第2章
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第2章第5話
展示室へ続く扉の前で、係員が静かに頭を下げた。
「こちらでございます」
重厚な扉が、音もなく開く。
その向こうに広がっていたのは、ホテルの催事場というより、古い邸宅の応接間をそのまま美術室に変えたような、静かな空間だった。
壁は落ち着いた深い色で統一され、天井から落ちる照明は、展示品だけを柔らかく浮かび上がらせている。
磨き上げられた床には、人の影が淡く映り、遠くで小さく交わされる会話さえ、硝子越しの音のように上品に霞んでいた。
一般公開前の、限られた招待客だけが入れるプレ内覧会。
そこにいる人々は、誰もが場にふさわしい装いをしていた。
仕立ての良いスーツ。
控えめで高価なドレス。
宝石の光。
小さな笑い声。
そのすべてが、ひとつの展示品のように整っている。
チカは思わず息を止めた。
この場所は綺麗だと思った。
同時に、自分がその中に紛れ込んでしまった異物のようにも思えた。
背筋が、少しだけ固くなる。
ラビの腕に添えた指先にも、無意識に力が入った。
「……大丈夫?」
隣から、ラビの声が落ちる。
チカは慌てて頷いた。
「はい。……少し、緊張しました」
「まあ、そういう顔してた」
ラビは軽く笑う。
チカの視線はすぐに、人々の間を抜けて、その奥へ向かった。
淡い照明を受けて、壁際の展示ケースが静かに浮かび上がっている。
古い装飾品。
額装された絵画。
硝子の向こうに置かれた、小さな彫刻。
人の気配より先に、作品の気配がそこにあった。
チカの目が、ゆっくりと変わる。
さっきまで圧倒されていた瞳に、静かな光が戻っていく。
「……でも」
「ん?」
「作品が、すごく綺麗です」
ラビはその横顔を見た。
「すごく?」
「はい」
チカは展示室の奥を見つめたまま、小さく頷く。
「人がたくさんいるのに、作品のまわりだけ、空気が止まって見えます」
「……気に入った?」
「はい」
即答だった。
チカの目は、すでに正面の展示ケースへ吸い寄せられている。
そこには、古い装飾品が一点、深い青の布の上に置かれていた。細工は驚くほど細やかで、光の角度によって金属の色が淡く変わる。
チカの指先が、ラビの腕をほんの少しだけ強く掴んだ。
ラビはそれに気づいて、口元だけで笑う。
さっきまで、腕を組むことひとつにも迷っていた女が、美術品を前にすると途端に前のめりになる。
本当に分かりやすい。
「ラビさん」
「ん?」
「あれ、すごく綺麗です」
「うん。見れば分かる」
「違います。光り方が」
チカは小さく首を振ると、展示ケースの前でぴたりと足を止めた。
ラビの腕に手をかけたまま、目だけが真剣になる。
「正面から見ると金色なんですけど、少し横にずれると、影の中に緑が入ります。たぶん表面の傷に光が引っかかって、色が変わって見えるんだと思います」
「へえ」
「新品の綺麗さじゃなくて、長く触られてきたものの光り方です。……こういうの、好きです」
彼女の声は控えめだったが、言葉の端には熱があった。
さっきまで、愛人だの婚約だのという話で目元を潤ませていた女と同じとは思えないほど、今のチカは生き生きしている。
ラビは横目でその顔を見た。
薄く施された化粧。
淡いドレス。
胸元で揺れる、自分がつけたネックレス。
それらは確かに似合っている。
だが、今、彼女をいちばん輝かせているのは、服でも宝石でもなかった。
展示品を見る目だ。
何かを見つけた時の、静かな興奮。
「……眼輪筋、動いてる」
「はい?」
「いや。なんでもない」
チカは少しだけ不思議そうに瞬きをしたあと、すぐにまた展示品へ視線を戻した。
「この作家さん、たぶん装飾を派手に見せたいんじゃなくて、時間を残したかったんだと思います」
「時間?」
「はい。綺麗なものを綺麗なまま置いておくというより、使われて、擦れて、少し欠けて、それでも残っている感じです」
「なるほどね」
ラビはどこか意識が遠く相槌を打つ。
聞いていないわけではない。
むしろ、普段なら面白がって聞けたかもしれない。
だが同時に、彼の目は会場の中を静かに走っていた。
壁際で談笑する財界人。
文化事業の関係者。
美術館の理事。
政治家の秘書らしき男。
スポンサー企業の役員。
