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第1章
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第10話。
車は滑るように都心の道を走っていた。
窓の外を流れていく高層ビル群は、朝の光を受けてどれも輪郭だけが鋭く浮かび上がっている。
チカはしばらくその景色を見ていたが、やがて小さく口を開いた。
「……街って、上から見たら模型みたいなんでしょうね」
「模型?」
「はい。人も車も、全部きちんと配置されたみたいで」
ラビは窓の外を一瞥して、ふっと息を漏らした。
「そういう見方するんだ」
「……変ですか?」
「いや。あんたらしいんじゃない?」
車内に少しだけ静かな間が落ちる。
チカは窓の外へ視線を戻しかけて、それから思い出したようにラビを見た。
「そういえば」
「なに」
「次期ブックマン様は、休日はどのように過ごされてるんですか?」
ラビの眉が、ほんのわずかに動く。
「……休日、ね」
口元には笑みがある。
けれど、その目はいつものように少しも笑っていなかった。
「うん、いろいろ」
「いろいろ……とは?」
「うん、いろいろ♡」
それ以上は聞いてほしくない。
その軽さの奥に、そんな線が見えた。
チカは黙る。
冗談みたいな言い方だったけれど、そこから先へ踏み込んではいけない気がした。
けれどラビは、少しだけ考えたあとで、自分から続けた。
「大体は、大真柱にいるよ」
言いながら、あの人懐っこい作り笑顔で、ラビはにこりとチカを見た。
「知ってる? あの辛気臭いとこ」
「あ……はい」
チカは小さく頷く。
「とても暗い所でしたね」
「そう」
ラビは窓の外へ視線を流したまま、さらりと言った。
「暗い海の底に沈んだみたいで、寒くて、カビ臭い。大体あそこにいる」
その言い方は軽い。
軽いのに、生々しかった。
まるで、自分の居場所を嫌っている人の言葉みたいで。
チカはそっとラビの横顔を見た。
表の顔としてブックマン・グループの本社にいるこの人と、今、口にした“大真柱”の中にいるこの人は、たぶん同じではない。
同じではないのに、きっとどちらも本当なのだ。
「……好きではないんですか」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
ラビは少しだけ目を細める。
「なにが」
「大真柱が」
数秒の沈黙。
ラビはすぐには答えなかった。
その代わり、指先でスマートフォンの縁を軽く叩く。
「どうだろうね」
やがて落ちた返事は、曖昧だった。
「好きとか嫌いとか、そういう場所でもないし」
それ以上、ラビは言わなかった。
チカも追及しなかった。
けれど、その短いやり取りだけで十分だった。
この人には、自分の想像がつかない“別の時間”がある。
明るい場所で笑って見せる顔とは、別の顔が。
車窓の光がラビの頬をかすめる。
その横顔は相変わらず整っていて、綺麗で、そして少しだけ遠かった。
ラビはしばらく黙っていたが、やがてふっと息を吐くように笑った。
「……まあ、俺と一緒になるってことは、あんたもあのカビ臭い住人になるってことだけど」
その言い方は、冗談みたいに軽かった。
けれど、目だけは少しも笑っていない。
「それでも大丈夫?」
チカは流し目を送ってくるラビを見つめた。
その問いの中にあるものを測るみたいに、ほんの少しだけ黙る。
そして、
「末端とはいえ、一族である以上、覚悟はできています」
迷いのない声だった。
「……へぇ」
短く落ちる声。
その響きには、呆れとも感心ともつかない色が混ざっていた。
チカは膝の上で指先を重ねたまま、静かに続ける。
「明るい場所だけで生きていけるとは、思っていません」
「……」
「次期ブックマン様と結婚するなら、そういう場所も含めて受け入れるものだと、最初から分かっています」
