好きな名前に変えて読んでみよう!
第1章
❤安心のお名前設定❤
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第13話。
ラビが真鍮の取っ手に手をかける。
扉を押し開けた瞬間、頭上で小さなベルが鳴った。
店内には、古い紙と革表紙の匂いが満ちていた。
壁一面の書棚。
背表紙が日に焼けた本。
小さなランプの鈍い光。
外の通りよりも、時間の流れが少しだけ遅い場所だった。
「いらっしゃいませ」
奥のカウンターから、落ち着いた声がした。
丸眼鏡の奥の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
柔らかく整えられた髪。
上品な服。
穏やかで、どこか底の読めない微笑み。
ぱっと見れば、古書堂に咲いた花のような、美しい女店主そのものだった。
けれどラビもリンクも、その姿が仮のものだと知っている。
店主ルシア。
本来の名を、ナーガ。
「お待ちしておりました、ブックマンJr.」
ルシアは静かに一礼した。
優雅で、隙のない仕草だった。
ラビは片手を軽く上げる。
「久しぶり」
「はい。お久しぶりでございます」
「相変わらず、似合ってるね。その格好」
「ありがとうございます。趣味と実益を兼ねておりますので」
ルシアは穏やかに微笑んだ。
ラビの軽口にも、少しも揺れない。
慣れているのだ。
ラビもそれを分かっている顔で、カウンターへ近づいた。
リンクはその横で、控えめに一礼する。
「ご無沙汰しております、ルシア様」
「リンクもお変わりないようで」
「おかげさまで」
形式的な挨拶が終わると、ラビはカウンターに片肘をついた。
「で、例のものは?」
「奥にございます」
ルシアはカウンターの下から鍵束を取り出す。
「先日の海路案件に関連する原本と、分家の目録が三点。すべて確認済みです」
「仕事が早いね」
「もちろん」
ルシアはにこやかに答えた。
その声音は柔らかい。
だが、仕事に関しては一切の隙がない。
「状態は?」
「原本はやや湿気を含んでおります。封は保っておりますが、長くこちらに置くべきものではございません」
「大真柱送り?」
「はい。私もその方がよろしいかと」
「了解」
ラビは短く答える。
その横でリンクが書類を開き、受け渡しの確認項目を静かに追っていた。
ルシアは奥の扉へ向かいかけて、ふと足を止める。
「それにしても、ブックマンJr.」
「ん?」
「本日は、少々お疲れのご様子ですね」
ラビの口元がわずかに歪む。
「顔に出てる?」
「ほんの少しだけ」
「じゃあ重症だ」
「ふふ」
ルシアは微笑んだだけだった。
ラビは面白くなさそうに息を吐き、カウンター越しに少し身を乗り出す。
「ねえ、ナーガ」
「店内ではルシアでお願いいたします」
「はいはい、ルシア」
その呼び方に、ルシアはにこりと笑った。
怒るでもなく、咎めるでもない。
ただ、さらりと受け流す。
ラビはその態度に甘えるように、悪びれもなく続けた。
「お前が女なら、話は早かったのに」
リンクの手が、ぴたりと止まった。
店内の空気が、ほんの一瞬だけ薄く張る。
ルシアは丸眼鏡の奥で、穏やかに瞬いた。
「私が、でございますか」
「そう」
ラビはカウンター越しに、ルシアの両手を取った。
ふざけた仕草だった。
けれど、長い指が白い手袋越しの手を包み、顔を近づけるその距離は、息がかかるほど近い。
事情を知らない者から見れば親密すぎる距離だ。
傍から見れば次期ブックマンが甘えるようにルシアを口説いているように見える。
「お前が女だったら、今すぐ機嫌直ったんだけどね」
ルシアは抵抗しなかった。
ラビの手の中で指先を静かに揃え、困ったように微笑む。
「お役に立てず、申し訳ございません」
「もうね、大変だよ……。ストレスが溜まってね」
「ふふ。どうか本物の花嫁候補の方をお大事になさってくださいませ」
その言葉に、ラビの笑みがほんの一瞬だけ止まった。
「……まだ表には出てないはずなんだけど」
「先日大真柱に行った時耳にしました」
ルシアは柔らかく言いながら、そっと手を引いた。
拒絶ではない。
ただ、これ以上は形が悪いと分かっている者の、静かな仕草だった。
「Jr.また騒がれても知りませんよ?」
リンクがラビを見る。
その視線は冷たい。
「同感です」
「二人して説教?」
