その心をば恋と呼べ(小竜さに)
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
蝉の声が少しずつ小さくなり、朝晩は涼しさも感じるような時節。小竜の次に修行を申し出たのは大般若長光だった。現在顕現している長船派の中では最後の一振りになる。断る理由などなかったので、他の刀のときと同様に急いで準備を整え、手を振って送り出したのが4日前の夕方。あと2時間ほどで、彼はこの本丸に帰ってくる。
「……で? 何を一生懸命作ってるんだい?」
「……おつまみ」
「ふーん」
自分から聞いておきながら、小竜は心底興味がなさそうに気のない返事をした。2人きりの厨に気まずい空気が流れる。つい5分前までは和やかな雰囲気だったはずなのに、何故こうなってしまったのか。その理由が分からないわけでもない。小竜の恨みがましい視線を背中で受け止めながら、まな板の上で叩いたきゅうりを調味料とともにタッパーに入れる。
「俺のときは、おっさんたちが発泡酒冷やして待ち構えててくれたけどねえ」
「……そうだね。私もご一緒したかったけど」
「一生懸命きゅうり叩いて?」
「……あの、小竜? 別に大般若が特別なわけじゃないからね?」
タッパーを冷蔵庫の隅に入れ、代わりに卵をいくつか取り出す。「分かってるけど」とつぶやいた声は、決して納得しているようではなかった。
15分程前、私が珍しくせっせと料理をこしらえている姿を見つけた小竜が声をかけてきた。何をしているのかと興味津々に手元を覗き込まれ、大般若のために料理を作っているのだと答えたその瞬間、「ふぅん……」と唸るような相づちを寄越されたのが5分前のこと。小竜は、自分のときには何もしてくれなかったのにと、今さらすぎることをすねているようだった。
「修行に行く前にリクエストしてくれたら、全員に作ってるんだよ」
「だから、分かってるよ。そういえばそんな話、謙信から聞いた気もするし」
「そうだね、謙信のときはホットケーキを作った。小豆はふき味噌とご飯で、燭台切はカレー」
「それで俺のときは何もなし、と。出発前の自分を心底恨むよ」
「そんなに……?」
「そんなに。みんなは帰ってきてまず主の手料理食べたっていうのに、俺はいつもの発泡酒。泣けてくるよ」
「で、でも燭台切がご飯出してくれたんでしょう?」
「ああ、秘蔵の梅干しと茶碗に山盛りの白米ね。燭台切って身内には雑すぎるんだよ」
小竜は普段は隅に寄せられている椅子を作業台の近くまで移動させ、ため息とともに腰を下ろした。少しずつ気持ちが落ち着いてきたのか、口調からは刺々しさが薄れている。しかしまだ話題を打ち切らないところを見るに、機嫌が戻ったわけではないのだろう。卵の殻の行き先を追うまなざしは、じっとりと湿りけを帯びている。
「いいよねえ、古くからいる連中は。昔は主が毎食作ってたんだろ?」
「最初のころはね。頭数が少なかったし、みんな料理経験なかったし」
「俺が顕現したときにはもう当番制になってたから、まさか主が料理するなんて考えすら及ばなかったよ」
「あー……そうだ、大般若、ちゃんと約束覚えてたみたいだよ? 長船の悪い大人たちの分も作っておいてくれって言ってたの。だからこれは小竜の分も入ってて」
「キミが俺だけのために……ってことなら、素直に喜べたんだけどねえ」
「……はい」
「……なに?」
「あげる。小竜だけだよ」
作業台の端で油を切っていた唐揚げをひとつ、小皿に乗せて差し出す。あからさまなご機嫌取りに小竜は眉をひそめたが、深いため息をひとつ吐き出し、渋々といった体で皿を受け取った。唐揚げをつまみあげてもなかなか口に運ばないのは彼なりの抗議なのだろう。しばらくの間、半目で唐揚げとにらめっこしたあと、ようやく口に放り込んでもぐもぐと顎を上下させた。
「おいしい?」
「味はね。ところで対症療法って言葉、知ってるかい?」
「……根本的な解決をするには、時間を戻さなくちゃならないじゃない」
「分かってないねえ、主。そこは、今度は小竜のためだけに作るねってかわいく言うところだよ」
「……ねえ、小竜。それって……」
――嫉妬しているの?
