その心をば恋と呼べ(小竜さに)
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大般若が帰還した翌朝。朝食当番の刀たちが起き出すよりも早く厨房に向かうと、すでに小豆長光が洗い物に勤しんでいた。声をかければ、彼はあまり驚いた様子もなくあいさつを返してくれる。どこで売っているのか分からない謎のキャラクターが描かれたエプロンが妙にまぶしい。最初は違和感しかなかったデザインだが、今はあれでなければ小豆という感じがしないから不思議だ。私も壁にかけたままにしている自分のエプロンを手にとって、彼の隣に並ぶ。
「ずいぶんとはやいね。きのうはおそかったから、まだねむたいだろう?」
「それは小豆も同じでしょう?」
「わたしは、はやおきはとくいだから」
小豆が説明もなしに手渡してきた皿を受け取り、ふきんで水気をふき取っていく。大般若の帰還を祝う昨夜のささやかな酒盛りは夜更けまで続き、燭台切が潰れた時点で片づけを翌日の自分たちに押しつけて解散した。言い出しっぺは自分だったから責任をもって早起きしてきたのだが、それでも小豆には敵わない。昨夜流しに積んでいったはずの食器類は、もう半分も残っていなかった。
「いつ起きたの?」
「ひのでとおなじくらいだったかな。これいがいにも、ようじがあって」
「用事?」
「あるじとおなじ。大般若からたのまれごとがあったんだ」
「何か作るの?」
「ほんもののあんにんどうふ」
「ああ……」
「あんにんどうふに、にせものもほんものもないっていったんだけれどね」
「大般若にとって牛乳プリンは偽物の杏仁豆腐だから」
「どうせ、ぎゅうにゅうプリンのほうがこのみだといいだすのはわかっているのに」
珍しく呆れた様子の小豆に少し笑って、洗剤の泡を流した洗い立ての食器を1枚ずつ丁寧に拭いていく。基本的には誰に対しても穏やかな小豆長光も、同派の刀に対してはその限りではない。特に大般若には明らかに他とは違う態度で接していた。当の本人が「あれは俺に甘えているんだ」などと笑っていたから、私もそういうものかと納得している。小豆がこぼす大般若の愚痴をうんうんと頷きながら聞いていると、彼は少し不服そうに口をとがらせた。
「わたしはこまっているんだよ、主。もっとしんけんにきいてくれても、ばちはあたらないとおもうけど」
「でも小豆、昨日の夜からご機嫌じゃない」
「わたしが? 大般若ではなく?」
「うん。衣替えした兄弟はお気に召した?」
小豆は返答をせず、明後日の方に視線をやった。私の言葉を素直に認めるのは癪だが、否定すればうそをついたことになってしまう。表情筋を無理矢理おさえつけているような横顔が、そんな葛藤を物語っていた。
「まあ、大般若もすごかったけど」
苦笑とともに出した助け舟に、小豆はさらになんとも言えない表情を浮かべた。
酒盛りの間、大般若はものすごくご機嫌だった。そのままとろけてしまうのではないかと思うほど頬は終始ゆるみっぱなしだったし、私や小豆と同じペースで次々とグラスを干し続け、挙げ句数分おきにじっと私を見つめては、口説き文句めいた言葉を口から流していく。ドキリとしたのは最初だけで、2回目以降はほとんど聞き流しまった。代わりと言わんばかりにいちいち反応していたのは、小竜だった。
「……」
「わたしがどうだったかはおいといて、小竜はものすごくきげんがわるかったね」
私の心の中を読み取ったかのように小豆は言った。反射のように隣を見上げれば、大きな口の端がからかうように上向いている。どうやら意趣返しのつもりらしかった。
「小竜のときはしんぱいになるくらいそわそわしていたけれど、きのうはずいぶんとおちついていたようだ」
「……そわそわする前に帰ってきちゃったから」
「小竜は大般若がくちをひらくたびに、わざとらしくきみにはなしかけていたし」
「……小竜はあれで、隠れツッコミ属性みたいなところあるし」
「そうやってかくしんをさけてごまかしているところをみると、主のほうも、くろだっていうことをじかくしたのだな」
「その言い方やめてよ……」
ただでさえ後ろ暗さを抱えているのだ。それを増長させるような表現はやめてほしい。今度は私の方がなんとも言えない表情で遠くを見ると、頭上から隠す気がない笑い声が落ちてきた。手元の皿をごしごしとこすりながら小さなため息を漏らす。朝日が入り込む厨房はさわやかな空気で満ちているはずなのに、私の周りだけがどうにも重苦しい。まるでこの数日の間に吐き出したため息が、そのまま体中にまとわりついているかのようだった。
「わたしの主は、なにをそんなにおもいなやんでいるのやら」
「……小豆、小竜は特別に私が好きなんだって、前に言ってたよね」
「わたしというか、たぶん主いがいはみんなそうおもっているな」
「……その特別って、どういうこと? つまり、その……」
「小竜は主にこいをしている、ということだな」
「……」
あまりにも遠慮のない直接的な表現に、とうとう特大のため息が零れ落ちた。まだ水滴が残る皿を他の皿の上に重ね、額をおさえるようにして俯く。
これまでももしかしたらと思うタイミングは何度かあったが、確信を持つほどではなかった。しかしこうして第三者から断言されてしまうと否定の言葉が見つからない。逃げ場もない――向き合わざるを、得ない。
見つからない答えを出すべきときが、目前に迫っていた。
「……なぜ、おちこむひつようがあるんだい?」
水道から流れ出ていた水音が止むのと同時に、心底不思議そうな声が問いかけた。
「きみだって、小竜のことをとくべつにおもっているのだろう?」
