第2章
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第2章第1話。
ヘリの音が聞こえる、ほんの数分前。
鈴木家は、朝から緊張に包まれていた。
前日の夜。
次期ブックマンが、チカを迎えに来る。と、連絡が入ってから、家の中の空気は少しおかしくなっていた。
迎えに来る。
ただ、それだけ。
家に上がるとも、食事をすると言われたわけでもない。
そう、来るのだ。
次期ブックマンが。
この家の敷地内に。
一言で言うと「やばい」。
例えるならまるで昔の学校の家庭訪問。
鈴木家の3人は、グータラするのを即座に止めて一斉に起き上がったぐらいだ。
その可能性だけで、母は朝から台所で包丁を握ったまま固まっていた。
「……何を食べさせたらいいのかしら」
ぽつりと落ちた声は、真剣そのものだった。
チカは割烹着姿で、ゴム手袋をはめて廊下を拭いていた。
「次期ブックマン様は、たぶん食べないと思う」
「分からないじゃないの」
「迎えに来るって言っただけで、寄るとは言ってないよ」
「寄らないとも言ってないでしょ!?」
母の目が据わっていた。
その手には、まだ包丁が握られている。
「ももこ……捌けばいいかしら」
「お、お母さん!? しっかりして!」
チカは雑巾を放り出して、慌てて母の方へ向かった。
「ももこは乳牛! 捌かない! 捌けない!」
「でも、お肉と言えば牛でしょう!?」
「うちの牛はそういう牛じゃない!」
台所の空気が、朝から危なかった。
外では父が、庭先と玄関周りを掃除している。
庭の手入れを素早く念入りに。
伸び放題の木の枝を剪定バサミで切り落とし、草をむしり、家の周りの使い古されたタライ達を倉庫に隠す。
家の中では母が錯乱し、外では父が無言で雑草と格闘している。
チカだけが、なんとか日常の形を保とうとしていた。
「もし上がることになったら、紅茶とケーキだけでいいよ」
「それでも、次期ブックマン様に山田屋のケーキを食べさせるわけにはいかないでしょ!」
山田屋。
家から一番近い、昔からあるケーキ屋である。
素朴で美味しい。
だが、母の中では、次期ブックマン様に出すには格が足りないことになっていた。
「山田屋さんに失礼だよ……」
「失礼でも何でも、ここは勝負どころなのよ!」
「勝負しなくていいの!」
母は包丁を置くと、急に割烹着の紐へ手をかけた。
「私、ちょっと銀座まで行ってくるわ……」
「銀座って! 東京の!?」
チカは目を剥いた。
「何時間かかると思ってるの!?」
「それとも白金? 代官山?」
「お母さん!!」
ふらふらと玄関へ向かおうとする母を、チカが両手で止める。
「お母さんのチーズケーキでいいんだよ!」
母がぴたりと止まった。
「……私の?」
「うん。うちのチーズ使ったやつ」
チカは真剣な顔で頷いた。
「私、あれが世界で一番美味しいチーズケーキだと思ってる」
母の目が少しだけ揺れる。
「でも……」
「次期ブックマン様だって、銀座のケーキを食べに来るわけじゃないと思う」
「……」
「たぶん」
「たぶん?」
「たぶん……」
そこだけ自信が少し弱くなった。
母はまだ迷っている顔だったが、やがて深く息を吐く。
「……分かったわ」
「うん」
「チーズケーキを焼く」
「うん」
「でも紅茶は一番いいやつを出す」
「それでいいと思う」
ようやく台所の殺気が少しだけ和らいだ。
チカはほっと息を吐き、雑巾を拾い直す。
その時だった。
遠くから、低い音が近づいてきた。
鈴木家の面々はその音を最初は他人事のように聞いていた。
だが、その音はみるみるうちに太くなり、家の壁を震わせるほど大きくなる。
窓ガラスが細かく鳴った。
棚の上の湯呑みが、かたかたと震える。
「……何?」
母が泡立て器を持ったまま、顔を上げる。
次の瞬間、空気そのものが揺れた。
まるで家ごと大きな電気風呂に入れられたみたいな振動だった。
「な、なに!?」
チカはゴム手袋をはめたまま、外へ飛び出す。
母も割烹着姿のまま、その後を追った。
外では、父が竹ぼうきを持ったまま空を見上げている。
庭先の木々が大きく揺れ、干していたタオルがばたばたと暴れていた。