ラビは顔を動かさず、視線だけで会場内の人間を拾っていく。
誰が誰と話しているか。
どのグループにどの企業が混じっているか。
どの視線がこちらに向けられているか。
どの笑顔が本物で、どれが挨拶用か。
そういうものを、考えるより先に見てしまう。
職業病だった。
次期ブックマンとして。
若きCEOとして。
記録する者として。
ここにいる以上、ただ美術品を楽しむ客ではいられない。
「ラビさん?」
チカが、彼の腕に添えた手を少しだけ揺らした。
「この奥の絵も見てもいいですか?」
「ああ、いいよ」
答えながら、ラビの視線がふと止まる。
人の輪の向こう。
照明の落ちる壁際に、ひときわ整った背中があった。
黒に近い濃紺のスーツ。
無駄のない立ち姿。
肩から腰にかけての線が、まるで定規で引いたように美しい。背中だけで、その人間が場の中心に慣れていることが分かる。
ピシッと、美しくスーツを着こなした背中。
ラビの口元から、ほんのわずかに笑みが消えた。
それは一瞬だった。
本当に、瞬きをするほどの短い時間。
チカは、腕越しにその変化を感じた。
隣にいるラビの体温が、すっと遠くなったような気がした。
「……ラビさん?」
呼びかけると、ラビはすぐに笑顔を戻した。
いつもの、人懐っこい顔。
なのに目の奥の温度だけが、さっきまでと違っていた。
「チカ」
名前を呼ぶ声は、柔らかかった。
そして、柔らかいのに、逆らえない響きがあった。
「悪い。先に挨拶しなきゃいけない人がいる」
「……はい」
チカは反射的に頷いた。
ラビは彼女の腕を解かせるのではなく、そのまま自分の腕に添えた手を軽く押さえた。
離れないように形を整えるような、自然で、慣れた仕草だった。
そして、ほんの少しだけ身を屈める。
チカの耳元に、ラビの声が落ちた。
「何を言われても、ただ笑っていて」
囁きは小さい。
会場の誰にも聞こえないほど低く、静かだった。
そしてそこには、先ほどまでの甘さも、からかいもなかった。
表情は崩さない。
声も荒げない。
歩幅も乱さない。
それなのに、その一言だけで、チカは今から向かう場所が美術品の前ではなく、別の種類の展示台なのだと理解した。
人が、人を値踏みする場所。
「……笑っているだけ、ですか」
「うん」
ラビは前を向いたまま答える。
「それだけでいい」
それだけでいい。
その言葉は、チカを守るためのものに聞こえた。
同時に、チカの言葉を必要としていないという意味にも聞こえた。
チカは胸元のネックレスに触れそうになって、やめた。
代わりに、ラビの腕をほんの少しだけ掴み直す。
「……分かりました」
ラビはその返事を聞くと、満足したように小さく頷いた。
「いい子」
軽い言い方だった。
だが、いつもの冗談のようには聞こえなかった。
ラビの歩き方が変わる。
さっきまでチカの歩幅に合わせていた足取りが、今は会場の空気そのものに合わせている。
速すぎず、遅すぎず、視線を集めすぎず、しかし無視されることもない速度。
チカは、その横顔を見上げた。
笑っている。
だけど、やはり目は笑っていなかった。
展示品の前で見せた柔らかさも、さっき廊下で「ちゃんと合わせる」と言った時の近さも、今は薄い膜の向こうに隠れている。
代わりにそこにいるのは、テレビで見た若きCEOであり、一族の次期後継者であり、誰にも隙を見せない男だった。
チカは、ラビの腕に添えた自分の手を見た。
自分は今、この人の隣にいる。
だが、隣に立つということがどういうことなのか、たぶんまだ何も分かっていない。
「チカ」
もう一度、ラビが低く呼んだ。
「はい」
「顔」
「……え」
「笑って」
言われた瞬間、チカは慌てて口角を上げた。
笑わなければ、と思った。
失礼のないように。
上品に。
いずれ一族の頂点に立つ人の隣に立つ人間として、場に馴染むように。
そう思えば思うほど、顔のどこに力を入れればいいのかチカは分からなくなる。
脳裏に、一枚の絵が浮かんだ。
モナ・リザ。
世界で最も有名な、あの静かな微笑み。
口元は控えめに。
目元はやわらかく。
見る人によって意味が変わるような、曖昧で、穏やかな表情。
そうだ。
微笑みとは、あれだ。
チカは真剣にそう判断した。
そして、できるだけ静かに、できるだけ上品に、口角を上げる。
しかし実際には、口元だけがぎこちなく持ち上がり、目元にはおかしな力が入っていた。