そう言いかけて、口を閉ざす。
(聞いてどうするの、そんなこと)
そうだと答えられてもきっと困惑する。そんなわけがないと笑われたって傷つく。どうあがいても良い方向には転ばない、けれど浅ましい期待が込められた疑問。それが心の中でぐるぐると渦を巻き、喉を通って口から出ていこうとしていた。唇をぎゅっと引き結んで、それを阻止する。
(絶対に、聞かないほうがいい)
私の思いが、あるいは小竜の思いが形になってお互いの眼前に突きつけられてしまえば、もう後戻りはできないだろう。それでいいとは、まだ思えない。そもそも小竜の好意の種類が、私と同じとは限らないのだ。無言になって、卵を入れたボウルにだしを注ぎ込む。
「主?」
突然卵をかきまぜることに集中し始めた私を不思議に思ったのだろう小竜が続きを促すように私を呼ぶ。しかし咄嗟にごまかすような言葉も浮かばない。小竜に背を向けているのをいいことに口を開いて、閉じてを繰り返し――
「ただいまー!」
――ふいに、気まずい無音を、やたらと明るい声が遮った。前触れのない唐突な大声に、思わずびくりと肩が揺れる。その拍子に菜箸を取り落としたが拾う間もなく、ほとんど反射的に厨房の入り口を振り返る。そこに立っていた人物を見て、思わず言葉をなくした。
「え……」
見覚えのある、銀の髪。長いそれを束ねるピンク色のリボンも、瞳と揃いのボルドーのシャツもともすれば嫌味に見えそうなものだが、彼がまとえばすべてがしっくりとあるべき場所に収まっているようにしか思えない。遠目に見ただけでも上等だと分かる装束は、質素倹約をモットーとしつつも、使うべき部分にはしっかりと投資する彼の価値観をよく表している。まるでどこぞの貴族かとでも問いたくなる容姿に反し、彼はまるで親戚のおじさんのような気安い口調で「いやぁ、悪かったね、遅くなって」と続けた。
「え、いや……え……?」
ぽかんとまぬけに口を開け、立ちすくむ。おそらく小竜も似たようなもので、呆然とそちらを見ている。2人分の視線を受けてもなお平然と微笑を携えたその刀は、彼愛用の重たそうなエコバッグを揺らしながら、躊躇なく厨房に足を踏み入れた。
「万屋街で俺のファンに囲まれちまって、老いも若きも男も女も審神者も刀も領収書にまで片っ端からサインして回ってたらこんな時間だ。だがまあ、お目当てのこれは買えたから許してくれるだろ? 本物のビールとも迷ったんだが、やっぱり家で冷えてると言ったらこれだよなぁ。夕食までまだあるし、冷やしておくからあとで一緒に楽しむとしよう」
彼はまるで1時間程前に出かけて戻ってきたとでも言わんばかりにこちら、正確には冷蔵庫に歩み寄る。発泡酒の缶を次々と冷蔵庫にしまっていく後ろ姿は、衣装こそ違うものの数日前とまったく変わらない。変化がなさすぎて、これがおかしな状況だということに気が付けなかったほどにこの空間に馴染んでいる。いや、しかしおかしいのだ。何せ彼は、あと2時間は本丸を不在にしているはずの刀。こんなところでエコバッグをたたんでいていい存在ではない。
「さぁて、夕飯まであと1時間くらいかな? 俺は先に風呂でももらうとするかね」
「……待って」
「うん?」
「ちょっと待って」
「ああ、もちろん。あんたが良いと言うまで俺は待ち続けるよ。なんなら赤いポルシェも用意しようか? 免許はないから助手席に座らせてもらうが」
「そういうのじゃない。なんでいるの、大般若」
少しでも冷静に状況を理解しようと奮闘した結果、喉から絞り出した声は異様に低く温度をなくしてしまっていた。それでもその刀――大般若長光は常の通り、ゆったりと口元をゆるませたまま、余裕を崩さずに肩をすくめる。