山の向こうから現れた黒い影が、ゆっくりと農場の上空へ近づいてくる。
一機のヘリだった。
「な、なに!? なんでヘリコプターがウチに!?」
母の声が、轟音に半分かき消される。
チカは割烹着にゴム手袋という姿のまま、呆然と空を見上げた。
ヘリはゆっくり高度を落としながら、家の向こうの牧草地へ向かっていく。
ローターの風が、牧草地の草を低く押し倒して着陸した。
機体の扉が開く。
風に煽られながら、ひとりの男が降りてくる。
遠目にも分かる、赤い髪。
すらりとした立ち姿。
チカの手から、雑巾が落ちた。
「……ラビさん」
その声は、ローター音に掻き消された。
ラビは、こちらを見ている。
チカの薄く整えられた化粧。
いつもより少しだけ丁寧にまとめられた髪。
そこまでは、ちゃんと準備をしていたのだと分かる。
服装は、割烹着。
手にはゴム手袋。
足元は、玄関先にあったつっかけ。
どう見ても、何かの途中だった。
その姿を見た瞬間、ラビの顔に浮かびかけた笑みが、ほんの少し崩れた。
いつもの、人懐っこくて、綺麗すぎる笑顔。
それを作りかけて、やめた。
この女には、それを見抜かれる。
たぶん、そう思い出したのだ。
ラビは風に前髪を乱されながら、少しだけ困ったように笑った。
「予定より早く着いちゃった。ごめん」
「いえ! 別に……」
チカは慌てて首を振る。
ラビは片手に持っていた花束を、すっと差し出した。
「これ、チカに」
色とりどりの花束だった。
牧草地と牛舎と、築年数の経った家の前。
その景色の中で、花束だけが都会の匂いをまとっている。
チカは花束を見た。
それから、自分の両手を見た。
ゴム手袋だった。
「……すみません」
「ん?」
「手が」
「ああ」
「ゴム手袋なので」
「構わないけど?」
チカは慌てて片方のゴム手袋を外そうとした。
指先が少し湿っていて、うまく抜けない。
ぺち、と間の抜けた音がした。
ラビは一瞬だけ目を瞬いたあと、ツボに来る。笑い声が出そうになるのを我慢した。
「ゆっくりでいいよ」
ようやく手袋を外し、チカは両手で花束を受け取った。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
花を見下ろす目がほんの少し明るくなる。
「綺麗です」
ラビはその顔を見て、少しだけ口元を緩めた。
「気に入った?」
「はい」
「ならよかった」
それからラビは、ようやく父と母の方へ向き直った。
「突然、騒がしくしてしまってすみません」
ローター音に負けないよう、少し声を張る。
それでも口調は丁寧だった。
「改めまして、ブックマンJr.です。今日はチカさんを少しお借りします」
父は竹ぼうきを持ったまま、母は割烹着に泡立て器を握ったまま固まっていた。
ヘリ。
花束。
次期ブックマン。
割烹着の娘。
異素材過ぎた。
「え、あ、はい……」
母がようやく声を出す。
父も何とか頷いた。
「よろしく、お願いします……」
「こちらこそ」
ラビは礼儀正しく頭を下げる。
次の瞬間、その丁寧さが嘘みたいに、チカの手首を取った。
「じゃ、行くよ」
「え?」
チカの目が丸くなる。
「え、ええ!?」
「時間ないから」
「で、でも、私、この格好……!」
「関係ない」
「関係ない!?」
「うん」
チカは慌てて手元の花束を見る。
「あ、花……!」
「お母さんに預けて」
「あ、はい。……はい!」
言われるがまま、チカは母の方へ花束を差し出した。
「お母さん!」
「え、私!?」
母は泡立て器を持った手で受け取りかけ、慌ててそれを父に押しつけた。
父が反射的に泡立て器を受け取る。
母は両手で花束を抱えた。
「お、お預かりします!」
「お願いします」
ラビはさらりと答える。
チカはまだ状況についていけないまま、ラビに手首を引かれて数歩進んだ。
つっかけが、砂利の上でぱたぱた鳴る。
「ラ、ラビさん、つっかけが!」
「つっかけも問題ない」
「問題あります!」
「大丈夫。俺が用意するから」
「そういう問題では……!」
その声は、ヘリのローター音に半分飲み込まれていく。
チカは割烹着とつっかけのまま。
次期ブックマンに手首を引かれ、ヘリの方へ連れていかれる。
