好きな名前に変えて読んでみよう!
第1章
❤安心のお名前設定❤
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
第11話。
灰色の空の下、異国の石畳は夜の雨をまだ薄く抱えていた。
ラビは黒い傘を閉じると、海外支部の裏口から建物の中へ入った。
表向きには、ブックマン・グループ欧州文化資料保全部門・第七支部。
歴史的価値の高い文書や遺物を収集・修復・管理するための施設――ということになっている。
けれど、今この建物の地下で起きているのは、そんな綺麗な仕事ではなかった。
「Jr.、こちらです」
先を歩く現地職員が低い声で案内する。
ラビは湿った前髪をかき上げ、何も言わずにそのあとをついていった。
地下へ降りる階段は冷たく、壁の白い塗装はどこか湿っている。
古い建物独特の石と金属の匂いに混じって、もうひとつ、嫌な気配があった。
地下保管庫の前には、支部長と技術主任、それに数名の職員たちが揃って立っていた。
みな顔色が悪い。
「状況は?」
ラビが短く問う。
支部長が一歩前に出た。
「三日前、民間オークション経由で回収した航海日誌がありました。十九世紀半ばのものです。展示候補として仮保管していたところ――」
「二名が倒れました」
技術主任が言葉を継いだ。
「一名は意識混濁。もう一名は現在も錯乱状態です。どちらも“海の音がする”と訴えていました」
ラビの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「隔離は?」
「済ませてあります」
「他の職員への影響は?」
「微弱ですが、頭痛と吐き気を訴える者が数名」
ラビはそこで初めて、保管庫の扉へ視線を向けた。
「封鎖は、倒れてから?」
支部長が一瞬だけ言葉に詰まる。
「……はい。ただの風邪かと思い…」
「ふうん」
ラビの声は静かだった。
怒鳴るでもなく、責め立てるでもない。
ただ、結果だけを見ている声だった。
「最初の時点で“ただの体調不良”って決めたわけだ」
「申し訳ありません」
支部長が顔を伏せる。
ラビはそれ以上追及しなかった。
「まあ、今さらそこ責めても仕方ないか」
そう言って、白い手袋を受け取る。
「次からは、一人目で切り分けきれない時点で上げて。二人倒れてから“大真柱案件かも”って考えるの、だいぶ遅いから」
「……承知しました」
「表には?」
「空調設備の不具合による体調不良として処理しています。今のところ外部には漏れていません」
「それでいい」
ラビは手袋をはめながら、地下保管庫の重い扉へ視線を向けた。
「日誌は中?」
「はい」
「開けて」
一瞬のためらいのあと、技術主任が認証盤にカードをかざす。
鈍い音を立てて扉が開いた。
部屋の中は暗く、ひやりとしていた。
保管棚の中央、隔離用ガラスケースの中に、ひときわ古びた一冊の航海日誌が置かれている。
革装丁は塩を噴いたように白くくすみ、金具は黒ずんでいた。
それだけなら、ただ古いだけの本に見える。
けれど近づくにつれて、耳の奥がざわつく。
寄せては返す水音のようなものが、確かにそこにあった。
ラビは無言のままケースの前に立つ。
「記録」
後ろにいた職員が慌てて端末を構えた。
ラビはケース越しに日誌を見下ろす。
「十九世紀半ば、北大西洋航路。船名は……消えてるな」
指先でガラスの表面を軽く叩く。
音は乾いているのに、耳に返る響きだけが
湿っていた。
「付着してるのは未練か、残滓か、それとも混線した記録か」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
ラビはガラスケースの鍵を開けさせた。
「Jr.、危険です」
「分かってる」
短く返し、そのまま日誌に手を伸ばす。
手袋越しに触れた瞬間、冷たさが皮膚を貫いた。
海だ。
真っ暗な海の底から、無数の目がこちらを見上げているような感覚が一瞬だけ走る。
耳の奥で、かすれた声がした。
『 かえれ…』
ラビは眉ひとつ動かさず、日誌を持ち上げる。
「……帰れないで沈んだ側か」
ページを数枚めくる。
そこに書かれていた文字は半分ほど海水に溶けていたが、ところどころ、異様にはっきりした行だけが残っていた。
『 どうかこの記録を、家へ帰してくれ』
「はは」
