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第1章
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第5話。
ラビはノートパソコンを閉じると、乱暴にならないぎりぎりの手つきでバッグへ滑り込ませた。
革の持ち手を掴み、そのまま立ち上がる。
視線は、少し離れたソファへと向いていた。
淡いベージュのドレス。
お見合い用に整えられているはずなのに、気配が薄い。
そして、その手元では鉛筆が迷いなく走っている。
ラビはそっと歩き出した。
絨毯が足音を吸う。
だからか、相手は気づかない。
いや、気づかないどころか、完全に別の世界にいる。
斜め向かいでは、向かい合った老夫婦が静かに言葉を交わしている。鉛筆の先は、その穏やかな空気を追うように紙の上を滑っていった。
(……どんだけ集中してんのさ)
ラビは彼女の背後で足を止めた。
肩越しにスケッチブックを覗き込む。
驚くほど線が生きていた。
単に上手いんじゃない。
彼女は見ている。
細部じゃなく、気配ごと拾っている線だ。
ラビの口元が、自然と緩んだ。
人懐っこい笑み。
誰が見ても、感じがいいと思う類の笑顔。
「へぇ……いい線引くね」
不意に落ちた声に、チカの肩がびくっと跳ねた。
「……っ」
勢いよく振り向く。
その拍子に、スケッチブックを持つ手が少しだけ浮いた。
目の前。
息がかかりそうな距離に、ラビの顔がある。
テレビの中で見ていたより、ずっと整っていて、ずっと冷たい男。
けれど今、その口元には、初対面の人間を緊張させないための、人懐っこい笑みがきれいに貼りついていた。
誰が見ても親しみやすくて、優しそうで、一緒にいると楽しそうだと思うような笑顔。
でも、チカが見ると、その笑みは綺麗すぎた。
口元はやわらかいのに、目だけが少しも笑っていない。
ラビはそんなことを悟らせないようにと、ちらりとスケッチブックへ視線を落とし、またにこりと笑う。
「俺よりその人の方が気になる? 妬けちゃうな」
「……」
チカは立ち上がり、一度だけ瞬きをした。
驚いているはずなのに、悲鳴も、取り繕った笑顔も出てこない。
ただ事実を確認するみたいに、静かに答える。
「……気づきませんでした」
ラビの笑みが、ほんのわずかに深くなる。
「だろうな」
怒っているふうではない。
責めているふうでもない。
ただ、面白いものを見つけた時のような声だった。
「三十分」
ラビがそう言うと、チカの視線が少しだけ揺れた。
「俺、そこにいたんだけど」
チカはラビの座っていた窓際の席を見た。
そして、自分のスケッチブックを見る。
それからまた、ラビを見る。
「……すみません」
謝罪はした。
でも、しおらしく縮こまるわけでもない。
本当に今、事実として理解しました、という顔だった。
ラビはその反応に、内心でわずかに拍子を外された。
普通ならもっと慌てる。
言い訳をするか、媚びるように笑うか、そのどちらかだ。
けれど目の前の女は、謝って終わりにした。
それ以上でも以下でもなく。
(……変なやつ)
ラビはスケッチブックをもう一度見下ろした。
老紳士の頭頂部の光まで、丁寧に描かれている。
「これ、さっきからずっと描いてたの?」
「……はい」
「俺より夢中になる?」
「いえ。光の当たり方が面白かったので」
否定は早い。
それ以上の説明はない。
ラビは少し首を傾げた。
「はは、なるほどね」
チカはラビを見上げ、少しだけ考えるように視線を止めたあと、あっさり言った。
「……気づいたら、こうなっていました」
その返答に、ラビは一瞬だけ黙った。
それから、ふっと息を漏らすように笑う。
今度の笑いは、さっきの完璧な営業用のものより、ほんの少しだけ素に近かった。
「へぇ」
短く落ちる声。
その目が、ようやく少しだけチカ個人を見た。
「……その集中力さ、俺には向かない?」
ラビは少しだけ声を潜め、至近距離から覗き込むように言った。
女性を落とす時の、彼にとっての必勝の間だ。相手の懐に踏み込み、その反応を楽しむ。
チカの喉が、こくりと鳴った。
