第2章
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第2章第3話。
案内された部屋は、ホテルの上階にある静かな一室だった。
大きな窓の向こうには、森の緑と遠くの山並みが見える。
室内は白と淡い木目を基調に整えられていて、余計な装飾は少ないのに、置かれている家具のひとつひとつに、安っぽさはまるでなかった。
広すぎるわけではない。
でも、ひと息ついた瞬間に、自分の家とは違う場所へ来たのだと分かる部屋だった。
その中央。
ソファの前に置かれた低いテーブルの上に、いくつかの箱が並んでいた。
一番大きな箱には、淡い色のリボンがかけられている。
その隣にも、形の違う箱が二つ。
どれも綺麗に整えられていて、ただの荷物には見えなかった。
チカは、テーブルの前で足を止める。
割烹着の裾が、膝のあたりで小さく揺れた。
「……次期ブックマン様」
「なに」
「この箱、なんでしょう」
ラビは隣まで歩いてきて、何でもないように答えた。
「開けてみて」
「……開けて、いいんですか」
「チカのだから」
「私の」
その言葉に、チカは少しだけ目を瞬かせた。
花束の時もそうだった。
この人は、当たり前みたいに、自分のためのものを差し出してくる。
それにどう反応すればいいのか、まだ少し分からない。
チカは一番大きな箱の前に立つ。
リボンに指をかける前に、自分の手を一度見た。
さっきまでゴム手袋をしていた手。
拭き掃除をしていた手。
その手で触れるには、目の前の箱は少し綺麗すぎる気がした。
ラビは何も言わない。
ただ、開けるのを待っている。
1度だけラビを見てから、チカはそっとリボンを解いた。
箱の蓋を持ち上げる。
中に入っていたのは、淡い色のドレスだった。
派手ではなく、ひと目で分かるくらい上質な生地。
柔らかく光を含むような色で、余計な飾りはほとんどない。
それでも、丁寧に畳まれた布の輪郭だけで、チカはしばらく目を離せなかった。
「……ドレス」
「うん」
「これ……」
「今日着るやつ」
チカはドレスとラビを交互に見た。
「私が、ですか」
「他に誰が着るの」
軽く言われて、返す言葉がなくなる。
チカはもう一度、箱の中を見下ろした。
それから隣の箱へ視線を移す。
ラビが小さく顎で促した。
「そっちも」
チカは言われるまま、隣の箱を開けた。
中には靴が入っていた。
その隣の箱には、小さなバッグ。
どれも、今開けたドレスに合わせて選ばれたものだと、見れば分かった。
色も、形も、主張しすぎない。
でも、ひとつひとつがちゃんと綺麗だった。
チカはしばらく箱の前で黙っていた。
「……これ、全部」
「うん」
「私のために、用意してくださったんですか」
ラビは少しだけ肩をすくめる。
「そう言ったでしょ」
その声は軽かった。
雑に集めたものではない。
誰かが、ちゃんとひとりの人間を思い浮かべて選んだものだと分かる置き方だった。
チカは箱の中のドレスを見下ろしたまま、小さく息を吸った。
「……ありがとうございます」
その声は、思っていたよりずっと小さく出た。
ラビは彼女の横顔を見て、少しだけ目を細めた。
「気に入った?」
チカはすぐには答えなかった。
ドレスを見て、靴を見て、バッグを見る。
それから、ゆっくり頷いた。
「……はい」
胸の奥が、少しだけ熱かった。
でもそれが、綺麗なものをもらったからなのか。
それとも、自分に似合うように選ばれていたからなのか。
まだ、分からなかった。
「じゃあ、向こうで着替えておいでよ」
ラビが、隣の部屋を軽く指さした。
その先には、ベッドがふたつ並んだ寝室が見える。
リビングとは数枚の引き戸で仕切れる造りになっていて、閉めればきちんと別の空間になるようだった。
「はい」
チカはドレスの箱を抱え、靴とバッグの箱も慎重に持ち上げた。
