かぶき町で牛乳配達をする女の子
牛乳(人生)は噛んで飲め
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【am.8:00】
江戸へ戻る日の朝、両親そろって見送りに来てくれた。夏が近いというのに、北国の風は涼しい。見渡す限りの野原を、縫い目のように横切る線路。ぽつんと寂しい無人駅のホームに三人で立つ。荷物を抱えた***が、風に髪をなびかせて、何も言わずにたたずんでいた。
「どうした***、ずいぶん無口だな、寂しいのか」
心配した父が話しかける。ぼーっとした目で前を見ていた***が、ゆっくりと顔を横へ向ける。
その娘の顔を見て、父は何か分からない違和感を感じる。
「寂しくないよ、お父さん、大丈夫。またお休みをもらえたら、すぐ帰ってくるからね」
「寂しいのは***じゃなくて、あなたでしょう?」
そう言った母の言葉を聞いて、***はくすくすと笑う。口元を手で押さえながら、おかしそうに笑う***が、ぱっと見た感じは昨日と同じなのに、何かが違うと父は首をかしげる。
「なぁ、母さん……なんか、***の顔が昨日と違くないか」
「え?……えぇ、そうねぇ、昨日と違うわねぇ」
「え?何が?私なんか変?顔になんかついてる?」
突然の両親の言葉に***は驚いて、手で自分の顔をぺたぺたと触る。触れたところはいつも通りで、自分では何も問題がないように思う。しかし、父はいぶかしげな目をして、母は愉快そうな顔をして、じっと***を見ている。
「え、なになに?どこかおかしいなら教えてよ、お父さん」
「いや、父さんも分からないんだけど……なんかちょっと……あれ?もしかして***、昨日より可愛くなってる?」
「はぁ!?冗談言うのやめてよ、お父さん、子供じゃないんだから!」
「あら、***、冗談じゃないのよ。お父さんは見たままのことを言ってるの。あなた、本当に昨日より可愛くなってるのよ」
「ちょっとお母さんまで……あ!そうやって可愛いって言って喜ばせて、もう少し長く居させようって魂胆?もぉ、やめてよ、明日も朝から配達があるんだから、今日帰らないと駄目なの!」
両親が冗談を言っていると思い、***は口をとがらせると、顔をぷいっとそらした。理由が分からず頭の上にハテナマークを浮かべる父と、訳知り顔で微笑む母が、娘を見守っている。
こちらに向かって走ってくる電車が、遠くに見えた。
「じゃぁ、お父さんお母さん、また帰ってくるからね、元気にしててね」
少しずつ速度を落とした電車が、ホームへと近づいてくる。乗り込む準備のために、一歩踏み出した***の手を、母が取る。
「***、次の帰省がいつになるか分からないから、特別に教えとくけど……」
そう言って母はゆっくりと***の首に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「恋をすると女の子はね、たった一晩でも見違えるほど変わるの。自分では分からないかもしれないけど……今の***は、本当に昨日より可愛くなってるんだよ。ねぇ、***、……銀ちゃんが好きってこと、認めたのね?」
耳元で話す母の言葉に「えっ!?」と驚く。恥ずかしさに顔が熱くなるが、抱きしめる腕が優しくて、顔をうずめた肩から母の懐かしい香りがして、一度跳ねた心臓の鼓動もすぐにおさまる。
母の背中に回した手に、ぎゅっと力を入れて抱きしめ返す。顔をうずめたまま、風にかき消されそうなほど小さな声で、***は言った。
「うん……お母さん、私……銀ちゃんのことが好き」
