第2章
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第2章第8話
シェリルは満足そうに喉を鳴らすと、彫刻の前に立つ二人をゆっくりと見た。
「結構。ブックマンの坊やは、やはり物分かりがいい。……お嬢さんも、その素直さを忘れないことだね」
「……」
チカは、口角を保ったまま頭を下げた。
ラビは笑顔を崩さないまま、別れの挨拶を口にしようとした。
これ以上、彼女をこの男たちの前に立たせておくわけにはいかない。
その時だった。
「ああ、そうだ。ところで坊や、今度どうかね」
シェリルが、思い出したように小さく盃を持つ真似をした。
その声は親しげで、だからこそ底の方に冷たいものがあった。
「久しぶりに、ゆっくり大人の話をしよう。君の好きな、綺麗なお姉さんがいる店にでも」
胸の奥に、また新しい、今度は少し色の違う針が、音もなく突き刺さる。
チカには想像もつかない、きらびやかで、淫らな、大人たちの夜の世界。
ラビが普段呼吸しているのは、酪農の土の匂いとは対極にある、そういう濃密なお酒と香水の匂いがする場所なのだと、改めて突きつけられた気がした。
だが、ラビの反応はどこまでも滑らかだった。
「ええ。時間が合えば、ぜひ」
声のトーンひとつ変えず、拒絶もせず、自然に微笑んでみせる。
そのあまりの慣れ方に、チカは距離を感じていた。
シェリルは、そんな二人のわずかな硬直を、見逃さずに楽しんでいるようだった。
「楽しみにしているよ。……ああ、それから」
すれ違いざま、シェリルがラビの耳元に、楽しげな追伸を落とす。
「そこのママがね、また君に会いたいと言っていたよ。今度はぜひ、店の奥の特等席に顔を出しておくれ」
シェリルの口から放たれたその一言は、チカの前でラビの「男としての夜の顔」をこれでもかと見せつける、最高に上品で、決定的なトドメの嫌がらせだった。
「伝言、確かに。よろしくお伝えください」
ラビは最後まで、完璧な笑顔を貼り付けたまま頭を下げた。
「ではね、坊や。お嬢さんも、良い休日を」
ロードが目を細めてクスクスと笑い、シェリルの腕にぶら下がるようにして、二人はゆっくりと出口の方へ歩いていく。
彼らの背中が出入口に向かっても、ラビの身体から、ちっとも力が抜けない。
それどころか、脇を閉めた腕の硬さは、まるで石膏のようだった。
口元には、まだあの人懐っこく、礼儀正しい笑顔が残っている。
それはもう表情と呼べるものではなかった。
ただ皮膚の形をそこに固定しているだけの、冷たい仮面だった。
周囲の視線を警戒しているのか。
それとも、去っていった男の耳を恐れているのか。
ラビの目の奥にある温度は完全にゼロのまま、張り詰めた空気が、二人の間に満ちていた。
「ラビさん……?」
チカは、腕越しに伝わる石膏のような硬さに、耐えかねて小声で呼びかけた。
けれど、ラビは前を向いたまま、貼り付いた笑顔をミリ単位も動かさない。
ただ、その唇の端から、酷く低い地声が零れた。
「黙ってて。あの人、耳がいいから」
まだ、完全に離れていない、背後に潜む悪意の耳が、こちらのわずかな動揺をも拾おうと研ぎ澄まされている。
それを本能で察しているからこそ、ラビは呼吸さえ浅く保っていた。
(これ以上、この人にこんな顔をさせたくない)
チカの胸の奥で、何かが決然と動いた。
一族の都合、家柄の差、夜の社交。
ラビの中に残った冷たい空気を、少しでも別の方へ逃がしてあげたかった。
何を言えばいいのかは分からない。
それでも、このまま黙っていることだけはできなかった。
チカは意を決した。
組んでいた腕にぐっと力を込め、自分の身体を大きく捻るようにして、中央に鎮座するティエドールの新作の彫刻へと向き直る。
そして、場違いなほどにまっすぐに突き抜けるような明るい声をあげた。