心臓がうるさい。相手はあの、一族の誰もが憧れる次期ブックマンなのだ。
テレビの中では遠かった人が、今は手を伸ばせば触れられそうな場所にいる。それだけで十分、心臓に悪かった。
(……どうしよう。何か、言わなきゃいけないのかな)
ラビの問いかけを、チカはチカの純粋すぎるフィルターを通して、真剣に受け止めた。
「じっとしてくれるなら……描きます」
「……はい?」
ラビの完璧な笑みが、一瞬で凍りついた。
数秒間、沈黙がラウンジの隅に落ちる。
「……君さ、今、俺がなんて言ったか分かってる?」
「はい。……私に、似顔絵を描いてほしいんですよね?」
チカは、少しだけ視線を逸らしながらも、真っ直ぐに答えた。
「次期ブックマン様が、じっとしていてくださるなら、描けると思います」
「……」
ラビは、人生で初めて、会話のラリーが明後日の方向へ飛んでいく感覚を味わった。
普通、今の流れなら「すみません、緊張して……」と赤らめるか、「これからはあなただけを見ています」と甘い返事をするものだ。
それが、どうだ。
チカは、ラビという存在を描く対象(モチーフ)としてしかカウントしていない。
(……そこ拾う!? ていうか、俺を黙って座らせるつもりかよ)
ラビは、こみ上げてきた乾いた笑いを抑えきれなかった。
計算が狂った。完璧に狂った。
けれど、その空振りが、今までどんな美女と向き合っても感じたことのない、妙な高揚感を引き連れてくる。
「……へぇ」
ラビは片眉を上げ、チカをもう一度、今度はしっかりと正面から見た。
「……案外、図々しいね、あんた。俺に、モデルになれって?」
「……あ、違ったんですか!?」
チカは、そこでようやく自分がとんでもないことを言ったのかもしれないと気づいた。
「……すみません。私。勘違いしてしまったようで…」
「いいよ。面白いから」
ラビはそう言って、チカの正面のソファに、流れるような動作で腰を下ろした。
「……ただし、俺はその人たちみたいにじっとしてるほど暇じゃないんだけど」
そう言うラビの目は、やはり笑っていない。
けれど、最初に感じた冷たさとは違う、鋭い観察の色が混じっていた。
「……テレビと、違いますね」
チカがぽつりと呟いた。
ラビの口角が、少しだけ挑発的に上がる。
「どっちが? 見た目? それとも性格?」
「……どっちも。……目が、全然笑ってないから」
ラビの指先が、ぴくりと止まった。
今日二度目の、決定的な計算違いだった。
「……まあ、せっかくモデルの依頼も受けたことだし。レストランの予約まで、少しここで話をしようか」
ラビは優雅に足を組み、ウェイターにスパークリングウォーターをくれと短く合図を送った。
チカは、正面に座る生のラビから放たれる圧倒的な存在感に、再び背筋を正す。
お母さんの「絶対に失礼のないように」という言葉が脳内でアラートを鳴らしていた。
「……はい。よろしくお願いします」
「そんなに固くならなくていいよ。……で、あんたはさっき俺の目が笑ってないって言ったけど」
ラビは身を乗り出し、わざと意地悪く、けれど極上の微笑みを浮かべて彼女の顔を覗き込んだ。
「今はどう? これでも『冷たい』?」
至近距離。
普通なら息を呑んで目を逸らすか、顔を赤らめる場面だ。
ラビは彼女がどう「落ちる」かを冷ややかに観察しようとしていた。
けれど、チカは逃げなかった。
むしろ、食い入るようにラビの顔を見つめ返し、真剣な面持ちで口を開く。
「……あ。……今、まぶたの筋肉が少しだけ、無理に上がりました」
「ん?」
「口角は綺麗に上がってるんですけど、眼輪筋が動いていないというか……。たぶん、その角度で固めるのが、一番『人懐っこく見える』って知ってるからこその、形なんだと思います」
チカは、まるで解剖図でも見ているかのように淡々と分析を続けた。
「……すごいですね。職人技みたいです」
「…………」
ラビは、今日何度目か分からない沈黙に陥った。
(職人技…か。褒められてるんだろうけど嬉しくねぇ)
人生の3分の2以上を演じることに費やし、誰からも完璧な王子様だと称賛されてきた自分の仮面を、この女は筋肉の動きとして評価したのだ。
(……こいつ、本当に何なの?)