「……なんで、そう思うの?」
「みていればわかるよ」
答えにならない答えだったが、小豆が言うと妙に説得力があった。おそるおそる顔を覗き見るも、小豆はすでに隣にはいない。私に背を向けて、冷蔵庫のドアを開けていた。
「りょうおもい、というやつじゃないか。よろこびこそすれ、おちこむりゆうがみつからない」
「……そんな簡単なことなのかな」
「さあ? なにせ主は小竜のこととなると、むずかしくかんがえることがとくいだから」
牛乳と生クリームのパックを取り出して、小豆は作業台まで戻ってくる。いつの間に準備したのか、それとも最初から置いてあったのか、作業台にはすでにゼラチンや砂糖が準備されていた。見慣れない材料もあるが、それがなんなのかは私には分からない。スイーツ職人を自称する刀は棚から出したスケールやボウルを手際よく並べながら、「てがとまっているよ」と私に作業の続きを促した。水切りかごの中に残っている皿に目をやって、のそのそとふきんに手を伸ばす。
「……そのビン、なに?」
「きょうにんそう。せいかくではないけれど、あんずのたねをすりつぶしたものとでもおもえばいいかな」
「杏仁豆腐の材料?」
「そう。はやくさらをかたづけて、てつだってくれるとうれしいんだが」
手伝うと言った覚えはないが断るような理由もない。だんだんと湿りけを帯びて重たくなってきたふきんで拭いた皿を手早く棚に戻し、材料を量る小豆のそばに寄る。ぼんやりと手元を覗き込んでいると、あれを取れだのこれを入れろだの、容赦なく指示が飛んできた。言われるがままに作業を進めていると無心になれる。直前のざわついた心境も少し落ち着いたような気になったが、そのまま放っておいてくれる小豆長光ではない。
「それで? おもたいためいきのりゆうを、まだきいていないぞ」
材料を鍋に入れながら問う声は、誤魔化しきれないほどに笑っていた。おもしろくて仕方がないとでも言いたげな口調だが、朝焼けのあとの澄んだ青空のような瞳は、微笑ましそうに細められている。その感情の行き先は、丁寧にかき混ぜている鍋の中身なのか、それとも私なのか。本当のところは分からないけれど、やわらかなまなざしがにじませる体温に、今まで心の中に閉じ込めていた思いが、唇の合間をすり抜けて出ていった。
「……両思いかも、しれないけど。でも、いいのかなって思って」
「もうすこしくわしくはなせるかな」
「子どもに言うみたいに言わないでよ……」
「きをわるくしたならあやまろう。けれどじっさい、そんざいしてきたねんげつがあまりにもちがうから。ついつい、そのようにあつかってしまう」
「……小竜も、そうなのかな」
「それは小竜にきいてみないと。……それがなやみのたね?」
ふたつの青色がちらりとこちらを向いて、探るようにまたたいた。ためらいながら、小さくうなずく。
「……審神者が自分の刀に恋なんて……人が、刀に恋なんて。許されることなのかな」
「ゆるされるって、だれに? やくにん?」
「そういうのではないけど、なんだか、分からなくて」
他の審神者や関係者にさりげなく探りを入れてみたが、私が知らなかっただけで審神者と刀が恋に落ちるという事例は珍しくないらしかった。ひとつ屋根の下、戦場と隣り合わせの場所で生活しているのだ。よく考えてみれば主従関係が恋愛関係に発展したって何の不思議もない。けれどだからといって、じゃあ自分もと足を踏み出すような勇気を持つことが、私にはできずにいる。
「なにがわからないのかが、わたしにはわからないのだけれど」
しかし小豆はあっけらかんとしてそう言った。
「じょうしとぶかのかんけいで、ということなら、わからなくもないけれど」
「それもあるよ。でも、それよりももっと……先のこと?」
「さきって、どのくらい?」
「ずっと……かは分からないけど」
「うん」
「もし思いが通じ合って、恋人同士になれたとして、じゃあその先は?」
「うぇでぃんぐけーきならばしんぱいむようだ。ぞんぶんにうでをふるおう」
「そこじゃない。そこじゃなくて……ずっと恋人関係でいられたとして、でも私には……永遠はないじゃない」
「ええ……? きみ、じつはうわきものだったのか……」
「小豆、分かってて言ってるでしょう。……絶対に、私の方が先に死ぬってこと」
「それが?」
「……小竜のこと、悲しませたくないなって思ったの」
いつか来る、決して避けられない別れ。そのときまでこの感情が続いている保障はないが、それでもどうあがいたって残されるのは小竜の方だ。私じゃない。
(だって私は人間で、小竜は刀だもの)
私と小竜では時の歩み方が違うのだと、最初から分かっている。残される側の痛みも容易に想像がつく。それでもなお自分の思いを通すことが、浅ましい行為に思えて仕方がない。
後ろ暗い思いが増して、顔を上げていられなくなる。うつむいてエプロンの端を握った手があまりに心もとなくて、なんだか泣きたい気分になった。
「わたしたちにだって、えいえんなんかないよ」
鍋から立ちのぼる甘い香りにまぎれて、小豆ははっきりと断言した。私の考えを否定する声に、意地の悪い雰囲気はない。小豆は彼にとっての事実を並べ立てているだけのようだった。
「わたしたちはきみがしねばけんげんをとかれる。けんげんがとかれればほんれいのもとにもどり、このほんまるですごしたおもいでもほとんどきえるだろう。それはしぬのとおなじだ。そもそもひととひとだって、いつかおとずれるわかれをさけることはできないじゃないか。……それとも、みためのことをきにしている? わたしたちはわかいすがたでけんげんされているから、きみがとしをかさねるのとおなじようにはいかないかもしれない」
