その心をば恋と呼べ(小竜さに)
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午前中の出陣が一段落し、飲み物を淹れなおそうと厨房に向かう途中、縁側に数冊の本とクッションが落ちているのを見つけた。しゃがんで本を裏返すと、表紙には名前だけは知っている和歌集の名前が綴られている。読みかけなのだろう、1冊は間にしおりがはさんであり、もう1冊はところどころページの端を内側に折りこんであった。
(……小竜の部屋、だよね)
庭に面した一室は間違いなく小竜の部屋だ。いい天気だから自室の前で寝転びながら読書をしていたといった様子だが、縁側にも庭にも、開け放たれたままの室内にも当の本人は見当たらない。通路にものを置いたままにすれば歌仙辺りにしこたま叱られそうだが、どうしたものか。片付けてやるべきか否か迷っていると、ふと縁側の向こう側から誰かが言い合うような声が聞こえた。
「ほんっとに謙信って細かいよね。いいじゃないか、クッションくらい」
「よくない。ぼくはなんどもいったはずだぞ、ひとのものをかりるときはひとこえかけてって」
「だからぁ、さっきまで畑行ってていなかったじゃないか。汚したり壊したりしたわけでもなし、使ってないもの借りて何が悪いんだか」
「かしたくないんじゃなくて、かってにもっていかれるのがいやなの! ぜったいにじぶんでかえしにはこないし。小竜はちょっとてきとうすぎるんだぞ」
「大般若に比べればマシだと思うけどねえ……おや、主」
「主! きいて!」
縁側の角を曲がって現れたのは、内番着の謙信と小竜だった。2振りは私の顔を見つけるとパッと表情を明るくさせたが、謙信の方がその機動をもって一足先に駆けてくる。その奥で小竜がムッと口を尖らせたが、フォローを入れる前に謙信が矢継ぎ早に彼の兄弟の所業を私に報告した。
「小竜がぼくのくっしょんを、むだんでへやからもっていったんだ! まえからやめてっていってるのに、ぜんぜんかいぜんしないんだぞ!」
「そ、そうなの?」
「コラ、謙信。主を困らせるんじゃない。お目当てのクッションならそこにあるからさっさと拾って持ってきな」
「そういうもんだいじゃないんだってば!」
謙信は怒り心頭といった様子でいちいち小竜に噛みついていた。口振りから察するに謙信の主張は事実のようで、小竜もその点は否定しない。しかし特に反省はしていないのだろう。あからさまに謙信の相手を面倒がっているのが見て取れた。口元だけは笑いながら、とげとげしい口調で「じゃあそれ、もらっていいのかい?」などと意地の悪いことを言う。
「いいわけないんだぞ! これはあつきといっしょにかったんだ!」
「どら焼きはそうだけど、たい焼きは大般若が買ってきたやつじゃないか」
「大般若はぼくにってくれたんだ。小竜もほしいなら大般若におねがいすればいい」
「いや別にいらないし」
「ならなんでもっていくの?」
「あったから」
「ぼくのへやにね!」
「謙信、1回落ち着こう?」
ぷんぷんと音が聞こえそうなそうなほど怒っている謙信の肩に手を置き、彼の私物であるらしいどら焼きとたい焼きを模したクッションを手渡す。それほど大きいものには見えなかったが、短刀の体では両手で抱えるような状態になってしまった。
「まだ内番の途中でしょう? まずクッション戻して、畑に行っておいで」
「……でも、小竜がまたかってにつかうかも」
「小竜には私から言っておくから」
「おや、主が2人きりで道理を言い聞かせてくれるってことなら役得だねえ。謙信が子どもらしく癇癪起こしてくれてラッキーだったな」
「……そういうことばっかりいって、主にきらわれてもしらないんだぞ」
「ご忠告どうも。まあ安心しなよ。少なくとも、クッションとられたくらいで本気で怒りだすようなお子さまよりは相手にされてるだろうから」
「小竜、もうやめなさい。謙信も」
少しだけ強い口調で制止すれば、小竜は肩をすくめて口を閉ざした。謙信もさすがにやりすぎたと思ったのか、小さい声で「ごめんなさい」と言い残すと小走りで来た道を戻っていく。小さな後ろ姿に年甲斐もなくべっと舌を出した太刀の名前を咎めるように呼ぶと、彼は辟易したように縁側に腰を下ろした。
「あのねえ主。確かに姿かたちは子どもだけど、謙信はあれで、作られた年は俺とそれほど変わりないんだ。子ども扱いしないで、厳しくしてくれないと」
「精神年齢はまた少し別の話だと思うよ。……というか、兄弟喧嘩とかするんだね。意外かも」
