銀ちゃんの恋人
永遠のひと
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【(5)真っすぐな人】
真選組屯所の土方の自室に通いの医者が来ていた。老医師はケガの具合を見て驚愕する。二週間前に負傷した土方が信じられない早さで回復していたからだ。事件直後はひどいありさまで身体中に包帯を巻き、撃たれた右脚を引きずって、一昨日まで松葉杖をついていたというのに。
「さすがは鬼の副長さんですなぁ……。銃弾が脚を貫通したってのに、二週間でもう歩いておられる。ツワモノ揃いの真選組には医者もお呼びじゃないでしょう。わしの仕事もじき無くなりそうだ」
「いやァ先生、そんなこと言われたら困っちまうよ。うちは血の気の多い男所帯で毎日ケガ人が絶えねぇ。だから先生みてぇな腕のいい医者に来てもらわねぇと俺たちこそ仕事ができないさ」
笑って煙草を吹かす土方に、医者はくれぐれも無理はするなと言って帰っていった。入れ違いでやってきた隊士たちが、報告書やら依頼書やらを次々と置いていく。受け取った書類に目を落とした時、またもや戸が開いて入ってきたのは近藤だった。
「オイッ、トシ!お前、何やってるんだ!ケガが治るまでは休めと言っただろーが!」
「そうは言ってもな近藤さん、休んでる間に仕事はたまる一方だし、せめて書類だけでも片付けねぇと」
「ダメったらダメだ!どいつもこいつも俺の言うことなんてまるで聞きやしない!総悟のヤツもミツバ殿の四十九日までは田舎でゆっくりしてこいと休暇に出したのに、明後日にはもう帰ってくるというし……」
やれやれと首を振った近藤が、土方の手から書類を取り上げた。ケガが完治するまで仕事はさせない。これは局長命令だ。そう命じる顔はいつになく真剣だった。
貿易商の摘発事件に近藤が責任を感じているのは分かっていた。単独行動の非は自分にあると土方がいくら弁明しても、その役目を部下ひとりに負わせたのは局長がふがいないせいだ、と自分を責めている。
全治数週間の大ケガは自分のせいだと、溜まった書類をすべて近藤が奪った。隊服に着替えようとすると怒りの形相で止められて、紺色の着流しを手渡される。
休日の装いになった土方は、ほとんど追いやられるように屯所を後にした。部屋に居たら働いてしまうとバレている。しかたなく街へと歩き出した土方の背中に、おおらかに笑った近藤が「松葉杖も外れたことだし、ゆっくり息抜きしてこいよ」と手を振った。
「息抜き、っつってもなぁ……」
せいぜい飯屋へ行って、煙草を吸うくらいしか思い浮かばなかった。映画でも見るかと劇場へ行ったが目ぼしい作品もない。サウナで汗を流すのも良かったが、全身に生々しい傷がある状態では周りの目が気になって落ち着かないだろう。しかたなくパチンコ屋の前の喫煙所で煙草を何本も吹かしながら佇んでいると、知った声が耳に飛び込んできた。
「オイィィィ離せよ***~!銀さん一発当ててくっから、お前は良い子で待ってろってぇ。今日はすっげぇ出そーな気がすんだよ。お前はここで見ててくれればいいから!それだけでいいから!300円あげるからァァァ!俺んなかのギャンブラーの血が猛ってるうちに、さっさと台につかせろってんだコノヤロォォォ!!!」
「んぎぎぎぎ、銀ちゃんんん!!きょっ、今日はスーパーにお菓子買いに行くって、約束したじゃないですか!あっ、ちょッと、待ってってば!もぉ!私このお店、入れないのに~~~!!!」
「あ゛……?アイツら何やってんだ……?」
土方が目を向けた時、銀髪の天パ侍はパチンコ屋に足を半分踏み入れていた。店内の騒音でふたりの声がかき消える。***は必死の形相で何か叫びながら、水色の渦巻き模様の袖をつかんで引き留めていた。しかし自動ドアのガラス扉に遮られ、ひとりで取り残されてしまう。閉まったドアに向かって「銀ちゃんってば!」と叫んだ大声も届くことなく、立ち尽くす***に土方は後ろから近づいて肩をポンッと叩いた。
「わっ!土方さん、お久しぶりです。こんな所で会うなんて珍しいですねぇ!」
「***こそ、こんなトコで何してやがる?あの天パ野郎を呼んでんなら、店に入りゃぁいいじゃねぇか」
「え、あ、えぇっと……だ、ダメなんです、実は私」
このパチンコ店で出入り禁止を食らっていて、と***が言うので土方は耳を疑った。
***のような品行方正でおとなしい女が、なぜ出禁なんかになるのだ?不思議がっていると、***は恥ずかしそうにワケを話してくれた。
パチンコは生涯で一度しかやったことがない。数年前、銀時にむりやり連れてこられて、言われるがまま台についた時だけ。それなのにビギナーズラックが炸裂して、周りに注目されるほどの大当たりの連続だった。まるで機械が故障したかのように銀の玉が溢れ出して、換金する時に店のオーナーから「これじゃ商売上がったりだ。アンタは二度と来ないでくれ」と釘を刺されてしまった。
「ぶはッ!そいつァすげぇや!まさか***みてぇな娘がパチ屋で出禁なんざあり得ねぇと思ったがなぁ」
「自分でもびっくりでした。初めて来たのに二度と来るなって言われるなんて、私はよっぽどパチンコと相性悪いみたいで」
「いや、むしろ相性がいいんじゃねーか?磁石みてぇに玉が***にひっついてきたんだろ?その引きの強さをあの天パにも分けてやりゃいいじゃねーか。あの野郎の言うとおり今日は大当たりするかもしれねぇ」
「いえ、それが銀ちゃんは全然ダメで……こないだも私ここで応援してたんですけど、みるみるうちに5万円もスッちゃって」
「ぶはははッ!ったく……どうしようもねぇ野郎だな、お前の彼氏はほんとに」
久しぶりに腹の底から笑って、土方はガラス越しに店内を眺めた。メタリックなスロット台がギラギラと光る。それに向かう銀時の背中はいかり肩で、絶対に当てるという気迫に満ちていた。数時間後には情けなく猫背になってしょぼくれると予想したら、あまりにおかしくて、またふつふつと笑いがこみ上げてきた。
その隣で***は「ああなった銀ちゃんはもう止められないんです」と肩を落とした。
「一緒にスーパーへ行くって約束したんですけど……タイムセールについてきて貰いたかったのに、これじゃ無理そうです。あれ?ところで土方さんは今日はお休みですか?それでパチンコに?」
「あぁ、まぁな。いや、タバコ吸うのに寄っただけで店には入らねぇよ。あいにく俺ァ万事屋の野郎と違って倹約家でね、賭けごとに金使うくれぇならマヨネーズを買うさ」
それを聞いた***は感激して、首が取れそうなほどウンウンと頷いた。「その言葉を銀ちゃんに聞かせてあげて下さい!」と真剣に頼まれたが、そんなことをしたら銀時は激怒して絶対に突っかかってくる。そんな無意味な喧嘩なんてまっぴらごめんだ。そう思いながらも大真面目に訴えてくる***が可笑しくて、土方は声もなくフッと笑った。
時間を持て余していたと告げた土方に、***は少し考えてから買い物に付き合ってもらえないかとおずおずと尋ねた。タイムセールでたくさん買うには人手がいる。
その理屈は分かるが、と土方は悩みながら店内の銀時を指さして聞き返した。
「俺ァ構わねぇが……あの白髪野郎はいいのかよ?」
「銀ちゃんはまだ終わらなそうですし、あぁ、でも……せっかくの休日にお買い物の付き合いをさせるなんて、さすがに失礼でしたね」