ラビが肩をすくめる。
ルシアは小さく笑った。
「説教など、とんでもございません」
「じゃあ何」
「ブックマンJr.の行く末を、少々安じているだけでございます」
「それを説教って言うんじゃないの」
「では、安じるだけにしておきます」
そう言って、ルシアは奥の扉へ手を向けた。
「こちらへ。資料は奥にございます」
ラビはその後に続こうとして、ふと店内へ視線を流した。
古書堂の中には、まだ数人の客がいた。
書棚の影で本を選ぶ老紳士。
カウンター近くで栞を見ている若い女。
奥の棚を整理している店員。
誰もこちらを見ていないように見える。
けれど、見ていないとは限らない。
リンクが、書類から目を上げずに言った。
「ルシア様をからかうのも、そろそろ止めて欲しいところです」
深刻というより、すでに何度も同じ注意をしてきた人間の声だった。
ラビは肩をすくめる。
「今さらでしょ」
「今さら、で済む立場ではなくなったかと」
ルシアも穏やかな微笑みを崩さないまま、静かに頷いた。
「ええ。ブックマンJr.と私の噂は、昔から尾ひれがつきやすいですから」
「ルシアが綺麗すぎるのが悪い」
「恐れ入ります」
さらりと受け流す声に、ラビはつまらなそうに笑う。
「冗談だって」
「存じております」
ルシアは柔らかく答え、奥の扉へ手を向けた。
「ですが、見たいものだけを見る方には、冗談も都合よく切り取られます。後日ご説明が必要にならないことを祈ります」
「噂なんてほっとけばいいさ。今までもそうだったでしょ」
「……」
リンクのジト目にラビは軽く手を振った。
「はいはい。次から気をつけるさ」
その“次から”がどれほど信用ならないか、リンクもルシアもよく知っている。
だから二人は、それ以上何も言わなかった。
ルシアは奥の扉を開ける。
「では、こちらへ。資料は奥です」
ラビはいつもの笑みを浮かべたまま、その薄暗い奥へと歩き出した。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
夕食の食卓には、焼き魚と味噌汁、それから母が作った煮物が並んでいた。
いつも通りの食卓だった。
テレビの音が小さく流れていて、父は黙って箸を動かしている。
母は今日あった近所の出来事を、いつもの調子で話していた。
チカも、いつも通りそこに座っていた。
箸を持って、白いご飯を少しだけ口に運んで、味噌汁に手を伸ばす。
けれど、その動きはどこか遅かった。
魚の身をほぐす箸先が、同じ場所で何度も止まる。
煮物の器へ伸ばしかけた手が、途中で戻る。
食べているようで、食べていない。
母は最初、それを疲れているのだと思った。
仕事で疲れたのだろう。
お見合いの話で気を張り続けていたのだろう。
そう思っていた。
だから、何気なく聞いただけだった。
本当に、息をするような軽さで。
「チカ、次期ブックマン様からそろそろ連絡来た?」
箸先が、止まった。
あまりに静かに止まったので、母は最初気づかなかった。
けれど次の瞬間、ぽたり、と音がした。
白いご飯の上に、小さな雫が落ちた。
母の動きが止まる。
父も、箸を持ったまま顔を上げた。
「……え」
もう一粒。
ぽたり。
チカは自分でも驚いたように目を瞬かせた。
泣くつもりはなかった。
職場でも泣かなかった。
帰り道でも泣かなかった。
それなのに、母の何気ない一言で、どこか止まっていた場所が急に外れてしまった。
涙が、勝手に落ちる。
母と父の箸が、同時に止まった。
「ちょ、ちょっと、チカ?」
母の声が裏返る。
チカは慌てて首を振ろうとして、でも上手くできなかった。
静かに箸を置く。
かちん、と小さな音がした。
その音がはっきり聞こえた。
「……ごめんなさい」
声は細かった。
けれど、ちゃんと言葉にはなった。
「私……やっぱり、落ちたのかも……」
母の顔から、すっと血の気が引いた。
父は眉を寄せる。
チカは俯いたまま、膝の上で手を握った。
「連絡、来ないから」
「でも、まだ一か月も経ってないでしょ?」
母がすぐに言う。
言いながら、母自身も少しだけ声が揺れていた。
チカは小さく頷く。
「うん。でも…普通。2週間以内には連絡あるってネットに書いてた…」
「ネットなんか信用しちゃダメよ。向こうの都合もあるんじゃないの? 次期ブックマン様なんだし、お忙しい方なんだから」