ラビは乾いた声で笑った。
「……海の呪いっていうより、帰れなかった念か」
それは嫌悪ではなく、分類を終えた時の声だった。
「展示不可。公開不可。複製も禁止。大真柱案件で回収。その後、子孫に帰して。子孫がいるのかは知らないけど」
支部長が息を呑む。
「そこまで、ですか」
「そこまでだよ」
ラビは日誌を閉じる。
「このまま置いといたら、あと数人は海鳴り聞くことになる」
「……承知しました」
「倒れた二人の記録も全部上げて。見たもの、聞いたもの、夢の内容まで」
「夢、ですか」
「こういうの、だいたい寝てからも来るから」
淡々と告げてから、ラビはようやく日誌を専用封箱に収めた。
その動作は静かで、慣れていた。
職員のひとりが、小さく問う。
「Jr.は……こういうものに、よく触れられますね」
ラビは封箱の封を閉じながら、少しだけ首を傾げた。
「慣れてるだけ」
「怖くはないんですか」
その質問に、ラビは一瞬だけ手を止めた。
けれど、顔を上げた時にはもういつもの軽い笑みが張りついている。
「怖いよ」
あまりにも軽く言うので、誰もすぐには反応できなかった。
「でも、触るのは俺の仕事でしょ」
それだけ言って、ラビは封箱を職員へ渡す。
その笑顔を見て、場にいた誰もが少しだけ安心した。
少なくとも表向きには、彼は余裕そうに見えたからだ。
けれど地下保管庫を出たあと、人気のない廊下まで来たところで、その笑顔はすっと消えた。
ラビは片手で首筋を押さえ、小さく息を吐く。
少し遅れて追いついたリンクが、何も言わずにミネラルウォーターを差し出した。
ラビはそれを受け取り、半分ほど一気に飲む。
「……こういうの、嫌い」
「家族絡みの案件ですね」
リンクは静かに言った。
「存じております」
「知ってるなら先に言ってよ」
「申し上げました」
「聞いてない」
「Jr.が流されたので」
ラビは低く笑った。
「最悪」
リンクは返事をしなかった。
その沈黙が、かえっていつも通りだった。
廊下の窓の向こうでは、雨雲がゆっくりと切れ始めている。
けれどラビの仕事は、まだ終わらない。
このあと表向きには支部との最終調整会議があり、そのあと別の街へ移動。
夜にはまた、別件の記録受け渡しが入っている。
世界を飛び回る仕事は華やかに見えるかもしれない。
けれど実際には、誰かの記録の残骸と、誰にも見せない顔ばかりを拾い上げて歩くようなものだった。
ラビは窓の外を一瞥してから、ふとポケットの中のスマートフォンに触れた。
画面は見ない。
見ればたぶん、自身の人生の現実…。あの空港で振り返った女の顔を思い出す。
「Jr、五分後に会議です」
「うん」
「その後、駅へ向かいます」
「分かってる」
ラビは短く答えて、また歩き出した。
靴音が、長い廊下に静かに響く。
表の仕事も、裏の仕事も、やることは変わらない。
感情がどこにあろうと、世界は待ってくれない。
だから今は、まだ考えない。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
皆にチヤホヤされたあの日から四週間。
もうすぐ一か月経つという頃。
チカにとっては、それがずいぶん長く感じられた。
美術館の修復室は、いつも通り静かだった。
乾いた絵具の匂い。
薄く響く空調音。
蛍光灯の白い光の下で、チカは欠けた額縁の縁を細い筆で整えていく。
手元の作業は、慣れている。
だからこそ、考えごとをする余裕ができてしまう。
(次、あると言ってた……)
筆先を止めないまま、チカはあの日の車内を思い出す。
ラビの声。
軽く言っているようで、曖昧には聞こえなかった言葉。
(次って、いつ……?)
お見合いというものは、こういうものなのだろうか。
次に会うまで、これくらい時間が空くのは普通なのか。
それとも、自分だけが勝手に“次がある”と思い込んでいるのか。
分からない。
分からないまま、日だけが過ぎていく。
次に備えて、母とまた服をいくつか新調した。
派手すぎず、地味すぎず。
年相応で、失礼がなくて、でも少しだけ綺麗に見えるもの。
母は店員にあれこれ尋ねながら、楽しそうに選んでいた。
チカもその隣で、ちゃんと頷いていた。
けれど帰宅して紙袋を部屋の隅に置いた時、ふと思ってしまったのだ。
(……もしかして、これって無駄になる?)
