かぶき町で牛乳配達をする女の子
牛乳(人生)は噛んで飲め
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【pm.5:30】
スーパーのアルバイトを終え帰宅する。少しずつ日が長くなってきているが、あと30分もすれば真っ暗だ。夕暮れの中を歩きながら、左手で右の肩をポンポンと叩く。今日も朝からよく働いた。明日も早朝から牛乳配達がある。帰ったら、さっと夕ご飯を作って食べて、銭湯に行ったらすぐに寝ようと、夜の予定を頭のなかで組み立てる。
自宅の前について、部屋の鍵を取り出し鍵穴に差し込む。キーホルダーについた鈴がリンと鳴る。
以前鍵を無くした時に、神楽が「これをつければもう無くさないネ!」と言うので、ウサギのマスコットのついたキーホルダーをおそろいで買ったのだ。
―――ガチャッ
いつもの通り部屋のドアを開けると、なぜか中が明るい。朝、電気を消し忘れただろうかと不思議に思い顔を上げる。見慣れた部屋の中で見慣れない少年が、ふざけたアイマスクを着けて横になって寝ていた。
バタンッ!!!
あまりの驚きで部屋に入ることもできず、勢いよくドアを閉める。あれ?部屋間違えた?と思いながら、扉を見上げると確かに手書きの「***」の表札。そんなわけない、と自分に言い聞かせてもう一度扉を開ける。
やっぱり栗色の髪の男の子が寝ている。ゆっくりとドアを閉める。え?なんで部屋に知らない人がいるの?扉の前で足踏みをしながら、おろおろと部屋に入れずにいると、急に中からドアが開いた。
「なにバタバタやってんでぃ、うるさくてしょーがねぇや」
「そ、総悟くん!?何してるの!?」
「何って見りゃわかんだろぃ、昼寝でさぁ」
「そうじゃなくて、なんで人の家で勝手に寝てるの!?そもそもどーやって入ったの!?」
「そりゃ鍵開けてドア開けて入ったに決まってらぁ、***もさっさと入んなせぇ、玄関で騒いで近所に迷惑だろ」
あんたがそれを言うな!と思いながら、沖田に手を引かれて部屋に入る。いつも***が座る座布団が二つ折りにされて、さっきまで枕にされていたのか、頭の形にへこんでいる。ちゃぶ台の上にのっている物を見て***は、はっとする。
それは大雨で高熱を出した日に無くした、この部屋の鍵だった。
「これ、この鍵!もしかして総悟くんが拾ってくれてたの?」
「そうでさぁ、鍵に名前書いとくなんてバカ見たのは、俺ァ初めてでぃ、あんた頭おかしいんじゃねぇのか」
「え、そうなの?田舎じゃ家の戸なんて開けっ放しだから、鍵持つの初めてで、持ち物には名前書いといた方がいいのかなって…」
「はァァァァ~、拾ったのが俺だったからよかったものの、不法侵入するような悪党だったら、あんた今ごろ絞め殺されてらぁ」
「総悟くんも不法侵入だよね」
「あ?絞め殺されてぇのかぃ」
ひとつしかない座布団を、沖田は当たり前のように自分の下に敷いて座った。ちゃぶ台を挟んだ向かいに***はちょこんと正座する。思わぬ人に出迎えられた驚きがまだ収まらない。机上の鍵を手に取って、大家から新たに貰った手元の鍵と見比べる。
「どこに落ちてたんでしょう?」
「部屋のまん前でさぁ、あんたあの日…」
言いかけて沖田はふと口をつぐんだ。
あの大雨の日、沖田はかぶき町の見廻りをしていた。ひどい雨で視界が悪く、ゆっくりとパトカーを走らせていると、数メートル先に自転車をこぐ***を見つけた。合羽も着ずにびしょ濡れなことにも驚いたが、車を近づけて声をかけようと窓を開けた時に、目に飛び込んできた***の顔が、あまりにも青ざめていて、ぎょっとした沖田は声が出なくなった。
