かぶき町で牛乳配達をする女の子
牛乳(人生)は噛んで飲め
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【am.5:30】
真暗な空が少しづつ白んで、眠らないこの街にも朝がくる。夜通し街を照らし続けたネオンの灯りも既に消え、人通りの少なくなった道は静かだ。風の吹く音と、時々どこかから聞こえる犬の鳴き声だけが、***の耳に届いた。
アルバイトの牛乳配達を終えて、自転車で自宅へ帰る。かぶき町で暮らし始めてもうすぐ1年、この街の朝が***は好きだ。昼夜問わず人で溢れる大通りを、この時間だけは自分が独占できる。イヤホンから聞こえる寺門通ニューアルバムにあわせて、口笛を吹きながら、広い路を我が物顔で右へ左へと蛇行運転。
帰り道の一番好きなポイントは大橋。東の空から上がってくる朝日が、川の水面を照らしてとても綺麗。橋の真ん中まできたら、一旦自転車を降りて、しばらく朝日を眺める。今日がはじまる、という期待や予感のようなものを感じながら、少しだけゆっくりする時間が、***にとっては大切な時間だった。
その日、その場所で、その人に出会うまでは。
いつもどおり自転車で大橋に到着すると、橋の真ん中で手すりから身を乗り出している男がいた。身体をふたつに折るように、上半身のほとんどが手すりの向こう側へと倒れている。見ている間に片足が浮き上がって、今にも橋から身を投げそうになる。
―――ガシャンッ
飛び降りた自転車が横に倒れるのもそのままに、***はその男の着物の裾にしがみついた。
「ちょ…ちょっと!はははははやまらないで!!!」
パニックになりながらも頭の片隅で「水色の渦巻き模様の柄はめずらしいな」とか「片腕だけ着流しが脱げていて、奇妙な着こなしだ」とか、のんきな考えが浮かぶ。
「んーーー……」
男は振り向かず、***の静止にも、全く抵抗しない。着流しを掴んだ左手はそのままに、右手をうんと伸ばして、浮き上がった男の片足を戻そうとする。それなりに力はある方だと思っていた自信を打ち砕くほど、大の大人の男の身体は重く、思い通りにならなかった。
「うぎぎぎぎぎぎ!!!」
裾と足を掴み、全体重をかけて引っ張ると、男の上半身がじりじりと手すりのこちら側へと戻ってきた。慎重に手を動かして、今度はその腰に腕を回し、落ちないように身体を固定する。足や腰に触れたことで、その男の身体が太い骨と硬い筋肉で出来ていることに***は気が付く。その分だけ重く、これ以上はとても動かせそうにない。回した腕の少し上、男の黒い服の背中に頭をぎゅっと寄せて、大きな声で***は叫んだ。
「おにいさあん!通りすがりの私なんかに言われても、馬鹿らしいと思うかもしれないけど!でも死んじゃったら…死んじゃったらそこで!…そこで、試合終了だよおおおおおお!!!!!」
何を言っているのか自分でも分からずに、とにかく身投げを止めなければと***は、必死に叫びながらしがみつく。
「ーーーひぃっく…ぅ~?長谷川さん?…あれ、お姉さん誰だっけ?…っと、ぉわぁあああ!!!」
しがみついた身体がゆっくりと起き上がり、重心が自分のほうへと傾くのを感じた***は、すかさず腕に力を込めて全身で引っ張る。想像よりも簡単にその身体が動いたことで、腰に回していた腕がぱっとほどけて、力任せに引っ張っていた***は尻餅をつく。男が倒れてくるのが見えたが、とっさに避けることよりも受け止めなければと、心が叫んだ。あっという間に、二回り近く大きな身体が、背中を向けて倒れてきて、気が付くとその下敷きになっていた。
「ぐ、ぐるじい…どいでぐださい…」
くるりと寝返りを打つように***の上からどいた男が、起き上がって初めて、その姿をはっきりと見た。
日の光を受けてきらきらと光るものが、最初はなんだか分からなかった。よく見るとそれは綺麗な銀色の髪で、クセが強いのか毛先はあちらこちらに跳ねている。
呆然と座り込んでいる***と、顔だけ上げた四つん這いの男が、顔を見合わせて向かい合っていると、先に口を開いたのは男の方だった。
「お姉さん、長谷川さん、知らねえ?」
「……え、ハセガワさんですか?知らないですよ、あ!もしかしてあなた、その人を追って身投げしようとしてたんですか?駄目ですよお、そんなことあなたにして欲しいなんて、ハセガワさんも思ってないですよ!ね、一旦落ち着いて一緒に考えましょう?」
「は?身投げだあ?んなもんするわけ…うッ…!!!」
急に口元を抑えた男は「やべェ吐く」と言うと、すごい速さで這いずって、橋の手すりの下から顔を出し、川に向かってえずきはじめた。その姿を見て***は、男が自殺志願者ではなく酔っ払いであったことに気が付き、深くため息をついた。しかしまた川に落ちそうになるのでは、という不安がよぎり、放って帰ることもできない。***も近くまで這って行く。