それを口に出したことはない。
母に言えば、すぐに「縁起でもない」と叱られるのが分かっていたし、自分でも、そんなふうに考えるのはよくないと思っていた。
それでも不安は、日に日に形を持ち始めていた。
最初の一週間は、単に待っていた。
二週間目には、少しだけ気になった。
三週間を過ぎる頃には、仕事中でもふと考えてしまうようになっていた。
(次があるって仰ってたけど……あれって、社交辞令だったんじゃ……)
その考えを打ち消そうとして、別の考えが浮かぶ。
(粗相したかな)
さらにもうひとつ。
(……したかも)
チカは小さく目を伏せる。
(次期ブックマン様の笑顔について、言いすぎた……?)
自分では本当のことを言っただけだった。
あんなふうに真正面から口にする必要はなかったかもしれない。
思い返せば返すほど、細かい場面がいちいち不安になる。
あの時の言い方はまずかったのではないか。
あの沈黙は困らせたのではないか。
あの返事は重すぎたのではないか。
そうして一人で反省しても、答えはどこにもなかった。
その頃になると、母以外はお見合いの話に触れなくなっていた。
親戚も、近所の人も、職場の人間も。
最初の頃は、 「すごい話ね」 「次期ブックマン様なんて」 「玉の輿じゃない」 と、半ば面白がるように騒いでいたのに、最近は静かだ。
触れてはいけないものに触れないようにするみたいに、誰もその話題を口にしない。
まるで、最初からなかったことにしようとしているみたいだった。
その沈黙が、かえってチカを落ち着かなくさせた。
同僚たちは表向きいつも通りだった。
仕事の指示も、雑談も、業務連絡も、何ひとつ変わらない。
別にいじめられているわけではない。
嫌がらせを受けているわけでもない。
ただ――
チカが休憩室へ入ると、ぴたりと会話が止まることがあった。
廊下の角を曲がった途端、ひそひそ声が途切れることがあった。
視線が一度こちらへ向いて、それからさっと逸らされることもあった。
腫れ物に触るような扱い。
その意味が、チカには分からなかった。
分からないまま、ただじわじわと居心地が悪くなっていく。
そして、ある日。
その“腫れ物”の正体が、ようやく分かった。
昼休みの少し前だった。
チカが修復室から資料を持って戻る途中、休憩スペースの前を通りかかった時だ。
半開きの扉の向こうで、同僚が二人、スマートフォンを覗き込んでいた。
「え、でもこれ……」
「ちょっと、鈴木さん来るって」
「やば」
その言い方で、チカの足が止まる。
話題が自分のことだと分かった。
同僚の一人が慌ててスマートフォンを伏せる。
けれど、もう遅かった。
チカはその場から動かず、小さく眉を寄せた。
「……何ですか」
「え、いや……」
「別に、大したことじゃ」
明らかにごまかしている。
その様子が、かえって胸の奥を冷やした。
チカは手にしていた資料を抱え直し、普段より少しだけ強い声で言う。
「見せてください」
「いや、でも……」
「お願いします」
声は震えていなかった。
その代わり、眉間に薄く皺が寄っている。
同僚たちは顔を見合わせたあと、おずおずとスマートフォンを差し出した。
チカはそれを受け取る。
画面の中に、大きな見出しが踊っていた。
『次期ブックマン様のお相手はやはりルシア嬢!?』
その下に載っていた写真を見た瞬間、チカの指先が止まる。
海外らしき古書店のカウンター越し。
ラビが、眼鏡をかけた女の両手を取っていた。
顔と顔の距離は、近い。
まるで、そのままキスでもしそうなほどに。
さらに、その写真には帯のような文字が被せられていた。
『婚約者確定!?』
「……」
チカは何も言わなかった。
何も言えなかった、の方が近い。
写真の中のラビは、見覚えのある顔をしている。
あの、人懐っこい、作ったような笑顔。
でも、少し角度が違えば、本当に楽しそうにも見えてしまう顔。
同僚たちが気まずそうに立ち尽くしている。
誰も、何も言わない。
チカはしばらく画面を見たまま固まっていた。
やがて、ほんの少しだけ唇が動く。
「あ」
小さな声だった。
だけど、その場にいた全員にはっきり聞こえた。
