第2章
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第2章第9話
(違う。)
その言葉は、ラビの胸の奥で、ひどくはっきりと形になった。
そんなふうに物分かりよく納得しないでくれ。
そんなふうに、自分で線を引いて遠ざからないでくれ。
いつもなら、この場における最善の立ち振る舞いを瞬時に計算できるはずだった。
しかし今は、その計算より先に、ひとつの感覚だけが体を動かしていた。
このままでは、チカを取り逃がす。
「チカ」
低く名前を呼ぶ。
チカが瞬きをした。
「少し、ここで待っててさ」
「ラビさん?」
「すぐ戻る」
それだけ言うと、ラビは彼女の腕をそっと外した。
本来なら、ここで彼女を一人にするべきではない。
ドレス姿の女性を会場に残し、エスコートを放棄して走り出すなど、社交の場では見苦しいにも程がある。
だが、足はもう動いていた。
ラビは展示室を抜ける。
高級な絨毯が靴音を吸い込む。
周囲の招待客が驚いたように振り返る。
それでも、ラビは速度を落とさなかった。
廊下へ出る。
大理石の壁に、遠く会場のざわめきが薄く反響していた。
シェリルとロードは、まだ遠くへは行っていない。
あの男の、ゆったりとした、人を待たせることに慣れきった歩調なら。
「――キャメロット大臣」
曲がり角の先で、ラビはその背中に声をかけた。
シェリルが足を止める。
ロードも振り返った。
「おや」
シェリルは愉快そうに目を細める。
「どうしたんだい、ブックマンの坊や。忘れ物かな」
ラビは一度だけ息を整えた。
走ったせいで、呼吸がわずかに乱れている。
それを完全に隠すこともできた。
笑顔を貼り直すこともできた。
だが、ラビはそうしなかった。
必要な礼儀だけを残して、まっすぐにシェリルを見た。
「申し訳ありません。少し、先ほどの発言を訂正させてください」
「訂正?」
「はい」
ラビは軽く頭を下げる。
「鈴木チカさんのことです」
ロードの目が、面白そうに光った。
「牛の人?」
ラビの眉は動かなかった。
ただ、声だけが少し低くなる。
「彼女の実家が酪農を営んでいることは事実です。一族の中で、彼女の家が中心に近いとは言えないことも、事実です」
「なら、訂正することなどないじゃないか」
シェリルは穏やかに言った。
ラビは頷く。
「事実だけを言えば、そうです」
そこで一度、言葉を切った。
「ですが、私は先ほど、その事実だけを使って、彼女を安く見せました」
シェリルの笑みが、ほんの少し薄くなる。
「ほう」
「あなた方の興味を削ぐためです。これ以上、彼女を試されないようにするためでもありました。あの場では、それが一番安全だと判断しました」
「賢い判断だね」
「ええ」
ラビは静かに答える。
その肯定に、ロードが首を傾げた。
ラビは続ける。
「ただ、正しくはありませんでした」
廊下の空気が、少しだけ変わる。
シェリルは何も言わない。
ラビは逃げなかった。
「彼女は、未熟です。社交に慣れていない。肩書きの扱いも、言葉の裏を読むことも、まだ十分ではありません」
「ずいぶん正直だね」
「はい」
ラビは一歩も引かずに頷いた。
「ですが、あの彫刻の前で、誰よりも作品を見ていたのは彼女です」
ロードの笑みが止まる。
「人が飾りとして通り過ぎるものから、素材と手触りと、作り手の執念を拾い上げる。顔のない作品を、ただ怖いものとしてではなく、見る者の感情を映すものとして読む。あれは、家柄や肩書きで身につくものではありません」
シェリルの目が、ゆっくりと細くなる。
「ずいぶん高く買っているんだね」
「ええ」
ラビは即答した。
「私が今日、彼女をここへ連れてきた理由です」
その言葉は、もう一族の決定だけではなかった。
シェリルも、それに気づいた。