信号につかまっている間に、自転車はどんどんスピードを上げて、あっという間に姿を見失った。普段だったら気にも留めないが、信号が青になるまでの短い時間に、体調の悪そうな***の顔が何度も脳裏をちらついた。舌打ちをしてハンドルを切ると、見廻りのルートを外れる。一度行ったことのある***のアパートを目指して、車を走らせた。
アパートに着くと、駐輪場に「サド丸号」とでかでかと書かれた自転車が停まっていた。ドアの前に立ち、インターホンを押したが応答がない。あの女、中でぶっ倒れてねぇだろうな、と思いながらうろうろしていると、足元の雨水だらけの地面で、何かがきらりと光った。拾い上げると「******」と名前の入ったキーホルダー付きの鍵だった。
まさか、と思いながらも鍵穴に差し込むと、ガチャッと音を立てて扉が開く。部屋の中は真っ暗で誰もいない。朝出かけてそれきりという様子に、沖田は狐につままれたような気分だった。
「……あの大雨でこのボロアパートが崩れるおもしれぇとこが見れんじゃねぇかと思って来てみたら、これが落ちてたんでさぁ。あんたずいぶん不用心でぃ、鍵に名前まで書くなんて馬鹿丸出しでさぁ」
「ボロアパートで悪かったですね!あんな雨くらいじゃ崩れないよ!あと拾ったんならポストに入れといてくれてよかったのに、見つからないから大家さんに新しい鍵もらっちゃったよ」
「ひでぇや、警察官はパンピーと違って忙しいんでぃ、拾ったきりすっかり忘れてやしたけど、持ってきてやっただけありがてぇと思え」
「えぇー…まぁそれはそうだけど…えぇっと、あ、ありがとう」
腑に落ちないといった顔で礼を言う***を見て、沖田は満足げにうなずいた。
ちゃぶ台に頬杖をついた沖田の顔を見て、***はおや、と思う。よく見ると少し疲れたような顔をしていたから。前に会った時よりも、ほん少し痩せたような気がする。態度はふてぶてしいが、目には疲労が溜まって眠そうで、瞼の下にくっきりとクマがある。じっと見つめると、つるりとした少年のようなアゴに、わずかに無精ひげが生えていた。
目の前に正座している***の顔を見て、沖田はほっとする。最後に見た時の顔色がかなり悪かったから。
安心と同時に内ポケットに入っている二通の手紙を重たく感じた。姉と姉の主治医、それぞれから届いた手紙だ。姉の方には、元気で何も心配ないと書かれていたが、医者の手紙には容体があまりよくないと書かれていた。仕事の忙しさと重ねて心労がたたり、ここ数日あまり寝ていなかった。
「総悟くん、お腹すいてる?夕ご飯、食べていかない?」
「は?」
唐突な***の提案に、沖田はあっけにとられる。鍵を拾ったとはいえ、勝手に部屋に上がり込んだ男に、飯を食わせるなんて、こいつ本当に頭がおかしいんじゃないかと内心思う。
一方***は、目の前の沖田の疲れた様子が気になり、何かしてやれることはないかと考え、頭に浮かんだことを言っただけだった。
目を丸くしている沖田をそのままに、「どうせ私も今からご飯だし、せっかくなら一緒に食べよう」と言って、ぱっと立ち上がると手際よく準備をはじめる。
朝セットしておいた米は既に炊けている。魚を焼いて、みそ汁と卵焼きを作る。昨晩の残りの煮物も温め直した。あっという間にちゃぶ台の上に料理が並ぶ。とん、と目の前に置かれた炊き立ての白米から上がる湯気を見て、沖田は自分が空腹だったことに気付く。
「お箸は割り箸で我慢してね、はい、いただきます」
