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第1章
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第9話。
本社ビルの自動ドアの前で、チカはバッグの持ち手を握り直した。
中に入っているのは、白い封筒が一枚。
昨夜描き上げた、ラビの似顔絵。
折れないように気をつけて入れたそれは、紙一枚のはずなのに存在感があった。
会えるとは思っていない。
会うつもりで来たわけでもない。
ただ、渡したいだけだ。
見せてと言われたものを、見せないまま帰る方が、どうにも落ち着かない。
「……よし」
自分にだけ聞こえる声で呟いて、チカはそのまま中へ入った。
ロビーは広く、静かで、何もかもが整いすぎていた。
黒と銀を基調にした空間。
高い天井。
磨き上げられた床。
朝の光が大きなガラスを通して差し込んでいるのに、どこか冷たい。
行き交う社員たちは皆、迷いなく歩いていた。
自分のように立ち止まる人間は、ここには最初から想定されていないのだと思わせる空気があった。
チカは受付カウンターの前に立つ。
向こう側に座る女性が、隙のない笑顔で顔を上げた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
きれいな声だった。
きれいすぎて、少しだけ緊張する。
「あの……これを、次期ブックマ……」
そこでチカは小さく口をつぐみ、言い直した。
「……ラビさんに、お渡ししたくて」
受付嬢の笑顔が、ほんのわずかに止まる。
「……失礼ですが、お約束はございますか?」
「ありません」
「担当部署、もしくはご面会のご予定は」
「……ないです」
「申し訳ございません。アポイントメントのない方をお繋ぎすることはできかねます」
きっぱりとした返答だった。
チカは素直に頷く。
「……そうですよね」
わかってはいた。
でも、それで終わるわけにもいかなかった。
バッグから白い封筒を少しだけ取り出す。
「これだけでも、お渡しできれば……」
受付嬢の視線が封筒へ落ちる。
「お預かりもいたしかねます」
「……だめですか」
「内容物の確認ができませんので」
言い方は丁寧だったが、完全に拒否られている。
チカは封筒を抱えたまま、小さく黙り込んだ。
困った。
でも、ここまで来て引き下がるのも違う気がする。
(……どうしよう)
その時だった。
「……鈴木チカさん?」
不意に背後から落ちた声に、チカは振り返った。
そこに立っていたのは、灰色がかったスーツを隙なく着こなした青年だった。
真っ直ぐな姿勢。
乱れのない髪。
感情の読みづらい静かな目。
チカが戸惑ったように目を瞬かせると、青年はすぐに内ポケットから名刺入れを取り出した。
「失礼しました。私、こういう者です」
差し出された名刺には、
『 ハワード・リンク
ブックマン・グループ CEO秘書』
と記されている。
チカは慌てて両手でそれを受け取った。
「……ありがとうございます」
「Jr.にご用件ですか」
「……はい、これを渡して欲しくて」
「こちらを?」
視線が白い封筒へ落ちる。
チカはこくりと頷いた。
「完成したら見せる約束だったので」
リンクは数秒、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は受付嬢のそれとは違った。
ただ情報を照合しているだけのような、静かな間だった。
「本日お帰りですか?」
「はい。今から…」
「なるほど」
リンクは一度だけ、チカの手元の白い封筒に視線を落とした。
表情は変えない。
けれど頭の中では、状況が一瞬で組み直されていた。
今日帰る。
つまり、このまま離れれば次がいつになるか分からない。
(Jr.はこの後…日本をしばらく離れる…)
それは、あまり好ましくなかった。
Jr.の“誰でもいい”の外側へ出た可能性のある女を、ここでただ帰すのは惜しい。
いや、惜しいどころか困る。
非常に困る。
