銀ちゃんの恋人
永遠のひと
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【(1)綺麗な人】
その人は、とてもとても綺麗な人だった。
寝間着姿で病院のベッドに腰かけて、大人の女性らしい落ちつきでこちらを見ている。おだやかな微笑みがまぶしいほど麗しい。それでいてどこか儚げだった。
「はじめまして、ミツバです」と名乗る声は草原を撫でる風のように、耳に心地よい。もの静かな佇まいがなぜか遠い故郷を思い出させて、***は泣きたくなるくらいに懐かしい気持ちを覚えた。おかしなことだけれど沖田ミツバに出会った瞬間、***は "私は、この人にずっと会いたかった" と思った。
「あなたが***さんね!まぁ、こんなにかわいらしい恋人がいるなんて、銀さんもすみにおけないわ」
「だってよ***~。銀さんみてーなすみにおけない色男と付き合えて、お前は幸せもんだなァ~」
美しいミツバに見惚れて***はぼうっとしていた。返事もできずに立ち尽くしていると、薄茶色の瞳を丸くしたミツバが「***さん?」と首を傾げた。
「うわわっ……!す、すみませんっ!銀ちゃんのお友達にこんなに綺麗な方がいるなんて知らなかったから驚いてしまって!は、はじめまして私は******といいます。お会いできてすごく嬉しいです。あ、あの……つまらないものですがこれよかったら、」
「あらぁ!激辛おせんべい嬉しいわ、ありがとう」
レジ打ちのアルバイト中、スーパーにかかってきた電話で銀時に「***、大江戸病院に来れるか?」と言われた時は驚いた。また銀時がケガをして担ぎこまれたかと思い、サーッと青ざめた。だが知人の見舞いに来ただけだと聞いて心底ホッとする。そして仕事を終えた***は言いつけどおりに、唐辛子せんべいやらハバネロチップスやらを持って、病院にやって来たのだ。
———もぉ~銀ちゃんったら「店で一番辛いせんべえ買ってこい」って、言うだけ言ってすぐ電話切っちゃうんだもん!人をパシリ扱いして!それにお友達のお見舞いって言うから長谷川さんだと思って、お菓子と競馬新聞なんて買ってきちゃったじゃん!もぉ~~~!!
心の中で文句を言いながら、***はじとっと銀時を睨んだ。しかし当の本人はどこ吹く風で、ベッドサイドにある果物の詰め合わせからリンゴを取り、ガリッと齧っている。それミツバさんのだからダメ!と***が注意する前に立ち上がって「そんじゃー俺、ちょっくら屋上行ってくるわ」と病室を出て行ってしまった。
「それじゃぁミツバさんは、江戸へはつい最近来られたばっかりなんですね?」
「ええ、このあいだお見合いをしたのよ」
ミツバをどこか懐かしく感じたのは、おなじ田舎生まれ田舎育ちだからかもしれない。地方から都会へ出てきた者同士、ミツバと***のおっとりした雰囲気は似ていた。向き合っておしゃべりをしていると、初対面とは思えないほど会話が弾んだ。
お見合いはうまくいき、裕福な貿易商のお家に嫁ぐことになった。旦那さんになる人はとても優しい親切な人だ。それを聞いた***は自分のことのように喜んで「おめでとうございます」と手を叩いた。するとミツバは少しはにかんだ後で遠慮がちに口を開いた。
「会ったばかりの***さんに、こんなことを言うのはおかしいけれど……私ちょっと後ろめたいの。こんなオバサンを貰ってくれるってだけでありがたいのに入院して迷惑をかけちゃって。私はずっと周りに気をつかわせてばっかりだから……」
「なに言ってるんですか!もし私が旦那さんならミツバさんみたいな人がお嫁に来てくれるだけで舞い上がっちゃって毎日幸せですよぉ。旦那さんが奥さんを気づかうのは当たり前だから遠慮せずに、退院したらドレスを着せてねって言えばいいんですよ」
「そうかしら……、そういうものかしら?」
「そういうものですよ。家族がお互いに思い合うのは当然です。だから妻の務めとしてミツバさんはまず元気にならなきゃ、って……私なんだか生意気ですね!結婚したこともないのに知った口きいて」
勢いまかせに喋ったのが恥ずかしくて、***はパイプ椅子の上で縮こまった。浮かない顔のミツバを励ますだけのつもりが、余計なことまで言い過ぎた。そう後悔する***にミツバはふふっと軽く笑うと「そんなことないのよ」と言った。
「初めての結婚だから少し不安になっただけなの。ごめんなさいねぇ、***さんにまで心配かけて」
「あっ……!あの、ミツバさんそれって……それってもしかして!マリッジブルーってやつでしょうか!?」
「マリッジブルー?なぁにそれ?」
ハッとした***が瞳を輝かせると、ミツバはぽかんとした。ドラマで見ただけだから、***もマリッジブルーがどんなものだかよく知らない。でもたしか結婚を控えた女性は落ち込みやすく、この婚約は間違いだと思い込んでしまう事があるらしい。大切な結婚を邪魔されてはいけない!そう思った***はおせっかいにも、ミツバをマリッジブルーから救うという使命に燃えた。
「ミツバさんっ、私ちょっと行ってきます!でも、すぐに戻ります!えぇっと、あ、この競馬新聞でも読んで待っててください!!」
「えっ、***さん!?」
部屋を飛び出して廊下を走り抜ける。大江戸病院は大きな総合病院だから、院内にコンビニや書店がある。それなら絶対に見つかるはず。一目散に本屋へ駆けこんだ***が手を伸ばした物、それは———
「結婚情報誌のゼ〇シィです!」
「あらあら、そんなもの買ってきてくれるなんて……ありがたいわ!そういう本を一度読んでみたかったの」
「なんと今月号の付録はピンクの婚姻届けです。わぁ!可愛いですよコレ!あっ、ほらミツバさん見てください、結婚前のお悩み相談特集ですって!」
「ねぇ***さん、よかったらここへ来て一緒に読まない?おせんべいでも食べながら」
「もちろんっ!!」
ぶ厚くてずっしり重たい雑誌を持って、***は下駄を脱ぐとベッドに上がった。促されるがままミツバの隣に並んで座り、膝に置いた雑誌を開いた。ページをめくると純白のドレスや美しい晴れ着姿の女性が目に入る。
