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第1章
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第4話。
お見合い当日。
「……よし。できた」
チカは、部屋の鏡台で満足げに頷いた。
目の前の鏡には、YouTubeの清楚メイクを独自の色彩理論で解釈し直した、圧倒的な存在感の肖像画が完成している。
影は深く、光は鋭い。近くで見れば見るほど、舞台俳優だ。
「色がちゃんと乗った。これでいいはず」
あとは服を着替えるだけ。
まだ時間はある。少し休もう。
そう思ってベッドに仰向けになった瞬間、スマホが狂ったように震えだした。
画面には【母・ビデオ通話】の文字。
(………)
逃げ場はない。チカは諦めて、震える指で通話ボタンを押した。
『チカ。調子はどう?…って、何よその顔はぁーーー!!』
画面が開いたコンマ一秒後、母の絶叫がホテルの部屋に響き渡った。
「え……ちゃんとYouTube見て、三層塗りしたけど」
『三層!? 油絵じゃないのよ!? あんた、服を買った日にプロの方からあんなに丁寧に教わったでしょうが! なんでそうなるのよ!』
お母さんは画面越しに、今にもチカの襟首を掴みそうな勢いだ。
『それじゃお見合いじゃなくてタカラヅカ歌劇団よ! 落としなさい! 今すぐ全部落としてやり直し!!』
「……え、せっかく決まったのに」
『いいから早く!!』
そこから、地獄の遠隔スパルタ・メイク塾が始まった。
母は画面を食い入るように見つめ、一筆ごとに罵声……もとい、的確な指示を飛ばしてくる。
『違う! そこはボカすの! 境界線を描かない!』
「……難しい」
『筆じゃなくて指を使いなさい! 指よ! 画家のこだわりは今だけ捨てて!』
「……はい」
『アイラインを跳ね上げない! 殺し屋みたいな目になってるわよ!』
チカは、恐ろしい「実母」という名のプロデューサーに追い詰められながら、必死に顔を修正していく。
スマホを鏡に立てかけ、母の『 もっと優しく!』『 そこは引き算!』という叫びを浴び続けること一時間。
ようやく、鏡の中に現代の日本人女性(お見合い仕様)が姿を現した。
『……ふぅ。……まあ、及第点ね』
画面の向こうで、チカの母はさっきまでの勢いが嘘のように、魂が抜けたような顔をしていた。
髪は振り乱れ、息も絶え絶えだ。
「……お母さん、大丈夫?」
『……ええ。もう、一ヶ月分くらいのエネルギーを使ったわ……。お母さん、これから買い物に行かなきゃいけないから、切るわね……』
母は震える手でカメラを調整しながら、最後に小さく呟いた。
『……じゃあ、頑張って。……絶対に新しい下着を身につけて行くのよ…』
ブツッ、と通話が切れる。
静まり返ったホテルの部屋で、チカは整えられた自分の顔をじっと見つめた。
身体はエステで、顔は母のスパルタで完璧。
けれど、心だけがひどく削られたような気がした。
「……あ、時間…」
チカは重い腰を上げ、身支度を整えると待ち合わせのラウンジへと向かった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ムーンホテル最上階、スカイラウンジ。
厚手の絨毯が足音を完全に吸い込み、微かに漂うコーヒーの香りと、静かなクラシックの旋律が空間を支配している。
チカは、磨き上げられた入り口で一度足を止め、小動物のように周囲を慎重に見渡した。
(……次期ブックマン様は……、いない)
テレビで見たあの「月」のような男の姿はない。
「お好きな所へどうぞ」と案内されたソファは、深く腰掛けると身体が沈み込むほど柔らかかった。
「えっと…ホットの紅茶をください」
窓の外にはビル群が、まるでジオラマのように眼下に広がっている。
(……すごい。空の中に浮いてるみたい)
緊張で心臓が喉の奥まで跳ね上がっている。
けれど、それ以上に目が興奮していた。
高い天井に施された幾何学的な装飾、等間隔に配置された琥珀色の照明。
自分のようなモブが紛れ込んでいい場所ではないと分かっていても、その造形美には抗えなかった。
ふと手元の腕時計に目を落とす。約束の十分前。
じっとしていると、母の小言や、これから会う相手への不安が、黒い絵の具のようにじわりと広がってきそうだった。
チカは心を落ち着かせようと、手元の小さなバッグに手を伸ばす。
取り出したのは、B6サイズのスケッチブックと、一本の鉛筆。
パラパラとページを捲る。
美しいエステ後の肌も、母が必死に整えたメイクも、今の彼女には自分を感じさせるものではなかった。
けれど、指先に触れる紙の質感だけは、紛れもなく自分の輪郭を思い出させてくれる。
(……時間つぶしぐらい、いいよね?)