ラビは数秒、何も言わなかった。
車内に落ちた沈黙は重いのに、不思議と居心地が悪くはない。
やがてラビは、窓の外へ視線を戻した。
「……次期ブックマン様、ね」
どこか面白くなさそうに呟いてから、小さく肩をすくめる。
「そういうとこ、ほんと真面目だよね、あんた」
「……そうでしょうか」
「うん。普通そこ、もうちょっと怖がるとこだから」
チカは少しだけ考えてから、正直に言った。
「……不安はあります」
ラビの眉がほんのわずかに動く。
「でも最初から、そういうものだと思って来ているので」
その返事に、ラビはふっと息を漏らした。
笑ったようにも、呆れたようにも見える、曖昧な音だった。
「……重いなぁ」
軽口みたいに言う。
けれどその声は、少しだけ優しかった。
「次期ブックマン様こそ、私でいいんですか?」
「断る理由なんてないからね」
「私との間に子供を持つ。ということになりますよ?本当にいいんですか?」
「……ぶっ」
ラビは思わず口元を押さえた。
「……あんたさ」
「はい」
「今、それ、そんな真顔で言う?」
「大事なことですよね?」
「……まあ、そうだけど」
ラビは視線を逸らし、小さく息を吐いた。
「……別に。出来るけど」
そしてラビは数秒、黙ったまま彼女を見た。
それから少しだけ低い声で聞き返す。
「……あんたは?」
「はい?」
「いいの? 俺とそんなことして」
チカは一瞬だけ目を瞬いた。
けれど、すぐに視線を逸らさず答える。
「私は、次期ブックマン様と生きていくなら、そこまで含めて考えています」
ラビの目が、わずかに細くなる。
「……あんた、ほんとに重いな」
その声音は、呆れとも困惑ともつかない。
でもチカは引かなかった。
「どうせ一緒になるのなら、ちゃんと愛したいと思っています」
その瞬間、ラビの目がはっきりと見開かれた。
たった一日で何度も予想を裏切られてきたけれど、これはそのどれとも違った。
数秒、ラビは本当に何も言えなかった。
ただ、目の前の女を見ていた。
やがてラビは、小さく息を吐く。
「……あんた、ほんとに重いね」
さっきと同じ言葉。
けれど今度は、少しだけ響きが違っていた。
チカは小さく視線を伏せる。
「……すみません」
それでも声は揺れない。
「でも、これが私なので」
ラビは何も言わない。
チカはその沈黙の中で、静かに続けた。
「一生添い遂げるのですから。せっかくなら、楽しく過ごしたいじゃないですか」
「……最悪」
ぽつりと落ちたラビの声に、チカは小さく目を伏せた。
「……そこは同意します」
静かな声だった。
「相手が私で、すみません」
ラビがぴたりと止まる。
そういう意味で言ったんじゃない。
けれど目の前の女は、まっすぐにそれを引き受けてしまう。
「……いや、違うさ」
思ったより早く、言葉が出た。
チカが少しだけ目を上げる。
ラビは小さく息を吐いた。
「そこ、そう取る?」
「……違うんですか?」
「違うよ」
ラビはシートに背中を預け、少しだけ視線を逸らした。
「“あんたが嫌で最悪”って意味じゃない」
「……では、どういう意味ですか」
その問いは、責める響きのない、ただの確認だった。
ラビは一瞬だけ口をつぐむ。
それから、観念したみたいに肩をすくめた。
「こっちはさ、軽く確認したかっただけなんだよね」
「……はい」
「もっとこう、困るとか、照れるとか、はぐらかすとか、そういう返しが来ると思ってたわけ」
チカは少しだけ考えるように視線を止める。
「……普通は、そうなんですか」
「普通はね」
ラビはそこで、ちらりとチカを見た。
「なのにあんた、真顔で“ちゃんと愛したいと思っています”とか言うでしょ」
「……本当のことなので」
「そういうとこだよ」
ラビは小さく笑った。
笑ったが、その笑いはさっきまでみたいな器用なものではなかった。
「軽く済ませるつもりだったのに、急に真正面から来られたら、そりゃ困るさ」
「……困らせましたか」
「うん。かなり」