やっぱり大丈夫です、と気まずそうに苦笑いする***を、土方は「全く失礼じゃない」と遮った。すると***は顔をぱぁっと輝かせて、土方の紺色の着流しの袖をぎゅっと掴んだ。タイムセールはあと30分で始まってしまう。そう言って足早に歩き出した***に袖を引かれながら、土方は大江戸スーパーへと向かったのだ。
今までたくさんの猛者達を倒してきた。
腕の立つ浪士や危険なテロリストたち。剣の腕だけでいくつもの死線をくぐりぬけてきた。だが今、見たこともない戦いを前に足がすくんでいる。
大江戸スーパーのタイムセールで、主婦たちが繰り広げる争奪戦はあまりにも激しい。赤子のように何も出来ない土方は、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
「ひっ、土方さん、大丈夫ですか!?」
「***っ!?お前どこに居んだよ!?い、いったい何なんだこりゃぁぁぁ!?」
「これがタイムセールです!ここは戦場です!早くこっちに来て次の獲物を、あっヤダ、おせんべい落としちゃった!土方さんソレ拾ってください!!」
「拾えったってお前がどこに居んのかも分かんねぇって!痛、イテテテテ、クソッ押すなよコノヤロー!!」
揉み合いへし合いの人ごみのなか、***の声だけが頼りだった。背が高く身体つきもいい土方を、主婦たちの手刀や肘鉄が襲ってくる。ついさっきは、タックルばりの体当たりをされて少しよろけてしまった。
いや俺ケガ人なんですけど、と呆れながら視線を下げると、***の頭が見えた。小柄な身体でするすると人波を泳いで近づいてくる。すでに抱えていた沢山のお菓子が入った買い物カゴを土方に押し付けた。
「土方さんはコレを死守してください!私は前に出るので後方支援をお願いできますか?人の中にいると何がどこで売ってるのか分からないんです。どっちの方に行けって指示して貰えたら動きますから」
「お前の位置を後ろから見て、次に動く方を言やいいんだな?分かった!俺が離れて大丈夫か?攻撃されても負けんじゃねーぞ***!!」
「はい、大丈夫です!……もし私が倒れたら、その時は土方さんが私の使命を果たして下さいね!!」
「くっ、***、承知した!!」
真っすぐに前を向いて人波に飛び込んでいく。その小さな背中を見たら、土方は胸が熱くなった。
そうか、***や江戸の主婦たちは、家族のために毎日こんな激戦を生き抜いているのか。真選組の戦いと大差ないほど過激なこの戦を。
しんみり思いながら土方は後ろに下がり、人ごみから離れて***の頭に注目した。たしか肉と野菜と菓子を買いたいと言っていたはず。自分のすべきことを見定めると眉をキッと寄せて、腹の底から叫んだ。
「***に告ぐ!十時の方角で肉だ!国産豚小間、100グラム78円!うしろから婆さんふたりのタックル来るぞ!気を付けろ!!!」
人だかりのなかで***は指示通りに動いた。
後ろから襲いかかる体当たりを、振り向きもせずひらりと避けて、思いっきり伸ばした手が豚肉のパックをいくつも掴んだ。それを見た土方が「おっし!」とガッツポーズをする。二手に分かれる作戦が功を奏し、肉も野菜も菓子も破格の値段で手に入れることが出来た。
戦果は大きな段ボール箱ふたつがいっぱいになるほどだった。ほくほく顔の***が抱える箱は、スナック菓子の入った軽い方。土方は少し疲れながらも、勝ち戦の達成感と充足感に包まれていた。肉と野菜がどっさり入った重たい箱さえ、宝箱みたいに誇らしい。
「土方さん、本当にありがとうございました!さすがは真選組の副長さん、的確な指示と抜かりのない戦略に、周りの人たちはみんな舌を巻いてましたよ。おかげでこんなにたくさん買えて、私は大助かりです!」
「それを言うなら***も良い戦いっぷりだったぜ。外からの攻撃をうまく避けて、ちゃんと獲物を捕らえて無事に帰ってきた。うちの隊士達に見習わせたいくらい、見事な働きだったぜ」
ふたりは互いに褒め合いながらスーパーを後にした。通りを並んで歩きつつ、***とよもやま話をしていると、ひとりで過ごしていた時よりも心がずいぶん穏やかになっていることに、土方は気づいた。
———そういや、ここんところ人と喋ってなかった……
転海屋の事件以降、周りに気をつかわれている。
隊士達は土方を見ると皆一様にギクシャクして、事件に触れないようそそくさと立ち去った。こんな時にいつも無遠慮な総悟も、今回ばかりは距離を置かざるをえない。そして恐らく、ミツバへの想いを察している近藤は、他の誰よりも土方を気に掛けていた。「俺の責任だ」なんて言いながら、あの事件の後始末や関連書類の全てを遠ざけてくれたことにはとっくに気づいていた。ありがたい半面、気軽に話せる相手のいない息苦しさがあるのも事実だった。
「あれ、土方さん、もしかして……」
「どうした***?忘れモンか?」
他人と気兼ねなく過ごす時間に肩の力を抜いていたら、隣の***がふと立ち止まった。振り返った土方の足元をじっと眺めた後で、急に眉を八の字に下げて申し訳なさそうに言った。
「もしかして脚にケガをされてますか?ごめんなさい私、全然気づかずに無理をさせてしまって。座れるところで休まないと……こっちです!」
「おっ、オイ、***!」
治りかけのケガに気づかれて、心底驚いた。出血もなければ引きずってもいない。一般人が見たら普通に歩いているだけに見えるはず。しかし***は土方の歩き方の、ほんのわずかな違和感を察知した。前を行く背中に「なんで分かったんだ?」と訊くと、肩越しに振り返った***は、あっけらかんと笑って答えた。
「前に銀ちゃんがケガした時と同じ歩き方だったので分かりました。さぁ、河原で座って休みましょう!」
たぶん***だから気付けた。ケガの耐えないあの男をいつも近くで見守っているから。
本当にどうしようもねぇ野郎を彼氏に持ったなと思いながら、土方は声もなく笑った。
河川敷の草原にふたり並んで腰かけた。
シロツメクサが群生する川辺には、親子連れや老夫婦、子供たちが行きかっていて、昼下がりの温かな光が降り注いでいる。
スーパーでいつの間に買っていたのか、***は焼きそばパンと缶コーヒー、それからマヨネーズを土方に手渡した。さらにお菓子の入った段ボールから「これもおひとつどうぞ」と出したのは、唐辛子の絵が描かれた激辛せんべいだった。
———こいつァまた、アイツが好きそうな代物だな
ぼんやりとミツバを思い出して眺めていたら、***がまさにその名前を口にしたから、土方は驚きのあまりパンをノドに詰まらせそうになった。
「お友達にミツバさんって辛党の人がいて、このおせんべいがお気に入りなんです。だから今日は絶対にこれをゲットしたかったんです。今度お家に届けてあげようと思って!」
「んなっ……!?ゲホッ、ゴホゴホッ!」
「ひ、土方さん?大丈夫ですか?」
銀時が***とミツバを引き合わせたことは、山崎から聞いて知っていた。江戸に不慣れなミツバが、***のような女友達を得たのは幸運だと思っていた。
報告では、ふたりが会ったのはたった2日間。しかし山崎から見たミツバと***は「姉妹か大親友に見える」ほど仲睦まじかったらしい。