「さっきは、一族が決めた者としか結婚できないと言っていなかったかな」
「言いましたね」
「では、今の言い方は少し矛盾しているね」
「そうですね」
ラビは、そこで初めて小さく息を吸った。
ここから先は、言わなくてもいい。
社交上は。
ブックマンとしては。
ビジネスとしては。
言わない方が、ずっと賢い。
でも、あの穏やかな笑顔で「大丈夫です」と言ったチカの顔が、脳裏から離れなかった。
「私の結婚は、一族が決めます」
ラビは言った。
「それは変わりません」
シェリルは黙って聞いている。
「ですが、仮にその決定がなかったとしても」
ラビの声が、わずかに低くなる。
「俺は俺の意思でチカを選びます」
短い沈黙が落ちた。
ロードが、初めて黙る。
シェリルの口元から、笑みが消えたわけではない。
逆にその形が少しだけ冷たくなった。
「それは、ブックマンの坊やとしての発言かな」
「いいえ」
ラビはまっすぐに答えた。
「今のは、俺個人の発言です」
廊下の空気が硬くなる。
遠くの会場から、グラスの触れ合う音が微かに聞こえた。
シェリルはしばらくラビを見ていた。
「君は今日、少し物分かりが悪いね」
「はい」
ラビは否定しなかった。
「先ほど少し、物分かりが良すぎたので」
ロードが小さく息を呑む。
シェリルの目が、わずかに冷える。
「坊や」
「はい」
「あの程度のことで足を止めていては、この先、苦労するよ」
「承知しています」
「庇うつもりなら、もっと上手に庇いなさい。そうでなければ、君だけでなく、あのお嬢さんまで余計な火の粉を浴びる」
「ご忠告、痛み入ります」
ラビは礼をした。
だが、引かなかった。
「それでも、訂正は必要でした」
「なぜ」
「彼女が、自分を安く見られることに慣れてしまう前に」
その言葉に、シェリルの表情がほんの少しだけ動いた。
ラビは続ける。
「あなた方が彼女をどう見るかは、そちらの自由です。ですが、私が彼女をどう見ているかは、訂正しておきたかった」
シェリルは黙った。
それから、低く喉を鳴らす。
「……なるほど」
その声には、先ほどまでの愉快さは少しもなかった。
「訂正は受け取っておこう」
「ありがとうございます」
「ただし、坊や」
シェリルはロードの肩に手を添えながら、最後にもう一度だけ振り返った。
「人は、選んだものに責任を持つことになる」
「分かっています」
「本当に?」
「これから、分かると思います」
シェリルは薄く笑う。
「実に危なっかしいね」
「よく言われます」
「言われ慣れている顔ではないが」
「今日、覚えます」
ロードが、そこでようやく口を開いた。
「ラビ」
「何?」
「牛の人、そんなに面白いの?」
ラビは、少しだけ間を置いた。
「うん」
それは、笑いを含まない声だった。
「面白いよ」
ロードは不満そうに唇を尖らせた。
シェリルはそれ以上何も言わず、今度こそ背を向ける。
二人の姿が廊下の奥へ消えていくまで、ラビはその場を動かなかった。
心臓がまだ速い。
言ってしまった。
社交上、余計なことを。
ブックマンJr.として、賢くないことを。
でも、あのままでいるよりはずっとましだった。
ラビはゆっくりと息を吐く。
そして、展示室の方へ振り返った。
あの場所で待っているチカに、今度は何を言えばいいのか。
まだ分からない。
ただ、ひとつだけは分かっていた。
それは、さっきより少しだけチカとの未来が見えたこと。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ラビが突然、その場にチカを残して走り去ってから数分。
格式高いホテルの高級な絨毯を、なりふり構わず猛ダッシュしていく後ろ姿を、チカは呆然と見送るしかなかった。
(……あんなに血相を変えて急いでいくなんて。どうしたんだろう…、御手洗かな?)
