ごせたことはない。どれほど周りに嫌悪すべき俗物たちがいようと、隣で***が笑っていることで、心が清められるのだ。
「***、離れんな」
「はい、十四郎さん」
肩を抱くと、大人しく身を寄せてくる***を見下ろす。普段は着ないワンピース姿には、洗練された美しさがあった。最初に見た時、装いだけで女はこんなにも変わるものかと驚いた。
しかしふとした瞬間に***が見せる、いつもの素朴な笑顔や姿が、土方の胸を打った。それは可愛いとか初心とか、そういう言葉では全然言い尽くせない。自分を見上げる***の瞳にはそれ以上のなにか、愛しさのようなものが込められているように感じて。
ふとパーティー会場の人々の波間を塗って、わずかな殺気が土方の背中に届いた。あの野郎だな、とすぐに分かる。
―――大人しく番犬してやがれ、ケダモノが……
万事屋が潜んでいるであろう方角に向けて、わざとよく見えるように***の肩を抱く。何も知らずに微笑みながら、自分を見上げる愛らしい瞳を、じっと見つめる。何も言わない土方に、***は不思議そうな顔をする。
「十四郎さん……?大丈夫ですか」
「ああ、なんでもねぇ」
信頼しきった眼差しで見つめられ、愛する人を呼ぶような声で名前を呼ばれて、***のそれが演技なのかどうか、もはや土方にはよく分からない。もう一度、細い肩に回した腕に力を込めて、心の中で小さく呟いた。
―――今すぐ煙草が吸いてぇ……
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【第10話 獣の微笑み】end
―――土方は猛烈にときめいていた。
政治家の資金集めパーティーは、各界のセレブが招待されているだけあって、豪勢なものだった。大きなシャンデリアのきらめく広い会場の、窓は全面ガラス張りで、江戸を遠くまで見晴らすことができた。
婚約者役を引き受けた***が、身支度を整えて会場の前にやってきた時、土方は声を失った。いつもの着物姿も好ましく思っていたが、深い紺色のワンピースに身を包んだ***は、普段からは想像もできないほど大人びて、美しかった。
綺麗にまとめられた髪の後れ毛が、うなじの上で揺れる所や、ハイヒールで持ち上げられた、ふくらはぎの白さに目が行ってしまう。武士としてあるまじき、と自分に言い聞かせて平静を保つ。上がった脈拍を抑えるために、煙草を吸いたかったが、あいにくこの高級ホテルは全面禁煙だった。
身体の線が出ていることや、スカート丈の短さに***は恥じらっているようだった。街では同じ年ごろの娘が、もっと露出の多い着物を着ている。それなのに目の前の***は、膝丈の裾をつまんで、肌を隠すかのように時々引っ張っていた。その様子がいじらしく、そういう品行方正なところが、この娘の自分を惹きつける要因でもあると、土方は思った。
「土方さん、これ、大丈夫ですかね?…洋装ってみんなこんな風にぴたっとしてて、ぺらっとした布なんでしょうか?」
会場前で、真選組、万事屋共に集合した際に、心配そうな顔で***は土方に問いかけた。
「あぁ?まぁ和服とは生地も作りも違ぇからな、着てるうちに慣れる、我慢しろ……それよか***、土方さんじゃねぇよ、名前で呼べっつっただろうが」
「うっ……!そ、そうでした、でも、ちょっとなんか恥ずかしくて……」
「もう時間がねぇからとっとと呼べよ。おら練習しろ」
「と、と、トウシロウサン」
「だからなんでカタコトなんだよ、お前はァ~…」
しょんぼりとした顔の***は「ちょっと練習してきます」と言って、トウシロウサントウシロウサン…とつぶやきながら、ふらふらと離れて行った。はぁ、とため息をつく土方を見て、銀時がさも嬉しそうにげらげらと笑った。
「残念だったね土方くん、***はそう簡単にお前の名前なんて呼んじゃくれねぇよ。だってあいつめっさ初心だもん、お前みたいなケダモノの名前呼べるほど世間擦れしてねぇもん」
「アァ?うるせぇな、初心だろうがなんだろーが、婚約者役やるっつーんだから、無理やりにでも呼ばせてやるよ」