***の言葉を聞いて、母は嬉しそうに微笑むと、回した腕を外す。温かい両手で***の少し赤くなったをほほを包む。
「よく言いました!***、お母さんは***の恋を応援します。でもその恋がうまくいってもいかなくても、それも大切な人生なんだから、よく味わって生きてね。牛乳と一緒よ、人生もよく噛んで味わって飲み込むの。***の大好きな誰かさんもそう言ってたんでしょう?」
「え!?母さん!!ちょっと恋ってなに!?***に好きなヤツがいるのか!?」
「お父さん!恥ずかしいから、そんな大きな声出さないでよ!!」
顔を真っ赤にした***が、父の胸をばしばしと叩く。父は今にも泣きだしそうな真っ青な顔で、妻と娘を交互に見ている。そんなふたりを見て、母は「あはは!」と笑い声をあげた。
ガッタン、ギギギギィィィ…という油切れのような大きな音を立てて、電車が停車する。父の追及や、母に笑われる恥ずかしさから逃れる為に、***はそそくさと電車に乗り込む。
「***、ちゃんと説明しなさい、お父さんはどこの馬の骨とも知れんヤツを、お前の恋人になんて認めないからな!」
「恋人なんていないよ!また今度ちゃんと話すから、心配しないで!大丈夫だから!」
「***、次に帰ってくる時には彼氏を連れていらっしゃい、お母さんとお父さんに挨拶もかねて」
「お母さん!もうやめて!!!」
電車に乗り込んだ後も、窓を開けて身を乗り出す***は、怒りの声をあげながら娘にすがりつく父と、笑いながら手を振る母に見送られた。二年前のたったひとりの出立とは大違い。こんなに大騒ぎをしながら、両親に見送られている。
ついに電車が走りはじめて、心配そうに眉を八の字に下げた父が、「***ー!元気にやるんだぞー!」と叫んだ。その後ろで母も手を大きく手を振っている。
「いってきまーす!お父さんお母さん、またねぇー!!!」
窓から身を乗り出すと、***も大きな声で叫び、手を振った。電車がどんどん離れていく。両親の姿が見る間に小さくなり、いつか景色と同化して分からなくなるまで、手を振り続けた。
駅に残された父はうなだれている。
「母さん、***は好きな人ができたのか」
「あなた、***は子供じゃないの、好きな人のひとりやふたり、できて当然です」
「そうだなぁ、そうだよなぁ、あ゙ー…分かってはいても、ひとり娘に彼氏ができるなんて、父親には耐えがたいものだよ」
「ふふふ、***に聞いた限りでは、あなたの若い頃に似て、不器用だけど優しい素敵な人みたいですよ」
「母さん、それは慰めにはならんよ……どんなに立派ないい男が来たって、愛する娘の相手として父親が認められるわけがないんだ、はぁ~…本当に挨拶につれてきたらどうしよう、泣きながら一発殴ろうか」
「あら!それはやめといた方がよさそうよ、返り討ちにあってどうなるか分かったもんじゃないです」
肩を落として少しだけ目を潤ませた父の、小さくなった背中に母が手を回す。まだ見ぬ***の好きな相手に思いを馳せながら、夫婦はゆっくりと帰路についた。
「ぶえ~~~っくしょぉいッッッ!!!!!」
「げっ!鼻水飛んだネ!銀ちゃん汚いアル!」
「銀さん、くしゃみするなら、もうちょっと静かにしてください」
新八から手渡されたティッシュで鼻をかみながら、銀時は「あぁ~、誰か俺のウワサしてやがる」と言った。
いつもと変わらぬ、万事屋の平和な午後だ。仕事の依頼は相変わらず少ない。***が帰省してから二週間、仕事は数件しかなかった。家にいる時間が長い為、***の作っていった冷蔵庫の常備菜は、あっという間に無くなった。
ジャンケンで負けた神楽が食事当番をしている為、ずっと卵かけご飯が続いている。***の食事に慣れていた為、作っている神楽本人も「そろそろ***のご飯が食べたいネ!」と不満を言い出していた。