ミツバはおせんべいをパリッと齧りながら、真剣に誌面を読みふけっていた。さっきまでやや青白かった頬が、わずかに血色がよくなっている。いたって健康そうな様子に、***はホッとした。
———ミツバさんがウェディングドレスを着たら、さぞ綺麗だろうなぁ……きっとさっきの私みたいに旦那さんやお友達もみんな見惚れちゃうに決まってる。ぽーっとする人たちの前でミツバさんはめいっぱい幸せそうに笑うんだろうな。涙が出るほど美しいんだろうなぁ……
例えば姉が居たら、こんな気持ちだろうか。会ったばかりのミツバにすっかり親しみを覚えた***は、この人が姉だったらいいのにと思っていた。だから花嫁姿を想像するだけで感極まりそうになる。***は静かに微笑んでミツバの横顔を眺めていた。
「辛いものは好き?」と聞かれて手渡された唐辛子せんべいを、***は初めて食べた。真っ赤な粉まみれのおせんべいをミツバが涼しい顔で食べているから、大して辛くないと思ったのだ。だが唇に触れた瞬間ビリビリした刺激が走り、唐辛子そのものを噛んだような痛みに似た辛さが***の口いっぱいに広がった。
「んぶッッッ!!?か、辛いぃぃッ!!!」
「そうね***さん、辛いものって美味しいわよねぇ」
「っっ……!!?」
上機嫌なにっこり笑顔を前に、***は辛すぎて食べられないと言えなくなった。でもやっぱり辛い!辛いっていうか痛い!おいしいっていうか味が分からない!あれ、口の感覚が無いよ?なにコレ?やだコレ!と***は目を白黒させた。カプサイシンの効果で体温が上がり、全身から汗が吹き出す。期待に満ちた目のミツバを失望させたくなくて必死に声をふりしぼった。
「あ゛ががッ……が、辛゛い゛げどッ……、お゛い゛じい゛でず!!!」
「うふふっ!ハイおかわりどうぞ。いっぱい食べてね」
「へぇぁあッ!!?」
おっとりした調子で有無を言わさず、ミツバは次のおせんべいを差し出した。大好きな辛いものを人にすすめるのが嬉しくて仕方がない。他人の頼みを断れないお人よしな***は、真っ赤なおせんべいを震える手で受け取った。そしてミツバに見守られながら、激辛せんべいを3枚も食べるはめになった。
激辛せんべいに***が苦しんでいる間、銀時は病院の屋上にいた。暮れていく夕日のなか、隣にはアフロ頭の山崎が立っている。山崎からミツバの病状がかなり深刻なことを聞いた。そして婚約者である転海屋の主人が、攘夷浪士相手に武器の闇取引をしていることも耳にした。その事実は真選組でも数少ない者たちしか知らない。苦々しい顔で銀時は山崎に尋ねた。
「あの女は知ってんのかよ?」
「いえ、副長に誰にも言うなと、」
「言ってんじゃねーかよ俺に!」
「いてっ!いやだってそれは旦那が、」
「俺が何だよ?」
アフロ頭にゲンコツを落とすと、痛がって涙目になった山崎が不満げな顔で銀時に尋ね返した。
「それより旦那ァ、なんで***ちゃんがここにいるんです?俺の知らないうちに来て、急にミツバ殿と親しくしてるから驚きましたよ」
「そりゃ俺が呼んだからに決まってんだろ。せんべえ持って見舞いに来いって。別に驚くこともねぇ、***が誰とでも仲良くなれんのはお前も知ってんだろーが」
「そりゃそうですけど……それじゃ旦那、***ちゃんにあの人の病気のこと喋ったんですか?あっ!アンタまさか先が長くねぇって知ってて、ミツバ殿を慰めるためにわざわざ***ちゃんを呼んだんですか?」
「ちげぇよ馬鹿!んなわけねぇだろ!!」
「じゃ、じゃぁ、どうして、」
どうしてなのかは、銀時だって分からなかった。
数日前、いきなり沖田に親友のフリをしろと頼まれてから、あれよあれよとこんなことに巻き込まれてしまった。最初から活気のない女だとは思っていたが、気がつけばミツバは弱り切っていた。
婚約者の男が見舞いに来ていたが、ものの数分も経たずに帰ってしまう。あまり人の来ない静かな病室でひとり「元気にならなきゃ」と気丈に振る舞うミツバを見ていたら、ふと銀時の頭に***の顔が浮かんだ。そして自然と「コイツに***を会わせてぇな」と思った。
成熟した大人のミツバと、純粋すぎて幼さの残る***では似ても似つかない。だが顔を突き合わせて話していると、ふたりから同じ匂いがした。自分よりも他人のことばかり考えているところとか、のほほんとした笑顔の清らかさとか、そんなものがミツバと***はよく似ている。現に病院にやってきた***はミツバにすぐ懐いたし、ミツバもまた***をすんなりと受け入れて、あっさり心を開いていた。
「アフロ監察官の勘は残念だがハズレだよ。***は……アイツはなんも知らねぇ。知り合いが入院したから見舞いに付き合えって言っただけだからな。頼んでもねぇのに競馬新聞と痔の薬まで買ってきてやんの。辛ぇモン食いすぎて痔になったヤツの見舞いだっつったの、マジで真に受けちまってさ」
「旦那、それ***ちゃんとミツバ殿の両方に殴られても文句言えねーですよ。まぁ、とにかくさっき言ったことはくれぐれも内密に頼みます。いくら付き合ってるからって***ちゃんにも他言無用ですからね!」
「ったりめーだ!んなこと言われなくとも分かってるっつーの、この腐れアフロが!っつーか何でアフロなんだよお前、殺すぞ!」
その返事を聞いた山崎は重い足取りで屋上を出て行った。今夜も土方と共に転海屋の船を見張るという。不逞浪士との大きな違法取引があり、明晩にも踏み込むことになるだろう。
どうりでミツバの旦那はそそくさ帰るはずだ、と銀時は頭をガリガリ掻いた。どいつもこいつもご苦労なこった。そうひとりごちて沈みゆく夕日を眺める。背後で屋上の鉄扉がバタンッと閉まると、夕焼けの茜色がさらに濃くなった気がした。
「たりめーだろ……んなこと、***に言えっかよ……」
ぼそぼそと呟いた声は夕陽色に染まって消えた。
3枚目のおせんべいの最後のひと口を飲み込んだ瞬間から、***の記憶は飛んでいた。気がつくとベッドに仰向けで倒れていた。カッカッと熱を持つほっぺたを、ミツバのひんやりした手で包まれた。