何もかもが、あまりにも突然だった。
そして、何もかもが、もう止められなかった。
つづく、2026/05/07
ヘリの音が聞こえる、ほんの数分前。
鈴木家は、朝から緊張に包まれていた。
前日の夜。
次期ブックマンが、チカを迎えに来る。と、連絡が入ってから、家の中の空気は少しおかしくなっていた。
迎えに来る。
ただ、それだけ。
家に上がるとも、食事をすると言われたわけでもない。
そう、来るのだ。
次期ブックマンが。
この家の敷地内に。
一言で言うと「やばい」。
例えるならまるで昔の学校の家庭訪問。
鈴木家の3人は、グータラするのを即座に止めて一斉に起き上がったぐらいだ。
その可能性だけで、母は朝から台所で包丁を握ったまま固まっていた。
「……何を食べさせたらいいのかしら」
ぽつりと落ちた声は、真剣そのものだった。
チカは割烹着姿で、ゴム手袋をはめて廊下を拭いていた。
「次期ブックマン様は、たぶん食べないと思う」
「分からないじゃないの」
「迎えに来るって言っただけで、寄るとは言ってないよ」
「寄らないとも言ってないでしょ!?」
母の目が据わっていた。
その手には、まだ包丁が握られている。
「ももこ……捌けばいいかしら」
「お、お母さん!? しっかりして!」
チカは雑巾を放り出して、慌てて母の方へ向かった。
「ももこは乳牛! 捌かない! 捌けない!」
「でも、お肉と言えば牛でしょう!?」
「うちの牛はそういう牛じゃない!」
台所の空気が、朝から危なかった。
外では父が、庭先と玄関周りを掃除している。
庭の手入れを素早く念入りに。
伸び放題の木の枝を剪定バサミで切り落とし、草をむしり、家の周りの使い古されたタライ達を倉庫に隠す。
家の中では母が錯乱し、外では父が無言で雑草と格闘している。
チカだけが、なんとか日常の形を保とうとしていた。
「もし上がることになったら、紅茶とケーキだけでいいよ」
「それでも、次期ブックマン様に山田屋のケーキを食べさせるわけにはいかないでしょ!」
山田屋。
家から一番近い、昔からあるケーキ屋である。
素朴で美味しい。
だが、母の中では、次期ブックマン様に出すには格が足りないことになっていた。
「山田屋さんに失礼だよ……」
「失礼でも何でも、ここは勝負どころなのよ!」
「勝負しなくていいの!」
母は包丁を置くと、急に割烹着の紐へ手をかけた。
「私、ちょっと銀座まで行ってくるわ……」
「銀座って! 東京の!?」
チカは目を剥いた。
「何時間かかると思ってるの!?」
「それとも白金? 代官山?」
「お母さん!!」
ふらふらと玄関へ向かおうとする母を、チカが両手で止める。
「お母さんのチーズケーキでいいんだよ!」
母がぴたりと止まった。
「……私の?」
「うん。うちのチーズ使ったやつ」
チカは真剣な顔で頷いた。
「私、あれが世界で一番美味しいチーズケーキだと思ってる」
母の目が少しだけ揺れる。
「でも……」
「次期ブックマン様だって、銀座のケーキを食べに来るわけじゃないと思う」
「……」
「たぶん」
「たぶん?」
「たぶん……」
そこだけ自信が少し弱くなった。
母はまだ迷っている顔だったが、やがて深く息を吐く。
「……分かったわ」
「うん」
「チーズケーキを焼く」
「うん」
「でも紅茶は一番いいやつを出す」
「それでいいと思う」
ようやく台所の殺気が少しだけ和らいだ。
チカはほっと息を吐き、雑巾を拾い直す。
その時だった。
遠くから、低い音が近づいてきた。
鈴木家の面々はその音を最初は他人事のように聞いていた。
だが、その音はみるみるうちに太くなり、家の壁を震わせるほど大きくなる。
窓ガラスが細かく鳴った。
棚の上の湯呑みが、かたかたと震える。
「……何?」
母が泡立て器を持ったまま、顔を上げる。
次の瞬間、空気そのものが揺れた。
まるで家ごと大きな電気風呂に入れられたみたいな振動だった。
「な、なに!?」
チカはゴム手袋をはめたまま、外へ飛び出す。
母も割烹着姿のまま、その後を追った。
外では、父が竹ぼうきを持ったまま空を見上げている。
庭先の木々が大きく揺れ、干していたタオルがばたばたと暴れていた。
山の向こうから現れた黒い影が、ゆっくりと農場の上空へ近づいてくる。