余白のページを見つけると、彼女の意識は、お見合いという現実からするりと観察の領域へ滑り落ちた。
鉛筆の先が、迷いなく紙の上を走る。
ターゲットは、斜め向かいの席に座る老紳士。
大きく広げられた新聞。
その隙間から時折覗く、よく磨かれたハゲ頭が、ラウンジの照明を反射して鈍く光っている。
老紳士が、ゆっくりとした動作でカップを傾け、コーヒーを啜る。
その喉仏の動き、ジャケットの肩に寄る細かなシワ、そして眼鏡の奥にある、文字を追う真剣な眼差し。
シュッ、シュシュッ。
鉛筆が紙の上を滑る乾いた音だけが、チカの耳に届く。
キャンバスではなくスケッチブックの中に、老人の人生の断片が形作られていく。
都会のスピードに合わず、肩をぶつけられて立ち尽くしていた女は、もうそこにはいない。
彼女は今、この豪華なラウンジを、一つの巨大なモチーフとして幻想の世界に居た。
それは、ラビがそのラウンジに到着したことさえも気付かない世界だった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
予定時刻の数分前。
ラビはムーンホテルのラウンジに足を踏み入れた。
いつもなら、この場に現れた瞬間に、それらしいと分かる女性の視線を感じるのだが、今回はそれが無かった。
(……ま、適当に座ってれば向こうから来るだろ)
周囲を一度も見渡すことなく、ラビは窓際の、街を一望できる特等席へと大股で歩いた。
座るなり、彼は重厚なバッグからノートパソコンを取り出す。
お見合い相手を待つ時間すら、彼にとっては削り出すべき資産でしかない。
カチャカチャと、静かな空間にタイピング音だけが刻まれる。
最新の市場動向、グループ企業の決算データ、整理すべきタスク。
窓の外に広がる摩天楼を見下ろしながら、彼の意識は数字の海へとダイブした。
時間は、平等に、かつ無情に過ぎ去る。
ラビの脳内では膨大なデータが処理され、チカの方では、2枚目に取り掛かっていた。今度は先程の老紳士とその夫人の談笑の風景。
ラビとチカの間には、完璧な集中の壁がそびえ立っていた。
ラビは仕事に。チカはハゲ頭夫妻のスケッチに。
……気づけば、三十分が経過していた。
「……よし。この案件はこれでいい」
ふと、区切りがついたラビが顔を上げた。
首の骨を鳴らし、ようやく現実へと意識を戻す。
当然、目の前には自分に目を輝かせ、退屈を隠しながら微笑む女性がいるはずだった。
「……あれ?」
キョトンとした声が、喉から漏れる。
目の前に広がるのは、自分が座った時と変わらない、静かなラウンジの風景。
ウェイターが音もなく歩き、遠くで食器が触れ合う音がするだけだ。
(……俺、すっぽかされた?)
その事実に辿り着いた瞬間、ラビは全身の力が抜けるのを感じた。
背もたれに深く体重を預け、文字通り天井を仰ぐ。
(……もう、マジで泣きてぇ)
心底情けない呟きが漏れた。
自分は一族の、ひいては世間の最高傑作のはずだ。天儀院の連中は、お見合いには毎度、相性のいい娘を選んでいると言っていた。
(……本当に相性いいのかよ。それならとっくに結婚してるっつーの)
今回の相手は、自分を待たせるどころか、約束の場所に現れもしない。
人生で最も無駄な三十分を過ごしてしまった。
その屈辱と虚無感が、じわじわと胸を焼く。
「……一応、確認するか」
ラビはノートパソコンを荒っぽく閉じ、立ち上がった。
ラウンジ全体を見渡す。
視界には、一人で座っている女性が数人。
窓際でぼんやり外を見ている派手な女。
入り口付近でスマホをいじっているビジネスウーマン風の女。
そして……少し離れたソファで、何やら必死に手を動かしている、妙に姿勢の良い女。
(……ん? どれだ?)