「無理やりにでもってなに?なにするつもり?あんな小娘相手になにができるっつーの?言っとくけど、あいつの後ろに俺たちがいることを忘れんなよ。少しでも手荒なマネしやがったら、身体中の穴という穴に、マヨボロ差し込んでヤニ漬けにしてやるよ、土方くん」
「おー、上等じぇねぇか。ちょうどここは禁煙でな、ヤニ切れでイライラしてたとこなんだ。持ってきてくれるんなら何本でも吸ってやるよ。おめーがあいつの後ろにいようが前にいようが、ここにいる間は俺の女を演じてもらう。おとなしく指くわえて見てろよ、初心な***がケダモノにエスコートされてるさまを」
「てめぇッッッッ!!!!」
いつも飄々としている銀時が、珍しく怒りを露わにした。土方の胸倉をつかむと壁に押し付ける。後頭部が壁にあたる「ゴン」という音を聞いて、飛んできた近藤が慌てて止めに入った。
花見の時もそうだったが、***のこととなると銀時がずいぶん必死になることに、土方は気付いていた。確かに純粋すぎるといっていいほどの***を、守りたくなる気持ちは分かる。しかし土方の目には、銀時がまるで番犬のように見えた。主人に指一本でも触れた男は、構わず噛み殺すような狂暴な犬に。
自分を睨みつける憤怒をにじませた赤い瞳を見つめて、土方は口角を上げてふっと笑うと、嘲るような声で言った。
「どっちがケダモノだよ……テメェの顔、鏡で見てみやがれ」
「………チッ」
つかんでいたシャツを乱暴に離すと、銀時は離れていった。
万事屋の面々が持ち場につく。もうすぐ開場されて、パーティーがはじまる。壁に向かって立って、ぶつぶつと名前を呼ぶ練習をしている***に、土方が声をかけた。
「おい、もう始まるぞ」
「わ、分かりました、トウシロウサン」
「全然変わってねぇじゃねーか!なんのための練習だよ!おい、近藤さん、どうすりゃいいんだコレ」
「そうだなぁ」と言った近藤が、首をひねって少し考えてから、あっという顔をすると***を見つめた。
「なぁ、***ちゃんには、お父さんとお母さんはいるか?」
「え?両親は田舎にいますけど……」
「例えばだけど、お母さんがお父さんを呼ぶ時ってどんな感じだろう。こう妻が夫を呼ぶ時みたいな感じて、トシの名前を呼ぶことはできないかな?」
「母が父を呼ぶ時ですか…?」
記憶をたぐりよせるように、***は両親の顔を思い浮かべる。確かに母は親しみをこめて父の名を呼ぶ。あの呼び方は確かに愛する人を呼ぶときの声だ。
―――でもそれって、お母さんがお父さんを呼ぶ時だけだろうか……
そんなことを考えながら、***は土方を見つめる。そうだ、私はこの人の婚約者役なのだから、愛情を込めて名前を呼ばなければ。好きな人の名前を呼ぶような、わくわくした気持ちで。
あ、なんか今なら呼べそうだ、と***は思った。
自然と口角が上がって、土方の瞳孔の開いた瞳を優しく見つめた。さっきまでは引きつってうまく出なかった声が、自然と唇からこぼれた―――
「十四郎さん……」
一瞬にして様子の変わった***を見て、土方も近藤も動きを止めた。先ほどのロボットのような呼び方とは打って変わって、その声は愛しい人を呼ぶような、甘い響きに満ちていた。
「………ッ!!!」
「***ちゃん、いいじゃないか!そうそうその調子でパーティーの間、トシのことを本当の婚約者だと思って、接してやってくれ」
「わぁっ!よかったぁ、近藤さんのおかげです!大丈夫ですよね、呼べてますよね、十四郎さん?」
「お、おお、いいんじゃねぇか、さっきよかマシだろ」
胸元を抑えて「ふぅ~よかったぁ」と言って、ほっとした顔をしている***を横目に見て、土方の胸はどぎまぎした。
―――ああ、こんな時、一本でも煙草が吸えりゃぁ
高まった鼓動がおさまる前に、ホテルのボーイがやってきて参列者の案内をはじめた。近藤に見送られて、ふたりでゲストの列へと入っていく。
「おい、***、腕つかまれ」
「え、あ、はい…こうですか?」