「うん……」
「じゃあ、まだ分からないじゃない」
母は励まそうとしていた。
けれど、チカの涙は止まらなかった。
ぽろぽろと、静かに落ちていく。
泣き声はない。
しゃくり上げることもない。
ただ、壊れた器から水が漏れるみたいに、涙だけが落ちていた。
父が静かに箸を置いた。
「他にも何かあったのか?」
その声は低かったが、責めるものではなかった。
チカはしばらく答えられなかった。
口にしたら、今度こそ本当になる気がした。
職場で見せられた画面。
大きな見出し。
ルシア嬢。
ラビの手。
近すぎる距離。
婚約者確定、という文字。
あれを思い出すと、また胸の奥が変なふうに止まる。
「……今日」
ようやく、声が出た。
「職場で、記事を見ました」
「記事?」
母の目つきが変わる。
チカは頷いた。
「次期ブックマン様と……ルシア様、という方の」
母は一瞬、言葉を失った。
父も黙る。
その沈黙で、チカは何となく察した。
母も父も、ルシアという名を知っているのだ。
たぶん、一族の中では有名な人なのだろう。
だから余計に、胸が冷たくなった。
「……昔から、噂があったみたいで」
チカは自分の膝を見つめたまま続ける。
「同僚の人たちも、知ってました」
母の表情が険しくなる。
「たぶん、気を遣ってくれてたんだと思います。最近、みんなその話をしなかったから」
「……」
「私が来ると、話を止めて」
そこで、また涙が落ちた。
「でも、今日、初めて教えてもらって…」
母はゆっくりと息を吸った。
チカは少しだけ唇を震わせた。
「次期ブックマン様が、その方の手を握って……顔を近づけている写真です」
母の目が見開かれる。
父の眉間に、深い皺が寄った。
「……それで?」
父が静かに聞く。
チカは首を振った。
「それだけです」
「それだけ?」
「はい。だから、何か本当にあったのかは、分かりません」
落ち着こうとするのに声が震えてしまう。
「でも……たぶん、私が知らないだけで、そういうことは普通なんだと思います」
「そういうことって何?」
母の声が少しだけ鋭くなる。
チカはその鋭さに小さく肩を揺らしたが、続けた。
「次期ブックマン様ですし。お見合いだし。好いてる人がいても結婚はする…とか」
「……」
「私が、勝手に……次があるって思っていただけで」
母は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
チカは涙を拭うこともせず、ただ俯いている。
「命じられてお見合いに行っただけで…。次期ブックマン様だって……」
その一言で、母の顔が変わった。
「……チカ」
「少し、勘違いしていたのかもしれません」
楽しかった。
鉄板焼きの店。
車の中。
空港での別れ際。
縁談を進めていい、と言われたこと。
次があるのかもしれないと思ったこと。
新しい服を選んでる時。
連絡を待っている時。
全部。
「私……浮かれてたのかも」
ぽつりと落ちた声は、あまりにも小さかった。
母はもう、黙っていられなかった。
「許せない」
低い声だった。
「え……」
チカが顔を上げる。
母は箸を置き、ゆっくりと立ち上がった。
その顔は、さっきまでの動揺とは違う。
怒っていた。
けれど、その怒りはチカに向けられたものではない。
「その記事を見せなさい」
母の目つきが変わっていた。
まるでメドゥーサのような目だった。
「え、でも……」
「見せなさい」
静かな声だった。
けれど、逆らえる空気ではない。
チカは小さく頷き、椅子から立ち上がった。
部屋へ戻ってスマートフォンを持ってくる。
職場で同僚たちに見せられたあと、自分でも検索して見つけてしまった記事。
本当は、もう一度見るのも嫌だった。
それでも画面を開き、母へ差し出す。
母はそれを受け取った。
父も隣から覗き込む。
画面には、例の見出しがあった。
『次期ブックマン様のお相手はやはりルシア嬢!?』
写真の中で、ラビはルシアの両手を取っている。
顔の距離は近い。
事情を知らない人間が見れば、たしかに親密な男女に見えた。
母は無言で記事を読み進める。
父も眉間に皺を寄せたまま、画面を見つめていた。
「……これ」
母が低く呟く。
「信用できる記事には見えないわね」
父も静かに頷いた。
「ああ。憶測が多い」
「写真一枚で好き勝手書いてる」
「だが、腹は立つな」
「立つわよ!」
