その心をば恋と呼べ(小竜さに)
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その日の夕食は、とにかくすべてがおかしかった。非番の刀も内番帰りの刀も出陣を終えた刀も、全員が妙にご機嫌で、すれ違うたびに生あたたかい視線を私に寄越す。遠征から戻った大般若が厨房から出てきたと思ったら「赤飯の仕込みは終わったらしい」と言ってきた時点で、本丸中に私と小竜の話が知れ渡ったのだと悟った。そして広間で席についたときに周囲を長船と古備前の刀たちで固められたときにすべてを諦めることにした。
「……珍しい布陣だねえ」
一方で小竜は午後から出陣だったためにそんなことは露とも知らず、首を傾げながら開口一番そう言った。きっと私のそばの席を陣取ろうとしたのだろうが、あいにく空いている席はひとつもない。無言で目の前の茶碗を見下ろす私に代わって、左隣の鶯丸が平然と口を開いた。
「なに、気にするな。たまには積もる話を崩しておこうかと思ってな」
「ふぅん?」
「そういえば謙信からお前に用があるそうだぞ」
鶯丸に促され、正面に座っていた謙信が立ち上がった。その手には大きな包みを抱えており、昼間とは正反対の上機嫌でそれを小竜に差し出す。
「小竜にぷれぜんとだぞ」
「それは、どうも? でもどうしたんだい、急に」
「まあまあ、いいじゃないか、なんだって。とにかくさっさと乾杯しよう」
すでにできあがっている大般若が、ビールが半分ほど消えたグラスを掲げて小豆を見る。それを受けた小豆がグラスを持ち上げると、席についていた刀たち全員がそれぞれに飲み物を持ち上げた。まだ着席すらしていない小竜はぎょっとするが、誰1人気にした様子はない。ただニヤニヤと、うろたえる小竜を見ながら――
「では、主と小竜のすったもんだにぶじけっちゃくがついたことをいわって」
「……ん!?」
「かんぱい」
「かんぱーい!」
――元気よく、お互いのグラスをぶつけた。
「ちょっ……と待った。え、なに? ……どういうこと!?」
「まあまあ、鶯丸じゃないが、細かいことは気にするな」
「細かいことじゃないし気にしないわけなくない!?」
「それより早くプレゼントを開けてやりなよ。謙信が代表して渡したが、実は我ら武蔵野の草一同からの心を込めた贈り物だ」
「……本当に待って。なに、なんで知ってんの」
「この本丸は隠しごとをするには狭すぎたなあ」
平然と盗み聞きを認める大般若の声にまぎれて、どこからか偵察値と隠蔽値という言葉が聞こえた気がした。どうやら昼間、あの中庭の周辺には暇を持て余した短刀・脇差・打刀が息を潜めて私たちの様子を窺っており、結果が出た瞬間に本丸中に散って事細かに詳細を語って聞かせたらしい。最早私から言うことは何もない。あんなに人目につくところで告白した自分が悪いと思うしかない。そうしなければ気持ちの落としどころがなかった。
「むさしののくさって?」
礼儀正しくいただきますと言ってから箸をとった謙信が、首を傾げながら素朴な疑問を口にした。すかさず答えを寄越したのは隣の机の歌仙兼定と古今伝授の太刀で、得意げに解説をしてくれた。
「彼が言った紫草というのは古今和歌集からの引用でね」
「むらさきのひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる、ですね。たった一本の紫草がために、広大な武蔵野の草すべてが愛おしく思える……といったところでしょうか」
「つまり主という紫草がなければ、俺たちは見向きもされないのっぱらの雑草ということになる」
「そこまで言ったつもりはないんだけど。というか、どこから聞いてたわけ」
「どこからも何も、お前の隣は誰の部屋だと思っている」
「大包平だけど」
「そうだ。つまり俺の部屋だ」
「何もつまりじゃないんだけど?」
憮然としている小竜に怯んだ様子もなく、鶯丸はとんでも理論を展開しながらもぐもぐとお赤飯を口に運んだ。右隣の大包平はすでに鶯丸の振る舞いを諦めているのだろう、遠い目をして日本酒を煽っていた。
「とにかく小竜くんも座ろうよ。獅子王くんたちのところ空いてるから」
「おう! いい席準備しといたぜ!」
「どこがだよ……」