「……すみません」
「だから、そこは謝らなくていいって」
ラビは眉を寄せるでもなく、ただ少しだけ面倒くさそうに続けた。
「“最悪”って言ったのは、俺の予定してた流れが全部ダメになったって意味」
「予定……」
「うまく軽く済ませるつもりだったのに、あんたが重い言葉をまっすぐ置いてくるから、もう茶化せなくなった」
チカはその言葉を黙って聞いていた。
膝の上で重ねていた指先が、ほんの少しだけ動く。
「……それは」
「ん?」
「良くないこと、なんですか?」
ラビは一瞬だけ黙った。
その問いがあまりにも真っ直ぐで、すぐには返せなかった。
「……どうだろうね」
ようやく出た声は、いつもより少し低かった。
「面倒ではある」
「……はい」
「でも、嫌じゃない」
チカの目が、わずかに揺れる。
ラビはその変化を見ないふりをしたまま、窓の外へ目を向けた。
「だから余計に、最悪なんだよね」
静かな声だった。
チカは少しだけ黙ってから、小さく息を吐く。
「……難しいですね」
「なにが」
「次期ブックマン様の“最悪”は、悪い意味だけじゃないんですね」
ラビはふっと口元を緩めた。
「そういうこと」
「……勉強になります」
「そこ、学ぶとこ?」
「大事なことだと思います」
真顔で言い切られて、ラビはとうとう肩を揺らした。
「……はは」
短い笑いだった。
でも、今度のそれはちゃんと温度があった。
チカはその音を聞いて、ようやく少しだけ安心したように視線を落とす。
「……では」
「ん?」
「相手が私で最悪、ではないと言う意味なんですね」
「だからさっきからそう言ってる」
「……よかったです」
その一言があまりに素直で、ラビはまた少しだけ言葉を失った。
それから、諦めたみたいに小さく笑う。
「……あんた、ほんと敵わないね」
その言葉の余韻がまだ残る中、車はゆるやかに速度を落としていった。
窓の外に見えてきたのは、大きなガラス張りのターミナル。
行き交う人々は皆、それぞれの目的地へ急ぐように足を進めている。
「着きました」
前方から運転手の落ち着いた声が聞こえる。
車内の空気が、少しだけ現実に引き戻された。
チカは小さく息を吸って、膝の上のバッグを持ち直す。
「……ありがとうございました」
「うん」
ラビは短く返しただけだった。
けれど、その声にはさっきまでの軽さが少しだけ残っていた。
車が完全に停まる。
運転手が先に降りて、後部座席のドアを開けてくれる気配がした。
「じゃあまたね」
ラビが先に口を開く。
チカが顔を上げる。
「ちゃんと気をつけて帰って」
「……はい」
「それから」
ラビは一拍置いた。
「空港で知らない人に声かけられても、ついて行かない」
「……行きません」
「ほんとに?」
「ほんとにです」
「ならいいけど」
ラビはそう言いながら、じっとチカの顔を見ていた。
チカはバッグの紐を両手で持ったまま、少しだけ視線を泳がせる。
「……あの」
「なに」
「次は……いつ会えますか?」
ラビの目が、ほんの少しだけやわらぐ。
「さあね」
意地悪みたいに軽く言ってから、すぐに続ける。
「でも、きっと会えるさ」
チカは少しだけ目を瞬く。
「……本当ですか?」
「絵を本社まで届けに来るような子、そう簡単に切れないだろ」
軽い言い方だった。
けれど、答えとしては十分だった。
チカはキリリとした表情で小さく頷く。
「……分かりました」
「うん」
そこで一度会話が切れる。
ドアの外から、人の足音とアナウンスの声が流れ込んでくる。
「……では、行きますね」
「ん?」
「ありがとうございました」
ドアの外で、運転手がトランクを持って静かに待っている。
もう本当に降りる時間だった。
チカはバッグを抱え直して、足先を地面に付ける。
けれど降りる直前、ラビがふいに声をかけた。
「……あ」
チカが振り向く。
ラビはほんの一瞬だけ迷ったようにしてから、何でもない顔で言った。
