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第1章
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第6話。
ラビの腕に添えた指先から、上質なジャケットの生地越しに、彼の体温が微かに伝わってくる。
「ラビさん」
「なに」
「すみません。呼んでません。少し練習を……」
「紛らわしいな……」
慣れない響きを口の中で転がしながら、チカは一歩ずつ、ホテルのふかふかの絨毯を踏みしめた。
隣を歩くラビの歩幅は、驚くほど正確に自分の速度に合わされている。
「……あの、ラビさん」
「何さ」
「腕を掴むとき、指先にどのくらい力を込めるのが正しい形なんですか? 強く掴みすぎると服にシワが寄りますし、弱すぎると……その、迷子みたいで」
「……あんた、歩きながらまで分析すんのやめてさ。普通でいいんだって、普通で」
ラビは呆れたように前を向いたままだが、その足取りは決して急かそうとはしなかった。
知らない形を一つずつ覚えながら。
二人の影が、琥珀色の照明に照らされた廊下に長く伸びては消えていく。
やがて辿り着いたのは、ホテルの一角にひっそりと設えられた鉄板焼きの店だった。
重厚な暖簾をくぐると、そこには黒と木目を基調にした、落ち着いた空間が広がっていた。
店の中央に据えられた大きな鉄板を囲むように、磨き上げられたカウンター席が連なっている。
天井の低い照明が、淡い金色の光をカウンターに落とし、鉄板の銀色だけがそこに鋭く浮かび上がっていた。
都会の明るさを柔らかく削ぎ落としたような、静かな熱のある場所だった。
案内された席に、チカは恐る恐る腰を下ろした。
目の前には、鏡のように光る巨大な鉄板。
その向こうでは、白衣姿のシェフが無駄のない手つきで道具を整えている。
隣では、ラビがジャケットを脱ぎ、椅子の背に軽くかけていた。
シャツの袖を少しだけ捲り上げたその腕は、さっき触れていた時よりもずっと、しなやかで強そうなラインを描いている。
「……ん?俺の事見てる?」
不意に落ちてきた声に、チカははっと視線を上げた。
「腕撓骨筋が綺麗だなって思って」
ラビの眉がぴくりと動く。
「……顔じゃなくて?」
「はい」
「へぇ」
ラビは片眉を上げたまま、自分の袖口から覗く腕を軽く見下ろした。
「変わってるね、あんた」
そう言いながらも、その声はどこか機嫌がよかった。
ラビは椅子に深く腰を下ろし、目の前の鉄板を一瞥する。
「こういう店、初めて?」
「……はい」
「だろうね」
その言い方は、馬鹿にしているようでいて、嫌な響きはなかった。
むしろ、最初から分かっていたことを確認しただけ、という平坦さだった。
チカは膝の上で指先を重ねた。
カウンターは磨き込まれていて、自分の手元の輪郭まで淡く映している。
鉄板の上にはまだ何も乗っていないのに、そこだけがすでに舞台のように見えた。
「……あの」
「なに」
「ここ、すごく綺麗ですね」
ラビが少しだけ目を細める。
「うん。そうだね」
ちょうどその時、シェフが一礼し、静かな声で挨拶をした。
続いて置かれたのは、細身のグラスと、透き通った琥珀色の前菜だった。
ラビはメニューを開きもせず、シェフに向かって短く言う。
「肉はおすすめで。あと、ポテトも焼いてくれる?」
「かしこまりました」
チカの視線が、わずかに上がる。
その小さな動きを見逃さなかったのか、ラビが口元だけで笑った。
「分かりやすいな」
「……何がですか」
「ポテトが出た時だけ、目が生きる」
「……好きなので」
「知ってる」
ぽつりと落ちたその一言に、チカは少しだけ瞬きをした。
知ってる、というほど、自分たちはまだ何も知らないはずなのに。
けれどラビはそれ以上説明せず、テーブルに置かれたグラスを持ち上げた。氷の入っていない水が、照明を受けて静かに光る。
「じゃ、改めて」
その人懐っこい笑みは、やっぱり綺麗すぎた。
「お見合い、よろしく」
チカも慌ててグラスに手を伸ばす。