獅子王や亀甲、厚、鳴狐に三日月など、小竜にとっては馴染みのはずのメンバーがそろった座卓を小竜はげっそりと見る。それでも立っていても仕方がないと判断したのか、ちらりと私の方を見てから渋々といった様子で中央の座卓に腰を下ろした。
「いやぁ、今日は格別に酒がうまいな」
「そうだな、茶もうまい」
ビールを飲み終え日本酒に手を伸ばした大般若に、鶯丸も大きく頷く。もそもそとお赤飯をむさぼる私が視界に入っているのかいないのか見当もつかなかったが、大包平だけは少し気づかうように「あまり気にするな」と言った。
「どうせ騒いでも2、3日だ。連中が静まるまで辛抱しろ」
「そんな簡単なことには思えないんだけど……?」
「そうかな? わたしはこうしてあけっぴろげにしてしまったほうが、のちのちらくだとおもうよ。わたしたちも小竜のまどろっこしいけんせいからのがれられるしね。ところでしゅうげんはいつのよていかな。けーきのこうそうにもざいりょうのてはいにもじかんがかかるから、はやめにおしえておいてくれ」
「……小豆に小鳥よ。小竜景光と小鳥はすでに祝言の段取りをするような段階だったのか……? 今の今まで私はこの本丸につがいがいるのだということすら知らなかったのだが……」
「全然そんな段階じゃないから安心して。あと小豆はウェディングケーキ作りたいだけだから気にしないで」
後ろの席の山長毛があからさまにほっとしたように「そうか」とつぶやく。その後も広間のあちらからこちらから祝福とも揶揄とも知れない言葉が飛び交い、ほとんどは私が渋々、時折小竜が鬱陶しそうに応じるようなやりとりが続いた。最終的には何故か飲み比べが始まり、燭台切を潰して小豆に辛くも勝利したあたりで私は小竜に回収されることとなった。
「まったく、どいつもこいつもデリカシーに欠けるったらないね」
付き合いの長い刀たちを中心に終始やいのやいのと言われていた小竜は、すっかり元気をなくしてぶつぶつ文句を言い続けていた。私の右手は彼の左手の中にしっかりと納まっている。広間を出てから3回壁に衝突した時点で、見ていられなくなった小竜が大きなため息を吐きながら私の手を握ったからだ。
「長船の連中は諦めるとして、鶯丸は妙に絡んでくるし」
「鶯丸も長くいるから、いろいろ気にしてくれてるんだと思うよ。そういえばみんなからのプレゼントってなんだったの?」
「クッション。謙信とケンカしてつまらないことで主を困らせるなってさ」
「ああ……」
「つい今しがた俺たちのことを困らせたやつらの言うことじゃないと思わないかい? 他人の色恋沙汰なんて、普通はもっと隠れて見守るものだ」
「でも、どうせいつかバレてただろうし。それなら早くにオープンにしちゃった方が確かに楽かもなって私も思ったよ」
「オープンすぎるって言ってるんだよ。情緒も何もあったものじゃない」
「小竜は意外とロマンチストだね」
くすくすと笑うとバツが悪くなったのか、小竜はもう一度大きく息を吐いてようやく愚痴をこぼすのをやめた。しばらく無言のまま、暗い縁側を2人でたどる。私が私室として使っている離れは広間からは遠い。普段は面倒にしか感じていなかったが、今だけは、この長い道のりに感謝するほかなかった。思いが通じ合って初めての夜を終わらせるには、まだ2人きりの時間が足りていないような気がしていた。
「明日、予定は?」
斜め上から降ってきた問いかけに、アルコールによって重たくなった思考をのろのろと回す。明日は全刀剣の休日だ。私も終日休みだが、特に予定を入れてはいなかった。
「何もなかったと思うよ」
「じゃあ、どこかに出かけてみるっていうのはどうかな。万屋街でも現世でも、本丸の裏山でもいい。……少しの時間でいいから、2人きりで過ごしたい」
「うん、いいよ。小竜が行きたいところに行こう」
「おや、信頼されてるね」
「でも朝はお酒抜けてないかもしれないから、午後からでもいい?」
「……この間も思ったけど、キミやっぱり飲みすぎだと思うよ。もう少し控えたらどうだい?」
「そうだね、考えておく」
「主?」
「黙ってたけど、好きなの、お酒」
「それはもう大いに察していたところだよ。でもキミには長生きしてもらわないと困るから」
「……真剣に考えておく」
「それは結構」
ニヤリと笑った小竜に私も苦笑し、それから「あ」と声を漏らす。離れに渡る短い廊下が、もう目前に迫っていた。もう少し長いと思っていた夜の散歩は終わりの時間らしい。廊下の手前で小竜は足を止め、つないでいた手を離そうとする。それを思わず掴み直し――すぐに我に返って慌てたのは私の方だった。