チカは、ぽつんと彫刻の前に立ち尽くしたまま、心の中でそう納得していた。
(さっきの怖い人たちに挟まれて、冷や汗をかきながら、ラビさん、相当我慢してたんだな……。)
一ミリもラビの苦悩や覚悟に気づいていない、的外れで温かい労わりの念が胸を占める。
ラビが自分のために怒り、駆け出していったなどとは、夢にも思っていない。
ただ、おかげでさっきまでの息が詰まるような冷たい空気は、チカの頭からすっかり吹き飛んでいた。
不安がるでもなく、チカはその場から一歩も動かずに待つことにした。
暇つぶしにと、じっと中央の顔のない彫刻を見つめ、相変わらず修復師の目でうんちく分析を再開する。
展示室内の空気は、いつの間にか穏やかな美術館のそれに戻っていた。
「チカ」
背後から、低く呼びかける声がした。
チカははっとしたように振り返った。
「あ、ラビさん。おかえりなさい」
少し息を弾ませて戻ってきたラビの姿を見て、チカはホッと胸をなでおろす。
戻ってきたら安心させるように可愛らしく笑おう、と決めていた。
だから、精一杯の親愛を込めて、にこりと笑ってみせた。
――つもり、だった。
だが、慣れないお見合いの緊張と、感情の起伏のせいで顔の筋肉が完全に強張っていたのだろう。いや、元々上手に笑えない子だ。
ラビの目に飛び込んできたのは、いつもの、あのなんとも言えない不気味な「ニヤリ顔」だった。
ラビは歩み寄る足を一瞬だけ止めると、たまらずふっと吹き出したくなって顔を背けた。
チカからは、その表情は見えない。
ただ、肩がほんのわずかに揺れたように見えただけだった。
こんなにおかしいと思ったのは、いつぶりだろう。
ラビ自身にも、すぐには思い出せなかった。
さっきまで胸の奥に残っていた冷たい熱が、変な方向へ逃げていく。
怒りも、罪悪感も、社交の計算も。
全部が一瞬だけ馬鹿らしくなるくらい、目の前の女の笑みは真剣だった。
ラビは息を整えるふりをして、ようやく顔を戻した。
その時にはもう、ラビはいつもの笑みを貼り直している。
「待たせてごめんさ」
「いえ、大丈夫です! すっきりされましたか?」
「……え?」
「あ、いえ、何でもありません!」
スッキリという言葉はダイレクトすぎただろうか、とチカは慌てて口を噤んだ。
そして、チカは先程までのように腕を組むのか悩んで、今度は、彼の腕を組もうとはしなかった。
さっきラビの口から出た言葉を思い出して、これ以上迷惑をかけないようにと、少しだけ身を引こうとした。
だが、ラビはそれを許さなかった。
ラビはスっと右手を伸ばすと、ためらうことなく、チカの小さな手を包み込むようにして、まっすぐに繋いだ。
チカは大きく目を見開いた。
自分の手を見つめ、それから驚きに染まった瞳でラビの横顔を見上げる。
繋がれた手と、ラビの顔を、交互に何度も行ったり来たりさせた。
その動揺しきった反応に、ラビは前を向いて歩き出しながら、低く声を落とした。
「……言っとくけどさ」
「は、はい」
「さっきはトイレじゃないからな」
図星を突かれたチカは、悲鳴のような声をあげてブンブンと首を横に振った。
「いえ!! 違います!! 決してラビさんの手が汚いって意味じゃなくて……っ!!」
「じゃあ何?」
ラビは繋いだ手を緩めず、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて横目で覗き込んでくる。
「えっ、あ、それは……!」
(じゃあ何って、じゃあ……どうして、手を?)
