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第1章
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第15話。
「じきに連絡が来るわよ」
母の言葉に、チカは小さく頷いた。
食卓の上には、冷めかけた味噌汁と、ほとんど手をつけられなかった焼き魚が残っている。
そのあと、父と母は牛舎へ戻った。
夕方の搾乳の交代時間だった。
先に食事を取った父と母が牛舎へ入り、代わりに父の弟夫婦が休憩を取る。
家の中が静かになると、チカはしばらく食卓に座っていた。
泣いたあとの目元が少し重い。
でも、いつまでも座っているわけにもいかない。
夜の後片付けは、いつもチカの役目だった。
チカはゆっくり立ち上がり、食器を流しへ運ぶ。
まず、残った煮物を小鉢に移す。
ほとんど手をつけられなかった焼き魚は、皿ごとラップをかけた。
明日の朝なら、きっと食べられる。
そう思って、冷蔵庫へしまう。
いつもの順番。
いつもの動作。
そうしていると、少しだけ頭の中が静かになる。
水を出すと、台所に細い音が広がった。
冷えた椀を軽くすすぐ。
指先に触れる水が、少し冷たい。
椀を重ねる。
箸をそろえる。
その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、短く震えた。
ぶ、と小さな音。
チカは蛇口を止める。
画面が光っていた。
知らない番号。
チカは濡れた手をタオルで拭き、ゆっくりとスマートフォンを手に取った。
「誰だろう?」
ほんの少し迷ってから、通話ボタンを押す。
「……はい」
電話の向こうで、一瞬だけ間があった。
それから、聞き覚えのある声がした。
『……チカ?』
息が止まる。
「……はい」
『ラビだけど』
名乗られなくても、声だけで分かった。
だが、すぐには言葉が出てこなかった。
「……はい」
同じ返事しかできない。
流しの中で、水滴がぽたりと落ちる音だけが聞こえた。
電話の向こうで、ラビが小さく息を吐く。
『連絡遅くなってごめん』
その声は、思っていたよりずっと静かだった。
チカはスマートフォンを耳に当てたまま、少しだけ目を伏せる。
「……お忙しいと、聞きました」
『うん。忙しいのは本当』
電話の向こうで、ラビが小さく息を吐いた。
『でも、それを理由にして、何も言わなかったのは俺が悪い』
「……」
『忘れてたわけじゃないから』
チカの指先が、ほんの少しだけ動いた。
忘れていなかった。
そう言われただけで、沈んでいたなにかが、少しだけ浮かぶ。
「……そう、なんですか」
『うん』
ラビの返事は早かった。
けれどそのあと、わずかに間が空く。
『……正確には、連絡しなきゃとは思ってた』
「……はい」
『思ってたんだけど、仕事が詰まってて……っていうのは言い訳だね』
チカは何も言わなかった。
流しの中で、水滴がまたひとつ落ちる。
『ごめん。待たせた』
その言葉で、チカはようやく小さく息を吸った。
「……はい」
電話の向こうで、ラビが一拍置く。
『でさ、今も時間が無いから、要件だけ言うね』
「はい」
『○月×日に会おう。時間と場所はまた、その時に連絡する』
「はい」
『あと、これ、俺の番号。登録しといて』
「はい」
短い返事しかできなかった。
でも、ひとつひとつの言葉が、ちゃんと胸の中に落ちていく。
次がある。
番号を登録していい。
その事実だけで、チカの手の中のスマートフォンが、さっきまでとは違うものみたいに感じられた。
『じゃあ、切るよ』
「はい」
『また連絡する』
「……はい」
通話は、そこで切れた。
暗くなった画面に、自分の顔がうっすら映る。
チカはしばらく、そのまま動かなかった。
胸の奥が、じん、と温かくなった。
ほんの数分前まで、何もかも止まっていたはずなのに。
次がある。
その一言だけで、止まっていたものが、少しずつまた動き始めた気がした。
チカはスマートフォンの画面をもう一度見下ろす。
知らない番号だったそれを、ゆっくりと連絡先に登録した。
名前の欄に、少し迷ってから入力する。
『 次期ブックマン様』
保存を押す。
それだけのことなのに、指先が少しだけ熱かった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
電話を切ったあと、ラビはしばらくスマートフォンを見ていた。
小型ビジネスジェットの機内には、また低いエンジン音だけが戻ってくる。
ふと視線を上げると、向かいのリンクがこちらを見ていた。
何も言っていない。
だが、その目は明らかに、
――それだけですか。
と言っていた。
ラビは口先を尖らせる。
「何?」
「何も」
「しょうがないだろ? 二時間しか会ったことない奴と、どう話せって言うのさ」
「何も言っておりませんが」
「目が言ってんだよ」
リンクは表情を変えず、手元の書類へ視線を戻した。
ラビはそれから少しして、勝手に口を開いた。
「……泣いてたなんて大真柱は言ったけど」