「大丈夫ですか、ちょっと背中さすりますね。全部吐けば、楽になりますよ」
「ゔ~~~~ぅおぇええええ…ぎぼぢわる…っぅぇええッ」
その後も数回大きな波がきたが、出るものが出尽くしたのか、そのまま目を閉じて、眠りそうになる。
「え!?ちょっ、お願い、こんなところで寝ないで!あっ、お水、お水飲みますかぁ!?」
大きな声で呼びかけながら、ショルダーバッグから魔法瓶の水筒を取り出す。蓋を外してひっくり返し、そこに水を注ごうした瞬間に突然大きな手が伸びてきて、水筒を持つ***の手を、上から掴んだ。
男の「み、水ぅ!!!」という声と共に***の手から水筒が消えて、気が付くと男が水筒から直接水を飲んでいた。真上を向いてのけ反った太い首に、んぐんぐという大きな音と共に喉仏が上下する。飲むというよりは吸うというような豪快さで、水は空っぽになった。
「っぷはあああぁぁぁ~!あっ~生き返ったぁ!いや、今回の酒にはマジで負けたわ、つっても毎回負け続けてんだけどね、勝ったことねんだけど、でも今日はひどかった、死ぬかと思った。いや~お姉さん、どこの誰だか知らねえけど、助かったわマジで。サンキュー」
「サンキューって…いや、あなたさっきまで死にそうだったけど、大丈夫ですか?立って帰れます?」
手すりに寄りかかって足を投げ出して座る男が、覚醒するやいなやマシンガンのように喋りだしたことに戸惑いながらも、***はこれなら大丈夫そうだとほっとする。立ち上がらせて自宅へ帰るよう促せば、それでお役御免だろうと、まず自分が立ち上がろうとする。しかし、足に力を入れた瞬間に、左足首に強い痛みが走り、「あだっ!」という変な声を上げて、今度は***が座り込んでしまう。
「え、なに?足首もげたぁ?」
男の呑気な声を後ろに、***は自分の左足首を見てみる。牛乳屋のロゴが描かれたエプロンの下、さらに着物の裾の下からのびる足は、いつの間にか下駄が脱げていた。泥で汚れた足袋の留め具を外して脱ぐと、くるぶしの上から膨らみ始めて足首全体が真っ赤に腫れあがっていた。
「えええええええ!!!なななななななにそれやばくね!!!すげー痛えんじゃねえの、それ!!!つーかもしかしてオレのせいなのかなァ!!!それぇ!!!」
なぜか***よりも焦っている男は、汗をだらだらと流して、「なぁすげぇ痛い?手術しそうなくらい?慰謝料とか取るかんじ?次は裁判所で会いましょうってかんじ?」と矢継ぎ早にまくしたてた。
「慰謝料なんてそんな…転んでくじいただけだから、病院に行けば治ると思います…いや、治ると、いいなあ」
「へ?…あんた怒ってねえの?……い、いや~助かったわ~~~!!!慰謝料抱えたなんつったら、ガキどもに何言われるか…」
男は***には分からないことをボソボソ呟き、ほーーーっと大きなため息をつく。***は相変わらず片足だけ裸足で、ぺたんとその場に座り込み、動けずにいる。赤く腫れてじんじんと痛みを増し始めている自分の足首を見て、そんな***をダルそうな目つきで見ている男の顔を見て、と視線を交互にしているうちに、だんだんと眉毛が下がり、困り顔になっていくのが自分でも分かる。
「あ゙ーーー」と変な声を出した男は、頭をガシガシと掻くとすっと立ち上がり、***の二の腕を掴んで立ち上がらせようとする。しかし足に力が入らず、なかなか立ち上がれない。申し訳なくなり***は、男の顔を見上げる。
「…っとなんだ、とりあえずこんなとこにいるのもなんだろ、ちょっと歩けるか?まだ病院やってねーし、近いからうちに寄れよ。軽く手当したら送ってってやっから」
「そんな、でもあなたこそ大丈夫ですか、さっきまであんなにふらふらだったのに」
「いやまぁ、…頭はカチ割れそうに痛えし、腹に力入れねぇとまだ吐きそうだけど、こうみえて俺も男の子だしぃ?手負いの女を見捨てるほど腐っちゃいねぇっつーか?…それによく考えたら、勘違いとはいえ、あんた身投げしそうになってた俺を助けてくれたんだろ?そんな心優しい女の子をほっといて、自分だけ帰るなんつーのは、銀さんにはできねぇよ」
「銀さん?」
はてなマークを浮かべて見上げる***にむかって、一旦手を離すと男は袖口をごそごそ。「あれ無ぇな、どこやった」と言いながら自分の身体を上から順に触って確かめて、最終的にブーツを脱いで降ると、ひらりと小さな紙切れが落ちてきた。拾って***に差し出されたのは名刺で、黒い文字で「万事屋 坂田銀時」と書かれていた。
「すぐそこで万事屋やってんだ、頼まれればなんでもやる。なんか困ったことあったら連絡しろよ」