だからてっきりミツバの病気のことや、二週間前に亡くなったことも全て、***は知っていると思っていた。しかし***は何も知らないどころか、ミツバが総悟の姉であることすら気づいていなかった。
二週間前にミツバは急遽退院して、それきり会えていないと***は言った。銀時によると何か事情があって一時的に江戸を離れたらしい。苗字も住所も聞き忘れて、手紙も出せない。でも結婚の為に田舎から出てきたのだから、じきに帰ってくるだろう。そうしたら激辛せんべいを手土産に、嫁ぎ先のお屋敷を訪ねるつもりだ。
そう楽しげに言う***を見て、土方はくらりと眩暈を起こしかけた。
なぜ何も知らないんだ?あの天パ野郎は何を企んでやがる?いくら考えても銀時の頭の中なんて分かるはずもない。だが無邪気に笑う***に向かって、真実を伝えるなんて残酷なことはとても出来なかった。
———ミツバは肺を患って死んだ。その婚約者は違法取引をしていた。だから俺が斬った。そんなこと言えるはずがねぇ……
だから横目で***を盗み見て、何気なく言った。
「……田舎から引っぱり出されるほど、見合い相手に惚れこまれたってこたァ、よほどのべっぴんだったんだな、その女」
「えぇ、ミツバさんはとっても綺麗です。美人さんなのに飾らなくて、すごく優しくてちょっぴり天然で……笑い声まで素敵でした。クスクス笑う声がこのシロツメクサが揺れるみたいに可愛らしいんです」
そう言って***は手を伸ばし、地面に万遍なく咲いているシロツメクサの花をそっと撫でた。白い花と一緒にたくさんの緑のクローバーが***の手の下で揺れる。それを見た土方の耳に、突然ミツバの声が蘇った。
———私も連れていって……十四郎さんの、そばにいたい……
***の言う通り、ミツバがこらえきれずに笑う時の声は可愛かった。江戸みたいな都会より自然豊かな田舎の似合う女だった。武州にいた頃、いつだかふたりで夕暮れを過ごした。赤とんぼが指先に止まって嬉しそうに微笑む横顔に見惚れたのを、今でも鮮明に思い出せる。
「そんな綺麗なミツバさんも、失恋したことがあるっていうから私、すっごくびっくりしたんです」
「んぶっっっっ!!!!!」
突然、思いもよらないことを***が言ったので、土方は飲みかけのコーヒーを吹き出した。再びゴホゴホとむせながら心配する***に向かって手で「大丈夫だ」と伝えた。そしてぽつりぽつりと***が語りはじめたことは、恐らくミツバが他の誰にも言っていない話だった。
「好きだった人にフラれたことがあるって言ってました。詳しいことはまた今度話して貰うんです。あんなに優しいミツバさんを悲しませるなんて罪な人も居たものですよね。私、もしもその人にいつか会えたら、パンチの一発や二発はお見舞いしてやりたいです」
「はっ……!?あ、あぁ、そそそそ、そーだな!い、良いんじゃないか?女の友情って感じで泣かせるじゃねーか。ままま、まぁ、でも少しは手加減してやれよな***!それにしてもこのせんべいは美味ぇな!!」
「えっ、土方さん、それ激辛せんべいですけど、そんなに一気に食べて大丈夫なんですか?」
「ぶっはァァァッッッ!!!??」
土方はまたしても吹き出した。ノドに走る辛さにむせながら、土方はミツバと***が大親友のように仲睦まじくなったワケを理解した。病気や身体のことよりも、家族のことよりも先に、ミツバは***に恋の話をした。胸に抱えて生きてきた秘密を、他の誰でもなく、たった2日しか会っていない***に打ち明けたのだ。そういえば***のゆるりとした雰囲気は、どことなくミツバに似ている。失恋を打ち上げるほどふたりが仲良くなった理由が、今ならよく分かった。
***は地面に膝を倒して、両手でクローバーの葉っぱを撫でている。土方はようやくせんべいの辛さが薄れて、煙草に火をつけるとゴホンッと咳払いをしてから再び口を開いた。
「その友達っつーのは、もうすぐ結婚すんだろ?家庭に入って幸せになりゃぁ昔の失恋なんざすぐに忘れるさ。まともな相手と所帯を持って、安心して暮らすのがいちばんの幸せだろ……ま、俺みてぇな斬った斬られたばかりの外道を行く野郎にゃ、関係ねぇ話だがな」
フッと自嘲気味に笑って煙を吐いた土方を、顔を上げた***が見つめた。何も言わずにしばらく悩んだあと、おもむろに地面に落ちていた千切れたクローバーをひとつ掴んで拾い上げた。ひときわ鮮やかな緑色で立派な葉が連なったそれは、赤子の手のひらほど大きな三つ葉のクローバーだった。
「ミツバさんは大切な人のことを……ずっと好きだった人のことを、すぐに忘れるような人じゃないんです。その人のことをずっと覚えていて、それでも結婚して幸せになって欲しいって私は思うんです。それに、土方さんは外道なんかじゃないし、関係なくもないんですよ?」
「関係ねぇよ……俺ァ、その女のこと何も知らねぇ」
気まずさに数十メートル先を流れる川をじっと見つめながらそう返すと、***は手に持った大きな三つ葉のクローバーを、土方の耳の上にそっと挿した。ハッとして横を向くと、***はミツバに似た柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「土方さんは外道なんじゃない。ホラ、この川辺だけでもいっぱい人が居て、子供たちや、お年寄りや、夫婦たちが行き交ってます。それを守ってるのが土方さんたち真選組です。足にケガを負ってまでこの街を……この江戸を守ってくれてる。私、ミツバさんと約束したんです。スーパーのタイムセールに連れていくって。江戸のお花見や夏祭りも一緒に行くって。そんな約束を交わせたのも土方さんが江戸を守ってくれてるからです。ミツバさんの幸せに土方さんは関係なくなんてないです。むしろ絶対に必要な人ですよ」
そんなことを言われるとは夢にも思っていなかったから、ぽかんとした土方の口端から、咥えていた煙草がポトッと落ちた。慌てて吸い殻を拾っている間「いやぁ」とか「それは」とか呟いたが、言葉は続かなかった。
代わりに土方は静かな声で***に尋ねた。
「そうか……約束、したのか」
「はい、約束しました」
太陽の光が川面に反射してキラキラと眩しい。その光の中で微笑んだ***が土方を見つめていた。
———ああ、アイツは生きてる
***の中でミツバは生きている。今でもあの温かく柔らかな微笑みを浮かべて、優しく明るい声で笑い、激辛なものを食べて、元気に生きている。
結婚して、江戸で暮らし、花見や夏祭りに行き、大江戸スーパーのあのタイムセールで買い物をしている。
陽光に輝く***の瞳の奥に、ミツバの姿が見えた。愛する女がそんな風に生きている世界を守りたいと思って生きてきた。そんな世界を守る為に、わき目も振らず真っすぐに進んできた。愛する女を守れる自分でいる為に、土方はミツバの気持ちに答えなかった。
目の前の***の中には、守りたかったものが今もある。それに気づいた瞬間、土方の右手は無意識に***の頬へと伸びていた。
「***が約束しちまったんなら、仕方ねぇな。その、ミツバさんとやらの為に、俺達お巡りはこれからも真面目に江戸を守るとするよ」
「はい、約束しちゃったので、お願いします。ミツバさんの為に、今後とも江戸の平和を守って下さい」