「……あんたさ、お見合いに来たんだよね? 相手を解剖しに来たわけじゃないよね?」
「すみません! ……つい、構造が気になってしまって」
チカは慌てて頭を下げた。お母さんのスパルタメイクが台無しになるほど、彼女の顔には申し訳なさと、隠しきれない好奇心が入り混じっている。
「……でも、本当にかっこいいと思ってます。……光の当たり方で、青く見える影とか」
「……ふーん」
ラビは窓の外、暮れなずむ都会の空を見やった。
「かっこいい」と言われ慣れているはずなのに、その後に続く「影の色」という余計な情報のせいで、全くお世辞に聞こえない。
「……お腹、空いた。……レストラン、行こうか。ここよりは光もマシなはずだし」
ラビは立ち上がり、彼女を促した。
自分のペースが乱されている。
それを認めるのは癪だが、この想定外の女をもっと近くで観察したいと思っている自分に、彼は気づき始めていた。
「……あ、はい。……ポテト、ありますかね」
「じゃがいも ……好きなの?あると思うよ」
「……やった」
チカの場違いな呟きに、ラビは今度こそ、仮面ではない本物の苦笑を漏らした。
いつもなら、ここでスマートに腕を差し出し、流れるようにエスコートを開始するところだ。
けれど、これまでの時間で散々ペースを乱されたラビは、少しだけ意地悪な好奇心が湧いた。
彼はわざと腕を貸さずに、片眉を上げて振り返る。
「……ねえ。あんた、そんな綺麗な格好してるけど。……やっぱりエスコート、されたい?」
「エスコートして欲しい」とねだる姿が見たいのか、それとも「必要ありません」と強がる姿が見たいのか。自分でも分からないまま、ラビは試すような笑みを向けた。
「……えっと……」
チカは、その場で二、三秒ほど、真剣に考え込んだ。
視線が泳ぎ、何かを必死に思い出そうとしている。
そして、迷いながらも、縋るような目でラビを見上げた。
「……普通は、どうするものなんですか?」
「……え?」
「すみません、私……こういう場所の作法がよく分からなくて。母からは『失礼のないように』とだけ言われてきたんですけど……。こういう時は、私が『されたい』と言えばいいものなんですか? それとも、黙って待っているのが正しいんですか?」
チカは、本気で正解を知りたがっていた。
都会の駆け引きを知る女性たちの「されたい」という甘えでも、自立した女性の「結構です」という拒絶でもない。
ただ、知らないから、教えてほしい。
そのあまりに真っ直ぐで無防備な瞳に、ラビの脳内の意地悪回路がショートした。
「…………」
ラビは、毒気を抜かれたように長い溜息を吐いた。
そのまま一歩戻って、チカのすぐ横に立つ。
「……訊くかね、普通」
「……変、でしたか?」
「変だよ。……でも、教えといてあげる。こういう時は、黙って俺の腕を掴めばいいの。それがここでは正しい形」
ラビは、今度は意地悪な表情を消して、ぶっきらぼうに、けれど確かな動作で右腕を差し出した。
「あ……はい。ありがとうございます」
チカは、どこかホッとしたような顔で、そっとラビの腕に指先を添えた。
「……掴む。……これで、合っていますか?」
「……合ってるよ。完璧」
ラビは、自分の袖を掴むその指先の、おどおどとした頼りなさを感じながら歩き出した。
迷子を導いているような、けれど不思議と悪くない重みが腕に伝わる。
「……さ、じゃがいも食べに行くよ。あんたが粗相しないように、俺がちゃんと見ててあげるからさ」
「……よろしくお願いします、次期ブックマン様」
「……その呼び方、ここではやめて。……ラビでいいから」
「はい。ラビ様」
「“ 様”要らない」
「……えっ。呼び捨て、ですか?」
チカは目を白黒させた。神聖なブックマンを呼び捨てるなんて、彼女の倫理観が許さない。
「無理です。せめて……ラビさん、では駄目でしょうか」
「……ま、様よりはマシか。好きにしなよ」
「はい。ラビさん」
「俺はチカって呼ぶから」
「はい」
「……ラビさん」
二人の足音が、ふかふかの絨毯に消えていく。
知らない形を一つずつ覚えながら、二人はゆっくり歩き出した。