ラビはほんの一瞬だけ迷ったようにしてから、窓の外へ視線を向けたまま言った。
「大真柱には、ちゃんと俺の方から言っとくから」
「え?」
チカが小さく瞬く。
ラビはそこでようやく、ちらりと彼女を見る。
「縁談、進めていいって」
「あ……はい、わかりました」
チカの返事は、少しかたかった。
けれど、その頬にはうっすらと熱が差している。
ラビはそれを見たのに、見なかったふりをして、また視線を逸らす。
「……ほら、早く降りなよ。後ろ詰まってる」
自分から引き止めたくせに、最後だけ急に雑だった。
チカはほんの少しだけきょとんとしてから、小さく頭を下げる。
「……はい。ありがとうございました」
それから車を降りた。
ドアが閉まる。
チカは運転手の方に礼を言い、朝の空気の中を、小さなトランクを引いてターミナルへ向かって歩いていく。
数歩進いて、一度だけ振り返る。
ラビはもうこちらを見ていないふりをしていた。
けれど、ガラス越しの横顔が少しだけ固い。
チカは小さく会釈して、そのまま人波の中へ消えていった。
自動ドアが閉まる。
そこでラビは、ふっと息を吐いた。
隣に置いた白い封筒を指先で軽く叩く。
ひとまず、言うことは言った。
あとは大真柱に話を通せば、何とかなるだろう。
そう思って、車を出させようとした、その時だった。
「……あ」
ラビが止まる。
前方の運転手がバックミラー越しにわずかに視線を上げた。
「どうかなさいましたか」
ラビは数秒黙ったあと、片手で額を押さえた。
「……俺、明日から二か月、日本いねぇんだった」
「はい。そうでしたね」
運転手は静かに答える。
ラビはそのまま黙り込む。
さっきのチカの顔が、鮮明に浮かんだ。
『次は……いつ会えますか』
「……」
まあ、いいか。
大真柱に進めるって言っとけば、なんとかなるだろう。
たぶん。
きっと。
ラビはそう結論づけて、窓の外へ視線を戻す。
「出して」
「承知しました」
車はゆっくりと空港を離れ始めた。
けれどラビの胸の奥には、さっきターミナルへ消えていった後ろ姿が、引っかかったまま残っていた。
つづく、2026/04/24
車は滑るように都心の道を走っていた。
窓の外を流れていく高層ビル群は、朝の光を受けてどれも輪郭だけが鋭く浮かび上がっている。
チカはしばらくその景色を見ていたが、やがて小さく口を開いた。
「……街って、上から見たら模型みたいなんでしょうね」
「模型?」
「はい。人も車も、全部きちんと配置されたみたいで」
ラビは窓の外を一瞥して、ふっと息を漏らした。
「そういう見方するんだ」
「……変ですか?」
「いや。あんたらしいんじゃない?」
車内に少しだけ静かな間が落ちる。
チカは窓の外へ視線を戻しかけて、それから思い出したようにラビを見た。
「そういえば」
「なに」
「次期ブックマン様は、休日はどのように過ごされてるんですか?」
ラビの眉が、ほんのわずかに動く。
「……休日、ね」
口元には笑みがある。
けれど、その目はいつものように少しも笑っていなかった。
「うん、いろいろ」
「いろいろ……とは?」
「うん、いろいろ♡」
それ以上は聞いてほしくない。
その軽さの奥に、そんな線が見えた。
チカは黙る。
冗談みたいな言い方だったけれど、そこから先へ踏み込んではいけない気がした。
けれどラビは、少しだけ考えたあとで、自分から続けた。
「大体は、大真柱にいるよ」
言いながら、あの人懐っこい作り笑顔で、ラビはにこりとチカを見た。
「知ってる? あの辛気臭いとこ」
「あ……はい」
チカは小さく頷く。
「とても暗い所でしたね」
「そう」
ラビは窓の外へ視線を流したまま、さらりと言った。
「暗い海の底に沈んだみたいで、寒くて、カビ臭い。大体あそこにいる」
その言い方は軽い。
軽いのに、生々しかった。
まるで、自分の居場所を嫌っている人の言葉みたいで。
チカはそっとラビの横顔を見た。