一機のヘリだった。
「な、なに!? なんでヘリコプターがウチに!?」
母の声が、轟音に半分かき消される。
チカは割烹着にゴム手袋という姿のまま、呆然と空を見上げた。
ヘリはゆっくり高度を落としながら、家の向こうの牧草地へ向かっていく。
ローターの風が、牧草地の草を低く押し倒して着陸した。
機体の扉が開く。
風に煽られながら、ひとりの男が降りてくる。
遠目にも分かる、赤い髪。
すらりとした立ち姿。
チカの手から、雑巾が落ちた。
「……ラビさん」
その声は、ローター音に掻き消された。
ラビは、こちらを見ている。
チカの薄く整えられた化粧。
いつもより少しだけ丁寧にまとめられた髪。
そこまでは、ちゃんと準備をしていたのだと分かる。
服装は、割烹着。
手にはゴム手袋。
足元は、玄関先にあったつっかけ。
どう見ても、何かの途中だった。
その姿を見た瞬間、ラビの顔に浮かびかけた笑みが、ほんの少し崩れた。
いつもの、人懐っこくて、綺麗すぎる笑顔。
それを作りかけて、やめた。
この女には、それを見抜かれる。
たぶん、そう思い出したのだ。
ラビは風に前髪を乱されながら、少しだけ困ったように笑った。
「予定より早く着いちゃった。ごめん」
「いえ! 別に……」
チカは慌てて首を振る。
ラビは片手に持っていた花束を、すっと差し出した。
「これ、チカに」
色とりどりの花束だった。
牧草地と牛舎と、築年数の経った家の前。
その景色の中で、花束だけが都会の匂いをまとっている。
チカは花束を見た。
それから、自分の両手を見た。
ゴム手袋だった。
「……すみません」
「ん?」
「手が」
「ああ」
「ゴム手袋なので」
「構わないけど?」
チカは慌てて片方のゴム手袋を外そうとした。
指先が少し湿っていて、うまく抜けない。
ぺち、と間の抜けた音がした。
ラビは一瞬だけ目を瞬いたあと、ツボに来る。笑い声が出そうになるのを我慢した。
「ゆっくりでいいよ」
ようやく手袋を外し、チカは両手で花束を受け取った。
「……ありがとうございます」
声は小さかった。
花を見下ろす目がほんの少し明るくなる。
「綺麗です」
ラビはその顔を見て、少しだけ口元を緩めた。
「気に入った?」
「はい」
「ならよかった」
それからラビは、ようやく父と母の方へ向き直った。
「突然、騒がしくしてしまってすみません」
ローター音に負けないよう、少し声を張る。
それでも口調は丁寧だった。
「改めまして、ブックマンJr.です。今日はチカさんを少しお借りします」
父は竹ぼうきを持ったまま、母は割烹着に泡立て器を握ったまま固まっていた。
ヘリ。
花束。
次期ブックマン。
割烹着の娘。
異素材過ぎた。
「え、あ、はい……」
母がようやく声を出す。
父も何とか頷いた。
「よろしく、お願いします……」
「こちらこそ」
ラビは礼儀正しく頭を下げる。
次の瞬間、その丁寧さが嘘みたいに、チカの手首を取った。
「じゃ、行くよ」
「え?」
チカの目が丸くなる。
「え、ええ!?」
「時間ないから」
「で、でも、私、この格好……!」
「関係ない」
「関係ない!?」
「うん」
チカは慌てて手元の花束を見る。
「あ、花……!」
「お母さんに預けて」
「あ、はい。……はい!」
言われるがまま、チカは母の方へ花束を差し出した。
「お母さん!」
「え、私!?」
母は泡立て器を持った手で受け取りかけ、慌ててそれを父に押しつけた。
父が反射的に泡立て器を受け取る。
母は両手で花束を抱えた。
「お、お預かりします!」
「お願いします」
ラビはさらりと答える。
チカはまだ状況についていけないまま、ラビに手首を引かれて数歩進んだ。
つっかけが、砂利の上でぱたぱた鳴る。
「ラ、ラビさん、つっかけが!」
「つっかけも問題ない」
「問題あります!」
「大丈夫。俺が用意するから」
「そういう問題では……!」
その声は、ヘリのローター音に半分飲み込まれていく。
チカは割烹着とつっかけのまま。
次期ブックマンに手首を引かれ、ヘリの方へ連れていかれる。
何もかもが、あまりにも突然だった。
そして、何もかもが、もう止められなかった。
つづく、2026/05/07