つづく、2026/04/10
ラビはノートパソコンを閉じると、乱暴にならないぎりぎりの手つきでバッグへ滑り込ませた。
革の持ち手を掴み、そのまま立ち上がる。
視線は、少し離れたソファへと向いていた。
淡いベージュのドレス。
お見合い用に整えられているはずなのに、気配が薄い。
そして、その手元では鉛筆が迷いなく走っている。
ラビはそっと歩き出した。
絨毯が足音を吸う。
だからか、相手は気づかない。
いや、気づかないどころか、完全に別の世界にいる。
斜め向かいでは、向かい合った老夫婦が静かに言葉を交わしている。鉛筆の先は、その穏やかな空気を追うように紙の上を滑っていった。
(……どんだけ集中してんのさ)
ラビは彼女の背後で足を止めた。
肩越しにスケッチブックを覗き込む。
驚くほど線が生きていた。
単に上手いんじゃない。
彼女は見ている。
細部じゃなく、気配ごと拾っている線だ。
ラビの口元が、自然と緩んだ。
人懐っこい笑み。
誰が見ても、感じがいいと思う類の笑顔。
「へぇ……いい線引くね」
不意に落ちた声に、チカの肩がびくっと跳ねた。
「……っ」
勢いよく振り向く。
その拍子に、スケッチブックを持つ手が少しだけ浮いた。
目の前。
息がかかりそうな距離に、ラビの顔がある。
テレビの中で見ていたより、ずっと整っていて、ずっと冷たい男。
けれど今、その口元には、初対面の人間を緊張させないための、人懐っこい笑みがきれいに貼りついていた。
誰が見ても親しみやすくて、優しそうで、一緒にいると楽しそうだと思うような笑顔。
でも、チカが見ると、その笑みは綺麗すぎた。
口元はやわらかいのに、目だけが少しも笑っていない。
ラビはそんなことを悟らせないようにと、ちらりとスケッチブックへ視線を落とし、またにこりと笑う。
「俺よりその人の方が気になる? 妬けちゃうな」
「……」
チカは立ち上がり、一度だけ瞬きをした。
驚いているはずなのに、悲鳴も、取り繕った笑顔も出てこない。
ただ事実を確認するみたいに、静かに答える。
「……気づきませんでした」
ラビの笑みが、ほんのわずかに深くなる。
「だろうな」
怒っているふうではない。
責めているふうでもない。
ただ、面白いものを見つけた時のような声だった。
「三十分」
ラビがそう言うと、チカの視線が少しだけ揺れた。
「俺、そこにいたんだけど」
チカはラビの座っていた窓際の席を見た。
そして、自分のスケッチブックを見る。
それからまた、ラビを見る。
「……すみません」
謝罪はした。
でも、しおらしく縮こまるわけでもない。
本当に今、事実として理解しました、という顔だった。
ラビはその反応に、内心でわずかに拍子を外された。
普通ならもっと慌てる。
言い訳をするか、媚びるように笑うか、そのどちらかだ。
けれど目の前の女は、謝って終わりにした。
それ以上でも以下でもなく。
(……変なやつ)
ラビはスケッチブックをもう一度見下ろした。
老紳士の頭頂部の光まで、丁寧に描かれている。
「これ、さっきからずっと描いてたの?」
「……はい」
「俺より夢中になる?」
「いえ。光の当たり方が面白かったので」
否定は早い。
それ以上の説明はない。
ラビは少し首を傾げた。
「はは、なるほどね」
チカはラビを見上げ、少しだけ考えるように視線を止めたあと、あっさり言った。
「……気づいたら、こうなっていました」
その返答に、ラビは一瞬だけ黙った。
それから、ふっと息を漏らすように笑う。
今度の笑いは、さっきの完璧な営業用のものより、ほんの少しだけ素に近かった。
「へぇ」
短く落ちる声。
その目が、ようやく少しだけチカ個人を見た。
「……その集中力さ、俺には向かない?」
ラビは少しだけ声を潜め、至近距離から覗き込むように言った。
女性を落とす時の、彼にとっての必勝の間だ。相手の懐に踏み込み、その反応を楽しむ。
チカの喉が、こくりと鳴った。
心臓がうるさい。相手はあの、一族の誰もが憧れる次期ブックマンなのだ。