「それは、いいの。見た目はきっと、些細な問題で……」
「それじゃあ、りんりかんのもんだいか。ひととものが、というてんに、ていこうをかんじると」
「抵抗というか……葛藤するのが当然だと思ったんだけど、小豆は違うんだね」
「いまはじめてしったけれど、どうやらそうらしい。それにきみはおもっていたよりずっとこわがりだ」
「!」
怖がりという言葉にぎくりとした。現状、最も出してほしくない言葉――薄々は感づいていた図星をさされ、のどの奥が一気に苦しくなる。頭のてっぺんからさあっと血の気が引いた気がした。
(……たぶん、結局、全部言い訳でしかない)
小竜が私の額に唇を寄せた、あの夜。頭の奥に灯された炎は、小竜と言葉を交わすごとにどんどん大きく育っていき、それに比例するように、不安や懸念も増えていく。いくら小豆が正論を説いてくれたって、どこか納得できていない。口から出ていく葛藤は決してうそではないけれど、一番はきっとただ、怖いだけなのだ。
(だって、分からないじゃない)
一時の感情に任せて関係を持つまではいいかもしれない。けれどその先に何が待ち受けているのかが、分からない。いつかきっと小竜を傷つけることになるのも、それによって自分が傷つくのも、怖いし嫌だ。だからと言って、この思いを捨て去ることも、できない。自分の思いをどうしたいのか、いったい小竜とどうなりたいのか、考えれば考えるほど分からなくなる。それがさらに不安を煽る。
(……情けない)
言い訳を重ね、足踏みし、それでいて何ひとつ結論を出さないまま問題を先送りにしている。臆病な自分が情けない。返す言葉もなく、ただじっと床を見る。ふわふわと辺りを囲う甘い砂糖とミルクの香りが、今に限って陰鬱な気分を濃くさせた。
「そんなにむずかしくかんがえなくてもいいんじゃないかな」
数分の間をおいて、低い声が鼓膜を揺らした。湿度が消えた乾いた声音は、どこか彼の兄弟刀を彷彿とさせる。呆れたふうではないことに少しだけ安堵したが、顔を上げることはできなかった。彼のあの、あたたかい瞳を見たら最後、零れなくていいものが溢れ出てしまいそうだった。
「わたしには主のきもちはあまりわからないけれど、小竜のきもちはなんとなくわかるよ」
鍋をふつふつと熱していた弱い炎を消して、鍋ごと作業台へ移動する小豆の足が視界の端に入り込んだ。俯いたままの私の隣に立ち、私に準備させた器ひとつひとつに、ゆっくりと白い液体を注いでいく。その姿は見えなくても、表情は簡単に想像がついた。小豆はいつも、ひどく優しげに、眉尻を下げて笑いながらスイーツを作っている。それは大般若が美しいものを見るときのまなざしと、よく似ていた。
「小竜のきもちは、すいーつをつくり、こどもたちにてわたすときのきもちときっとおなじだ。ただ、そうせずにはいられない。それだけのきもち」
「……それだけ?」
「そう、それだけ。そんなにだいそれたことじゃない。たとえば……かわをながれていくあいらしいはなびらをみつけて、ふとてをのばす」
そのくらいなんでもないことなのだと続ける声は、ほんの少しだけ弾んでいた。スイーツの完成が待ち遠しいのか、それを短刀たちに手渡すときを想像して頬を緩ませているのかは分からない。けれどその声音は確かな温度をもって、かたくなに床をにらみつけていた私の視線を、わずかに持ち上げることに成功していた。
「なにとはなしにめでおっていたはなびらに、さそわれるようにてをのばす。つかもうとすればみずとともにゆびのあいまからながれでて、そっとすくおうとすればてのひらからこぼれおち、ゆらゆらととおくにいってしまう。そのたった1まいのはなびらを、それでもつかまえようとひっしになる。そこにりくつなんかないだろう? ただ、そのはなをじぶんのてのひらにのせて、どんなかたちなのか、どんなかおりなのか、なぜかわにながれてきたのか、もとはどんなはなをさかせていたのか……そんなささいなことをしりたいというだけだ」
理屈も何もない、どうしようもない衝動。素朴で、純粋で、小豆が作るスイーツと同じくらい、甘い思い。その感情には、私にも覚えがある。この胸のうちにも確かに潜み、一生懸命に声を上げ続けている。炎が灯る、燃ゆる心。
「わたしはね、できるならば小竜のそのきもちを、こいとよんでやりたい」
「……なんで?」
「だって、なにもかもがあまいから」
「甘い?」
「そう。こえもしせんもことばも、ぜんぶ。主といるときの小竜は、みているだけでむねやけしてしまうほどにあまったるい。それがこいじゃなくて、なんだというんだ。……まさかきみがあのあじにきがついていないとはいわせないよ」
先手を打たれ、口ごもる。小豆が言うことは正しかった。恋というものの味を私はよく――きっと小豆よりもよく理解している。あれは、ただ甘いだけじゃない。甘いからこそいつだって少しの苦みを帯びる、なのに捨て去ろうとすればたちまち胸の真ん中が痛み出す、厄介な存在。
(分かってるよ。私も小竜も同じだって、とっくに分かってる。なんでか、勇気が出ないだけなの)
主従だから。人と刀だから。小竜を傷つけるかもしれないから。次々と出てくる言い訳の底に隠れているものの正体は、まだ分からない。もしかしたら、生涯分からないのかもしれない。けれどそれが、2本の足を掴んで離さない。前に進むのを邪魔している。
「主」
煮えきらない態度で黙り込んだ私を、小豆は優しく呼んだ。沈んでいた思考が誘われるように浮上し、戻ってきた意識がピンク色のエプロンの端をとらえる。