さっきまでの御手洗疑惑はどこへやら。
手のひらから伝わってくるラビの体温の熱さと、男らしい大きな手にすっぽり包まれているという事実に、今更ながら気づいてしまった。
「……っ」
答えに詰まって、顔が爆発しそうに熱くなる。
言葉を失って完全にフリーズしたチカを見て、ラビはすべてを察したように、微笑みの仮面を貼り付けた。
「あはは、あんたホント面白いわ」
からかうような声。
繋いだ手の力は少しも緩まない。
チカは耳まで真っ赤にしながらも、その手のひらの心地よい強さに、胸の奥がトクンと小さく跳ねるのを感じていた。
「さ、行こう。次はどの作品をガチ解説してくれる?」
「あ、はい! 向こうの絵画なんですが、筆のストロークがかなり変態的で――」
いつもの調子を取り戻したチカの声を隣で聞きながら、ラビは、さっきよりもずっとはっきりと、彼女と並んで歩く未来を確信していた。
つづく、2026/06/16
(違う。)
その言葉は、ラビの胸の奥で、ひどくはっきりと形になった。
そんなふうに物分かりよく納得しないでくれ。
そんなふうに、自分で線を引いて遠ざからないでくれ。
いつもなら、この場における最善の立ち振る舞いを瞬時に計算できるはずだった。
しかし今は、その計算より先に、ひとつの感覚だけが体を動かしていた。
このままでは、チカを取り逃がす。
「チカ」
低く名前を呼ぶ。
チカが瞬きをした。
「少し、ここで待っててさ」
「ラビさん?」
「すぐ戻る」
それだけ言うと、ラビは彼女の腕をそっと外した。
本来なら、ここで彼女を一人にするべきではない。
ドレス姿の女性を会場に残し、エスコートを放棄して走り出すなど、社交の場では見苦しいにも程がある。
だが、足はもう動いていた。
ラビは展示室を抜ける。
高級な絨毯が靴音を吸い込む。
周囲の招待客が驚いたように振り返る。
それでも、ラビは速度を落とさなかった。
廊下へ出る。
大理石の壁に、遠く会場のざわめきが薄く反響していた。
シェリルとロードは、まだ遠くへは行っていない。
あの男の、ゆったりとした、人を待たせることに慣れきった歩調なら。
「――キャメロット大臣」
曲がり角の先で、ラビはその背中に声をかけた。
シェリルが足を止める。
ロードも振り返った。
「おや」
シェリルは愉快そうに目を細める。
「どうしたんだい、ブックマンの坊や。忘れ物かな」
ラビは一度だけ息を整えた。
走ったせいで、呼吸がわずかに乱れている。
それを完全に隠すこともできた。
笑顔を貼り直すこともできた。
だが、ラビはそうしなかった。
必要な礼儀だけを残して、まっすぐにシェリルを見た。
「申し訳ありません。少し、先ほどの発言を訂正させてください」
「訂正?」
「はい」
ラビは軽く頭を下げる。
「鈴木チカさんのことです」
ロードの目が、面白そうに光った。
「牛の人?」
ラビの眉は動かなかった。
ただ、声だけが少し低くなる。
「彼女の実家が酪農を営んでいることは事実です。一族の中で、彼女の家が中心に近いとは言えないことも、事実です」
「なら、訂正することなどないじゃないか」
シェリルは穏やかに言った。
ラビは頷く。
「事実だけを言えば、そうです」
そこで一度、言葉を切った。
「ですが、私は先ほど、その事実だけを使って、彼女を安く見せました」
シェリルの笑みが、ほんの少し薄くなる。
「ほう」
「あなた方の興味を削ぐためです。これ以上、彼女を試されないようにするためでもありました。あの場では、それが一番安全だと判断しました」
「賢い判断だね」
「ええ」
ラビは静かに答える。
その肯定に、ロードが首を傾げた。
ラビは続ける。
「ただ、正しくはありませんでした」
廊下の空気が、少しだけ変わる。
シェリルは何も言わない。
ラビは逃げなかった。
「彼女は、未熟です。社交に慣れていない。肩書きの扱いも、言葉の裏を読むことも、まだ十分ではありません」
「ずいぶん正直だね」
「はい」
ラビは一歩も引かずに頷いた。
「ですが、あの彫刻の前で、誰よりも作品を見ていたのは彼女です」
ロードの笑みが止まる。
「人が飾りとして通り過ぎるものから、素材と手触りと、作り手の執念を拾い上げる。顔のない作品を、ただ怖いものとしてではなく、見る者の感情を映すものとして読む。あれは、家柄や肩書きで身につくものではありません」