ここで、ラビは初めて自分の最大の過ちに気づく。
「……最悪さ」
リンクが差し出した資料を見向きもしなかった自分。
「顔なんて知る必要ない」と吐き捨てた数時間前の自分を、彼は今、全力で呪っていた。
目の前の女性たちの誰が「鈴木チカ」なのか。
それを確かめる術を、彼は自らの傲慢さで捨て去っていたのだ。
ラビはラウンジの入り口付近まで戻り、壁に寄りかかって鋭い視線を巡らせた。
いつもの仕事と同じだ。手元にデータ(顔写真)がないなら、現状のパラメーターから最適解を導き出すまで。
(落ち着け。ターゲットは「由緒正しい一族」が選んだ、俺の婚約者候補だ。なら、その立ち振る舞いには必ず『それっぽさ』が出るはずだ)
彼は、ラウンジに点在する単独の女性を一人ずつ、脳内のフィルターにかけていく。
まず目に飛び込んできたのは、窓際の特等席でブランドバッグをテーブルに鎮座させている女性だ。
完璧に巻かれた髪、トレンドを完璧に抑えた勝負服、そして時折、鏡を取り出しては入念にメイクをチェックしている。
(……一番可能性が高いな。俺との対面に備えて、外側を完璧に武装してきた『欲張りな野心家』タイプだ。お見合いという儀式に対しての誠実さは感じる。……でも、三十分も過ぎているのに、あんなに余裕の表情でいられるか?)
彼女は、誰かを待っているというより、自分自身が展示品であるかのような余裕を漂わせていた。保留。
次に、入り口近くで眉間に皺を寄せながらスマホを叩いている女性。
仕立ての良いジャケットに、知的な眼鏡。
(……次期ブックマンである俺にふさわしい、知的なパートナーとして選ばれたのか? もし彼女なら、俺が仕事に没頭していたように、彼女もまた時間を無駄にせず仕事をこなしているはずだ。……いや、でもそれなら俺に気づいて声をかけてくるはずだ。お互いに『無関心』で三十分経つなんて、確率論的にあり得ない)保留。
最後に、視線の端に引っかかったのは、少し離れたソファで何かに取り憑かれたように手を動かしている女性。
淡いベージュの、地味とも清潔とも取れるドレス。
整えられたその姿は、確かにお見合いらしい清楚さを纏っている。
だが、決定的な違和感があった。
彼女は、ラビの方を見ない。
それどころか、時折、斜め向かいのハゲた老紳士を獲物を狙う鷹のような鋭い眼差しで睨みつけ、直後、手元の何かに凄まじい勢いで描線を叩き込んでいる。
(……あり得ないな。あの狂気すら感じる集中力。お見合いという名の政治的交渉の場で、あんなに自分だけの世界に閉じこもるヤツがいるわけがない。何より、俺という存在が同じ空間にいて、一度たりとも視線を送ってこないなんて、物理法則が壊れてるレベルだ)
ラビの分析チャートにおいて、チカは真っ先に除外された。
彼女はきっと、このホテルで開催されている美術展の帰りか、あるいは都会の空気に耐えかねて自分の世界に逃げ込んでいる、ただの風変わりな旅人だ。
「……くそ。もういい」
三分の推理は、結局、何も導き出さなかった。
ラビは震える手でスマホを取り出し、リンクにメッセージを打った。
『今すぐ、鈴木チカの顔写真を送れ。……いや、違う。俺が悪かった。データを無視した罰だ。頼む、秒で送れ』
既読は一瞬でついた。
そして送られてきた一枚の画像。
そこには、少しぎこちないけれど、透き通るような瞳をした“ 鈴木チカ”の姿があった。
ラビは画像と、目の前のハゲ頭をスケッチしている不審な美女を交互に見比べた。
「……嘘、だろ」
彼の持つ世界最高峰の演算能力が、一つの結論を弾き出した。
自分が最も「お見合いらしくない」と切り捨てた相手こそが、自分を無視し続けていた本人だという、あまりにも揶揄な真実を。
つづく、2026/04/09
お見合い当日。
「……よし。できた」
チカは、部屋の鏡台で満足げに頷いた。
目の前の鏡には、YouTubeの清楚メイクを独自の色彩理論で解釈し直した、圧倒的な存在感の肖像画が完成している。
影は深く、光は鋭い。近くで見れば見るほど、舞台俳優だ。
「色がちゃんと乗った。これでいいはず」
あとは服を着替えるだけ。
まだ時間はある。少し休もう。