「……よろしくお願いします、ラビさん」
ラビはグラスを置くと、頬杖をついてチカを見る。
「で。あんたは、このお見合いどう思ってる?」
唐突だった。
チカはグラスを持ったまま固まる。
「……どう、とは」
「さっきから見てる限り、緊張はしてる。俺に興味がないわけでもない」
ラビの声は軽い。軽いのに、逃がさない。
「テレビで見た通りだったか、 それとも違ったか」
チカは少しだけ視線を落とした。
正直に言っていいのか、少し迷う。
けれど、ここで取り繕った言葉を出しても、この人にはたぶん意味がない。
「……テレビでも、同じでした」
「へぇ」
「笑っているのに、目が冷たいままだったので」
「……」
「…人を見下しているように見えました」
ラビの眉が、わずかに動く。
「それ、ずいぶん言うね」
「すみません。でも……」
チカは迷わず、まっすぐ言った。
「人を、信じていないんだろうなって思ってました」
ラビの眉が、ほんのわずかに動いた。
完璧だと思っていた。
少なくとも、崩れることはないと思っていた。
人懐っこく、柔らかく、親しみやすい。 相手に警戒心を抱かせず、適度に距離を詰めるための、よく出来た笑顔。
それは長い時間をかけて磨き上げてきた、彼にとっての正解だった。
誰もがそこを見る。 そこだけを見て、勝手に安心して、勝手に好感を抱く。
――そのはずだった。
なのに、目の前の女は、その表面を一枚も信じなかった。
「目が笑っていない」 「人を信じていないんだろうと思った」
淡々と。 責めるでもなく、怯えるでもなく、 ただ見えたものを、そのまま口にした。
(……はい?)
ラビの思考が、一瞬だけ止まる。
あり得ない。
普通はそこまで見ない。 いや、見えていたとしても、言わない。 言うとしても、もっと遠慮がちに濁す。
それを、この女は何の悪意もなく、 まるで光の色でも確かめるみたいに、まっすぐ言い当てた。
(なんで分かるのさ)
胸の奥が、ひどくざわつく。
悔しい、という感情に一番近い。
けれど、それだけでは済まない。
見抜かれたことへの不快感。
仮面を剥がされたことへの苛立ち。
それなのに、怒りきれない妙な高揚。
ぐちゃぐちゃだった。
この女が特別賢いのか、 それとも、自分が運悪く“変なやつ”を引いただけなのか。
どちらにしても、これまでの相手とは決定的に違う。
笑顔に落ちない。
肩書きにも酔わない。
そのくせ、こちらを無関心に流すわけでもない。
ちゃんと見て、 見たうえで、 仮面より先に中身へ触れてくる。
(……めんどくさい)
心の中でそう吐き捨てる。
けれど同時に、 その“めんどくさい”の中に、今まで感じたことのない種類の興味が混ざっているのを、ラビはもう無視できなかった。
完璧に狂った。
自分のペースで運べるはずだったものが、 気づけば目の前の女ひとりに、あっさり乱されている。
なのに、その乱れが妙に面白い。
(……最悪)
そう思いながらも、 ラビの視線は、もう一度だけチカの顔を確かめるように追っていた。
目を引くような派手さはない。
色も薄い。
服も地味だ。
今日のために整えられた形跡はあるのに、それを自分の武器として使う気配がまるでない。
なのに、目に残る。
顔立ちはきれいだった。
悔しいくらい、きれいに整っている。
線の細い輪郭。
すっと通った鼻筋。
余計な愛嬌を乗せていない口元。
華やかさで押し切るタイプじゃない。
むしろ、少し放っておけば、すぐ人混みに紛れて消えそうな静かな顔だ。
けれど、その静けさの中にだけ、完成度が高い。
磨けば美人、なんて生ぬるいものじゃない。
最初から素材がいい。
ただ、本人がまるで理解していないだけだ。
(……もったいねぇな)
そう思った自分に、ラビは心の中で舌打ちした。
大きくもないその目は、潤んで見せようともしないくせに、光の入り方だけ綺麗だった。
媚びない。
怯えない。
でも強く出るわけでもない。
ただ、静かにこちらを見ている。
そのせいで、余計に視線が引っかかる。
愛想がないわけじゃない。