「***さん?大丈夫?」
「ぉ……ぉねぇ、ちゃん……?じゃ、ないっ!ミツバさん、すみません!あれッ!?私、おせんべい食べて、それでっ……!?」
「おせんべい食べてから急に倒れたのよ」
口とノドの奥がピリピリして唇はヤケドしたみたいに熱い。おせんべいを食べきった直後、***はゴホゴホと咳き込んだままバッタリと倒れた。ベッドを半分奪うように横たわる***を、隣に座るミツバが真上から見下ろしている。飛び起きようとすると女神みたいな微笑みで「そのまま寝てて」と制された。
両ほほ包むミツバの手のひらは、冷え性の***の手よりずっと冷たかった。うふふ、と笑いながら熱い顔を冷やすように撫でられて、ぼんやりしてしまう。ほっぺたに触れる細い指から母親みたいな優しい香りがした。戻りかけの意識で「お姉ちゃん」と呼んでしまったのは、あながち間違いじゃない。あの瞬間たしかに***は自分に姉が居たような気がした。
「***さんは、お姉さんがいるの?」
「いいえ、居ないんです……私、男兄弟だけだから、その、ミツバさんみたいな優しいお姉ちゃんがいたらいいのになぁって思ってたら、なんか勘違いで口走っちゃいました……恥ずかしいこと言ってすみません」
「ううん、すごく嬉しかった……私も兄弟は弟だけ。両親が早くに亡くなったから半分母親みたいなものだったし、***さんみたいな可愛い妹がいたら良かったって、私も思ってるわ」
「ミツバさん……」
柔らかなまなざしでミツバは静かにうなずいた。こんなに優しい人と仲良くなれたことが***は嬉しかった。意識が飛ぶほど辛いおせんべいを、頑張って完食して良かった。顔の熱が引いて口に残っていた辛さが薄れるとやっと起き上がった。
ベッドが揺れてビニール袋がガサッと床に落ちる。激辛スナックと競馬新聞を入れて持ってきた袋から、ポラギノールの箱が転がり出た。「なぁにこれ?」とミツバが拾い上げたので、***は「あわわわっ」と青ざめた。親しくなったばかりのお姉ちゃんに恥をかかせるなんて一生の不覚。ソレはこっそり置いていくつもりだったのにっ、と頭を抱えた。
愚かなことに***はその時もまだ、ミツバは痔の治療で入院中だと思い込んでいた。
「あっ、あのっ、ミツバさん!それお薬なんです。薬局に居た自称忍者って人が、その……じ、痔にはこれがいちばん効くって言ってたから座薬タイプのやつを買ったんですけど」
「え?痔の薬を……私に?」
「そ、そうです。銀ちゃんが言ってたから」
「もしかして***さん、銀さんから私が痔で入院してるって聞いたのかしら?」
「へっ?違うんですか?」
「違うわよ。やぁね、銀さんったら!」
「っ……!!ぎっ、銀ちゃんの馬鹿ッ!!!」
「ぷっ、あはははッ!!」
あまりの怒りに***が顔を真っ赤にすると、ミツバは弾けるような笑い声を上げた。その日いちばんの明るい笑い声だった。とんでもない勘違いを***は土下座をして謝ったが、ミツバは気にするそぶりもなく「いいのよ」と笑った。手渡されたポラギノールの箱を見下ろした***がおでこを押さえて「はぁ~」と深いため息を吐くと、それすらおかしかったようでミツバは軽やかな声で笑い続けた。
屋上から戻った銀時の耳にミツバの声が届いた。大笑いと言っていいほどの明るい声が廊下まで響いていたから驚いた。銀時と居る間のミツバは穏やかで静かな微笑みか、痛々しい作り笑いしか見せなかったから。
———やっぱし***を呼んだのは正解だったな。男の俺にゃ言いづれぇこともアイツになら話せんだろーし……なんつーの?女同士の絆っつーの?それとも友情っつーの?そんなよーなモンが芽生えて良かったんじゃねーの?人懐っこい***のことだから、今頃 "銀ちゃんのおかげでお友達が増えました!" とか言って喜んでんだろ。ハイハイ分かったよ。銀さんに感謝するなら、いくらでもしてくださいよーっと。
「おーい、お前らァ、ギャーギャーギャーギャーうるせぇ笑い声が外まで響いてんぞ。婦長に怒られっから少しは静かにしろよ***~」
そう言いながら意気揚々と病室に足を踏み入れた瞬間、銀時は左のほっぺたをバシッと叩かれた。「いってぇ!」と声を上げると茹でダコのような顔の***と目が合った。怒りの形相で手には筒状に丸めた競馬新聞を持っている。その背後でベッドに座るミツバも同じように新聞を持ってニコニコしていた。
「ぎ、ん、ちゃ、んっ!!なんてことを、なんてヒドイことをしてくれるんですか、コラァァァ!!!」
「はぁぁぁぁ!?ッんだよ***!?いきなり何なんだよ!?俺がなにしたっつーんだよ!!」
その問いに答えたのは、***ではなくミツバだった。
「***さんが怒るのも当然よ、銀さん。さっきも言ったけれど私、痔じゃないですからね?」
「じ……?あ、***、お前まさかポラギノール渡しちまったのかよ?うわ~、こっ恥ずかしいヤツぅ~!」
「~~~~っ、ぎ、銀ちゃんのせいだよ!銀ちゃんが変な嘘ついたせいじゃないですかァァァ!!」
「ギャハハハハッ!お前なぁ、痔ってのは長谷川さんみてーなオッサンがなるモンで、こ~んなべっぴんさんがなるわけねーだろ!銀さんの言うことそのまま信じちゃって、***ちゃんはホントに馬鹿でちゅねぇ~~~!」
「この腐れ天パ野郎ッ!ミツバさんに向かって、っ、痔だなんてっ……セクハラもいいとこですよ!反省してください!」
振りかぶった競馬新聞がバシバシと銀髪頭を叩いた。眉を吊り上げた***は全力で殴っているが、しょせん紙の塊だからさして痛くもない。だが「イテッ」と叫ぶとミツバが楽しげに笑うから、わざとらしいほど大げさに痛がった。
ひとしきり叩いた後、***は銀時の腕をつかんでベッドの横へ連れて行った。そしてパイプ椅子に座った銀時の肩を、背後から両手で抑えつけた。
「はい、ミツバさんもどうぞ」
「***さん、本当にこんなことしていいのかしら?」
「もちろんいいんですよ、私のお手本どおりに」
「え、なになに、俺なにされちまうの?」
「えいっ!!」
パコンッ!!!