「いつもじゃないよ。ああやってたまに謙信の方が勝手に噛みついてくるんだ」
「勝手なのは小竜でしょう」
「はいはい、大人げない俺が悪かったよ」
分が悪いことは分かっているのか、小竜はすぐに降参の姿勢を取ってから私の足元に目をとめた。そこでようやく、クッションと入れ替わりに床に戻してしまった本の存在を思い出す。拾って持ち主に差し出せば、小竜はすっと視線をそらし、庭の方を見ながら和歌集を受け取った。
「小竜もこういうの読むんだね。歌仙とか古今くらいだと思ってた」
「修行中、暇なときによく読んでたからね」
これまでも何度か修行中の様子は聞いていたが、小竜にとって修行の旅はとても良いものだったそうだ。人の形と自我をもって歩む土地はどこも懐かしさとともに新鮮さを覚え、そのとき生きた人々の暮らしを目の当たりにすることは楽しみのひとつだったと聞いている。しかしその合間に何とはなしに手に取った物語がことのほかおもしろく、それから手に入る書物を端から読み漁ったのだと小竜は苦く笑って続けた。
「最初のうちは兵法書。次は軍記物語に歴史書、説話集。あらかた読みつくしたところで見つけたのが、こういうの」
小竜は横目でこちらを見ながら、ひらひらと本を振ってみせた。冗談めいた軽い口調に違和感を覚えるが、もしかしたらあまり自分の柄ではないと思っているのかもしれない。確かに小竜景光と和歌集という言葉は、どうがんばっても結びつきそうになかった。
「気に入ったの?」
「思ってたより悪くはなかったかな。……座ったら?」
促されるまま小竜の隣に腰を下ろし、未だ床に放り出されたままだった別の一冊を手に取る。読んでいいかと問えば、迷うような間のあとに「本丸の備品だ」とバツの悪そうな声が返ってきた。なるほど、しおり代わりにページを折りこんでいたことが歌仙にバレてしまえば、説教では済まない事態になるだろう。小さく笑いを漏らして、小竜が目印をつけたページを無造作に開く。そこには恋の歌と、その歌の解釈が綴られていた。
「……」
「文字は読めるし意味も分かるが、雅とやらを解する感性は持ち合わせてなくてね。それを読みながら勉強中さ」
心なしか早口で言い訳のように言う小竜に相づちを打ちながら、端が折りこまれたページを1枚ずつめくっていく。時折季節の情景を詠んだ歌も出てきたが、ほとんどの題目は恋と記してあった。小竜よりも不勉強な私は解釈までしっかり読み込まねばその意味すら分からなかったが、古の歌人たちが抱いていた思いは、よく分かる。会えない恋人を思った歌。燃えるような思いを綴った歌。恋に乱れる心を例えた歌。時代は違えど、大きくうなずいてしまいそうなほど、身近で覚えのあるものだった。
隣に小竜がいることも忘れ、文字を拾うことに集中する。秋の気配が濃くなってきた中庭に音はなく、ページをめくる小さな音がやたらと大きく耳元で響く。この共感ばかりを生む和歌を、小竜も読んだのだろうか。これらのページに印をつけたのは、彼もまた今の私のように、この詠み人たちに共感したからなのだろうか。では、その恋の相手とは。
本をめくる手がゆるやかになる。もしかしてと期待が膨らみ、胸のうちにぽっと熱が宿る。じわじわと広がっていく熱が頬を染め、耳を染め、頭までをも染めあげていく。とうとう右手は、本をめくることを止めた。忍ぶ恋を詠んだ和歌を指先でなぞると、それだけで、熱が高まっていくような気がした。
「修行中、何度もキミを思い出したと言っただろう?」
唐突な声に驚きはしなかった。ゆっくりと顔を上げて隣を見上げる。小竜は未だにこちらではなく、まっすぐに庭先を見つめていた。どこか満足そうに弧を描く口元に押し上げられ細められた、紫色の美しい瞳。ただ前を見据えているだけのそれが、きゅうと胸の辺りを締めつける。
「こういう書物を読んでいるときも同じでね。気がつくと、ついキミのことを思ってる。……不思議なことに、キミを思えば思うほど、キミを取り巻くすべてが愛おしく思えてくるんだ。この本丸も、ここに住まう刀たちも、キミが生きてきた過去も、これから先に続く未来も、すべて。まるでたった1本のかわいらしい紫草のおかげで、その野に広がる草がすべて、愛おしく思えるみたいにね」