愛想の使い方を、そもそも知らないみたいな顔だ。
今まで山ほど見てきた、“自分に見られること”を前提に整えてくる女たちとはまるで違う。
見せようとしてこない。
寄ってこない。
そのくせ、ちゃんと整っている。
薄いのに、消えない。
地味なくせに、雑には見えない。
まるで、白い壁に一本だけ引かれた線みたいだった。
何でもないように見えて、気づくとそこばかり見てしまう。
(……変な女)
ラビはそう結論づけた。
美人、なんて簡単な言葉で片づけるのも癪だった。
けれど、二度見してしまう時点で、もう負けているのかもしれない。
ラビがふっと息を漏らす。
笑った、というより、思わず抜けた音に近かった。
「……あんたさ」
「はい?」
「思ったことそのまま言うんだね」
「……そのつもりじゃなかったんですけど……思ったことが、そのまま出ました。ごめんなさい」
「しかも悪気がない」
「……たぶん」
その返事に、ラビは初めて喉の奥で少しだけ笑った。
シェフのナイフが、赤身に白い脂の差した肉を、静かに切り分けていく。
目の前の鉄板の上に置かれた瞬間、じゅわっと脂が溶け、芳しい匂いが立ちのぼった。
チカは、その様子をじっと見つめていた。
「……これ、何の肉ですか?」
ラビが一瞬だけ目を瞬く。
シェフは微笑みを崩さず答えた。
「本日は米沢牛でございます」
「米沢牛……」
その響きを口の中で転がしたあと、チカの瞳が潤む。
「……ももこ」
「ん?」
「ひまわり。つばき。……あと、みるく」
ラビの箸が止まった。
「誰それ」
「もみじ、ゆきみ、あやめ…」
「マジで誰?」
「でもうちのは乳牛だから、お肉になってないよね……米沢じゃないし…」
チカは目の前で焼かれている肉を見つめたまま、小さく呟いた。
シェフがちょうど焼き上がった一切れを、彼女の前の皿にそっと置く。
つややかな表面から、まだ熱が揺れていた。
チカは箸でその一切れを摘まみ上げた。
しばらく見つめる。
その顔が悲しそうに見えて、ラビが眉を寄せた。
「……肉、嫌いだった?」
「いえ」
チカは真顔のまま、肉を見下ろす。
「……ごめんね」
「誰に謝ってんの!?」
そのまま、ぱくりと口に入れた。
次の瞬間。
チカの目が、見開かれる。
「……!」
頬がわずかに上がる。
驚きと衝撃が、そのまま顔に出た。
「美味しい……!」
ラビがふっと息を止める。
「ももこの仲間美味しい!」
「だから誰だってさ!」
「こんなに美味しいお肉、初めて食べました……」
感動で少しだけ声が上ずっている。
ラビは数秒、何も言えずに彼女を見たあと、肩の力を抜いた。
「……だから、誰……。ってもういいさ」
呆れたように言いながらも、その声には笑いが混じる。
「喜んでもらえてよかった」
チカはもう一口食べる。
今度は、さっきより大事そうに。
「……ラビさん」
「なに」
「ももこ仲間、すごく美味しいです」
ラビはとうとう苦笑を漏らした。
「ももこって知り合いの牛か?」
「いいえ、うちの乳牛です」
鉄板の上では、次の肉が静かに焼き始めている。
その音を聞きながら、チカは幸せそうに皿を見つめていた。
ラビはそんな彼女を横目に見て、グラスを口元へ運ぶ。
(……やっぱ、資料見とけば良かったさ)
チカの皿の上に焼かれたじゃがいもが置かれた。
ホクホクした匂いがふわりと広がり、チカはそれを甘い顔で見下ろした。
その横顔を、ラビは黙って見ていた。
さっきまで自分の顔を筋肉の動きで分析していた女が、じゃがいもの焼ける匂いには素直に意識を持っていかれる。
その分かりやすさが、可笑しかった。
「……チカ」
「はい」
「さっきのスケッチ、あとで見せてさ」
チカは、一瞬だけためらったあと、小さく頷いた。
「……はい。でも、まだ完成してないです」
ラビは数秒、黙った。
それから、口元だけで笑う。
「……じゃあ、できたら見せて?」
「……はい」
シェフの手元で、次のじゃがいもがひっくり返される。
黄金色の焼き目がついていた。
その光を見つめながら、チカは少しだけ肩の力を抜いた。