「あのこれ、靴の中に入ってたやつ…」
「え、なに臭ぇ?腐った魚のよーなにおいする?嫁と娘にシカトされるおとーさんの水虫だらけの足のよーなにおいするぅぅぅ?」
「いや、嗅がないし!嗅ぎたくないし!けど…あの、ありがとうございます。ええと、さかたさん?すいませんけど立たせてもらえます?」
「ん、ほらよ」
今の状況がいちばん困ったことなんだけどな…と思いながら、***は銀時の強い力に引っ張られて、立ち上がる。左足を浮かせた状態でよろよろ立っていると、銀時は落ちていた下駄を拾い、持っていた水筒と共に、***から取り上げたショルダーバッグへ、ぎゅっと押し込む。されるがままぼーっと立っていると、銀時が横から近づいてきた。
とつぜん***の右脇の下から入ってきた太い腕が、背中に回されて、左肩を大きな手でぐっと掴まれる。***が驚いて「えっえっ」と慌てていると、所在なく漂っていたその右手も、銀時の右手に掴まれぐっと引かれる。ふわふわとした銀色の髪とその横顔が、急に近づいてくる。
「わっ!」
突然の接近に驚いて、***は自分の顔に血がのぼるのを感じる。恥ずかしさに俯いて、足元を見ると引きずられるように小さな歩幅を刻む自分の右足と、楽々と歩く銀時のブーツが見えた。
もう少しゆっくり歩いて…と言いながら、ふと顔を上げて見ると、偶然こちらを見ていた銀時と、ばちっと音がしそうなほど視線がかち合った。
「あれ、お前何赤くなってんの?…あれれれれれ~もしかして照れちゃってるぅ?こぉんな酔っ払いにぃ?お姉さん、ずいぶん初心だねぇ、こんないかがわしい街でそんな純情な小娘、希少動物としか思えねぇなぁ!なにお前、絶滅危惧種かなんかですか?ジャイアントパンダですか?ウーパールーパーですかぁぁぁ?」
「な、な、…なに言ってるんですか!びっくりしただけです!もーやめて下さい!ウーパールーパーってなんですか!」
「わかったわかった、ウーパーちゃん、その反応も純情なんだよ、三分の一の純情な感情が、爆発しちゃってもう、大変なことになってんだよぉ」
「ウーパーちゃんじゃないです!」
真っ赤になる***を、尚も銀時が引っ張りながら歩くため、その小さな身体は跳ねるように、何度も大きな身体にぶつかってしまう。火が点いたような熱を顔に感じながら、***はあまりくっつかないようにする為、ばたばたと必死に、片足飛びで歩く。
「あのさぁ、もうちょっと身体こっちに預けてくんねぇ。歩きにくくてしょうがねぇ。つーか、そのぴょんぴょん歩きの振動で、…うぅっぷ…また吐きそう…」
「え!ちょっと!だいじょぶですか!?」
***が足を止めると、左肩に回っていた手がすっと離れ、半分浮き上がっていた身体が地面に着く。青い顔をした銀時がうずくまると同時に、慌てて***も中腰になり、その背中に手を伸ばした。しかしその手が届く前に、***の軽く曲げた膝付近に、何かがまとわりつく。ぐらり、と視界が揺れて、世界が反転する。さっきまで立っていた地面が目の前に迫り、顔から前に転びそうになる。
「っきゃぁ!…う、わわっ!?」
もう少しで顔面から地面にダイブするか、というところで身体がふわりと浮き上がる。膝の裏を大きな手で掴まれて固定されて、前のめりになった***のお腹のあたりに、銀時の肩がある。気が付くと後ろ向きで、銀時の肩にかつぎ上げられていた。
「ちょちょちょちょっと坂田さ、これ、あの!こわい!おろ、おろして…っ!」
そのまま***よりずっと背の高い銀時が立ち上がると、普段見たこともない高い視点で、いつもの大橋の景色が広がる。***は怖さと恥ずかしさで一杯になり、足をばたばたさせ、後ろ手に銀時の肩をぺちぺちと叩く。
「はいはいはい、暴れない暴れない!このほうがぜってぇ楽だから!っとに生きのいいウーパールーパーで困るわ、お前なんなの、生き急いでんの?そんなにさっさと死にてぇの?あんま暴れっと落とすよマジで。頭からぱっくりいくように鋭利な岩狙って落とすよ?」
「ひィッ!」
縁起でもない言葉に思わず、***は目の前の銀時の背中に手を伸ばす。片側だけたゆんでいる着流しの生地を、両手でぎゅっと掴む。ばたつかせていた足を揃えて、動きを止める。身体の力を抜いて、そっと体重をお腹にかけ、ようやく大人しくなる。
「おー…よくできましたぁ。そうそう、そうしてくれっと銀さんも楽だから、体重預けてろって。すぐそこだから。…えーっとなになに…にこにこ牛乳の…******ちゃん?」
え、なんで名前を知ってるの、という前に銀時が後ろ手に***の顔の前で、何かをひらひらと振る。よく見るとそれは***が牛乳屋で働く時に首からさげる、会社支給のネームプレートだった。
「ドラ〇もんのポッケから落っこちたぞ」