微笑みというより、何かを見定めているような顔。
あるいは、これから本物か贋作かを判定する鑑定士のような顔。
チカ本人は、かなりモナ・リザに寄せたつもりだった。
柔らかく微笑んでいるつもりだった。
少なくとも本人は、そのつもりだった。
ラビはちらりと彼女を見た。
そして、一瞬だけ口元が崩れそうになった。
(……何を参考にしたら、その顔になるのさ。)
そう思った。
思ったが、言わなかった。
「……」
危ない。
今は、笑うところじゃない。
もちろん、馬鹿にしたいわけではなかった。
むしろ逆だ。
隣で真面目に“微笑み”を作ろうとしているチカが、あまりにも不器用で、あまりにも一生懸命で。
そのくせ、出来上がった顔が少しも社交用の微笑みになっていないものだから、ラビは不意を突かれた。
そんな不器用な所が、可愛い、と思ってしまった。
「……うん」
ラビは浅く息を吐く。
笑いを逃がすように、ほんの少しだけ視線を逸らした。
それから、何事もなかったように目を細める。
「大丈夫」
完璧、とは言わなかった。
言えるはずもなかった。
それに今ここで直させるつもりもなかった。
その不器用な笑顔ごと、自分の隣に立たせる。
ラビはそう決めたように、彼女の手がかかった腕をほんの少しだけ引き寄せた。
「それでいいよ」
チカは瞬きをした。
「……この顔で、ですか」
「うん」
「変ではありませんか」
「変じゃない」
少しだけ間が空く。
「……たぶん」
「たぶん」
チカが小さく繰り返す。
ラビは今度こそ、ほんの少しだけ笑った。
ただし、声には出さない。
「いいから。俺の隣にいて」
その言い方は軽いが、もちろん腕に添えられた手を解かせる気はないようだった。
チカはまだ少し不安そうにしながらも、こくりと頷く。
「……はい」
ラビは前を向いた。
その先で、ピシッと美しくスーツを着こなした背中が、ゆっくりと振り返る。
ラビの口元に、完璧な笑みが浮かんだ。
人懐っこく、礼儀正しく、隙がない。
「お久しぶりです。大臣」
声は明るい。
その隣で、チカは言われた通りに微笑んだ。
少しぎこちなく。
少し鋭く。
けれど、ラビの腕をちゃんと掴んだまま。
つづく、2026/06/12
展示室へ続く扉の前で、係員が静かに頭を下げた。
「こちらでございます」
重厚な扉が、音もなく開く。
その向こうに広がっていたのは、ホテルの催事場というより、古い邸宅の応接間をそのまま美術室に変えたような、静かな空間だった。
壁は落ち着いた深い色で統一され、天井から落ちる照明は、展示品だけを柔らかく浮かび上がらせている。
磨き上げられた床には、人の影が淡く映り、遠くで小さく交わされる会話さえ、硝子越しの音のように上品に霞んでいた。
一般公開前の、限られた招待客だけが入れるプレ内覧会。
そこにいる人々は、誰もが場にふさわしい装いをしていた。
仕立ての良いスーツ。
控えめで高価なドレス。
宝石の光。
小さな笑い声。
そのすべてが、ひとつの展示品のように整っている。
チカは思わず息を止めた。
この場所は綺麗だと思った。
同時に、自分がその中に紛れ込んでしまった異物のようにも思えた。
背筋が、少しだけ固くなる。
ラビの腕に添えた指先にも、無意識に力が入った。
「……大丈夫?」
隣から、ラビの声が落ちる。
チカは慌てて頷いた。
「はい。……少し、緊張しました」
「まあ、そういう顔してた」
ラビは軽く笑う。
チカの視線はすぐに、人々の間を抜けて、その奥へ向かった。
淡い照明を受けて、壁際の展示ケースが静かに浮かび上がっている。
古い装飾品。
額装された絵画。
硝子の向こうに置かれた、小さな彫刻。
人の気配より先に、作品の気配がそこにあった。
チカの目が、ゆっくりと変わる。
さっきまで圧倒されていた瞳に、静かな光が戻っていく。
「……でも」
「ん?」
「作品が、すごく綺麗です」
ラビはその横顔を見た。
「すごく?」
「はい」
チカは展示室の奥を見つめたまま、小さく頷く。
「人がたくさんいるのに、作品のまわりだけ、空気が止まって見えます」
「……気に入った?」
「はい」
即答だった。
チカの目は、すでに正面の展示ケースへ吸い寄せられている。
そこには、古い装飾品が一点、深い青の布の上に置かれていた。細工は驚くほど細やかで、光の角度によって金属の色が淡く変わる。