母の声が跳ねた。
「こんなものをうちの娘が職場で見せられて、泣くほど悩んで、それで怒らずにいられるわけないでしょう!」
「落ち着け」
「落ち着いてるわよ!」
「落ち着いてる声じゃない」
母は父をきっと睨んだ。
それから、スマートフォンをチカへ返すと、そのまま電話の方へ歩き出した。
「大真柱に電話する」
「待て」
父が即座に立ち上がる。
「今か」
「今よ」
「時間を考えろ」
「このままじゃ腹が立って眠れない!」
「だからといって怒鳴り込むな」
「怒鳴らないわよ!」
「その声量で言われても説得力がない」
「止めないで!」
母は父の制止を振り切り、電話帳に挟んであった控えを取り出した。
大真柱への連絡先。
普段なら滅多に使わない番号。
母はそれを迷いなく押していく。
父が背後で言った。
「切れ。今ならまだ間に合う」
「うるさい!」
母の一喝に、父が黙った。
チカは食卓の椅子に座ったまま、涙で濡れた目を丸くして母を見ている。
呼び出し音が、やけに長く感じられた。
やがて、電話が繋がる。
その瞬間、母の声が一オクターブ上がった。
「もしもしぃ。夜分に恐れ入りますぅ。鈴木でございますぅ」
さっきまで父を一喝していた同じ人物とは思えないほど、柔らかい声だった。
父は完全に黙った。
さっきまで「うるさい!」と怒鳴っていた母が、電話口では一オクターブ高い余所行きの声で、完璧な奥様を演じている。
しかも、怒りは消していない。
消していないのに、丁寧語の下へきれいに隠している。
父は受話器を持つ母の背中を見ながら、感心していた。
母はにこやかな声のまま続ける。
「あのぅ、突然申し訳ございません。うちの娘のことで、少しだけ確認させていただきたいことがございましてぇ」
言葉は丁寧だった。
声も温厚そうだった。
けれど、妙な圧がある。
「ええ、ええ。鈴木チカです。先日、次期ブックマン様とのお見合いに伺いました娘でございますぅ」
父が小さく眉を寄せる。
母は片手で受話器を持ったまま、もう片方の手を腰に当てている。
「あのぅ、大変失礼とは存じますが……その後、何のご連絡もいただいていないようでしてぇ」
声は甘い。
でも、目はまったく笑っていない。
「ええ、もちろん、次期ブックマン様がお忙しいことは重々承知しておりますぅ。はい。承知しておりますけれども」
そこで母は、ほんの少しだけ間を置いた。
「こちらにも予定がありましてぇ」
チカは息を呑んだ。
母は続ける。
「親としては、娘が不安そうにしているのをただ眺めているわけにもいきませんでしょう? ええ。ですから、どうなっているのかな、と思いましてぇ」
電話の向こうで何か説明があったらしい。
母の眉が、少しだけ動いた。
「あら……そうなんですかぁ」
母の声が、わずかに変わる。
怒りを抑えた声から、確認する声へ。
「ええ、ええ。縁談自体は進んでいる、と。はい。次期ブックマン様は現在お仕事が立て込んでいらっしゃるだけ……」
チカの肩が、ぴくりと揺れた。
母は受話器を握り直す。
「あら、それは安心しましたぁ。ええ。娘も少し心配しておりましたので」
少しどころではない。
けれど母はそこを穏やかに包んだ。
「はい。はい。……ああ、次期ブックマン様にもご連絡を? ええ、お願いいたします。いえいえ、こちらこそ急に申し訳ございません」
父が小さく息を吐く。
母は最後まで余所行きの声を崩さなかった。
「はい。分かりました。それでは失礼いたしますぅ」
がちゃり。
受話器を置いた瞬間、部屋の中が静かになった。
チカは動けずに母を見上げている。
父も黙っている。
さっきまで夫婦喧嘩が始まりそうな勢いだったのに、今は誰も何も言わなかった。
母はゆっくり振り返る。
そして、チカを見て、にこりと笑った。
「安心しなさい」
その声は、今度はちゃんと母の声だった。
「次期ブックマン様は、ただお仕事が立て込んでいて忙しいだけですって」
「……」
「縁談は、ちゃんと進んでいるそうよ」
チカの目が、ゆっくりと見開かれる。
「……本当?」
「本当」
母は頷いた。
「じきに連絡が来るわよ」
チカは何かを言おうとして、言えなかった。
代わりに、また涙がこぼれる。
でも、さっきとは少しだけ違う涙だった。
母は椅子へ戻ると、チカの隣に座り、そっと背中を撫でた。
「だから、もう自分が悪かったなんて思わないの」
「……うん」