「……送らせましょうか?」
「……え?」
チカが瞬きをする。
リンクは淡々と続けた。
「空港までです。お一人で向かわれるより確実かと」
受付嬢の視線が、わずかにリンクへ向く。
その提案が、単なる親切以上の意味を持っていることを察したようだったが、口は挟まない。
チカは少しだけ迷うように封筒を見たあと、小さく首を振った。
「いえ、大丈夫です。これを渡していただければ、それで」
リンクはほんの一拍だけ黙った。
断られる可能性は考えていた。
ならば、次だ。
「そうですか」
あっさりと引いたように見せて、リンクは内ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を一度だけ確認し、そのまま短く操作する。
Jr.のスケジュール。
本日午前、空ける。今から。
「……ただ」
リンクは静かな声で言った。
「Jr.ご本人へ直接お渡しいただいた方が確実ではあります」
チカの目が、少しだけ見開かれる。
「え」
「本日はこの後、空港方面へお向かいになるご予定です」
嘘ではない。
今この瞬間、そうなった。
「お送りします」
言いながら、リンクは画面の中で必要な連絡を二件ほど飛ばしていた。
一件は運転手へ。
もう一件はJr.へ。
至急。ロビーへ。
理由は書かない。
来れば分かる。
「……でも」
チカは戸惑ったように言葉を探す。
「そんな、ご迷惑では」
「迷惑かどうかは、Jr.が判断されます」
即答だった。
それは突き放しているようでいて、絶妙に断りづらい言い方でもある。
リンクは白い封筒を見た。
「完成したら見せる約束だったのでしょう?」
「……はい」
「でしたら、ご本人にお渡しになった方がよろしいかと」
チカは封筒を抱え直した。
迷っている。
けれど、その迷いの中にはもう“帰ります”だけではない揺れが混ざっている。
リンクは内心でだけ、小さく息をつく。
もう一押しだ。
「お時間の調整はこちらでいたします」
「……」
「空港までお送りいたしますので、少しお待ちください」
そこまで言われてしまえば、チカの方も強くは断れなかった。
「……では、ご迷惑でなければ」
「承知しました」
リンクは一礼する。
表情は終始、静かなままだ。
だが内心では、ようやく一つ工程が前に進んだことに、確かな安堵があった。
――これでいい。
Jr.が来る。
来させる。
あとは当人同士でどうにかしてもらうしかない。
正直、ここまで段取りしてやる義理はない。
ないが、縁談がまた振り出しに戻る方が、よほど面倒だった。
「少々お待ちください」
リンクがそう告げたちょうどその時、ロビー奥のエレベーターが静かに開いた。
エレベーターの中から現れたのは、いつも通り、隙なく仕立てられたスーツ。ネクタイも乱れていないラビだった。
けれど、その足取りだけが、わずかに機嫌の悪さを滲ませていた。
「……リンク」
低く落ちた声に、ロビーの空気がほんの少しだけ張る。
「俺を呼び出すなんざ…お前いつから偉く…」
ラビはそのまま真っ直ぐこちらへ歩いてきて、リンクの前で止まった。
それから、視線だけを横へ滑らせる。
白い封筒を抱えたまま固まっているチカを見て、ラビの眉がぴくりと動いた。
「……ん?」
ごく短い音だった。
それだけで、今の彼が何も聞かされていないことが分かる。
リンクはまるで予定通りの出来事を報告するみたいに、平坦な声で言った。
「鈴木チカ様が、Jr.へお渡ししたいものがあると」
「……それで?」
「本日お帰りとのことでしたので、空港までお送りする手配を進めております」
「……誰が?」
「Jr.が」
一拍。
ラビはゆっくりとリンクを見た。
その視線には、明らかに。
〝お前、何してんのさ〟
が含まれていた。
リンクは受け流すように、ほんのわずかに顎を引くだけだ。
「効率的かと」
「勝手に俺の予定、足してるよね」
「いえ、引いて足したので0です」
「それって誰基準?」
「私です」
ラビは数秒、何も言わなかった。
それから、心底面倒くさそうに小さく息を吐き、今度はチカへ向き直る。