「やれやれ、ちょっと遅くなったからってつれない態度を取るなんて、かわいいところもあるじゃないか。もちろん埋め合わせはさせてもらうよ、俺の体でね」
「逆でしょ」
「なんだい、主の方が埋め合わせをしてくれるって?」
「違う。遅くなったんじゃなくて、早いでしょ。2時間も」
「正確には3時間だなぁ」
何故。頭を抱えた私に、大般若はとうとう声を上げて笑った。悪い悪いと軽い調子で告げられる謝罪も、おちょくっているわけではないのだという弁解も、押し殺そうとして失敗している笑い声のせいでどうにも信用ならない。小竜など未だにかけるべき言葉を見つけられずにいるようで、うさんくさいものを見るかのような目で大般若を見上げていた。
「主はいるか!」
事の真相は、厨房に飛び込んできた大包平によって判明した。どうやら鶯丸がうっかり執務室に入れてしまった猫が暴れ回ってパソコンを誤操作し、呼び戻し鳩を飛ばしてしまったらしい。鶯丸はそれに気が付かず、大包平が倉庫の物品整理のついでに鳩の数を数えているときに発覚したそうだ。大包平は涙を浮かべて笑い続ける大般若に気がつくと深く謝罪し、犯人に説教をすると言って慌ただしく来た道を戻っていった。
「はあ、よく笑わせてもらったよ。これでこの本丸の門にも福来るってわけだ」
「……どういうことか説明してくれる?」
「説明も何も、大包平が言っていた通りさ。あと数時間で愛しの我が家かというところで愛くるしい鳩がお迎えに来てくれてね。あんたが待ちきれなくなったのかと喜び勇んで戻ってきたのに、誰も出迎えに来やしない。大方誰かが間違って鳩を送っちまったんだろうとはすぐに気がついたんだが、手ぶらで帰還ってのも野暮だろう? だからそのまま万屋街に行ってきたってわけだ」
「素直に入ってきて声かけてよ……小竜もすごい顔してるから……」
「それは気付かなかった。どうにも今は、あんたの顔しか目に映らなくってなぁ」
「またそんなことを……」
冗談もほどほどにしておいてほしい。床に転がる菜箸を拾い上げ、水道の方に向き直る。しかしその途中、両頬をふわりと包まれ、ゆるやかに斜め上へと誘われた。されるがままにそちらを向けば、血管を透かしたような赤い瞳が私を見下ろしている。横からガタリと音が聞こえたが、視線を外すことができなかった。
「……大般若?」
溢れ出る感情を抑えるように三日月の形をとった赤色が、しかしその奥に灯す熱を隠しきれずに、あたたかな炎を揺らめかせている。大般若長光というのはもともと愛情を隠さない刀だ。美しいと思えば飾らない言葉でそれを伝える。愛しいと思えば思いをそのまま視線に乗せる。そこにいやらしさなど微塵もなく、あるのは彼の本心だけ。大般若は今もまた露骨すぎるほどに、心底から愛おしくて仕方がないとでも言いたげに――けれど少しだけ困ったように笑っていた。思わず息をのんで、動きを止める。
「うん、そうか、なるほどなぁ」
「な、なに……?」
「いや、なに、再確認してるだけさ。俺の主人は、本気で口説き落としたくなるほどに……美しいってな」
「え」
「ちょっと!?」
小竜が声を荒げて立ち上がるのとほぼ同時。流れるような動作で距離を詰めてきた赤色が一瞬だけ視界から外れた。その直後、額にやわらかい感触が落とされる。覚えのある感覚。消えてしまいそうなほど小さなリップ音が、再び取り落とした菜箸が床にぶつかる乾いた音にまぎれて、確かに鼓膜を揺らす。目を丸くして立ちすくむ私に、大般若はやはり眉尻を下げて笑い――そのまま後方に引き倒されるようにして私から離れていった。代わるように視界に現れたのは小竜で、彼愛用のマントの端をつかむと問答無用でごしごしと私の額をこすり始めた。