「ラビさん! 見てください!」
その声は、凍りついていた展示室の空気を、物理的に叩き割るようにして響いた。
ラビの目の奥が、かすかに揺れる。
チカは止まらない。
さっきまで「ティエドール氏は顔の無い作品を作ったんだろう?」とさえ思っていた作品を見据え、その瞳に、一瞬で職人の、猛烈に熱い光を灯した。
「この素材、白い石でも金属でもありません。大理石の微粉末に特殊な合成樹脂を極限まで練り込んだ、完全なオリジナル素材です。見てください、この表面の滑らかさ! 通常のチゼルではこの均一な光沢は出せません。おそらく指先と革だけで、何百時間も磨き上げて成形しています。気が遠くなるような変態的執念です……!」
早口だった。
その言葉の刃は、シェリルたちの放った陰湿なナイフよりも遥かに鋭く、純粋だった。
「さっき私は、この彫刻に顔がなくて怖いと思ってたんです。でも違います! 顔がないのは、ここに来る人の感情をそのまま映す『鏡』にするためです。見る側が企んでいれば歪んで見えるし、傷ついていれば悲しく見える。作家は、鑑賞者の心の暴力をそのままこの白い輪郭に引き受けさせようとしているんです。なんて……なんて優しくて、傲慢な作品なんでしょう!」
怒涛の勢いで繰り出される、ガチの美術品解説。
周囲の上品な招待客たちが、何事かと驚いたようにこちらをチラチラと見てくる。
だが、チカはそんな視線など一瞥もくれなかった。
ただ、隣にいるラビの凍った心を、自分の言葉の熱で叩き起こすことだけを考えて、眼輪筋を限界まで見開いて熱弁を振るい続ける。
「ラビさん、これを作ったティエドール氏は、きっと世界を信じていません。でも、同時に、世界にめちゃくちゃ愛されたがっています。じゃないと、こんなに寂しくて綺麗な境界線、引けるはずがありません……!」
そこまで一気に捲し立てて、チカははっと息を止めた。
隣を恐る恐る見上げる。
ラビの口元から、ゆっくりと、あの完璧で冷たい仮面の笑みが剥がれ落ちていくところだった。
ラビの視線が、ゆっくりとチカへと落ちる。
貼り付いていたプラスチックのような笑顔が消え、剥き出しになった彼の顔は、驚くほどに幼く、そしてひどく戸惑っているように見えた。
周囲の好奇の視線など、今のラビの視界には届いていなかった。
ただ、眼輪筋を限界まで見開いて、息を荒くしながら自分を真っ直ぐに見つめてくる、この不器用なひたむきさだけが、彼の世界に鮮烈に飛び込んできた。
(……この人は)
ラビの胸の奥で、カチリ、と冷たい氷が割れる音がした。
シェリルの前で、あれほど自尊心を削られるような言葉を投げつけられたのだ。
未熟だと下げられ、実家の酪農を「牛臭い」とまで嘲笑われた。
守るための戦術だったとはいえ、自分自身の口からも、彼女の生まれを否定するような紹介をしてしまった。
普通の女の子なら、とっくに泣き出してこの場を逃げ出しているか、自分をなじるかのどちらかだろう。
なのに、この人は。
チカは、怒るでもなく、泣くでもなく、ただ自分の仮面を剥ぎ取るためだけに、その細い身体のすべてを使って、怒涛の熱弁を振るってくれた。
周囲に白い目で見られるリスクなどお構いなしに、自分の「うんちく」を盾にして、悪意の底に沈みかけていたラビの意識を、強引に引っ張り上げてくれたのだ。
凍りついていたラビの体温が、内側からほんわかと、痛いほどの熱を持って融解していく。
「……チカ」
低く呼んだ声には、さっきまでの冷徹なCEOの影も、次期ブックマンの仮面もなかった。
ただの、一人の人間としての、嘘偽りのない声だった。
じわりと、胸の奥から湧き上がる愛おしさと、それ以上の猛烈な罪悪感がラビを苛む。
どう説明すればいい。
どう言えば、この不器用な優しさに報いることができる?