「……で?」
その“で?”には、困惑と呆れと、ほんの少しの興味が混ざっていた。
チカは封筒を抱えたまま、少しだけ姿勢を正す。
「あの」
「うん」
「昨日、出来たら見せてと言ってたので」
それだけ言って、白い封筒を差し出した。
ロビーの真ん中で、飾り気もなく、まるで提出物みたいな顔で。
ラビは封筒とチカの顔を見比べる。
「わざわざ……持ってきたの?」
「はい」
「本社に?」
「はい」
「アポなしで?」
「……はい」
ラビは封筒を受け取りながら、口元だけで少し笑った。
「……へぇ。アホなの?アポなしなだけに」
数秒、沈黙が落ちた。
ロビーの空調音だけが静かに響く。
チカは目を瞬かせ、それから、ぱっと顔を上げた。
「お上手ですね!」
「……は?」
「今のです。アポなしと、アホなの、で」
彼女は真顔だった。
けれどその声音には、社交辞令の欠片もない。
本気で感心している人間のそれだった。
「ちゃんと掛かってて、とても面白いです」
「……あ、うん」
ラビの返事が一拍遅れる。
嫌味で言ったのに褒められると思っていなかったらしい。
リンクは無言のまま、ほんの少しだけ視線を落とした。
その横顔には一切何も出ていない。
出ていないが、彼の周りの空気だけが冷えている。
「……」
チカはそんなことに気づかず、小さく続けた。
「急に言われたので驚きましたけど、さすが次期ブックマン様です!」
「……そこまで褒められると、逆に恥ずかしいさ」
ラビは咳払いをひとつして、封筒を持ち直した。
その口元には、さっきより少しだけ本物に近い笑みが浮かんでいる。
「リンク」
「はい」
「今の、笑うとこだったよね」
「私は業務中ですので」
「冷た」
チカは二人のやり取りを見比べる。
「……業務中だと、駄洒落で笑ってはいけないんですか?」
「そういう規則はありません」
リンクは即答した。
「ただ、特に面白いとは判断しませんでした」
「厳しいなぁ」
ラビが肩をすくめる。
チカは少しだけ考えてから、ラビを見上げた。
「……私は、好きです」
「何が?」
「今のダジャレです」
「そっち?」
「はい。ちょっと安心しました」
ラビは一瞬、目を細めた。
「……安心?」
「次期ブックマン様、もっと怖い人かもしれないと思っていたので」
それを聞いたリンクだけが、ほんのわずかに眉を動かした。
ラビは数秒黙ったあと、ふっと笑う。
「……あんた、ほんと変なとこで人の機嫌取るね」
「取ってません」
「うん、知ってる」
ラビは呆れているはずなのに、その目は少しだけ面白そうだった。
「しかしこれを……わざわざ?」
「今日、帰るので」
「それで?」
「次、いつお会いするのか分からなかったので」
ラビの指先が、封筒の角で止まった。
一瞬だけ、顔から余計な表情が落ちる。
その間を見たのは、たぶんリンクだけだった。
「……そう」
短く言って、ラビは封筒を片手に持ち替える。
それから、ロビーの出入口へ視線を向けた。
「車、来てる?」
「まもなく来ます」
「じゃあ、それ乗せて。空港まで」
「承知しました」
リンクは即座に一礼し、少し離れた場所へ下がって連絡を取り始める。
残されたのは、ラビとチカ、それから見て見ぬふりをしている受付嬢だけだった。
一瞬、沈黙が落ちる。
チカはその沈黙に耐えきれず、視線を少しだけ下げた。
ラビが封筒を軽く振る。
「……で、中身は?」
「似顔絵です」
「知ってる」
「……ちゃんと描きました」
「それも知ってる」
「……」
ラビはそこで、ようやく少しだけ笑った。
「ほんとに来るんだ、あんた」
「……だめでしたか?」
「いや」
ラビは即答した。
「そこまでするとは思ってなかっただけ」
その言葉に、チカは少しだけ瞬きをした。
責められてはいないらしい、と分かって、肩の力がほんの少し抜ける。
ロビーの外に黒塗りの車が滑り込んでくるのが見えた。
リンクが戻ってくる。
「お待たせいたしました」
「ありがと」
ラビは封筒を持ったままチカのトランクを持って歩き出し、途中で振り返った。