けれど、一度に全部持つには少し多い。
箱の角が傾きかけたところで、ラビが自然に靴とバッグの箱を取った。
「それは俺が持つさ」
「すみません」
「いいよ」
ラビは寝室の入口まで歩くと、箱をベッド脇の小さなテーブルへ置いた。
チカはドレスを抱えたまま、その部屋へ足を踏み入れる。
ふかふかの絨毯に、つっかけが妙に場違いな音を立てた。
「……」
チカは足元を見た。
つっかけ。
ドレス。
高級ホテルの寝室。
どう考えても、順番がおかしかった。
ラビはそれを見て、またほんの少しだけ口元を緩めた後、すぐに何でもない顔に戻した。
「着替え終わったら呼んで」
「はい」
「急がなくていいから」
「……でも、時間が」
「着替えの時間くらいはある」
ラビはそう言って、リビング側へ戻った。
引き戸に手をかける。
「じゃ、閉めるよ」
「はい」
引き戸が静かに閉まっていく。
木の枠が重なると、リビングの音が少しずつ遠くなる。
最後の一枚が閉まると、部屋の中は急に静かになった。
チカはしばらく、ドレスを抱えたまま立っていた。
窓の外には、森と山が見える。
さっきまで牛舎の前にいたのに。
さっきまで、雑巾で廊下を拭いていたのに。
今、自分は高級リゾートホテルの寝室で、次期ブックマンが用意したドレスを抱えている。
「……」
チカはゆっくり息を吸った。
それから、ベッドの上へドレスをそっと広げる。
生地は、指先で触れるのが少し怖いくらい柔らかかった。
割烹着の紐をほどく。
普段なら何も考えずに脱ぐものなのに、今だけは現実感がなかった。
引き戸一枚を隔てた向こう側に、ラビがいる。
ただそれだけのことが、落ち着かなかった。
見られているわけではない。
声をかけられているわけでもない。
こちらへ入ってくる気配もない。
それなのに、衣擦れの音ひとつまで、やけに大きく聞こえる。
チカは無意識に引き戸の方を見た。
閉まっている。
ちゃんと閉まっている。
それを確認しても、胸の奥は少しだけ騒がしい。
視線が、部屋の中央に置かれたベッドへ向く。
ふたつ並んだ、白く整えられたベッド。
もし、今。
あの引き戸が開いたら。
ラビが中に入ってきて、何も言わずに自分を抱きしめたら。
そんなことを、ほんの一瞬だけ考えてしまった。
「……っ」
チカは慌てて顔を伏せた。
耳まで熱い。
何を考えているのだろう。
ただ着替えるだけだ。
そのための部屋で、そのためのドレスで、それ以上の意味はない。
ないはずなのに。
引き戸一枚向こうに異性がいるというだけで、頭の中が勝手におかしな方向へ転がっていく。
「……違う」
誰に言い訳するでもなく、小さく呟く。
それから慌てるように、畳んだ割烹着を椅子の背にかけ、つっかけを脱いだ。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
引き戸が閉まる音を聞いて、ラビはソファへ腰を下ろした。
室内は静かだった。
さっきまでヘリの中にいたせいか、その静けさが少しだけ耳に残る。
ラビは背もたれに身体を預け、窓の外に視線を移した。
ドレス。靴。バッグ。
全部、昨日のうちに手配したものだった。
派手すぎないもの。
地味すぎないもの。
歩きづらくない靴。
本人が気後れしすぎない色。
チャットでそう伝えたら、コーディネーターは何点か候補を出してきた。
その中から、ラビが最後にひとつ選んだ。
理由は、簡単だった。
似合うと思ったから。
「……」
ラビは小さく息を吐く。
花束を渡した時。
ドレスの箱を開けた時。
フロワティエドールの名前を聞いた時。
チカはたしかに、少しだけ顔を明るくした。
特に、展示の話を聞いた時は分かりやすかった。
声が弾んだ。
目も少し変わった。
あれは、嬉しかったのだと思う。
たぶん。
問題は、そこではない。
服だ。
