好きな名前に変えて読んでみよう!
第1章
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第3話
私の目には、画面越しの彼の目は冷たく見える。
みんなはこの人のことを、〝優しそう〟、〝一緒にいると楽しそう〟と言う。
でも。
この人の目は、心から笑っていない。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
見上げた先にあったのは、空を鋭利に切り取るように伸びるビル群の稜線だった。
(……高い)
どこまでも続く青に、指が届いてしまいそうだった。
チカは、めまぐるしく流れる人の波の中で、ふと足を止める。
無意識にスマホを取り出し、レンズを向けた。
――カシャ。
軽いシャッター音が、都会の喧騒に溶ける。
ファインダー越しに切り取られた無機質なグレーとブルー。
(……あとで、描けるかもしれない)
そう思った瞬間だった。
「……っ」
強い衝撃が肩を叩く。
「あ、すみません……っ」
反射的に頭を下げたチカに、冷ややかな声が突き刺さった。
「急に止まってんじゃねえよ」
吐き捨てるような、苛立ちの混じった拒絶。
相手は、もうこちらを見ることなく雑踏の中へと消えていく。
謝罪すら届かない。
そこには個人ではなく流れしかないのだ。
(……)
投げつけられた言葉が、胸の奥に澱のように沈む。
痛いわけではない。
ただ、自分の呼吸がこの街の速度と決定的にズレていることを、残酷に突きつけられた気がした。
周りを見渡せば、人、人、人。
誰もが何かに追われるように、同じリズムでアスファルトを叩いている。
それだけで、肺の奥が少しだけ重くなった。
逃げ込むようにタクシーに乗り込むと、自動ドアが静かに世界を遮断した。
外の喧騒が、分厚いガラスの向こう側へと遠ざかる。
「どちらまで?」
「……ムーンホテルまで、お願いします」
低く、落ち着いた運転手の声。
車が滑り出すと、窓の外を極彩色の景色が流れていった。
見慣れない形の建物。
整理された街路樹。
そして、見覚えのあるロゴ。
巨大なデジタルサイネージの中で、ツインテールの少女が完璧な笑顔で笑っている。
その隅に刻まれた、一族の紋章。
自分の家も、あの広告も、同じ一族という括り。
けれど、ここにあるのは自分とは全く無縁の、眩しすぎる虚構に見えた。
――ポン。
カバンの中でスマホが震える。
母からの通知だ。
『時間があるなら、ホテル内のエステに行きなさい。一分一秒を無駄にしないこと!』
「……」
(めんどくさい)
正直な感想が脳裏をかすめる。
画面を見つめたまま、指が止まる。
けれど、その背後にある母の必死な顔や、送り出してくれた父の静かな声を思い出した。
『……無理はするな』
短かった父の言葉が、お守りのように胸の中で反芻される。
(……親孝行だと思えば、いいか)
腹の奥で、小さく覚悟を括る。
『わかりました』
送信。既読は一瞬でついた。
窓の外、ビルの隙間に見える空は、さっきよりも細く、頼りなく見えた。
都会。
知らない場所。
知らない人々。
そして――これから会う、あの「太陽」のような男。
(でも·····どちらかと言えば、次期ブックマン様は〝 月〟·····)
期待とも不安とも違う、まだ名前を持たない感情。
それは、重厚なホテルのエントランスへと近づくにつれ、静かに、けれど確実に、彼女の全身を縛り始めていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
02:00 P.M. 役員会議室
無機質なほど整えられた長いテーブル。
完璧に揃えられた資料の束。
そこは、感情を排除した数字だけが支配する空間だった。
「――以上が、今期の見込みとなります」
部下の報告が、静まり返った室内を滑る。
スクリーンに映し出されるグラフが、右肩上がりの曲線を冷静に描いていた。
ラビは頬杖をついたまま、視線だけを落としていた。
資料を見ているようで、その実、網膜は何も捉えていない。
報告を聞いているようで、脳内では別の演算が走っている。
「……長い」
ぽつり。誰に向けるでもない独り言が漏れる。
会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
「結論は?」
短い一言。
報告者は喉を鳴らし、慌てて言葉を継ぐ。
「は、はい。こちらの施策を導入すれば、来期の利益はさらに――」
「それ、やる意味ある?」
言葉を被せる。容赦のないカットイン。
「……え?」
ラビがゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から覗く瞳だけが、真っ直ぐに相手を射抜く。
「それやって、何か劇的に変わるの?」
「……いえ、その……大きくは、変動いたしませんが……」
「じゃあいらない。リソースの無駄」
即断。
誰も反論しない。いや、反論する言葉を誰も持ち合わせていない。
「次」
ページがめくられる乾いた音。
会議は淡々と進んでいく。
いや、これは議論ではない。
ラビという精緻なシステムによって、不要な情報が次々と処理されていくだけの作業だった。
02:45 P.M.