ラビは窓の外を見て続けた。
「彼女、淡々としてたさ」
「……」
「“はい”しか言わねえし」
まるで文句のような言い方だった。
だが、その声はどこか引っかかっていた。
「ほんと、何考えてるか分かんないんだよね。彼女」
リンクは少しだけ間を置いてから、静かに答えた。
「鈴木様は、電話口で取り乱す方ではないのでしょう」
「……それは分かるけど」
「では、何がご不満で?」
「不満っていうか……ほんと、何考えてるか分かんないんだよね」
「泣いていた方が安心でしたか」
「……ん?」
「分かりやすく傷ついていた方が、Jr.には扱いやすかったのでは」
「お前、ほんと性格悪いな」
「ありがとうございます」
「だから褒めてないって!」
ラビはそう言って、ソファの背にもたれ直した。
小型ビジネスジェットは、相変わらず雲の上を静かに進んでいる。
手元のスマートフォンは、もう暗くなっていた。
たった今登録されたはずの自分の番号が、彼女の手の中に残ったかどうかだけは、はっきり意識していた。
二時間しか過ごしていない。
それなのに、ただの電話一本で、こんなにも調子を狂わされる。
「……変な女」
小さく吐き捨てるように言って、ラビはようやく資料へ視線を戻したが、その文字はしばらく、少しも頭に入ってこなかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
三週間後。
山の向こうから、低い音が近づいてきた。
最初は、遠くで風が唸っているような音だった。
その音は少しずつ太くなり、空気を震わせながら谷間を渡ってくる。
遠くの杉林がざわめいた。
牧草地の草が、まだ姿の見えない何かに押されるように揺れる。
牛舎の中で、牛たちが落ち着かなげに鼻を鳴らした。
やがて、山の稜線の向こうに黒い影が現れた。
一機のヘリだった。
灰色の空を切るようにローターを回しながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
ばらばらと空を叩く音が、家の屋根を揺らし、牛舎のトタンに低く響いた。
庭先の木々が大きくしなり、干していたタオルがばたばたと暴れる。
ヘリは農場の上空へ近づいてきた。
旋回するたびに、影が牧草地を横切っていく。
牛たちが一斉に顔を上げる。
低い羽音は遠ざかるどころか、さらに近く、さらに大きくなっていった。
まるで、この場所を探しているみたいに。
山と牧草地と牛舎だけの景色の中で、その機体だけがあまりにも場違いだった。
ヘリはゆっくり高度を落とす。
ローターの風が、青い草を波のように押し倒していく。
その影が、まっすぐ農場の方へ伸びてきた。
第2章に続く、2026/05/06
「じきに連絡が来るわよ」
母の言葉に、チカは小さく頷いた。
食卓の上には、冷めかけた味噌汁と、ほとんど手をつけられなかった焼き魚が残っている。
そのあと、父と母は牛舎へ戻った。
夕方の搾乳の交代時間だった。
先に食事を取った父と母が牛舎へ入り、代わりに父の弟夫婦が休憩を取る。
家の中が静かになると、チカはしばらく食卓に座っていた。
泣いたあとの目元が少し重い。
でも、いつまでも座っているわけにもいかない。
夜の後片付けは、いつもチカの役目だった。
チカはゆっくり立ち上がり、食器を流しへ運ぶ。
まず、残った煮物を小鉢に移す。
ほとんど手をつけられなかった焼き魚は、皿ごとラップをかけた。
明日の朝なら、きっと食べられる。
そう思って、冷蔵庫へしまう。
いつもの順番。
いつもの動作。
そうしていると、少しだけ頭の中が静かになる。
水を出すと、台所に細い音が広がった。
冷えた椀を軽くすすぐ。
指先に触れる水が、少し冷たい。
椀を重ねる。
箸をそろえる。
その時だった。
テーブルの上に置いていたスマートフォンが、短く震えた。
ぶ、と小さな音。
チカは蛇口を止める。
画面が光っていた。
知らない番号。
チカは濡れた手をタオルで拭き、ゆっくりとスマートフォンを手に取った。
「誰だろう?」
ほんの少し迷ってから、通話ボタンを押す。
「……はい」
電話の向こうで、一瞬だけ間があった。
それから、聞き覚えのある声がした。
『……チカ?』
息が止まる。
「……はい」
『ラビだけど』
名乗られなくても、声だけで分かった。
だが、すぐには言葉が出てこなかった。
「……はい」
同じ返事しかできない。
流しの中で、水滴がぽたりと落ちる音だけが聞こえた。
電話の向こうで、ラビが小さく息を吐く。
『連絡遅くなってごめん』
その声は、思っていたよりずっと静かだった。
チカはスマートフォンを耳に当てたまま、少しだけ目を伏せる。
「……お忙しいと、聞きました」
『うん。忙しいのは本当』
電話の向こうで、ラビが小さく息を吐いた。
『でも、それを理由にして、何も言わなかったのは俺が悪い』
「……」
『忘れてたわけじゃないから』
チカの指先が、ほんの少しだけ動いた。
忘れていなかった。
そう言われただけで、沈んでいたなにかが、少しだけ浮かぶ。
「……そう、なんですか」
『うん』
ラビの返事は早かった。