シェリルの目が、ゆっくりと細くなる。
「ずいぶん高く買っているんだね」
「ええ」
ラビは即答した。
「私が今日、彼女をここへ連れてきた理由です」
その言葉は、もう一族の決定だけではなかった。
シェリルも、それに気づいた。
「さっきは、一族が決めた者としか結婚できないと言っていなかったかな」
「言いましたね」
「では、今の言い方は少し矛盾しているね」
「そうですね」
ラビは、そこで初めて小さく息を吸った。
ここから先は、言わなくてもいい。
社交上は。
ブックマンとしては。
ビジネスとしては。
言わない方が、ずっと賢い。
でも、あの穏やかな笑顔で「大丈夫です」と言ったチカの顔が、脳裏から離れなかった。
「私の結婚は、一族が決めます」
ラビは言った。
「それは変わりません」
シェリルは黙って聞いている。
「ですが、仮にその決定がなかったとしても」
ラビの声が、わずかに低くなる。
「俺は俺の意思でチカを選びます」
短い沈黙が落ちた。
ロードが、初めて黙る。
シェリルの口元から、笑みが消えたわけではない。
逆にその形が少しだけ冷たくなった。
「それは、ブックマンの坊やとしての発言かな」
「いいえ」
ラビはまっすぐに答えた。
「今のは、俺個人の発言です」
廊下の空気が硬くなる。
遠くの会場から、グラスの触れ合う音が微かに聞こえた。
シェリルはしばらくラビを見ていた。
「君は今日、少し物分かりが悪いね」
「はい」
ラビは否定しなかった。
「先ほど少し、物分かりが良すぎたので」
ロードが小さく息を呑む。
シェリルの目が、わずかに冷える。
「坊や」
「はい」
「あの程度のことで足を止めていては、この先、苦労するよ」
「承知しています」
「庇うつもりなら、もっと上手に庇いなさい。そうでなければ、君だけでなく、あのお嬢さんまで余計な火の粉を浴びる」
「ご忠告、痛み入ります」
ラビは礼をした。
だが、引かなかった。
「それでも、訂正は必要でした」
「なぜ」
「彼女が、自分を安く見られることに慣れてしまう前に」
その言葉に、シェリルの表情がほんの少しだけ動いた。
ラビは続ける。
「あなた方が彼女をどう見るかは、そちらの自由です。ですが、私が彼女をどう見ているかは、訂正しておきたかった」
シェリルは黙った。
それから、低く喉を鳴らす。
「……なるほど」
その声には、先ほどまでの愉快さは少しもなかった。
「訂正は受け取っておこう」
「ありがとうございます」
「ただし、坊や」
シェリルはロードの肩に手を添えながら、最後にもう一度だけ振り返った。
「人は、選んだものに責任を持つことになる」
「分かっています」
「本当に?」
「これから、分かると思います」
シェリルは薄く笑う。
「実に危なっかしいね」
「よく言われます」
「言われ慣れている顔ではないが」
「今日、覚えます」
ロードが、そこでようやく口を開いた。
「ラビ」
「何?」
「牛の人、そんなに面白いの?」
ラビは、少しだけ間を置いた。
「うん」
それは、笑いを含まない声だった。
「面白いよ」
ロードは不満そうに唇を尖らせた。
シェリルはそれ以上何も言わず、今度こそ背を向ける。
二人の姿が廊下の奥へ消えていくまで、ラビはその場を動かなかった。
心臓がまだ速い。
言ってしまった。
社交上、余計なことを。
ブックマンJr.として、賢くないことを。
でも、あのままでいるよりはずっとましだった。
ラビはゆっくりと息を吐く。
そして、展示室の方へ振り返った。
あの場所で待っているチカに、今度は何を言えばいいのか。
まだ分からない。
ただ、ひとつだけは分かっていた。
それは、さっきより少しだけチカとの未来が見えたこと。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
ラビが突然、その場にチカを残して走り去ってから数分。
格式高いホテルの高級な絨毯を、なりふり構わず猛ダッシュしていく後ろ姿を、チカは呆然と見送るしかなかった。
(……あんなに血相を変えて急いでいくなんて。どうしたんだろう…、御手洗かな?)