ラビはグラスを置き、今度は演じるためではない、どこか楽しげな目でチカを見た。
つづく、2026/04/11
ラビの腕に添えた指先から、上質なジャケットの生地越しに、彼の体温が微かに伝わってくる。
「ラビさん」
「なに」
「すみません。呼んでません。少し練習を……」
「紛らわしいな……」
慣れない響きを口の中で転がしながら、チカは一歩ずつ、ホテルのふかふかの絨毯を踏みしめた。
隣を歩くラビの歩幅は、驚くほど正確に自分の速度に合わされている。
「……あの、ラビさん」
「何さ」
「腕を掴むとき、指先にどのくらい力を込めるのが正しい形なんですか? 強く掴みすぎると服にシワが寄りますし、弱すぎると……その、迷子みたいで」
「……あんた、歩きながらまで分析すんのやめてさ。普通でいいんだって、普通で」
ラビは呆れたように前を向いたままだが、その足取りは決して急かそうとはしなかった。
知らない形を一つずつ覚えながら。
二人の影が、琥珀色の照明に照らされた廊下に長く伸びては消えていく。
やがて辿り着いたのは、ホテルの一角にひっそりと設えられた鉄板焼きの店だった。
重厚な暖簾をくぐると、そこには黒と木目を基調にした、落ち着いた空間が広がっていた。
店の中央に据えられた大きな鉄板を囲むように、磨き上げられたカウンター席が連なっている。
天井の低い照明が、淡い金色の光をカウンターに落とし、鉄板の銀色だけがそこに鋭く浮かび上がっていた。
都会の明るさを柔らかく削ぎ落としたような、静かな熱のある場所だった。
案内された席に、チカは恐る恐る腰を下ろした。
目の前には、鏡のように光る巨大な鉄板。
その向こうでは、白衣姿のシェフが無駄のない手つきで道具を整えている。
隣では、ラビがジャケットを脱ぎ、椅子の背に軽くかけていた。
シャツの袖を少しだけ捲り上げたその腕は、さっき触れていた時よりもずっと、しなやかで強そうなラインを描いている。
「……ん?俺の事見てる?」
不意に落ちてきた声に、チカははっと視線を上げた。
「腕撓骨筋が綺麗だなって思って」
ラビの眉がぴくりと動く。
「……顔じゃなくて?」
「はい」
「へぇ」
ラビは片眉を上げたまま、自分の袖口から覗く腕を軽く見下ろした。
「変わってるね、あんた」
そう言いながらも、その声はどこか機嫌がよかった。
ラビは椅子に深く腰を下ろし、目の前の鉄板を一瞥する。
「こういう店、初めて?」
「……はい」
「だろうね」
その言い方は、馬鹿にしているようでいて、嫌な響きはなかった。
むしろ、最初から分かっていたことを確認しただけ、という平坦さだった。
チカは膝の上で指先を重ねた。
カウンターは磨き込まれていて、自分の手元の輪郭まで淡く映している。
鉄板の上にはまだ何も乗っていないのに、そこだけがすでに舞台のように見えた。
「……あの」
「なに」
「ここ、すごく綺麗ですね」
ラビが少しだけ目を細める。
「うん。そうだね」
ちょうどその時、シェフが一礼し、静かな声で挨拶をした。
続いて置かれたのは、細身のグラスと、透き通った琥珀色の前菜だった。
ラビはメニューを開きもせず、シェフに向かって短く言う。
「肉はおすすめで。あと、ポテトも焼いてくれる?」
「かしこまりました」
チカの視線が、わずかに上がる。
その小さな動きを見逃さなかったのか、ラビが口元だけで笑った。
「分かりやすいな」
「……何がですか」
「ポテトが出た時だけ、目が生きる」
「……好きなので」
「知ってる」
ぽつりと落ちたその一言に、チカは少しだけ瞬きをした。
知ってる、というほど、自分たちはまだ何も知らないはずなのに。
けれどラビはそれ以上説明せず、テーブルに置かれたグラスを持ち上げた。氷の入っていない水が、照明を受けて静かに光る。
「じゃ、改めて」
その人懐っこい笑みは、やっぱり綺麗すぎた。
「お見合い、よろしく」
チカも慌ててグラスに手を伸ばす。
「……よろしくお願いします、ラビさん」
ラビはグラスを置くと、頬杖をついてチカを見る。