「……行くよ」
「あっ、」
チカは慌ててその後を追う。
「自分で持ちます!」
自動ドアが開く。
「いいの。あんたに持たせるなんてかっこ悪いでしょ」
朝の光が、さっきより少しだけやわらかく感じられた。
車の前まで来たところで、ラビがふと立ち止まる。
その時に運転手がトランクを受け取り、車に積む。
「そういえば」
「……はい」
「昨日のあれ」
「……あれ?」
「次、あるんでしょうかってやつ」
チカの動きが、一瞬止まる。
ラビはちらりと横目で見る。
「あるよ」
軽く言う。
でも、その言い方は昨日より少しだけはっきりしていた。
「こうしてわざわざ絵まで届けに来た人、落とす理由ないし」
「……」
チカは何も言えなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ忙しい。
ラビはそんな彼女の反応を見て、口元をわずかに緩めた。
「まあ、一次審査通過ってことで」
「……」
「なに、その顔」
「……お母さんが喜びます」
ラビは数秒黙ったあと、耐えきれないみたいに息を漏らした。
「はは」
運転手が無言で後部座席のドアを開ける。
ラビは先に乗り込まず、顎で中を示した。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
チカが車に乗り込む。
そのあとにラビも乗り込み、ドアが静かに閉まった。
ブックマン・グループ本社のロビーでは、受付嬢が目を丸くしてその様子を見送っている。
車が滑り出す。
窓の外で、高いビルのガラスが朝日を反射していた。
封筒を膝の上に置いたラビは、ちらりとそれを見下ろす。
まだ開けない。
開けるのは、もう少しあとでいい。
代わりに今は、隣に座った女の横顔を、ほんの少しだけ観察していた。
本社まで来るような行動力があるくせに、窓の外を見ている顔は静かだ。
「……あんたさ」
「はい」
「本当に変な女だね」
チカは少しだけ考えてから、真顔で答えた。
「……やはり、そうなんですかね…」
その返事に、ラビはまた小さく笑った。
車はそのまま、空港へ向かって都心の道を滑り出していった。
つづく
2026/04/23
本社ビルの自動ドアの前で、チカはバッグの持ち手を握り直した。
中に入っているのは、白い封筒が一枚。
昨夜描き上げた、ラビの似顔絵。
折れないように気をつけて入れたそれは、紙一枚のはずなのに存在感があった。
会えるとは思っていない。
会うつもりで来たわけでもない。
ただ、渡したいだけだ。
見せてと言われたものを、見せないまま帰る方が、どうにも落ち着かない。
「……よし」
自分にだけ聞こえる声で呟いて、チカはそのまま中へ入った。
ロビーは広く、静かで、何もかもが整いすぎていた。
黒と銀を基調にした空間。
高い天井。
磨き上げられた床。
朝の光が大きなガラスを通して差し込んでいるのに、どこか冷たい。
行き交う社員たちは皆、迷いなく歩いていた。
自分のように立ち止まる人間は、ここには最初から想定されていないのだと思わせる空気があった。
チカは受付カウンターの前に立つ。
向こう側に座る女性が、隙のない笑顔で顔を上げた。
「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか」
きれいな声だった。
きれいすぎて、少しだけ緊張する。
「あの……これを、次期ブックマ……」
そこでチカは小さく口をつぐみ、言い直した。
「……ラビさんに、お渡ししたくて」
受付嬢の笑顔が、ほんのわずかに止まる。
「……失礼ですが、お約束はございますか?」
「ありません」
「担当部署、もしくはご面会のご予定は」
「……ないです」
「申し訳ございません。アポイントメントのない方をお繋ぎすることはできかねます」
きっぱりとした返答だった。
チカは素直に頷く。
「……そうですよね」
わかってはいた。
でも、それで終わるわけにもいかなかった。
バッグから白い封筒を少しだけ取り出す。
「これだけでも、お渡しできれば……」