さっきのは全部、あの吸血鬼みたいな男からお前を守るための、ただの社交の嘘なんだと。俺はお前の実家を恥じてなんていないし、本当は、誰よりもお前のその見る目を誇らしく思っているんだと。
いつもなら、どんな相手にだって瞬時に最適解の言葉を繰り出せる天才の脳が、今のチカの前では、まるで使い物にならない歯車のように空回りしていた。
喉の奥まで出かかった言葉を、どう切り出すべきかラビが激しく迷った、その時だった。
チカの目元から、すっと熱が引いていく。
眼輪筋の力が抜け、彼女はいつもの、穏やかなチカに戻った。
しかしその瞳は、さっき廊下で「ちゃんと合わせる」と言ってくれた時とは違っていた。
ラビの迷いや葛藤のすべてを静かに見透かしたような、それと同時に、自分の周囲に決定的な一線を引き直したような、ひどく美しくて、寂しい目をしていた。
チカは、ふわりと口角を上げて笑ってみせた。
モナ・リザの真似ではない。
いつもの、穏やかで物分かりの良い笑顔。
「ラビさん、私は大丈夫ですよ」
その声の静けさに、ラビの心臓がどくりと跳ねた。
「ほら、本当のことですし……。気にしないでください」
本当のこと。
自分は一族の末端の、田舎の酪農家の娘だということ。
ラビの隣に立つにはまだ早くて、言葉の裏も読めない未熟者だということ。
そして――ラビには、自分には一生かかっても計り知れない、きらびやかで淫らな『夜の社交の世界』があるのが当たり前なのだ、ということ。
それは、チカが傷ついた末にたどり着いた、あまりにも切なくて、あまりにも完璧な納得だった。
仕方のないことなのだと、彼女は自分で自分に言い聞かせて、この短い時間で納得してしまったのだ。
ラビを困らせないために。
これ以上、彼に申し訳なさそうな顔をさせないために、優しさの服を着せた絶望で、自分の心を綺麗に包み隠してしまった。
(違う)
ラビは、ハッとした。
正面から、シェリルの悪意を浴びた時とは全く違う種類の、冷たい戦慄が走る。
今、この場でちゃんと掠め取っておかなければ、この人はこの笑顔のまま、自分の手の届かない遠い場所へ行ってしまう。
一線を引き直した硝子細工の向こう側に、閉じこもってしまう。
野生の勘が、ブックマンの血が、彼の脳内でけたたましく警報を鳴らしていた。
つづく、2026/06/16
シェリルは満足そうに喉を鳴らすと、彫刻の前に立つ二人をゆっくりと見た。
「結構。ブックマンの坊やは、やはり物分かりがいい。……お嬢さんも、その素直さを忘れないことだね」
「……」
チカは、口角を保ったまま頭を下げた。
ラビは笑顔を崩さないまま、別れの挨拶を口にしようとした。
これ以上、彼女をこの男たちの前に立たせておくわけにはいかない。
その時だった。
「ああ、そうだ。ところで坊や、今度どうかね」
シェリルが、思い出したように小さく盃を持つ真似をした。
その声は親しげで、だからこそ底の方に冷たいものがあった。
「久しぶりに、ゆっくり大人の話をしよう。君の好きな、綺麗なお姉さんがいる店にでも」
胸の奥に、また新しい、今度は少し色の違う針が、音もなく突き刺さる。
チカには想像もつかない、きらびやかで、淫らな、大人たちの夜の世界。
ラビが普段呼吸しているのは、酪農の土の匂いとは対極にある、そういう濃密なお酒と香水の匂いがする場所なのだと、改めて突きつけられた気がした。
だが、ラビの反応はどこまでも滑らかだった。
「ええ。時間が合えば、ぜひ」
声のトーンひとつ変えず、拒絶もせず、自然に微笑んでみせる。
そのあまりの慣れ方に、チカは距離を感じていた。
シェリルは、そんな二人のわずかな硬直を、見逃さずに楽しんでいるようだった。
「楽しみにしているよ。……ああ、それから」
すれ違いざま、シェリルがラビの耳元に、楽しげな追伸を落とす。
「そこのママがね、また君に会いたいと言っていたよ。今度はぜひ、店の奥の特等席に顔を出しておくれ」
シェリルの口から放たれたその一言は、チカの前でラビの「男としての夜の顔」をこれでもかと見せつける、最高に上品で、決定的なトドメの嫌がらせだった。
