好きな名前に変えて読んでみよう!
第1章
❤安心のお名前設定❤
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第7話。
鉄板の熱と香りを背に、二人は店を出た。
さっきまで耳のすぐそばで鳴っていた肉の焼ける音が遠ざかると、ホテルの廊下は静かに感じられた。
チカは、隣を歩くラビの腕から、ようやくそっと指を離した。
離れた途端、そこに残っていた微かな体温まで失くなった気がして、ほんの少しだけ落ち着かない。
(……終わった)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく引っかかる。
このまま部屋に戻って、明日の朝には家に帰る。
そうしたら、この人とは、もう会わないかもしれない。
それは、なぜか少しだけ困る気がした。
困る、というより。
――結果を、知っておきたかった。
チカは、歩幅を半歩だけ緩めた。
「……あの」
ラビがちらりと視線だけを寄越す。
「なに」
チカは一度だけ喉を鳴らした。
緊張している自覚はあるのに、言葉は案外すんなり出た。
「次、あるんでしょうか。私」
数秒、ラビは黙った。
ホテルの静けさが、急に二人の間へ落ちる。
その沈黙に、チカは少しだけ不安になる。
(……やっぱり、変な聞き方だったかな)
だがラビは、思ったほど驚いた顔はしなかった。
ただ、片眉を上げて、少しだけ呆れたように息を漏らす。
「なにそれ」
口元が、わずかに緩む。
「オーディションの結果待ちみたいさ」
「……違うんですか?」
真顔で返されて、ラビは一瞬だけ言葉を失った。
それから、喉の奥で小さく笑う。
その笑いは、さっきまで何度も見せていた“よく出来た笑顔”より、少しだけ力が抜けていた。
「……あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?」
あまりにも軽く言うから、チカは一瞬、それがどういう意味なのか分からなかった。
『 進める。』
その言葉が胸の中に落ちて、少し遅れて意味になる。
次がある。
少なくとも、この人はそう思っている。
「……私さえ?」
思わずそう聞き返すと、ラビは肩をすくめた。
「だって、俺だけその気になっても意味ないさ」
言い方は軽い。
投げやりにすら聞こえる。
でもその目は、やっぱり笑っていなかった。
嘘を言っている感じもしない。
チカは、静かにラビを見上げた。
(この人は、ずっと選ぶ立場だと思ってた。
けれど、私にも選ぶ側の余地が渡されている。)
それが少しだけ、意外だった。
「……そうなんですね」
「なに、その反応」
「……いえ」
チカは少しだけ視線を落としてから、小さく言った。
「私、逆らってはいけないものだと思っていました」
ラビの歩幅が、ほんの少しだけ緩む。
「まあ、一族的にはそうかもね」
「……でも、ラビさんは違うんですか」
ラビは答えるまでに、少しだけ間を置いた。
その横顔はいつものように整っていて、何を考えているのか読みにくい。
「……どうだろうね」
それは曖昧な返事だった。
けれど、突き放す響きではなかった。
気づけば、ホテルのエレベーター前に着いている。
ラビがボタンを押すと、静かな機械音が鳴った。
「じゃ、今日はここまで」
「……はい」
扉が開く。
チカは中へ入って、それから振り返った。
ラビは乗らない。
ここで本当に別れるのだと、ようやく実感が追いつく。
「……ラビさん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
ラビはポケットに手を入れたまま、軽く顎を引く。
「どういたしまして」
それだけなのに、なぜか少しだけ胸があたたかくなる。
扉が閉まりかける、その直前。
ラビがふと思い出したように言った。
「チカ」
「はい」
「次は、ちゃんと最初から俺のこと見ててよ」
チカの目が、ほんの少しだけ丸くなる。
ラビはもう、人懐っこい笑みを作っていなかった。
代わりにそこにあったのは、少しだけ意地悪で、少しだけ楽しそうな顔だった。
「……はい」
扉が閉まる。
密室になったエレベーターの中で、チカはしばらく動けなかった。
鏡に映る自分の顔は、来た時より少しだけ熱を帯びている。
(……次、あるんだ)
胸の奥で、言葉が静かに反芻される。
オーディションの合否を聞きたかっただけのはずなのに。