私の視線に気が付いたのか、小竜は軽い口調とともに視線だけでこちらを向き、冗談っぽくぱちんと片目をつぶった。釣られるように両方の口角を上げて、笑って返す。紫草というものが出てくる歌も、その意味も、やはり私には分からない。けれど彼が何か、とびきりの愛情をこめてくれたのだということだけは理解した。なんだか無性に泣きそうな気分になって、そっと視線をもとの位置に戻す。先ほどと変わらずモノクロの文字が躍る1ページは、風にめくられることもなく私の膝の上で恋を歌っていた。
「……ねえ、小竜」
「なんだい、主」
「私の気持ちは、小竜を傷つけたりしないかな」
開いたままの本を床に置き、足元に放られていた誰かの下駄に足を入れる。この辺りに私室を持つ刀のものなのだろうそれは一回りも二回りも大きかったが、歩けないことはない。少し戸惑うような気配を感じながら、返答を待たずに庭に降りた。振り返ることもせず、狭い中庭の中央で枝を伸ばす楓に歩み寄る。幼子の手のひらのような葉は未だ青々としている。色づくまではもう少し時間が必要だった。
「……何か、そんな予定でもあるのかい?」
「どうだろう、分からない。そうならないといいなって思ってるけど、可能性がないわけではないから」
「……何を不安がっているのかは分からないけど、ひとまず、その可能性とやらは低いと答えておこうかな。……というか、ないね、ほぼ」
「そうなの?」
「ああ。もし俺が傷つくとすれば……キミが俺を、手放したときくらいかな。他にはなんだって受け入れられる自信がある。キミのことなら、なんでもね」
「……私がいつか、小竜を残して死んじゃったとしても?」
「前に言わなかったかい? 俺はキミと辿る黄泉路を楽しみにしているんだ。音に聞く黄泉比良坂が、できるだけ長くて緩やかな道のりであればいいと今から願ってるよ」
「そっか。……それなら小竜のこと、絶対に手放したくないな」
「それは重畳。これでキミの不安は除かれたと思って構わないね」
少し笑いながらうなずいて、楓の木の下で膝を折った。紅葉を待たずに地に落ちた葉を1枚拾い上げ、目の前にかざす。木漏れ日が透かす緑色と影の黒色が作るコントラストが美しい。夏と秋の合間、季節が移り変わる過程に、私たちは立っている。
(好きだなぁ)
ただただ、そう思う。
きっと縁側で戸惑いながら、けれど余裕の表情を崩さずに私を待っている男が――私のすべてを、その命の終わりまでをも受け入れると、青くさいことを断言する刀が好きだと、そう思う。その気持ちだけでいいのだと、心の底から思えてくる。
(いろいろぐちゃぐちゃ考えてたのがバカらしい)
だって小竜は私が好きだというその気持ちだけで、あるのかも分からないあの世までついてこようとしているのだ。なら私だって、あの刀を手放したくない。ただ思うままにこの手を伸ばし、やわらかな金色の髪の毛にそっと触れたい。いつまでだって、あの紫色の瞳を見ていたい。そんな子どものわがままのような切実な願いを、自分自身に許してやりたい。
(私もこの気持ちを、やっぱり、恋と呼びたい)
小さな青葉を、そっと胸元に抱き寄せる。落とした視線の先では、いくつもの楓がわずかな空気の動きに合わせて乾いた音を奏でていた。目を伏せ、小さく口を開く。消え入りそうな声音は、その声量に見合わない熱を秘めて、風に乗った。
「好き」
「……うん?」
「好きだよ、小竜のこと」
「……主直々にそんな言葉をかけてもらえるなんて、光栄だね。だがあんまり軽々しくそんなことを言うものじゃない。勘違いされてしまうよ」
「いいの。勘違いじゃないから」
「……何言ってるか、分かってる?」
「そっちこそ、分かってる? 私、小竜と同じ気持ちだって言ってるつもりなんだけど」
立ち上がって、振り返る。予想通り、縁側に足を組んで座る男は、ぽかんと口を開けて私を見ていた。紫色の瞳が見たこともないくらいに丸く開かれ、中途半端に開いた口は小さく上下するものの、少しの音も伴わない。対する私の心は、驚くほどに凪いでいた。少し前までは暴れまわり出しそうだった心臓が妙におとなしい。胸の辺りがトクトクと鳴る音はかろうじて聞こえるが、頭が沸騰しそうなほどの熱は、いつの間にかどこかへ行ってしまった。まっすぐに、小竜の真正面から視線をぶつける。
「私、小竜のことが好きだよ。小竜が私のことを、特別に好いてくれてるみたいに」
「……気づいてたのかい?」
「うん、まあ、あれだけアプローチされれば、さすがに」
「……でも、いつから? 修行の直後は、まるで何も分かってないようだったのに」
分かりやすく動揺し、混乱しきった様子の小竜が珍しくて笑いをこぼす。小竜はハッとして視線をあらぬ方向に流したが、ややあって、少し口をとがらせてすねた子どものような顔をした。