チカはスマートフォンを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「わたし……資料をしまいに来たんだった……」
その声には怒りも責める響きもなかった。
ただ、急に何も分からなくなった人間が、手の中にある“今やるべきこと”だけを確かめようとするみたいな、頼りない静けさだけがあった。
チカはスマートフォンを返した。
指先から、少しずつ力が抜けていく。
胸に抱えていた資料が腕の中でずれ落ちる。
「お母さんになんて言えばいいんだろう……」
ぽつりとこぼれたその一言に、同僚たちは顔を見合わせる。
「す、鈴木さん……」
ひとりが慌てて声をかける。
「いや、でも、ほら……っ」
別の同僚が、気まずそうに言葉を探した。
「元々このふたり、昔からよく撮られてたよね……? だから、その……今回も、ただの噂っていうか……」
慰めているつもりなのだろう。
でも、その言葉は少しも慰めになっていなかった。
チカはそれに何も答えない。
ただ、資料を抱えたまま立っている。
「そ、そうそう。ほら、結婚と恋人は別って言うし!」
その一言で、場の空気がさらに悪くなる。
言った本人だけが、一瞬遅れて自分の失言に気づいた顔をした。
「……あ、いや、違っ、そういう意味じゃなくて」
「今日、飲みに行く!?」
「カラオケなんかどう? ね、気分変わるかもだし……」
声が次々に飛ぶが、チカには、もうよく聞こえていなかった。
まるで遠くで、知らない誰かたちが騒いでいるみたいだった。
足元だけが、少しふわふわする。
フラフラとした足取りで、チカはひとつ小さく会釈をした。
「……すみません」
何に対しての謝罪か、自分でも分からなかった。
ただ、それだけ言って、チカは資料を抱えたまま休憩スペースを後にする。
背中の向こうで、同僚たちの声がまた小さく重なる。
「やばい、泣かせた……?」
「泣いてはないけど……」
「いやでも今の“結婚と恋人は別”は最悪でしょ」
「だって、何か言わなきゃと思って……!」
そのどれも、もうチカの耳には入らなかった。
つづく、2026/04/26
灰色の空の下、異国の石畳は夜の雨をまだ薄く抱えていた。
ラビは黒い傘を閉じると、海外支部の裏口から建物の中へ入った。
表向きには、ブックマン・グループ欧州文化資料保全部門・第七支部。
歴史的価値の高い文書や遺物を収集・修復・管理するための施設――ということになっている。
けれど、今この建物の地下で起きているのは、そんな綺麗な仕事ではなかった。
「Jr.、こちらです」
先を歩く現地職員が低い声で案内する。
ラビは湿った前髪をかき上げ、何も言わずにそのあとをついていった。
地下へ降りる階段は冷たく、壁の白い塗装はどこか湿っている。
古い建物独特の石と金属の匂いに混じって、もうひとつ、嫌な気配があった。
地下保管庫の前には、支部長と技術主任、それに数名の職員たちが揃って立っていた。
みな顔色が悪い。
「状況は?」
ラビが短く問う。
支部長が一歩前に出た。
「三日前、民間オークション経由で回収した航海日誌がありました。十九世紀半ばのものです。展示候補として仮保管していたところ――」
「二名が倒れました」
技術主任が言葉を継いだ。
「一名は意識混濁。もう一名は現在も錯乱状態です。どちらも“海の音がする”と訴えていました」
ラビの目が、ほんの少しだけ細くなる。
「隔離は?」
「済ませてあります」
「他の職員への影響は?」
「微弱ですが、頭痛と吐き気を訴える者が数名」
ラビはそこで初めて、保管庫の扉へ視線を向けた。
「封鎖は、倒れてから?」
支部長が一瞬だけ言葉に詰まる。
「……はい。ただの風邪かと思い…」
「ふうん」
ラビの声は静かだった。
怒鳴るでもなく、責め立てるでもない。
ただ、結果だけを見ている声だった。
「最初の時点で“ただの体調不良”って決めたわけだ」
「申し訳ありません」
支部長が顔を伏せる。
ラビはそれ以上追及しなかった。
「まあ、今さらそこ責めても仕方ないか」
そう言って、白い手袋を受け取る。