「ねえ、主。ひとりかわのうえをいく、しろくちいさなほしみぐさよ。かわぎしでほころぶすみれのはなに、いったいきみはなにをおもう?」
「……私?」
「そう。もしきみがそのうすむらさきにふれたいと、そうせずにはいられないとおもうのならば、どうかこわがらず――くちはてしずむそのまえにてをのばし、かべんのひとつでも、いっしょにつれていっておやり」
「……いいのかな、そんなことして」
「いいかどうかきめるのはきみたちだけれど……でもそのすみれは、それをきずついたとはけっしておもわない。むくわれたと、ただそうあんどして、あとはきみのみちゆきによりそうだけだ。きっとかれにとっては、そのおもいをなかったことにされることが、なによりつらい。きみだって、おなじだろう? そもそもきみは小竜を、どうしたいんだい?」
「それは……」
「もっとかんたんでいいじゃないか? たいせつなのはきみがどうしたいかという、とてもたんじゅんなことだけだよ」
そろそろと顔を上げるも、小豆は私を見てはいなかった。きっちり6等分された白く甘い液体を満足そうに見下ろして、鍋とお玉をシンクに運んでいく。その背中は、言いたいことはすべて伝えたと語っていた。
(……私が、どうしたいか)
小豆の言葉を心の中で繰り返し、もう一度よく考える。そんなに簡単なことなのだろうか。そんなに簡単に考えてしまっても、いいことなのだろうか。どれだけ思考を重ねても、やはり答えは出ない。ぐるぐると頭が回り、小豆が単純にしてくれたはずの思考に余計な枝葉が増えていき――その最中、ふと、あの夜のことを思い出した。太陽が昇る前の空の色と同じ瞳。私の不躾な視線を受けてくすぐったそうに細められた双眸の美しさを、思い出す。
(ああ、私、あのきれいな紫色の瞳を、もっと見ていたい)
あのとき、斜め上から私を見下ろす、透き通るような紫苑の瞳が美しいと思った。もう少しだけ見ていたいと、アルコールに融かされた頭で、確かにそう思った。後先なんてない。ごちゃごちゃとした理屈も関係ない。そうせずにはいられないというだけの、単純な衝動。もし、たったあれだけの小さな思いを恋と、そう呼んでいいのなら――すっと胸の辺りが軽くなった気がした。
「主、あらいものをてつだって。そうしたらおちゃをいれよう。あまいものはないけれど、ちょうしょくのまえのいっぷくもいいものだ」
「……うん」
促されるまま、再び小豆の隣で湿ったふきんを手に取る。次々と手渡される鍋やボウルを同じくらいのスピードで拭いていけば、あっという間に片付けは終わってしまった。休む間もなく急須を手に取る小豆を制止して、昨夜片付けずに置いたままにしていた椅子に彼を座らせる。
「お茶くらい淹れるよ。あと、隠してたクッキーも出してあげる」
「おや、それはいいね。ありがたくちょうだいしようか。……すこしはきみのやくにたてたかな?」
「うん。……付き合ってくれてありがとう」
「どういたしまして。すいーつしょくにんらしく、あまいせりふがいえたなら、わたしはまんぞくだ」
小豆らしいどこかずれた満足の仕方に、思わず笑みがこぼれる。スイーツ職人であることは関係ないのではとからかおうかとも思ったが、口を閉ざして茶葉を入れた急須にお湯を注いだ。体にまとわりつく重く湿った空気はすでに消えている。この厨房にあるのは香ばしい淹れたてのお茶の香りと、缶を開けた瞬間に香ったほのかに甘いクッキーの匂いだけだった。
小豆と早朝のお茶会を楽しんだあと、当番の面々とともに厨房に立ち朝食をこしらえた。ほどほどのところで広間の準備に向かうも、今日は小竜の姿は見当たらない。どうやら昨日のお酒が尾を引いているようで、声をかけてもうめき声しか返ってこなかったのだと謙信は呆れた顔をしていた。
「お、いたいた」
朝食と朝礼を済ませたあと、遠征に出る前の大般若がわざわざ私を探して呼び止めた。
「昨晩のこと、謝っておこうと思ってね」
「? 何を?」
「……浮かれた気持ちそのまんまに口説いて、驚かせたかと思ったんだが」
「ああ、あれ。私は気にしてないよ。というか大般若はいつもああじゃない?」
「……妬けること言ってくれるなぁ」
「え?」
「小竜のときはあんなに大騒ぎしてたのに、俺はいつもと変わらないときたか。いやはや、これは思いのほか妬けるねえ」
「う……」
ぎくりと肩を揺らした私に、大般若は声を立てずに笑った。どうやら小竜のときの二の舞にならないよう気をつかってくれたらしいが、生憎今日の私は冷静だ。暗に小竜が特別なのだろうと語る大般若から視線をずらし、近くの柱の木目を目でなぞった。
「小豆から少し聞いたよ。ようやく本当の意味で気持ちの整理がついたんだって?」
「……ずいぶんと口の軽いご兄弟だね」
「おっと、小豆の名誉のために言っておくが、ついさっき昨日の振る舞いについて説教をされたときに、あまり主と小竜の間を引っかきまわしてやるなと言われてなぁ」
「大般若の名誉は守らなくていいの……?」
「これくらいで俺の名誉は傷つかないさ。……まあとにかく、そこでピンときたってわけだ。いろいろ考えこんでたようだが、答えが出たんだな?」
「……ぐちゃぐちゃ考えるのはやめることにしたの。もっとシンプルでいいんじゃないかって、小豆が言ってくれたから」
「へえ、あいつが」
「今までも十分自覚はあったんだけど、私、大般若と小豆にはものすごく甘やかされてる気がする」
「ハハ、そりゃ結構。長光の太刀は見た目も中身も男前って相場が決まっててな」
「うん。そのうえすごく、できた刀」