ソファの後ろを通りすぎざまに、銀時が「お前が二日で冷蔵庫のモン全部食ったせいだろーが!」と、神楽の頭にゲンコツを落とす。そのまま台所へ向かい冷蔵庫を開けると、中にはいちご牛乳しか入っていない。
買い出し行っとくか、明日***が来た時に、なんか作って迎えてやれるように、と銀時は考える。
「おいオメーら、買い出し行くから荷物持ちについてこい」
「えぇ~面倒くさいアル、大江戸スーパー行っても***いないネ、全然楽しくないアル」
「神楽ちゃん、***さん今日の夜には江戸に帰ってくるんだから、いつまでもだらだらしてると呆れられちゃうよ」
「帰ってきたところで***はもう、万事屋のことなんて相手にしないネ。きっと故郷で昔好きだった人とかに再会して、恋が再熱したりしてるアル。そんでもうめっさ美人になって、“万事屋?そんなシケた奴ら知らないわ”って言いながら帰ってくるヨ」
「ちょっとぉぉぉ、神楽ちゃん何言ってんの!?あの清純派な***さんに限って、そんな昼ドラ展開みたいなことあるわけないでしょ!」
「そうだぞ、神楽、あの***だぞ?あんなちんちくりんなお子ちゃまが、昔好きだったヤツに会ったところで、なんも変わるわけねーだろ。せいぜい変わったところで、子犬が豆しばになる程度の変化だっつーの、成犬にすらなれねぇっつーの!」
男ふたりの反対意見を聞いた神楽が、馬鹿にしたような顔でソファから身を乗り出す。神楽しか知らない、***のとっておきの話を思い出した。***の家に泊まって、修学旅行の夜のようなガールズトークをした時に、特別に教えてくれたのだ。
「お前らはなーんも知らないネ、***の初恋の人はすっごくイケメンだったって言ってたアル!寺小屋で一緒だった太郎って奴ネ!村でいちばん足が速くて頭もよくて、女の子にモテモテの奴ヨ!***に優しくて、みんなに隠れてこっそり手を繋いだって言ってたアル!」
「ギャハハハハ!寺小屋っていつの話だよ!あのちんちくりんが、さらにガキの頃だろ!そんなもん、もう子犬でもねぇ、毛玉だ毛玉!靴下に出来るよーなちっせぇ毛玉と毛玉が、ちょこちょこ引っ付きあってただけの話じゃねぇか!」
「違うネ!この話してる時、***は恋する女の顔してたネ!そんな甘酸っぱい思い出の人に、大人になって再会したら、ひと晩のアバンチュールはお約束アル!太郎は今ごろ社長かなんかで、結婚の約束でもして戻ってくるヨ!そうしたらもう万事屋なんて手間と金がかかるだけで、***になんの得もないヤツらとは付き合わないネ!」
「ちょっと神楽ちゃん、それ自分で言ってて悲しくならない?***さんはそんな人じゃないって、僕らがいちばんよく分かってるんだから、そんなこと言っちゃ駄目だよ」
「そうだぞ神楽、なんの得もないとか言われると、普通に銀さん傷つくんですけど……え、俺そんなに甲斐性無い感じする?めずらしく飯でも作って迎えてやろーとか思ってんだけど、結構優しいイケメンじゃね?太郎も真っ青じゃね?」
「銀ちゃんなんて全然駄目アル!相手は大手企業社長の太郎ヨ!女は結局、自分を飾ってくれる男を選ぶものネ」
昼ドラで学んだ知識をもとに、とんでもなくひねくれたことを言う神楽に、銀時の繊細な心はぽきりと折れた。***を手料理で迎えてやろうと思っていたが、それももうどうでもいい。
あーそうかそうか、結局女はみんな金を持ってるヤツが好きだよねー。***もどうせ今ごろ、一流企業取締役の太郎とイチャコラ楽しんでるだろうよ。俺たちが毎日毎日卵かけご飯でしのいでるなんてことも知らねぇで。あーやめだやめだ、そんなことなら買い出しなんかより、酒だ酒ぇ。
「ちょっと銀さん!***さんに手料理をふるまうんでしょう!?買い出しに行くんですよね!?」