「次からは、一人目で切り分けきれない時点で上げて。二人倒れてから“大真柱案件かも”って考えるの、だいぶ遅いから」
「……承知しました」
「表には?」
「空調設備の不具合による体調不良として処理しています。今のところ外部には漏れていません」
「それでいい」
ラビは手袋をはめながら、地下保管庫の重い扉へ視線を向けた。
「日誌は中?」
「はい」
「開けて」
一瞬のためらいのあと、技術主任が認証盤にカードをかざす。
鈍い音を立てて扉が開いた。
部屋の中は暗く、ひやりとしていた。
保管棚の中央、隔離用ガラスケースの中に、ひときわ古びた一冊の航海日誌が置かれている。
革装丁は塩を噴いたように白くくすみ、金具は黒ずんでいた。
それだけなら、ただ古いだけの本に見える。
けれど近づくにつれて、耳の奥がざわつく。
寄せては返す水音のようなものが、確かにそこにあった。
ラビは無言のままケースの前に立つ。
「記録」
後ろにいた職員が慌てて端末を構えた。
ラビはケース越しに日誌を見下ろす。
「十九世紀半ば、北大西洋航路。船名は……消えてるな」
指先でガラスの表面を軽く叩く。
音は乾いているのに、耳に返る響きだけが
湿っていた。
「付着してるのは未練か、残滓か、それとも混線した記録か」
誰に聞かせるでもない独り言だった。
ラビはガラスケースの鍵を開けさせた。
「Jr.、危険です」
「分かってる」
短く返し、そのまま日誌に手を伸ばす。
手袋越しに触れた瞬間、冷たさが皮膚を貫いた。
海だ。
真っ暗な海の底から、無数の目がこちらを見上げているような感覚が一瞬だけ走る。
耳の奥で、かすれた声がした。
『 かえれ…』
ラビは眉ひとつ動かさず、日誌を持ち上げる。
「……帰れないで沈んだ側か」
ページを数枚めくる。
そこに書かれていた文字は半分ほど海水に溶けていたが、ところどころ、異様にはっきりした行だけが残っていた。
『 どうかこの記録を、家へ帰してくれ』
「はは」
ラビは乾いた声で笑った。
「……海の呪いっていうより、帰れなかった念か」
それは嫌悪ではなく、分類を終えた時の声だった。
「展示不可。公開不可。複製も禁止。大真柱案件で回収。その後、子孫に帰して。子孫がいるのかは知らないけど」
支部長が息を呑む。
「そこまで、ですか」
「そこまでだよ」
ラビは日誌を閉じる。
「このまま置いといたら、あと数人は海鳴り聞くことになる」
「……承知しました」
「倒れた二人の記録も全部上げて。見たもの、聞いたもの、夢の内容まで」
「夢、ですか」
「こういうの、だいたい寝てからも来るから」
淡々と告げてから、ラビはようやく日誌を専用封箱に収めた。
その動作は静かで、慣れていた。
職員のひとりが、小さく問う。
「Jr.は……こういうものに、よく触れられますね」
ラビは封箱の封を閉じながら、少しだけ首を傾げた。
「慣れてるだけ」
「怖くはないんですか」
その質問に、ラビは一瞬だけ手を止めた。
けれど、顔を上げた時にはもういつもの軽い笑みが張りついている。
「怖いよ」
あまりにも軽く言うので、誰もすぐには反応できなかった。
「でも、触るのは俺の仕事でしょ」
それだけ言って、ラビは封箱を職員へ渡す。
その笑顔を見て、場にいた誰もが少しだけ安心した。
少なくとも表向きには、彼は余裕そうに見えたからだ。
けれど地下保管庫を出たあと、人気のない廊下まで来たところで、その笑顔はすっと消えた。
ラビは片手で首筋を押さえ、小さく息を吐く。
少し遅れて追いついたリンクが、何も言わずにミネラルウォーターを差し出した。
ラビはそれを受け取り、半分ほど一気に飲む。
「……こういうの、嫌い」
「家族絡みの案件ですね」
リンクは静かに言った。
「存じております」
「知ってるなら先に言ってよ」
「申し上げました」
「聞いてない」
「Jr.が流されたので」
ラビは低く笑った。
「最悪」
リンクは返事をしなかった。
その沈黙が、かえっていつも通りだった。
廊下の窓の向こうでは、雨雲がゆっくりと切れ始めている。
けれどラビの仕事は、まだ終わらない。
このあと表向きには支部との最終調整会議があり、そのあと別の街へ移動。
夜にはまた、別件の記録受け渡しが入っている。