「伝言、確かに。よろしくお伝えください」
ラビは最後まで、完璧な笑顔を貼り付けたまま頭を下げた。
「ではね、坊や。お嬢さんも、良い休日を」
ロードが目を細めてクスクスと笑い、シェリルの腕にぶら下がるようにして、二人はゆっくりと出口の方へ歩いていく。
彼らの背中が出入口に向かっても、ラビの身体から、ちっとも力が抜けない。
それどころか、脇を閉めた腕の硬さは、まるで石膏のようだった。
口元には、まだあの人懐っこく、礼儀正しい笑顔が残っている。
それはもう表情と呼べるものではなかった。
ただ皮膚の形をそこに固定しているだけの、冷たい仮面だった。
周囲の視線を警戒しているのか。
それとも、去っていった男の耳を恐れているのか。
ラビの目の奥にある温度は完全にゼロのまま、張り詰めた空気が、二人の間に満ちていた。
「ラビさん……?」
チカは、腕越しに伝わる石膏のような硬さに、耐えかねて小声で呼びかけた。
けれど、ラビは前を向いたまま、貼り付いた笑顔をミリ単位も動かさない。
ただ、その唇の端から、酷く低い地声が零れた。
「黙ってて。あの人、耳がいいから」
まだ、完全に離れていない、背後に潜む悪意の耳が、こちらのわずかな動揺をも拾おうと研ぎ澄まされている。
それを本能で察しているからこそ、ラビは呼吸さえ浅く保っていた。
(これ以上、この人にこんな顔をさせたくない)
チカの胸の奥で、何かが決然と動いた。
一族の都合、家柄の差、夜の社交。
ラビの中に残った冷たい空気を、少しでも別の方へ逃がしてあげたかった。
何を言えばいいのかは分からない。
それでも、このまま黙っていることだけはできなかった。
チカは意を決した。
組んでいた腕にぐっと力を込め、自分の身体を大きく捻るようにして、中央に鎮座するティエドールの新作の彫刻へと向き直る。
そして、場違いなほどにまっすぐに突き抜けるような明るい声をあげた。
「ラビさん! 見てください!」
その声は、凍りついていた展示室の空気を、物理的に叩き割るようにして響いた。
ラビの目の奥が、かすかに揺れる。
チカは止まらない。
さっきまで「ティエドール氏は顔の無い作品を作ったんだろう?」とさえ思っていた作品を見据え、その瞳に、一瞬で職人の、猛烈に熱い光を灯した。
「この素材、白い石でも金属でもありません。大理石の微粉末に特殊な合成樹脂を極限まで練り込んだ、完全なオリジナル素材です。見てください、この表面の滑らかさ! 通常のチゼルではこの均一な光沢は出せません。おそらく指先と革だけで、何百時間も磨き上げて成形しています。気が遠くなるような変態的執念です……!」
早口だった。
その言葉の刃は、シェリルたちの放った陰湿なナイフよりも遥かに鋭く、純粋だった。
「さっき私は、この彫刻に顔がなくて怖いと思ってたんです。でも違います! 顔がないのは、ここに来る人の感情をそのまま映す『鏡』にするためです。見る側が企んでいれば歪んで見えるし、傷ついていれば悲しく見える。作家は、鑑賞者の心の暴力をそのままこの白い輪郭に引き受けさせようとしているんです。なんて……なんて優しくて、傲慢な作品なんでしょう!」
怒涛の勢いで繰り出される、ガチの美術品解説。
周囲の上品な招待客たちが、何事かと驚いたようにこちらをチラチラと見てくる。
だが、チカはそんな視線など一瞥もくれなかった。
ただ、隣にいるラビの凍った心を、自分の言葉の熱で叩き起こすことだけを考えて、眼輪筋を限界まで見開いて熱弁を振るい続ける。
「ラビさん、これを作ったティエドール氏は、きっと世界を信じていません。でも、同時に、世界にめちゃくちゃ愛されたがっています。じゃないと、こんなに寂しくて綺麗な境界線、引けるはずがありません……!」
そこまで一気に捲し立てて、チカははっと息を止めた。
隣を恐る恐る見上げる。
ラビの口元から、ゆっくりと、あの完璧で冷たい仮面の笑みが剥がれ落ちていくところだった。
ラビの視線が、ゆっくりとチカへと落ちる。