返ってきた答えは、思っていたよりずっと、心臓に悪かった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
部屋に戻った瞬間、チカはドアに背中を預けた。
やっと寛げるプライベートルームなのに、胸の中だけが妙に騒がしい。
照明は柔らかい。
空調も一定。
ベッドも整いすぎていて、さっきまでいた鉄板焼きの熱や音が、まるで別の場所の出来事みたいに思えた。
「……」
小さく息を吐く。
けれど、その息だけでは何も落ち着かなかった。
バッグをテーブルに置き、靴を脱ぎ、ベッドの端に腰掛ける。
そこでようやく、今日一日の情報量が一気に押し寄せてきた。
次期ブックマン様。
人懐っこい笑み。
なのに。
笑っていない目。
意地悪な問いかけ。
それから――
『あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?』
「……」
チカは纏めていた髪を解いた。
あの言葉を思い出すと、心臓の辺りが少しだけ落ち着かなくなる。
(……合格、ってことなのかな)
そう考えたところで、スマホが震えた。
画面には【母】の文字。
「……」
少しだけ視線を逸らす。
出た瞬間、大騒ぎになる未来が見えた。
けれど出ないわけにもいかない。
チカは諦めて通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『チカ!? どうだったの!? 生きてる!?』
「生きてる」
『何食べたの!? 失礼なかった!? 会話できた!?』
矢継ぎ早の質問に、チカはスマホを耳から少しだけ離した。
「……お肉食べた」
『そこじゃないのよ!!』
「じゃがいももありました」
『だから食事の報告はいいの!!』
いつものお母さんだ、と思う。
少しだけ力が抜ける。
「だって、何食べたの…って…」
『もう!…で!? どうだったの!? 次期ブックマン様は!?』
チカは少しだけ考えてから、正直に答えた。
「……テレビと同じだった」
『あら、優しかったの?』
「ううん。目が笑ってなかった」
数秒、向こうが静まる。
それから母は、少し声を潜めた。
『……あんた、それ本人に言ってないでしょうね』
チカは天井を見た。
「……言った」
『言ったの!?!?』
スマホ越しに、何かが落ちる音がした。
「でも、別に怒ってなかった」
『怒ってなくてもダメなのよ!!』
「……やっぱりそうなんだ」
『やっぱりじゃないわよ!!』
少しだけ間が空く。
そのあと、チカは思い出したように言った。
「……あと、次はあるみたい」
『えっ』
母の声が止まる。
『……今なんて言ったの?』
「次はあるみたい」
『……えっ、ちょっと待って、チカ、もう一回言って』
チカは少しだけ考えて、言い直した。
「一次審査は通りました」
通話の向こうで、母が息を呑む音がした。
それから、声が一段高くなる。
『ちょっとお父さん!! 1次審査通ったって!!』
遠くで父の「そうか」という、妙に落ち着いた声が聞こえた。
母だけが一人で大騒ぎしている。
チカはスマホを耳から遠ざけ、少しだけ目を閉じた。
うるさいはずなのに、なぜか落ち着く。
『で!? 何て言われたの!? ちゃんと覚えてる!?』
「……『あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?』って」
その瞬間、母の悲鳴のような歓声が響いた。
『きゃああああ!!』
「うるさい」
『ああもう、変なところだけ冷静なんだから……!』
「……私、全然冷静じゃないよ。こう見えて、ドキドキしてる」
母はしばらく一人で騒いでいたが、やがて呼吸を整えるように言った。
『……とにかく、お風呂入って、ちゃんと休みなさい。今日はよく頑張ったわ』
「……うん」
『あと、明日も気を抜いちゃダメよ』
「明日は帰るだけだよ」
『帰るまでがお見合いです!!』
「……はい」
『じゃあ、おやすみ』
「おやすみ」
通話が切れる。
部屋の中が、急に静かになった。
チカはしばらくスマホの黒い画面を見つめていたが、やがて小さく息を吐いて立ち上がる。
浴室へ向かい、鏡の前に立つ。
今日のために整えられた顔。
けれど、今は少し疲れていた。
丁寧にメイクを落とす。
ぬるま湯で肌を流すと、ようやく自分の顔に戻ったような気がした。
服を脱ぎ、湯船に浸かる。
じんわりと熱が広がる。
目を閉じると、今日一日の言葉や表情が、また頭の中に浮かんできた。
