第2章
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第2章第4話。
引き戸の向こうで、小さく衣擦れの音がした。
ラビはソファに座ったまま、顔を上げる。
一拍遅れて、引き戸が静かに開いた。
「……お待たせしました」
出てきたチカは、ドレスの裾を片手で少し押さえていた。
淡い色の生地が、部屋の光を受けてやわらかく揺れる。
派手ではない。
だからこそ彼女の静かな顔立ちによく馴染んでいた。
整えられた髪。
薄く施された化粧。
慣れない服に、ほんの少しだけ落ち着かなさそうな指先。
ラビは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
似合うと思って選んだ。
絶対に似合うと思った。
しかしそれが、実際に目の前に立たれると、思っていたよりずっと厄介だった。
「……どうですか」
チカが、小さく尋ねる。
ラビはそこでようやく息を吐いた。
「うん、いいね」
声は、思ったより自然に出た。
よかった。
まだ大丈夫。
そう思った次の瞬間、自分が何を基準に大丈夫と言っているのか分からなくなる。
ラビはテーブルの上に置かれた小さな箱へ手を伸ばした。
「こっち来て」
「……はい」
チカが素直に近づく。
ラビは箱を開けた。
中に入っていたのは、細いチェーンのネックレスだった。
チカが目を瞬く。
「これは……?」
「うん。チカに。今日の服に合うと思って」
ラビは立ち上がり、チカの前に立つ。
「髪、少し上げて」
「……はい」
チカは言われた通り、髪をそっと持ち上げた。
白いうなじが見える。
その瞬間、ラビの指先が一拍だけ止まる。
――落ち着け。
ただネックレスをつけるだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ラビはチカの後ろへ回り、細いチェーンを首元へ回した。
指先が肌に触れないように。
触れないようにと思うほど、距離が分からなくなる。
かちり、と小さな音がして、留め具が閉じた。
ラビは一歩下がる。
正面へ回り、彼女の胸元に落ちたネックレスを見る。
細い光が、淡いドレスの上で静かに揺れていた。
「……やっぱり似合う」
その声は、軽口にしては少しだけ低かった。
チカは胸元のネックレスにそっと触れた。
「……ありがとうございます」
その顔は、ちゃんと嬉しそうだった。
少なくとも、ラビにはそう見えた。
しかし、次の瞬間、その目がほんの少し伏せられる。
ラビはすぐに気づいた。
「なに、その顔」
「え」
「嬉しくない?」
「いえ。嬉しいです。とても」
返事は早かった。
でも、続きがある顔だった。
チカはネックレスに触れたまま、小さく言った。
「ただ……こんなにしていただいていいのかなって」
ラビは少しだけ眉を上げる。
「いいの。俺が早く着きすぎたんだし」
「でも、花束もいただきました」
「待たせたお詫びも兼ねてる」
「服も、靴も、バッグも……」
「それは俺が見たかったから」
言ってから、ラビは一瞬だけ黙った。
チカも黙る。
空気が、ほんの少しだけ変わった。
ラビは軽く咳払いする。
「……似合うと思ったから、って意味」
「……はい」
チカは頷いた。
しかし、まだどこか晴れない。
ラビは彼女の顔を覗き込むように、少し身を屈めた。
「まだ何かある?」
チカは少しだけ唇を結ぶ。
それから、意を決したように顔を上げた。
「……次期ブックマン様」
「ん?」
「好きな人がいるんですよね?」
ラビの笑顔が、その形のまま止まった。
目元は、笑っている。
口角が上がった口許だけが、引き攣っていいる。
表情のどこを笑顔のまま残して、どこから素に戻せばいいのか、本人にも分からなくなったみたいな固まり方だった。
「……」
数秒、ラビは何も言わなかった。
それから、ようやく声が出る。
「……ナニソレ?」
その声は、軽いようでいて、まったく軽くなかった。
チカはラビを見なかった。