「キミは俺の予想外を攻めてくるのがうまいよ。そんな手練手管、どこで覚えてきたのやら」
「さあ? 謎が深まるほど魅力的、でしょう?」
「……暴いてほしい、って意味だと受け取るよ?」
「小竜もそういう意味で言ってたの?」
「キミ……普段の意趣返しか何かかい? こういう場面でやられるとたまったものじゃないな……」
「ふふ……ねえ、小竜」
「……なに?」
「……自分の刀に恋をするなんて清廉潔白とは程遠いし、もしかしたら主失格なんじゃないかって思ってるのも、うそじゃない。それに、いくらあの世についてきてくれるって言っても、私がどんどん年を重ねて、先に死ぬことに変わりはない。それが分かっててこんなこと言うのは、無責任かもしれないって、思う」
「……」
「でも、でもね、小竜。それでもダメなの。どうしても、手を伸ばさずにいられない。いつまでだって、そのきれいな目を、すぐそばで見ていたい。たったそれだけの気持ちを、捨てられない。……私のこと、なんだって受け入れてくれるって言ってたけど……この気持ちは、いつか小竜を、傷つけるかもしれないけれど……でも、それでもこの恋心を、受け入れてくれる?」
胸元の楓を潰さない程度に握りしめ、縁側に座る刀を見据える。たぶん私は笑っていた。眉尻は下がっていたし、目いっぱいの笑顔ではなかったけれど、どうしたって笑顔しか浮かべることができない。返答がどんなものであれ、あの刀を前にして本音をさらけ出すことができる以上の幸福は、今の私にはなかった。
そっぽを向いていた小竜が、まっすぐに私に視線を返す。表情はあまりない。すねているようではなかったが、どこか呆れているような、戸惑っているような、複雑な感情が瞳のなかで渦巻いていた。困らせてごめんと謝罪を口にしようとしたが、それより早く彼は愛用のブーツを履いて立ち上がる。一歩一歩、地面を踏みしめるような足取りは、瞳の奥にくすぶる焦燥を抑えつけているようにも見えた。
「キミって、鈍いのか鋭いのか、本当によく分からないよね。そんなの聞くまでもなく分かりそうなものなのに」
あと一歩近づけば体が触れてしまいそうな距離で、長い足は動くのを止めた。たくさんの感情を集めた双眸は、いつかと同じ、三日月の形を作って私を見下ろす。
「俺は、ここで身を引くほど優しくはないし、間の抜けた男じゃない」
小竜は胸元で握りしめていた私の手を取り、優しく指を開かせた。中から覗いた緑色の楓を認めると目を細め、指先で持ち上げたそれを、迷いなく口元に運ぶ。私の熱を移した楓に音も立てずに唇が寄せられ――楓越しに見えた瞳の鋭さに、ドキリと心臓が鳴る音がした。
「受け入れるなんて、生易しい話じゃない。奪いたいんだ、主。キミのその、恋心。根こそぎ奪って、俺のものにしてしまいたい。でも……それだけじゃ不公平だから。だからキミも、同じように、すればいい」
大きな手に包み込まれたままだった右手がぐいと引き寄せられた。されるがままに行き先を見守ると、手のひらが固い胸板の中心に触れる。内番着の上からでも分かる、大きく、力強い鼓動。彼の心臓が、そこにある。
「ここにあるもの、キミが全部、奪うといいよ。それでおあいこだ」
見上げた視界の端で、小竜の手からはらりと楓が逃げていった。重力に従って地面に戻される1枚の葉とすれ違うように空いている手を伸ばせば、いつも見上げるばかりの紫色との距離が縮まった。
私は小竜の肩に手を置き、誰かの下駄の上で精一杯踵を持ち上げて、小竜は私の後頭部を支えるようにしながら、精一杯背中を曲げて、けれど片方の手は結んだまま――残りの足りない5cmは、お互いを引き寄せるようにして無理矢理埋めた。紫の瞳とぶつかると思ったその瞬間、ふわりと唇が重なる。触れ合ったままだったのは一瞬で、そこが熱を持つ前にあちらから離れていく。名残惜しいと思ったのは私だけではないのだろう、お互いの鼻先が触れるか触れないかという場所で小竜も動きを止め、もう一度だけ、唇を寄せた。
(好きだなぁ)
普段の思わせぶりな態度と余裕をそぎ落とし、ただ満足そうに笑むその口元が、たまらなく愛おしい。ずっと握りしめたままでも構わないのに、気づかうように力を緩める指先の温度が、好きだと思う。真昼の日差しを受けてキラキラと光る優しい眼が、他の何よりも美しい。
「……そんなに見つめられると、穴が開いてしまうかもしれないな」