食卓の上では、お味噌汁がすっかり冷めていた。
それでもチカの胸の中で止まっていたものは、ほんの少しだけ、また動き出した気がした。
つづく、2026/05/05
ラビが真鍮の取っ手に手をかける。
扉を押し開けた瞬間、頭上で小さなベルが鳴った。
店内には、古い紙と革表紙の匂いが満ちていた。
壁一面の書棚。
背表紙が日に焼けた本。
小さなランプの鈍い光。
外の通りよりも、時間の流れが少しだけ遅い場所だった。
「いらっしゃいませ」
奥のカウンターから、落ち着いた声がした。
丸眼鏡の奥の瞳が、ゆっくりとこちらを向く。
柔らかく整えられた髪。
上品な服。
穏やかで、どこか底の読めない微笑み。
ぱっと見れば、古書堂に咲いた花のような、美しい女店主そのものだった。
けれどラビもリンクも、その姿が仮のものだと知っている。
店主ルシア。
本来の名を、ナーガ。
「お待ちしておりました、ブックマンJr.」
ルシアは静かに一礼した。
優雅で、隙のない仕草だった。
ラビは片手を軽く上げる。
「久しぶり」
「はい。お久しぶりでございます」
「相変わらず、似合ってるね。その格好」
「ありがとうございます。趣味と実益を兼ねておりますので」
ルシアは穏やかに微笑んだ。
ラビの軽口にも、少しも揺れない。
慣れているのだ。
ラビもそれを分かっている顔で、カウンターへ近づいた。
リンクはその横で、控えめに一礼する。
「ご無沙汰しております、ルシア様」
「リンクもお変わりないようで」
「おかげさまで」
形式的な挨拶が終わると、ラビはカウンターに片肘をついた。
「で、例のものは?」
「奥にございます」
ルシアはカウンターの下から鍵束を取り出す。
「先日の海路案件に関連する原本と、分家の目録が三点。すべて確認済みです」
「仕事が早いね」
「もちろん」
ルシアはにこやかに答えた。
その声音は柔らかい。
だが、仕事に関しては一切の隙がない。
「状態は?」
「原本はやや湿気を含んでおります。封は保っておりますが、長くこちらに置くべきものではございません」
「大真柱送り?」
「はい。私もその方がよろしいかと」
「了解」
ラビは短く答える。
その横でリンクが書類を開き、受け渡しの確認項目を静かに追っていた。
ルシアは奥の扉へ向かいかけて、ふと足を止める。
「それにしても、ブックマンJr.」
「ん?」
「本日は、少々お疲れのご様子ですね」
ラビの口元がわずかに歪む。
「顔に出てる?」
「ほんの少しだけ」
「じゃあ重症だ」
「ふふ」
ルシアは微笑んだだけだった。
ラビは面白くなさそうに息を吐き、カウンター越しに少し身を乗り出す。
「ねえ、ナーガ」
「店内ではルシアでお願いいたします」
「はいはい、ルシア」
その呼び方に、ルシアはにこりと笑った。
怒るでもなく、咎めるでもない。
ただ、さらりと受け流す。
ラビはその態度に甘えるように、悪びれもなく続けた。
「お前が女なら、話は早かったのに」
リンクの手が、ぴたりと止まった。
店内の空気が、ほんの一瞬だけ薄く張る。
ルシアは丸眼鏡の奥で、穏やかに瞬いた。
「私が、でございますか」
「そう」
ラビはカウンター越しに、ルシアの両手を取った。
ふざけた仕草だった。
けれど、長い指が白い手袋越しの手を包み、顔を近づけるその距離は、息がかかるほど近い。
事情を知らない者から見れば親密すぎる距離だ。
傍から見れば次期ブックマンが甘えるようにルシアを口説いているように見える。
「お前が女だったら、今すぐ機嫌直ったんだけどね」
ルシアは抵抗しなかった。
ラビの手の中で指先を静かに揃え、困ったように微笑む。
「お役に立てず、申し訳ございません」
「もうね、大変だよ……。ストレスが溜まってね」
「ふふ。どうか本物の花嫁候補の方をお大事になさってくださいませ」
その言葉に、ラビの笑みがほんの一瞬だけ止まった。
「……まだ表には出てないはずなんだけど」
「先日大真柱に行った時耳にしました」
ルシアは柔らかく言いながら、そっと手を引いた。
拒絶ではない。
ただ、これ以上は形が悪いと分かっている者の、静かな仕草だった。
「Jr.また騒がれても知りませんよ?」
リンクがラビを見る。
その視線は冷たい。
「同感です」
「二人して説教?」
ラビが肩をすくめる。
ルシアは小さく笑った。
「説教など、とんでもございません」