視線を胸元のネックレスへ落としたまま、静かに続ける。
「記事を、見ました」
「記事?」
「次期ブックマン様と、ルシア様が……」
そこで言葉が止まる。
どう説明すればいいのか、少し迷った。
写真を見せられれば早かった。
だが、スマートフォンは家に置いてきたままだ。
割烹着のまま連れてこられたのだから、当然、鞄もない。
チカは少し困ったように、指先を重ねる。
「その……手を握って、顔を近づけている写真です」
ラビの表情が、今度こそ死んだ。
「……あー」
心当たりがあった。
ありすぎるくらいあった。
古書堂のカウンター。
ルシアの手。
悪ふざけ。
そして、リンクとルシアの冷たい視線。
あれだ。
間違いなく、あれだ。
チカはさらに続けた。
「婚約者確定、と書いてありました」
「……」
「昔から噂があった、とも」
ラビは片手で額を押さえた。
「いや、待って」
「……はい」
「ちょっと待って。それ、誤解」
チカは黙っている。
怒ってはいなかった。
責めてもいなかった。
ただ、瞳は潤んでいるように見えたが、静かにその事実を受け止めようとしている顔だった。
ラビには、それが余計に痛かった。
「その“はい”は、納得してないやつでしょ」
「写真付きでした」
「写真付きでも誤解なの」
「でも、手を……」
「取ったけど」
言ってから、ラビは自分で言葉の選び方を間違えたと気づいた顔をした。
「……いや、違う。そういう意味じゃなくて」
チカはそこでようやく少しだけ顔を上げた。
「私は大丈夫です」
その一言で、ラビが止まる。
大丈夫。
その言葉の響きが、ひどく嫌だった。
チカはネックレスに触れていた手を、そっと下ろす。
「こういうことは……ちゃんと分かってます。心配しないでください。私は覚悟は出来ています」
「……は?」
「次期ブックマン様と結婚するって、たぶん、こういうことなんですよね」
ラビの目が、はっきりと変わった。
チカは視線を落としたまま、小さく言葉を重ねる。
「次期ブックマン様ぐらいの立場の方になれば、愛人のひとりやふたりはいるものでしょう……?」
「……」
ラビの表情が、完全に消えた。
今度こそ、笑顔の名残すらなかった。
「……誰が?」
声が低い。
チカは少しだけ肩を揺らした。
「え」
「誰の愛人のひとりやふたり?」
「……次期ブックマン様が」
「俺?」
「はい」
「……」
ラビは片手で額を押さえた。
深く息を吸って、吐く。
怒鳴らなかった。
その沈黙の方がよほど怖かった。
「……あんたさ」
「はい」
「俺のこと、どんな最低男だと思ってんの」
「最低とは……」
チカは困ったように瞬く。
その目元にはまだ、さっきの水気が残っていた。
「ただ、そういうものなのかなと」
「そういうものじゃない」
即答だった。
「でも、お金持ちの家柄とか、一族とか、政略結婚とか、そういうものは……」
「ない」
「……ないんですか」
「少なくとも俺はそのつもりない」
ラビはチカから目を逸らさなかった。
「好きな女が他にいる状態で、あんたを嫁にするつもりもない」
「……」
「愛人を作って、あんたに我慢させるつもりもない」
チカの目が、わずかに見開かれる。
ラビはそこで少しだけ言葉を切った。
言いすぎたかもしれない。
だが、ここを曖昧にしたら駄目だと思った。
「それを“次期ブックマンだから仕方ない”みたいに飲み込まれる方が、俺は嫌だ」
チカは黙っていた。
「そもそも俺には何人もの女を相手にする時間なんて無い。今日のデートも、やっと出来た時間なんだ」
胸元のネックレスに触れていた指先が、ほんの少しだけ震えている。
ラビはそれを見て、苦く息を吐いた。
「……まず、それ、ほんとに誤解」
「……はい」
「ルシアは男」
「……はい」
「そう、男」
「……え?」
チカの目が、涙とは別の意味で揺れた。
「男の人?」
「うん。男」
「ルシア様が」
「そうルシアは男」
「……」
チカは数秒、完全に固まった。
ラビは苛立ったように髪をかき上げる。
「それから、愛人もいない」