「よせよ、ぱっつぁん、大富豪の太郎に手ぇつけられた***を満足させられるような飯は、俺に作れるわけねぇだろ。飲み行ってくるわ」
「いや、それ全部神楽ちゃんの作り話ですからぁぁぁ!!!っつーか太郎どんどん出世してんじゃねーか!!!こんな昼間っからお酒なんて、***さんが知ったら呆れますよ!」
勝手に呆れてろっつーのぉ、と言いながら不貞腐れた顔で玄関を出ていく銀時を見て、新八はがっくりと肩を落とす。
銀時と神楽が***のいない二週間に疲れ、限界を感じていることは、新八がいちばんよく分かっていた。なぜなら新八自身もそうだったから。それまでほぼ毎日のように万事屋へやってきていた***の「ごめんくださぁい」という明るい声を、新八は何度も懐かしく思った。
来て何をする訳でもない。買ってきたお菓子をみんなで食べたり、神楽と一緒にテレビを見て笑ったり、新八とお通の歌を歌ったり、ジャンプを読んだまま寝てしまった銀時に毛布をかけたり。
***が何か特別なことをするわけじゃない。しかし、その不在が無視できないほど、万事屋にとっては居て当たり前の存在だったのだ。
神楽があんなことを言ったのも、***がいない二週間でストレスが溜まっていたから。その言葉を聞いた銀時が、あっさり不貞腐れてしまったのも、結局は同じ理由だ。
唇を尖らせて不機嫌な顔でテレビを見ている神楽、買い出しの金を持ってやけ酒を飲みに行ってしまった銀時。廊下に立ち尽くした新八が、大きなため息と一緒につぶやいた。
「***さん……お願いだから、早く帰ってきて……」
電車の窓は開けたまま。***は外の景色を眺めている。かわいた風に、髪が流されて気持ちがいい。電車はどんどん進んでいく。無人駅がいくつも続いた後、人が乗り込んでくるような少し大きな駅になった。
かぶき町に帰っているという実感に、***の胸は高鳴る。駅に着くのは夜で、迎えは牛乳屋のおじさんが来てくれる。万事屋のみんなに会えるのは、明日の朝の配達が終わった後だろう。
神楽の希望通り、お土産のおまんじゅうを持って行こう。みんな元気だろうか。電話のひとつでも入れれば良かったが、いざ電話をかけて「はい、万事屋ぁ」と銀時の声が聞こえたら、息が詰まってうまく喋れなそうで、結局できなかった。
「早く、会いたいなぁ……」
小さくつぶやいた声が、電車の音にかき消される。瞳を閉じると、眩しい銀色の光が見えて、銀時の顔が浮かんでくる。
今ごろどうしてるだろう。ジャンプを読みながら寝ちゃってるかな。***の顔を見たら、おかえりと言ってくれるだろうか。
恋をするってこんな気持ちなんだ、と***は思う。今まで全然意識もせずに、何度も銀時の顔を思い浮かべて、励まされてきた。あの時もこの時もと、いくらでも思い出せるくらい幾度も。
だけどいちばん***の心が強くなれるのは、手の届く位置に銀時がいて、「ねぇ銀ちゃん」と声をかければ「ん?」と***の目を見てくれる時だ。
―――ああ、早く、早く会いたい、銀ちゃんのもとへと早く帰りたい
居ても立ってもいられないような気持ちで、***は車窓から見える景色を眺め続けた。
いくつもの山を越え、いくつもの駅を超え、少しずつ銀時との距離が縮まっていく。この距離を超えて、ただひとりの好きな人のもとへと帰っていく。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて、そんな感情があることを、昨日までは知らなかった。
銀時の顔を思い浮かべると、うずくまりたいほど胸がぎゅっと締め付けられて、そのくせ走り出したいほど嬉しい。名も知らない不思議な感情が溢れだすのを、唇をきゅっと噛んでこらえる。
はじめての恋をする***の、昨日より少し大人びた横顔を、窓から吹き込む初夏の風だけが見ていた。