ふふっ、とはにかみながら、***は土方の手に頬を預けるように首を軽く傾げた。刀を握り続けて硬くなった無骨な手のひらに、ふんわりとした頬っぺたはとても柔らかい。
「私が激辛せんべいを食べて意識を飛ばした時、ミツバさんもこんな風に頬を撫でてくれたんです。土方さんの手はあったかくて硬いけど、ミツバさんの手はひんやりしていて柔らかかった……真逆ですね」
それを聞いたら、ますます***の顔から手を離せなくなる。その頬っぺたを通して、ミツバに触れているように思えて。ミツバの手に触れることを、土方は自分に一度も許さなかった。それなのに今、***の頬を包んだ手のひらから、ミツバの手のひんやりとした心地のよい温度や、柔らかな感触をありありと感じられる。
***の白い頬に片手を添えたまま、ぼんやりと思いに沈んでいた土方を、突然の大声が現実に引き戻した。
「ごらァァァ!!!***ッッッ!!!テメェ、一体こんなとこで何してやがんだ、って……オイィィィ!!!!なぁんでニコチンクソマヨラーが***と一緒に居んだよコノヤロォォォ!!!!」
「わっ、ぎ、銀ちゃん!?」
響き渡る声に土方が振り返ると、銀時が河川敷の坂の上からふたりの座っている草原をめがけて、凄い速さで駆け降りてきた。ズザザッと砂埃と共にやってきた銀時は、***の首根っこを掴んで土方からベリッと引き剥がす。いつもならそのまま、互いの胸ぐらを掴んで口喧嘩をするのだが、銀時は距離を取ったまま土方をギロリと睨んだ。
「で、土方くんはここで何してるわけ?」
「銀ちゃんがパチンコに夢中で付き合ってくれないから、土方さんがタイムセールに協力してくれたんですよ?おかげで万事屋のお肉とかお野菜とかいっぱい買えたんだから、銀ちゃんもお礼を言って下さい」
「はァァァ!?なんで俺がコイツに礼なんざ言わなきゃなんねんだよ!ぜってぇ嫌だね!っつーか、タイムセールで狙ってんのは菓子っつってたじゃねーか。なに肉とか野菜とかまで買っちゃってんの!?」
「万事屋てめぇ……このグラム78円の豚肉を買うのに、***がどんだけ苦労したかも知らねぇで、なんて無礼な口を聞きやがる。俺にじゃなくてオメェはまず***に頭を下げろ。下げねぇと江戸の全主婦たちを代表して、真選組がその首叩っ斬るぞ」
「あ゛ぁぁぁん!?オメェこそわけのわかんねぇこと言ってねーで頭下げろや!!特売のマヨネーズ吸いすぎて脳みそまで黄色いドロドロになったせーで無礼を言ってすいませんって地べたに手ぇついてよォォォ!!言っとくけどアレだよ?銀さんはこんな安っすい豚肉なんか食わねぇから。これを牛肉って信じてる神楽に食わして、***は俺にだけA5ランクの黒毛和牛とか出してんだからね!勘違いすんなよ!!」
「銀ちゃん、そんな見栄を張るのやめようよ、恥ずかしいですって。もちろんお肉だけじゃなくて、お菓子も買ったよ。ほら、ミツバさんに持っていく為の激辛せんべいとハバネロチップス!」
銀時は仁王立ちで土方に向かい合ってギャーギャーと騒いでいたが、間に割り入った***が「ミツバ」という名前を発した途端、ハッとして口をつぐんだ。ほんの一瞬、険しい表情を浮かべ、伺うようにチラッと土方を盗み見る。紅い瞳のその動きだけで土方は全てを察した。そして銀時にだけ分かるようにわずかに首を横に振った。
———何も言ってねぇよ、***にミツバのことは
その刹那の目配せに***は気づかない。はたからみれば殴り合う寸前のように睨み合うふたりだったが、急に銀時がため息をついた。
「はぁぁ、ったく、クソマヨラーと喋ってるとこっちまで脳みそが溶けて犬の餌になっちまわぁ。***、帰ぇるぞ」
「え?あっ、で、でも土方さんが、うわわっ!!」
地面に置いていたお菓子入りの大きな段ボールを、銀時がひょいっと持ち上げて***の腕に乗せた。そして重たい方の箱を抱えて、投げやりに「そんじゃーな」と言うとくるっと向きを変える。銀時に背中を押されるがまま***は歩き出したが、肩越しに土方を振り返って言った。
「土方さん、今日は本当にありがとうございました!足のおケガ、お大事になさってください」
「あぁ、***も気をつけて帰れよ」
土方は片手を上げて、離れていくふたりを見送る。
が、数十メートルほど離れた所でふたりはふいに立ち止まって、銀時が***に何か耳打ちをした。どうせ自分の悪口だろうと思い、眉間にシワを寄せて見ていた土方に、くるりと振り返った***が河川敷中に響きそうな大きな声で言った。
「土方さんには、ミツバがよく似合ってます!!」
って銀ちゃんが言ってます!
そう続いた台詞の意味が、なんのことだか分からなかった。しかし、わずかに首を捻った銀時の紅い瞳が、ちらりと土方の耳のあたりを見たからハッとする。***が挿した大きな三つ葉のクローバーが、土方の耳の上で揺れていた。
「なっ……!?」
驚いて耳元を押さえ、そこからクローバーの葉を掴んで引き抜いた。顔を上げた時にはもうふたりは背を向けていて、河原の坂道を真っすぐに登っていき、登り切った先で見えなくなった。
「三つ葉、の、クローバーか……」
残された土方は手の中の大きな葉を見下ろして静かに笑った。新しい煙草に火をつけて、川岸まで歩く。春らしく気持ちのいい風に頬を撫でられて、そういえばミツバの声はそよ風みたいに軽やかで愛らしかったと思い出した。
うつむけば足元ではたくさんのシロツメクサと緑色のクローバーが揺れていて、いつだかミツバが呼んでくれた時の「十四郎さん」という声が耳元に蘇った。
「そこに居るのか……?」
誰にも聞こえない呟きと共に土方はあたりを見渡す。
買い物袋を手に歩いていく若い主婦が、ミツバの面影と重なった。元気よく走っていく子供とそれを追いかける母親は、いつか見れたかもしれないミツバとその子供の姿に思えた。老夫婦が寄り添って静かに歩いていく。その妻の方が幸福そうな微笑みを浮かべて、通りすぎながら土方に軽い会釈をした。ミツバはきっとこんな老婦人になったことだろう。
———不思議なモンだな。死んじまったのに、もう居ねぇってのに……俺ァ今まででいちばん、お前のことを近くに感じてるよ
ミツバを失った悲しみが薄れることはない。
でも後ろを振り返らずに、前だけを見て真っすぐに生きていく覚悟は、とっくの昔にできていた。
川は午後の光に輝いてセピア色に染まる。
土方は身をかがめて、手のひらの三つ葉のクローバーを水面へそっと浸した。緑の葉はわずかに揺れて水の上に軽々と浮かぶと、川の流れに乗って気持ちよさそうに泳ぎ出す。
三つ葉のクローバーはするすると滑らかに流れて、江戸を横断して大きな川へ出るだろう。さらにその先の湾岸へ、やがて大海原へ、いずれは世界の果てまで辿り着くかもしれない。
———守るさ、お前の居る場所なら、どこだって
深く吸った煙草の煙を吐きながら、空に向かって組んだ両手を突き上げ「うーん」と大きな伸びをした。足の痛みも、心の重苦しさも、もう感じない。
背筋をしゃんと伸ばし、地面をしっかりと踏みしめた土方は真っすぐに前を向いて、粛々と流れる川と三つ葉のクローバーをいつまでも見つめていた。
--------------------------------------------
【(4)真っすぐな人】to be continued...