貼り付いていたプラスチックのような笑顔が消え、剥き出しになった彼の顔は、驚くほどに幼く、そしてひどく戸惑っているように見えた。
周囲の好奇の視線など、今のラビの視界には届いていなかった。
ただ、眼輪筋を限界まで見開いて、息を荒くしながら自分を真っ直ぐに見つめてくる、この不器用なひたむきさだけが、彼の世界に鮮烈に飛び込んできた。
(……この人は)
ラビの胸の奥で、カチリ、と冷たい氷が割れる音がした。
シェリルの前で、あれほど自尊心を削られるような言葉を投げつけられたのだ。
未熟だと下げられ、実家の酪農を「牛臭い」とまで嘲笑われた。
守るための戦術だったとはいえ、自分自身の口からも、彼女の生まれを否定するような紹介をしてしまった。
普通の女の子なら、とっくに泣き出してこの場を逃げ出しているか、自分をなじるかのどちらかだろう。
なのに、この人は。
チカは、怒るでもなく、泣くでもなく、ただ自分の仮面を剥ぎ取るためだけに、その細い身体のすべてを使って、怒涛の熱弁を振るってくれた。
周囲に白い目で見られるリスクなどお構いなしに、自分の「うんちく」を盾にして、悪意の底に沈みかけていたラビの意識を、強引に引っ張り上げてくれたのだ。
凍りついていたラビの体温が、内側からほんわかと、痛いほどの熱を持って融解していく。
「……チカ」
低く呼んだ声には、さっきまでの冷徹なCEOの影も、次期ブックマンの仮面もなかった。
ただの、一人の人間としての、嘘偽りのない声だった。
じわりと、胸の奥から湧き上がる愛おしさと、それ以上の猛烈な罪悪感がラビを苛む。
どう説明すればいい。
どう言えば、この不器用な優しさに報いることができる?
さっきのは全部、あの吸血鬼みたいな男からお前を守るための、ただの社交の嘘なんだと。俺はお前の実家を恥じてなんていないし、本当は、誰よりもお前のその見る目を誇らしく思っているんだと。
いつもなら、どんな相手にだって瞬時に最適解の言葉を繰り出せる天才の脳が、今のチカの前では、まるで使い物にならない歯車のように空回りしていた。
喉の奥まで出かかった言葉を、どう切り出すべきかラビが激しく迷った、その時だった。
チカの目元から、すっと熱が引いていく。
眼輪筋の力が抜け、彼女はいつもの、穏やかなチカに戻った。
しかしその瞳は、さっき廊下で「ちゃんと合わせる」と言ってくれた時とは違っていた。
ラビの迷いや葛藤のすべてを静かに見透かしたような、それと同時に、自分の周囲に決定的な一線を引き直したような、ひどく美しくて、寂しい目をしていた。
チカは、ふわりと口角を上げて笑ってみせた。
モナ・リザの真似ではない。
いつもの、穏やかで物分かりの良い笑顔。
「ラビさん、私は大丈夫ですよ」
その声の静けさに、ラビの心臓がどくりと跳ねた。
「ほら、本当のことですし……。気にしないでください」
本当のこと。
自分は一族の末端の、田舎の酪農家の娘だということ。
ラビの隣に立つにはまだ早くて、言葉の裏も読めない未熟者だということ。
そして――ラビには、自分には一生かかっても計り知れない、きらびやかで淫らな『夜の社交の世界』があるのが当たり前なのだ、ということ。
それは、チカが傷ついた末にたどり着いた、あまりにも切なくて、あまりにも完璧な納得だった。
仕方のないことなのだと、彼女は自分で自分に言い聞かせて、この短い時間で納得してしまったのだ。
ラビを困らせないために。
これ以上、彼に申し訳なさそうな顔をさせないために、優しさの服を着せた絶望で、自分の心を綺麗に包み隠してしまった。
(違う)
ラビは、ハッとした。
正面から、シェリルの悪意を浴びた時とは全く違う種類の、冷たい戦慄が走る。
今、この場でちゃんと掠め取っておかなければ、この人はこの笑顔のまま、自分の手の届かない遠い場所へ行ってしまう。
一線を引き直した硝子細工の向こう側に、閉じこもってしまう。
野生の勘が、ブックマンの血が、彼の脳内でけたたましく警報を鳴らしていた。
つづく、2026/06/16