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no.33【am8:00】end
江戸へ戻る日の朝、両親そろって見送りに来てくれた。夏が近いというのに、北国の風は涼しい。見渡す限りの野原を、縫い目のように横切る線路。ぽつんと寂しい無人駅のホームに三人で立つ。荷物を抱えた***が、風に髪をなびかせて、何も言わずにたたずんでいた。
「どうした***、ずいぶん無口だな、寂しいのか」
心配した父が話しかける。ぼーっとした目で前を見ていた***が、ゆっくりと顔を横へ向ける。
その娘の顔を見て、父は何か分からない違和感を感じる。
「寂しくないよ、お父さん、大丈夫。またお休みをもらえたら、すぐ帰ってくるからね」
「寂しいのは***じゃなくて、あなたでしょう?」
そう言った母の言葉を聞いて、***はくすくすと笑う。口元を手で押さえながら、おかしそうに笑う***が、ぱっと見た感じは昨日と同じなのに、何かが違うと父は首をかしげる。
「なぁ、母さん……なんか、***の顔が昨日と違くないか」
「え?……えぇ、そうねぇ、昨日と違うわねぇ」
「え?何が?私なんか変?顔になんかついてる?」
突然の両親の言葉に***は驚いて、手で自分の顔をぺたぺたと触る。触れたところはいつも通りで、自分では何も問題がないように思う。しかし、父はいぶかしげな目をして、母は愉快そうな顔をして、じっと***を見ている。
「え、なになに?どこかおかしいなら教えてよ、お父さん」
「いや、父さんも分からないんだけど……なんかちょっと……あれ?もしかして***、昨日より可愛くなってる?」
「はぁ!?冗談言うのやめてよ、お父さん、子供じゃないんだから!」
「あら、***、冗談じゃないのよ。お父さんは見たままのことを言ってるの。あなた、本当に昨日より可愛くなってるのよ」
「ちょっとお母さんまで……あ!そうやって可愛いって言って喜ばせて、もう少し長く居させようって魂胆?もぉ、やめてよ、明日も朝から配達があるんだから、今日帰らないと駄目なの!」
両親が冗談を言っていると思い、***は口をとがらせると、顔をぷいっとそらした。理由が分からず頭の上にハテナマークを浮かべる父と、訳知り顔で微笑む母が、娘を見守っている。
こちらに向かって走ってくる電車が、遠くに見えた。
「じゃぁ、お父さんお母さん、また帰ってくるからね、元気にしててね」
少しずつ速度を落とした電車が、ホームへと近づいてくる。乗り込む準備のために、一歩踏み出した***の手を、母が取る。
「***、次の帰省がいつになるか分からないから、特別に教えとくけど……」
そう言って母はゆっくりと***の首に腕を回して、ぎゅっと抱きしめた。
「恋をすると女の子はね、たった一晩でも見違えるほど変わるの。自分では分からないかもしれないけど……今の***は、本当に昨日より可愛くなってるんだよ。ねぇ、***、……銀ちゃんが好きってこと、認めたのね?」
耳元で話す母の言葉に「えっ!?」と驚く。恥ずかしさに顔が熱くなるが、抱きしめる腕が優しくて、顔をうずめた肩から母の懐かしい香りがして、一度跳ねた心臓の鼓動もすぐにおさまる。
母の背中に回した手に、ぎゅっと力を入れて抱きしめ返す。顔をうずめたまま、風にかき消されそうなほど小さな声で、***は言った。
「うん……お母さん、私……銀ちゃんのことが好き」
***の言葉を聞いて、母は嬉しそうに微笑むと、回した腕を外す。温かい両手で***の少し赤くなったをほほを包む。
「よく言いました!***、お母さんは***の恋を応援します。でもその恋がうまくいってもいかなくても、それも大切な人生なんだから、よく味わって生きてね。牛乳と一緒よ、人生もよく噛んで味わって飲み込むの。***の大好きな誰かさんもそう言ってたんでしょう?」