「……はい」
「ひとりもいない」
「……はい」
「もちろんふたり目もいない」
「……はい」
「増やす予定もない」
「……はい」
「そこ、ちゃんと覚えて」
チカはようやく、小さく頷いた。
「……分かりました」
ラビはまだ少し苦い顔のまま、ぼそりと呟く。
「どんな縁談だと思ってたのさ……」
「すみません」
「謝るとこじゃない。……いや、ちょっと傷ついたけど」
「傷ついたんですか」
「傷ついたよ。愛人のひとりやふたりって、俺そんな顔してる?」
チカは考えた。
考えて、考えた。
「そこで考えないで」
「すみません」
「今のも傷ついた」
「…ごめんなさい」
チカは小さく頭を下げた。
ラビは腕を組んだまま、彼女を見下ろす。
「許さない」
「……え」
チカの目が、少しだけ丸くなる。
ラビは真顔だった。
少なくとも、ぱっと見は。
「ご、ごめんなさい」
「許さないよ」
もう一度、同じように言う。
今度は、ほんの少しだけ声の端が軽かった。
チカは困ったように眉を下げる。
「えっと……どうしよう……」
本気で困っている。
どうしたら許してもらえるのか、真剣に考えている顔だった。
ラビはその顔を見て、少しの間黙った。
からかうつもりだった。
ほんの少しだけ、困らせてやるつもりだった。
チカがあまりにも真面目に受け止めるものだから、逆にこちらの方が調子を狂わされる。
ラビは長く息を吐いた。
「……じゃあさ」
「はい」
「この縁談、途中で投げ出すの絶対ナシな」
チカが目を瞬く。
ラビは腕を組んだまま、少しだけ視線を逸らした。
「それで許してあげる」
軽い言い方だった。
いつものように、冗談めかしているようにも聞こえた。
けれど、その言葉だけは逃げ場がなかった。
チカはしばらく黙っていた。
それから、胸元のネックレスに一度だけ指先を触れさせる。
「……途中で、投げ出さない」
小さな声だった。
でも、はっきりしていた。
「私は、次期ブックマン様との縁談を、途中で投げ出しません」
ラビの目が、ほんの少しだけ止まる。
予想していたより、まっすぐ返ってきた。
「……ほんとに?」
「はい」
「俺が変な奴でも?」
「はい」
「忙しくて連絡忘れても?」
「それは、できれば忘れないでください」
「そこはちゃんと言うんだ」
「はい」
ラビは一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「分かったさ。じゃあ許す」
「……ありがとうございます」
「礼言うとこじゃないけどね」
チカは少しだけ困ったように恥ずかしそうに目を伏せた。
その表情はさっきより柔らかかった。
ラビはそれを見て、ようやく少しだけ胸の奥の重さがほどけるのを感じた。
愛人だの、政略結婚だの、次期ブックマンだから仕方ないだの。
そんなふうに勝手に納得されるのは、腹が立つ。
それでも今、彼女はちゃんと自分の言葉で約束した。
途中で投げ出さない、と。
それだけで、どうして少し安心しているのか。
ラビはまだ、その理由に名前をつけなかった。
「じゃ、行こ」
「はい」
「フロワティエドール、好きなんだよね?」
その言葉に、チカの目がまた少しだけ明るくなる。
「はい」
その反応は、今度は分かりやすかった。
「なら、ここ掴まって」
そう言って、自分の肘を少しだけ差し出した。
チカは一瞬、その肘を見る。
「……ここ、ですか」
「うん」
「腕を、ですか」
「他にどこ掴まるつもり?」
「……いえ」
チカは少しだけ迷ったあと、そっとラビの腕に手を添えた。
指先が、ジャケットの袖に触れる。
それだけだった。
ラビは彼女の手元を見る。
「それ、添えてるだけ」
「掴まっています」
「前に肉食べたでしょ?」
「はい」
「あの時と同じように掴まってさ」
チカは少しだけ黙った。
ラビは笑いを飲み込むように口元を緩め、彼女の手を軽く取り直した。
「こう」
チカの手を、自分の腕へきちんとかけさせる。
距離が、ほんの少し近くなる。
肩が触れるほどではないが、さっきまでより確実に近い。