ふと、遠くで誰かが大般若を呼ぶ声が聞こえた。そろそろ遠征に出る時間なのだろう。大般若は短く返事をすると、私の方に向き直る。赤い瞳に浮く感情はよく見慣れたもの。小竜が私に向けてくれるのとは、似て非なるものだとよく分かる。彼は私の肩を軽く叩くと、寂しがらないようにと残して玄関に向かった。
「ずいぶんとはやいね。きのうはおそかったから、まだねむたいだろう?」
「それは小豆も同じでしょう?」
「わたしは、はやおきはとくいだから」
小豆が説明もなしに手渡してきた皿を受け取り、ふきんで水気をふき取っていく。大般若の帰還を祝う昨夜のささやかな酒盛りは夜更けまで続き、燭台切が潰れた時点で片づけを翌日の自分たちに押しつけて解散した。言い出しっぺは自分だったから責任をもって早起きしてきたのだが、それでも小豆には敵わない。昨夜流しに積んでいったはずの食器類は、もう半分も残っていなかった。
「いつ起きたの?」
「ひのでとおなじくらいだったかな。これいがいにも、ようじがあって」
「用事?」
「あるじとおなじ。大般若からたのまれごとがあったんだ」
「何か作るの?」
「ほんもののあんにんどうふ」
「ああ……」
「あんにんどうふに、にせものもほんものもないっていったんだけれどね」
「大般若にとって牛乳プリンは偽物の杏仁豆腐だから」
「どうせ、ぎゅうにゅうプリンのほうがこのみだといいだすのはわかっているのに」
珍しく呆れた様子の小豆に少し笑って、洗剤の泡を流した洗い立ての食器を1枚ずつ丁寧に拭いていく。基本的には誰に対しても穏やかな小豆長光も、同派の刀に対してはその限りではない。特に大般若には明らかに他とは違う態度で接していた。当の本人が「あれは俺に甘えているんだ」などと笑っていたから、私もそういうものかと納得している。小豆がこぼす大般若の愚痴をうんうんと頷きながら聞いていると、彼は少し不服そうに口をとがらせた。
「わたしはこまっているんだよ、主。もっとしんけんにきいてくれても、ばちはあたらないとおもうけど」
「でも小豆、昨日の夜からご機嫌じゃない」
「わたしが? 大般若ではなく?」
「うん。衣替えした兄弟はお気に召した?」
小豆は返答をせず、明後日の方に視線をやった。私の言葉を素直に認めるのは癪だが、否定すればうそをついたことになってしまう。表情筋を無理矢理おさえつけているような横顔が、そんな葛藤を物語っていた。
「まあ、大般若もすごかったけど」
苦笑とともに出した助け舟に、小豆はさらになんとも言えない表情を浮かべた。
酒盛りの間、大般若はものすごくご機嫌だった。そのままとろけてしまうのではないかと思うほど頬は終始ゆるみっぱなしだったし、私や小豆と同じペースで次々とグラスを干し続け、挙げ句数分おきにじっと私を見つめては、口説き文句めいた言葉を口から流していく。ドキリとしたのは最初だけで、2回目以降はほとんど聞き流しまった。代わりと言わんばかりにいちいち反応していたのは、小竜だった。
「……」
「わたしがどうだったかはおいといて、小竜はものすごくきげんがわるかったね」
私の心の中を読み取ったかのように小豆は言った。反射のように隣を見上げれば、大きな口の端がからかうように上向いている。どうやら意趣返しのつもりらしかった。
「小竜のときはしんぱいになるくらいそわそわしていたけれど、きのうはずいぶんとおちついていたようだ」
「……そわそわする前に帰ってきちゃったから」
「小竜は大般若がくちをひらくたびに、わざとらしくきみにはなしかけていたし」
「……小竜はあれで、隠れツッコミ属性みたいなところあるし」
「そうやってかくしんをさけてごまかしているところをみると、主のほうも、くろだっていうことをじかくしたのだな」
「その言い方やめてよ……」
ただでさえ後ろ暗さを抱えているのだ。それを増長させるような表現はやめてほしい。今度は私の方がなんとも言えない表情で遠くを見ると、頭上から隠す気がない笑い声が落ちてきた。手元の皿をごしごしとこすりながら小さなため息を漏らす。朝日が入り込む厨房はさわやかな空気で満ちているはずなのに、私の周りだけがどうにも重苦しい。まるでこの数日の間に吐き出したため息が、そのまま体中にまとわりついているかのようだった。
「わたしの主は、なにをそんなにおもいなやんでいるのやら」
「……小豆、小竜は特別に私が好きなんだって、前に言ってたよね」
「わたしというか、たぶん主いがいはみんなそうおもっているな」
「……その特別って、どういうこと? つまり、その……」
「小竜は主にこいをしている、ということだな」
「……」
あまりにも遠慮のない直接的な表現に、とうとう特大のため息が零れ落ちた。まだ水滴が残る皿を他の皿の上に重ね、額をおさえるようにして俯く。
これまでももしかしたらと思うタイミングは何度かあったが、確信を持つほどではなかった。しかしこうして第三者から断言されてしまうと否定の言葉が見つからない。逃げ場もない――向き合わざるを、得ない。
見つからない答えを出すべきときが、目前に迫っていた。
「……なぜ、おちこむひつようがあるんだい?」
水道から流れ出ていた水音が止むのと同時に、心底不思議そうな声が問いかけた。
「きみだって、小竜のことをとくべつにおもっているのだろう?」
「……なんで、そう思うの?」
「みていればわかるよ」
答えにならない答えだったが、小豆が言うと妙に説得力があった。おそるおそる顔を覗き見るも、小豆はすでに隣にはいない。私に背を向けて、冷蔵庫のドアを開けていた。