花束と、服と、靴と、バッグ。
あれを見た時のチカの顔が、どうにも読めなかった。
嬉しそうではあったが、同じくらい困っているようにも見えた。
申し訳なさそうにも見えた。
受け取っていいのか分からない、という顔。
「……何考えてんのさ」
ぽつりと呟く。
もちろん返事はない。
引き戸の向こうから、かすかな物音がした。
衣擦れの音。
たぶん、着替えている。
ラビは一瞬だけそちらを見て、すぐに視線を逸らした。
考えるな。
向こうで着替えていることを、今考えるな。
自分で連れてきた。
自分で部屋を取った。
自分で着替えを用意した。
なのに、いざ引き戸一枚向こうで着替えられると、変に意識するのは、だいぶ格好悪い。
ラビは額に手を当てる。
「……最悪」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
女の子に花を渡す。
服を贈る。
綺麗な場所に連れていく。
そんなことは、今まで何度もしてきた。
相手がどう反応するかも、大体分かっていた。
喜ぶ子。
遠慮する子。
わざと困った顔をする子。
もっと欲しがる子。
少し拗ねる子。
反応には、だいたい型がある。
しかしチカは、そのどれにもきれいにはまらない。
花束を見て目を明るくしたくせに、まずゴム手袋を気にした。
高級ホテルで手を繋がれて固まったくせに、フロワティエドールの名前には声を弾ませた。
ドレスを見て喜んだように見えたのに、その顔にはどこか、身の置き場がないような影があった。
あれは嬉しかったのか。
それとも、困らせただけなのか。
ラビはソファの上で膝に肘をつき、指先で口元を覆った。
分からない。
読めない。
読めないことが、こんなに気になるとは思わなかった。
「……変な女」
そう言ってから、自分で少しだけ苦く笑う。
変なのは、たぶん自分の方だ。
およそ2ヶ月ぶりに会っただけ。
実質、まともに話した時間だって少ない。
それなのに、花を渡した時の目の動きや、箱を開けた時の沈黙ひとつを、こんなふうに考えている。
引き戸の向こうで、何かが小さく動く音がした。
ラビはまた、そちらを見そうになる。
見ないようにして、窓の外へ視線を逃がす。
森の緑は変わらず静かだった。
このホテルを選んだのは、彼女が喜びそうだと思ったからだ。
美術品の修復をしているなら、フロワティエドールの新作は外さない。
人混みもない。
昼間で、健全で、妙な誤解も生みにくい。
それなりに考えた。
ただの女慣れした段取りではない。
そう言い切りたいのに。
いざ彼女の顔を見ると、その自信が少し揺れる。
「……嬉しかったなら、もう少し分かりやすくしてよ」
誰に言うでもなく呟く。
言ってから、ラビは口元を覆ったまま目を伏せた。
分かりやすい女が好きだったわけではない。
むしろ、分かりやすい反応には慣れすぎていた。
なのに今は、分かりにくい彼女に、勝手に苛立っている。
勝手に気になっている。
勝手に、もっと分かりたいと思っている。
「……ほんと、面倒」
その時、引き戸の向こうで、かすかに衣擦れの音が止まった。
ラビは顔を上げる。
もうすぐ出てくる。
自分が選んだドレスを着て。
自分が選んだ靴を履いて。
自分が選んだバッグを持って。
それを想像した瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
似合うと思った。
絶対に似合うと思った。
でも、実際に見たらどうなるのか。
ラビはソファに座り直し、何でもない顔を作ろうとして――
やめた。
たぶん、また見抜かれる。
だから代わりに、少しだけ息を吐いた。
「……さて」
出てきた時、彼女はどんな顔をするだろう。
嬉しそうか。
困った顔か。
また、よく分からない顔か。
どれでもいいような気もするのに、本当は少しだけ期待していた。