テレビの中では遠かった人が、今は手を伸ばせば触れられそうな場所にいる。それだけで十分、心臓に悪かった。
(……どうしよう。何か、言わなきゃいけないのかな)
ラビの問いかけを、チカはチカの純粋すぎるフィルターを通して、真剣に受け止めた。
「じっとしてくれるなら……描きます」
「……はい?」
ラビの完璧な笑みが、一瞬で凍りついた。
数秒間、沈黙がラウンジの隅に落ちる。
「……君さ、今、俺がなんて言ったか分かってる?」
「はい。……私に、似顔絵を描いてほしいんですよね?」
チカは、少しだけ視線を逸らしながらも、真っ直ぐに答えた。
「次期ブックマン様が、じっとしていてくださるなら、描けると思います」
「……」
ラビは、人生で初めて、会話のラリーが明後日の方向へ飛んでいく感覚を味わった。
普通、今の流れなら「すみません、緊張して……」と赤らめるか、「これからはあなただけを見ています」と甘い返事をするものだ。
それが、どうだ。
チカは、ラビという存在を描く対象(モチーフ)としてしかカウントしていない。
(……そこ拾う!? ていうか、俺を黙って座らせるつもりかよ)
ラビは、こみ上げてきた乾いた笑いを抑えきれなかった。
計算が狂った。完璧に狂った。
けれど、その空振りが、今までどんな美女と向き合っても感じたことのない、妙な高揚感を引き連れてくる。
「……へぇ」
ラビは片眉を上げ、チカをもう一度、今度はしっかりと正面から見た。
「……案外、図々しいね、あんた。俺に、モデルになれって?」
「……あ、違ったんですか!?」
チカは、そこでようやく自分がとんでもないことを言ったのかもしれないと気づいた。
「……すみません。私。勘違いしてしまったようで…」
「いいよ。面白いから」
ラビはそう言って、チカの正面のソファに、流れるような動作で腰を下ろした。
「……ただし、俺はその人たちみたいにじっとしてるほど暇じゃないんだけど」
そう言うラビの目は、やはり笑っていない。
けれど、最初に感じた冷たさとは違う、鋭い観察の色が混じっていた。
「……テレビと、違いますね」
チカがぽつりと呟いた。
ラビの口角が、少しだけ挑発的に上がる。
「どっちが? 見た目? それとも性格?」
「……どっちも。……目が、全然笑ってないから」
ラビの指先が、ぴくりと止まった。
今日二度目の、決定的な計算違いだった。
「……まあ、せっかくモデルの依頼も受けたことだし。レストランの予約まで、少しここで話をしようか」
ラビは優雅に足を組み、ウェイターにスパークリングウォーターをくれと短く合図を送った。
チカは、正面に座る生のラビから放たれる圧倒的な存在感に、再び背筋を正す。
お母さんの「絶対に失礼のないように」という言葉が脳内でアラートを鳴らしていた。
「……はい。よろしくお願いします」
「そんなに固くならなくていいよ。……で、あんたはさっき俺の目が笑ってないって言ったけど」
ラビは身を乗り出し、わざと意地悪く、けれど極上の微笑みを浮かべて彼女の顔を覗き込んだ。
「今はどう? これでも『冷たい』?」
至近距離。
普通なら息を呑んで目を逸らすか、顔を赤らめる場面だ。
ラビは彼女がどう「落ちる」かを冷ややかに観察しようとしていた。
けれど、チカは逃げなかった。
むしろ、食い入るようにラビの顔を見つめ返し、真剣な面持ちで口を開く。
「……あ。……今、まぶたの筋肉が少しだけ、無理に上がりました」
「ん?」
「口角は綺麗に上がってるんですけど、眼輪筋が動いていないというか……。たぶん、その角度で固めるのが、一番『人懐っこく見える』って知ってるからこその、形なんだと思います」
チカは、まるで解剖図でも見ているかのように淡々と分析を続けた。
「……すごいですね。職人技みたいです」
「…………」
ラビは、今日何度目か分からない沈黙に陥った。
(職人技…か。褒められてるんだろうけど嬉しくねぇ)
人生の3分の2以上を演じることに費やし、誰からも完璧な王子様だと称賛されてきた自分の仮面を、この女は筋肉の動きとして評価したのだ。
(……こいつ、本当に何なの?)