そう言われて確かに、エプロンの前ポケットに入れっぱなしだったと思い当たる。逆さに持ち上げられた時に落ちたのだ。ひらひらと揺れるネームプレートに手を伸ばすも、銀時の手は逃げるように前に戻ってしまう。
「えーっと…【にこにこ牛乳はかぶき町で唯一の牛乳屋です。北国直送のおいしい牛乳を真心こめて、あなたのご自宅へお届けいたします。おいしさと健康、そして笑顔をかぶき町へ】…なに、***お前、この牛乳屋の人なの?」
「…そうです、牛乳配達やってます」
「っかぁ~!お前みたいな若い娘がなぁんでそんな地味な仕事選ぶかねぇ。牛乳配達ぅ?それ以外に色々仕事あんだろー、若ぇやつらに人気のさぁ、音楽がうるせぇ変な服屋だとか、あとなんだ、カフェっつーの?馬鹿ップルがちちくりあうような、綺麗なだけで味は美味くもなんともねぇ甘味処だとかよぉ、他にいくらでもあんのによぉ」
「なんでって聞かれると、一言ではちょっと答えられないんですけど…うーん…」
***が返答に悩んでいると、銀時はネームプレートを裏返し、【配達員の意気込み】の欄に***が直筆で書いた文章を読み始めた。
「“かぶき町中に新鮮な牛乳を届けます。とてもおいしいので、よく噛んで飲んでください”……っぷ、だっはははははは!!!」
「っえ!?なんで?なんで笑うんですかぁ!?」
「だっておめー、いまどき牛乳を噛んで飲めなんてゆーか!?かーちゃんか、かーちゃんなのか?牛乳は噛んで飲め、飯は残さず食え、シコる前に手を洗えって、ぎゃーぎゃーうるせーかーちゃんですかぁぁぁ!?」
「……っ!な、なに言ってんの!?牛乳は噛んで飲めって言うでしょ?言いますよね!?噛んで飲むほどおいしいし、背も伸びるんです!」
「へーへー、かーちゃんわかったよ。よく噛んで飲みますよ。牛乳もいちご牛乳も、酒も人生も、よぉっく噛んで噛みまくって、擦り切れてぼろぼろになった頃に飲み込みまぁす。そしていつかでっけぇことを成し遂げる、大きな男になりまぁす」
「…坂田さん、私のこと馬鹿にしてるでしょう?」
「ああ、してるよ」
「こらァ!」と言いながら***は後ろに手を振り上げて、丸めたこぶしを銀時の頭に、ぽかぽかとぶつけた。狙いを定めようと首だけ持ち上げて、肩越しに振り向くと、「いていて、やめろって」と大して痛くもなさそうに言いながら、***の攻撃を避けて、銀時の頭が左右に揺れているのが見えた。揺れるたびに銀色の髪が朝の光に照らされて、きらきらと綺麗に輝いていた。
気が付くと朝日が少しづつ顔を出して、街を照らし始めていた。いつもの仕事帰り、いつもの時間、いつもの場所で、なんだか奇妙な人に出会ってしまったなと、***は思う。平凡な一日のはじまりの朝、平凡な自分のそれでも大切で大好きな時間に、突然飛び込んできた非日常的な出来事。その原因のこの坂田銀時という人の、初対面とは思えないほどの失礼な物言いと予測のつかない行動で、***は慌てたり怒ったり、とても忙しい。
でも――――――
「あ、日の出だぁ」
***が顔を横向きにして朝日を見つめて呟くと、橋を渡りきる手前で銀時も足を止める。ふたりして同じ方向を見る。
「おー…すがすがしいねぇ、………なぁ足、大丈夫か、これすげー痛ぇ?」
裸足の左足に温かいものがそっと触れる。触れるか触れないかくらいの優しい感触が、銀時の大きな手だと気付くのには少し時間がかかった。さっきまでの傍若無人な態度からは、想像もつかないほどの繊細な手つきで、熱い手のひらが***の足に置かれている。
「…ちょっとだけズキズキするかな…けど、大丈夫です。ありがとう」
「…悪かったな、しらふだったらあんな風に転んだりしねぇし、咄嗟に避けるくらい、わけねぇんだけど、さっきは意識が飛んでたからぁ。ま、手当して病院いってみよーや」
―――――でも、もしかしたらこの人は、悪い人ではないかもしれない。それどころか、少し優しい人かもしれない、と***は思った。そして銀時といたら、それまでの自分では全く知りようがない、この街の新しい一面を知ることができるのではないか、という期待のような感情がふと心に芽生えた。
***が首を持ち上げて振り返ってみると、銀時も首を回してこちらを見ていた。逆光なのか眩しそうに、目を瞬かせている。
「おはよーさん」
銀時が自分に言ったのか、それとも自分たちを照らしている朝日に言ったのかは分からなかった。***は自分の変な姿勢と、置かれている状況の不思議さに可笑しくなって、思わず笑ってしまった。
「挨拶されたら、ちゃんと相手の目を見て挨拶を返せ」という田舎の父親の言いつけの通り、笑った***の口から、ちょっと大きくてよく通る声が出た。
「おはよう!坂田さん!」
(おはよう!かぶき町!)