あの夜と同じセリフを、小竜が繰り返す。やはり嫌がるようではないが、少し照れくさそうに見えるのは気のせいだろうか。思わず吹き出すようにして笑うと、小竜はムッと口を引き結ぶ。それから少し強引に、私の頭を抱えるようにして、太陽の匂いがする腕の中に抱き込んだ。
(……小竜の部屋、だよね)
庭に面した一室は間違いなく小竜の部屋だ。いい天気だから自室の前で寝転びながら読書をしていたといった様子だが、縁側にも庭にも、開け放たれたままの室内にも当の本人は見当たらない。通路にものを置いたままにすれば歌仙辺りにしこたま叱られそうだが、どうしたものか。片付けてやるべきか否か迷っていると、ふと縁側の向こう側から誰かが言い合うような声が聞こえた。
「ほんっとに謙信って細かいよね。いいじゃないか、クッションくらい」
「よくない。ぼくはなんどもいったはずだぞ、ひとのものをかりるときはひとこえかけてって」
「だからぁ、さっきまで畑行ってていなかったじゃないか。汚したり壊したりしたわけでもなし、使ってないもの借りて何が悪いんだか」
「かしたくないんじゃなくて、かってにもっていかれるのがいやなの! ぜったいにじぶんでかえしにはこないし。小竜はちょっとてきとうすぎるんだぞ」
「大般若に比べればマシだと思うけどねえ……おや、主」
「主! きいて!」
縁側の角を曲がって現れたのは、内番着の謙信と小竜だった。2振りは私の顔を見つけるとパッと表情を明るくさせたが、謙信の方がその機動をもって一足先に駆けてくる。その奥で小竜がムッと口を尖らせたが、フォローを入れる前に謙信が矢継ぎ早に彼の兄弟の所業を私に報告した。
「小竜がぼくのくっしょんを、むだんでへやからもっていったんだ! まえからやめてっていってるのに、ぜんぜんかいぜんしないんだぞ!」
「そ、そうなの?」
「コラ、謙信。主を困らせるんじゃない。お目当てのクッションならそこにあるからさっさと拾って持ってきな」
「そういうもんだいじゃないんだってば!」
謙信は怒り心頭といった様子でいちいち小竜に噛みついていた。口振りから察するに謙信の主張は事実のようで、小竜もその点は否定しない。しかし特に反省はしていないのだろう。あからさまに謙信の相手を面倒がっているのが見て取れた。口元だけは笑いながら、とげとげしい口調で「じゃあそれ、もらっていいのかい?」などと意地の悪いことを言う。
「いいわけないんだぞ! これはあつきといっしょにかったんだ!」
「どら焼きはそうだけど、たい焼きは大般若が買ってきたやつじゃないか」
「大般若はぼくにってくれたんだ。小竜もほしいなら大般若におねがいすればいい」
「いや別にいらないし」
「ならなんでもっていくの?」
「あったから」
「ぼくのへやにね!」
「謙信、1回落ち着こう?」
ぷんぷんと音が聞こえそうなそうなほど怒っている謙信の肩に手を置き、彼の私物であるらしいどら焼きとたい焼きを模したクッションを手渡す。それほど大きいものには見えなかったが、短刀の体では両手で抱えるような状態になってしまった。
「まだ内番の途中でしょう? まずクッション戻して、畑に行っておいで」
「……でも、小竜がまたかってにつかうかも」
「小竜には私から言っておくから」
「おや、主が2人きりで道理を言い聞かせてくれるってことなら役得だねえ。謙信が子どもらしく癇癪起こしてくれてラッキーだったな」
「……そういうことばっかりいって、主にきらわれてもしらないんだぞ」
「ご忠告どうも。まあ安心しなよ。少なくとも、クッションとられたくらいで本気で怒りだすようなお子さまよりは相手にされてるだろうから」
「小竜、もうやめなさい。謙信も」
少しだけ強い口調で制止すれば、小竜は肩をすくめて口を閉ざした。謙信もさすがにやりすぎたと思ったのか、小さい声で「ごめんなさい」と言い残すと小走りで来た道を戻っていく。小さな後ろ姿に年甲斐もなくべっと舌を出した太刀の名前を咎めるように呼ぶと、彼は辟易したように縁側に腰を下ろした。
「あのねえ主。確かに姿かたちは子どもだけど、謙信はあれで、作られた年は俺とそれほど変わりないんだ。子ども扱いしないで、厳しくしてくれないと」
「精神年齢はまた少し別の話だと思うよ。……というか、兄弟喧嘩とかするんだね。意外かも」
「いつもじゃないよ。ああやってたまに謙信の方が勝手に噛みついてくるんだ」
「勝手なのは小竜でしょう」
「はいはい、大人げない俺が悪かったよ」