軽く曲げた土方の腕に、するりと白い手が入ってきた。その指の細さと身体に当たった腕のひ弱さに、土方は不安になる。周りには参列者が増え、ぞろぞろと会場の入り口へと流れていく。
人の波にまぎれて、油断すると***だけ弾き飛ばされてしまいそうだ。何も言わずに一瞬腕を解くと、肩に手を回して引き寄せた。
初心な娘が嫌がりはしないだろうかと、横目で***を見ると、自分を見上げて小さく微笑んでいた。まるで自分たちは長年連れ添ってきて、こうするのが当然とでもいうように、***はおとなしく身体を預けてきた。
煙草が吸いたくて、たまらなかった。
開け放たれた扉から、会場に一歩入った瞬間、***は顔を輝かせた。
「ぅわぁぁぁ~……十四郎さん、見てください、あのツララの親玉みたいなやつ、すごく綺麗です」
「ぶっ!なんだよツララの親玉って、シャンデリアだろうが」
「シャ?シャングリラ?そういうものがあるんですか?」
「は?そんなことも知らねぇのか、こうゆう高級ホテルには必ずある。くだらねぇ俗っぽい照明だよ」
「へぇ~、高級ホテルなんて来たことないですもん。田舎にもあんなものなかったから、はじめて見ました……きらきらしてて、宝石みたいですね」
セレブばかりのパーティー会場で、天井を見上げているのなんて、***ひとりだった。瞳を輝かせている横顔を見て、土方は心が温かくなった。
その後も見るものすべてが物珍しいのか、***はなにかにつけて「十四郎さん、これはなんですか」と聞いてきた。土方はそれにひとつひとつ丁寧に答えた。
周りに人が多い時には肩を抱き寄せながら。声が届かないときは耳に顔を寄せながら。
ガラス張りの窓の近くへ行くと、***は目を見開いて景色を眺めた。子供のような顔である一点を指さすと、「あっちの方が真選組の屯所のあるほうですよね?」と言った。
土方が「そうだ」と頷くと、婚約者らしくない言葉だと心配したのか、背伸びをして内緒話をするように「以前、うかがった時に地図を見ながら行ったので分かりました」と、はにかみながら***は言った。
土方もまた婚約者らしくない話になってしまう為、そっと***の耳元に顔を寄せるとささやいた。
「***がいつも登ってる急な坂は……あの辺りだな。あれからずいぶん経つが、登り切れたのか?」
そう聞かれた***は嬉しそうに顔をほころばせて、再び背伸びをすると、土方の耳元にささやき返した。
「十四郎さん、覚えてくれてたんですね!すごいですよ、もうすぐ頂上まで登れそうです」
周りが騒々しくて、「そうか、よかったな」と言った声は、***の耳には届かなかった。しかし土方は、多分***は、あの長い坂の半分も登れていないのだろうと想像して、自然と笑いが込み上げてきた。
理由が分からないが、楽しそうに笑った土方を見て、***も嬉しくなって微笑んだ。
「十四郎さん、これマヨネーズつけたらおいしそうですよ?」
テーブルに並んだ料理を指さして、***が言う。
「おい、こんな高級ホテルにマヨネーズが常備してあるわけねぇだろ。もちろん俺としては不本意だがな。マイマヨネーズもさっき近藤さんに没収された」
「えっ!?ありますよマヨネーズ」
そう言って***は、パーティー用の小さなバッグのがま口をパカリとあけた。土方がのぞき込むと、その中にはレギュラーサイズのマヨネーズが1本だけ入っていた。
「はっ!!?お前、これだけ入れて持ってきたのかよ!?」
「えっ!?駄目でした!?……だってパーティーに何を持って行けばいいのか分からなかったから……」
「いや、もっと必要なもんがあるだろ、女が使う細々したもんとか」
「で、でも……十四郎さんと一緒のパーティーだから、十四郎さんが必要なものの方がいいかなって思って、持ってきてみたんですけど……」
そう言ってしゅんとした***を見て、土方の胸がぎゅっと締め付けられた。
―――なにこれ、なにコイツ、すげぇいい子なんだけどぉ!子犬みてぇにしょんぼりしてんのもすげぇ可愛いんだけどぉぉぉ!