「――本日の議題は以上です」
「終わり?」
「は、はい」
ラビは椅子から立ち上がり、ジャケットのボタンを一つ留めた。
「じゃ、解散で」
それだけ。
誰も彼を止めないし、止められない。
静かな足音が廊下に響く。
「本日の残りの予定ですが」
横に並ぶ影。リンクだ。
「この後、打ち合わせが二件。その後――」
「それ副社長に行かせて」
「可能ではありますが」
「じゃあそれで。俺がやる必要、ないだろ」
理由はない。ただ、彼にとって価値がないだけ。
リンクが一拍置いて、手元のタブレットの下から一枚の用紙を差し出した。
「それと、明日のお見合いですが。お相手の顔ぐらいは見ておいた方がよろしいかと」
チカのプロフィール。
「顔ぐらい知っておいた方が、当日がスムーズかと思いまして」
「必要ない。どうせ向こうから目ェ輝かせて来るだろ」
ラビは用紙を一瞥もせず、心底どうでもよさそうに吐き出した。
「……ったく。俺、もう疲れたよ」
「そう言わずに。頑張りましょう」
「だってさ、次逃げられたら。泣くよ? 俺、マジで泣くからね」
「……その時は飲みに付き合いますよ」
ラビは壁に背を預け、短く息を吐いた。
窓から差し込む西日が、彼の横顔を無機質に照らす。
「……そんなに子孫を絶やしたくないならさ、産みたい人を探せば良くね?」
「ジュニア……それは誰かに聞かれたら一発で炎上する発言ですね」
「ええー? 俺の子、産みたいヤツなんていくらでもいそうだけどな。そもそも、結婚なんざ俺に向いてねぇよ」
「聞かなかったことにします。……お相手の名前だけはお伝えしておきますね。鈴木チカさんです」
名前。最低限の、文字データの羅列。
「へえ」
興味はない。塵ほどもない。
「で、何時からだっけ」
「夕刻です」
「……あー、ご飯一緒に食べろってやつか。めんどくさいな」
「形式ですから」
ラビは天井を見上げた。
白すぎるLEDの光。
「なあ、リンク」
「はい」
「俺に自由ってある?」
「形式上はあります。なんならジュニア得意のお持ち帰りも可能ですよ。お望みなら」
一瞬だけ、ラビの口角が上がった。
「……あー、そう。最高だね」
その笑みは、誰に向けられたものでもなかった。
冷たくて、乾いた、どこにも繋がっていない微笑。
明日出会う女が、自分の計算をすべてぶち壊す存在だとは、この時の彼はまだ微塵も思っていなかった。
お••┈┈┈┈•ま•┈┈┈┈••け
案内されたのは、徹底的に白で統一された部屋だった。
温度も、湿度も、漂うアロマの匂いすらも、寸分狂わず一定に保たれている。
「こちらにお着替えください」
差し出されたのは、余計な装飾を排した、驚くほど柔らかな布。
チカはそれを受け取り、静かな個室で独りになった。
カチリ、と鍵を閉める。
服を脱ぎ捨て、見慣れないガウンに袖を通す瞬間、一瞬だけ指が止まった。
(……こういうの、やっぱり慣れないな)
贅沢に慣れていない身体が、高級な布地の感触を異物として認識している。
けれど、深くは考えない。これは明日という闘いを乗り切るための、避けて通れない工程なのだ。
ベッドに横たわると、シーツのさらりとした冷たさが背中に伝わった。
「力を抜いてくださいね」
温かい、けれど訓練された他人の手が肌に触れる。
一定のリズム。淀みのないストローク。
肩から腕へ。背中、腰、そして脚へ。
(……触られてる)
嫌ではない。けれど、どこか遠い出来事のように感じる。
熟練の技で凝りが解きほぐされていくたびに、自分の輪郭が他人の手によって修正されていくような、不思議な浮遊感。
「少し冷たいですよ」
ひやりとしたジェルが肌を滑り、その直後に温かなスチームが温度を上書きしていく。
(……変わっていく、外側だけ)
目を閉じ、自分の呼吸だけを数える。
どれだけ肌を磨かれようと、筋肉をほぐされようと。
(……中身は、そのままだ)
その確信だけが、この豪華な空間でチカを「チカ」として繋ぎ止めていた。
「お疲れ様でした」
施術が終わると、身体は驚くほど軽くなっていた。
重力から解放されたような、ふわふわとした感覚。
鏡の前に立つ。
「……」
そこにいたのは、整った、けれどどこか見知らぬ女だった。
くすみが消え、輪郭が引き締まり、瞳に不自然なほどの光が宿っている。