ちゃんと、嬉しそうな顔をしてくれたらいい。
そんなことを思っている自分に、ラビはまた小さく笑った。
つづく、2026/05/10
案内された部屋は、ホテルの上階にある静かな一室だった。
大きな窓の向こうには、森の緑と遠くの山並みが見える。
室内は白と淡い木目を基調に整えられていて、余計な装飾は少ないのに、置かれている家具のひとつひとつに、安っぽさはまるでなかった。
広すぎるわけではない。
でも、ひと息ついた瞬間に、自分の家とは違う場所へ来たのだと分かる部屋だった。
その中央。
ソファの前に置かれた低いテーブルの上に、いくつかの箱が並んでいた。
一番大きな箱には、淡い色のリボンがかけられている。
その隣にも、形の違う箱が二つ。
どれも綺麗に整えられていて、ただの荷物には見えなかった。
チカは、テーブルの前で足を止める。
割烹着の裾が、膝のあたりで小さく揺れた。
「……次期ブックマン様」
「なに」
「この箱、なんでしょう」
ラビは隣まで歩いてきて、何でもないように答えた。
「開けてみて」
「……開けて、いいんですか」
「チカのだから」
「私の」
その言葉に、チカは少しだけ目を瞬かせた。
花束の時もそうだった。
この人は、当たり前みたいに、自分のためのものを差し出してくる。
それにどう反応すればいいのか、まだ少し分からない。
チカは一番大きな箱の前に立つ。
リボンに指をかける前に、自分の手を一度見た。
さっきまでゴム手袋をしていた手。
拭き掃除をしていた手。
その手で触れるには、目の前の箱は少し綺麗すぎる気がした。
ラビは何も言わない。
ただ、開けるのを待っている。
1度だけラビを見てから、チカはそっとリボンを解いた。
箱の蓋を持ち上げる。
中に入っていたのは、淡い色のドレスだった。
派手ではなく、ひと目で分かるくらい上質な生地。
柔らかく光を含むような色で、余計な飾りはほとんどない。
それでも、丁寧に畳まれた布の輪郭だけで、チカはしばらく目を離せなかった。
「……ドレス」
「うん」
「これ……」
「今日着るやつ」
チカはドレスとラビを交互に見た。
「私が、ですか」
「他に誰が着るの」
軽く言われて、返す言葉がなくなる。
チカはもう一度、箱の中を見下ろした。
それから隣の箱へ視線を移す。
ラビが小さく顎で促した。
「そっちも」
チカは言われるまま、隣の箱を開けた。
中には靴が入っていた。
その隣の箱には、小さなバッグ。
どれも、今開けたドレスに合わせて選ばれたものだと、見れば分かった。
色も、形も、主張しすぎない。
でも、ひとつひとつがちゃんと綺麗だった。
チカはしばらく箱の前で黙っていた。
「……これ、全部」
「うん」
「私のために、用意してくださったんですか」
ラビは少しだけ肩をすくめる。
「そう言ったでしょ」
その声は軽かった。
雑に集めたものではない。
誰かが、ちゃんとひとりの人間を思い浮かべて選んだものだと分かる置き方だった。
チカは箱の中のドレスを見下ろしたまま、小さく息を吸った。
「……ありがとうございます」
その声は、思っていたよりずっと小さく出た。
ラビは彼女の横顔を見て、少しだけ目を細めた。
「気に入った?」
チカはすぐには答えなかった。
ドレスを見て、靴を見て、バッグを見る。
それから、ゆっくり頷いた。
「……はい」
胸の奥が、少しだけ熱かった。
でもそれが、綺麗なものをもらったからなのか。
それとも、自分に似合うように選ばれていたからなのか。
まだ、分からなかった。
「じゃあ、向こうで着替えておいでよ」
ラビが、隣の部屋を軽く指さした。
その先には、ベッドがふたつ並んだ寝室が見える。
リビングとは数枚の引き戸で仕切れる造りになっていて、閉めればきちんと別の空間になるようだった。
「はい」
チカはドレスの箱を抱え、靴とバッグの箱も慎重に持ち上げた。