『その集中力さ、俺には向かない?』
『今はどう? これでも「冷たい」?』
『あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?』
「……」
湯気の向こうで、チカはゆっくりと目を開けた。
(……不思議な人)
それが、一番しっくりくる感想だった。
お風呂から上がると、髪をざっと乾かし、ホテルの白いバスローブを羽織る。
広すぎる袖を少しだけまくって、机に向かった。
バッグの中からスケッチブックを取り出す。
開く。
途中まで描きかけのラビの似顔絵。
ホテルのラウンジで、人懐っこい笑みを浮かべていた顔。
けれど、その目はまだ空白のままだった。
チカはスマホを取り出し、検索画面を開く。
“ ラビ ブックマンJr”
すぐにいくつもの写真が表示される。
取材記事。
イベント写真。
よく出来た笑顔。
「……」
どれも整っている。
どれも、ちゃんと“優しそう”だ。
でも、違う。
チカはスマホの画面を脇に置き、鉛筆を持った。
自分が描きたいのは、画面の中のラビじゃない。
今日、自分の目の前で笑っていたのに、笑っていなかった人の顔だ。
でも、チカは描く。
インタビュー記事を見ながら。
鉛筆の先が、静かに紙の上を走る。
口元の線を少しだけやわらかく。
目元には、温度のない影を。
そこにほんの少しだけ、さっき鉄板焼きの店で見た、本物の苦笑の名残を混ぜる。
「……うん」
小さく呟く。
これでいい、と思った。
完成した似顔絵の中で、ラビはやっぱり綺麗に笑っていた。
けれど、その目の奥にだけ、誰にも気づかれない冷たさが残っている。
チカはその顔をしばらく見つめたあと、そっとスケッチブックを閉じた。
明日になれば、田舎へ帰る。
都会は眩しくて、速くて、少し疲れる。
けれど今夜だけは、その中にひとつだけ、持ち帰りたい思い出があった。
ベッドに横になる。
白い天井を見上げる。
眠気はまだ来ない。
その代わりに、静かな声が、何度も頭の中で反響していた。
『あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?』
「……」
チカはシーツを少しだけ引き上げた。
(……私さえ、か)
その言葉だけが、なぜか眠る直前まで胸の奥に残り続けた。
つづく( *°∀°* )2026/04/11
鉄板の熱と香りを背に、二人は店を出た。
さっきまで耳のすぐそばで鳴っていた肉の焼ける音が遠ざかると、ホテルの廊下は静かに感じられた。
チカは、隣を歩くラビの腕から、ようやくそっと指を離した。
離れた途端、そこに残っていた微かな体温まで失くなった気がして、ほんの少しだけ落ち着かない。
(……終わった)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく引っかかる。
このまま部屋に戻って、明日の朝には家に帰る。
そうしたら、この人とは、もう会わないかもしれない。
それは、なぜか少しだけ困る気がした。
困る、というより。
――結果を、知っておきたかった。
チカは、歩幅を半歩だけ緩めた。
「……あの」
ラビがちらりと視線だけを寄越す。
「なに」
チカは一度だけ喉を鳴らした。
緊張している自覚はあるのに、言葉は案外すんなり出た。
「次、あるんでしょうか。私」
数秒、ラビは黙った。
ホテルの静けさが、急に二人の間へ落ちる。
その沈黙に、チカは少しだけ不安になる。
(……やっぱり、変な聞き方だったかな)
だがラビは、思ったほど驚いた顔はしなかった。
ただ、片眉を上げて、少しだけ呆れたように息を漏らす。
「なにそれ」
口元が、わずかに緩む。
「オーディションの結果待ちみたいさ」
「……違うんですか?」
真顔で返されて、ラビは一瞬だけ言葉を失った。
それから、喉の奥で小さく笑う。
その笑いは、さっきまで何度も見せていた“よく出来た笑顔”より、少しだけ力が抜けていた。
「……あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?」
あまりにも軽く言うから、チカは一瞬、それがどういう意味なのか分からなかった。
『 進める。』
その言葉が胸の中に落ちて、少し遅れて意味になる。
次がある。
少なくとも、この人はそう思っている。
「……私さえ?」
思わずそう聞き返すと、ラビは肩をすくめた。