掛け声と共にミツバは新聞の束を銀時の脳天に叩きつけた。一度ではなく立て続けに何度も叩かれて、ポカポカッという軽快な音が鳴り響いた。
「オイィィィ!お前まで殴んのかよ!銀さんは大事な弟の親友だろーが、やめろゴラァァァ!!」
「ふふっ!そーちゃんには悪いけど、私と***さんに恥をかかせた罪は重いわ」
「そうだよ銀ちゃん、甘んじて受け入れて下さい!」
「お前らなァー、ありゃほんの冗談でって、痛ッ、いたたたっ!オイもうやめろって。そんな頭パーンされたら脳みそ出ちまうって。いてっ!悪かったよマジで、謝ったんだからいい加減にし、イテイテイテッ!イヤほんとッ!すいまっせんでしたァァァ!ちょっ***ッ、ソレ肩の骨折れるぅぅぅ!やめて下さい、お願いします!300円上げるからァァァ!!!」
片手で押さえた口から「アハハッ」という抑えきれない笑い声を上げて、ミツバは銀時を殴り続けた。ふわふわの天然パーマを乱すほど叩いた新聞紙の棒が真ん中で折れた。ミツバの笑い声と、***の騒ぐ声と、銀時の「マジですいませんでした」の叫びが響き続けた。ついに婦長が部屋に乗り込んできて「他の患者さんの迷惑だろーが!!」と3人そろって叱られてしまった。ぷんぷんと怒った婦長が出て行ったあと、ミツバと***は満足げに笑い合ってようやく銀時を許した。
腕時計を見た***が「もうこんな時間!」と言って帰り支度をすると、銀時に声をかけた。
「銀ちゃん、そろそろスーパーが閉まっちゃうから私さきに帰るね。神楽ちゃんとご飯作ってるから、銀ちゃんはもう少しミツバさんとゆっくりしてきて下さい。ミツバさん今日は楽しかったです……あの、その……また来てもいいですか?」
「もちろんよ***さん、ぜひ遊びに来て!」
面会時間が終わるまで残ることにした銀時を置いて、***は先に病室を出ていった。日が暮れた外はうす暗くなりはじめている。ミツバはベッドから立ち上がって、窓ガラスのそばに立った。窓の外を見下ろすと遠くに病院の正面玄関が見えて、患者や見舞客が出たり入ったりしている。
「***さんはとても素敵な人ね。素直で優しくって妹にしたいと思うくらい可愛らしい子だったわ……本当に、また来てくれるかしら?」
「来て欲しいって言ってやりゃァ、アイツはすっとんで来るよ。新聞で俺をぶん殴ってる時の、あの楽しそうな顔見たろ?***も会いたいって思ってるに決まってら。なぁ……ミツバさんよぉ、もう少し自分の気持ちに正直になったらどーだ?辛いモン食いてぇのを我慢しねーように、会いてぇヤツには会いてぇって言っちまえよ。この万事屋さんがその願いを叶えてやっからさ」
「銀さん……」
大きな窓の前に並んで、ミツバは言いにくそうに口をつぐんだ。今までの人生でもワガママを言ってこなかったのだろう。病弱な人間は大概、自分のことを棚に上げて他人にばかり気をつかうから。苦しんでいるのは自分なのに「迷惑をかけてごめんなさい」と周りに謝る。ずっとそうやって生きてきたんだと思うと銀時はどうしても、ミツバに己が心から求めていることを口にさせたくなった。死んだ魚のような目で黙って見ていると、悩ましげに苦笑したミツバがようやく口を開いた。
「そうね銀さん、私、会いたいわ。***さんにまた会いに来てほしい。もちろん銀さんにも」
「おーし、分かった」
その答えを聞いた瞬間、枠に手をかけて窓を開け放った。ガラッと開いた四角窓の外に身を乗り出すと、驚いたミツバが「銀さん!?」と叫んだ。それにも構わず銀時は視線をキョロキョロと動かす。きゅっと細まった赤い瞳がはるか遠くに目当てのものを見つけた。ちょうど病院の玄関から***が小走りで出てきたところだった。
「オイッッッ!!!***ッッッ!!!!!」
「ひっ……!!?」
病院中の窓ガラスが震えそうなほどの大声だった。
離れた距離をたやすく超えて、銀時の声は***に届いた。小さな身体を飛び上がらせた***が勢いよく振り返る。見上げた病院の窓にふたりの姿を見つけて、目を見開いている。両手を口に添えて「なんですかー!?銀ちゃーん!?」と叫ぶ声を銀時の耳は捕らえたが、ミツバには全く聞こえなかった。すぅぅぅっと深く息を吸い込んで、銀時はもう一度叫んだ。
「ミツバが!!オメーに!!会いてぇってェェェ!!!明日もせんべえ持って来るかァァァァ!!!??」
「そんな、あ、明日じゃなくても……あッ!!!」
遠慮がちに銀時を止めていたミツバが、窓の外を見て息を飲んだ。なぜなら声も届かないほどの遠い場所にひとりで立つ***が、満面の笑みを浮かべて両腕を頭上に掲げていたから。そしてその両腕がにっこり笑顔を囲うように大きな丸を描いていたから。
通りすがりの人たちにじろじろ見られても、***は気にする素振りもない。ミツバの為に迷いなく、その子どもっぽいポーズを取って全身で「もちろん」と答えている。しかもその顔は頭から花でも咲きそうなほど喜びに満ち溢れていた。
「ぶはッ!アイツ、ひとりでバカみてー!」
「銀さん、そんなこと言っちゃダメよ」
「や、でも見ろよ、手上げちゃって、ブハハッ!!」
「ふふっ……もう***さんたら、本当に可愛い」
道行く人々に好奇の目を向けられても、***は両手を上げ続けていた。それを見つめたミツバは心底嬉しそうに微笑んでいる。銀時はチラッとその横顔を盗み見て、この程度のワガママはいともたやすく叶えられると思った。夕闇のなかの***と見つめ合ってくすくすと笑いを漏らすミツバは、見惚れるほど綺麗だった。
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【(1)綺麗な人】to be continued...