けれど、一度に全部持つには少し多い。
箱の角が傾きかけたところで、ラビが自然に靴とバッグの箱を取った。
「それは俺が持つさ」
「すみません」
「いいよ」
ラビは寝室の入口まで歩くと、箱をベッド脇の小さなテーブルへ置いた。
チカはドレスを抱えたまま、その部屋へ足を踏み入れる。
ふかふかの絨毯に、つっかけが妙に場違いな音を立てた。
「……」
チカは足元を見た。
つっかけ。
ドレス。
高級ホテルの寝室。
どう考えても、順番がおかしかった。
ラビはそれを見て、またほんの少しだけ口元を緩めた後、すぐに何でもない顔に戻した。
「着替え終わったら呼んで」
「はい」
「急がなくていいから」
「……でも、時間が」
「着替えの時間くらいはある」
ラビはそう言って、リビング側へ戻った。
引き戸に手をかける。
「じゃ、閉めるよ」
「はい」
引き戸が静かに閉まっていく。
木の枠が重なると、リビングの音が少しずつ遠くなる。
最後の一枚が閉まると、部屋の中は急に静かになった。
チカはしばらく、ドレスを抱えたまま立っていた。
窓の外には、森と山が見える。
さっきまで牛舎の前にいたのに。
さっきまで、雑巾で廊下を拭いていたのに。
今、自分は高級リゾートホテルの寝室で、次期ブックマンが用意したドレスを抱えている。
「……」
チカはゆっくり息を吸った。
それから、ベッドの上へドレスをそっと広げる。
生地は、指先で触れるのが少し怖いくらい柔らかかった。
割烹着の紐をほどく。
普段なら何も考えずに脱ぐものなのに、今だけは現実感がなかった。
引き戸一枚を隔てた向こう側に、ラビがいる。
ただそれだけのことが、落ち着かなかった。
見られているわけではない。
声をかけられているわけでもない。
こちらへ入ってくる気配もない。
それなのに、衣擦れの音ひとつまで、やけに大きく聞こえる。
チカは無意識に引き戸の方を見た。
閉まっている。
ちゃんと閉まっている。
それを確認しても、胸の奥は少しだけ騒がしい。
視線が、部屋の中央に置かれたベッドへ向く。
ふたつ並んだ、白く整えられたベッド。
もし、今。
あの引き戸が開いたら。
ラビが中に入ってきて、何も言わずに自分を抱きしめたら。
そんなことを、ほんの一瞬だけ考えてしまった。
「……っ」
チカは慌てて顔を伏せた。
耳まで熱い。
何を考えているのだろう。
ただ着替えるだけだ。
そのための部屋で、そのためのドレスで、それ以上の意味はない。
ないはずなのに。
引き戸一枚向こうに異性がいるというだけで、頭の中が勝手におかしな方向へ転がっていく。
「……違う」
誰に言い訳するでもなく、小さく呟く。
それから慌てるように、畳んだ割烹着を椅子の背にかけ、つっかけを脱いだ。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
引き戸が閉まる音を聞いて、ラビはソファへ腰を下ろした。
室内は静かだった。
さっきまでヘリの中にいたせいか、その静けさが少しだけ耳に残る。
ラビは背もたれに身体を預け、窓の外に視線を移した。
ドレス。靴。バッグ。
全部、昨日のうちに手配したものだった。
派手すぎないもの。
地味すぎないもの。
歩きづらくない靴。
本人が気後れしすぎない色。
チャットでそう伝えたら、コーディネーターは何点か候補を出してきた。
その中から、ラビが最後にひとつ選んだ。
理由は、簡単だった。
似合うと思ったから。
「……」
ラビは小さく息を吐く。
花束を渡した時。
ドレスの箱を開けた時。
フロワティエドールの名前を聞いた時。
チカはたしかに、少しだけ顔を明るくした。
特に、展示の話を聞いた時は分かりやすかった。
声が弾んだ。
目も少し変わった。
あれは、嬉しかったのだと思う。
たぶん。
問題は、そこではない。
服だ。