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no.1【am.5:30】end
真暗な空が少しづつ白んで、眠らないこの街にも朝がくる。夜通し街を照らし続けたネオンの灯りも既に消え、人通りの少なくなった道は静かだ。風の吹く音と、時々どこかから聞こえる犬の鳴き声だけが、***の耳に届いた。
アルバイトの牛乳配達を終えて、自転車で自宅へ帰る。かぶき町で暮らし始めてもうすぐ1年、この街の朝が***は好きだ。昼夜問わず人で溢れる大通りを、この時間だけは自分が独占できる。イヤホンから聞こえる寺門通ニューアルバムにあわせて、口笛を吹きながら、広い路を我が物顔で右へ左へと蛇行運転。
帰り道の一番好きなポイントは大橋。東の空から上がってくる朝日が、川の水面を照らしてとても綺麗。橋の真ん中まできたら、一旦自転車を降りて、しばらく朝日を眺める。今日がはじまる、という期待や予感のようなものを感じながら、少しだけゆっくりする時間が、***にとっては大切な時間だった。
その日、その場所で、その人に出会うまでは。
いつもどおり自転車で大橋に到着すると、橋の真ん中で手すりから身を乗り出している男がいた。身体をふたつに折るように、上半身のほとんどが手すりの向こう側へと倒れている。見ている間に片足が浮き上がって、今にも橋から身を投げそうになる。
―――ガシャンッ
飛び降りた自転車が横に倒れるのもそのままに、***はその男の着物の裾にしがみついた。
「ちょ…ちょっと!はははははやまらないで!!!」
パニックになりながらも頭の片隅で「水色の渦巻き模様の柄はめずらしいな」とか「片腕だけ着流しが脱げていて、奇妙な着こなしだ」とか、のんきな考えが浮かぶ。
「んーーー……」
男は振り向かず、***の静止にも、全く抵抗しない。着流しを掴んだ左手はそのままに、右手をうんと伸ばして、浮き上がった男の片足を戻そうとする。それなりに力はある方だと思っていた自信を打ち砕くほど、大の大人の男の身体は重く、思い通りにならなかった。
「うぎぎぎぎぎぎ!!!」
裾と足を掴み、全体重をかけて引っ張ると、男の上半身がじりじりと手すりのこちら側へと戻ってきた。慎重に手を動かして、今度はその腰に腕を回し、落ちないように身体を固定する。足や腰に触れたことで、その男の身体が太い骨と硬い筋肉で出来ていることに***は気が付く。その分だけ重く、これ以上はとても動かせそうにない。回した腕の少し上、男の黒い服の背中に頭をぎゅっと寄せて、大きな声で***は叫んだ。
「おにいさあん!通りすがりの私なんかに言われても、馬鹿らしいと思うかもしれないけど!でも死んじゃったら…死んじゃったらそこで!…そこで、試合終了だよおおおおおお!!!!!」
何を言っているのか自分でも分からずに、とにかく身投げを止めなければと***は、必死に叫びながらしがみつく。
「ーーーひぃっく…ぅ~?長谷川さん?…あれ、お姉さん誰だっけ?…っと、ぉわぁあああ!!!」
しがみついた身体がゆっくりと起き上がり、重心が自分のほうへと傾くのを感じた***は、すかさず腕に力を込めて全身で引っ張る。想像よりも簡単にその身体が動いたことで、腰に回していた腕がぱっとほどけて、力任せに引っ張っていた***は尻餅をつく。男が倒れてくるのが見えたが、とっさに避けることよりも受け止めなければと、心が叫んだ。あっという間に、二回り近く大きな身体が、背中を向けて倒れてきて、気が付くとその下敷きになっていた。
「ぐ、ぐるじい…どいでぐださい…」
くるりと寝返りを打つように***の上からどいた男が、起き上がって初めて、その姿をはっきりと見た。
日の光を受けてきらきらと光るものが、最初はなんだか分からなかった。よく見るとそれは綺麗な銀色の髪で、クセが強いのか毛先はあちらこちらに跳ねている。
呆然と座り込んでいる***と、顔だけ上げた四つん這いの男が、顔を見合わせて向かい合っていると、先に口を開いたのは男の方だった。
「お姉さん、長谷川さん、知らねえ?」
「……え、ハセガワさんですか?知らないですよ、あ!もしかしてあなた、その人を追って身投げしようとしてたんですか?駄目ですよお、そんなことあなたにして欲しいなんて、ハセガワさんも思ってないですよ!ね、一旦落ち着いて一緒に考えましょう?」
「は?身投げだあ?んなもんするわけ…うッ…!!!」
急に口元を抑えた男は「やべェ吐く」と言うと、すごい速さで這いずって、橋の手すりの下から顔を出し、川に向かってえずきはじめた。その姿を見て***は、男が自殺志願者ではなく酔っ払いであったことに気が付き、深くため息をついた。しかしまた川に落ちそうになるのでは、という不安がよぎり、放って帰ることもできない。***も近くまで這って行く。