チカの指先が、ラビの腕をほんの少しだけ強く掴んだ。
ラビはそれに気づいて、口元だけで笑う。
さっきまで、腕を組むことひとつにも迷っていた女が、美術品を前にすると途端に前のめりになる。
本当に分かりやすい。
「ラビさん」
「ん?」
「あれ、すごく綺麗です」
「うん。見れば分かる」
「違います。光り方が」
チカは小さく首を振ると、展示ケースの前でぴたりと足を止めた。
ラビの腕に手をかけたまま、目だけが真剣になる。
「正面から見ると金色なんですけど、少し横にずれると、影の中に緑が入ります。たぶん表面の傷に光が引っかかって、色が変わって見えるんだと思います」
「へえ」
「新品の綺麗さじゃなくて、長く触られてきたものの光り方です。……こういうの、好きです」
彼女の声は控えめだったが、言葉の端には熱があった。
さっきまで、愛人だの婚約だのという話で目元を潤ませていた女と同じとは思えないほど、今のチカは生き生きしている。
ラビは横目でその顔を見た。
薄く施された化粧。
淡いドレス。
胸元で揺れる、自分がつけたネックレス。
それらは確かに似合っている。
だが、今、彼女をいちばん輝かせているのは、服でも宝石でもなかった。
展示品を見る目だ。
何かを見つけた時の、静かな興奮。
「……眼輪筋、動いてる」
「はい?」
「いや。なんでもない」
チカは少しだけ不思議そうに瞬きをしたあと、すぐにまた展示品へ視線を戻した。
「この作家さん、たぶん装飾を派手に見せたいんじゃなくて、時間を残したかったんだと思います」
「時間?」
「はい。綺麗なものを綺麗なまま置いておくというより、使われて、擦れて、少し欠けて、それでも残っている感じです」
「なるほどね」
ラビはどこか意識が遠く相槌を打つ。
聞いていないわけではない。
むしろ、普段なら面白がって聞けたかもしれない。
だが同時に、彼の目は会場の中を静かに走っていた。
壁際で談笑する財界人。
文化事業の関係者。
美術館の理事。
政治家の秘書らしき男。
スポンサー企業の役員。
ラビは顔を動かさず、視線だけで会場内の人間を拾っていく。
誰が誰と話しているか。
どのグループにどの企業が混じっているか。
どの視線がこちらに向けられているか。
どの笑顔が本物で、どれが挨拶用か。
そういうものを、考えるより先に見てしまう。
職業病だった。
次期ブックマンとして。
若きCEOとして。
記録する者として。
ここにいる以上、ただ美術品を楽しむ客ではいられない。
「ラビさん?」
チカが、彼の腕に添えた手を少しだけ揺らした。
「この奥の絵も見てもいいですか?」
「ああ、いいよ」
答えながら、ラビの視線がふと止まる。
人の輪の向こう。
照明の落ちる壁際に、ひときわ整った背中があった。
黒に近い濃紺のスーツ。
無駄のない立ち姿。
肩から腰にかけての線が、まるで定規で引いたように美しい。背中だけで、その人間が場の中心に慣れていることが分かる。
ピシッと、美しくスーツを着こなした背中。
ラビの口元から、ほんのわずかに笑みが消えた。
それは一瞬だった。
本当に、瞬きをするほどの短い時間。
チカは、腕越しにその変化を感じた。
隣にいるラビの体温が、すっと遠くなったような気がした。
「……ラビさん?」
呼びかけると、ラビはすぐに笑顔を戻した。
いつもの、人懐っこい顔。
なのに目の奥の温度だけが、さっきまでと違っていた。
「チカ」
名前を呼ぶ声は、柔らかかった。
そして、柔らかいのに、逆らえない響きがあった。
「悪い。先に挨拶しなきゃいけない人がいる」
「……はい」
チカは反射的に頷いた。
ラビは彼女の腕を解かせるのではなく、そのまま自分の腕に添えた手を軽く押さえた。
離れないように形を整えるような、自然で、慣れた仕草だった。
そして、ほんの少しだけ身を屈める。
チカの耳元に、ラビの声が落ちた。
「何を言われても、ただ笑っていて」
囁きは小さい。
会場の誰にも聞こえないほど低く、静かだった。
そしてそこには、先ほどまでの甘さも、からかいもなかった。
表情は崩さない。
声も荒げない。
歩幅も乱さない。
それなのに、その一言だけで、チカは今から向かう場所が美術品の前ではなく、別の種類の展示台なのだと理解した。
人が、人を値踏みする場所。
「……笑っているだけ、ですか」