「え!?母さん!!ちょっと恋ってなに!?***に好きなヤツがいるのか!?」
「お父さん!恥ずかしいから、そんな大きな声出さないでよ!!」
顔を真っ赤にした***が、父の胸をばしばしと叩く。父は今にも泣きだしそうな真っ青な顔で、妻と娘を交互に見ている。そんなふたりを見て、母は「あはは!」と笑い声をあげた。
ガッタン、ギギギギィィィ…という油切れのような大きな音を立てて、電車が停車する。父の追及や、母に笑われる恥ずかしさから逃れる為に、***はそそくさと電車に乗り込む。
「***、ちゃんと説明しなさい、お父さんはどこの馬の骨とも知れんヤツを、お前の恋人になんて認めないからな!」
「恋人なんていないよ!また今度ちゃんと話すから、心配しないで!大丈夫だから!」
「***、次に帰ってくる時には彼氏を連れていらっしゃい、お母さんとお父さんに挨拶もかねて」
「お母さん!もうやめて!!!」
電車に乗り込んだ後も、窓を開けて身を乗り出す***は、怒りの声をあげながら娘にすがりつく父と、笑いながら手を振る母に見送られた。二年前のたったひとりの出立とは大違い。こんなに大騒ぎをしながら、両親に見送られている。
ついに電車が走りはじめて、心配そうに眉を八の字に下げた父が、「***ー!元気にやるんだぞー!」と叫んだ。その後ろで母も手を大きく手を振っている。
「いってきまーす!お父さんお母さん、またねぇー!!!」
窓から身を乗り出すと、***も大きな声で叫び、手を振った。電車がどんどん離れていく。両親の姿が見る間に小さくなり、いつか景色と同化して分からなくなるまで、手を振り続けた。
駅に残された父はうなだれている。
「母さん、***は好きな人ができたのか」
「あなた、***は子供じゃないの、好きな人のひとりやふたり、できて当然です」
「そうだなぁ、そうだよなぁ、あ゙ー…分かってはいても、ひとり娘に彼氏ができるなんて、父親には耐えがたいものだよ」
「ふふふ、***に聞いた限りでは、あなたの若い頃に似て、不器用だけど優しい素敵な人みたいですよ」
「母さん、それは慰めにはならんよ……どんなに立派ないい男が来たって、愛する娘の相手として父親が認められるわけがないんだ、はぁ~…本当に挨拶につれてきたらどうしよう、泣きながら一発殴ろうか」
「あら!それはやめといた方がよさそうよ、返り討ちにあってどうなるか分かったもんじゃないです」
肩を落として少しだけ目を潤ませた父の、小さくなった背中に母が手を回す。まだ見ぬ***の好きな相手に思いを馳せながら、夫婦はゆっくりと帰路についた。
「ぶえ~~~っくしょぉいッッッ!!!!!」
「げっ!鼻水飛んだネ!銀ちゃん汚いアル!」
「銀さん、くしゃみするなら、もうちょっと静かにしてください」
新八から手渡されたティッシュで鼻をかみながら、銀時は「あぁ~、誰か俺のウワサしてやがる」と言った。
いつもと変わらぬ、万事屋の平和な午後だ。仕事の依頼は相変わらず少ない。***が帰省してから二週間、仕事は数件しかなかった。家にいる時間が長い為、***の作っていった冷蔵庫の常備菜は、あっという間に無くなった。
ジャンケンで負けた神楽が食事当番をしている為、ずっと卵かけご飯が続いている。***の食事に慣れていた為、作っている神楽本人も「そろそろ***のご飯が食べたいネ!」と不満を言い出していた。
ソファの後ろを通りすぎざまに、銀時が「お前が二日で冷蔵庫のモン全部食ったせいだろーが!」と、神楽の頭にゲンコツを落とす。そのまま台所へ向かい冷蔵庫を開けると、中にはいちご牛乳しか入っていない。