「だって、俺だけその気になっても意味ないさ」
言い方は軽い。
投げやりにすら聞こえる。
でもその目は、やっぱり笑っていなかった。
嘘を言っている感じもしない。
チカは、静かにラビを見上げた。
(この人は、ずっと選ぶ立場だと思ってた。
けれど、私にも選ぶ側の余地が渡されている。)
それが少しだけ、意外だった。
「……そうなんですね」
「なに、その反応」
「……いえ」
チカは少しだけ視線を落としてから、小さく言った。
「私、逆らってはいけないものだと思っていました」
ラビの歩幅が、ほんの少しだけ緩む。
「まあ、一族的にはそうかもね」
「……でも、ラビさんは違うんですか」
ラビは答えるまでに、少しだけ間を置いた。
その横顔はいつものように整っていて、何を考えているのか読みにくい。
「……どうだろうね」
それは曖昧な返事だった。
けれど、突き放す響きではなかった。
気づけば、ホテルのエレベーター前に着いている。
ラビがボタンを押すと、静かな機械音が鳴った。
「じゃ、今日はここまで」
「……はい」
扉が開く。
チカは中へ入って、それから振り返った。
ラビは乗らない。
ここで本当に別れるのだと、ようやく実感が追いつく。
「……ラビさん」
「ん?」
「今日は、ありがとうございました」
ラビはポケットに手を入れたまま、軽く顎を引く。
「どういたしまして」
それだけなのに、なぜか少しだけ胸があたたかくなる。
扉が閉まりかける、その直前。
ラビがふと思い出したように言った。
「チカ」
「はい」
「次は、ちゃんと最初から俺のこと見ててよ」
チカの目が、ほんの少しだけ丸くなる。
ラビはもう、人懐っこい笑みを作っていなかった。
代わりにそこにあったのは、少しだけ意地悪で、少しだけ楽しそうな顔だった。
「……はい」
扉が閉まる。
密室になったエレベーターの中で、チカはしばらく動けなかった。
鏡に映る自分の顔は、来た時より少しだけ熱を帯びている。
(……次、あるんだ)
胸の奥で、言葉が静かに反芻される。
オーディションの合否を聞きたかっただけのはずなのに。
返ってきた答えは、思っていたよりずっと、心臓に悪かった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
部屋に戻った瞬間、チカはドアに背中を預けた。
やっと寛げるプライベートルームなのに、胸の中だけが妙に騒がしい。
照明は柔らかい。
空調も一定。
ベッドも整いすぎていて、さっきまでいた鉄板焼きの熱や音が、まるで別の場所の出来事みたいに思えた。
「……」
小さく息を吐く。
けれど、その息だけでは何も落ち着かなかった。
バッグをテーブルに置き、靴を脱ぎ、ベッドの端に腰掛ける。
そこでようやく、今日一日の情報量が一気に押し寄せてきた。
次期ブックマン様。
人懐っこい笑み。
なのに。
笑っていない目。
意地悪な問いかけ。
それから――
『あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?』
「……」
チカは纏めていた髪を解いた。
あの言葉を思い出すと、心臓の辺りが少しだけ落ち着かなくなる。
(……合格、ってことなのかな)
そう考えたところで、スマホが震えた。
画面には【母】の文字。
「……」
少しだけ視線を逸らす。
出た瞬間、大騒ぎになる未来が見えた。
けれど出ないわけにもいかない。
チカは諦めて通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『チカ!? どうだったの!? 生きてる!?』
「生きてる」
『何食べたの!? 失礼なかった!? 会話できた!?』
矢継ぎ早の質問に、チカはスマホを耳から少しだけ離した。
「……お肉食べた」
『そこじゃないのよ!!』
「じゃがいももありました」
『だから食事の報告はいいの!!』
いつものお母さんだ、と思う。
少しだけ力が抜ける。
「だって、何食べたの…って…」
『もう!…で!? どうだったの!? 次期ブックマン様は!?』
チカは少しだけ考えてから、正直に答えた。
「……テレビと同じだった」
『あら、優しかったの?』
「ううん。目が笑ってなかった」
数秒、向こうが静まる。
それから母は、少し声を潜めた。
『……あんた、それ本人に言ってないでしょうね』
チカは天井を見た。
「……言った」
『言ったの!?!?』
スマホ越しに、何かが落ちる音がした。