そう思ってベッドに仰向けになった瞬間、スマホが狂ったように震えだした。
画面には【母・ビデオ通話】の文字。
(………)
逃げ場はない。チカは諦めて、震える指で通話ボタンを押した。
『チカ。調子はどう?…って、何よその顔はぁーーー!!』
画面が開いたコンマ一秒後、母の絶叫がホテルの部屋に響き渡った。
「え……ちゃんとYouTube見て、三層塗りしたけど」
『三層!? 油絵じゃないのよ!? あんた、服を買った日にプロの方からあんなに丁寧に教わったでしょうが! なんでそうなるのよ!』
お母さんは画面越しに、今にもチカの襟首を掴みそうな勢いだ。
『それじゃお見合いじゃなくてタカラヅカ歌劇団よ! 落としなさい! 今すぐ全部落としてやり直し!!』
「……え、せっかく決まったのに」
『いいから早く!!』
そこから、地獄の遠隔スパルタ・メイク塾が始まった。
母は画面を食い入るように見つめ、一筆ごとに罵声……もとい、的確な指示を飛ばしてくる。
『違う! そこはボカすの! 境界線を描かない!』
「……難しい」
『筆じゃなくて指を使いなさい! 指よ! 画家のこだわりは今だけ捨てて!』
「……はい」
『アイラインを跳ね上げない! 殺し屋みたいな目になってるわよ!』
チカは、恐ろしい「実母」という名のプロデューサーに追い詰められながら、必死に顔を修正していく。
スマホを鏡に立てかけ、母の『 もっと優しく!』『 そこは引き算!』という叫びを浴び続けること一時間。
ようやく、鏡の中に現代の日本人女性(お見合い仕様)が姿を現した。
『……ふぅ。……まあ、及第点ね』
画面の向こうで、チカの母はさっきまでの勢いが嘘のように、魂が抜けたような顔をしていた。
髪は振り乱れ、息も絶え絶えだ。
「……お母さん、大丈夫?」
『……ええ。もう、一ヶ月分くらいのエネルギーを使ったわ……。お母さん、これから買い物に行かなきゃいけないから、切るわね……』
母は震える手でカメラを調整しながら、最後に小さく呟いた。
『……じゃあ、頑張って。……絶対に新しい下着を身につけて行くのよ…』
ブツッ、と通話が切れる。
静まり返ったホテルの部屋で、チカは整えられた自分の顔をじっと見つめた。
身体はエステで、顔は母のスパルタで完璧。
けれど、心だけがひどく削られたような気がした。
「……あ、時間…」
チカは重い腰を上げ、身支度を整えると待ち合わせのラウンジへと向かった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ムーンホテル最上階、スカイラウンジ。
厚手の絨毯が足音を完全に吸い込み、微かに漂うコーヒーの香りと、静かなクラシックの旋律が空間を支配している。
チカは、磨き上げられた入り口で一度足を止め、小動物のように周囲を慎重に見渡した。
(……次期ブックマン様は……、いない)
テレビで見たあの「月」のような男の姿はない。
「お好きな所へどうぞ」と案内されたソファは、深く腰掛けると身体が沈み込むほど柔らかかった。
「えっと…ホットの紅茶をください」
窓の外にはビル群が、まるでジオラマのように眼下に広がっている。
(……すごい。空の中に浮いてるみたい)
緊張で心臓が喉の奥まで跳ね上がっている。
けれど、それ以上に目が興奮していた。
高い天井に施された幾何学的な装飾、等間隔に配置された琥珀色の照明。
自分のようなモブが紛れ込んでいい場所ではないと分かっていても、その造形美には抗えなかった。
ふと手元の腕時計に目を落とす。約束の十分前。
じっとしていると、母の小言や、これから会う相手への不安が、黒い絵の具のようにじわりと広がってきそうだった。
チカは心を落ち着かせようと、手元の小さなバッグに手を伸ばす。
取り出したのは、B6サイズのスケッチブックと、一本の鉛筆。
パラパラとページを捲る。
美しいエステ後の肌も、母が必死に整えたメイクも、今の彼女には自分を感じさせるものではなかった。
けれど、指先に触れる紙の質感だけは、紛れもなく自分の輪郭を思い出させてくれる。
(……時間つぶしぐらい、いいよね?)