チカは自分の手がラビの腕に収まったのを見て、少しだけ目を瞬かせた。
「……ドキドキします」
「いいね、それ」
「いいんですか?」
真面目に尋ねてくる彼女に、ラビは少しだけ目を細めた。
分かっているのか、いないのか。
たぶん、半分も分かっていない。
それでも、言われた通りに腕を組んでくる。
その素直さが、また厄介だった。
「じゃ、行こ」
「はい」
ラビが歩き出すと、チカも半歩遅れてついてくる。
今度は、割烹着でも、つっかけでもない。
淡い色のドレス。
歩きやすい靴。
胸元には、ラビがつけたネックレス。
そのすべてを身につけた彼女が、自分の腕に手をかけている。
ラビは前を向いたまま、ほんの少しだけ息を吐いた。
――似合う。
思ったより、ずっと。
「……次期ブックマン様?」
「なに」
「歩幅、大丈夫ですか」
「それ、俺が聞くやつじゃない?」
「そうなんですか」
「そうだよ」
チカは真面目に頷く。
ラビは口元だけで笑った。
今度は、隠さなかった。
「大丈夫。ちゃんと合わせるから。あと、会場ではその呼び方やめて」
その言葉に、チカは少しだけ顔を上げる。
「はい。わかりました。ラビさん」
「うん」
二人はそのまま、ホテルの廊下を進んでいく。
静かな廊下の先には、百周年記念の特別展示室。
一般公開前の、限られた招待客だけが入れる時間。
チカの足取りが、ほんの少しだけ早くなる。
ラビはそれに気づいて、腕を引くのではなく、自然に歩幅を合わせた。
今度は彼女が、少しだけ前のめりになっている。
フロワティエドールの新作が待っているからなのか。
それとも、もう少し別のものが混ざっているのか。
まだ分からない。
だが、さっきよりはずっと分かりやすい。
ラビは自分の腕に添えられた手を一瞬だけ見下ろして、静かに笑った。
「……ほんと、現金」
「はい?」
「なんでもない」
そのまま二人は、展示室へ向かって歩いていった。
つづく、2026/05/11
ルシア(男)の誤解が解けて本当に良かったです……!不器用ながらも着実に絆を深めていく二人を、ぜひ最後まで見守ってください!
引き戸の向こうで、小さく衣擦れの音がした。
ラビはソファに座ったまま、顔を上げる。
一拍遅れて、引き戸が静かに開いた。
「……お待たせしました」
出てきたチカは、ドレスの裾を片手で少し押さえていた。
淡い色の生地が、部屋の光を受けてやわらかく揺れる。
派手ではない。
だからこそ彼女の静かな顔立ちによく馴染んでいた。
整えられた髪。
薄く施された化粧。
慣れない服に、ほんの少しだけ落ち着かなさそうな指先。
ラビは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
似合うと思って選んだ。
絶対に似合うと思った。
しかしそれが、実際に目の前に立たれると、思っていたよりずっと厄介だった。
「……どうですか」
チカが、小さく尋ねる。
ラビはそこでようやく息を吐いた。
「うん、いいね」
声は、思ったより自然に出た。
よかった。
まだ大丈夫。
そう思った次の瞬間、自分が何を基準に大丈夫と言っているのか分からなくなる。
ラビはテーブルの上に置かれた小さな箱へ手を伸ばした。
「こっち来て」
「……はい」
チカが素直に近づく。
ラビは箱を開けた。
中に入っていたのは、細いチェーンのネックレスだった。
チカが目を瞬く。
「これは……?」
「うん。チカに。今日の服に合うと思って」
ラビは立ち上がり、チカの前に立つ。
「髪、少し上げて」
「……はい」
チカは言われた通り、髪をそっと持ち上げた。
白いうなじが見える。
その瞬間、ラビの指先が一拍だけ止まる。
――落ち着け。
ただネックレスをつけるだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
ラビはチカの後ろへ回り、細いチェーンを首元へ回した。
指先が肌に触れないように。
触れないようにと思うほど、距離が分からなくなる。