あなたが守った街のどこかで
真選組屯所の土方の自室に通いの医者が来ていた。老医師はケガの具合を見て驚愕する。二週間前に負傷した土方が信じられない早さで回復していたからだ。事件直後はひどいありさまで身体中に包帯を巻き、撃たれた右脚を引きずって、一昨日まで松葉杖をついていたというのに。
「さすがは鬼の副長さんですなぁ……。銃弾が脚を貫通したってのに、二週間でもう歩いておられる。ツワモノ揃いの真選組には医者もお呼びじゃないでしょう。わしの仕事もじき無くなりそうだ」
「いやァ先生、そんなこと言われたら困っちまうよ。うちは血の気の多い男所帯で毎日ケガ人が絶えねぇ。だから先生みてぇな腕のいい医者に来てもらわねぇと俺たちこそ仕事ができないさ」
笑って煙草を吹かす土方に、医者はくれぐれも無理はするなと言って帰っていった。入れ違いでやってきた隊士たちが、報告書やら依頼書やらを次々と置いていく。受け取った書類に目を落とした時、またもや戸が開いて入ってきたのは近藤だった。
「オイッ、トシ!お前、何やってるんだ!ケガが治るまでは休めと言っただろーが!」
「そうは言ってもな近藤さん、休んでる間に仕事はたまる一方だし、せめて書類だけでも片付けねぇと」
「ダメったらダメだ!どいつもこいつも俺の言うことなんてまるで聞きやしない!総悟のヤツもミツバ殿の四十九日までは田舎でゆっくりしてこいと休暇に出したのに、明後日にはもう帰ってくるというし……」
やれやれと首を振った近藤が、土方の手から書類を取り上げた。ケガが完治するまで仕事はさせない。これは局長命令だ。そう命じる顔はいつになく真剣だった。
貿易商の摘発事件に近藤が責任を感じているのは分かっていた。単独行動の非は自分にあると土方がいくら弁明しても、その役目を部下ひとりに負わせたのは局長がふがいないせいだ、と自分を責めている。
全治数週間の大ケガは自分のせいだと、溜まった書類をすべて近藤が奪った。隊服に着替えようとすると怒りの形相で止められて、紺色の着流しを手渡される。
休日の装いになった土方は、ほとんど追いやられるように屯所を後にした。部屋に居たら働いてしまうとバレている。しかたなく街へと歩き出した土方の背中に、おおらかに笑った近藤が「松葉杖も外れたことだし、ゆっくり息抜きしてこいよ」と手を振った。
「息抜き、っつってもなぁ……」
せいぜい飯屋へ行って、煙草を吸うくらいしか思い浮かばなかった。映画でも見るかと劇場へ行ったが目ぼしい作品もない。サウナで汗を流すのも良かったが、全身に生々しい傷がある状態では周りの目が気になって落ち着かないだろう。しかたなくパチンコ屋の前の喫煙所で煙草を何本も吹かしながら佇んでいると、知った声が耳に飛び込んできた。
「オイィィィ離せよ***~!銀さん一発当ててくっから、お前は良い子で待ってろってぇ。今日はすっげぇ出そーな気がすんだよ。お前はここで見ててくれればいいから!それだけでいいから!300円あげるからァァァ!俺んなかのギャンブラーの血が猛ってるうちに、さっさと台につかせろってんだコノヤロォォォ!!!」
「んぎぎぎぎ、銀ちゃんんん!!きょっ、今日はスーパーにお菓子買いに行くって、約束したじゃないですか!あっ、ちょッと、待ってってば!もぉ!私このお店、入れないのに~~~!!!」
「あ゛……?アイツら何やってんだ……?」
土方が目を向けた時、銀髪の天パ侍はパチンコ屋に足を半分踏み入れていた。店内の騒音でふたりの声がかき消える。***は必死の形相で何か叫びながら、水色の渦巻き模様の袖をつかんで引き留めていた。しかし自動ドアのガラス扉に遮られ、ひとりで取り残されてしまう。閉まったドアに向かって「銀ちゃんってば!」と叫んだ大声も届くことなく、立ち尽くす***に土方は後ろから近づいて肩をポンッと叩いた。
「わっ!土方さん、お久しぶりです。こんな所で会うなんて珍しいですねぇ!」
「***こそ、こんなトコで何してやがる?あの天パ野郎を呼んでんなら、店に入りゃぁいいじゃねぇか」
「え、あ、えぇっと……だ、ダメなんです、実は私」
このパチンコ店で出入り禁止を食らっていて、と***が言うので土方は耳を疑った。
***のような品行方正でおとなしい女が、なぜ出禁なんかになるのだ?不思議がっていると、***は恥ずかしそうにワケを話してくれた。
パチンコは生涯で一度しかやったことがない。数年前、銀時にむりやり連れてこられて、言われるがまま台についた時だけ。それなのにビギナーズラックが炸裂して、周りに注目されるほどの大当たりの連続だった。まるで機械が故障したかのように銀の玉が溢れ出して、換金する時に店のオーナーから「これじゃ商売上がったりだ。アンタは二度と来ないでくれ」と釘を刺されてしまった。
「ぶはッ!そいつァすげぇや!まさか***みてぇな娘がパチ屋で出禁なんざあり得ねぇと思ったがなぁ」
「自分でもびっくりでした。初めて来たのに二度と来るなって言われるなんて、私はよっぽどパチンコと相性悪いみたいで」
「いや、むしろ相性がいいんじゃねーか?磁石みてぇに玉が***にひっついてきたんだろ?その引きの強さをあの天パにも分けてやりゃいいじゃねーか。あの野郎の言うとおり今日は大当たりするかもしれねぇ」
「いえ、それが銀ちゃんは全然ダメで……こないだも私ここで応援してたんですけど、みるみるうちに5万円もスッちゃって」
「ぶはははッ!ったく……どうしようもねぇ野郎だな、お前の彼氏はほんとに」
久しぶりに腹の底から笑って、土方はガラス越しに店内を眺めた。メタリックなスロット台がギラギラと光る。それに向かう銀時の背中はいかり肩で、絶対に当てるという気迫に満ちていた。数時間後には情けなく猫背になってしょぼくれると予想したら、あまりにおかしくて、またふつふつと笑いがこみ上げてきた。
その隣で***は「ああなった銀ちゃんはもう止められないんです」と肩を落とした。
「一緒にスーパーへ行くって約束したんですけど……タイムセールについてきて貰いたかったのに、これじゃ無理そうです。あれ?ところで土方さんは今日はお休みですか?それでパチンコに?」
「あぁ、まぁな。いや、タバコ吸うのに寄っただけで店には入らねぇよ。あいにく俺ァ万事屋の野郎と違って倹約家でね、賭けごとに金使うくれぇならマヨネーズを買うさ」
それを聞いた***は感激して、首が取れそうなほどウンウンと頷いた。「その言葉を銀ちゃんに聞かせてあげて下さい!」と真剣に頼まれたが、そんなことをしたら銀時は激怒して絶対に突っかかってくる。そんな無意味な喧嘩なんてまっぴらごめんだ。そう思いながらも大真面目に訴えてくる***が可笑しくて、土方は声もなくフッと笑った。
時間を持て余していたと告げた土方に、***は少し考えてから買い物に付き合ってもらえないかとおずおずと尋ねた。タイムセールでたくさん買うには人手がいる。
その理屈は分かるが、と土方は悩みながら店内の銀時を指さして聞き返した。
「俺ァ構わねぇが……あの白髪野郎はいいのかよ?」
「銀ちゃんはまだ終わらなそうですし、あぁ、でも……せっかくの休日にお買い物の付き合いをさせるなんて、さすがに失礼でしたね」