「キミ……」
「ご、ごめん。小豆が、送り狼には気を付けろって言ってて、それで……」
「……それで狼の手を掴んでくるんだから、小豆の忠告は逆効果だったわけだ。まあキミが望むなら、俺もやぶさかではないけれど」
ちらりと離れに向いた紫色に、頬が一気に熱くなった。小豆の発言のせいで意識はしてしまったが、決してこの短い散歩以上のことを望んだわけではない。昼間に思いが通じ合ったばかりでその展開はいささか急すぎる。けれどうまく言葉が出てこない。「えっと」だの「あの」だのと言葉にならない声を漏らしてあからさまに動揺する私に、小竜はふっと息を吐いて笑った。
「冗談だよ、冗談。確かに奪うって言ったけど、それは恋心の話。その先はちゃんとひとつずつ許可をもらって、じっくりゆっくり進めるとするさ」
「そ、そう、ですか……」
「そうですよ。……じゃあおやすみ、俺の主」
「……おやすみ」
流れるように頬に唇を寄せて、小竜は私を残して立ち去った。マントを脱いだせいでいつもより物足りない後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、暗闇の中でも目立つ金の髪の毛が、縁側の角を曲がるのを見届ける。未だ熱い頬を冷やすように手で風を送りながら何とはなしに見上げた空は、墨を塗りたくったような深い黒色で覆われていた。
(早く明日にならないかな……なんて、今までの私らしくもない。本当に全部、奪われてしまったみたい)
あんなにも思い悩んでいたというのに、いざ思いが通じてしまえばこんなにも簡単に次を望んでしまう。単純な自分に呆れるが、悪い気はしていない。今はただ早く眠りについて夜明け前にこっそりと起き出し、彼の瞳と同じ色をした暁の空を、1人でぼんやりと眺めたい。きっとそれはとてつもなく幸福で、贅沢な時間だ。
(悩みの種を恋と呼ぶだけで、人はこんなにもバカになる)
けれどバカな自分でいることが、こんなにも楽しい。それでいいのだと思えてしまう。修行から帰ってきたときの小竜の気持ちも、今なら分かる気がした。
明日の思い人に会いたいと急かす心に従って、眠り支度をすべく暗い廊下を1人で渡る。星がまたたく墨の空すら、このどうしようもなく浮かれた心を塗りつぶすには至らなかった。
「……珍しい布陣だねえ」
一方で小竜は午後から出陣だったためにそんなことは露とも知らず、首を傾げながら開口一番そう言った。きっと私のそばの席を陣取ろうとしたのだろうが、あいにく空いている席はひとつもない。無言で目の前の茶碗を見下ろす私に代わって、左隣の鶯丸が平然と口を開いた。
「なに、気にするな。たまには積もる話を崩しておこうかと思ってな」
「ふぅん?」
「そういえば謙信からお前に用があるそうだぞ」
鶯丸に促され、正面に座っていた謙信が立ち上がった。その手には大きな包みを抱えており、昼間とは正反対の上機嫌でそれを小竜に差し出す。
「小竜にぷれぜんとだぞ」
「それは、どうも? でもどうしたんだい、急に」
「まあまあ、いいじゃないか、なんだって。とにかくさっさと乾杯しよう」
すでにできあがっている大般若が、ビールが半分ほど消えたグラスを掲げて小豆を見る。それを受けた小豆がグラスを持ち上げると、席についていた刀たち全員がそれぞれに飲み物を持ち上げた。まだ着席すらしていない小竜はぎょっとするが、誰1人気にした様子はない。ただニヤニヤと、うろたえる小竜を見ながら――
「では、主と小竜のすったもんだにぶじけっちゃくがついたことをいわって」
「……ん!?」
「かんぱい」
「かんぱーい!」
――元気よく、お互いのグラスをぶつけた。
「ちょっ……と待った。え、なに? ……どういうこと!?」
「まあまあ、鶯丸じゃないが、細かいことは気にするな」
「細かいことじゃないし気にしないわけなくない!?」
「それより早くプレゼントを開けてやりなよ。謙信が代表して渡したが、実は我ら武蔵野の草一同からの心を込めた贈り物だ」
「……本当に待って。なに、なんで知ってんの」
「この本丸は隠しごとをするには狭すぎたなあ」