「りょうおもい、というやつじゃないか。よろこびこそすれ、おちこむりゆうがみつからない」
「……そんな簡単なことなのかな」
「さあ? なにせ主は小竜のこととなると、むずかしくかんがえることがとくいだから」
牛乳と生クリームのパックを取り出して、小豆は作業台まで戻ってくる。いつの間に準備したのか、それとも最初から置いてあったのか、作業台にはすでにゼラチンや砂糖が準備されていた。見慣れない材料もあるが、それがなんなのかは私には分からない。スイーツ職人を自称する刀は棚から出したスケールやボウルを手際よく並べながら、「てがとまっているよ」と私に作業の続きを促した。水切りかごの中に残っている皿に目をやって、のそのそとふきんに手を伸ばす。
「……そのビン、なに?」
「きょうにんそう。せいかくではないけれど、あんずのたねをすりつぶしたものとでもおもえばいいかな」
「杏仁豆腐の材料?」
「そう。はやくさらをかたづけて、てつだってくれるとうれしいんだが」
手伝うと言った覚えはないが断るような理由もない。だんだんと湿りけを帯びて重たくなってきたふきんで拭いた皿を手早く棚に戻し、材料を量る小豆のそばに寄る。ぼんやりと手元を覗き込んでいると、あれを取れだのこれを入れろだの、容赦なく指示が飛んできた。言われるがままに作業を進めていると無心になれる。直前のざわついた心境も少し落ち着いたような気になったが、そのまま放っておいてくれる小豆長光ではない。
「それで? おもたいためいきのりゆうを、まだきいていないぞ」
材料を鍋に入れながら問う声は、誤魔化しきれないほどに笑っていた。おもしろくて仕方がないとでも言いたげな口調だが、朝焼けのあとの澄んだ青空のような瞳は、微笑ましそうに細められている。その感情の行き先は、丁寧にかき混ぜている鍋の中身なのか、それとも私なのか。本当のところは分からないけれど、やわらかなまなざしがにじませる体温に、今まで心の中に閉じ込めていた思いが、唇の合間をすり抜けて出ていった。
「……両思いかも、しれないけど。でも、いいのかなって思って」
「もうすこしくわしくはなせるかな」
「子どもに言うみたいに言わないでよ……」
「きをわるくしたならあやまろう。けれどじっさい、そんざいしてきたねんげつがあまりにもちがうから。ついつい、そのようにあつかってしまう」
「……小竜も、そうなのかな」
「それは小竜にきいてみないと。……それがなやみのたね?」
ふたつの青色がちらりとこちらを向いて、探るようにまたたいた。ためらいながら、小さくうなずく。
「……審神者が自分の刀に恋なんて……人が、刀に恋なんて。許されることなのかな」
「ゆるされるって、だれに? やくにん?」
「そういうのではないけど、なんだか、分からなくて」
他の審神者や関係者にさりげなく探りを入れてみたが、私が知らなかっただけで審神者と刀が恋に落ちるという事例は珍しくないらしかった。ひとつ屋根の下、戦場と隣り合わせの場所で生活しているのだ。よく考えてみれば主従関係が恋愛関係に発展したって何の不思議もない。けれどだからといって、じゃあ自分もと足を踏み出すような勇気を持つことが、私にはできずにいる。
「なにがわからないのかが、わたしにはわからないのだけれど」
しかし小豆はあっけらかんとしてそう言った。
「じょうしとぶかのかんけいで、ということなら、わからなくもないけれど」
「それもあるよ。でも、それよりももっと……先のこと?」
「さきって、どのくらい?」
「ずっと……かは分からないけど」
「うん」
「もし思いが通じ合って、恋人同士になれたとして、じゃあその先は?」
「うぇでぃんぐけーきならばしんぱいむようだ。ぞんぶんにうでをふるおう」
「そこじゃない。そこじゃなくて……ずっと恋人関係でいられたとして、でも私には……永遠はないじゃない」
「ええ……? きみ、じつはうわきものだったのか……」
「小豆、分かってて言ってるでしょう。……絶対に、私の方が先に死ぬってこと」
「それが?」
「……小竜のこと、悲しませたくないなって思ったの」
いつか来る、決して避けられない別れ。そのときまでこの感情が続いている保障はないが、それでもどうあがいたって残されるのは小竜の方だ。私じゃない。
(だって私は人間で、小竜は刀だもの)
私と小竜では時の歩み方が違うのだと、最初から分かっている。残される側の痛みも容易に想像がつく。それでもなお自分の思いを通すことが、浅ましい行為に思えて仕方がない。
後ろ暗い思いが増して、顔を上げていられなくなる。うつむいてエプロンの端を握った手があまりに心もとなくて、なんだか泣きたい気分になった。
「わたしたちにだって、えいえんなんかないよ」
鍋から立ちのぼる甘い香りにまぎれて、小豆ははっきりと断言した。私の考えを否定する声に、意地の悪い雰囲気はない。小豆は彼にとっての事実を並べ立てているだけのようだった。
「わたしたちはきみがしねばけんげんをとかれる。けんげんがとかれればほんれいのもとにもどり、このほんまるですごしたおもいでもほとんどきえるだろう。それはしぬのとおなじだ。そもそもひととひとだって、いつかおとずれるわかれをさけることはできないじゃないか。……それとも、みためのことをきにしている? わたしたちはわかいすがたでけんげんされているから、きみがとしをかさねるのとおなじようにはいかないかもしれない」
「それは、いいの。見た目はきっと、些細な問題で……」
「それじゃあ、りんりかんのもんだいか。ひととものが、というてんに、ていこうをかんじると」