そう言って沖田に割り箸を渡すと、***は両手を合わせてから食べ始めた。
「……いただきます」
珍しく***の勢いに押されながらも、手に取った茶碗の米を一口食べる。美味い。温かい焼き魚も、甘い卵焼きもみそ汁も、全部が家庭的な味で、ひと口食べるごとに心がほぐれていくような気がした。
「あんた、ずいぶん手際がいいが、ずっと料理をやってたのかぃ」
「両親が仕事で忙しかったから、兄弟にご飯を作ってたの…あの、総悟くん、お味噌汁からくない?卵焼き甘すぎない?」
「平気でぃ……少なくとも屯所の飯よりかはうめぇや」
それを聞いてほっとした***は、素直に美味しいと言わずに照れた顔をしている沖田が、弟に似て可愛いと思う。
「総悟くん、素直に美味しいって言ったら、ご飯おかわりさせてあげる」
「………うめぇ」
「ふふっ!はい、お茶碗かして、ご飯よそってくる」
結局沖田は米を三杯も食べた。温かくて優しい味付けの料理に、箸が止まらなかった。その様子を机のむこうから***はにこにこしながら眺めていた。
「あー食った食ったー」と言って、沖田が腕をついて横になる。流しで皿を洗っている***の後ろ姿を眺めていると、ふと訊きたいことが頭に浮かび、口を開く。
「***が江戸にいたんじゃぁ、飯作ってくれるねぇちゃんがいねぇで、弟は寂しいんじゃねぇのかぃ」
「そうだねぇ…どうかなぁ。一番下の弟は歳が離れててまだ小さいから、寂しがってるかも。飢饉が起きた年に生まれた弟で、ずっと貧乏で我慢ばっかりしてきた子なの。でも、いつもニコニコしてすごくいい子なんだよ。手紙寄こされると泣いちゃうから書くなって怒られちゃって、もう二年近く元気かどうか分かんないままだけど………でも本当は、私の方が弟に会いたくて寂しいかも。お姉ちゃんとしては情けないけど」
そう言って振り向いた***の、眉を八の字に下げた笑顔を見ていられなくて、沖田は目をそらした。
いろんな姉弟のいろんな都合がある。会いたくても会えないという点では自分と一緒だが、***もその幼い弟も、手紙ひとつなしに耐えていると思うと、たまらない気持ちになった。
「ふあぁぁぁ~」
誤魔化すようにあくびをしたら、本当に眠くてじわりと涙が出た。
「総悟くん、お布団敷いたげるから、寝ていきなよ」
「はっ!!??」
布団!?寝る!?寝るってどういう意味の寝る!?こんな狭い部屋で男女ふたりきりで「寝る」っつったら、そらそういう意味だろ、と沖田は内心慌てる。こいつのことは嫌いじゃない、むしろ好ましく思ってるくらいだ、据え膳食わぬはなんとやらだし、と頭の中でぐるぐる考えていると、無邪気に笑った***が口を開いた。
「私、今から銭湯に行ってくるから、その間少し寝て休んでから帰りなよ。総悟くん、すごく眠たそうな顔してて、そのまま帰らせるの心配だもん」
そう言うとちゃぶ台を片付けて布団を敷く。ふすまの中の布団が一組しかないのを見て、必然的に***がいつも寝ているものだと分かる。ほら早く横になって、と沖田を誘導し、上から掛け布団をかける。今日の沖田はなんだか元気がなくて、***は心配だ。自分程度にやりこめられるなんて、このドSらしくない、と思いながらも、大人しく言うことをきく沖田が可愛いくて、ついお姉さん面をしてしまう。
「あんた、不用心なうえにお人よしで、こんなバカ見たことねぇや」
「そんな口きいても、総悟くんが疲れてるのお見通しだよ。そうゆう時はご飯食べてぐっすり寝るのがいちばんだから、お姉ちゃんの言うことききなさい」
「うるせぇや、***ねぇちゃんなんて嫌いでぃ!」