平然と盗み聞きを認める大般若の声にまぎれて、どこからか偵察値と隠蔽値という言葉が聞こえた気がした。どうやら昼間、あの中庭の周辺には暇を持て余した短刀・脇差・打刀が息を潜めて私たちの様子を窺っており、結果が出た瞬間に本丸中に散って事細かに詳細を語って聞かせたらしい。最早私から言うことは何もない。あんなに人目につくところで告白した自分が悪いと思うしかない。そうしなければ気持ちの落としどころがなかった。
「むさしののくさって?」
礼儀正しくいただきますと言ってから箸をとった謙信が、首を傾げながら素朴な疑問を口にした。すかさず答えを寄越したのは隣の机の歌仙兼定と古今伝授の太刀で、得意げに解説をしてくれた。
「彼が言った紫草というのは古今和歌集からの引用でね」
「むらさきのひともとゆえに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる、ですね。たった一本の紫草がために、広大な武蔵野の草すべてが愛おしく思える……といったところでしょうか」
「つまり主という紫草がなければ、俺たちは見向きもされないのっぱらの雑草ということになる」
「そこまで言ったつもりはないんだけど。というか、どこから聞いてたわけ」
「どこからも何も、お前の隣は誰の部屋だと思っている」
「大包平だけど」
「そうだ。つまり俺の部屋だ」
「何もつまりじゃないんだけど?」
憮然としている小竜に怯んだ様子もなく、鶯丸はとんでも理論を展開しながらもぐもぐとお赤飯を口に運んだ。右隣の大包平はすでに鶯丸の振る舞いを諦めているのだろう、遠い目をして日本酒を煽っていた。
「とにかく小竜くんも座ろうよ。獅子王くんたちのところ空いてるから」
「おう! いい席準備しといたぜ!」
「どこがだよ……」
獅子王や亀甲、厚、鳴狐に三日月など、小竜にとっては馴染みのはずのメンバーがそろった座卓を小竜はげっそりと見る。それでも立っていても仕方がないと判断したのか、ちらりと私の方を見てから渋々といった様子で中央の座卓に腰を下ろした。
「いやぁ、今日は格別に酒がうまいな」
「そうだな、茶もうまい」
ビールを飲み終え日本酒に手を伸ばした大般若に、鶯丸も大きく頷く。もそもそとお赤飯をむさぼる私が視界に入っているのかいないのか見当もつかなかったが、大包平だけは少し気づかうように「あまり気にするな」と言った。
「どうせ騒いでも2、3日だ。連中が静まるまで辛抱しろ」
「そんな簡単なことには思えないんだけど……?」
「そうかな? わたしはこうしてあけっぴろげにしてしまったほうが、のちのちらくだとおもうよ。わたしたちも小竜のまどろっこしいけんせいからのがれられるしね。ところでしゅうげんはいつのよていかな。けーきのこうそうにもざいりょうのてはいにもじかんがかかるから、はやめにおしえておいてくれ」
「……小豆に小鳥よ。小竜景光と小鳥はすでに祝言の段取りをするような段階だったのか……? 今の今まで私はこの本丸につがいがいるのだということすら知らなかったのだが……」
「全然そんな段階じゃないから安心して。あと小豆はウェディングケーキ作りたいだけだから気にしないで」
後ろの席の山長毛があからさまにほっとしたように「そうか」とつぶやく。その後も広間のあちらからこちらから祝福とも揶揄とも知れない言葉が飛び交い、ほとんどは私が渋々、時折小竜が鬱陶しそうに応じるようなやりとりが続いた。最終的には何故か飲み比べが始まり、燭台切を潰して小豆に辛くも勝利したあたりで私は小竜に回収されることとなった。
「まったく、どいつもこいつもデリカシーに欠けるったらないね」
付き合いの長い刀たちを中心に終始やいのやいのと言われていた小竜は、すっかり元気をなくしてぶつぶつ文句を言い続けていた。私の右手は彼の左手の中にしっかりと納まっている。広間を出てから3回壁に衝突した時点で、見ていられなくなった小竜が大きなため息を吐きながら私の手を握ったからだ。
「長船の連中は諦めるとして、鶯丸は妙に絡んでくるし」
「鶯丸も長くいるから、いろいろ気にしてくれてるんだと思うよ。そういえばみんなからのプレゼントってなんだったの?」
「クッション。謙信とケンカしてつまらないことで主を困らせるなってさ」
「ああ……」
「つい今しがた俺たちのことを困らせたやつらの言うことじゃないと思わないかい? 他人の色恋沙汰なんて、普通はもっと隠れて見守るものだ」