分が悪いことは分かっているのか、小竜はすぐに降参の姿勢を取ってから私の足元に目をとめた。そこでようやく、クッションと入れ替わりに床に戻してしまった本の存在を思い出す。拾って持ち主に差し出せば、小竜はすっと視線をそらし、庭の方を見ながら和歌集を受け取った。
「小竜もこういうの読むんだね。歌仙とか古今くらいだと思ってた」
「修行中、暇なときによく読んでたからね」
これまでも何度か修行中の様子は聞いていたが、小竜にとって修行の旅はとても良いものだったそうだ。人の形と自我をもって歩む土地はどこも懐かしさとともに新鮮さを覚え、そのとき生きた人々の暮らしを目の当たりにすることは楽しみのひとつだったと聞いている。しかしその合間に何とはなしに手に取った物語がことのほかおもしろく、それから手に入る書物を端から読み漁ったのだと小竜は苦く笑って続けた。
「最初のうちは兵法書。次は軍記物語に歴史書、説話集。あらかた読みつくしたところで見つけたのが、こういうの」
小竜は横目でこちらを見ながら、ひらひらと本を振ってみせた。冗談めいた軽い口調に違和感を覚えるが、もしかしたらあまり自分の柄ではないと思っているのかもしれない。確かに小竜景光と和歌集という言葉は、どうがんばっても結びつきそうになかった。
「気に入ったの?」
「思ってたより悪くはなかったかな。……座ったら?」
促されるまま小竜の隣に腰を下ろし、未だ床に放り出されたままだった別の一冊を手に取る。読んでいいかと問えば、迷うような間のあとに「本丸の備品だ」とバツの悪そうな声が返ってきた。なるほど、しおり代わりにページを折りこんでいたことが歌仙にバレてしまえば、説教では済まない事態になるだろう。小さく笑いを漏らして、小竜が目印をつけたページを無造作に開く。そこには恋の歌と、その歌の解釈が綴られていた。
「……」
「文字は読めるし意味も分かるが、雅とやらを解する感性は持ち合わせてなくてね。それを読みながら勉強中さ」
心なしか早口で言い訳のように言う小竜に相づちを打ちながら、端が折りこまれたページを1枚ずつめくっていく。時折季節の情景を詠んだ歌も出てきたが、ほとんどの題目は恋と記してあった。小竜よりも不勉強な私は解釈までしっかり読み込まねばその意味すら分からなかったが、古の歌人たちが抱いていた思いは、よく分かる。会えない恋人を思った歌。燃えるような思いを綴った歌。恋に乱れる心を例えた歌。時代は違えど、大きくうなずいてしまいそうなほど、身近で覚えのあるものだった。
隣に小竜がいることも忘れ、文字を拾うことに集中する。秋の気配が濃くなってきた中庭に音はなく、ページをめくる小さな音がやたらと大きく耳元で響く。この共感ばかりを生む和歌を、小竜も読んだのだろうか。これらのページに印をつけたのは、彼もまた今の私のように、この詠み人たちに共感したからなのだろうか。では、その恋の相手とは。
本をめくる手がゆるやかになる。もしかしてと期待が膨らみ、胸のうちにぽっと熱が宿る。じわじわと広がっていく熱が頬を染め、耳を染め、頭までをも染めあげていく。とうとう右手は、本をめくることを止めた。忍ぶ恋を詠んだ和歌を指先でなぞると、それだけで、熱が高まっていくような気がした。
「修行中、何度もキミを思い出したと言っただろう?」
唐突な声に驚きはしなかった。ゆっくりと顔を上げて隣を見上げる。小竜は未だにこちらではなく、まっすぐに庭先を見つめていた。どこか満足そうに弧を描く口元に押し上げられ細められた、紫色の美しい瞳。ただ前を見据えているだけのそれが、きゅうと胸の辺りを締めつける。
「こういう書物を読んでいるときも同じでね。気がつくと、ついキミのことを思ってる。……不思議なことに、キミを思えば思うほど、キミを取り巻くすべてが愛おしく思えてくるんだ。この本丸も、ここに住まう刀たちも、キミが生きてきた過去も、これから先に続く未来も、すべて。まるでたった1本のかわいらしい紫草のおかげで、その野に広がる草がすべて、愛おしく思えるみたいにね」
私の視線に気が付いたのか、小竜は軽い口調とともに視線だけでこちらを向き、冗談っぽくぱちんと片目をつぶった。釣られるように両方の口角を上げて、笑って返す。紫草というものが出てくる歌も、その意味も、やはり私には分からない。けれど彼が何か、とびきりの愛情をこめてくれたのだということだけは理解した。なんだか無性に泣きそうな気分になって、そっと視線をもとの位置に戻す。先ほどと変わらずモノクロの文字が躍る1ページは、風にめくられることもなく私の膝の上で恋を歌っていた。