表の顔としてブックマン・グループの本社にいるこの人と、今、口にした“大真柱”の中にいるこの人は、たぶん同じではない。
同じではないのに、きっとどちらも本当なのだ。
「……好きではないんですか」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
ラビは少しだけ目を細める。
「なにが」
「大真柱が」
数秒の沈黙。
ラビはすぐには答えなかった。
その代わり、指先でスマートフォンの縁を軽く叩く。
「どうだろうね」
やがて落ちた返事は、曖昧だった。
「好きとか嫌いとか、そういう場所でもないし」
それ以上、ラビは言わなかった。
チカも追及しなかった。
けれど、その短いやり取りだけで十分だった。
この人には、自分の想像がつかない“別の時間”がある。
明るい場所で笑って見せる顔とは、別の顔が。
車窓の光がラビの頬をかすめる。
その横顔は相変わらず整っていて、綺麗で、そして少しだけ遠かった。
ラビはしばらく黙っていたが、やがてふっと息を吐くように笑った。
「……まあ、俺と一緒になるってことは、あんたもあのカビ臭い住人になるってことだけど」
その言い方は、冗談みたいに軽かった。
けれど、目だけは少しも笑っていない。
「それでも大丈夫?」
チカは流し目を送ってくるラビを見つめた。
その問いの中にあるものを測るみたいに、ほんの少しだけ黙る。
そして、
「末端とはいえ、一族である以上、覚悟はできています」
迷いのない声だった。
「……へぇ」
短く落ちる声。
その響きには、呆れとも感心ともつかない色が混ざっていた。
チカは膝の上で指先を重ねたまま、静かに続ける。
「明るい場所だけで生きていけるとは、思っていません」
「……」
「次期ブックマン様と結婚するなら、そういう場所も含めて受け入れるものだと、最初から分かっています」
ラビは数秒、何も言わなかった。
車内に落ちた沈黙は重いのに、不思議と居心地が悪くはない。
やがてラビは、窓の外へ視線を戻した。
「……次期ブックマン様、ね」
どこか面白くなさそうに呟いてから、小さく肩をすくめる。
「そういうとこ、ほんと真面目だよね、あんた」
「……そうでしょうか」
「うん。普通そこ、もうちょっと怖がるとこだから」
チカは少しだけ考えてから、正直に言った。
「……不安はあります」
ラビの眉がほんのわずかに動く。
「でも最初から、そういうものだと思って来ているので」
その返事に、ラビはふっと息を漏らした。
笑ったようにも、呆れたようにも見える、曖昧な音だった。
「……重いなぁ」
軽口みたいに言う。
けれどその声は、少しだけ優しかった。
「次期ブックマン様こそ、私でいいんですか?」
「断る理由なんてないからね」
「私との間に子供を持つ。ということになりますよ?本当にいいんですか?」
「……ぶっ」
ラビは思わず口元を押さえた。
「……あんたさ」
「はい」
「今、それ、そんな真顔で言う?」
「大事なことですよね?」
「……まあ、そうだけど」
ラビは視線を逸らし、小さく息を吐いた。
「……別に。出来るけど」
そしてラビは数秒、黙ったまま彼女を見た。
それから少しだけ低い声で聞き返す。
「……あんたは?」
「はい?」
「いいの? 俺とそんなことして」
チカは一瞬だけ目を瞬いた。
けれど、すぐに視線を逸らさず答える。
「私は、次期ブックマン様と生きていくなら、そこまで含めて考えています」
ラビの目が、わずかに細くなる。
「……あんた、ほんとに重いな」
その声音は、呆れとも困惑ともつかない。
でもチカは引かなかった。
「どうせ一緒になるのなら、ちゃんと愛したいと思っています」
その瞬間、ラビの目がはっきりと見開かれた。
たった一日で何度も予想を裏切られてきたけれど、これはそのどれとも違った。
数秒、ラビは本当に何も言えなかった。
ただ、目の前の女を見ていた。
やがてラビは、小さく息を吐く。
「……あんた、ほんとに重いね」
さっきと同じ言葉。