「で。あんたは、このお見合いどう思ってる?」
唐突だった。
チカはグラスを持ったまま固まる。
「……どう、とは」
「さっきから見てる限り、緊張はしてる。俺に興味がないわけでもない」
ラビの声は軽い。軽いのに、逃がさない。
「テレビで見た通りだったか、 それとも違ったか」
チカは少しだけ視線を落とした。
正直に言っていいのか、少し迷う。
けれど、ここで取り繕った言葉を出しても、この人にはたぶん意味がない。
「……テレビでも、同じでした」
「へぇ」
「笑っているのに、目が冷たいままだったので」
「……」
「…人を見下しているように見えました」
ラビの眉が、わずかに動く。
「それ、ずいぶん言うね」
「すみません。でも……」
チカは迷わず、まっすぐ言った。
「人を、信じていないんだろうなって思ってました」
ラビの眉が、ほんのわずかに動いた。
完璧だと思っていた。
少なくとも、崩れることはないと思っていた。
人懐っこく、柔らかく、親しみやすい。 相手に警戒心を抱かせず、適度に距離を詰めるための、よく出来た笑顔。
それは長い時間をかけて磨き上げてきた、彼にとっての正解だった。
誰もがそこを見る。 そこだけを見て、勝手に安心して、勝手に好感を抱く。
――そのはずだった。
なのに、目の前の女は、その表面を一枚も信じなかった。
「目が笑っていない」 「人を信じていないんだろうと思った」
淡々と。 責めるでもなく、怯えるでもなく、 ただ見えたものを、そのまま口にした。
(……はい?)
ラビの思考が、一瞬だけ止まる。
あり得ない。
普通はそこまで見ない。 いや、見えていたとしても、言わない。 言うとしても、もっと遠慮がちに濁す。
それを、この女は何の悪意もなく、 まるで光の色でも確かめるみたいに、まっすぐ言い当てた。
(なんで分かるのさ)
胸の奥が、ひどくざわつく。
悔しい、という感情に一番近い。
けれど、それだけでは済まない。
見抜かれたことへの不快感。
仮面を剥がされたことへの苛立ち。
それなのに、怒りきれない妙な高揚。
ぐちゃぐちゃだった。
この女が特別賢いのか、 それとも、自分が運悪く“変なやつ”を引いただけなのか。
どちらにしても、これまでの相手とは決定的に違う。
笑顔に落ちない。
肩書きにも酔わない。
そのくせ、こちらを無関心に流すわけでもない。
ちゃんと見て、 見たうえで、 仮面より先に中身へ触れてくる。
(……めんどくさい)
心の中でそう吐き捨てる。
けれど同時に、 その“めんどくさい”の中に、今まで感じたことのない種類の興味が混ざっているのを、ラビはもう無視できなかった。
完璧に狂った。
自分のペースで運べるはずだったものが、 気づけば目の前の女ひとりに、あっさり乱されている。
なのに、その乱れが妙に面白い。
(……最悪)
そう思いながらも、 ラビの視線は、もう一度だけチカの顔を確かめるように追っていた。
目を引くような派手さはない。
色も薄い。
服も地味だ。
今日のために整えられた形跡はあるのに、それを自分の武器として使う気配がまるでない。
なのに、目に残る。
顔立ちはきれいだった。
悔しいくらい、きれいに整っている。
線の細い輪郭。
すっと通った鼻筋。
余計な愛嬌を乗せていない口元。
華やかさで押し切るタイプじゃない。
むしろ、少し放っておけば、すぐ人混みに紛れて消えそうな静かな顔だ。
けれど、その静けさの中にだけ、完成度が高い。
磨けば美人、なんて生ぬるいものじゃない。
最初から素材がいい。
ただ、本人がまるで理解していないだけだ。
(……もったいねぇな)
そう思った自分に、ラビは心の中で舌打ちした。
大きくもないその目は、潤んで見せようともしないくせに、光の入り方だけ綺麗だった。
媚びない。
怯えない。
でも強く出るわけでもない。
ただ、静かにこちらを見ている。
そのせいで、余計に視線が引っかかる。
愛想がないわけじゃない。
愛想の使い方を、そもそも知らないみたいな顔だ。
今まで山ほど見てきた、“自分に見られること”を前提に整えてくる女たちとはまるで違う。