あなたはとてもきれいだった
その人は、とてもとても綺麗な人だった。
寝間着姿で病院のベッドに腰かけて、大人の女性らしい落ちつきでこちらを見ている。おだやかな微笑みがまぶしいほど麗しい。それでいてどこか儚げだった。
「はじめまして、ミツバです」と名乗る声は草原を撫でる風のように、耳に心地よい。もの静かな佇まいがなぜか遠い故郷を思い出させて、***は泣きたくなるくらいに懐かしい気持ちを覚えた。おかしなことだけれど沖田ミツバに出会った瞬間、***は "私は、この人にずっと会いたかった" と思った。
「あなたが***さんね!まぁ、こんなにかわいらしい恋人がいるなんて、銀さんもすみにおけないわ」
「だってよ***~。銀さんみてーなすみにおけない色男と付き合えて、お前は幸せもんだなァ~」
美しいミツバに見惚れて***はぼうっとしていた。返事もできずに立ち尽くしていると、薄茶色の瞳を丸くしたミツバが「***さん?」と首を傾げた。
「うわわっ……!す、すみませんっ!銀ちゃんのお友達にこんなに綺麗な方がいるなんて知らなかったから驚いてしまって!は、はじめまして私は******といいます。お会いできてすごく嬉しいです。あ、あの……つまらないものですがこれよかったら、」
「あらぁ!激辛おせんべい嬉しいわ、ありがとう」
レジ打ちのアルバイト中、スーパーにかかってきた電話で銀時に「***、大江戸病院に来れるか?」と言われた時は驚いた。また銀時がケガをして担ぎこまれたかと思い、サーッと青ざめた。だが知人の見舞いに来ただけだと聞いて心底ホッとする。そして仕事を終えた***は言いつけどおりに、唐辛子せんべいやらハバネロチップスやらを持って、病院にやって来たのだ。
———もぉ~銀ちゃんったら「店で一番辛いせんべえ買ってこい」って、言うだけ言ってすぐ電話切っちゃうんだもん!人をパシリ扱いして!それにお友達のお見舞いって言うから長谷川さんだと思って、お菓子と競馬新聞なんて買ってきちゃったじゃん!もぉ~~~!!
心の中で文句を言いながら、***はじとっと銀時を睨んだ。しかし当の本人はどこ吹く風で、ベッドサイドにある果物の詰め合わせからリンゴを取り、ガリッと齧っている。それミツバさんのだからダメ!と***が注意する前に立ち上がって「そんじゃー俺、ちょっくら屋上行ってくるわ」と病室を出て行ってしまった。
「それじゃぁミツバさんは、江戸へはつい最近来られたばっかりなんですね?」
「ええ、このあいだお見合いをしたのよ」
ミツバをどこか懐かしく感じたのは、おなじ田舎生まれ田舎育ちだからかもしれない。地方から都会へ出てきた者同士、ミツバと***のおっとりした雰囲気は似ていた。向き合っておしゃべりをしていると、初対面とは思えないほど会話が弾んだ。
お見合いはうまくいき、裕福な貿易商のお家に嫁ぐことになった。旦那さんになる人はとても優しい親切な人だ。それを聞いた***は自分のことのように喜んで「おめでとうございます」と手を叩いた。するとミツバは少しはにかんだ後で遠慮がちに口を開いた。
「会ったばかりの***さんに、こんなことを言うのはおかしいけれど……私ちょっと後ろめたいの。こんなオバサンを貰ってくれるってだけでありがたいのに入院して迷惑をかけちゃって。私はずっと周りに気をつかわせてばっかりだから……」
「なに言ってるんですか!もし私が旦那さんならミツバさんみたいな人がお嫁に来てくれるだけで舞い上がっちゃって毎日幸せですよぉ。旦那さんが奥さんを気づかうのは当たり前だから遠慮せずに、退院したらドレスを着せてねって言えばいいんですよ」
「そうかしら……、そういうものかしら?」
「そういうものですよ。家族がお互いに思い合うのは当然です。だから妻の務めとしてミツバさんはまず元気にならなきゃ、って……私なんだか生意気ですね!結婚したこともないのに知った口きいて」
勢いまかせに喋ったのが恥ずかしくて、***はパイプ椅子の上で縮こまった。浮かない顔のミツバを励ますだけのつもりが、余計なことまで言い過ぎた。そう後悔する***にミツバはふふっと軽く笑うと「そんなことないのよ」と言った。
「初めての結婚だから少し不安になっただけなの。ごめんなさいねぇ、***さんにまで心配かけて」
「あっ……!あの、ミツバさんそれって……それってもしかして!マリッジブルーってやつでしょうか!?」
「マリッジブルー?なぁにそれ?」
ハッとした***が瞳を輝かせると、ミツバはぽかんとした。ドラマで見ただけだから、***もマリッジブルーがどんなものだかよく知らない。でもたしか結婚を控えた女性は落ち込みやすく、この婚約は間違いだと思い込んでしまう事があるらしい。大切な結婚を邪魔されてはいけない!そう思った***はおせっかいにも、ミツバをマリッジブルーから救うという使命に燃えた。
「ミツバさんっ、私ちょっと行ってきます!でも、すぐに戻ります!えぇっと、あ、この競馬新聞でも読んで待っててください!!」
「えっ、***さん!?」
部屋を飛び出して廊下を走り抜ける。大江戸病院は大きな総合病院だから、院内にコンビニや書店がある。それなら絶対に見つかるはず。一目散に本屋へ駆けこんだ***が手を伸ばした物、それは———
「結婚情報誌のゼ〇シィです!」
「あらあら、そんなもの買ってきてくれるなんて……ありがたいわ!そういう本を一度読んでみたかったの」
「なんと今月号の付録はピンクの婚姻届けです。わぁ!可愛いですよコレ!あっ、ほらミツバさん見てください、結婚前のお悩み相談特集ですって!」
「ねぇ***さん、よかったらここへ来て一緒に読まない?おせんべいでも食べながら」
「もちろんっ!!」
ぶ厚くてずっしり重たい雑誌を持って、***は下駄を脱ぐとベッドに上がった。促されるがままミツバの隣に並んで座り、膝に置いた雑誌を開いた。ページをめくると純白のドレスや美しい晴れ着姿の女性が目に入る。