花束と、服と、靴と、バッグ。
あれを見た時のチカの顔が、どうにも読めなかった。
嬉しそうではあったが、同じくらい困っているようにも見えた。
申し訳なさそうにも見えた。
受け取っていいのか分からない、という顔。
「……何考えてんのさ」
ぽつりと呟く。
もちろん返事はない。
引き戸の向こうから、かすかな物音がした。
衣擦れの音。
たぶん、着替えている。
ラビは一瞬だけそちらを見て、すぐに視線を逸らした。
考えるな。
向こうで着替えていることを、今考えるな。
自分で連れてきた。
自分で部屋を取った。
自分で着替えを用意した。
なのに、いざ引き戸一枚向こうで着替えられると、変に意識するのは、だいぶ格好悪い。
ラビは額に手を当てる。
「……最悪」
小さく呟いた声は、誰にも届かない。
女の子に花を渡す。
服を贈る。
綺麗な場所に連れていく。
そんなことは、今まで何度もしてきた。
相手がどう反応するかも、大体分かっていた。
喜ぶ子。
遠慮する子。
わざと困った顔をする子。
もっと欲しがる子。
少し拗ねる子。
反応には、だいたい型がある。
しかしチカは、そのどれにもきれいにはまらない。
花束を見て目を明るくしたくせに、まずゴム手袋を気にした。
高級ホテルで手を繋がれて固まったくせに、フロワティエドールの名前には声を弾ませた。
ドレスを見て喜んだように見えたのに、その顔にはどこか、身の置き場がないような影があった。
あれは嬉しかったのか。
それとも、困らせただけなのか。
ラビはソファの上で膝に肘をつき、指先で口元を覆った。
分からない。
読めない。
読めないことが、こんなに気になるとは思わなかった。
「……変な女」
そう言ってから、自分で少しだけ苦く笑う。
変なのは、たぶん自分の方だ。
およそ2ヶ月ぶりに会っただけ。
実質、まともに話した時間だって少ない。
それなのに、花を渡した時の目の動きや、箱を開けた時の沈黙ひとつを、こんなふうに考えている。
引き戸の向こうで、何かが小さく動く音がした。
ラビはまた、そちらを見そうになる。
見ないようにして、窓の外へ視線を逃がす。
森の緑は変わらず静かだった。
このホテルを選んだのは、彼女が喜びそうだと思ったからだ。
美術品の修復をしているなら、フロワティエドールの新作は外さない。
人混みもない。
昼間で、健全で、妙な誤解も生みにくい。
それなりに考えた。
ただの女慣れした段取りではない。
そう言い切りたいのに。
いざ彼女の顔を見ると、その自信が少し揺れる。
「……嬉しかったなら、もう少し分かりやすくしてよ」
誰に言うでもなく呟く。
言ってから、ラビは口元を覆ったまま目を伏せた。
分かりやすい女が好きだったわけではない。
むしろ、分かりやすい反応には慣れすぎていた。
なのに今は、分かりにくい彼女に、勝手に苛立っている。
勝手に気になっている。
勝手に、もっと分かりたいと思っている。
「……ほんと、面倒」
その時、引き戸の向こうで、かすかに衣擦れの音が止まった。
ラビは顔を上げる。
もうすぐ出てくる。
自分が選んだドレスを着て。
自分が選んだ靴を履いて。
自分が選んだバッグを持って。
それを想像した瞬間、胸の奥が少しだけ落ち着かなくなる。
似合うと思った。
絶対に似合うと思った。
でも、実際に見たらどうなるのか。
ラビはソファに座り直し、何でもない顔を作ろうとして――
やめた。
たぶん、また見抜かれる。
だから代わりに、少しだけ息を吐いた。
「……さて」
出てきた時、彼女はどんな顔をするだろう。
嬉しそうか。
困った顔か。
また、よく分からない顔か。
どれでもいいような気もするのに、本当は少しだけ期待していた。
ちゃんと、嬉しそうな顔をしてくれたらいい。
そんなことを思っている自分に、ラビはまた小さく笑った。
つづく、2026/05/10