かちり、と小さな音がして、留め具が閉じた。
ラビは一歩下がる。
正面へ回り、彼女の胸元に落ちたネックレスを見る。
細い光が、淡いドレスの上で静かに揺れていた。
「……やっぱり似合う」
その声は、軽口にしては少しだけ低かった。
チカは胸元のネックレスにそっと触れた。
「……ありがとうございます」
その顔は、ちゃんと嬉しそうだった。
少なくとも、ラビにはそう見えた。
しかし、次の瞬間、その目がほんの少し伏せられる。
ラビはすぐに気づいた。
「なに、その顔」
「え」
「嬉しくない?」
「いえ。嬉しいです。とても」
返事は早かった。
でも、続きがある顔だった。
チカはネックレスに触れたまま、小さく言った。
「ただ……こんなにしていただいていいのかなって」
ラビは少しだけ眉を上げる。
「いいの。俺が早く着きすぎたんだし」
「でも、花束もいただきました」
「待たせたお詫びも兼ねてる」
「服も、靴も、バッグも……」
「それは俺が見たかったから」
言ってから、ラビは一瞬だけ黙った。
チカも黙る。
空気が、ほんの少しだけ変わった。
ラビは軽く咳払いする。
「……似合うと思ったから、って意味」
「……はい」
チカは頷いた。
しかし、まだどこか晴れない。
ラビは彼女の顔を覗き込むように、少し身を屈めた。
「まだ何かある?」
チカは少しだけ唇を結ぶ。
それから、意を決したように顔を上げた。
「……次期ブックマン様」
「ん?」
「好きな人がいるんですよね?」
ラビの笑顔が、その形のまま止まった。
目元は、笑っている。
口角が上がった口許だけが、引き攣っていいる。
表情のどこを笑顔のまま残して、どこから素に戻せばいいのか、本人にも分からなくなったみたいな固まり方だった。
「……」
数秒、ラビは何も言わなかった。
それから、ようやく声が出る。
「……ナニソレ?」
その声は、軽いようでいて、まったく軽くなかった。
チカはラビを見なかった。
視線を胸元のネックレスへ落としたまま、静かに続ける。
「記事を、見ました」
「記事?」
「次期ブックマン様と、ルシア様が……」
そこで言葉が止まる。
どう説明すればいいのか、少し迷った。
写真を見せられれば早かった。
だが、スマートフォンは家に置いてきたままだ。
割烹着のまま連れてこられたのだから、当然、鞄もない。
チカは少し困ったように、指先を重ねる。
「その……手を握って、顔を近づけている写真です」
ラビの表情が、今度こそ死んだ。
「……あー」
心当たりがあった。
ありすぎるくらいあった。
古書堂のカウンター。
ルシアの手。
悪ふざけ。
そして、リンクとルシアの冷たい視線。
あれだ。
間違いなく、あれだ。
チカはさらに続けた。
「婚約者確定、と書いてありました」
「……」
「昔から噂があった、とも」
ラビは片手で額を押さえた。
「いや、待って」
「……はい」
「ちょっと待って。それ、誤解」
チカは黙っている。
怒ってはいなかった。
責めてもいなかった。
ただ、瞳は潤んでいるように見えたが、静かにその事実を受け止めようとしている顔だった。
ラビには、それが余計に痛かった。
「その“はい”は、納得してないやつでしょ」
「写真付きでした」
「写真付きでも誤解なの」
「でも、手を……」
「取ったけど」
言ってから、ラビは自分で言葉の選び方を間違えたと気づいた顔をした。
「……いや、違う。そういう意味じゃなくて」
チカはそこでようやく少しだけ顔を上げた。
「私は大丈夫です」
その一言で、ラビが止まる。
大丈夫。
その言葉の響きが、ひどく嫌だった。
チカはネックレスに触れていた手を、そっと下ろす。
「こういうことは……ちゃんと分かってます。心配しないでください。私は覚悟は出来ています」
「……は?」
「次期ブックマン様と結婚するって、たぶん、こういうことなんですよね」
ラビの目が、はっきりと変わった。
チカは視線を落としたまま、小さく言葉を重ねる。
「次期ブックマン様ぐらいの立場の方になれば、愛人のひとりやふたりはいるものでしょう……?」