けれど今度は、少しだけ響きが違っていた。
チカは小さく視線を伏せる。
「……すみません」
それでも声は揺れない。
「でも、これが私なので」
ラビは何も言わない。
チカはその沈黙の中で、静かに続けた。
「一生添い遂げるのですから。せっかくなら、楽しく過ごしたいじゃないですか」
「……最悪」
ぽつりと落ちたラビの声に、チカは小さく目を伏せた。
「……そこは同意します」
静かな声だった。
「相手が私で、すみません」
ラビがぴたりと止まる。
そういう意味で言ったんじゃない。
けれど目の前の女は、まっすぐにそれを引き受けてしまう。
「……いや、違うさ」
思ったより早く、言葉が出た。
チカが少しだけ目を上げる。
ラビは小さく息を吐いた。
「そこ、そう取る?」
「……違うんですか?」
「違うよ」
ラビはシートに背中を預け、少しだけ視線を逸らした。
「“あんたが嫌で最悪”って意味じゃない」
「……では、どういう意味ですか」
その問いは、責める響きのない、ただの確認だった。
ラビは一瞬だけ口をつぐむ。
それから、観念したみたいに肩をすくめた。
「こっちはさ、軽く確認したかっただけなんだよね」
「……はい」
「もっとこう、困るとか、照れるとか、はぐらかすとか、そういう返しが来ると思ってたわけ」
チカは少しだけ考えるように視線を止める。
「……普通は、そうなんですか」
「普通はね」
ラビはそこで、ちらりとチカを見た。
「なのにあんた、真顔で“ちゃんと愛したいと思っています”とか言うでしょ」
「……本当のことなので」
「そういうとこだよ」
ラビは小さく笑った。
笑ったが、その笑いはさっきまでみたいな器用なものではなかった。
「軽く済ませるつもりだったのに、急に真正面から来られたら、そりゃ困るさ」
「……困らせましたか」
「うん。かなり」
「……すみません」
「だから、そこは謝らなくていいって」
ラビは眉を寄せるでもなく、ただ少しだけ面倒くさそうに続けた。
「“最悪”って言ったのは、俺の予定してた流れが全部ダメになったって意味」
「予定……」
「うまく軽く済ませるつもりだったのに、あんたが重い言葉をまっすぐ置いてくるから、もう茶化せなくなった」
チカはその言葉を黙って聞いていた。
膝の上で重ねていた指先が、ほんの少しだけ動く。
「……それは」
「ん?」
「良くないこと、なんですか?」
ラビは一瞬だけ黙った。
その問いがあまりにも真っ直ぐで、すぐには返せなかった。
「……どうだろうね」
ようやく出た声は、いつもより少し低かった。
「面倒ではある」
「……はい」
「でも、嫌じゃない」
チカの目が、わずかに揺れる。
ラビはその変化を見ないふりをしたまま、窓の外へ目を向けた。
「だから余計に、最悪なんだよね」
静かな声だった。
チカは少しだけ黙ってから、小さく息を吐く。
「……難しいですね」
「なにが」
「次期ブックマン様の“最悪”は、悪い意味だけじゃないんですね」
ラビはふっと口元を緩めた。
「そういうこと」
「……勉強になります」
「そこ、学ぶとこ?」
「大事なことだと思います」
真顔で言い切られて、ラビはとうとう肩を揺らした。
「……はは」
短い笑いだった。
でも、今度のそれはちゃんと温度があった。
チカはその音を聞いて、ようやく少しだけ安心したように視線を落とす。
「……では」
「ん?」
「相手が私で最悪、ではないと言う意味なんですね」
「だからさっきからそう言ってる」
「……よかったです」
その一言があまりに素直で、ラビはまた少しだけ言葉を失った。
それから、諦めたみたいに小さく笑う。
「……あんた、ほんと敵わないね」
その言葉の余韻がまだ残る中、車はゆるやかに速度を落としていった。
窓の外に見えてきたのは、大きなガラス張りのターミナル。
行き交う人々は皆、それぞれの目的地へ急ぐように足を進めている。
「着きました」
前方から運転手の落ち着いた声が聞こえる。