「抵抗というか……葛藤するのが当然だと思ったんだけど、小豆は違うんだね」
「いまはじめてしったけれど、どうやらそうらしい。それにきみはおもっていたよりずっとこわがりだ」
「!」
怖がりという言葉にぎくりとした。現状、最も出してほしくない言葉――薄々は感づいていた図星をさされ、のどの奥が一気に苦しくなる。頭のてっぺんからさあっと血の気が引いた気がした。
(……たぶん、結局、全部言い訳でしかない)
小竜が私の額に唇を寄せた、あの夜。頭の奥に灯された炎は、小竜と言葉を交わすごとにどんどん大きく育っていき、それに比例するように、不安や懸念も増えていく。いくら小豆が正論を説いてくれたって、どこか納得できていない。口から出ていく葛藤は決してうそではないけれど、一番はきっとただ、怖いだけなのだ。
(だって、分からないじゃない)
一時の感情に任せて関係を持つまではいいかもしれない。けれどその先に何が待ち受けているのかが、分からない。いつかきっと小竜を傷つけることになるのも、それによって自分が傷つくのも、怖いし嫌だ。だからと言って、この思いを捨て去ることも、できない。自分の思いをどうしたいのか、いったい小竜とどうなりたいのか、考えれば考えるほど分からなくなる。それがさらに不安を煽る。
(……情けない)
言い訳を重ね、足踏みし、それでいて何ひとつ結論を出さないまま問題を先送りにしている。臆病な自分が情けない。返す言葉もなく、ただじっと床を見る。ふわふわと辺りを囲う甘い砂糖とミルクの香りが、今に限って陰鬱な気分を濃くさせた。
「そんなにむずかしくかんがえなくてもいいんじゃないかな」
数分の間をおいて、低い声が鼓膜を揺らした。湿度が消えた乾いた声音は、どこか彼の兄弟刀を彷彿とさせる。呆れたふうではないことに少しだけ安堵したが、顔を上げることはできなかった。彼のあの、あたたかい瞳を見たら最後、零れなくていいものが溢れ出てしまいそうだった。
「わたしには主のきもちはあまりわからないけれど、小竜のきもちはなんとなくわかるよ」
鍋をふつふつと熱していた弱い炎を消して、鍋ごと作業台へ移動する小豆の足が視界の端に入り込んだ。俯いたままの私の隣に立ち、私に準備させた器ひとつひとつに、ゆっくりと白い液体を注いでいく。その姿は見えなくても、表情は簡単に想像がついた。小豆はいつも、ひどく優しげに、眉尻を下げて笑いながらスイーツを作っている。それは大般若が美しいものを見るときのまなざしと、よく似ていた。
「小竜のきもちは、すいーつをつくり、こどもたちにてわたすときのきもちときっとおなじだ。ただ、そうせずにはいられない。それだけのきもち」
「……それだけ?」
「そう、それだけ。そんなにだいそれたことじゃない。たとえば……かわをながれていくあいらしいはなびらをみつけて、ふとてをのばす」
そのくらいなんでもないことなのだと続ける声は、ほんの少しだけ弾んでいた。スイーツの完成が待ち遠しいのか、それを短刀たちに手渡すときを想像して頬を緩ませているのかは分からない。けれどその声音は確かな温度をもって、かたくなに床をにらみつけていた私の視線を、わずかに持ち上げることに成功していた。
「なにとはなしにめでおっていたはなびらに、さそわれるようにてをのばす。つかもうとすればみずとともにゆびのあいまからながれでて、そっとすくおうとすればてのひらからこぼれおち、ゆらゆらととおくにいってしまう。そのたった1まいのはなびらを、それでもつかまえようとひっしになる。そこにりくつなんかないだろう? ただ、そのはなをじぶんのてのひらにのせて、どんなかたちなのか、どんなかおりなのか、なぜかわにながれてきたのか、もとはどんなはなをさかせていたのか……そんなささいなことをしりたいというだけだ」
理屈も何もない、どうしようもない衝動。素朴で、純粋で、小豆が作るスイーツと同じくらい、甘い思い。その感情には、私にも覚えがある。この胸のうちにも確かに潜み、一生懸命に声を上げ続けている。炎が灯る、燃ゆる心。
「わたしはね、できるならば小竜のそのきもちを、こいとよんでやりたい」
「……なんで?」
「だって、なにもかもがあまいから」
「甘い?」
「そう。こえもしせんもことばも、ぜんぶ。主といるときの小竜は、みているだけでむねやけしてしまうほどにあまったるい。それがこいじゃなくて、なんだというんだ。……まさかきみがあのあじにきがついていないとはいわせないよ」
先手を打たれ、口ごもる。小豆が言うことは正しかった。恋というものの味を私はよく――きっと小豆よりもよく理解している。あれは、ただ甘いだけじゃない。甘いからこそいつだって少しの苦みを帯びる、なのに捨て去ろうとすればたちまち胸の真ん中が痛み出す、厄介な存在。
(分かってるよ。私も小竜も同じだって、とっくに分かってる。なんでか、勇気が出ないだけなの)
主従だから。人と刀だから。小竜を傷つけるかもしれないから。次々と出てくる言い訳の底に隠れているものの正体は、まだ分からない。もしかしたら、生涯分からないのかもしれない。けれどそれが、2本の足を掴んで離さない。前に進むのを邪魔している。
「主」
煮えきらない態度で黙り込んだ私を、小豆は優しく呼んだ。沈んでいた思考が誘われるように浮上し、戻ってきた意識がピンク色のエプロンの端をとらえる。
「ねえ、主。ひとりかわのうえをいく、しろくちいさなほしみぐさよ。かわぎしでほころぶすみれのはなに、いったいきみはなにをおもう?」
「……私?」