余白のページを見つけると、彼女の意識は、お見合いという現実からするりと観察の領域へ滑り落ちた。
鉛筆の先が、迷いなく紙の上を走る。
ターゲットは、斜め向かいの席に座る老紳士。
大きく広げられた新聞。
その隙間から時折覗く、よく磨かれたハゲ頭が、ラウンジの照明を反射して鈍く光っている。
老紳士が、ゆっくりとした動作でカップを傾け、コーヒーを啜る。
その喉仏の動き、ジャケットの肩に寄る細かなシワ、そして眼鏡の奥にある、文字を追う真剣な眼差し。
シュッ、シュシュッ。
鉛筆が紙の上を滑る乾いた音だけが、チカの耳に届く。
キャンバスではなくスケッチブックの中に、老人の人生の断片が形作られていく。
都会のスピードに合わず、肩をぶつけられて立ち尽くしていた女は、もうそこにはいない。
彼女は今、この豪華なラウンジを、一つの巨大なモチーフとして幻想の世界に居た。
それは、ラビがそのラウンジに到着したことさえも気付かない世界だった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
予定時刻の数分前。
ラビはムーンホテルのラウンジに足を踏み入れた。
いつもなら、この場に現れた瞬間に、それらしいと分かる女性の視線を感じるのだが、今回はそれが無かった。
(……ま、適当に座ってれば向こうから来るだろ)
周囲を一度も見渡すことなく、ラビは窓際の、街を一望できる特等席へと大股で歩いた。
座るなり、彼は重厚なバッグからノートパソコンを取り出す。
お見合い相手を待つ時間すら、彼にとっては削り出すべき資産でしかない。
カチャカチャと、静かな空間にタイピング音だけが刻まれる。
最新の市場動向、グループ企業の決算データ、整理すべきタスク。
窓の外に広がる摩天楼を見下ろしながら、彼の意識は数字の海へとダイブした。
時間は、平等に、かつ無情に過ぎ去る。
ラビの脳内では膨大なデータが処理され、チカの方では、2枚目に取り掛かっていた。今度は先程の老紳士とその夫人の談笑の風景。
ラビとチカの間には、完璧な集中の壁がそびえ立っていた。
ラビは仕事に。チカはハゲ頭夫妻のスケッチに。
……気づけば、三十分が経過していた。
「……よし。この案件はこれでいい」
ふと、区切りがついたラビが顔を上げた。
首の骨を鳴らし、ようやく現実へと意識を戻す。
当然、目の前には自分に目を輝かせ、退屈を隠しながら微笑む女性がいるはずだった。
「……あれ?」
キョトンとした声が、喉から漏れる。
目の前に広がるのは、自分が座った時と変わらない、静かなラウンジの風景。
ウェイターが音もなく歩き、遠くで食器が触れ合う音がするだけだ。
(……俺、すっぽかされた?)
その事実に辿り着いた瞬間、ラビは全身の力が抜けるのを感じた。
背もたれに深く体重を預け、文字通り天井を仰ぐ。
(……もう、マジで泣きてぇ)
心底情けない呟きが漏れた。
自分は一族の、ひいては世間の最高傑作のはずだ。天儀院の連中は、お見合いには毎度、相性のいい娘を選んでいると言っていた。
(……本当に相性いいのかよ。それならとっくに結婚してるっつーの)
今回の相手は、自分を待たせるどころか、約束の場所に現れもしない。
人生で最も無駄な三十分を過ごしてしまった。
その屈辱と虚無感が、じわじわと胸を焼く。
「……一応、確認するか」
ラビはノートパソコンを荒っぽく閉じ、立ち上がった。
ラウンジ全体を見渡す。
視界には、一人で座っている女性が数人。
窓際でぼんやり外を見ている派手な女。
入り口付近でスマホをいじっているビジネスウーマン風の女。
そして……少し離れたソファで、何やら必死に手を動かしている、妙に姿勢の良い女。
(……ん? どれだ?)