ミツバはおせんべいをパリッと齧りながら、真剣に誌面を読みふけっていた。さっきまでやや青白かった頬が、わずかに血色がよくなっている。いたって健康そうな様子に、***はホッとした。
———ミツバさんがウェディングドレスを着たら、さぞ綺麗だろうなぁ……きっとさっきの私みたいに旦那さんやお友達もみんな見惚れちゃうに決まってる。ぽーっとする人たちの前でミツバさんはめいっぱい幸せそうに笑うんだろうな。涙が出るほど美しいんだろうなぁ……
例えば姉が居たら、こんな気持ちだろうか。会ったばかりのミツバにすっかり親しみを覚えた***は、この人が姉だったらいいのにと思っていた。だから花嫁姿を想像するだけで感極まりそうになる。***は静かに微笑んでミツバの横顔を眺めていた。
「辛いものは好き?」と聞かれて手渡された唐辛子せんべいを、***は初めて食べた。真っ赤な粉まみれのおせんべいをミツバが涼しい顔で食べているから、大して辛くないと思ったのだ。だが唇に触れた瞬間ビリビリした刺激が走り、唐辛子そのものを噛んだような痛みに似た辛さが***の口いっぱいに広がった。
「んぶッッッ!!?か、辛いぃぃッ!!!」
「そうね***さん、辛いものって美味しいわよねぇ」
「っっ……!!?」
上機嫌なにっこり笑顔を前に、***は辛すぎて食べられないと言えなくなった。でもやっぱり辛い!辛いっていうか痛い!おいしいっていうか味が分からない!あれ、口の感覚が無いよ?なにコレ?やだコレ!と***は目を白黒させた。カプサイシンの効果で体温が上がり、全身から汗が吹き出す。期待に満ちた目のミツバを失望させたくなくて必死に声をふりしぼった。
「あ゛ががッ……が、辛゛い゛げどッ……、お゛い゛じい゛でず!!!」
「うふふっ!ハイおかわりどうぞ。いっぱい食べてね」
「へぇぁあッ!!?」
おっとりした調子で有無を言わさず、ミツバは次のおせんべいを差し出した。大好きな辛いものを人にすすめるのが嬉しくて仕方がない。他人の頼みを断れないお人よしな***は、真っ赤なおせんべいを震える手で受け取った。そしてミツバに見守られながら、激辛せんべいを3枚も食べるはめになった。
激辛せんべいに***が苦しんでいる間、銀時は病院の屋上にいた。暮れていく夕日のなか、隣にはアフロ頭の山崎が立っている。山崎からミツバの病状がかなり深刻なことを聞いた。そして婚約者である転海屋の主人が、攘夷浪士相手に武器の闇取引をしていることも耳にした。その事実は真選組でも数少ない者たちしか知らない。苦々しい顔で銀時は山崎に尋ねた。
「あの女は知ってんのかよ?」
「いえ、副長に誰にも言うなと、」
「言ってんじゃねーかよ俺に!」
「いてっ!いやだってそれは旦那が、」
「俺が何だよ?」
アフロ頭にゲンコツを落とすと、痛がって涙目になった山崎が不満げな顔で銀時に尋ね返した。
「それより旦那ァ、なんで***ちゃんがここにいるんです?俺の知らないうちに来て、急にミツバ殿と親しくしてるから驚きましたよ」
「そりゃ俺が呼んだからに決まってんだろ。せんべえ持って見舞いに来いって。別に驚くこともねぇ、***が誰とでも仲良くなれんのはお前も知ってんだろーが」
「そりゃそうですけど……それじゃ旦那、***ちゃんにあの人の病気のこと喋ったんですか?あっ!アンタまさか先が長くねぇって知ってて、ミツバ殿を慰めるためにわざわざ***ちゃんを呼んだんですか?」
「ちげぇよ馬鹿!んなわけねぇだろ!!」
「じゃ、じゃぁ、どうして、」
どうしてなのかは、銀時だって分からなかった。
数日前、いきなり沖田に親友のフリをしろと頼まれてから、あれよあれよとこんなことに巻き込まれてしまった。最初から活気のない女だとは思っていたが、気がつけばミツバは弱り切っていた。
婚約者の男が見舞いに来ていたが、ものの数分も経たずに帰ってしまう。あまり人の来ない静かな病室でひとり「元気にならなきゃ」と気丈に振る舞うミツバを見ていたら、ふと銀時の頭に***の顔が浮かんだ。そして自然と「コイツに***を会わせてぇな」と思った。
成熟した大人のミツバと、純粋すぎて幼さの残る***では似ても似つかない。だが顔を突き合わせて話していると、ふたりから同じ匂いがした。自分よりも他人のことばかり考えているところとか、のほほんとした笑顔の清らかさとか、そんなものがミツバと***はよく似ている。現に病院にやってきた***はミツバにすぐ懐いたし、ミツバもまた***をすんなりと受け入れて、あっさり心を開いていた。
「アフロ監察官の勘は残念だがハズレだよ。***は……アイツはなんも知らねぇ。知り合いが入院したから見舞いに付き合えって言っただけだからな。頼んでもねぇのに競馬新聞と痔の薬まで買ってきてやんの。辛ぇモン食いすぎて痔になったヤツの見舞いだっつったの、マジで真に受けちまってさ」
「旦那、それ***ちゃんとミツバ殿の両方に殴られても文句言えねーですよ。まぁ、とにかくさっき言ったことはくれぐれも内密に頼みます。いくら付き合ってるからって***ちゃんにも他言無用ですからね!」
「ったりめーだ!んなこと言われなくとも分かってるっつーの、この腐れアフロが!っつーか何でアフロなんだよお前、殺すぞ!」
その返事を聞いた山崎は重い足取りで屋上を出て行った。今夜も土方と共に転海屋の船を見張るという。不逞浪士との大きな違法取引があり、明晩にも踏み込むことになるだろう。
どうりでミツバの旦那はそそくさ帰るはずだ、と銀時は頭をガリガリ掻いた。どいつもこいつもご苦労なこった。そうひとりごちて沈みゆく夕日を眺める。背後で屋上の鉄扉がバタンッと閉まると、夕焼けの茜色がさらに濃くなった気がした。
「たりめーだろ……んなこと、***に言えっかよ……」
ぼそぼそと呟いた声は夕陽色に染まって消えた。
3枚目のおせんべいの最後のひと口を飲み込んだ瞬間から、***の記憶は飛んでいた。気がつくとベッドに仰向けで倒れていた。カッカッと熱を持つほっぺたを、ミツバのひんやりした手で包まれた。
