第2章
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第2章第2話。
ヘリの中は、外で聞いていたよりずっと音が近かった。
座席に座らされ、ベルトを締められても、チカは心臓をバクバクさせて、自分の格好を見下ろしていた。
割烹着。
つっかけ。
片手には、外し損ねたゴム手袋。
どう見ても、これから次期ブックマン様と出かける人間の姿ではない。
「……次期ブックマン様?」
「なに」
「私、この格好です」
「うん」
「うん、ではなく」
チカは膝の上に置いた片方のゴム手袋と、足元のつっかけを交互に見た。
その隣で、ラビの口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑った、というほどではない。
声も出さない。
ただ、見てはいけないものを見てしまったみたいに。
ヘアメイクと格好が不釣り合いで、花束を渡した時からラビの腹の中がくすぐったい。
割烹着。
つっかけ。
片方だけ残ったゴム手袋。
その三点が、どうやら彼の中の何かに刺さったらしい。
声に出して笑いたいのを我慢している。
それにチカは気づかない。
自分の足元を見下ろしたまま、真剣に困っている。
「……このままで行けるところならいいんですけど…」
ラビは一度だけ小さく息を逃がしてから、何でもない顔に戻した。
「向こうに準備してあるよ」
「向こう……?」
「ホテル」
「ホテル?」
チカの声が、少しだけ遅れて落ちる。
操縦席の方では、リンクが一切振り返らずに計器を確認していた。
ヘリはゆっくりと高度を上げる。
窓の外で、牧草地が遠ざかっていく。
さっきまで立っていた庭も、牛舎も、父と母の姿も、少しずつ小さくなっていく。
チカは窓に手を添えた。
「……本当に、飛んでる」
「飛んでるね」
「私、ヘリ初めて乗りました」
「そっか、良かった」
「はい」
「向こうに靴も服も用意してあるから」
「用意……」
「気に入ってくれると嬉しい」
「いつの間に」
「昨日かな?用意したのはスタッフだけど」
チカは、今度こそ言葉を失った。
昨日。
自分が家で何を着ればいいのか迷っていた頃、この人はもう向こうで服と靴を用意していたらしい。
ラビは軽く肩をすくめる。
「早く着きすぎたのは俺のミスだけど、服はプレゼントしたかったから」
「……プレゼント」
「うん」
チカは膝の上で、外したゴム手袋をそっと握った。
何から驚けばいいのか、もうよく分からなかった。
ヘリは山の上を越えていく。
眼下に、緑の斜面と細い道が流れていく。
「……すごいですね」
ぽつりとこぼれた声に、ラビが横目で見る。
「何が」
「次期ブックマン様は、移動も大きいです」
ラビは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ肩を揺らして笑う。
「褒めてる?」
「はい。たぶん」
「たぶんか」
その会話を最後に、しばらく機内にはローターの音だけが響いた。
やがて窓の外に、森に囲まれた大きな建物が見えてくる。
白い壁と広いガラス窓。
山の緑の中に、静かに沈むように建っている高級リゾートホテルだった。
「着いた」
ラビが短く言う。
チカはつっかけの足元をもう一度見下ろした。
「……この格好であそこに…」
「…大丈夫。それも似合ってる」
「……」
ヘリはホテルの屋上へ、ゆっくりと高度を落としていった。
ローターの風が、屋上ヘリポートの白いラインを叩いていた。
ヘリが着陸すると同時に、ホテルのスタッフが数名、風を避けるように身を低くしながら近づいてくる。
その先頭に立っていたのは、黒いスーツをきちんと着こなした支配人らしき男性だった。
「お待ちしておりました、ブックマンJr.様」
支配人が深く頭を下げる。
その後ろで、スタッフたちも一斉に礼をした。
チカは固まった。
高級リゾートホテルの屋上ヘリポートで、
整列したホテルスタッフ。
そのすべての前に、自分は割烹着で立っている。
足元はつっかけ。
「……」
チカは、無言で自分の足元を見た。
ラビは隣で何でもない顔をしている。
「例の、届いてる?」
「はい。すぐにご案内できます」
「ありがと」
その会話はあまりにも自然だった。
まるで、割烹着の女をヘリで連れてくることも、ホテルの屋上で支配人に迎えられることも、予定の範囲内みたいだった。
チカだけが、完全に予定の外にいた。
(さすが、次期ブックマン様……。待遇が凄すぎる!)
支配人の視線が、一瞬だけチカの割烹着とつっかけへ落ちる。
「鈴木様も、ようこそお越しくださいました」
「……あ、はい!よろしくお願いします!」
チカは慌てて頭を下げた。
割烹着の裾が、屋上の風に小さく揺れる。
何によろしくなのか分からないけれど、つい口走ってしまった。
支配人は微笑みを崩さなかった。
プロだった。
ラビの口元だけが、またほんの少し緩んだが、それはもちろんチカには見えていない。
「では、こちらへ」
支配人がそう言って、屋上ヘリポートからホテル内へ続く扉へと身体を向けた。
その瞬間だった。
ラビが、ごく自然にチカの手を取った。
(ん?)