ここで、ラビは初めて自分の最大の過ちに気づく。
「……最悪さ」
リンクが差し出した資料を見向きもしなかった自分。
「顔なんて知る必要ない」と吐き捨てた数時間前の自分を、彼は今、全力で呪っていた。
目の前の女性たちの誰が「鈴木チカ」なのか。
それを確かめる術を、彼は自らの傲慢さで捨て去っていたのだ。
ラビはラウンジの入り口付近まで戻り、壁に寄りかかって鋭い視線を巡らせた。
いつもの仕事と同じだ。手元にデータ(顔写真)がないなら、現状のパラメーターから最適解を導き出すまで。
(落ち着け。ターゲットは「由緒正しい一族」が選んだ、俺の婚約者候補だ。なら、その立ち振る舞いには必ず『それっぽさ』が出るはずだ)
彼は、ラウンジに点在する単独の女性を一人ずつ、脳内のフィルターにかけていく。
まず目に飛び込んできたのは、窓際の特等席でブランドバッグをテーブルに鎮座させている女性だ。
完璧に巻かれた髪、トレンドを完璧に抑えた勝負服、そして時折、鏡を取り出しては入念にメイクをチェックしている。
(……一番可能性が高いな。俺との対面に備えて、外側を完璧に武装してきた『欲張りな野心家』タイプだ。お見合いという儀式に対しての誠実さは感じる。……でも、三十分も過ぎているのに、あんなに余裕の表情でいられるか?)
彼女は、誰かを待っているというより、自分自身が展示品であるかのような余裕を漂わせていた。保留。
次に、入り口近くで眉間に皺を寄せながらスマホを叩いている女性。
仕立ての良いジャケットに、知的な眼鏡。
(……次期ブックマンである俺にふさわしい、知的なパートナーとして選ばれたのか? もし彼女なら、俺が仕事に没頭していたように、彼女もまた時間を無駄にせず仕事をこなしているはずだ。……いや、でもそれなら俺に気づいて声をかけてくるはずだ。お互いに『無関心』で三十分経つなんて、確率論的にあり得ない)保留。
最後に、視線の端に引っかかったのは、少し離れたソファで何かに取り憑かれたように手を動かしている女性。
淡いベージュの、地味とも清潔とも取れるドレス。
整えられたその姿は、確かにお見合いらしい清楚さを纏っている。
だが、決定的な違和感があった。
彼女は、ラビの方を見ない。
それどころか、時折、斜め向かいのハゲた老紳士を獲物を狙う鷹のような鋭い眼差しで睨みつけ、直後、手元の何かに凄まじい勢いで描線を叩き込んでいる。
(……あり得ないな。あの狂気すら感じる集中力。お見合いという名の政治的交渉の場で、あんなに自分だけの世界に閉じこもるヤツがいるわけがない。何より、俺という存在が同じ空間にいて、一度たりとも視線を送ってこないなんて、物理法則が壊れてるレベルだ)
ラビの分析チャートにおいて、チカは真っ先に除外された。
彼女はきっと、このホテルで開催されている美術展の帰りか、あるいは都会の空気に耐えかねて自分の世界に逃げ込んでいる、ただの風変わりな旅人だ。
「……くそ。もういい」
三分の推理は、結局、何も導き出さなかった。
ラビは震える手でスマホを取り出し、リンクにメッセージを打った。
『今すぐ、鈴木チカの顔写真を送れ。……いや、違う。俺が悪かった。データを無視した罰だ。頼む、秒で送れ』
既読は一瞬でついた。
そして送られてきた一枚の画像。
そこには、少しぎこちないけれど、透き通るような瞳をした“ 鈴木チカ”の姿があった。
ラビは画像と、目の前のハゲ頭をスケッチしている不審な美女を交互に見比べた。
「……嘘、だろ」
彼の持つ世界最高峰の演算能力が、一つの結論を弾き出した。
自分が最も「お見合いらしくない」と切り捨てた相手こそが、自分を無視し続けていた本人だという、あまりにも揶揄な真実を。
つづく、2026/04/09