「でも、別に怒ってなかった」
『怒ってなくてもダメなのよ!!』
「……やっぱりそうなんだ」
『やっぱりじゃないわよ!!』
少しだけ間が空く。
そのあと、チカは思い出したように言った。
「……あと、次はあるみたい」
『えっ』
母の声が止まる。
『……今なんて言ったの?』
「次はあるみたい」
『……えっ、ちょっと待って、チカ、もう一回言って』
チカは少しだけ考えて、言い直した。
「一次審査は通りました」
通話の向こうで、母が息を呑む音がした。
それから、声が一段高くなる。
『ちょっとお父さん!! 1次審査通ったって!!』
遠くで父の「そうか」という、妙に落ち着いた声が聞こえた。
母だけが一人で大騒ぎしている。
チカはスマホを耳から遠ざけ、少しだけ目を閉じた。
うるさいはずなのに、なぜか落ち着く。
『で!? 何て言われたの!? ちゃんと覚えてる!?』
「……『あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?』って」
その瞬間、母の悲鳴のような歓声が響いた。
『きゃああああ!!』
「うるさい」
『ああもう、変なところだけ冷静なんだから……!』
「……私、全然冷静じゃないよ。こう見えて、ドキドキしてる」
母はしばらく一人で騒いでいたが、やがて呼吸を整えるように言った。
『……とにかく、お風呂入って、ちゃんと休みなさい。今日はよく頑張ったわ』
「……うん」
『あと、明日も気を抜いちゃダメよ』
「明日は帰るだけだよ」
『帰るまでがお見合いです!!』
「……はい」
『じゃあ、おやすみ』
「おやすみ」
通話が切れる。
部屋の中が、急に静かになった。
チカはしばらくスマホの黒い画面を見つめていたが、やがて小さく息を吐いて立ち上がる。
浴室へ向かい、鏡の前に立つ。
今日のために整えられた顔。
けれど、今は少し疲れていた。
丁寧にメイクを落とす。
ぬるま湯で肌を流すと、ようやく自分の顔に戻ったような気がした。
服を脱ぎ、湯船に浸かる。
じんわりと熱が広がる。
目を閉じると、今日一日の言葉や表情が、また頭の中に浮かんできた。
『その集中力さ、俺には向かない?』
『今はどう? これでも「冷たい」?』
『あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?』
「……」
湯気の向こうで、チカはゆっくりと目を開けた。
(……不思議な人)
それが、一番しっくりくる感想だった。
お風呂から上がると、髪をざっと乾かし、ホテルの白いバスローブを羽織る。
広すぎる袖を少しだけまくって、机に向かった。
バッグの中からスケッチブックを取り出す。
開く。
途中まで描きかけのラビの似顔絵。
ホテルのラウンジで、人懐っこい笑みを浮かべていた顔。
けれど、その目はまだ空白のままだった。
チカはスマホを取り出し、検索画面を開く。
“ ラビ ブックマンJr”
すぐにいくつもの写真が表示される。
取材記事。
イベント写真。
よく出来た笑顔。
「……」
どれも整っている。
どれも、ちゃんと“優しそう”だ。
でも、違う。
チカはスマホの画面を脇に置き、鉛筆を持った。
自分が描きたいのは、画面の中のラビじゃない。
今日、自分の目の前で笑っていたのに、笑っていなかった人の顔だ。
でも、チカは描く。
インタビュー記事を見ながら。
鉛筆の先が、静かに紙の上を走る。
口元の線を少しだけやわらかく。
目元には、温度のない影を。
そこにほんの少しだけ、さっき鉄板焼きの店で見た、本物の苦笑の名残を混ぜる。
「……うん」
小さく呟く。
これでいい、と思った。
完成した似顔絵の中で、ラビはやっぱり綺麗に笑っていた。
けれど、その目の奥にだけ、誰にも気づかれない冷たさが残っている。
チカはその顔をしばらく見つめたあと、そっとスケッチブックを閉じた。
明日になれば、田舎へ帰る。
都会は眩しくて、速くて、少し疲れる。
けれど今夜だけは、その中にひとつだけ、持ち帰りたい思い出があった。
ベッドに横になる。
白い天井を見上げる。
眠気はまだ来ない。
その代わりに、静かな声が、何度も頭の中で反響していた。
『あんたさえ良ければ、進めるつもりだけど?』
「……」
チカはシーツを少しだけ引き上げた。
(……私さえ、か)
その言葉だけが、なぜか眠る直前まで胸の奥に残り続けた。
つづく( *°∀°* )2026/04/11