「そう。もしきみがそのうすむらさきにふれたいと、そうせずにはいられないとおもうのならば、どうかこわがらず――くちはてしずむそのまえにてをのばし、かべんのひとつでも、いっしょにつれていっておやり」
「……いいのかな、そんなことして」
「いいかどうかきめるのはきみたちだけれど……でもそのすみれは、それをきずついたとはけっしておもわない。むくわれたと、ただそうあんどして、あとはきみのみちゆきによりそうだけだ。きっとかれにとっては、そのおもいをなかったことにされることが、なによりつらい。きみだって、おなじだろう? そもそもきみは小竜を、どうしたいんだい?」
「それは……」
「もっとかんたんでいいじゃないか? たいせつなのはきみがどうしたいかという、とてもたんじゅんなことだけだよ」
そろそろと顔を上げるも、小豆は私を見てはいなかった。きっちり6等分された白く甘い液体を満足そうに見下ろして、鍋とお玉をシンクに運んでいく。その背中は、言いたいことはすべて伝えたと語っていた。
(……私が、どうしたいか)
小豆の言葉を心の中で繰り返し、もう一度よく考える。そんなに簡単なことなのだろうか。そんなに簡単に考えてしまっても、いいことなのだろうか。どれだけ思考を重ねても、やはり答えは出ない。ぐるぐると頭が回り、小豆が単純にしてくれたはずの思考に余計な枝葉が増えていき――その最中、ふと、あの夜のことを思い出した。太陽が昇る前の空の色と同じ瞳。私の不躾な視線を受けてくすぐったそうに細められた双眸の美しさを、思い出す。
(ああ、私、あのきれいな紫色の瞳を、もっと見ていたい)
あのとき、斜め上から私を見下ろす、透き通るような紫苑の瞳が美しいと思った。もう少しだけ見ていたいと、アルコールに融かされた頭で、確かにそう思った。後先なんてない。ごちゃごちゃとした理屈も関係ない。そうせずにはいられないというだけの、単純な衝動。もし、たったあれだけの小さな思いを恋と、そう呼んでいいのなら――すっと胸の辺りが軽くなった気がした。
「主、あらいものをてつだって。そうしたらおちゃをいれよう。あまいものはないけれど、ちょうしょくのまえのいっぷくもいいものだ」
「……うん」
促されるまま、再び小豆の隣で湿ったふきんを手に取る。次々と手渡される鍋やボウルを同じくらいのスピードで拭いていけば、あっという間に片付けは終わってしまった。休む間もなく急須を手に取る小豆を制止して、昨夜片付けずに置いたままにしていた椅子に彼を座らせる。
「お茶くらい淹れるよ。あと、隠してたクッキーも出してあげる」
「おや、それはいいね。ありがたくちょうだいしようか。……すこしはきみのやくにたてたかな?」
「うん。……付き合ってくれてありがとう」
「どういたしまして。すいーつしょくにんらしく、あまいせりふがいえたなら、わたしはまんぞくだ」
小豆らしいどこかずれた満足の仕方に、思わず笑みがこぼれる。スイーツ職人であることは関係ないのではとからかおうかとも思ったが、口を閉ざして茶葉を入れた急須にお湯を注いだ。体にまとわりつく重く湿った空気はすでに消えている。この厨房にあるのは香ばしい淹れたてのお茶の香りと、缶を開けた瞬間に香ったほのかに甘いクッキーの匂いだけだった。
小豆と早朝のお茶会を楽しんだあと、当番の面々とともに厨房に立ち朝食をこしらえた。ほどほどのところで広間の準備に向かうも、今日は小竜の姿は見当たらない。どうやら昨日のお酒が尾を引いているようで、声をかけてもうめき声しか返ってこなかったのだと謙信は呆れた顔をしていた。
「お、いたいた」
朝食と朝礼を済ませたあと、遠征に出る前の大般若がわざわざ私を探して呼び止めた。
「昨晩のこと、謝っておこうと思ってね」
「? 何を?」
「……浮かれた気持ちそのまんまに口説いて、驚かせたかと思ったんだが」
「ああ、あれ。私は気にしてないよ。というか大般若はいつもああじゃない?」
「……妬けること言ってくれるなぁ」
「え?」
「小竜のときはあんなに大騒ぎしてたのに、俺はいつもと変わらないときたか。いやはや、これは思いのほか妬けるねえ」
「う……」
ぎくりと肩を揺らした私に、大般若は声を立てずに笑った。どうやら小竜のときの二の舞にならないよう気をつかってくれたらしいが、生憎今日の私は冷静だ。暗に小竜が特別なのだろうと語る大般若から視線をずらし、近くの柱の木目を目でなぞった。
「小豆から少し聞いたよ。ようやく本当の意味で気持ちの整理がついたんだって?」
「……ずいぶんと口の軽いご兄弟だね」
「おっと、小豆の名誉のために言っておくが、ついさっき昨日の振る舞いについて説教をされたときに、あまり主と小竜の間を引っかきまわしてやるなと言われてなぁ」
「大般若の名誉は守らなくていいの……?」
「これくらいで俺の名誉は傷つかないさ。……まあとにかく、そこでピンときたってわけだ。いろいろ考えこんでたようだが、答えが出たんだな?」
「……ぐちゃぐちゃ考えるのはやめることにしたの。もっとシンプルでいいんじゃないかって、小豆が言ってくれたから」
「へえ、あいつが」
「今までも十分自覚はあったんだけど、私、大般若と小豆にはものすごく甘やかされてる気がする」
「ハハ、そりゃ結構。長光の太刀は見た目も中身も男前って相場が決まっててな」
「うん。そのうえすごく、できた刀」
ふと、遠くで誰かが大般若を呼ぶ声が聞こえた。そろそろ遠征に出る時間なのだろう。大般若は短く返事をすると、私の方に向き直る。赤い瞳に浮く感情はよく見慣れたもの。小竜が私に向けてくれるのとは、似て非なるものだとよく分かる。彼は私の肩を軽く叩くと、寂しがらないようにと残して玄関に向かった。