やっぱり大丈夫です、と気まずそうに苦笑いする***を、土方は「全く失礼じゃない」と遮った。すると***は顔をぱぁっと輝かせて、土方の紺色の着流しの袖をぎゅっと掴んだ。タイムセールはあと30分で始まってしまう。そう言って足早に歩き出した***に袖を引かれながら、土方は大江戸スーパーへと向かったのだ。
今までたくさんの猛者達を倒してきた。
腕の立つ浪士や危険なテロリストたち。剣の腕だけでいくつもの死線をくぐりぬけてきた。だが今、見たこともない戦いを前に足がすくんでいる。
大江戸スーパーのタイムセールで、主婦たちが繰り広げる争奪戦はあまりにも激しい。赤子のように何も出来ない土方は、ただ茫然とその場に立ち尽くしていた。
「ひっ、土方さん、大丈夫ですか!?」
「***っ!?お前どこに居んだよ!?い、いったい何なんだこりゃぁぁぁ!?」
「これがタイムセールです!ここは戦場です!早くこっちに来て次の獲物を、あっヤダ、おせんべい落としちゃった!土方さんソレ拾ってください!!」
「拾えったってお前がどこに居んのかも分かんねぇって!痛、イテテテテ、クソッ押すなよコノヤロー!!」
揉み合いへし合いの人ごみのなか、***の声だけが頼りだった。背が高く身体つきもいい土方を、主婦たちの手刀や肘鉄が襲ってくる。ついさっきは、タックルばりの体当たりをされて少しよろけてしまった。
いや俺ケガ人なんですけど、と呆れながら視線を下げると、***の頭が見えた。小柄な身体でするすると人波を泳いで近づいてくる。すでに抱えていた沢山のお菓子が入った買い物カゴを土方に押し付けた。
「土方さんはコレを死守してください!私は前に出るので後方支援をお願いできますか?人の中にいると何がどこで売ってるのか分からないんです。どっちの方に行けって指示して貰えたら動きますから」
「お前の位置を後ろから見て、次に動く方を言やいいんだな?分かった!俺が離れて大丈夫か?攻撃されても負けんじゃねーぞ***!!」
「はい、大丈夫です!……もし私が倒れたら、その時は土方さんが私の使命を果たして下さいね!!」
「くっ、***、承知した!!」
真っすぐに前を向いて人波に飛び込んでいく。その小さな背中を見たら、土方は胸が熱くなった。
そうか、***や江戸の主婦たちは、家族のために毎日こんな激戦を生き抜いているのか。真選組の戦いと大差ないほど過激なこの戦を。
しんみり思いながら土方は後ろに下がり、人ごみから離れて***の頭に注目した。たしか肉と野菜と菓子を買いたいと言っていたはず。自分のすべきことを見定めると眉をキッと寄せて、腹の底から叫んだ。
「***に告ぐ!十時の方角で肉だ!国産豚小間、100グラム78円!うしろから婆さんふたりのタックル来るぞ!気を付けろ!!!」
人だかりのなかで***は指示通りに動いた。
後ろから襲いかかる体当たりを、振り向きもせずひらりと避けて、思いっきり伸ばした手が豚肉のパックをいくつも掴んだ。それを見た土方が「おっし!」とガッツポーズをする。二手に分かれる作戦が功を奏し、肉も野菜も菓子も破格の値段で手に入れることが出来た。
戦果は大きな段ボール箱ふたつがいっぱいになるほどだった。ほくほく顔の***が抱える箱は、スナック菓子の入った軽い方。土方は少し疲れながらも、勝ち戦の達成感と充足感に包まれていた。肉と野菜がどっさり入った重たい箱さえ、宝箱みたいに誇らしい。
「土方さん、本当にありがとうございました!さすがは真選組の副長さん、的確な指示と抜かりのない戦略に、周りの人たちはみんな舌を巻いてましたよ。おかげでこんなにたくさん買えて、私は大助かりです!」
「それを言うなら***も良い戦いっぷりだったぜ。外からの攻撃をうまく避けて、ちゃんと獲物を捕らえて無事に帰ってきた。うちの隊士達に見習わせたいくらい、見事な働きだったぜ」
ふたりは互いに褒め合いながらスーパーを後にした。通りを並んで歩きつつ、***とよもやま話をしていると、ひとりで過ごしていた時よりも心がずいぶん穏やかになっていることに、土方は気づいた。
———そういや、ここんところ人と喋ってなかった……
転海屋の事件以降、周りに気をつかわれている。
隊士達は土方を見ると皆一様にギクシャクして、事件に触れないようそそくさと立ち去った。こんな時にいつも無遠慮な総悟も、今回ばかりは距離を置かざるをえない。そして恐らく、ミツバへの想いを察している近藤は、他の誰よりも土方を気に掛けていた。「俺の責任だ」なんて言いながら、あの事件の後始末や関連書類の全てを遠ざけてくれたことにはとっくに気づいていた。ありがたい半面、気軽に話せる相手のいない息苦しさがあるのも事実だった。
「あれ、土方さん、もしかして……」
「どうした***?忘れモンか?」
他人と気兼ねなく過ごす時間に肩の力を抜いていたら、隣の***がふと立ち止まった。振り返った土方の足元をじっと眺めた後で、急に眉を八の字に下げて申し訳なさそうに言った。
「もしかして脚にケガをされてますか?ごめんなさい私、全然気づかずに無理をさせてしまって。座れるところで休まないと……こっちです!」
「おっ、オイ、***!」
治りかけのケガに気づかれて、心底驚いた。出血もなければ引きずってもいない。一般人が見たら普通に歩いているだけに見えるはず。しかし***は土方の歩き方の、ほんのわずかな違和感を察知した。前を行く背中に「なんで分かったんだ?」と訊くと、肩越しに振り返った***は、あっけらかんと笑って答えた。
「前に銀ちゃんがケガした時と同じ歩き方だったので分かりました。さぁ、河原で座って休みましょう!」
たぶん***だから気付けた。ケガの耐えないあの男をいつも近くで見守っているから。
本当にどうしようもねぇ野郎を彼氏に持ったなと思いながら、土方は声もなく笑った。
河川敷の草原にふたり並んで腰かけた。
シロツメクサが群生する川辺には、親子連れや老夫婦、子供たちが行きかっていて、昼下がりの温かな光が降り注いでいる。
スーパーでいつの間に買っていたのか、***は焼きそばパンと缶コーヒー、それからマヨネーズを土方に手渡した。さらにお菓子の入った段ボールから「これもおひとつどうぞ」と出したのは、唐辛子の絵が描かれた激辛せんべいだった。
———こいつァまた、アイツが好きそうな代物だな
ぼんやりとミツバを思い出して眺めていたら、***がまさにその名前を口にしたから、土方は驚きのあまりパンをノドに詰まらせそうになった。
「お友達にミツバさんって辛党の人がいて、このおせんべいがお気に入りなんです。だから今日は絶対にこれをゲットしたかったんです。今度お家に届けてあげようと思って!」
「んなっ……!?ゲホッ、ゴホゴホッ!」
「ひ、土方さん?大丈夫ですか?」
銀時が***とミツバを引き合わせたことは、山崎から聞いて知っていた。江戸に不慣れなミツバが、***のような女友達を得たのは幸運だと思っていた。
報告では、ふたりが会ったのはたった2日間。しかし山崎から見たミツバと***は「姉妹か大親友に見える」ほど仲睦まじかったらしい。
だからてっきりミツバの病気のことや、二週間前に亡くなったことも全て、***は知っていると思っていた。しかし***は何も知らないどころか、ミツバが総悟の姉であることすら気づいていなかった。