「……ねえ、小竜」
「なんだい、主」
「私の気持ちは、小竜を傷つけたりしないかな」
開いたままの本を床に置き、足元に放られていた誰かの下駄に足を入れる。この辺りに私室を持つ刀のものなのだろうそれは一回りも二回りも大きかったが、歩けないことはない。少し戸惑うような気配を感じながら、返答を待たずに庭に降りた。振り返ることもせず、狭い中庭の中央で枝を伸ばす楓に歩み寄る。幼子の手のひらのような葉は未だ青々としている。色づくまではもう少し時間が必要だった。
「……何か、そんな予定でもあるのかい?」
「どうだろう、分からない。そうならないといいなって思ってるけど、可能性がないわけではないから」
「……何を不安がっているのかは分からないけど、ひとまず、その可能性とやらは低いと答えておこうかな。……というか、ないね、ほぼ」
「そうなの?」
「ああ。もし俺が傷つくとすれば……キミが俺を、手放したときくらいかな。他にはなんだって受け入れられる自信がある。キミのことなら、なんでもね」
「……私がいつか、小竜を残して死んじゃったとしても?」
「前に言わなかったかい? 俺はキミと辿る黄泉路を楽しみにしているんだ。音に聞く黄泉比良坂が、できるだけ長くて緩やかな道のりであればいいと今から願ってるよ」
「そっか。……それなら小竜のこと、絶対に手放したくないな」
「それは重畳。これでキミの不安は除かれたと思って構わないね」
少し笑いながらうなずいて、楓の木の下で膝を折った。紅葉を待たずに地に落ちた葉を1枚拾い上げ、目の前にかざす。木漏れ日が透かす緑色と影の黒色が作るコントラストが美しい。夏と秋の合間、季節が移り変わる過程に、私たちは立っている。
(好きだなぁ)
ただただ、そう思う。
きっと縁側で戸惑いながら、けれど余裕の表情を崩さずに私を待っている男が――私のすべてを、その命の終わりまでをも受け入れると、青くさいことを断言する刀が好きだと、そう思う。その気持ちだけでいいのだと、心の底から思えてくる。
(いろいろぐちゃぐちゃ考えてたのがバカらしい)
だって小竜は私が好きだというその気持ちだけで、あるのかも分からないあの世までついてこようとしているのだ。なら私だって、あの刀を手放したくない。ただ思うままにこの手を伸ばし、やわらかな金色の髪の毛にそっと触れたい。いつまでだって、あの紫色の瞳を見ていたい。そんな子どものわがままのような切実な願いを、自分自身に許してやりたい。
(私もこの気持ちを、やっぱり、恋と呼びたい)
小さな青葉を、そっと胸元に抱き寄せる。落とした視線の先では、いくつもの楓がわずかな空気の動きに合わせて乾いた音を奏でていた。目を伏せ、小さく口を開く。消え入りそうな声音は、その声量に見合わない熱を秘めて、風に乗った。
「好き」
「……うん?」
「好きだよ、小竜のこと」
「……主直々にそんな言葉をかけてもらえるなんて、光栄だね。だがあんまり軽々しくそんなことを言うものじゃない。勘違いされてしまうよ」
「いいの。勘違いじゃないから」
「……何言ってるか、分かってる?」
「そっちこそ、分かってる? 私、小竜と同じ気持ちだって言ってるつもりなんだけど」
立ち上がって、振り返る。予想通り、縁側に足を組んで座る男は、ぽかんと口を開けて私を見ていた。紫色の瞳が見たこともないくらいに丸く開かれ、中途半端に開いた口は小さく上下するものの、少しの音も伴わない。対する私の心は、驚くほどに凪いでいた。少し前までは暴れまわり出しそうだった心臓が妙におとなしい。胸の辺りがトクトクと鳴る音はかろうじて聞こえるが、頭が沸騰しそうなほどの熱は、いつの間にかどこかへ行ってしまった。まっすぐに、小竜の真正面から視線をぶつける。
「私、小竜のことが好きだよ。小竜が私のことを、特別に好いてくれてるみたいに」
「……気づいてたのかい?」
「うん、まあ、あれだけアプローチされれば、さすがに」
「……でも、いつから? 修行の直後は、まるで何も分かってないようだったのに」
分かりやすく動揺し、混乱しきった様子の小竜が珍しくて笑いをこぼす。小竜はハッとして視線をあらぬ方向に流したが、ややあって、少し口をとがらせてすねた子どものような顔をした。
「キミは俺の予想外を攻めてくるのがうまいよ。そんな手練手管、どこで覚えてきたのやら」
「さあ? 謎が深まるほど魅力的、でしょう?」
「……暴いてほしい、って意味だと受け取るよ?」