世界を飛び回る仕事は華やかに見えるかもしれない。
けれど実際には、誰かの記録の残骸と、誰にも見せない顔ばかりを拾い上げて歩くようなものだった。
ラビは窓の外を一瞥してから、ふとポケットの中のスマートフォンに触れた。
画面は見ない。
見ればたぶん、自身の人生の現実…。あの空港で振り返った女の顔を思い出す。
「Jr、五分後に会議です」
「うん」
「その後、駅へ向かいます」
「分かってる」
ラビは短く答えて、また歩き出した。
靴音が、長い廊下に静かに響く。
表の仕事も、裏の仕事も、やることは変わらない。
感情がどこにあろうと、世界は待ってくれない。
だから今は、まだ考えない。
❄︎ ❅ *. ❅ ✥ ✣ ✤
皆にチヤホヤされたあの日から四週間。
もうすぐ一か月経つという頃。
チカにとっては、それがずいぶん長く感じられた。
美術館の修復室は、いつも通り静かだった。
乾いた絵具の匂い。
薄く響く空調音。
蛍光灯の白い光の下で、チカは欠けた額縁の縁を細い筆で整えていく。
手元の作業は、慣れている。
だからこそ、考えごとをする余裕ができてしまう。
(次、あると言ってた……)
筆先を止めないまま、チカはあの日の車内を思い出す。
ラビの声。
軽く言っているようで、曖昧には聞こえなかった言葉。
(次って、いつ……?)
お見合いというものは、こういうものなのだろうか。
次に会うまで、これくらい時間が空くのは普通なのか。
それとも、自分だけが勝手に“次がある”と思い込んでいるのか。
分からない。
分からないまま、日だけが過ぎていく。
次に備えて、母とまた服をいくつか新調した。
派手すぎず、地味すぎず。
年相応で、失礼がなくて、でも少しだけ綺麗に見えるもの。
母は店員にあれこれ尋ねながら、楽しそうに選んでいた。
チカもその隣で、ちゃんと頷いていた。
けれど帰宅して紙袋を部屋の隅に置いた時、ふと思ってしまったのだ。
(……もしかして、これって無駄になる?)
それを口に出したことはない。
母に言えば、すぐに「縁起でもない」と叱られるのが分かっていたし、自分でも、そんなふうに考えるのはよくないと思っていた。
それでも不安は、日に日に形を持ち始めていた。
最初の一週間は、単に待っていた。
二週間目には、少しだけ気になった。
三週間を過ぎる頃には、仕事中でもふと考えてしまうようになっていた。
(次があるって仰ってたけど……あれって、社交辞令だったんじゃ……)
その考えを打ち消そうとして、別の考えが浮かぶ。
(粗相したかな)
さらにもうひとつ。
(……したかも)
チカは小さく目を伏せる。
(次期ブックマン様の笑顔について、言いすぎた……?)
自分では本当のことを言っただけだった。
あんなふうに真正面から口にする必要はなかったかもしれない。
思い返せば返すほど、細かい場面がいちいち不安になる。
あの時の言い方はまずかったのではないか。
あの沈黙は困らせたのではないか。
あの返事は重すぎたのではないか。
そうして一人で反省しても、答えはどこにもなかった。
その頃になると、母以外はお見合いの話に触れなくなっていた。
親戚も、近所の人も、職場の人間も。
最初の頃は、 「すごい話ね」 「次期ブックマン様なんて」 「玉の輿じゃない」 と、半ば面白がるように騒いでいたのに、最近は静かだ。
触れてはいけないものに触れないようにするみたいに、誰もその話題を口にしない。
まるで、最初からなかったことにしようとしているみたいだった。
その沈黙が、かえってチカを落ち着かなくさせた。
同僚たちは表向きいつも通りだった。
仕事の指示も、雑談も、業務連絡も、何ひとつ変わらない。
別にいじめられているわけではない。
嫌がらせを受けているわけでもない。
ただ――
チカが休憩室へ入ると、ぴたりと会話が止まることがあった。
廊下の角を曲がった途端、ひそひそ声が途切れることがあった。
視線が一度こちらへ向いて、それからさっと逸らされることもあった。
腫れ物に触るような扱い。
その意味が、チカには分からなかった。
分からないまま、ただじわじわと居心地が悪くなっていく。