けれどそのあと、わずかに間が空く。
『……正確には、連絡しなきゃとは思ってた』
「……はい」
『思ってたんだけど、仕事が詰まってて……っていうのは言い訳だね』
チカは何も言わなかった。
流しの中で、水滴がまたひとつ落ちる。
『ごめん。待たせた』
その言葉で、チカはようやく小さく息を吸った。
「……はい」
電話の向こうで、ラビが一拍置く。
『でさ、今も時間が無いから、要件だけ言うね』
「はい」
『○月×日に会おう。時間と場所はまた、その時に連絡する』
「はい」
『あと、これ、俺の番号。登録しといて』
「はい」
短い返事しかできなかった。
でも、ひとつひとつの言葉が、ちゃんと胸の中に落ちていく。
次がある。
番号を登録していい。
その事実だけで、チカの手の中のスマートフォンが、さっきまでとは違うものみたいに感じられた。
『じゃあ、切るよ』
「はい」
『また連絡する』
「……はい」
通話は、そこで切れた。
暗くなった画面に、自分の顔がうっすら映る。
チカはしばらく、そのまま動かなかった。
胸の奥が、じん、と温かくなった。
ほんの数分前まで、何もかも止まっていたはずなのに。
次がある。
その一言だけで、止まっていたものが、少しずつまた動き始めた気がした。
チカはスマートフォンの画面をもう一度見下ろす。
知らない番号だったそれを、ゆっくりと連絡先に登録した。
名前の欄に、少し迷ってから入力する。
『 次期ブックマン様』
保存を押す。
それだけのことなのに、指先が少しだけ熱かった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
電話を切ったあと、ラビはしばらくスマートフォンを見ていた。
小型ビジネスジェットの機内には、また低いエンジン音だけが戻ってくる。
ふと視線を上げると、向かいのリンクがこちらを見ていた。
何も言っていない。
だが、その目は明らかに、
――それだけですか。
と言っていた。
ラビは口先を尖らせる。
「何?」
「何も」
「しょうがないだろ? 二時間しか会ったことない奴と、どう話せって言うのさ」
「何も言っておりませんが」
「目が言ってんだよ」
リンクは表情を変えず、手元の書類へ視線を戻した。
ラビはそれから少しして、勝手に口を開いた。
「……泣いてたなんて大真柱は言ったけど」
ラビは窓の外を見て続けた。
「彼女、淡々としてたさ」
「……」
「“はい”しか言わねえし」
まるで文句のような言い方だった。
だが、その声はどこか引っかかっていた。
「ほんと、何考えてるか分かんないんだよね。彼女」
リンクは少しだけ間を置いてから、静かに答えた。
「鈴木様は、電話口で取り乱す方ではないのでしょう」
「……それは分かるけど」
「では、何がご不満で?」
「不満っていうか……ほんと、何考えてるか分かんないんだよね」
「泣いていた方が安心でしたか」
「……ん?」
「分かりやすく傷ついていた方が、Jr.には扱いやすかったのでは」
「お前、ほんと性格悪いな」
「ありがとうございます」
「だから褒めてないって!」
ラビはそう言って、ソファの背にもたれ直した。
小型ビジネスジェットは、相変わらず雲の上を静かに進んでいる。
手元のスマートフォンは、もう暗くなっていた。
たった今登録されたはずの自分の番号が、彼女の手の中に残ったかどうかだけは、はっきり意識していた。
二時間しか過ごしていない。
それなのに、ただの電話一本で、こんなにも調子を狂わされる。
「……変な女」
小さく吐き捨てるように言って、ラビはようやく資料へ視線を戻したが、その文字はしばらく、少しも頭に入ってこなかった。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
三週間後。
山の向こうから、低い音が近づいてきた。
最初は、遠くで風が唸っているような音だった。
その音は少しずつ太くなり、空気を震わせながら谷間を渡ってくる。
遠くの杉林がざわめいた。
牧草地の草が、まだ姿の見えない何かに押されるように揺れる。
牛舎の中で、牛たちが落ち着かなげに鼻を鳴らした。
やがて、山の稜線の向こうに黒い影が現れた。
一機のヘリだった。
灰色の空を切るようにローターを回しながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
ばらばらと空を叩く音が、家の屋根を揺らし、牛舎のトタンに低く響いた。
庭先の木々が大きくしなり、干していたタオルがばたばたと暴れる。
ヘリは農場の上空へ近づいてきた。
旋回するたびに、影が牧草地を横切っていく。
牛たちが一斉に顔を上げる。
低い羽音は遠ざかるどころか、さらに近く、さらに大きくなっていった。
まるで、この場所を探しているみたいに。
山と牧草地と牛舎だけの景色の中で、その機体だけがあまりにも場違いだった。
ヘリはゆっくり高度を落とす。
ローターの風が、青い草を波のように押し倒していく。
その影が、まっすぐ農場の方へ伸びてきた。
第2章に続く、2026/05/06