受付嬢の視線が封筒へ落ちる。
「お預かりもいたしかねます」
「……だめですか」
「内容物の確認ができませんので」
言い方は丁寧だったが、完全に拒否られている。
チカは封筒を抱えたまま、小さく黙り込んだ。
困った。
でも、ここまで来て引き下がるのも違う気がする。
(……どうしよう)
その時だった。
「……鈴木チカさん?」
不意に背後から落ちた声に、チカは振り返った。
そこに立っていたのは、灰色がかったスーツを隙なく着こなした青年だった。
真っ直ぐな姿勢。
乱れのない髪。
感情の読みづらい静かな目。
チカが戸惑ったように目を瞬かせると、青年はすぐに内ポケットから名刺入れを取り出した。
「失礼しました。私、こういう者です」
差し出された名刺には、
『 ハワード・リンク
ブックマン・グループ CEO秘書』
と記されている。
チカは慌てて両手でそれを受け取った。
「……ありがとうございます」
「Jr.にご用件ですか」
「……はい、これを渡して欲しくて」
「こちらを?」
視線が白い封筒へ落ちる。
チカはこくりと頷いた。
「完成したら見せる約束だったので」
リンクは数秒、何も言わなかった。
けれど、その沈黙は受付嬢のそれとは違った。
ただ情報を照合しているだけのような、静かな間だった。
「本日お帰りですか?」
「はい。今から…」
「なるほど」
リンクは一度だけ、チカの手元の白い封筒に視線を落とした。
表情は変えない。
けれど頭の中では、状況が一瞬で組み直されていた。
今日帰る。
つまり、このまま離れれば次がいつになるか分からない。
(Jr.はこの後…日本をしばらく離れる…)
それは、あまり好ましくなかった。
Jr.の“誰でもいい”の外側へ出た可能性のある女を、ここでただ帰すのは惜しい。
いや、惜しいどころか困る。
非常に困る。
「……送らせましょうか?」
「……え?」
チカが瞬きをする。
リンクは淡々と続けた。
「空港までです。お一人で向かわれるより確実かと」
受付嬢の視線が、わずかにリンクへ向く。
その提案が、単なる親切以上の意味を持っていることを察したようだったが、口は挟まない。
チカは少しだけ迷うように封筒を見たあと、小さく首を振った。
「いえ、大丈夫です。これを渡していただければ、それで」
リンクはほんの一拍だけ黙った。
断られる可能性は考えていた。
ならば、次だ。
「そうですか」
あっさりと引いたように見せて、リンクは内ポケットからスマートフォンを取り出した。
画面を一度だけ確認し、そのまま短く操作する。
Jr.のスケジュール。
本日午前、空ける。今から。
「……ただ」
リンクは静かな声で言った。
「Jr.ご本人へ直接お渡しいただいた方が確実ではあります」
チカの目が、少しだけ見開かれる。
「え」
「本日はこの後、空港方面へお向かいになるご予定です」
嘘ではない。
今この瞬間、そうなった。
「お送りします」
言いながら、リンクは画面の中で必要な連絡を二件ほど飛ばしていた。
一件は運転手へ。
もう一件はJr.へ。
至急。ロビーへ。
理由は書かない。
来れば分かる。
「……でも」
チカは戸惑ったように言葉を探す。
「そんな、ご迷惑では」
「迷惑かどうかは、Jr.が判断されます」
即答だった。
それは突き放しているようでいて、絶妙に断りづらい言い方でもある。
リンクは白い封筒を見た。
「完成したら見せる約束だったのでしょう?」
「……はい」
「でしたら、ご本人にお渡しになった方がよろしいかと」
チカは封筒を抱え直した。
迷っている。
けれど、その迷いの中にはもう“帰ります”だけではない揺れが混ざっている。
リンクは内心でだけ、小さく息をつく。
もう一押しだ。
「お時間の調整はこちらでいたします」
「……」
「空港までお送りいたしますので、少しお待ちください」
そこまで言われてしまえば、チカの方も強くは断れなかった。
「……では、ご迷惑でなければ」
「承知しました」
リンクは一礼する。
表情は終始、静かなままだ。