そして、ある日。
その“腫れ物”の正体が、ようやく分かった。
昼休みの少し前だった。
チカが修復室から資料を持って戻る途中、休憩スペースの前を通りかかった時だ。
半開きの扉の向こうで、同僚が二人、スマートフォンを覗き込んでいた。
「え、でもこれ……」
「ちょっと、鈴木さん来るって」
「やば」
その言い方で、チカの足が止まる。
話題が自分のことだと分かった。
同僚の一人が慌ててスマートフォンを伏せる。
けれど、もう遅かった。
チカはその場から動かず、小さく眉を寄せた。
「……何ですか」
「え、いや……」
「別に、大したことじゃ」
明らかにごまかしている。
その様子が、かえって胸の奥を冷やした。
チカは手にしていた資料を抱え直し、普段より少しだけ強い声で言う。
「見せてください」
「いや、でも……」
「お願いします」
声は震えていなかった。
その代わり、眉間に薄く皺が寄っている。
同僚たちは顔を見合わせたあと、おずおずとスマートフォンを差し出した。
チカはそれを受け取る。
画面の中に、大きな見出しが踊っていた。
『次期ブックマン様のお相手はやはりルシア嬢!?』
その下に載っていた写真を見た瞬間、チカの指先が止まる。
海外らしき古書店のカウンター越し。
ラビが、眼鏡をかけた女の両手を取っていた。
顔と顔の距離は、近い。
まるで、そのままキスでもしそうなほどに。
さらに、その写真には帯のような文字が被せられていた。
『婚約者確定!?』
「……」
チカは何も言わなかった。
何も言えなかった、の方が近い。
写真の中のラビは、見覚えのある顔をしている。
あの、人懐っこい、作ったような笑顔。
でも、少し角度が違えば、本当に楽しそうにも見えてしまう顔。
同僚たちが気まずそうに立ち尽くしている。
誰も、何も言わない。
チカはしばらく画面を見たまま固まっていた。
やがて、ほんの少しだけ唇が動く。
「あ」
小さな声だった。
だけど、その場にいた全員にはっきり聞こえた。
チカはスマートフォンを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「わたし……資料をしまいに来たんだった……」
その声には怒りも責める響きもなかった。
ただ、急に何も分からなくなった人間が、手の中にある“今やるべきこと”だけを確かめようとするみたいな、頼りない静けさだけがあった。
チカはスマートフォンを返した。
指先から、少しずつ力が抜けていく。
胸に抱えていた資料が腕の中でずれ落ちる。
「お母さんになんて言えばいいんだろう……」
ぽつりとこぼれたその一言に、同僚たちは顔を見合わせる。
「す、鈴木さん……」
ひとりが慌てて声をかける。
「いや、でも、ほら……っ」
別の同僚が、気まずそうに言葉を探した。
「元々このふたり、昔からよく撮られてたよね……? だから、その……今回も、ただの噂っていうか……」
慰めているつもりなのだろう。
でも、その言葉は少しも慰めになっていなかった。
チカはそれに何も答えない。
ただ、資料を抱えたまま立っている。
「そ、そうそう。ほら、結婚と恋人は別って言うし!」
その一言で、場の空気がさらに悪くなる。
言った本人だけが、一瞬遅れて自分の失言に気づいた顔をした。
「……あ、いや、違っ、そういう意味じゃなくて」
「今日、飲みに行く!?」
「カラオケなんかどう? ね、気分変わるかもだし……」
声が次々に飛ぶが、チカには、もうよく聞こえていなかった。
まるで遠くで、知らない誰かたちが騒いでいるみたいだった。
足元だけが、少しふわふわする。
フラフラとした足取りで、チカはひとつ小さく会釈をした。
「……すみません」
何に対しての謝罪か、自分でも分からなかった。
ただ、それだけ言って、チカは資料を抱えたまま休憩スペースを後にする。
背中の向こうで、同僚たちの声がまた小さく重なる。
「やばい、泣かせた……?」
「泣いてはないけど……」
「いやでも今の“結婚と恋人は別”は最悪でしょ」
「だって、何か言わなきゃと思って……!」
そのどれも、もうチカの耳には入らなかった。
つづく、2026/04/26