「……あんたさ、お見合いに来たんだよね? 相手を解剖しに来たわけじゃないよね?」
「すみません! ……つい、構造が気になってしまって」
チカは慌てて頭を下げた。お母さんのスパルタメイクが台無しになるほど、彼女の顔には申し訳なさと、隠しきれない好奇心が入り混じっている。
「……でも、本当にかっこいいと思ってます。……光の当たり方で、青く見える影とか」
「……ふーん」
ラビは窓の外、暮れなずむ都会の空を見やった。
「かっこいい」と言われ慣れているはずなのに、その後に続く「影の色」という余計な情報のせいで、全くお世辞に聞こえない。
「……お腹、空いた。……レストラン、行こうか。ここよりは光もマシなはずだし」
ラビは立ち上がり、彼女を促した。
自分のペースが乱されている。
それを認めるのは癪だが、この想定外の女をもっと近くで観察したいと思っている自分に、彼は気づき始めていた。
「……あ、はい。……ポテト、ありますかね」
「じゃがいも ……好きなの?あると思うよ」
「……やった」
チカの場違いな呟きに、ラビは今度こそ、仮面ではない本物の苦笑を漏らした。
いつもなら、ここでスマートに腕を差し出し、流れるようにエスコートを開始するところだ。
けれど、これまでの時間で散々ペースを乱されたラビは、少しだけ意地悪な好奇心が湧いた。
彼はわざと腕を貸さずに、片眉を上げて振り返る。
「……ねえ。あんた、そんな綺麗な格好してるけど。……やっぱりエスコート、されたい?」
「エスコートして欲しい」とねだる姿が見たいのか、それとも「必要ありません」と強がる姿が見たいのか。自分でも分からないまま、ラビは試すような笑みを向けた。
「……えっと……」
チカは、その場で二、三秒ほど、真剣に考え込んだ。
視線が泳ぎ、何かを必死に思い出そうとしている。
そして、迷いながらも、縋るような目でラビを見上げた。
「……普通は、どうするものなんですか?」
「……え?」
「すみません、私……こういう場所の作法がよく分からなくて。母からは『失礼のないように』とだけ言われてきたんですけど……。こういう時は、私が『されたい』と言えばいいものなんですか? それとも、黙って待っているのが正しいんですか?」
チカは、本気で正解を知りたがっていた。
都会の駆け引きを知る女性たちの「されたい」という甘えでも、自立した女性の「結構です」という拒絶でもない。
ただ、知らないから、教えてほしい。
そのあまりに真っ直ぐで無防備な瞳に、ラビの脳内の意地悪回路がショートした。
「…………」
ラビは、毒気を抜かれたように長い溜息を吐いた。
そのまま一歩戻って、チカのすぐ横に立つ。
「……訊くかね、普通」
「……変、でしたか?」
「変だよ。……でも、教えといてあげる。こういう時は、黙って俺の腕を掴めばいいの。それがここでは正しい形」
ラビは、今度は意地悪な表情を消して、ぶっきらぼうに、けれど確かな動作で右腕を差し出した。
「あ……はい。ありがとうございます」
チカは、どこかホッとしたような顔で、そっとラビの腕に指先を添えた。
「……掴む。……これで、合っていますか?」
「……合ってるよ。完璧」
ラビは、自分の袖を掴むその指先の、おどおどとした頼りなさを感じながら歩き出した。
迷子を導いているような、けれど不思議と悪くない重みが腕に伝わる。
「……さ、じゃがいも食べに行くよ。あんたが粗相しないように、俺がちゃんと見ててあげるからさ」
「……よろしくお願いします、次期ブックマン様」
「……その呼び方、ここではやめて。……ラビでいいから」
「はい。ラビ様」
「“ 様”要らない」
「……えっ。呼び捨て、ですか?」
チカは目を白黒させた。神聖なブックマンを呼び捨てるなんて、彼女の倫理観が許さない。
「無理です。せめて……ラビさん、では駄目でしょうか」
「……ま、様よりはマシか。好きにしなよ」
「はい。ラビさん」
「俺はチカって呼ぶから」
「はい」
「……ラビさん」
二人の足音が、ふかふかの絨毯に消えていく。
知らない形を一つずつ覚えながら、二人はゆっくり歩き出した。
つづく、2026/04/10