***のお姉さん口調に付き合って、沖田がわざと弟のように喋ったのがおかしくて、ふたりして少しだけくすくす笑った。
着替えの入った風呂敷包みと洗面器を持つ。玄関で「じゃぁ行ってくるね」と言って振り向くと、布団の中の沖田は既にうつらうつらとしていた。
そっと扉が閉まり、静かに鍵がかかる音を、沖田は遠のく意識の片隅で聞いた。畳で寝るよりはマシという程度の薄いせんべい布団、決して寝心地は良くなかった。しかし、よく洗濯されて清潔なシーツからは女の子らしい石鹸の香りがした。布団からは天日干しの日光の香りがして、深く息を吸い込むと身体の中まで太陽で温められる気がした。
温かくて美味い食事、清潔な布団、静かで穏やかな時間。どれも男所帯の屯所では久しく味わえなかった。まるで姉のいる昔の家に帰ったみたいだと思う。
枕に顔をすりつけるように横向きになって、身体を丸めるとそのまま眠りに落ちていく。いつものアイマスクをするのも忘れて、規則的な寝息をつきはじめる。不足していた睡眠を全て取り戻すかのように、深く眠る沖田の顔は、子供のように安心しきっていた。
なるべくゆっくり寝かせてあげようと、銭湯で長く時間をつぶした***が帰宅すると、既に沖田は帰った後だった。畳まれれた布団の上に、書き置きの紙が置かれていた。
―――次までに箸ぐらい用意しとけ、また来る
ぶっきらぼうに書かれた紙を見て、ふふっと***は微笑んだ。今日の総悟くんは最後まで大人しくて可愛かったな、と思う。一緒に食べようと思って買ってきたアイスを冷凍庫にしまって、閉じたドアにその紙をマグネットで留めた。
微笑んでその紙を見ていた***は、突然違和感に襲われる。何かがおかしいと思い、もう一度その書き置きを読み返す。
次までに…また来る…また、来る……
また来るのは全然構わないんだけど、また来るってことは…
違和感の原因に気付いた***は、はっとする。名前入りの古い鍵をここに置いたはず、と思うところを見たが、そこに鍵はなかった。ポストも開けたが、そこにも入ってなかった。
銭湯から帰った時、部屋の鍵はかかっていた。そして自分の手元にはウサギのマスコット付きの新しい鍵しかない。
まさかとは思ったが、あの子はそういうまさかを、悪気もなくしれっとやってのけるから…と考えて確信し、***は小さな声でつぶやいた。
「総悟くん、鍵、持って帰っちゃった………」
(来るたび不法侵入だったら、心臓がもたないよ…)
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no.26【pm.5:30】end
スーパーのアルバイトを終え帰宅する。少しずつ日が長くなってきているが、あと30分もすれば真っ暗だ。夕暮れの中を歩きながら、左手で右の肩をポンポンと叩く。今日も朝からよく働いた。明日も早朝から牛乳配達がある。帰ったら、さっと夕ご飯を作って食べて、銭湯に行ったらすぐに寝ようと、夜の予定を頭のなかで組み立てる。
自宅の前について、部屋の鍵を取り出し鍵穴に差し込む。キーホルダーについた鈴がリンと鳴る。
以前鍵を無くした時に、神楽が「これをつければもう無くさないネ!」と言うので、ウサギのマスコットのついたキーホルダーをおそろいで買ったのだ。
―――ガチャッ
いつもの通り部屋のドアを開けると、なぜか中が明るい。朝、電気を消し忘れただろうかと不思議に思い顔を上げる。見慣れた部屋の中で見慣れない少年が、ふざけたアイマスクを着けて横になって寝ていた。
バタンッ!!!