「……」
ラビの表情が、完全に消えた。
今度こそ、笑顔の名残すらなかった。
「……誰が?」
声が低い。
チカは少しだけ肩を揺らした。
「え」
「誰の愛人のひとりやふたり?」
「……次期ブックマン様が」
「俺?」
「はい」
「……」
ラビは片手で額を押さえた。
深く息を吸って、吐く。
怒鳴らなかった。
その沈黙の方がよほど怖かった。
「……あんたさ」
「はい」
「俺のこと、どんな最低男だと思ってんの」
「最低とは……」
チカは困ったように瞬く。
その目元にはまだ、さっきの水気が残っていた。
「ただ、そういうものなのかなと」
「そういうものじゃない」
即答だった。
「でも、お金持ちの家柄とか、一族とか、政略結婚とか、そういうものは……」
「ない」
「……ないんですか」
「少なくとも俺はそのつもりない」
ラビはチカから目を逸らさなかった。
「好きな女が他にいる状態で、あんたを嫁にするつもりもない」
「……」
「愛人を作って、あんたに我慢させるつもりもない」
チカの目が、わずかに見開かれる。
ラビはそこで少しだけ言葉を切った。
言いすぎたかもしれない。
だが、ここを曖昧にしたら駄目だと思った。
「それを“次期ブックマンだから仕方ない”みたいに飲み込まれる方が、俺は嫌だ」
チカは黙っていた。
「そもそも俺には何人もの女を相手にする時間なんて無い。今日のデートも、やっと出来た時間なんだ」
胸元のネックレスに触れていた指先が、ほんの少しだけ震えている。
ラビはそれを見て、苦く息を吐いた。
「……まず、それ、ほんとに誤解」
「……はい」
「ルシアは男」
「……はい」
「そう、男」
「……え?」
チカの目が、涙とは別の意味で揺れた。
「男の人?」
「うん。男」
「ルシア様が」
「そうルシアは男」
「……」
チカは数秒、完全に固まった。
ラビは苛立ったように髪をかき上げる。
「それから、愛人もいない」
「……はい」
「ひとりもいない」
「……はい」
「もちろんふたり目もいない」
「……はい」
「増やす予定もない」
「……はい」
「そこ、ちゃんと覚えて」
チカはようやく、小さく頷いた。
「……分かりました」
ラビはまだ少し苦い顔のまま、ぼそりと呟く。
「どんな縁談だと思ってたのさ……」
「すみません」
「謝るとこじゃない。……いや、ちょっと傷ついたけど」
「傷ついたんですか」
「傷ついたよ。愛人のひとりやふたりって、俺そんな顔してる?」
チカは考えた。
考えて、考えた。
「そこで考えないで」
「すみません」
「今のも傷ついた」
「…ごめんなさい」
チカは小さく頭を下げた。
ラビは腕を組んだまま、彼女を見下ろす。
「許さない」
「……え」
チカの目が、少しだけ丸くなる。
ラビは真顔だった。
少なくとも、ぱっと見は。
「ご、ごめんなさい」
「許さないよ」
もう一度、同じように言う。
今度は、ほんの少しだけ声の端が軽かった。
チカは困ったように眉を下げる。
「えっと……どうしよう……」
本気で困っている。
どうしたら許してもらえるのか、真剣に考えている顔だった。
ラビはその顔を見て、少しの間黙った。
からかうつもりだった。
ほんの少しだけ、困らせてやるつもりだった。
チカがあまりにも真面目に受け止めるものだから、逆にこちらの方が調子を狂わされる。
ラビは長く息を吐いた。
「……じゃあさ」
「はい」
「この縁談、途中で投げ出すの絶対ナシな」
チカが目を瞬く。
ラビは腕を組んだまま、少しだけ視線を逸らした。
「それで許してあげる」
軽い言い方だった。
いつものように、冗談めかしているようにも聞こえた。
けれど、その言葉だけは逃げ場がなかった。
チカはしばらく黙っていた。
それから、胸元のネックレスに一度だけ指先を触れさせる。
「……途中で、投げ出さない」
小さな声だった。
でも、はっきりしていた。
「私は、次期ブックマン様との縁談を、途中で投げ出しません」
ラビの目が、ほんの少しだけ止まる。