「じゃあ何」
「ブックマンJr.の行く末を、少々安じているだけでございます」
「それを説教って言うんじゃないの」
「では、安じるだけにしておきます」
そう言って、ルシアは奥の扉へ手を向けた。
「こちらへ。資料は奥にございます」
ラビはその後に続こうとして、ふと店内へ視線を流した。
古書堂の中には、まだ数人の客がいた。
書棚の影で本を選ぶ老紳士。
カウンター近くで栞を見ている若い女。
奥の棚を整理している店員。
誰もこちらを見ていないように見える。
けれど、見ていないとは限らない。
リンクが、書類から目を上げずに言った。
「ルシア様をからかうのも、そろそろ止めて欲しいところです」
深刻というより、すでに何度も同じ注意をしてきた人間の声だった。
ラビは肩をすくめる。
「今さらでしょ」
「今さら、で済む立場ではなくなったかと」
ルシアも穏やかな微笑みを崩さないまま、静かに頷いた。
「ええ。ブックマンJr.と私の噂は、昔から尾ひれがつきやすいですから」
「ルシアが綺麗すぎるのが悪い」
「恐れ入ります」
さらりと受け流す声に、ラビはつまらなそうに笑う。
「冗談だって」
「存じております」
ルシアは柔らかく答え、奥の扉へ手を向けた。
「ですが、見たいものだけを見る方には、冗談も都合よく切り取られます。後日ご説明が必要にならないことを祈ります」
「噂なんてほっとけばいいさ。今までもそうだったでしょ」
「……」
リンクのジト目にラビは軽く手を振った。
「はいはい。次から気をつけるさ」
その“次から”がどれほど信用ならないか、リンクもルシアもよく知っている。
だから二人は、それ以上何も言わなかった。
ルシアは奥の扉を開ける。
「では、こちらへ。資料は奥です」
ラビはいつもの笑みを浮かべたまま、その薄暗い奥へと歩き出した。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
夕食の食卓には、焼き魚と味噌汁、それから母が作った煮物が並んでいた。
いつも通りの食卓だった。
テレビの音が小さく流れていて、父は黙って箸を動かしている。
母は今日あった近所の出来事を、いつもの調子で話していた。
チカも、いつも通りそこに座っていた。
箸を持って、白いご飯を少しだけ口に運んで、味噌汁に手を伸ばす。
けれど、その動きはどこか遅かった。
魚の身をほぐす箸先が、同じ場所で何度も止まる。
煮物の器へ伸ばしかけた手が、途中で戻る。
食べているようで、食べていない。
母は最初、それを疲れているのだと思った。
仕事で疲れたのだろう。
お見合いの話で気を張り続けていたのだろう。
そう思っていた。
だから、何気なく聞いただけだった。
本当に、息をするような軽さで。
「チカ、次期ブックマン様からそろそろ連絡来た?」
箸先が、止まった。
あまりに静かに止まったので、母は最初気づかなかった。
けれど次の瞬間、ぽたり、と音がした。
白いご飯の上に、小さな雫が落ちた。
母の動きが止まる。
父も、箸を持ったまま顔を上げた。
「……え」
もう一粒。
ぽたり。
チカは自分でも驚いたように目を瞬かせた。
泣くつもりはなかった。
職場でも泣かなかった。
帰り道でも泣かなかった。
それなのに、母の何気ない一言で、どこか止まっていた場所が急に外れてしまった。
涙が、勝手に落ちる。
母と父の箸が、同時に止まった。
「ちょ、ちょっと、チカ?」
母の声が裏返る。
チカは慌てて首を振ろうとして、でも上手くできなかった。
静かに箸を置く。
かちん、と小さな音がした。
その音がはっきり聞こえた。
「……ごめんなさい」
声は細かった。
けれど、ちゃんと言葉にはなった。
「私……やっぱり、落ちたのかも……」
母の顔から、すっと血の気が引いた。
父は眉を寄せる。
チカは俯いたまま、膝の上で手を握った。
「連絡、来ないから」
「でも、まだ一か月も経ってないでしょ?」
母がすぐに言う。
言いながら、母自身も少しだけ声が揺れていた。
チカは小さく頷く。
「うん。でも…普通。2週間以内には連絡あるってネットに書いてた…」
「ネットなんか信用しちゃダメよ。向こうの都合もあるんじゃないの? 次期ブックマン様なんだし、お忙しい方なんだから」
「うん……」
「じゃあ、まだ分からないじゃない」
母は励まそうとしていた。
けれど、チカの涙は止まらなかった。