「ほんっとうに油断ならないやつだよ! これだから長光は……!」
「こ、小竜。痛い」
「キミもあんな怪しいおっさんの前で無防備にぽけっとしない!」
「ええ……?」
「おいおい、小竜。俺が帰ってきたのがうれしいからってそんなにはしゃぐな。主人の額の皮がなくなっちまうだろ?」
「はしゃいでんのはそっちだろ!」
ひとしきり私の額をこすって満足したのか、あからさまにいらだった声音でぶつくさと言いながら、小竜は大般若の襟首を躊躇なくつかんだ。そのまま大般若を引きずるようにして、ずんずんと厨房を横切っていく。
「小竜、遊びたいならあとで相手してやるから一度離さないか? あそこに並んでる唐揚げは絶対に今食べるのが正しいと思うんだ」
「忘れてしまったようだから教えてあげるよ。修行から戻ったらまず荷解きと風呂。違ったかな?」
「確かに、ホコリを落とすのが先か。そのあとで唐揚げをつまみにゆっくり口説いても遅くはない」
「いいや、遅いね、遅すぎる。遅すぎるからもう今後一切そんなことしなくていいよ。ていうか自分で歩いてくれる?」
「修行帰りに重たい発泡酒まで抱えてきたものだから満身創痍でね。このまま風呂まで運んでくれると助かるなぁ」
「なおのこと主のことは放っておいておとなしく床につくべきだな」
「あっ……待って、大般若」
両腕を組み、長い足を投げ出した体勢でずるずると小竜に引きずられていく大般若を、ハッとして引き留める。大般若とは視線がかちあったが、何故か小竜は止まってはくれない。慌てて廊下まで追いかけ、遠ざかっていく彼に「おかえり!」と声を張り上げた。大般若は一瞬だけきょとんとしたあと、はにかむように笑って片手を上げる。その途中で小竜によって何度か肩や頭が壁にぶつかっていたが、本人に気にする様子はない。角を曲がって姿が見えなくなるまで、大般若は頬を緩ませていた。
(……大般若にまでキスされてしまった)
少しひりつく額を、そっと手のひらで覆う。刀からキスをされたのはこれで2度目だ。初めては数週間前。小竜景光が同じように、私の額に唇を寄せた。あのときは全身の血液が沸騰しているのではないかと思うほど心拍数が跳ね上がって動転したが、今は不思議と、心は凪いで穏やかだ。この感覚はどちらかといえば、微笑ましさや安心感に近い。
(たぶん、大般若が特別なんじゃない。特別なのは、小竜の方)
もしかして嫉妬してくれたのだろうか。そう考えるだけでじわじわと耳の辺りが熱くなり、鼓動が早くなっていく。小竜が嫉妬してくれたのなら、うれしい。やはり彼も私に特別な好意を向けてくれているのではないかと、期待してしまう。
(……でも、その先が分からない。自分の感情の置き場所も、これからどうしたいのかも……審神者と刀が、そういう関係になっていいのかも。全然、答えが見つからない)
もしこの思いが突き動かすままに、体裁も道理も何もなく走り出していいのならば、それはどれほど幸福なことだろう。けれど実際のところ、そう簡単な話ではない。だって私と小竜は、人と刀だ。人と、ものだ。もし思いが通じ合ったとして、その先はどうなる。一時の幸福の先に待つ別れは、人同士のそれとは異なるのではないだろうか。そのときに傷つくのは、きっと私ではなく、小竜の方だ。好きだと思う相手が傷つくと分かっていながら押し通すべき感情など、あっていいはずがない。
(……それが、独りよがりな考え方だっていうのも分かってる。でも考えずにはいられない)
期待に膨らんだ胸が、穴をあけた風船のようにみるみるしぼんでいく。吐き出したため息は誰かの耳に届くこともなく、反響もせずに廊下の床に吸い込まれていった。