(……誰だろう、これ)
一瞬の戸惑いの後、ゆっくりと自分の指を動かしてみる。
(……あ、私だ)
小さく、そう思う。
「ありがとうございました」
「またのご利用をお待ちしております」
完璧な会釈に見送られ、静かな廊下に出る。
歩きながら、自分の手を見つめた。
指先を曲げ、筆を握る動作を繰り返してみる。
(……良かった。手は、いつもと変わらない。これなら、まだ描ける)
その事実だけに、心から安心した。
(……明日。次期ブックマン様に会う。粗相がないように、失礼のないようにしなきゃ)
それだけを胸の中で反芻し、ホテルの重厚な絨毯を不慣れな足取りで踏みしめる。
緊張とマッサージのデトックス効果のせいか、急激に腹の虫が鳴った。
(……お腹すいた)
ホテルの外は、都会の夜。
きらびやかな看板が誘惑してくる。
(……ポテト、食べたいな。ハンバーガーとか。揚げたての、身体に悪そうなやつ)
ジャンクフードへの渇望を胸に、スマホを取り出した瞬間だった。
――ブブッ。
タイミングが良すぎる通知音。
『ジャンクフードはダメよ。夜は魚と野菜にしなさい。お肌が荒れたらどうするの!』
「……っ!?」
[#dn=1#]はスマホを握りしめたまま、辺りをキョロキョロと見回した。
都会のビル風が吹く中、どこかの窓から母が双眼鏡で覗いているのではないか。
あるいは、このスマホにGPSと隠しカメラが仕込まれているのか。
(お母さん!? どこかで見張ってるんじゃ……!?)
「……わかったよ」
溜息混じりに、近くの和食屋を検索し始める。
チカは肩を落とし、都会の夜の雑踏へと、トボトボと消えていった。
つづく、2026/03/21
私の目には、画面越しの彼の目は冷たく見える。
みんなはこの人のことを、〝優しそう〟、〝一緒にいると楽しそう〟と言う。
でも。
この人の目は、心から笑っていない。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
見上げた先にあったのは、空を鋭利に切り取るように伸びるビル群の稜線だった。
(……高い)
どこまでも続く青に、指が届いてしまいそうだった。
チカは、めまぐるしく流れる人の波の中で、ふと足を止める。
無意識にスマホを取り出し、レンズを向けた。
――カシャ。
軽いシャッター音が、都会の喧騒に溶ける。
ファインダー越しに切り取られた無機質なグレーとブルー。
(……あとで、描けるかもしれない)
そう思った瞬間だった。
「……っ」
強い衝撃が肩を叩く。
「あ、すみません……っ」
反射的に頭を下げたチカに、冷ややかな声が突き刺さった。
「急に止まってんじゃねえよ」
吐き捨てるような、苛立ちの混じった拒絶。
相手は、もうこちらを見ることなく雑踏の中へと消えていく。
謝罪すら届かない。
そこには個人ではなく流れしかないのだ。
(……)
投げつけられた言葉が、胸の奥に澱のように沈む。
痛いわけではない。
ただ、自分の呼吸がこの街の速度と決定的にズレていることを、残酷に突きつけられた気がした。
周りを見渡せば、人、人、人。
誰もが何かに追われるように、同じリズムでアスファルトを叩いている。
それだけで、肺の奥が少しだけ重くなった。
逃げ込むようにタクシーに乗り込むと、自動ドアが静かに世界を遮断した。
外の喧騒が、分厚いガラスの向こう側へと遠ざかる。
「どちらまで?」
「……ムーンホテルまで、お願いします」
低く、落ち着いた運転手の声。
車が滑り出すと、窓の外を極彩色の景色が流れていった。
見慣れない形の建物。
整理された街路樹。
そして、見覚えのあるロゴ。
巨大なデジタルサイネージの中で、ツインテールの少女が完璧な笑顔で笑っている。
その隅に刻まれた、一族の紋章。
自分の家も、あの広告も、同じ一族という括り。
けれど、ここにあるのは自分とは全く無縁の、眩しすぎる虚構に見えた。
――ポン。
カバンの中でスマホが震える。
母からの通知だ。
『時間があるなら、ホテル内のエステに行きなさい。一分一秒を無駄にしないこと!』
「……」
(めんどくさい)
正直な感想が脳裏をかすめる。
画面を見つめたまま、指が止まる。