あまりにも当たり前の動作だった。
確認もない。
目配せもない。
ただ、これから歩くから当然そうする、みたいな流れで、チカの手を包み込んだ。
チカは一拍遅れて、自分の手が繋がれていることに気づく。
(え?)
声を出す間もなく、ラビは隣を歩き始めていた。
しかも、手を繋いだその瞬間にはもう、何事もなかったように支配人へ話しかけている。
「今日の展示、もう見られる?」
「はい。明日から一般公開となりますので、本日は招待客向けのプレ内覧日でございます」
「混んでる?」
「数組ほどでございます」
「ありがと。人が多いと落ち着かないだろうし」
「承知しております」
会話は滑らかだった。
チカだけが、繋がれた手と、割烹着の袖と、つっかけの足元を順番に見ている。
手。
繋がれている。
次期ブックマン様と。
ホテルの屋上で。
割烹着で。
情報が多すぎて、処理が追いつかない。
その間にも、支配人は丁寧に説明を続けていた。
「本日は当ホテル開業百周年記念の特別企画として、館内ギャラリーにてフロワティエドール氏の新作を展示しております」
チカの足が、止まりかけた。
「……え」
ラビと支配人の会話が、同時に止まる。
チカは思わず顔を上げた。
「フロワティエドールさんの新作ですか!?」
声が弾んでいた。
自分でも驚くくらい、はっきりと。
言ってから、チカはすぐに我に返った。
「……あ、ごめんなさい。邪魔してしまって」
慌てて頭を下げる。
ラビは一瞬だけ彼女を見た。
それから、支配人の前だからか、いつもの万人受けするような柔らかい笑顔を浮かべる。
「チカ、好きそうだと思って、デート先ここにしたんだ」
「……」
チカは言葉を失った。
支配人は、余計な口を挟まず、微笑ましく二人を見ている。
ホテルマンとしての礼儀正しさの中に、ほんの少しだけ人間らしい温度が混じっていた。
チカは繋がれた手を意識したまま、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
その声は、さっきまでより少し明るかった。
「とても、好きです。噂の新作が見られるなんて、幸せです」
ラビの口元が、ほんの少し緩む。
「よかった。喜んでもらえて」
「はい」
チカは小さく頷いた。
胸が熱い。
それが、フロワティエドールの新作を見られるからなのか。
それとも、自分が好きそうだと思って、ラビがこの場所を選んでくれたからなのか。
まだ、よく分からなかった。
分からないまま、チカは繋がれた手を見下ろす。
ラビの手は、部屋に着くまで離れなかった。
つづく、2026/05/09
ヘリの中は、外で聞いていたよりずっと音が近かった。
座席に座らされ、ベルトを締められても、チカは心臓をバクバクさせて、自分の格好を見下ろしていた。
割烹着。
つっかけ。
片手には、外し損ねたゴム手袋。
どう見ても、これから次期ブックマン様と出かける人間の姿ではない。
「……次期ブックマン様?」
「なに」
「私、この格好です」
「うん」
「うん、ではなく」
チカは膝の上に置いた片方のゴム手袋と、足元のつっかけを交互に見た。
その隣で、ラビの口元がほんの少しだけ緩んだ。
笑った、というほどではない。
声も出さない。
ただ、見てはいけないものを見てしまったみたいに。
ヘアメイクと格好が不釣り合いで、花束を渡した時からラビの腹の中がくすぐったい。
割烹着。
つっかけ。
片方だけ残ったゴム手袋。
その三点が、どうやら彼の中の何かに刺さったらしい。
声に出して笑いたいのを我慢している。
それにチカは気づかない。
自分の足元を見下ろしたまま、真剣に困っている。
「……このままで行けるところならいいんですけど…」
ラビは一度だけ小さく息を逃がしてから、何でもない顔に戻した。
「向こうに準備してあるよ」
「向こう……?」
「ホテル」
「ホテル?」
チカの声が、少しだけ遅れて落ちる。
操縦席の方では、リンクが一切振り返らずに計器を確認していた。
ヘリはゆっくりと高度を上げる。
窓の外で、牧草地が遠ざかっていく。
さっきまで立っていた庭も、牛舎も、父と母の姿も、少しずつ小さくなっていく。
チカは窓に手を添えた。
「……本当に、飛んでる」
「飛んでるね」
「私、ヘリ初めて乗りました」
「そっか、良かった」
「はい」
「向こうに靴も服も用意してあるから」
「用意……」
「気に入ってくれると嬉しい」
「いつの間に」
「昨日かな?用意したのはスタッフだけど」
チカは、今度こそ言葉を失った。
昨日。
自分が家で何を着ればいいのか迷っていた頃、この人はもう向こうで服と靴を用意していたらしい。
ラビは軽く肩をすくめる。
「早く着きすぎたのは俺のミスだけど、服はプレゼントしたかったから」
「……プレゼント」
「うん」
チカは膝の上で、外したゴム手袋をそっと握った。
何から驚けばいいのか、もうよく分からなかった。
ヘリは山の上を越えていく。
眼下に、緑の斜面と細い道が流れていく。
「……すごいですね」
ぽつりとこぼれた声に、ラビが横目で見る。