「小竜もそういう意味で言ってたの?」
「キミ……普段の意趣返しか何かかい? こういう場面でやられるとたまったものじゃないな……」
「ふふ……ねえ、小竜」
「……なに?」
「……自分の刀に恋をするなんて清廉潔白とは程遠いし、もしかしたら主失格なんじゃないかって思ってるのも、うそじゃない。それに、いくらあの世についてきてくれるって言っても、私がどんどん年を重ねて、先に死ぬことに変わりはない。それが分かっててこんなこと言うのは、無責任かもしれないって、思う」
「……」
「でも、でもね、小竜。それでもダメなの。どうしても、手を伸ばさずにいられない。いつまでだって、そのきれいな目を、すぐそばで見ていたい。たったそれだけの気持ちを、捨てられない。……私のこと、なんだって受け入れてくれるって言ってたけど……この気持ちは、いつか小竜を、傷つけるかもしれないけれど……でも、それでもこの恋心を、受け入れてくれる?」
胸元の楓を潰さない程度に握りしめ、縁側に座る刀を見据える。たぶん私は笑っていた。眉尻は下がっていたし、目いっぱいの笑顔ではなかったけれど、どうしたって笑顔しか浮かべることができない。返答がどんなものであれ、あの刀を前にして本音をさらけ出すことができる以上の幸福は、今の私にはなかった。
そっぽを向いていた小竜が、まっすぐに私に視線を返す。表情はあまりない。すねているようではなかったが、どこか呆れているような、戸惑っているような、複雑な感情が瞳のなかで渦巻いていた。困らせてごめんと謝罪を口にしようとしたが、それより早く彼は愛用のブーツを履いて立ち上がる。一歩一歩、地面を踏みしめるような足取りは、瞳の奥にくすぶる焦燥を抑えつけているようにも見えた。
「キミって、鈍いのか鋭いのか、本当によく分からないよね。そんなの聞くまでもなく分かりそうなものなのに」
あと一歩近づけば体が触れてしまいそうな距離で、長い足は動くのを止めた。たくさんの感情を集めた双眸は、いつかと同じ、三日月の形を作って私を見下ろす。
「俺は、ここで身を引くほど優しくはないし、間の抜けた男じゃない」
小竜は胸元で握りしめていた私の手を取り、優しく指を開かせた。中から覗いた緑色の楓を認めると目を細め、指先で持ち上げたそれを、迷いなく口元に運ぶ。私の熱を移した楓に音も立てずに唇が寄せられ――楓越しに見えた瞳の鋭さに、ドキリと心臓が鳴る音がした。
「受け入れるなんて、生易しい話じゃない。奪いたいんだ、主。キミのその、恋心。根こそぎ奪って、俺のものにしてしまいたい。でも……それだけじゃ不公平だから。だからキミも、同じように、すればいい」
大きな手に包み込まれたままだった右手がぐいと引き寄せられた。されるがままに行き先を見守ると、手のひらが固い胸板の中心に触れる。内番着の上からでも分かる、大きく、力強い鼓動。彼の心臓が、そこにある。
「ここにあるもの、キミが全部、奪うといいよ。それでおあいこだ」
見上げた視界の端で、小竜の手からはらりと楓が逃げていった。重力に従って地面に戻される1枚の葉とすれ違うように空いている手を伸ばせば、いつも見上げるばかりの紫色との距離が縮まった。
私は小竜の肩に手を置き、誰かの下駄の上で精一杯踵を持ち上げて、小竜は私の後頭部を支えるようにしながら、精一杯背中を曲げて、けれど片方の手は結んだまま――残りの足りない5cmは、お互いを引き寄せるようにして無理矢理埋めた。紫の瞳とぶつかると思ったその瞬間、ふわりと唇が重なる。触れ合ったままだったのは一瞬で、そこが熱を持つ前にあちらから離れていく。名残惜しいと思ったのは私だけではないのだろう、お互いの鼻先が触れるか触れないかという場所で小竜も動きを止め、もう一度だけ、唇を寄せた。
(好きだなぁ)
普段の思わせぶりな態度と余裕をそぎ落とし、ただ満足そうに笑むその口元が、たまらなく愛おしい。ずっと握りしめたままでも構わないのに、気づかうように力を緩める指先の温度が、好きだと思う。真昼の日差しを受けてキラキラと光る優しい眼が、他の何よりも美しい。
「……そんなに見つめられると、穴が開いてしまうかもしれないな」
あの夜と同じセリフを、小竜が繰り返す。やはり嫌がるようではないが、少し照れくさそうに見えるのは気のせいだろうか。思わず吹き出すようにして笑うと、小竜はムッと口を引き結ぶ。それから少し強引に、私の頭を抱えるようにして、太陽の匂いがする腕の中に抱き込んだ。