けれど、その背後にある母の必死な顔や、送り出してくれた父の静かな声を思い出した。
『……無理はするな』
短かった父の言葉が、お守りのように胸の中で反芻される。
(……親孝行だと思えば、いいか)
腹の奥で、小さく覚悟を括る。
『わかりました』
送信。既読は一瞬でついた。
窓の外、ビルの隙間に見える空は、さっきよりも細く、頼りなく見えた。
都会。
知らない場所。
知らない人々。
そして――これから会う、あの「太陽」のような男。
(でも·····どちらかと言えば、次期ブックマン様は〝 月〟·····)
期待とも不安とも違う、まだ名前を持たない感情。
それは、重厚なホテルのエントランスへと近づくにつれ、静かに、けれど確実に、彼女の全身を縛り始めていた。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
02:00 P.M. 役員会議室
無機質なほど整えられた長いテーブル。
完璧に揃えられた資料の束。
そこは、感情を排除した数字だけが支配する空間だった。
「――以上が、今期の見込みとなります」
部下の報告が、静まり返った室内を滑る。
スクリーンに映し出されるグラフが、右肩上がりの曲線を冷静に描いていた。
ラビは頬杖をついたまま、視線だけを落としていた。
資料を見ているようで、その実、網膜は何も捉えていない。
報告を聞いているようで、脳内では別の演算が走っている。
「……長い」
ぽつり。誰に向けるでもない独り言が漏れる。
会議室の空気が、一瞬で凍りついた。
「結論は?」
短い一言。
報告者は喉を鳴らし、慌てて言葉を継ぐ。
「は、はい。こちらの施策を導入すれば、来期の利益はさらに――」
「それ、やる意味ある?」
言葉を被せる。容赦のないカットイン。
「……え?」
ラビがゆっくりと顔を上げた。
前髪の隙間から覗く瞳だけが、真っ直ぐに相手を射抜く。
「それやって、何か劇的に変わるの?」
「……いえ、その……大きくは、変動いたしませんが……」
「じゃあいらない。リソースの無駄」
即断。
誰も反論しない。いや、反論する言葉を誰も持ち合わせていない。
「次」
ページがめくられる乾いた音。
会議は淡々と進んでいく。
いや、これは議論ではない。
ラビという精緻なシステムによって、不要な情報が次々と処理されていくだけの作業だった。
02:45 P.M.
「――本日の議題は以上です」
「終わり?」
「は、はい」
ラビは椅子から立ち上がり、ジャケットのボタンを一つ留めた。
「じゃ、解散で」
それだけ。
誰も彼を止めないし、止められない。
静かな足音が廊下に響く。
「本日の残りの予定ですが」
横に並ぶ影。リンクだ。
「この後、打ち合わせが二件。その後――」
「それ副社長に行かせて」
「可能ではありますが」
「じゃあそれで。俺がやる必要、ないだろ」
理由はない。ただ、彼にとって価値がないだけ。
リンクが一拍置いて、手元のタブレットの下から一枚の用紙を差し出した。
「それと、明日のお見合いですが。お相手の顔ぐらいは見ておいた方がよろしいかと」
チカのプロフィール。
「顔ぐらい知っておいた方が、当日がスムーズかと思いまして」
「必要ない。どうせ向こうから目ェ輝かせて来るだろ」
ラビは用紙を一瞥もせず、心底どうでもよさそうに吐き出した。
「……ったく。俺、もう疲れたよ」
「そう言わずに。頑張りましょう」
「だってさ、次逃げられたら。泣くよ? 俺、マジで泣くからね」
「……その時は飲みに付き合いますよ」
ラビは壁に背を預け、短く息を吐いた。
窓から差し込む西日が、彼の横顔を無機質に照らす。
「……そんなに子孫を絶やしたくないならさ、産みたい人を探せば良くね?」
「ジュニア……それは誰かに聞かれたら一発で炎上する発言ですね」
「ええー? 俺の子、産みたいヤツなんていくらでもいそうだけどな。そもそも、結婚なんざ俺に向いてねぇよ」
「聞かなかったことにします。……お相手の名前だけはお伝えしておきますね。鈴木チカさんです」
名前。最低限の、文字データの羅列。
「へえ」
興味はない。塵ほどもない。
「で、何時からだっけ」
「夕刻です」
「……あー、ご飯一緒に食べろってやつか。めんどくさいな」