だが内心では、ようやく一つ工程が前に進んだことに、確かな安堵があった。
――これでいい。
Jr.が来る。
来させる。
あとは当人同士でどうにかしてもらうしかない。
正直、ここまで段取りしてやる義理はない。
ないが、縁談がまた振り出しに戻る方が、よほど面倒だった。
「少々お待ちください」
リンクがそう告げたちょうどその時、ロビー奥のエレベーターが静かに開いた。
エレベーターの中から現れたのは、いつも通り、隙なく仕立てられたスーツ。ネクタイも乱れていないラビだった。
けれど、その足取りだけが、わずかに機嫌の悪さを滲ませていた。
「……リンク」
低く落ちた声に、ロビーの空気がほんの少しだけ張る。
「俺を呼び出すなんざ…お前いつから偉く…」
ラビはそのまま真っ直ぐこちらへ歩いてきて、リンクの前で止まった。
それから、視線だけを横へ滑らせる。
白い封筒を抱えたまま固まっているチカを見て、ラビの眉がぴくりと動いた。
「……ん?」
ごく短い音だった。
それだけで、今の彼が何も聞かされていないことが分かる。
リンクはまるで予定通りの出来事を報告するみたいに、平坦な声で言った。
「鈴木チカ様が、Jr.へお渡ししたいものがあると」
「……それで?」
「本日お帰りとのことでしたので、空港までお送りする手配を進めております」
「……誰が?」
「Jr.が」
一拍。
ラビはゆっくりとリンクを見た。
その視線には、明らかに。
〝お前、何してんのさ〟
が含まれていた。
リンクは受け流すように、ほんのわずかに顎を引くだけだ。
「効率的かと」
「勝手に俺の予定、足してるよね」
「いえ、引いて足したので0です」
「それって誰基準?」
「私です」
ラビは数秒、何も言わなかった。
それから、心底面倒くさそうに小さく息を吐き、今度はチカへ向き直る。
「……で?」
その“で?”には、困惑と呆れと、ほんの少しの興味が混ざっていた。
チカは封筒を抱えたまま、少しだけ姿勢を正す。
「あの」
「うん」
「昨日、出来たら見せてと言ってたので」
それだけ言って、白い封筒を差し出した。
ロビーの真ん中で、飾り気もなく、まるで提出物みたいな顔で。
ラビは封筒とチカの顔を見比べる。
「わざわざ……持ってきたの?」
「はい」
「本社に?」
「はい」
「アポなしで?」
「……はい」
ラビは封筒を受け取りながら、口元だけで少し笑った。
「……へぇ。アホなの?アポなしなだけに」
数秒、沈黙が落ちた。
ロビーの空調音だけが静かに響く。
チカは目を瞬かせ、それから、ぱっと顔を上げた。
「お上手ですね!」
「……は?」
「今のです。アポなしと、アホなの、で」
彼女は真顔だった。
けれどその声音には、社交辞令の欠片もない。
本気で感心している人間のそれだった。
「ちゃんと掛かってて、とても面白いです」
「……あ、うん」
ラビの返事が一拍遅れる。
嫌味で言ったのに褒められると思っていなかったらしい。
リンクは無言のまま、ほんの少しだけ視線を落とした。
その横顔には一切何も出ていない。
出ていないが、彼の周りの空気だけが冷えている。
「……」
チカはそんなことに気づかず、小さく続けた。
「急に言われたので驚きましたけど、さすが次期ブックマン様です!」
「……そこまで褒められると、逆に恥ずかしいさ」
ラビは咳払いをひとつして、封筒を持ち直した。
その口元には、さっきより少しだけ本物に近い笑みが浮かんでいる。
「リンク」
「はい」
「今の、笑うとこだったよね」
「私は業務中ですので」
「冷た」
チカは二人のやり取りを見比べる。
「……業務中だと、駄洒落で笑ってはいけないんですか?」
「そういう規則はありません」
リンクは即答した。
「ただ、特に面白いとは判断しませんでした」
「厳しいなぁ」
ラビが肩をすくめる。
チカは少しだけ考えてから、ラビを見上げた。
「……私は、好きです」
「何が?」
「今のダジャレです」
「そっち?」
「はい。ちょっと安心しました」
ラビは一瞬、目を細めた。
「……安心?」