「大丈夫ですか、ちょっと背中さすりますね。全部吐けば、楽になりますよ」
「ゔ~~~~ぅおぇええええ…ぎぼぢわる…っぅぇええッ」
その後も数回大きな波がきたが、出るものが出尽くしたのか、そのまま目を閉じて、眠りそうになる。
「え!?ちょっ、お願い、こんなところで寝ないで!あっ、お水、お水飲みますかぁ!?」
大きな声で呼びかけながら、ショルダーバッグから魔法瓶の水筒を取り出す。蓋を外してひっくり返し、そこに水を注ごうした瞬間に突然大きな手が伸びてきて、水筒を持つ***の手を、上から掴んだ。
男の「み、水ぅ!!!」という声と共に***の手から水筒が消えて、気が付くと男が水筒から直接水を飲んでいた。真上を向いてのけ反った太い首に、んぐんぐという大きな音と共に喉仏が上下する。飲むというよりは吸うというような豪快さで、水は空っぽになった。
「っぷはあああぁぁぁ~!あっ~生き返ったぁ!いや、今回の酒にはマジで負けたわ、つっても毎回負け続けてんだけどね、勝ったことねんだけど、でも今日はひどかった、死ぬかと思った。いや~お姉さん、どこの誰だか知らねえけど、助かったわマジで。サンキュー」
「サンキューって…いや、あなたさっきまで死にそうだったけど、大丈夫ですか?立って帰れます?」
手すりに寄りかかって足を投げ出して座る男が、覚醒するやいなやマシンガンのように喋りだしたことに戸惑いながらも、***はこれなら大丈夫そうだとほっとする。立ち上がらせて自宅へ帰るよう促せば、それでお役御免だろうと、まず自分が立ち上がろうとする。しかし、足に力を入れた瞬間に、左足首に強い痛みが走り、「あだっ!」という変な声を上げて、今度は***が座り込んでしまう。
「え、なに?足首もげたぁ?」
男の呑気な声を後ろに、***は自分の左足首を見てみる。牛乳屋のロゴが描かれたエプロンの下、さらに着物の裾の下からのびる足は、いつの間にか下駄が脱げていた。泥で汚れた足袋の留め具を外して脱ぐと、くるぶしの上から膨らみ始めて足首全体が真っ赤に腫れあがっていた。
「えええええええ!!!なななななななにそれやばくね!!!すげー痛えんじゃねえの、それ!!!つーかもしかしてオレのせいなのかなァ!!!それぇ!!!」
なぜか***よりも焦っている男は、汗をだらだらと流して、「なぁすげぇ痛い?手術しそうなくらい?慰謝料とか取るかんじ?次は裁判所で会いましょうってかんじ?」と矢継ぎ早にまくしたてた。
「慰謝料なんてそんな…転んでくじいただけだから、病院に行けば治ると思います…いや、治ると、いいなあ」
「へ?…あんた怒ってねえの?……い、いや~助かったわ~~~!!!慰謝料抱えたなんつったら、ガキどもに何言われるか…」
男は***には分からないことをボソボソ呟き、ほーーーっと大きなため息をつく。***は相変わらず片足だけ裸足で、ぺたんとその場に座り込み、動けずにいる。赤く腫れてじんじんと痛みを増し始めている自分の足首を見て、そんな***をダルそうな目つきで見ている男の顔を見て、と視線を交互にしているうちに、だんだんと眉毛が下がり、困り顔になっていくのが自分でも分かる。
「あ゙ーーー」と変な声を出した男は、頭をガシガシと掻くとすっと立ち上がり、***の二の腕を掴んで立ち上がらせようとする。しかし足に力が入らず、なかなか立ち上がれない。申し訳なくなり***は、男の顔を見上げる。
「…っとなんだ、とりあえずこんなとこにいるのもなんだろ、ちょっと歩けるか?まだ病院やってねーし、近いからうちに寄れよ。軽く手当したら送ってってやっから」
「そんな、でもあなたこそ大丈夫ですか、さっきまであんなにふらふらだったのに」
「いやまぁ、…頭はカチ割れそうに痛えし、腹に力入れねぇとまだ吐きそうだけど、こうみえて俺も男の子だしぃ?手負いの女を見捨てるほど腐っちゃいねぇっつーか?…それによく考えたら、勘違いとはいえ、あんた身投げしそうになってた俺を助けてくれたんだろ?そんな心優しい女の子をほっといて、自分だけ帰るなんつーのは、銀さんにはできねぇよ」
「銀さん?」
はてなマークを浮かべて見上げる***にむかって、一旦手を離すと男は袖口をごそごそ。「あれ無ぇな、どこやった」と言いながら自分の身体を上から順に触って確かめて、最終的にブーツを脱いで降ると、ひらりと小さな紙切れが落ちてきた。拾って***に差し出されたのは名刺で、黒い文字で「万事屋 坂田銀時」と書かれていた。
「すぐそこで万事屋やってんだ、頼まれればなんでもやる。なんか困ったことあったら連絡しろよ」
「あのこれ、靴の中に入ってたやつ…」
「え、なに臭ぇ?腐った魚のよーなにおいする?嫁と娘にシカトされるおとーさんの水虫だらけの足のよーなにおいするぅぅぅ?」