「でも、どうせいつかバレてただろうし。それなら早くにオープンにしちゃった方が確かに楽かもなって私も思ったよ」
「オープンすぎるって言ってるんだよ。情緒も何もあったものじゃない」
「小竜は意外とロマンチストだね」
くすくすと笑うとバツが悪くなったのか、小竜はもう一度大きく息を吐いてようやく愚痴をこぼすのをやめた。しばらく無言のまま、暗い縁側を2人でたどる。私が私室として使っている離れは広間からは遠い。普段は面倒にしか感じていなかったが、今だけは、この長い道のりに感謝するほかなかった。思いが通じ合って初めての夜を終わらせるには、まだ2人きりの時間が足りていないような気がしていた。
「明日、予定は?」
斜め上から降ってきた問いかけに、アルコールによって重たくなった思考をのろのろと回す。明日は全刀剣の休日だ。私も終日休みだが、特に予定を入れてはいなかった。
「何もなかったと思うよ」
「じゃあ、どこかに出かけてみるっていうのはどうかな。万屋街でも現世でも、本丸の裏山でもいい。……少しの時間でいいから、2人きりで過ごしたい」
「うん、いいよ。小竜が行きたいところに行こう」
「おや、信頼されてるね」
「でも朝はお酒抜けてないかもしれないから、午後からでもいい?」
「……この間も思ったけど、キミやっぱり飲みすぎだと思うよ。もう少し控えたらどうだい?」
「そうだね、考えておく」
「主?」
「黙ってたけど、好きなの、お酒」
「それはもう大いに察していたところだよ。でもキミには長生きしてもらわないと困るから」
「……真剣に考えておく」
「それは結構」
ニヤリと笑った小竜に私も苦笑し、それから「あ」と声を漏らす。離れに渡る短い廊下が、もう目前に迫っていた。もう少し長いと思っていた夜の散歩は終わりの時間らしい。廊下の手前で小竜は足を止め、つないでいた手を離そうとする。それを思わず掴み直し――すぐに我に返って慌てたのは私の方だった。
「キミ……」
「ご、ごめん。小豆が、送り狼には気を付けろって言ってて、それで……」
「……それで狼の手を掴んでくるんだから、小豆の忠告は逆効果だったわけだ。まあキミが望むなら、俺もやぶさかではないけれど」
ちらりと離れに向いた紫色に、頬が一気に熱くなった。小豆の発言のせいで意識はしてしまったが、決してこの短い散歩以上のことを望んだわけではない。昼間に思いが通じ合ったばかりでその展開はいささか急すぎる。けれどうまく言葉が出てこない。「えっと」だの「あの」だのと言葉にならない声を漏らしてあからさまに動揺する私に、小竜はふっと息を吐いて笑った。
「冗談だよ、冗談。確かに奪うって言ったけど、それは恋心の話。その先はちゃんとひとつずつ許可をもらって、じっくりゆっくり進めるとするさ」
「そ、そう、ですか……」
「そうですよ。……じゃあおやすみ、俺の主」
「……おやすみ」
流れるように頬に唇を寄せて、小竜は私を残して立ち去った。マントを脱いだせいでいつもより物足りない後ろ姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、暗闇の中でも目立つ金の髪の毛が、縁側の角を曲がるのを見届ける。未だ熱い頬を冷やすように手で風を送りながら何とはなしに見上げた空は、墨を塗りたくったような深い黒色で覆われていた。
(早く明日にならないかな……なんて、今までの私らしくもない。本当に全部、奪われてしまったみたい)
あんなにも思い悩んでいたというのに、いざ思いが通じてしまえばこんなにも簡単に次を望んでしまう。単純な自分に呆れるが、悪い気はしていない。今はただ早く眠りについて夜明け前にこっそりと起き出し、彼の瞳と同じ色をした暁の空を、1人でぼんやりと眺めたい。きっとそれはとてつもなく幸福で、贅沢な時間だ。
(悩みの種を恋と呼ぶだけで、人はこんなにもバカになる)
けれどバカな自分でいることが、こんなにも楽しい。それでいいのだと思えてしまう。修行から帰ってきたときの小竜の気持ちも、今なら分かる気がした。
明日の思い人に会いたいと急かす心に従って、眠り支度をすべく暗い廊下を1人で渡る。星がまたたく墨の空すら、このどうしようもなく浮かれた心を塗りつぶすには至らなかった。
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