「次期ブックマン様、もっと怖い人かもしれないと思っていたので」
それを聞いたリンクだけが、ほんのわずかに眉を動かした。
ラビは数秒黙ったあと、ふっと笑う。
「……あんた、ほんと変なとこで人の機嫌取るね」
「取ってません」
「うん、知ってる」
ラビは呆れているはずなのに、その目は少しだけ面白そうだった。
「しかしこれを……わざわざ?」
「今日、帰るので」
「それで?」
「次、いつお会いするのか分からなかったので」
ラビの指先が、封筒の角で止まった。
一瞬だけ、顔から余計な表情が落ちる。
その間を見たのは、たぶんリンクだけだった。
「……そう」
短く言って、ラビは封筒を片手に持ち替える。
それから、ロビーの出入口へ視線を向けた。
「車、来てる?」
「まもなく来ます」
「じゃあ、それ乗せて。空港まで」
「承知しました」
リンクは即座に一礼し、少し離れた場所へ下がって連絡を取り始める。
残されたのは、ラビとチカ、それから見て見ぬふりをしている受付嬢だけだった。
一瞬、沈黙が落ちる。
チカはその沈黙に耐えきれず、視線を少しだけ下げた。
ラビが封筒を軽く振る。
「……で、中身は?」
「似顔絵です」
「知ってる」
「……ちゃんと描きました」
「それも知ってる」
「……」
ラビはそこで、ようやく少しだけ笑った。
「ほんとに来るんだ、あんた」
「……だめでしたか?」
「いや」
ラビは即答した。
「そこまでするとは思ってなかっただけ」
その言葉に、チカは少しだけ瞬きをした。
責められてはいないらしい、と分かって、肩の力がほんの少し抜ける。
ロビーの外に黒塗りの車が滑り込んでくるのが見えた。
リンクが戻ってくる。
「お待たせいたしました」
「ありがと」
ラビは封筒を持ったままチカのトランクを持って歩き出し、途中で振り返った。
「……行くよ」
「あっ、」
チカは慌ててその後を追う。
「自分で持ちます!」
自動ドアが開く。
「いいの。あんたに持たせるなんてかっこ悪いでしょ」
朝の光が、さっきより少しだけやわらかく感じられた。
車の前まで来たところで、ラビがふと立ち止まる。
その時に運転手がトランクを受け取り、車に積む。
「そういえば」
「……はい」
「昨日のあれ」
「……あれ?」
「次、あるんでしょうかってやつ」
チカの動きが、一瞬止まる。
ラビはちらりと横目で見る。
「あるよ」
軽く言う。
でも、その言い方は昨日より少しだけはっきりしていた。
「こうしてわざわざ絵まで届けに来た人、落とす理由ないし」
「……」
チカは何も言えなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ忙しい。
ラビはそんな彼女の反応を見て、口元をわずかに緩めた。
「まあ、一次審査通過ってことで」
「……」
「なに、その顔」
「……お母さんが喜びます」
ラビは数秒黙ったあと、耐えきれないみたいに息を漏らした。
「はは」
運転手が無言で後部座席のドアを開ける。
ラビは先に乗り込まず、顎で中を示した。
「どうぞ」
「……ありがとうございます」
チカが車に乗り込む。
そのあとにラビも乗り込み、ドアが静かに閉まった。
ブックマン・グループ本社のロビーでは、受付嬢が目を丸くしてその様子を見送っている。
車が滑り出す。
窓の外で、高いビルのガラスが朝日を反射していた。
封筒を膝の上に置いたラビは、ちらりとそれを見下ろす。
まだ開けない。
開けるのは、もう少しあとでいい。
代わりに今は、隣に座った女の横顔を、ほんの少しだけ観察していた。
本社まで来るような行動力があるくせに、窓の外を見ている顔は静かだ。
「……あんたさ」
「はい」
「本当に変な女だね」
チカは少しだけ考えてから、真顔で答えた。
「……やはり、そうなんですかね…」
その返事に、ラビはまた小さく笑った。
車はそのまま、空港へ向かって都心の道を滑り出していった。
つづく
2026/04/23
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