「***さん?大丈夫?」
「ぉ……ぉねぇ、ちゃん……?じゃ、ないっ!ミツバさん、すみません!あれッ!?私、おせんべい食べて、それでっ……!?」
「おせんべい食べてから急に倒れたのよ」
口とノドの奥がピリピリして唇はヤケドしたみたいに熱い。おせんべいを食べきった直後、***はゴホゴホと咳き込んだままバッタリと倒れた。ベッドを半分奪うように横たわる***を、隣に座るミツバが真上から見下ろしている。飛び起きようとすると女神みたいな微笑みで「そのまま寝てて」と制された。
両ほほ包むミツバの手のひらは、冷え性の***の手よりずっと冷たかった。うふふ、と笑いながら熱い顔を冷やすように撫でられて、ぼんやりしてしまう。ほっぺたに触れる細い指から母親みたいな優しい香りがした。戻りかけの意識で「お姉ちゃん」と呼んでしまったのは、あながち間違いじゃない。あの瞬間たしかに***は自分に姉が居たような気がした。
「***さんは、お姉さんがいるの?」
「いいえ、居ないんです……私、男兄弟だけだから、その、ミツバさんみたいな優しいお姉ちゃんがいたらいいのになぁって思ってたら、なんか勘違いで口走っちゃいました……恥ずかしいこと言ってすみません」
「ううん、すごく嬉しかった……私も兄弟は弟だけ。両親が早くに亡くなったから半分母親みたいなものだったし、***さんみたいな可愛い妹がいたら良かったって、私も思ってるわ」
「ミツバさん……」
柔らかなまなざしでミツバは静かにうなずいた。こんなに優しい人と仲良くなれたことが***は嬉しかった。意識が飛ぶほど辛いおせんべいを、頑張って完食して良かった。顔の熱が引いて口に残っていた辛さが薄れるとやっと起き上がった。
ベッドが揺れてビニール袋がガサッと床に落ちる。激辛スナックと競馬新聞を入れて持ってきた袋から、ポラギノールの箱が転がり出た。「なぁにこれ?」とミツバが拾い上げたので、***は「あわわわっ」と青ざめた。親しくなったばかりのお姉ちゃんに恥をかかせるなんて一生の不覚。ソレはこっそり置いていくつもりだったのにっ、と頭を抱えた。
愚かなことに***はその時もまだ、ミツバは痔の治療で入院中だと思い込んでいた。
「あっ、あのっ、ミツバさん!それお薬なんです。薬局に居た自称忍者って人が、その……じ、痔にはこれがいちばん効くって言ってたから座薬タイプのやつを買ったんですけど」
「え?痔の薬を……私に?」
「そ、そうです。銀ちゃんが言ってたから」
「もしかして***さん、銀さんから私が痔で入院してるって聞いたのかしら?」
「へっ?違うんですか?」
「違うわよ。やぁね、銀さんったら!」
「っ……!!ぎっ、銀ちゃんの馬鹿ッ!!!」
「ぷっ、あはははッ!!」
あまりの怒りに***が顔を真っ赤にすると、ミツバは弾けるような笑い声を上げた。その日いちばんの明るい笑い声だった。とんでもない勘違いを***は土下座をして謝ったが、ミツバは気にするそぶりもなく「いいのよ」と笑った。手渡されたポラギノールの箱を見下ろした***がおでこを押さえて「はぁ~」と深いため息を吐くと、それすらおかしかったようでミツバは軽やかな声で笑い続けた。
屋上から戻った銀時の耳にミツバの声が届いた。大笑いと言っていいほどの明るい声が廊下まで響いていたから驚いた。銀時と居る間のミツバは穏やかで静かな微笑みか、痛々しい作り笑いしか見せなかったから。
———やっぱし***を呼んだのは正解だったな。男の俺にゃ言いづれぇこともアイツになら話せんだろーし……なんつーの?女同士の絆っつーの?それとも友情っつーの?そんなよーなモンが芽生えて良かったんじゃねーの?人懐っこい***のことだから、今頃 "銀ちゃんのおかげでお友達が増えました!" とか言って喜んでんだろ。ハイハイ分かったよ。銀さんに感謝するなら、いくらでもしてくださいよーっと。
「おーい、お前らァ、ギャーギャーギャーギャーうるせぇ笑い声が外まで響いてんぞ。婦長に怒られっから少しは静かにしろよ***~」
そう言いながら意気揚々と病室に足を踏み入れた瞬間、銀時は左のほっぺたをバシッと叩かれた。「いってぇ!」と声を上げると茹でダコのような顔の***と目が合った。怒りの形相で手には筒状に丸めた競馬新聞を持っている。その背後でベッドに座るミツバも同じように新聞を持ってニコニコしていた。
「ぎ、ん、ちゃ、んっ!!なんてことを、なんてヒドイことをしてくれるんですか、コラァァァ!!!」
「はぁぁぁぁ!?ッんだよ***!?いきなり何なんだよ!?俺がなにしたっつーんだよ!!」
その問いに答えたのは、***ではなくミツバだった。
「***さんが怒るのも当然よ、銀さん。さっきも言ったけれど私、痔じゃないですからね?」
「じ……?あ、***、お前まさかポラギノール渡しちまったのかよ?うわ~、こっ恥ずかしいヤツぅ~!」
「~~~~っ、ぎ、銀ちゃんのせいだよ!銀ちゃんが変な嘘ついたせいじゃないですかァァァ!!」
「ギャハハハハッ!お前なぁ、痔ってのは長谷川さんみてーなオッサンがなるモンで、こ~んなべっぴんさんがなるわけねーだろ!銀さんの言うことそのまま信じちゃって、***ちゃんはホントに馬鹿でちゅねぇ~~~!」
「この腐れ天パ野郎ッ!ミツバさんに向かって、っ、痔だなんてっ……セクハラもいいとこですよ!反省してください!」
振りかぶった競馬新聞がバシバシと銀髪頭を叩いた。眉を吊り上げた***は全力で殴っているが、しょせん紙の塊だからさして痛くもない。だが「イテッ」と叫ぶとミツバが楽しげに笑うから、わざとらしいほど大げさに痛がった。
ひとしきり叩いた後、***は銀時の腕をつかんでベッドの横へ連れて行った。そしてパイプ椅子に座った銀時の肩を、背後から両手で抑えつけた。
「はい、ミツバさんもどうぞ」
「***さん、本当にこんなことしていいのかしら?」
「もちろんいいんですよ、私のお手本どおりに」
「え、なになに、俺なにされちまうの?」
「えいっ!!」
パコンッ!!!