車内の空気が、少しだけ現実に引き戻された。
チカは小さく息を吸って、膝の上のバッグを持ち直す。
「……ありがとうございました」
「うん」
ラビは短く返しただけだった。
けれど、その声にはさっきまでの軽さが少しだけ残っていた。
車が完全に停まる。
運転手が先に降りて、後部座席のドアを開けてくれる気配がした。
「じゃあまたね」
ラビが先に口を開く。
チカが顔を上げる。
「ちゃんと気をつけて帰って」
「……はい」
「それから」
ラビは一拍置いた。
「空港で知らない人に声かけられても、ついて行かない」
「……行きません」
「ほんとに?」
「ほんとにです」
「ならいいけど」
ラビはそう言いながら、じっとチカの顔を見ていた。
チカはバッグの紐を両手で持ったまま、少しだけ視線を泳がせる。
「……あの」
「なに」
「次は……いつ会えますか?」
ラビの目が、ほんの少しだけやわらぐ。
「さあね」
意地悪みたいに軽く言ってから、すぐに続ける。
「でも、きっと会えるさ」
チカは少しだけ目を瞬く。
「……本当ですか?」
「絵を本社まで届けに来るような子、そう簡単に切れないだろ」
軽い言い方だった。
けれど、答えとしては十分だった。
チカはキリリとした表情で小さく頷く。
「……分かりました」
「うん」
そこで一度会話が切れる。
ドアの外から、人の足音とアナウンスの声が流れ込んでくる。
「……では、行きますね」
「ん?」
「ありがとうございました」
ドアの外で、運転手がトランクを持って静かに待っている。
もう本当に降りる時間だった。
チカはバッグを抱え直して、足先を地面に付ける。
けれど降りる直前、ラビがふいに声をかけた。
「……あ」
チカが振り向く。
ラビはほんの一瞬だけ迷ったようにしてから、何でもない顔で言った。
ラビはほんの一瞬だけ迷ったようにしてから、窓の外へ視線を向けたまま言った。
「大真柱には、ちゃんと俺の方から言っとくから」
「え?」
チカが小さく瞬く。
ラビはそこでようやく、ちらりと彼女を見る。
「縁談、進めていいって」
「あ……はい、わかりました」
チカの返事は、少しかたかった。
けれど、その頬にはうっすらと熱が差している。
ラビはそれを見たのに、見なかったふりをして、また視線を逸らす。
「……ほら、早く降りなよ。後ろ詰まってる」
自分から引き止めたくせに、最後だけ急に雑だった。
チカはほんの少しだけきょとんとしてから、小さく頭を下げる。
「……はい。ありがとうございました」
それから車を降りた。
ドアが閉まる。
チカは運転手の方に礼を言い、朝の空気の中を、小さなトランクを引いてターミナルへ向かって歩いていく。
数歩進いて、一度だけ振り返る。
ラビはもうこちらを見ていないふりをしていた。
けれど、ガラス越しの横顔が少しだけ固い。
チカは小さく会釈して、そのまま人波の中へ消えていった。
自動ドアが閉まる。
そこでラビは、ふっと息を吐いた。
隣に置いた白い封筒を指先で軽く叩く。
ひとまず、言うことは言った。
あとは大真柱に話を通せば、何とかなるだろう。
そう思って、車を出させようとした、その時だった。
「……あ」
ラビが止まる。
前方の運転手がバックミラー越しにわずかに視線を上げた。
「どうかなさいましたか」
ラビは数秒黙ったあと、片手で額を押さえた。
「……俺、明日から二か月、日本いねぇんだった」
「はい。そうでしたね」
運転手は静かに答える。
ラビはそのまま黙り込む。
さっきのチカの顔が、鮮明に浮かんだ。
『次は……いつ会えますか』
「……」
まあ、いいか。
大真柱に進めるって言っとけば、なんとかなるだろう。
たぶん。
きっと。
ラビはそう結論づけて、窓の外へ視線を戻す。
「出して」
「承知しました」
車はゆっくりと空港を離れ始めた。
けれどラビの胸の奥には、さっきターミナルへ消えていった後ろ姿が、引っかかったまま残っていた。
つづく、2026/04/24