あまりの驚きで部屋に入ることもできず、勢いよくドアを閉める。あれ?部屋間違えた?と思いながら、扉を見上げると確かに手書きの「***」の表札。そんなわけない、と自分に言い聞かせてもう一度扉を開ける。
やっぱり栗色の髪の男の子が寝ている。ゆっくりとドアを閉める。え?なんで部屋に知らない人がいるの?扉の前で足踏みをしながら、おろおろと部屋に入れずにいると、急に中からドアが開いた。
「なにバタバタやってんでぃ、うるさくてしょーがねぇや」
「そ、総悟くん!?何してるの!?」
「何って見りゃわかんだろぃ、昼寝でさぁ」
「そうじゃなくて、なんで人の家で勝手に寝てるの!?そもそもどーやって入ったの!?」
「そりゃ鍵開けてドア開けて入ったに決まってらぁ、***もさっさと入んなせぇ、玄関で騒いで近所に迷惑だろ」
あんたがそれを言うな!と思いながら、沖田に手を引かれて部屋に入る。いつも***が座る座布団が二つ折りにされて、さっきまで枕にされていたのか、頭の形にへこんでいる。ちゃぶ台の上にのっている物を見て***は、はっとする。
それは大雨で高熱を出した日に無くした、この部屋の鍵だった。
「これ、この鍵!もしかして総悟くんが拾ってくれてたの?」
「そうでさぁ、鍵に名前書いとくなんてバカ見たのは、俺ァ初めてでぃ、あんた頭おかしいんじゃねぇのか」
「え、そうなの?田舎じゃ家の戸なんて開けっ放しだから、鍵持つの初めてで、持ち物には名前書いといた方がいいのかなって…」
「はァァァァ~、拾ったのが俺だったからよかったものの、不法侵入するような悪党だったら、あんた今ごろ絞め殺されてらぁ」
「総悟くんも不法侵入だよね」
「あ?絞め殺されてぇのかぃ」
ひとつしかない座布団を、沖田は当たり前のように自分の下に敷いて座った。ちゃぶ台を挟んだ向かいに***はちょこんと正座する。思わぬ人に出迎えられた驚きがまだ収まらない。机上の鍵を手に取って、大家から新たに貰った手元の鍵と見比べる。
「どこに落ちてたんでしょう?」
「部屋のまん前でさぁ、あんたあの日…」
言いかけて沖田はふと口をつぐんだ。
あの大雨の日、沖田はかぶき町の見廻りをしていた。ひどい雨で視界が悪く、ゆっくりとパトカーを走らせていると、数メートル先に自転車をこぐ***を見つけた。合羽も着ずにびしょ濡れなことにも驚いたが、車を近づけて声をかけようと窓を開けた時に、目に飛び込んできた***の顔が、あまりにも青ざめていて、ぎょっとした沖田は声が出なくなった。
信号につかまっている間に、自転車はどんどんスピードを上げて、あっという間に姿を見失った。普段だったら気にも留めないが、信号が青になるまでの短い時間に、体調の悪そうな***の顔が何度も脳裏をちらついた。舌打ちをしてハンドルを切ると、見廻りのルートを外れる。一度行ったことのある***のアパートを目指して、車を走らせた。
アパートに着くと、駐輪場に「サド丸号」とでかでかと書かれた自転車が停まっていた。ドアの前に立ち、インターホンを押したが応答がない。あの女、中でぶっ倒れてねぇだろうな、と思いながらうろうろしていると、足元の雨水だらけの地面で、何かがきらりと光った。拾い上げると「******」と名前の入ったキーホルダー付きの鍵だった。
まさか、と思いながらも鍵穴に差し込むと、ガチャッと音を立てて扉が開く。部屋の中は真っ暗で誰もいない。朝出かけてそれきりという様子に、沖田は狐につままれたような気分だった。
「……あの大雨でこのボロアパートが崩れるおもしれぇとこが見れんじゃねぇかと思って来てみたら、これが落ちてたんでさぁ。あんたずいぶん不用心でぃ、鍵に名前まで書くなんて馬鹿丸出しでさぁ」
「ボロアパートで悪かったですね!あんな雨くらいじゃ崩れないよ!あと拾ったんならポストに入れといてくれてよかったのに、見つからないから大家さんに新しい鍵もらっちゃったよ」
「ひでぇや、警察官はパンピーと違って忙しいんでぃ、拾ったきりすっかり忘れてやしたけど、持ってきてやっただけありがてぇと思え」