見せようとしてこない。
寄ってこない。
そのくせ、ちゃんと整っている。
薄いのに、消えない。
地味なくせに、雑には見えない。
まるで、白い壁に一本だけ引かれた線みたいだった。
何でもないように見えて、気づくとそこばかり見てしまう。
(……変な女)
ラビはそう結論づけた。
美人、なんて簡単な言葉で片づけるのも癪だった。
けれど、二度見してしまう時点で、もう負けているのかもしれない。
ラビがふっと息を漏らす。
笑った、というより、思わず抜けた音に近かった。
「……あんたさ」
「はい?」
「思ったことそのまま言うんだね」
「……そのつもりじゃなかったんですけど……思ったことが、そのまま出ました。ごめんなさい」
「しかも悪気がない」
「……たぶん」
その返事に、ラビは初めて喉の奥で少しだけ笑った。
シェフのナイフが、赤身に白い脂の差した肉を、静かに切り分けていく。
目の前の鉄板の上に置かれた瞬間、じゅわっと脂が溶け、芳しい匂いが立ちのぼった。
チカは、その様子をじっと見つめていた。
「……これ、何の肉ですか?」
ラビが一瞬だけ目を瞬く。
シェフは微笑みを崩さず答えた。
「本日は米沢牛でございます」
「米沢牛……」
その響きを口の中で転がしたあと、チカの瞳が潤む。
「……ももこ」
「ん?」
「ひまわり。つばき。……あと、みるく」
ラビの箸が止まった。
「誰それ」
「もみじ、ゆきみ、あやめ…」
「マジで誰?」
「でもうちのは乳牛だから、お肉になってないよね……米沢じゃないし…」
チカは目の前で焼かれている肉を見つめたまま、小さく呟いた。
シェフがちょうど焼き上がった一切れを、彼女の前の皿にそっと置く。
つややかな表面から、まだ熱が揺れていた。
チカは箸でその一切れを摘まみ上げた。
しばらく見つめる。
その顔が悲しそうに見えて、ラビが眉を寄せた。
「……肉、嫌いだった?」
「いえ」
チカは真顔のまま、肉を見下ろす。
「……ごめんね」
「誰に謝ってんの!?」
そのまま、ぱくりと口に入れた。
次の瞬間。
チカの目が、見開かれる。
「……!」
頬がわずかに上がる。
驚きと衝撃が、そのまま顔に出た。
「美味しい……!」
ラビがふっと息を止める。
「ももこの仲間美味しい!」
「だから誰だってさ!」
「こんなに美味しいお肉、初めて食べました……」
感動で少しだけ声が上ずっている。
ラビは数秒、何も言えずに彼女を見たあと、肩の力を抜いた。
「……だから、誰……。ってもういいさ」
呆れたように言いながらも、その声には笑いが混じる。
「喜んでもらえてよかった」
チカはもう一口食べる。
今度は、さっきより大事そうに。
「……ラビさん」
「なに」
「ももこ仲間、すごく美味しいです」
ラビはとうとう苦笑を漏らした。
「ももこって知り合いの牛か?」
「いいえ、うちの乳牛です」
鉄板の上では、次の肉が静かに焼き始めている。
その音を聞きながら、チカは幸せそうに皿を見つめていた。
ラビはそんな彼女を横目に見て、グラスを口元へ運ぶ。
(……やっぱ、資料見とけば良かったさ)
チカの皿の上に焼かれたじゃがいもが置かれた。
ホクホクした匂いがふわりと広がり、チカはそれを甘い顔で見下ろした。
その横顔を、ラビは黙って見ていた。
さっきまで自分の顔を筋肉の動きで分析していた女が、じゃがいもの焼ける匂いには素直に意識を持っていかれる。
その分かりやすさが、可笑しかった。
「……チカ」
「はい」
「さっきのスケッチ、あとで見せてさ」
チカは、一瞬だけためらったあと、小さく頷いた。
「……はい。でも、まだ完成してないです」
ラビは数秒、黙った。
それから、口元だけで笑う。
「……じゃあ、できたら見せて?」
「……はい」
シェフの手元で、次のじゃがいもがひっくり返される。
黄金色の焼き目がついていた。
その光を見つめながら、チカは少しだけ肩の力を抜いた。
ラビはグラスを置き、今度は演じるためではない、どこか楽しげな目でチカを見た。
つづく、2026/04/11