頭の中の叫びを振り払うように、ガシガシと後頭部をかく。肩を落としてバッグの口を閉めようとしている***に手を伸ばすと、頭をぽんと撫でた。
「***、ありがとよ、つけて食ってみよーぜ」
その返答を聞いた***は、ぱっと顔を明るくした。
ウェイターや他の客が見ていないかふたりできょろきょろする。土方の「今だ」を合図に、***がこっそり出したマヨネーズを料理にかける。ふたりでぱくりと食べる。
「んんッ!……やっぱりマヨネーズは最高ですね!」
「おい***、もっとかけろ全然足りねぇ」
マヨネーズだらけの料理を口に含んだ***が、口元を両手で覆って土方をちらりと見た。何も言わずに土方がふっと笑うと、***は微笑んで「おいしい」と小さな声で言った。
このパーティー会場でふたりだけの秘密を共有する、共犯者同士の目くばせとつぶやきだった。
ふと周りを見回すと、すました顔で社交辞令を言い合う、いけ好かないセレブ達ばかりだった。
宝石のようなシャンデリアにも、江戸を見渡せる眺望にも、美味しい料理にも、誰も見向きもしない。野心を隠しもせず、損得勘定ばかりして、退屈そうにパーティーを過ごしている。
本来こういう場が死ぬほど嫌いな土方も、仕事の上で致し方なく参加する時がある。しかし今日ほど気持ちが穏やかに過ごせたことはない。どれほど周りに嫌悪すべき俗物たちがいようと、隣で***が笑っていることで、心が清められるのだ。
「***、離れんな」
「はい、十四郎さん」
肩を抱くと、大人しく身を寄せてくる***を見下ろす。普段は着ないワンピース姿には、洗練された美しさがあった。最初に見た時、装いだけで女はこんなにも変わるものかと驚いた。
しかしふとした瞬間に***が見せる、いつもの素朴な笑顔や姿が、土方の胸を打った。それは可愛いとか初心とか、そういう言葉では全然言い尽くせない。自分を見上げる***の瞳にはそれ以上のなにか、愛しさのようなものが込められているように感じて。
ふとパーティー会場の人々の波間を塗って、わずかな殺気が土方の背中に届いた。あの野郎だな、とすぐに分かる。
―――大人しく番犬してやがれ、ケダモノが……
万事屋が潜んでいるであろう方角に向けて、わざとよく見えるように***の肩を抱く。何も知らずに微笑みながら、自分を見上げる愛らしい瞳を、じっと見つめる。何も言わない土方に、***は不思議そうな顔をする。
「十四郎さん……?大丈夫ですか」
「ああ、なんでもねぇ」
信頼しきった眼差しで見つめられ、愛する人を呼ぶような声で名前を呼ばれて、***のそれが演技なのかどうか、もはや土方にはよく分からない。もう一度、細い肩に回した腕に力を込めて、心の中で小さく呟いた。
―――今すぐ煙草が吸いてぇ……
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【第10話 獣の微笑み】end