「何が」
「次期ブックマン様は、移動も大きいです」
ラビは一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ肩を揺らして笑う。
「褒めてる?」
「はい。たぶん」
「たぶんか」
その会話を最後に、しばらく機内にはローターの音だけが響いた。
やがて窓の外に、森に囲まれた大きな建物が見えてくる。
白い壁と広いガラス窓。
山の緑の中に、静かに沈むように建っている高級リゾートホテルだった。
「着いた」
ラビが短く言う。
チカはつっかけの足元をもう一度見下ろした。
「……この格好であそこに…」
「…大丈夫。それも似合ってる」
「……」
ヘリはホテルの屋上へ、ゆっくりと高度を落としていった。
ローターの風が、屋上ヘリポートの白いラインを叩いていた。
ヘリが着陸すると同時に、ホテルのスタッフが数名、風を避けるように身を低くしながら近づいてくる。
その先頭に立っていたのは、黒いスーツをきちんと着こなした支配人らしき男性だった。
「お待ちしておりました、ブックマンJr.様」
支配人が深く頭を下げる。
その後ろで、スタッフたちも一斉に礼をした。
チカは固まった。
高級リゾートホテルの屋上ヘリポートで、
整列したホテルスタッフ。
そのすべての前に、自分は割烹着で立っている。
足元はつっかけ。
「……」
チカは、無言で自分の足元を見た。
ラビは隣で何でもない顔をしている。
「例の、届いてる?」
「はい。すぐにご案内できます」
「ありがと」
その会話はあまりにも自然だった。
まるで、割烹着の女をヘリで連れてくることも、ホテルの屋上で支配人に迎えられることも、予定の範囲内みたいだった。
チカだけが、完全に予定の外にいた。
(さすが、次期ブックマン様……。待遇が凄すぎる!)
支配人の視線が、一瞬だけチカの割烹着とつっかけへ落ちる。
「鈴木様も、ようこそお越しくださいました」
「……あ、はい!よろしくお願いします!」
チカは慌てて頭を下げた。
割烹着の裾が、屋上の風に小さく揺れる。
何によろしくなのか分からないけれど、つい口走ってしまった。
支配人は微笑みを崩さなかった。
プロだった。
ラビの口元だけが、またほんの少し緩んだが、それはもちろんチカには見えていない。
「では、こちらへ」
支配人がそう言って、屋上ヘリポートからホテル内へ続く扉へと身体を向けた。
その瞬間だった。
ラビが、ごく自然にチカの手を取った。
(ん?)
あまりにも当たり前の動作だった。
確認もない。
目配せもない。
ただ、これから歩くから当然そうする、みたいな流れで、チカの手を包み込んだ。
チカは一拍遅れて、自分の手が繋がれていることに気づく。
(え?)
声を出す間もなく、ラビは隣を歩き始めていた。
しかも、手を繋いだその瞬間にはもう、何事もなかったように支配人へ話しかけている。
「今日の展示、もう見られる?」
「はい。明日から一般公開となりますので、本日は招待客向けのプレ内覧日でございます」
「混んでる?」
「数組ほどでございます」
「ありがと。人が多いと落ち着かないだろうし」
「承知しております」
会話は滑らかだった。
チカだけが、繋がれた手と、割烹着の袖と、つっかけの足元を順番に見ている。
手。
繋がれている。
次期ブックマン様と。
ホテルの屋上で。
割烹着で。
情報が多すぎて、処理が追いつかない。
その間にも、支配人は丁寧に説明を続けていた。
「本日は当ホテル開業百周年記念の特別企画として、館内ギャラリーにてフロワティエドール氏の新作を展示しております」
チカの足が、止まりかけた。
「……え」
ラビと支配人の会話が、同時に止まる。
チカは思わず顔を上げた。
「フロワティエドールさんの新作ですか!?」
声が弾んでいた。
自分でも驚くくらい、はっきりと。
言ってから、チカはすぐに我に返った。
「……あ、ごめんなさい。邪魔してしまって」
慌てて頭を下げる。
ラビは一瞬だけ彼女を見た。
それから、支配人の前だからか、いつもの万人受けするような柔らかい笑顔を浮かべる。
「チカ、好きそうだと思って、デート先ここにしたんだ」
「……」
チカは言葉を失った。
支配人は、余計な口を挟まず、微笑ましく二人を見ている。
ホテルマンとしての礼儀正しさの中に、ほんの少しだけ人間らしい温度が混じっていた。
チカは繋がれた手を意識したまま、胸の奥がじんと熱くなるのを感じた。
「……ありがとうございます」
その声は、さっきまでより少し明るかった。
「とても、好きです。噂の新作が見られるなんて、幸せです」
ラビの口元が、ほんの少し緩む。
「よかった。喜んでもらえて」
「はい」
チカは小さく頷いた。
胸が熱い。
それが、フロワティエドールの新作を見られるからなのか。
それとも、自分が好きそうだと思って、ラビがこの場所を選んでくれたからなのか。
まだ、よく分からなかった。
分からないまま、チカは繋がれた手を見下ろす。
ラビの手は、部屋に着くまで離れなかった。
つづく、2026/05/09