買い出し行っとくか、明日***が来た時に、なんか作って迎えてやれるように、と銀時は考える。
「おいオメーら、買い出し行くから荷物持ちについてこい」
「えぇ~面倒くさいアル、大江戸スーパー行っても***いないネ、全然楽しくないアル」
「神楽ちゃん、***さん今日の夜には江戸に帰ってくるんだから、いつまでもだらだらしてると呆れられちゃうよ」
「帰ってきたところで***はもう、万事屋のことなんて相手にしないネ。きっと故郷で昔好きだった人とかに再会して、恋が再熱したりしてるアル。そんでもうめっさ美人になって、“万事屋?そんなシケた奴ら知らないわ”って言いながら帰ってくるヨ」
「ちょっとぉぉぉ、神楽ちゃん何言ってんの!?あの清純派な***さんに限って、そんな昼ドラ展開みたいなことあるわけないでしょ!」
「そうだぞ、神楽、あの***だぞ?あんなちんちくりんなお子ちゃまが、昔好きだったヤツに会ったところで、なんも変わるわけねーだろ。せいぜい変わったところで、子犬が豆しばになる程度の変化だっつーの、成犬にすらなれねぇっつーの!」
男ふたりの反対意見を聞いた神楽が、馬鹿にしたような顔でソファから身を乗り出す。神楽しか知らない、***のとっておきの話を思い出した。***の家に泊まって、修学旅行の夜のようなガールズトークをした時に、特別に教えてくれたのだ。
「お前らはなーんも知らないネ、***の初恋の人はすっごくイケメンだったって言ってたアル!寺小屋で一緒だった太郎って奴ネ!村でいちばん足が速くて頭もよくて、女の子にモテモテの奴ヨ!***に優しくて、みんなに隠れてこっそり手を繋いだって言ってたアル!」
「ギャハハハハ!寺小屋っていつの話だよ!あのちんちくりんが、さらにガキの頃だろ!そんなもん、もう子犬でもねぇ、毛玉だ毛玉!靴下に出来るよーなちっせぇ毛玉と毛玉が、ちょこちょこ引っ付きあってただけの話じゃねぇか!」
「違うネ!この話してる時、***は恋する女の顔してたネ!そんな甘酸っぱい思い出の人に、大人になって再会したら、ひと晩のアバンチュールはお約束アル!太郎は今ごろ社長かなんかで、結婚の約束でもして戻ってくるヨ!そうしたらもう万事屋なんて手間と金がかかるだけで、***になんの得もないヤツらとは付き合わないネ!」
「ちょっと神楽ちゃん、それ自分で言ってて悲しくならない?***さんはそんな人じゃないって、僕らがいちばんよく分かってるんだから、そんなこと言っちゃ駄目だよ」
「そうだぞ神楽、なんの得もないとか言われると、普通に銀さん傷つくんですけど……え、俺そんなに甲斐性無い感じする?めずらしく飯でも作って迎えてやろーとか思ってんだけど、結構優しいイケメンじゃね?太郎も真っ青じゃね?」
「銀ちゃんなんて全然駄目アル!相手は大手企業社長の太郎ヨ!女は結局、自分を飾ってくれる男を選ぶものネ」
昼ドラで学んだ知識をもとに、とんでもなくひねくれたことを言う神楽に、銀時の繊細な心はぽきりと折れた。***を手料理で迎えてやろうと思っていたが、それももうどうでもいい。
あーそうかそうか、結局女はみんな金を持ってるヤツが好きだよねー。***もどうせ今ごろ、一流企業取締役の太郎とイチャコラ楽しんでるだろうよ。俺たちが毎日毎日卵かけご飯でしのいでるなんてことも知らねぇで。あーやめだやめだ、そんなことなら買い出しなんかより、酒だ酒ぇ。
「ちょっと銀さん!***さんに手料理をふるまうんでしょう!?買い出しに行くんですよね!?」
「よせよ、ぱっつぁん、大富豪の太郎に手ぇつけられた***を満足させられるような飯は、俺に作れるわけねぇだろ。飲み行ってくるわ」