二週間前にミツバは急遽退院して、それきり会えていないと***は言った。銀時によると何か事情があって一時的に江戸を離れたらしい。苗字も住所も聞き忘れて、手紙も出せない。でも結婚の為に田舎から出てきたのだから、じきに帰ってくるだろう。そうしたら激辛せんべいを手土産に、嫁ぎ先のお屋敷を訪ねるつもりだ。
そう楽しげに言う***を見て、土方はくらりと眩暈を起こしかけた。
なぜ何も知らないんだ?あの天パ野郎は何を企んでやがる?いくら考えても銀時の頭の中なんて分かるはずもない。だが無邪気に笑う***に向かって、真実を伝えるなんて残酷なことはとても出来なかった。
———ミツバは肺を患って死んだ。その婚約者は違法取引をしていた。だから俺が斬った。そんなこと言えるはずがねぇ……
だから横目で***を盗み見て、何気なく言った。
「……田舎から引っぱり出されるほど、見合い相手に惚れこまれたってこたァ、よほどのべっぴんだったんだな、その女」
「えぇ、ミツバさんはとっても綺麗です。美人さんなのに飾らなくて、すごく優しくてちょっぴり天然で……笑い声まで素敵でした。クスクス笑う声がこのシロツメクサが揺れるみたいに可愛らしいんです」
そう言って***は手を伸ばし、地面に万遍なく咲いているシロツメクサの花をそっと撫でた。白い花と一緒にたくさんの緑のクローバーが***の手の下で揺れる。それを見た土方の耳に、突然ミツバの声が蘇った。
———私も連れていって……十四郎さんの、そばにいたい……
***の言う通り、ミツバがこらえきれずに笑う時の声は可愛かった。江戸みたいな都会より自然豊かな田舎の似合う女だった。武州にいた頃、いつだかふたりで夕暮れを過ごした。赤とんぼが指先に止まって嬉しそうに微笑む横顔に見惚れたのを、今でも鮮明に思い出せる。
「そんな綺麗なミツバさんも、失恋したことがあるっていうから私、すっごくびっくりしたんです」
「んぶっっっっ!!!!!」
突然、思いもよらないことを***が言ったので、土方は飲みかけのコーヒーを吹き出した。再びゴホゴホとむせながら心配する***に向かって手で「大丈夫だ」と伝えた。そしてぽつりぽつりと***が語りはじめたことは、恐らくミツバが他の誰にも言っていない話だった。
「好きだった人にフラれたことがあるって言ってました。詳しいことはまた今度話して貰うんです。あんなに優しいミツバさんを悲しませるなんて罪な人も居たものですよね。私、もしもその人にいつか会えたら、パンチの一発や二発はお見舞いしてやりたいです」
「はっ……!?あ、あぁ、そそそそ、そーだな!い、良いんじゃないか?女の友情って感じで泣かせるじゃねーか。ままま、まぁ、でも少しは手加減してやれよな***!それにしてもこのせんべいは美味ぇな!!」
「えっ、土方さん、それ激辛せんべいですけど、そんなに一気に食べて大丈夫なんですか?」
「ぶっはァァァッッッ!!!??」
土方はまたしても吹き出した。ノドに走る辛さにむせながら、土方はミツバと***が大親友のように仲睦まじくなったワケを理解した。病気や身体のことよりも、家族のことよりも先に、ミツバは***に恋の話をした。胸に抱えて生きてきた秘密を、他の誰でもなく、たった2日しか会っていない***に打ち明けたのだ。そういえば***のゆるりとした雰囲気は、どことなくミツバに似ている。失恋を打ち上げるほどふたりが仲良くなった理由が、今ならよく分かった。
***は地面に膝を倒して、両手でクローバーの葉っぱを撫でている。土方はようやくせんべいの辛さが薄れて、煙草に火をつけるとゴホンッと咳払いをしてから再び口を開いた。
「その友達っつーのは、もうすぐ結婚すんだろ?家庭に入って幸せになりゃぁ昔の失恋なんざすぐに忘れるさ。まともな相手と所帯を持って、安心して暮らすのがいちばんの幸せだろ……ま、俺みてぇな斬った斬られたばかりの外道を行く野郎にゃ、関係ねぇ話だがな」
フッと自嘲気味に笑って煙を吐いた土方を、顔を上げた***が見つめた。何も言わずにしばらく悩んだあと、おもむろに地面に落ちていた千切れたクローバーをひとつ掴んで拾い上げた。ひときわ鮮やかな緑色で立派な葉が連なったそれは、赤子の手のひらほど大きな三つ葉のクローバーだった。
「ミツバさんは大切な人のことを……ずっと好きだった人のことを、すぐに忘れるような人じゃないんです。その人のことをずっと覚えていて、それでも結婚して幸せになって欲しいって私は思うんです。それに、土方さんは外道なんかじゃないし、関係なくもないんですよ?」
「関係ねぇよ……俺ァ、その女のこと何も知らねぇ」
気まずさに数十メートル先を流れる川をじっと見つめながらそう返すと、***は手に持った大きな三つ葉のクローバーを、土方の耳の上にそっと挿した。ハッとして横を向くと、***はミツバに似た柔らかな微笑みを浮かべて言った。
「土方さんは外道なんじゃない。ホラ、この川辺だけでもいっぱい人が居て、子供たちや、お年寄りや、夫婦たちが行き交ってます。それを守ってるのが土方さんたち真選組です。足にケガを負ってまでこの街を……この江戸を守ってくれてる。私、ミツバさんと約束したんです。スーパーのタイムセールに連れていくって。江戸のお花見や夏祭りも一緒に行くって。そんな約束を交わせたのも土方さんが江戸を守ってくれてるからです。ミツバさんの幸せに土方さんは関係なくなんてないです。むしろ絶対に必要な人ですよ」
そんなことを言われるとは夢にも思っていなかったから、ぽかんとした土方の口端から、咥えていた煙草がポトッと落ちた。慌てて吸い殻を拾っている間「いやぁ」とか「それは」とか呟いたが、言葉は続かなかった。
代わりに土方は静かな声で***に尋ねた。
「そうか……約束、したのか」
「はい、約束しました」
太陽の光が川面に反射してキラキラと眩しい。その光の中で微笑んだ***が土方を見つめていた。
———ああ、アイツは生きてる
***の中でミツバは生きている。今でもあの温かく柔らかな微笑みを浮かべて、優しく明るい声で笑い、激辛なものを食べて、元気に生きている。
結婚して、江戸で暮らし、花見や夏祭りに行き、大江戸スーパーのあのタイムセールで買い物をしている。
陽光に輝く***の瞳の奥に、ミツバの姿が見えた。愛する女がそんな風に生きている世界を守りたいと思って生きてきた。そんな世界を守る為に、わき目も振らず真っすぐに進んできた。愛する女を守れる自分でいる為に、土方はミツバの気持ちに答えなかった。
目の前の***の中には、守りたかったものが今もある。それに気づいた瞬間、土方の右手は無意識に***の頬へと伸びていた。
「***が約束しちまったんなら、仕方ねぇな。その、ミツバさんとやらの為に、俺達お巡りはこれからも真面目に江戸を守るとするよ」
「はい、約束しちゃったので、お願いします。ミツバさんの為に、今後とも江戸の平和を守って下さい」
ふふっ、とはにかみながら、***は土方の手に頬を預けるように首を軽く傾げた。刀を握り続けて硬くなった無骨な手のひらに、ふんわりとした頬っぺたはとても柔らかい。