「いや、嗅がないし!嗅ぎたくないし!けど…あの、ありがとうございます。ええと、さかたさん?すいませんけど立たせてもらえます?」
「ん、ほらよ」
今の状況がいちばん困ったことなんだけどな…と思いながら、***は銀時の強い力に引っ張られて、立ち上がる。左足を浮かせた状態でよろよろ立っていると、銀時は落ちていた下駄を拾い、持っていた水筒と共に、***から取り上げたショルダーバッグへ、ぎゅっと押し込む。されるがままぼーっと立っていると、銀時が横から近づいてきた。
とつぜん***の右脇の下から入ってきた太い腕が、背中に回されて、左肩を大きな手でぐっと掴まれる。***が驚いて「えっえっ」と慌てていると、所在なく漂っていたその右手も、銀時の右手に掴まれぐっと引かれる。ふわふわとした銀色の髪とその横顔が、急に近づいてくる。
「わっ!」
突然の接近に驚いて、***は自分の顔に血がのぼるのを感じる。恥ずかしさに俯いて、足元を見ると引きずられるように小さな歩幅を刻む自分の右足と、楽々と歩く銀時のブーツが見えた。
もう少しゆっくり歩いて…と言いながら、ふと顔を上げて見ると、偶然こちらを見ていた銀時と、ばちっと音がしそうなほど視線がかち合った。
「あれ、お前何赤くなってんの?…あれれれれれ~もしかして照れちゃってるぅ?こぉんな酔っ払いにぃ?お姉さん、ずいぶん初心だねぇ、こんないかがわしい街でそんな純情な小娘、希少動物としか思えねぇなぁ!なにお前、絶滅危惧種かなんかですか?ジャイアントパンダですか?ウーパールーパーですかぁぁぁ?」
「な、な、…なに言ってるんですか!びっくりしただけです!もーやめて下さい!ウーパールーパーってなんですか!」
「わかったわかった、ウーパーちゃん、その反応も純情なんだよ、三分の一の純情な感情が、爆発しちゃってもう、大変なことになってんだよぉ」
「ウーパーちゃんじゃないです!」
真っ赤になる***を、尚も銀時が引っ張りながら歩くため、その小さな身体は跳ねるように、何度も大きな身体にぶつかってしまう。火が点いたような熱を顔に感じながら、***はあまりくっつかないようにする為、ばたばたと必死に、片足飛びで歩く。
「あのさぁ、もうちょっと身体こっちに預けてくんねぇ。歩きにくくてしょうがねぇ。つーか、そのぴょんぴょん歩きの振動で、…うぅっぷ…また吐きそう…」
「え!ちょっと!だいじょぶですか!?」
***が足を止めると、左肩に回っていた手がすっと離れ、半分浮き上がっていた身体が地面に着く。青い顔をした銀時がうずくまると同時に、慌てて***も中腰になり、その背中に手を伸ばした。しかしその手が届く前に、***の軽く曲げた膝付近に、何かがまとわりつく。ぐらり、と視界が揺れて、世界が反転する。さっきまで立っていた地面が目の前に迫り、顔から前に転びそうになる。
「っきゃぁ!…う、わわっ!?」
もう少しで顔面から地面にダイブするか、というところで身体がふわりと浮き上がる。膝の裏を大きな手で掴まれて固定されて、前のめりになった***のお腹のあたりに、銀時の肩がある。気が付くと後ろ向きで、銀時の肩にかつぎ上げられていた。
「ちょちょちょちょっと坂田さ、これ、あの!こわい!おろ、おろして…っ!」
そのまま***よりずっと背の高い銀時が立ち上がると、普段見たこともない高い視点で、いつもの大橋の景色が広がる。***は怖さと恥ずかしさで一杯になり、足をばたばたさせ、後ろ手に銀時の肩をぺちぺちと叩く。
「はいはいはい、暴れない暴れない!このほうがぜってぇ楽だから!っとに生きのいいウーパールーパーで困るわ、お前なんなの、生き急いでんの?そんなにさっさと死にてぇの?あんま暴れっと落とすよマジで。頭からぱっくりいくように鋭利な岩狙って落とすよ?」
「ひィッ!」
縁起でもない言葉に思わず、***は目の前の銀時の背中に手を伸ばす。片側だけたゆんでいる着流しの生地を、両手でぎゅっと掴む。ばたつかせていた足を揃えて、動きを止める。身体の力を抜いて、そっと体重をお腹にかけ、ようやく大人しくなる。
「おー…よくできましたぁ。そうそう、そうしてくれっと銀さんも楽だから、体重預けてろって。すぐそこだから。…えーっとなになに…にこにこ牛乳の…******ちゃん?」
え、なんで名前を知ってるの、という前に銀時が後ろ手に***の顔の前で、何かをひらひらと振る。よく見るとそれは***が牛乳屋で働く時に首からさげる、会社支給のネームプレートだった。
「ドラ〇もんのポッケから落っこちたぞ」
そう言われて確かに、エプロンの前ポケットに入れっぱなしだったと思い当たる。逆さに持ち上げられた時に落ちたのだ。ひらひらと揺れるネームプレートに手を伸ばすも、銀時の手は逃げるように前に戻ってしまう。