「えぇー…まぁそれはそうだけど…えぇっと、あ、ありがとう」
腑に落ちないといった顔で礼を言う***を見て、沖田は満足げにうなずいた。
ちゃぶ台に頬杖をついた沖田の顔を見て、***はおや、と思う。よく見ると少し疲れたような顔をしていたから。前に会った時よりも、ほん少し痩せたような気がする。態度はふてぶてしいが、目には疲労が溜まって眠そうで、瞼の下にくっきりとクマがある。じっと見つめると、つるりとした少年のようなアゴに、わずかに無精ひげが生えていた。
目の前に正座している***の顔を見て、沖田はほっとする。最後に見た時の顔色がかなり悪かったから。
安心と同時に内ポケットに入っている二通の手紙を重たく感じた。姉と姉の主治医、それぞれから届いた手紙だ。姉の方には、元気で何も心配ないと書かれていたが、医者の手紙には容体があまりよくないと書かれていた。仕事の忙しさと重ねて心労がたたり、ここ数日あまり寝ていなかった。
「総悟くん、お腹すいてる?夕ご飯、食べていかない?」
「は?」
唐突な***の提案に、沖田はあっけにとられる。鍵を拾ったとはいえ、勝手に部屋に上がり込んだ男に、飯を食わせるなんて、こいつ本当に頭がおかしいんじゃないかと内心思う。
一方***は、目の前の沖田の疲れた様子が気になり、何かしてやれることはないかと考え、頭に浮かんだことを言っただけだった。
目を丸くしている沖田をそのままに、「どうせ私も今からご飯だし、せっかくなら一緒に食べよう」と言って、ぱっと立ち上がると手際よく準備をはじめる。
朝セットしておいた米は既に炊けている。魚を焼いて、みそ汁と卵焼きを作る。昨晩の残りの煮物も温め直した。あっという間にちゃぶ台の上に料理が並ぶ。とん、と目の前に置かれた炊き立ての白米から上がる湯気を見て、沖田は自分が空腹だったことに気付く。
「お箸は割り箸で我慢してね、はい、いただきます」
そう言って沖田に割り箸を渡すと、***は両手を合わせてから食べ始めた。
「……いただきます」
珍しく***の勢いに押されながらも、手に取った茶碗の米を一口食べる。美味い。温かい焼き魚も、甘い卵焼きもみそ汁も、全部が家庭的な味で、ひと口食べるごとに心がほぐれていくような気がした。
「あんた、ずいぶん手際がいいが、ずっと料理をやってたのかぃ」
「両親が仕事で忙しかったから、兄弟にご飯を作ってたの…あの、総悟くん、お味噌汁からくない?卵焼き甘すぎない?」
「平気でぃ……少なくとも屯所の飯よりかはうめぇや」
それを聞いてほっとした***は、素直に美味しいと言わずに照れた顔をしている沖田が、弟に似て可愛いと思う。
「総悟くん、素直に美味しいって言ったら、ご飯おかわりさせてあげる」
「………うめぇ」
「ふふっ!はい、お茶碗かして、ご飯よそってくる」
結局沖田は米を三杯も食べた。温かくて優しい味付けの料理に、箸が止まらなかった。その様子を机のむこうから***はにこにこしながら眺めていた。
「あー食った食ったー」と言って、沖田が腕をついて横になる。流しで皿を洗っている***の後ろ姿を眺めていると、ふと訊きたいことが頭に浮かび、口を開く。
「***が江戸にいたんじゃぁ、飯作ってくれるねぇちゃんがいねぇで、弟は寂しいんじゃねぇのかぃ」
「そうだねぇ…どうかなぁ。一番下の弟は歳が離れててまだ小さいから、寂しがってるかも。飢饉が起きた年に生まれた弟で、ずっと貧乏で我慢ばっかりしてきた子なの。でも、いつもニコニコしてすごくいい子なんだよ。手紙寄こされると泣いちゃうから書くなって怒られちゃって、もう二年近く元気かどうか分かんないままだけど………でも本当は、私の方が弟に会いたくて寂しいかも。お姉ちゃんとしては情けないけど」
そう言って振り向いた***の、眉を八の字に下げた笑顔を見ていられなくて、沖田は目をそらした。
いろんな姉弟のいろんな都合がある。会いたくても会えないという点では自分と一緒だが、***もその幼い弟も、手紙ひとつなしに耐えていると思うと、たまらない気持ちになった。
「ふあぁぁぁ~」