「私が激辛せんべいを食べて意識を飛ばした時、ミツバさんもこんな風に頬を撫でてくれたんです。土方さんの手はあったかくて硬いけど、ミツバさんの手はひんやりしていて柔らかかった……真逆ですね」
それを聞いたら、ますます***の顔から手を離せなくなる。その頬っぺたを通して、ミツバに触れているように思えて。ミツバの手に触れることを、土方は自分に一度も許さなかった。それなのに今、***の頬を包んだ手のひらから、ミツバの手のひんやりとした心地のよい温度や、柔らかな感触をありありと感じられる。
***の白い頬に片手を添えたまま、ぼんやりと思いに沈んでいた土方を、突然の大声が現実に引き戻した。
「ごらァァァ!!!***ッッッ!!!テメェ、一体こんなとこで何してやがんだ、って……オイィィィ!!!!なぁんでニコチンクソマヨラーが***と一緒に居んだよコノヤロォォォ!!!!」
「わっ、ぎ、銀ちゃん!?」
響き渡る声に土方が振り返ると、銀時が河川敷の坂の上からふたりの座っている草原をめがけて、凄い速さで駆け降りてきた。ズザザッと砂埃と共にやってきた銀時は、***の首根っこを掴んで土方からベリッと引き剥がす。いつもならそのまま、互いの胸ぐらを掴んで口喧嘩をするのだが、銀時は距離を取ったまま土方をギロリと睨んだ。
「で、土方くんはここで何してるわけ?」
「銀ちゃんがパチンコに夢中で付き合ってくれないから、土方さんがタイムセールに協力してくれたんですよ?おかげで万事屋のお肉とかお野菜とかいっぱい買えたんだから、銀ちゃんもお礼を言って下さい」
「はァァァ!?なんで俺がコイツに礼なんざ言わなきゃなんねんだよ!ぜってぇ嫌だね!っつーか、タイムセールで狙ってんのは菓子っつってたじゃねーか。なに肉とか野菜とかまで買っちゃってんの!?」
「万事屋てめぇ……このグラム78円の豚肉を買うのに、***がどんだけ苦労したかも知らねぇで、なんて無礼な口を聞きやがる。俺にじゃなくてオメェはまず***に頭を下げろ。下げねぇと江戸の全主婦たちを代表して、真選組がその首叩っ斬るぞ」
「あ゛ぁぁぁん!?オメェこそわけのわかんねぇこと言ってねーで頭下げろや!!特売のマヨネーズ吸いすぎて脳みそまで黄色いドロドロになったせーで無礼を言ってすいませんって地べたに手ぇついてよォォォ!!言っとくけどアレだよ?銀さんはこんな安っすい豚肉なんか食わねぇから。これを牛肉って信じてる神楽に食わして、***は俺にだけA5ランクの黒毛和牛とか出してんだからね!勘違いすんなよ!!」
「銀ちゃん、そんな見栄を張るのやめようよ、恥ずかしいですって。もちろんお肉だけじゃなくて、お菓子も買ったよ。ほら、ミツバさんに持っていく為の激辛せんべいとハバネロチップス!」
銀時は仁王立ちで土方に向かい合ってギャーギャーと騒いでいたが、間に割り入った***が「ミツバ」という名前を発した途端、ハッとして口をつぐんだ。ほんの一瞬、険しい表情を浮かべ、伺うようにチラッと土方を盗み見る。紅い瞳のその動きだけで土方は全てを察した。そして銀時にだけ分かるようにわずかに首を横に振った。
———何も言ってねぇよ、***にミツバのことは
その刹那の目配せに***は気づかない。はたからみれば殴り合う寸前のように睨み合うふたりだったが、急に銀時がため息をついた。
「はぁぁ、ったく、クソマヨラーと喋ってるとこっちまで脳みそが溶けて犬の餌になっちまわぁ。***、帰ぇるぞ」
「え?あっ、で、でも土方さんが、うわわっ!!」
地面に置いていたお菓子入りの大きな段ボールを、銀時がひょいっと持ち上げて***の腕に乗せた。そして重たい方の箱を抱えて、投げやりに「そんじゃーな」と言うとくるっと向きを変える。銀時に背中を押されるがまま***は歩き出したが、肩越しに土方を振り返って言った。
「土方さん、今日は本当にありがとうございました!足のおケガ、お大事になさってください」
「あぁ、***も気をつけて帰れよ」
土方は片手を上げて、離れていくふたりを見送る。
が、数十メートルほど離れた所でふたりはふいに立ち止まって、銀時が***に何か耳打ちをした。どうせ自分の悪口だろうと思い、眉間にシワを寄せて見ていた土方に、くるりと振り返った***が河川敷中に響きそうな大きな声で言った。
「土方さんには、ミツバがよく似合ってます!!」
って銀ちゃんが言ってます!
そう続いた台詞の意味が、なんのことだか分からなかった。しかし、わずかに首を捻った銀時の紅い瞳が、ちらりと土方の耳のあたりを見たからハッとする。***が挿した大きな三つ葉のクローバーが、土方の耳の上で揺れていた。
「なっ……!?」
驚いて耳元を押さえ、そこからクローバーの葉を掴んで引き抜いた。顔を上げた時にはもうふたりは背を向けていて、河原の坂道を真っすぐに登っていき、登り切った先で見えなくなった。
「三つ葉、の、クローバーか……」
残された土方は手の中の大きな葉を見下ろして静かに笑った。新しい煙草に火をつけて、川岸まで歩く。春らしく気持ちのいい風に頬を撫でられて、そういえばミツバの声はそよ風みたいに軽やかで愛らしかったと思い出した。
うつむけば足元ではたくさんのシロツメクサと緑色のクローバーが揺れていて、いつだかミツバが呼んでくれた時の「十四郎さん」という声が耳元に蘇った。
「そこに居るのか……?」
誰にも聞こえない呟きと共に土方はあたりを見渡す。
買い物袋を手に歩いていく若い主婦が、ミツバの面影と重なった。元気よく走っていく子供とそれを追いかける母親は、いつか見れたかもしれないミツバとその子供の姿に思えた。老夫婦が寄り添って静かに歩いていく。その妻の方が幸福そうな微笑みを浮かべて、通りすぎながら土方に軽い会釈をした。ミツバはきっとこんな老婦人になったことだろう。
———不思議なモンだな。死んじまったのに、もう居ねぇってのに……俺ァ今まででいちばん、お前のことを近くに感じてるよ
ミツバを失った悲しみが薄れることはない。
でも後ろを振り返らずに、前だけを見て真っすぐに生きていく覚悟は、とっくの昔にできていた。
川は午後の光に輝いてセピア色に染まる。
土方は身をかがめて、手のひらの三つ葉のクローバーを水面へそっと浸した。緑の葉はわずかに揺れて水の上に軽々と浮かぶと、川の流れに乗って気持ちよさそうに泳ぎ出す。
三つ葉のクローバーはするすると滑らかに流れて、江戸を横断して大きな川へ出るだろう。さらにその先の湾岸へ、やがて大海原へ、いずれは世界の果てまで辿り着くかもしれない。
———守るさ、お前の居る場所なら、どこだって
深く吸った煙草の煙を吐きながら、空に向かって組んだ両手を突き上げ「うーん」と大きな伸びをした。足の痛みも、心の重苦しさも、もう感じない。
背筋をしゃんと伸ばし、地面をしっかりと踏みしめた土方は真っすぐに前を向いて、粛々と流れる川と三つ葉のクローバーをいつまでも見つめていた。
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【(4)真っすぐな人】to be continued...
あなたが守った街のどこかで
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