「……で? 何を一生懸命作ってるんだい?」
「……おつまみ」
「ふーん」
自分から聞いておきながら、小竜は心底興味がなさそうに気のない返事をした。2人きりの厨に気まずい空気が流れる。つい5分前までは和やかな雰囲気だったはずなのに、何故こうなってしまったのか。その理由が分からないわけでもない。小竜の恨みがましい視線を背中で受け止めながら、まな板の上で叩いたきゅうりを調味料とともにタッパーに入れる。
「俺のときは、おっさんたちが発泡酒冷やして待ち構えててくれたけどねえ」
「……そうだね。私もご一緒したかったけど」
「一生懸命きゅうり叩いて?」
「……あの、小竜? 別に大般若が特別なわけじゃないからね?」
タッパーを冷蔵庫の隅に入れ、代わりに卵をいくつか取り出す。「分かってるけど」とつぶやいた声は、決して納得しているようではなかった。
15分程前、私が珍しくせっせと料理をこしらえている姿を見つけた小竜が声をかけてきた。何をしているのかと興味津々に手元を覗き込まれ、大般若のために料理を作っているのだと答えたその瞬間、「ふぅん……」と唸るような相づちを寄越されたのが5分前のこと。小竜は、自分のときには何もしてくれなかったのにと、今さらすぎることをすねているようだった。
「修行に行く前にリクエストしてくれたら、全員に作ってるんだよ」
「だから、分かってるよ。そういえばそんな話、謙信から聞いた気もするし」
「そうだね、謙信のときはホットケーキを作った。小豆はふき味噌とご飯で、燭台切はカレー」
「それで俺のときは何もなし、と。出発前の自分を心底恨むよ」
「そんなに……?」
「そんなに。みんなは帰ってきてまず主の手料理食べたっていうのに、俺はいつもの発泡酒。泣けてくるよ」
「で、でも燭台切がご飯出してくれたんでしょう?」
「ああ、秘蔵の梅干しと茶碗に山盛りの白米ね。燭台切って身内には雑すぎるんだよ」
小竜は普段は隅に寄せられている椅子を作業台の近くまで移動させ、ため息とともに腰を下ろした。少しずつ気持ちが落ち着いてきたのか、口調からは刺々しさが薄れている。しかしまだ話題を打ち切らないところを見るに、機嫌が戻ったわけではないのだろう。卵の殻の行き先を追うまなざしは、じっとりと湿りけを帯びている。
「いいよねえ、古くからいる連中は。昔は主が毎食作ってたんだろ?」
「最初のころはね。頭数が少なかったし、みんな料理経験なかったし」
「俺が顕現したときにはもう当番制になってたから、まさか主が料理するなんて考えすら及ばなかったよ」
「あー……そうだ、大般若、ちゃんと約束覚えてたみたいだよ? 長船の悪い大人たちの分も作っておいてくれって言ってたの。だからこれは小竜の分も入ってて」
「キミが俺だけのために……ってことなら、素直に喜べたんだけどねえ」
「……はい」
「……なに?」
「あげる。小竜だけだよ」
作業台の端で油を切っていた唐揚げをひとつ、小皿に乗せて差し出す。あからさまなご機嫌取りに小竜は眉をひそめたが、深いため息をひとつ吐き出し、渋々といった体で皿を受け取った。唐揚げをつまみあげてもなかなか口に運ばないのは彼なりの抗議なのだろう。しばらくの間、半目で唐揚げとにらめっこしたあと、ようやく口に放り込んでもぐもぐと顎を上下させた。
「おいしい?」
「味はね。ところで対症療法って言葉、知ってるかい?」
「……根本的な解決をするには、時間を戻さなくちゃならないじゃない」
「分かってないねえ、主。そこは、今度は小竜のためだけに作るねってかわいく言うところだよ」
「……ねえ、小竜。それって……」
――嫉妬しているの?