「形式ですから」
ラビは天井を見上げた。
白すぎるLEDの光。
「なあ、リンク」
「はい」
「俺に自由ってある?」
「形式上はあります。なんならジュニア得意のお持ち帰りも可能ですよ。お望みなら」
一瞬だけ、ラビの口角が上がった。
「……あー、そう。最高だね」
その笑みは、誰に向けられたものでもなかった。
冷たくて、乾いた、どこにも繋がっていない微笑。
明日出会う女が、自分の計算をすべてぶち壊す存在だとは、この時の彼はまだ微塵も思っていなかった。
お••┈┈┈┈•ま•┈┈┈┈••け
案内されたのは、徹底的に白で統一された部屋だった。
温度も、湿度も、漂うアロマの匂いすらも、寸分狂わず一定に保たれている。
「こちらにお着替えください」
差し出されたのは、余計な装飾を排した、驚くほど柔らかな布。
チカはそれを受け取り、静かな個室で独りになった。
カチリ、と鍵を閉める。
服を脱ぎ捨て、見慣れないガウンに袖を通す瞬間、一瞬だけ指が止まった。
(……こういうの、やっぱり慣れないな)
贅沢に慣れていない身体が、高級な布地の感触を異物として認識している。
けれど、深くは考えない。これは明日という闘いを乗り切るための、避けて通れない工程なのだ。
ベッドに横たわると、シーツのさらりとした冷たさが背中に伝わった。
「力を抜いてくださいね」
温かい、けれど訓練された他人の手が肌に触れる。
一定のリズム。淀みのないストローク。
肩から腕へ。背中、腰、そして脚へ。
(……触られてる)
嫌ではない。けれど、どこか遠い出来事のように感じる。
熟練の技で凝りが解きほぐされていくたびに、自分の輪郭が他人の手によって修正されていくような、不思議な浮遊感。
「少し冷たいですよ」
ひやりとしたジェルが肌を滑り、その直後に温かなスチームが温度を上書きしていく。
(……変わっていく、外側だけ)
目を閉じ、自分の呼吸だけを数える。
どれだけ肌を磨かれようと、筋肉をほぐされようと。
(……中身は、そのままだ)
その確信だけが、この豪華な空間でチカを「チカ」として繋ぎ止めていた。
「お疲れ様でした」
施術が終わると、身体は驚くほど軽くなっていた。
重力から解放されたような、ふわふわとした感覚。
鏡の前に立つ。
「……」
そこにいたのは、整った、けれどどこか見知らぬ女だった。
くすみが消え、輪郭が引き締まり、瞳に不自然なほどの光が宿っている。
(……誰だろう、これ)
一瞬の戸惑いの後、ゆっくりと自分の指を動かしてみる。
(……あ、私だ)
小さく、そう思う。
「ありがとうございました」
「またのご利用をお待ちしております」
完璧な会釈に見送られ、静かな廊下に出る。
歩きながら、自分の手を見つめた。
指先を曲げ、筆を握る動作を繰り返してみる。
(……良かった。手は、いつもと変わらない。これなら、まだ描ける)
その事実だけに、心から安心した。
(……明日。次期ブックマン様に会う。粗相がないように、失礼のないようにしなきゃ)
それだけを胸の中で反芻し、ホテルの重厚な絨毯を不慣れな足取りで踏みしめる。
緊張とマッサージのデトックス効果のせいか、急激に腹の虫が鳴った。
(……お腹すいた)
ホテルの外は、都会の夜。
きらびやかな看板が誘惑してくる。
(……ポテト、食べたいな。ハンバーガーとか。揚げたての、身体に悪そうなやつ)
ジャンクフードへの渇望を胸に、スマホを取り出した瞬間だった。
――ブブッ。
タイミングが良すぎる通知音。
『ジャンクフードはダメよ。夜は魚と野菜にしなさい。お肌が荒れたらどうするの!』
「……っ!?」
[#dn=1#]はスマホを握りしめたまま、辺りをキョロキョロと見回した。
都会のビル風が吹く中、どこかの窓から母が双眼鏡で覗いているのではないか。
あるいは、このスマホにGPSと隠しカメラが仕込まれているのか。
(お母さん!? どこかで見張ってるんじゃ……!?)
「……わかったよ」
溜息混じりに、近くの和食屋を検索し始める。
チカは肩を落とし、都会の夜の雑踏へと、トボトボと消えていった。
つづく、2026/03/21
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