予想していたより、まっすぐ返ってきた。
「……ほんとに?」
「はい」
「俺が変な奴でも?」
「はい」
「忙しくて連絡忘れても?」
「それは、できれば忘れないでください」
「そこはちゃんと言うんだ」
「はい」
ラビは一瞬だけ黙って、それから小さく笑った。
「分かったさ。じゃあ許す」
「……ありがとうございます」
「礼言うとこじゃないけどね」
チカは少しだけ困ったように恥ずかしそうに目を伏せた。
その表情はさっきより柔らかかった。
ラビはそれを見て、ようやく少しだけ胸の奥の重さがほどけるのを感じた。
愛人だの、政略結婚だの、次期ブックマンだから仕方ないだの。
そんなふうに勝手に納得されるのは、腹が立つ。
それでも今、彼女はちゃんと自分の言葉で約束した。
途中で投げ出さない、と。
それだけで、どうして少し安心しているのか。
ラビはまだ、その理由に名前をつけなかった。
「じゃ、行こ」
「はい」
「フロワティエドール、好きなんだよね?」
その言葉に、チカの目がまた少しだけ明るくなる。
「はい」
その反応は、今度は分かりやすかった。
「なら、ここ掴まって」
そう言って、自分の肘を少しだけ差し出した。
チカは一瞬、その肘を見る。
「……ここ、ですか」
「うん」
「腕を、ですか」
「他にどこ掴まるつもり?」
「……いえ」
チカは少しだけ迷ったあと、そっとラビの腕に手を添えた。
指先が、ジャケットの袖に触れる。
それだけだった。
ラビは彼女の手元を見る。
「それ、添えてるだけ」
「掴まっています」
「前に肉食べたでしょ?」
「はい」
「あの時と同じように掴まってさ」
チカは少しだけ黙った。
ラビは笑いを飲み込むように口元を緩め、彼女の手を軽く取り直した。
「こう」
チカの手を、自分の腕へきちんとかけさせる。
距離が、ほんの少し近くなる。
肩が触れるほどではないが、さっきまでより確実に近い。
チカは自分の手がラビの腕に収まったのを見て、少しだけ目を瞬かせた。
「……ドキドキします」
「いいね、それ」
「いいんですか?」
真面目に尋ねてくる彼女に、ラビは少しだけ目を細めた。
分かっているのか、いないのか。
たぶん、半分も分かっていない。
それでも、言われた通りに腕を組んでくる。
その素直さが、また厄介だった。
「じゃ、行こ」
「はい」
ラビが歩き出すと、チカも半歩遅れてついてくる。
今度は、割烹着でも、つっかけでもない。
淡い色のドレス。
歩きやすい靴。
胸元には、ラビがつけたネックレス。
そのすべてを身につけた彼女が、自分の腕に手をかけている。
ラビは前を向いたまま、ほんの少しだけ息を吐いた。
――似合う。
思ったより、ずっと。
「……次期ブックマン様?」
「なに」
「歩幅、大丈夫ですか」
「それ、俺が聞くやつじゃない?」
「そうなんですか」
「そうだよ」
チカは真面目に頷く。
ラビは口元だけで笑った。
今度は、隠さなかった。
「大丈夫。ちゃんと合わせるから。あと、会場ではその呼び方やめて」
その言葉に、チカは少しだけ顔を上げる。
「はい。わかりました。ラビさん」
「うん」
二人はそのまま、ホテルの廊下を進んでいく。
静かな廊下の先には、百周年記念の特別展示室。
一般公開前の、限られた招待客だけが入れる時間。
チカの足取りが、ほんの少しだけ早くなる。
ラビはそれに気づいて、腕を引くのではなく、自然に歩幅を合わせた。
今度は彼女が、少しだけ前のめりになっている。
フロワティエドールの新作が待っているからなのか。
それとも、もう少し別のものが混ざっているのか。
まだ分からない。
だが、さっきよりはずっと分かりやすい。
ラビは自分の腕に添えられた手を一瞬だけ見下ろして、静かに笑った。
「……ほんと、現金」
「はい?」
「なんでもない」
そのまま二人は、展示室へ向かって歩いていった。
つづく、2026/05/11
ルシア(男)の誤解が解けて本当に良かったです……!不器用ながらも着実に絆を深めていく二人を、ぜひ最後まで見守ってください!