ぽろぽろと、静かに落ちていく。
泣き声はない。
しゃくり上げることもない。
ただ、壊れた器から水が漏れるみたいに、涙だけが落ちていた。
父が静かに箸を置いた。
「他にも何かあったのか?」
その声は低かったが、責めるものではなかった。
チカはしばらく答えられなかった。
口にしたら、今度こそ本当になる気がした。
職場で見せられた画面。
大きな見出し。
ルシア嬢。
ラビの手。
近すぎる距離。
婚約者確定、という文字。
あれを思い出すと、また胸の奥が変なふうに止まる。
「……今日」
ようやく、声が出た。
「職場で、記事を見ました」
「記事?」
母の目つきが変わる。
チカは頷いた。
「次期ブックマン様と……ルシア様、という方の」
母は一瞬、言葉を失った。
父も黙る。
その沈黙で、チカは何となく察した。
母も父も、ルシアという名を知っているのだ。
たぶん、一族の中では有名な人なのだろう。
だから余計に、胸が冷たくなった。
「……昔から、噂があったみたいで」
チカは自分の膝を見つめたまま続ける。
「同僚の人たちも、知ってました」
母の表情が険しくなる。
「たぶん、気を遣ってくれてたんだと思います。最近、みんなその話をしなかったから」
「……」
「私が来ると、話を止めて」
そこで、また涙が落ちた。
「でも、今日、初めて教えてもらって…」
母はゆっくりと息を吸った。
チカは少しだけ唇を震わせた。
「次期ブックマン様が、その方の手を握って……顔を近づけている写真です」
母の目が見開かれる。
父の眉間に、深い皺が寄った。
「……それで?」
父が静かに聞く。
チカは首を振った。
「それだけです」
「それだけ?」
「はい。だから、何か本当にあったのかは、分かりません」
落ち着こうとするのに声が震えてしまう。
「でも……たぶん、私が知らないだけで、そういうことは普通なんだと思います」
「そういうことって何?」
母の声が少しだけ鋭くなる。
チカはその鋭さに小さく肩を揺らしたが、続けた。
「次期ブックマン様ですし。お見合いだし。好いてる人がいても結婚はする…とか」
「……」
「私が、勝手に……次があるって思っていただけで」
母は何か言おうとして、言葉を飲み込んだ。
チカは涙を拭うこともせず、ただ俯いている。
「命じられてお見合いに行っただけで…。次期ブックマン様だって……」
その一言で、母の顔が変わった。
「……チカ」
「少し、勘違いしていたのかもしれません」
楽しかった。
鉄板焼きの店。
車の中。
空港での別れ際。
縁談を進めていい、と言われたこと。
次があるのかもしれないと思ったこと。
新しい服を選んでる時。
連絡を待っている時。
全部。
「私……浮かれてたのかも」
ぽつりと落ちた声は、あまりにも小さかった。
母はもう、黙っていられなかった。
「許せない」
低い声だった。
「え……」
チカが顔を上げる。
母は箸を置き、ゆっくりと立ち上がった。
その顔は、さっきまでの動揺とは違う。
怒っていた。
けれど、その怒りはチカに向けられたものではない。
「その記事を見せなさい」
母の目つきが変わっていた。
まるでメドゥーサのような目だった。
「え、でも……」
「見せなさい」
静かな声だった。
けれど、逆らえる空気ではない。
チカは小さく頷き、椅子から立ち上がった。
部屋へ戻ってスマートフォンを持ってくる。
職場で同僚たちに見せられたあと、自分でも検索して見つけてしまった記事。
本当は、もう一度見るのも嫌だった。
それでも画面を開き、母へ差し出す。
母はそれを受け取った。
父も隣から覗き込む。
画面には、例の見出しがあった。
『次期ブックマン様のお相手はやはりルシア嬢!?』
写真の中で、ラビはルシアの両手を取っている。
顔の距離は近い。
事情を知らない人間が見れば、たしかに親密な男女に見えた。
母は無言で記事を読み進める。
父も眉間に皺を寄せたまま、画面を見つめていた。
「……これ」
母が低く呟く。
「信用できる記事には見えないわね」
父も静かに頷いた。
「ああ。憶測が多い」
「写真一枚で好き勝手書いてる」
「だが、腹は立つな」
「立つわよ!」
母の声が跳ねた。
「こんなものをうちの娘が職場で見せられて、泣くほど悩んで、それで怒らずにいられるわけないでしょう!」
「落ち着け」
「落ち着いてるわよ!」