誤魔化すようにあくびをしたら、本当に眠くてじわりと涙が出た。
「総悟くん、お布団敷いたげるから、寝ていきなよ」
「はっ!!??」
布団!?寝る!?寝るってどういう意味の寝る!?こんな狭い部屋で男女ふたりきりで「寝る」っつったら、そらそういう意味だろ、と沖田は内心慌てる。こいつのことは嫌いじゃない、むしろ好ましく思ってるくらいだ、据え膳食わぬはなんとやらだし、と頭の中でぐるぐる考えていると、無邪気に笑った***が口を開いた。
「私、今から銭湯に行ってくるから、その間少し寝て休んでから帰りなよ。総悟くん、すごく眠たそうな顔してて、そのまま帰らせるの心配だもん」
そう言うとちゃぶ台を片付けて布団を敷く。ふすまの中の布団が一組しかないのを見て、必然的に***がいつも寝ているものだと分かる。ほら早く横になって、と沖田を誘導し、上から掛け布団をかける。今日の沖田はなんだか元気がなくて、***は心配だ。自分程度にやりこめられるなんて、このドSらしくない、と思いながらも、大人しく言うことをきく沖田が可愛いくて、ついお姉さん面をしてしまう。
「あんた、不用心なうえにお人よしで、こんなバカ見たことねぇや」
「そんな口きいても、総悟くんが疲れてるのお見通しだよ。そうゆう時はご飯食べてぐっすり寝るのがいちばんだから、お姉ちゃんの言うことききなさい」
「うるせぇや、***ねぇちゃんなんて嫌いでぃ!」
***のお姉さん口調に付き合って、沖田がわざと弟のように喋ったのがおかしくて、ふたりして少しだけくすくす笑った。
着替えの入った風呂敷包みと洗面器を持つ。玄関で「じゃぁ行ってくるね」と言って振り向くと、布団の中の沖田は既にうつらうつらとしていた。
そっと扉が閉まり、静かに鍵がかかる音を、沖田は遠のく意識の片隅で聞いた。畳で寝るよりはマシという程度の薄いせんべい布団、決して寝心地は良くなかった。しかし、よく洗濯されて清潔なシーツからは女の子らしい石鹸の香りがした。布団からは天日干しの日光の香りがして、深く息を吸い込むと身体の中まで太陽で温められる気がした。
温かくて美味い食事、清潔な布団、静かで穏やかな時間。どれも男所帯の屯所では久しく味わえなかった。まるで姉のいる昔の家に帰ったみたいだと思う。
枕に顔をすりつけるように横向きになって、身体を丸めるとそのまま眠りに落ちていく。いつものアイマスクをするのも忘れて、規則的な寝息をつきはじめる。不足していた睡眠を全て取り戻すかのように、深く眠る沖田の顔は、子供のように安心しきっていた。
なるべくゆっくり寝かせてあげようと、銭湯で長く時間をつぶした***が帰宅すると、既に沖田は帰った後だった。畳まれれた布団の上に、書き置きの紙が置かれていた。
―――次までに箸ぐらい用意しとけ、また来る
ぶっきらぼうに書かれた紙を見て、ふふっと***は微笑んだ。今日の総悟くんは最後まで大人しくて可愛かったな、と思う。一緒に食べようと思って買ってきたアイスを冷凍庫にしまって、閉じたドアにその紙をマグネットで留めた。
微笑んでその紙を見ていた***は、突然違和感に襲われる。何かがおかしいと思い、もう一度その書き置きを読み返す。
次までに…また来る…また、来る……
また来るのは全然構わないんだけど、また来るってことは…
違和感の原因に気付いた***は、はっとする。名前入りの古い鍵をここに置いたはず、と思うところを見たが、そこに鍵はなかった。ポストも開けたが、そこにも入ってなかった。
銭湯から帰った時、部屋の鍵はかかっていた。そして自分の手元にはウサギのマスコット付きの新しい鍵しかない。
まさかとは思ったが、あの子はそういうまさかを、悪気もなくしれっとやってのけるから…と考えて確信し、***は小さな声でつぶやいた。
「総悟くん、鍵、持って帰っちゃった………」
(来るたび不法侵入だったら、心臓がもたないよ…)
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no.26【pm.5:30】end