「いや、それ全部神楽ちゃんの作り話ですからぁぁぁ!!!っつーか太郎どんどん出世してんじゃねーか!!!こんな昼間っからお酒なんて、***さんが知ったら呆れますよ!」
勝手に呆れてろっつーのぉ、と言いながら不貞腐れた顔で玄関を出ていく銀時を見て、新八はがっくりと肩を落とす。
銀時と神楽が***のいない二週間に疲れ、限界を感じていることは、新八がいちばんよく分かっていた。なぜなら新八自身もそうだったから。それまでほぼ毎日のように万事屋へやってきていた***の「ごめんくださぁい」という明るい声を、新八は何度も懐かしく思った。
来て何をする訳でもない。買ってきたお菓子をみんなで食べたり、神楽と一緒にテレビを見て笑ったり、新八とお通の歌を歌ったり、ジャンプを読んだまま寝てしまった銀時に毛布をかけたり。
***が何か特別なことをするわけじゃない。しかし、その不在が無視できないほど、万事屋にとっては居て当たり前の存在だったのだ。
神楽があんなことを言ったのも、***がいない二週間でストレスが溜まっていたから。その言葉を聞いた銀時が、あっさり不貞腐れてしまったのも、結局は同じ理由だ。
唇を尖らせて不機嫌な顔でテレビを見ている神楽、買い出しの金を持ってやけ酒を飲みに行ってしまった銀時。廊下に立ち尽くした新八が、大きなため息と一緒につぶやいた。
「***さん……お願いだから、早く帰ってきて……」
電車の窓は開けたまま。***は外の景色を眺めている。かわいた風に、髪が流されて気持ちがいい。電車はどんどん進んでいく。無人駅がいくつも続いた後、人が乗り込んでくるような少し大きな駅になった。
かぶき町に帰っているという実感に、***の胸は高鳴る。駅に着くのは夜で、迎えは牛乳屋のおじさんが来てくれる。万事屋のみんなに会えるのは、明日の朝の配達が終わった後だろう。
神楽の希望通り、お土産のおまんじゅうを持って行こう。みんな元気だろうか。電話のひとつでも入れれば良かったが、いざ電話をかけて「はい、万事屋ぁ」と銀時の声が聞こえたら、息が詰まってうまく喋れなそうで、結局できなかった。
「早く、会いたいなぁ……」
小さくつぶやいた声が、電車の音にかき消される。瞳を閉じると、眩しい銀色の光が見えて、銀時の顔が浮かんでくる。
今ごろどうしてるだろう。ジャンプを読みながら寝ちゃってるかな。***の顔を見たら、おかえりと言ってくれるだろうか。
恋をするってこんな気持ちなんだ、と***は思う。今まで全然意識もせずに、何度も銀時の顔を思い浮かべて、励まされてきた。あの時もこの時もと、いくらでも思い出せるくらい幾度も。
だけどいちばん***の心が強くなれるのは、手の届く位置に銀時がいて、「ねぇ銀ちゃん」と声をかければ「ん?」と***の目を見てくれる時だ。
―――ああ、早く、早く会いたい、銀ちゃんのもとへと早く帰りたい
居ても立ってもいられないような気持ちで、***は車窓から見える景色を眺め続けた。
いくつもの山を越え、いくつもの駅を超え、少しずつ銀時との距離が縮まっていく。この距離を超えて、ただひとりの好きな人のもとへと帰っていく。ただそれだけのことが、こんなにも嬉しいなんて、そんな感情があることを、昨日までは知らなかった。
銀時の顔を思い浮かべると、うずくまりたいほど胸がぎゅっと締め付けられて、そのくせ走り出したいほど嬉しい。名も知らない不思議な感情が溢れだすのを、唇をきゅっと噛んでこらえる。
はじめての恋をする***の、昨日より少し大人びた横顔を、窓から吹き込む初夏の風だけが見ていた。
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no.33【am8:00】end