掛け声と共にミツバは新聞の束を銀時の脳天に叩きつけた。一度ではなく立て続けに何度も叩かれて、ポカポカッという軽快な音が鳴り響いた。
「オイィィィ!お前まで殴んのかよ!銀さんは大事な弟の親友だろーが、やめろゴラァァァ!!」
「ふふっ!そーちゃんには悪いけど、私と***さんに恥をかかせた罪は重いわ」
「そうだよ銀ちゃん、甘んじて受け入れて下さい!」
「お前らなァー、ありゃほんの冗談でって、痛ッ、いたたたっ!オイもうやめろって。そんな頭パーンされたら脳みそ出ちまうって。いてっ!悪かったよマジで、謝ったんだからいい加減にし、イテイテイテッ!イヤほんとッ!すいまっせんでしたァァァ!ちょっ***ッ、ソレ肩の骨折れるぅぅぅ!やめて下さい、お願いします!300円上げるからァァァ!!!」
片手で押さえた口から「アハハッ」という抑えきれない笑い声を上げて、ミツバは銀時を殴り続けた。ふわふわの天然パーマを乱すほど叩いた新聞紙の棒が真ん中で折れた。ミツバの笑い声と、***の騒ぐ声と、銀時の「マジですいませんでした」の叫びが響き続けた。ついに婦長が部屋に乗り込んできて「他の患者さんの迷惑だろーが!!」と3人そろって叱られてしまった。ぷんぷんと怒った婦長が出て行ったあと、ミツバと***は満足げに笑い合ってようやく銀時を許した。
腕時計を見た***が「もうこんな時間!」と言って帰り支度をすると、銀時に声をかけた。
「銀ちゃん、そろそろスーパーが閉まっちゃうから私さきに帰るね。神楽ちゃんとご飯作ってるから、銀ちゃんはもう少しミツバさんとゆっくりしてきて下さい。ミツバさん今日は楽しかったです……あの、その……また来てもいいですか?」
「もちろんよ***さん、ぜひ遊びに来て!」
面会時間が終わるまで残ることにした銀時を置いて、***は先に病室を出ていった。日が暮れた外はうす暗くなりはじめている。ミツバはベッドから立ち上がって、窓ガラスのそばに立った。窓の外を見下ろすと遠くに病院の正面玄関が見えて、患者や見舞客が出たり入ったりしている。
「***さんはとても素敵な人ね。素直で優しくって妹にしたいと思うくらい可愛らしい子だったわ……本当に、また来てくれるかしら?」
「来て欲しいって言ってやりゃァ、アイツはすっとんで来るよ。新聞で俺をぶん殴ってる時の、あの楽しそうな顔見たろ?***も会いたいって思ってるに決まってら。なぁ……ミツバさんよぉ、もう少し自分の気持ちに正直になったらどーだ?辛いモン食いてぇのを我慢しねーように、会いてぇヤツには会いてぇって言っちまえよ。この万事屋さんがその願いを叶えてやっからさ」
「銀さん……」
大きな窓の前に並んで、ミツバは言いにくそうに口をつぐんだ。今までの人生でもワガママを言ってこなかったのだろう。病弱な人間は大概、自分のことを棚に上げて他人にばかり気をつかうから。苦しんでいるのは自分なのに「迷惑をかけてごめんなさい」と周りに謝る。ずっとそうやって生きてきたんだと思うと銀時はどうしても、ミツバに己が心から求めていることを口にさせたくなった。死んだ魚のような目で黙って見ていると、悩ましげに苦笑したミツバがようやく口を開いた。
「そうね銀さん、私、会いたいわ。***さんにまた会いに来てほしい。もちろん銀さんにも」
「おーし、分かった」
その答えを聞いた瞬間、枠に手をかけて窓を開け放った。ガラッと開いた四角窓の外に身を乗り出すと、驚いたミツバが「銀さん!?」と叫んだ。それにも構わず銀時は視線をキョロキョロと動かす。きゅっと細まった赤い瞳がはるか遠くに目当てのものを見つけた。ちょうど病院の玄関から***が小走りで出てきたところだった。
「オイッッッ!!!***ッッッ!!!!!」
「ひっ……!!?」
病院中の窓ガラスが震えそうなほどの大声だった。
離れた距離をたやすく超えて、銀時の声は***に届いた。小さな身体を飛び上がらせた***が勢いよく振り返る。見上げた病院の窓にふたりの姿を見つけて、目を見開いている。両手を口に添えて「なんですかー!?銀ちゃーん!?」と叫ぶ声を銀時の耳は捕らえたが、ミツバには全く聞こえなかった。すぅぅぅっと深く息を吸い込んで、銀時はもう一度叫んだ。
「ミツバが!!オメーに!!会いてぇってェェェ!!!明日もせんべえ持って来るかァァァァ!!!??」
「そんな、あ、明日じゃなくても……あッ!!!」
遠慮がちに銀時を止めていたミツバが、窓の外を見て息を飲んだ。なぜなら声も届かないほどの遠い場所にひとりで立つ***が、満面の笑みを浮かべて両腕を頭上に掲げていたから。そしてその両腕がにっこり笑顔を囲うように大きな丸を描いていたから。
通りすがりの人たちにじろじろ見られても、***は気にする素振りもない。ミツバの為に迷いなく、その子どもっぽいポーズを取って全身で「もちろん」と答えている。しかもその顔は頭から花でも咲きそうなほど喜びに満ち溢れていた。
「ぶはッ!アイツ、ひとりでバカみてー!」
「銀さん、そんなこと言っちゃダメよ」
「や、でも見ろよ、手上げちゃって、ブハハッ!!」
「ふふっ……もう***さんたら、本当に可愛い」
道行く人々に好奇の目を向けられても、***は両手を上げ続けていた。それを見つめたミツバは心底嬉しそうに微笑んでいる。銀時はチラッとその横顔を盗み見て、この程度のワガママはいともたやすく叶えられると思った。夕闇のなかの***と見つめ合ってくすくすと笑いを漏らすミツバは、見惚れるほど綺麗だった。
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【(1)綺麗な人】to be continued...
あなたはとてもきれいだった
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