「うん」
ラビは前を向いたまま答える。
「それだけでいい」
それだけでいい。
その言葉は、チカを守るためのものに聞こえた。
同時に、チカの言葉を必要としていないという意味にも聞こえた。
チカは胸元のネックレスに触れそうになって、やめた。
代わりに、ラビの腕をほんの少しだけ掴み直す。
「……分かりました」
ラビはその返事を聞くと、満足したように小さく頷いた。
「いい子」
軽い言い方だった。
だが、いつもの冗談のようには聞こえなかった。
ラビの歩き方が変わる。
さっきまでチカの歩幅に合わせていた足取りが、今は会場の空気そのものに合わせている。
速すぎず、遅すぎず、視線を集めすぎず、しかし無視されることもない速度。
チカは、その横顔を見上げた。
笑っている。
だけど、やはり目は笑っていなかった。
展示品の前で見せた柔らかさも、さっき廊下で「ちゃんと合わせる」と言った時の近さも、今は薄い膜の向こうに隠れている。
代わりにそこにいるのは、テレビで見た若きCEOであり、一族の次期後継者であり、誰にも隙を見せない男だった。
チカは、ラビの腕に添えた自分の手を見た。
自分は今、この人の隣にいる。
だが、隣に立つということがどういうことなのか、たぶんまだ何も分かっていない。
「チカ」
もう一度、ラビが低く呼んだ。
「はい」
「顔」
「……え」
「笑って」
言われた瞬間、チカは慌てて口角を上げた。
笑わなければ、と思った。
失礼のないように。
上品に。
いずれ一族の頂点に立つ人の隣に立つ人間として、場に馴染むように。
そう思えば思うほど、顔のどこに力を入れればいいのかチカは分からなくなる。
脳裏に、一枚の絵が浮かんだ。
モナ・リザ。
世界で最も有名な、あの静かな微笑み。
口元は控えめに。
目元はやわらかく。
見る人によって意味が変わるような、曖昧で、穏やかな表情。
そうだ。
微笑みとは、あれだ。
チカは真剣にそう判断した。
そして、できるだけ静かに、できるだけ上品に、口角を上げる。
しかし実際には、口元だけがぎこちなく持ち上がり、目元にはおかしな力が入っていた。
微笑みというより、何かを見定めているような顔。
あるいは、これから本物か贋作かを判定する鑑定士のような顔。
チカ本人は、かなりモナ・リザに寄せたつもりだった。
柔らかく微笑んでいるつもりだった。
少なくとも本人は、そのつもりだった。
ラビはちらりと彼女を見た。
そして、一瞬だけ口元が崩れそうになった。
(……何を参考にしたら、その顔になるのさ。)
そう思った。
思ったが、言わなかった。
「……」
危ない。
今は、笑うところじゃない。
もちろん、馬鹿にしたいわけではなかった。
むしろ逆だ。
隣で真面目に“微笑み”を作ろうとしているチカが、あまりにも不器用で、あまりにも一生懸命で。
そのくせ、出来上がった顔が少しも社交用の微笑みになっていないものだから、ラビは不意を突かれた。
そんな不器用な所が、可愛い、と思ってしまった。
「……うん」
ラビは浅く息を吐く。
笑いを逃がすように、ほんの少しだけ視線を逸らした。
それから、何事もなかったように目を細める。
「大丈夫」
完璧、とは言わなかった。
言えるはずもなかった。
それに今ここで直させるつもりもなかった。
その不器用な笑顔ごと、自分の隣に立たせる。
ラビはそう決めたように、彼女の手がかかった腕をほんの少しだけ引き寄せた。
「それでいいよ」
チカは瞬きをした。
「……この顔で、ですか」
「うん」
「変ではありませんか」
「変じゃない」
少しだけ間が空く。
「……たぶん」
「たぶん」
チカが小さく繰り返す。
ラビは今度こそ、ほんの少しだけ笑った。
ただし、声には出さない。
「いいから。俺の隣にいて」
その言い方は軽いが、もちろん腕に添えられた手を解かせる気はないようだった。
チカはまだ少し不安そうにしながらも、こくりと頷く。
「……はい」
ラビは前を向いた。
その先で、ピシッと美しくスーツを着こなした背中が、ゆっくりと振り返る。
ラビの口元に、完璧な笑みが浮かんだ。
人懐っこく、礼儀正しく、隙がない。
「お久しぶりです。大臣」
声は明るい。
その隣で、チカは言われた通りに微笑んだ。
少しぎこちなく。
少し鋭く。
けれど、ラビの腕をちゃんと掴んだまま。
つづく、2026/06/12