「落ち着いてる声じゃない」
母は父をきっと睨んだ。
それから、スマートフォンをチカへ返すと、そのまま電話の方へ歩き出した。
「大真柱に電話する」
「待て」
父が即座に立ち上がる。
「今か」
「今よ」
「時間を考えろ」
「このままじゃ腹が立って眠れない!」
「だからといって怒鳴り込むな」
「怒鳴らないわよ!」
「その声量で言われても説得力がない」
「止めないで!」
母は父の制止を振り切り、電話帳に挟んであった控えを取り出した。
大真柱への連絡先。
普段なら滅多に使わない番号。
母はそれを迷いなく押していく。
父が背後で言った。
「切れ。今ならまだ間に合う」
「うるさい!」
母の一喝に、父が黙った。
チカは食卓の椅子に座ったまま、涙で濡れた目を丸くして母を見ている。
呼び出し音が、やけに長く感じられた。
やがて、電話が繋がる。
その瞬間、母の声が一オクターブ上がった。
「もしもしぃ。夜分に恐れ入りますぅ。鈴木でございますぅ」
さっきまで父を一喝していた同じ人物とは思えないほど、柔らかい声だった。
父は完全に黙った。
さっきまで「うるさい!」と怒鳴っていた母が、電話口では一オクターブ高い余所行きの声で、完璧な奥様を演じている。
しかも、怒りは消していない。
消していないのに、丁寧語の下へきれいに隠している。
父は受話器を持つ母の背中を見ながら、感心していた。
母はにこやかな声のまま続ける。
「あのぅ、突然申し訳ございません。うちの娘のことで、少しだけ確認させていただきたいことがございましてぇ」
言葉は丁寧だった。
声も温厚そうだった。
けれど、妙な圧がある。
「ええ、ええ。鈴木チカです。先日、次期ブックマン様とのお見合いに伺いました娘でございますぅ」
父が小さく眉を寄せる。
母は片手で受話器を持ったまま、もう片方の手を腰に当てている。
「あのぅ、大変失礼とは存じますが……その後、何のご連絡もいただいていないようでしてぇ」
声は甘い。
でも、目はまったく笑っていない。
「ええ、もちろん、次期ブックマン様がお忙しいことは重々承知しておりますぅ。はい。承知しておりますけれども」
そこで母は、ほんの少しだけ間を置いた。
「こちらにも予定がありましてぇ」
チカは息を呑んだ。
母は続ける。
「親としては、娘が不安そうにしているのをただ眺めているわけにもいきませんでしょう? ええ。ですから、どうなっているのかな、と思いましてぇ」
電話の向こうで何か説明があったらしい。
母の眉が、少しだけ動いた。
「あら……そうなんですかぁ」
母の声が、わずかに変わる。
怒りを抑えた声から、確認する声へ。
「ええ、ええ。縁談自体は進んでいる、と。はい。次期ブックマン様は現在お仕事が立て込んでいらっしゃるだけ……」
チカの肩が、ぴくりと揺れた。
母は受話器を握り直す。
「あら、それは安心しましたぁ。ええ。娘も少し心配しておりましたので」
少しどころではない。
けれど母はそこを穏やかに包んだ。
「はい。はい。……ああ、次期ブックマン様にもご連絡を? ええ、お願いいたします。いえいえ、こちらこそ急に申し訳ございません」
父が小さく息を吐く。
母は最後まで余所行きの声を崩さなかった。
「はい。分かりました。それでは失礼いたしますぅ」
がちゃり。
受話器を置いた瞬間、部屋の中が静かになった。
チカは動けずに母を見上げている。
父も黙っている。
さっきまで夫婦喧嘩が始まりそうな勢いだったのに、今は誰も何も言わなかった。
母はゆっくり振り返る。
そして、チカを見て、にこりと笑った。
「安心しなさい」
その声は、今度はちゃんと母の声だった。
「次期ブックマン様は、ただお仕事が立て込んでいて忙しいだけですって」
「……」
「縁談は、ちゃんと進んでいるそうよ」
チカの目が、ゆっくりと見開かれる。
「……本当?」
「本当」
母は頷いた。
「じきに連絡が来るわよ」
チカは何かを言おうとして、言えなかった。
代わりに、また涙がこぼれる。
でも、さっきとは少しだけ違う涙だった。
母は椅子へ戻ると、チカの隣に座り、そっと背中を撫でた。
「だから、もう自分が悪かったなんて思わないの」
「……うん」
食卓の上では、お味噌汁がすっかり冷めていた。
それでもチカの胸の中で止まっていたものは、ほんの少しだけ、また動き出した気がした。
つづく、2026/05/05