「えーっと…【にこにこ牛乳はかぶき町で唯一の牛乳屋です。北国直送のおいしい牛乳を真心こめて、あなたのご自宅へお届けいたします。おいしさと健康、そして笑顔をかぶき町へ】…なに、***お前、この牛乳屋の人なの?」
「…そうです、牛乳配達やってます」
「っかぁ~!お前みたいな若い娘がなぁんでそんな地味な仕事選ぶかねぇ。牛乳配達ぅ?それ以外に色々仕事あんだろー、若ぇやつらに人気のさぁ、音楽がうるせぇ変な服屋だとか、あとなんだ、カフェっつーの?馬鹿ップルがちちくりあうような、綺麗なだけで味は美味くもなんともねぇ甘味処だとかよぉ、他にいくらでもあんのによぉ」
「なんでって聞かれると、一言ではちょっと答えられないんですけど…うーん…」
***が返答に悩んでいると、銀時はネームプレートを裏返し、【配達員の意気込み】の欄に***が直筆で書いた文章を読み始めた。
「“かぶき町中に新鮮な牛乳を届けます。とてもおいしいので、よく噛んで飲んでください”……っぷ、だっはははははは!!!」
「っえ!?なんで?なんで笑うんですかぁ!?」
「だっておめー、いまどき牛乳を噛んで飲めなんてゆーか!?かーちゃんか、かーちゃんなのか?牛乳は噛んで飲め、飯は残さず食え、シコる前に手を洗えって、ぎゃーぎゃーうるせーかーちゃんですかぁぁぁ!?」
「……っ!な、なに言ってんの!?牛乳は噛んで飲めって言うでしょ?言いますよね!?噛んで飲むほどおいしいし、背も伸びるんです!」
「へーへー、かーちゃんわかったよ。よく噛んで飲みますよ。牛乳もいちご牛乳も、酒も人生も、よぉっく噛んで噛みまくって、擦り切れてぼろぼろになった頃に飲み込みまぁす。そしていつかでっけぇことを成し遂げる、大きな男になりまぁす」
「…坂田さん、私のこと馬鹿にしてるでしょう?」
「ああ、してるよ」
「こらァ!」と言いながら***は後ろに手を振り上げて、丸めたこぶしを銀時の頭に、ぽかぽかとぶつけた。狙いを定めようと首だけ持ち上げて、肩越しに振り向くと、「いていて、やめろって」と大して痛くもなさそうに言いながら、***の攻撃を避けて、銀時の頭が左右に揺れているのが見えた。揺れるたびに銀色の髪が朝の光に照らされて、きらきらと綺麗に輝いていた。
気が付くと朝日が少しづつ顔を出して、街を照らし始めていた。いつもの仕事帰り、いつもの時間、いつもの場所で、なんだか奇妙な人に出会ってしまったなと、***は思う。平凡な一日のはじまりの朝、平凡な自分のそれでも大切で大好きな時間に、突然飛び込んできた非日常的な出来事。その原因のこの坂田銀時という人の、初対面とは思えないほどの失礼な物言いと予測のつかない行動で、***は慌てたり怒ったり、とても忙しい。
でも――――――
「あ、日の出だぁ」
***が顔を横向きにして朝日を見つめて呟くと、橋を渡りきる手前で銀時も足を止める。ふたりして同じ方向を見る。
「おー…すがすがしいねぇ、………なぁ足、大丈夫か、これすげー痛ぇ?」
裸足の左足に温かいものがそっと触れる。触れるか触れないかくらいの優しい感触が、銀時の大きな手だと気付くのには少し時間がかかった。さっきまでの傍若無人な態度からは、想像もつかないほどの繊細な手つきで、熱い手のひらが***の足に置かれている。
「…ちょっとだけズキズキするかな…けど、大丈夫です。ありがとう」
「…悪かったな、しらふだったらあんな風に転んだりしねぇし、咄嗟に避けるくらい、わけねぇんだけど、さっきは意識が飛んでたからぁ。ま、手当して病院いってみよーや」
―――――でも、もしかしたらこの人は、悪い人ではないかもしれない。それどころか、少し優しい人かもしれない、と***は思った。そして銀時といたら、それまでの自分では全く知りようがない、この街の新しい一面を知ることができるのではないか、という期待のような感情がふと心に芽生えた。
***が首を持ち上げて振り返ってみると、銀時も首を回してこちらを見ていた。逆光なのか眩しそうに、目を瞬かせている。
「おはよーさん」
銀時が自分に言ったのか、それとも自分たちを照らしている朝日に言ったのかは分からなかった。***は自分の変な姿勢と、置かれている状況の不思議さに可笑しくなって、思わず笑ってしまった。
「挨拶されたら、ちゃんと相手の目を見て挨拶を返せ」という田舎の父親の言いつけの通り、笑った***の口から、ちょっと大きくてよく通る声が出た。
「おはよう!坂田さん!」
(おはよう!かぶき町!)
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no.1【am.5:30】end
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