チカは、ぽつんと彫刻の前に立ち尽くしたまま、心の中でそう納得していた。
(さっきの怖い人たちに挟まれて、冷や汗をかきながら、ラビさん、相当我慢してたんだな……。)
一ミリもラビの苦悩や覚悟に気づいていない、的外れで温かい労わりの念が胸を占める。
ラビが自分のために怒り、駆け出していったなどとは、夢にも思っていない。
ただ、おかげでさっきまでの息が詰まるような冷たい空気は、チカの頭からすっかり吹き飛んでいた。
不安がるでもなく、チカはその場から一歩も動かずに待つことにした。
暇つぶしにと、じっと中央の顔のない彫刻を見つめ、相変わらず修復師の目でうんちく分析を再開する。
展示室内の空気は、いつの間にか穏やかな美術館のそれに戻っていた。
「チカ」
背後から、低く呼びかける声がした。
チカははっとしたように振り返った。
「あ、ラビさん。おかえりなさい」
少し息を弾ませて戻ってきたラビの姿を見て、チカはホッと胸をなでおろす。
戻ってきたら安心させるように可愛らしく笑おう、と決めていた。
だから、精一杯の親愛を込めて、にこりと笑ってみせた。
――つもり、だった。
だが、慣れないお見合いの緊張と、感情の起伏のせいで顔の筋肉が完全に強張っていたのだろう。いや、元々上手に笑えない子だ。
ラビの目に飛び込んできたのは、いつもの、あのなんとも言えない不気味な「ニヤリ顔」だった。
ラビは歩み寄る足を一瞬だけ止めると、たまらずふっと吹き出したくなって顔を背けた。
チカからは、その表情は見えない。
ただ、肩がほんのわずかに揺れたように見えただけだった。
こんなにおかしいと思ったのは、いつぶりだろう。
ラビ自身にも、すぐには思い出せなかった。
さっきまで胸の奥に残っていた冷たい熱が、変な方向へ逃げていく。
怒りも、罪悪感も、社交の計算も。
全部が一瞬だけ馬鹿らしくなるくらい、目の前の女の笑みは真剣だった。
ラビは息を整えるふりをして、ようやく顔を戻した。
その時にはもう、ラビはいつもの笑みを貼り直している。
「待たせてごめんさ」
「いえ、大丈夫です! すっきりされましたか?」
「……え?」
「あ、いえ、何でもありません!」
スッキリという言葉はダイレクトすぎただろうか、とチカは慌てて口を噤んだ。
そして、チカは先程までのように腕を組むのか悩んで、今度は、彼の腕を組もうとはしなかった。
さっきラビの口から出た言葉を思い出して、これ以上迷惑をかけないようにと、少しだけ身を引こうとした。
だが、ラビはそれを許さなかった。
ラビはスっと右手を伸ばすと、ためらうことなく、チカの小さな手を包み込むようにして、まっすぐに繋いだ。
チカは大きく目を見開いた。
自分の手を見つめ、それから驚きに染まった瞳でラビの横顔を見上げる。
繋がれた手と、ラビの顔を、交互に何度も行ったり来たりさせた。
その動揺しきった反応に、ラビは前を向いて歩き出しながら、低く声を落とした。
「……言っとくけどさ」
「は、はい」
「さっきはトイレじゃないからな」
図星を突かれたチカは、悲鳴のような声をあげてブンブンと首を横に振った。
「いえ!! 違います!! 決してラビさんの手が汚いって意味じゃなくて……っ!!」
「じゃあ何?」
ラビは繋いだ手を緩めず、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべて横目で覗き込んでくる。
「えっ、あ、それは……!」
(じゃあ何って、じゃあ……どうして、手を?)
さっきまでの御手洗疑惑はどこへやら。
手のひらから伝わってくるラビの体温の熱さと、男らしい大きな手にすっぽり包まれているという事実に、今更ながら気づいてしまった。
「……っ」
答えに詰まって、顔が爆発しそうに熱くなる。
言葉を失って完全にフリーズしたチカを見て、ラビはすべてを察したように、微笑みの仮面を貼り付けた。
「あはは、あんたホント面白いわ」
からかうような声。
繋いだ手の力は少しも緩まない。
チカは耳まで真っ赤にしながらも、その手のひらの心地よい強さに、胸の奥がトクンと小さく跳ねるのを感じていた。
「さ、行こう。次はどの作品をガチ解説してくれる?」
「あ、はい! 向こうの絵画なんですが、筆のストロークがかなり変態的で――」
いつもの調子を取り戻したチカの声を隣で聞きながら、ラビは、さっきよりもずっとはっきりと、彼女と並んで歩く未来を確信していた。
つづく、2026/06/16