そう言いかけて、口を閉ざす。
(聞いてどうするの、そんなこと)
そうだと答えられてもきっと困惑する。そんなわけがないと笑われたって傷つく。どうあがいても良い方向には転ばない、けれど浅ましい期待が込められた疑問。それが心の中でぐるぐると渦を巻き、喉を通って口から出ていこうとしていた。唇をぎゅっと引き結んで、それを阻止する。
(絶対に、聞かないほうがいい)
私の思いが、あるいは小竜の思いが形になってお互いの眼前に突きつけられてしまえば、もう後戻りはできないだろう。それでいいとは、まだ思えない。そもそも小竜の好意の種類が、私と同じとは限らないのだ。無言になって、卵を入れたボウルにだしを注ぎ込む。
「主?」
突然卵をかきまぜることに集中し始めた私を不思議に思ったのだろう小竜が続きを促すように私を呼ぶ。しかし咄嗟にごまかすような言葉も浮かばない。小竜に背を向けているのをいいことに口を開いて、閉じてを繰り返し――
「ただいまー!」
――ふいに、気まずい無音を、やたらと明るい声が遮った。前触れのない唐突な大声に、思わずびくりと肩が揺れる。その拍子に菜箸を取り落としたが拾う間もなく、ほとんど反射的に厨房の入り口を振り返る。そこに立っていた人物を見て、思わず言葉をなくした。
「え……」
見覚えのある、銀の髪。長いそれを束ねるピンク色のリボンも、瞳と揃いのボルドーのシャツもともすれば嫌味に見えそうなものだが、彼がまとえばすべてがしっくりとあるべき場所に収まっているようにしか思えない。遠目に見ただけでも上等だと分かる装束は、質素倹約をモットーとしつつも、使うべき部分にはしっかりと投資する彼の価値観をよく表している。まるでどこぞの貴族かとでも問いたくなる容姿に反し、彼はまるで親戚のおじさんのような気安い口調で「いやぁ、悪かったね、遅くなって」と続けた。
「え、いや……え……?」
ぽかんとまぬけに口を開け、立ちすくむ。おそらく小竜も似たようなもので、呆然とそちらを見ている。2人分の視線を受けてもなお平然と微笑を携えたその刀は、彼愛用の重たそうなエコバッグを揺らしながら、躊躇なく厨房に足を踏み入れた。
「万屋街で俺のファンに囲まれちまって、老いも若きも男も女も審神者も刀も領収書にまで片っ端からサインして回ってたらこんな時間だ。だがまあ、お目当てのこれは買えたから許してくれるだろ? 本物のビールとも迷ったんだが、やっぱり家で冷えてると言ったらこれだよなぁ。夕食までまだあるし、冷やしておくからあとで一緒に楽しむとしよう」
彼はまるで1時間程前に出かけて戻ってきたとでも言わんばかりにこちら、正確には冷蔵庫に歩み寄る。発泡酒の缶を次々と冷蔵庫にしまっていく後ろ姿は、衣装こそ違うものの数日前とまったく変わらない。変化がなさすぎて、これがおかしな状況だということに気が付けなかったほどにこの空間に馴染んでいる。いや、しかしおかしいのだ。何せ彼は、あと2時間は本丸を不在にしているはずの刀。こんなところでエコバッグをたたんでいていい存在ではない。
「さぁて、夕飯まであと1時間くらいかな? 俺は先に風呂でももらうとするかね」
「……待って」
「うん?」
「ちょっと待って」
「ああ、もちろん。あんたが良いと言うまで俺は待ち続けるよ。なんなら赤いポルシェも用意しようか? 免許はないから助手席に座らせてもらうが」
「そういうのじゃない。なんでいるの、大般若」
少しでも冷静に状況を理解しようと奮闘した結果、喉から絞り出した声は異様に低く温度をなくしてしまっていた。それでもその刀――大般若長光は常の通り、ゆったりと口元をゆるませたまま、余裕を崩さずに肩をすくめる。
「やれやれ、ちょっと遅くなったからってつれない態度を取るなんて、かわいいところもあるじゃないか。もちろん埋め合わせはさせてもらうよ、俺の体でね」
「逆でしょ」
「なんだい、主の方が埋め合わせをしてくれるって?」
「違う。遅くなったんじゃなくて、早いでしょ。2時間も」
「正確には3時間だなぁ」
何故。頭を抱えた私に、大般若はとうとう声を上げて笑った。悪い悪いと軽い調子で告げられる謝罪も、おちょくっているわけではないのだという弁解も、押し殺そうとして失敗している笑い声のせいでどうにも信用ならない。小竜など未だにかけるべき言葉を見つけられずにいるようで、うさんくさいものを見るかのような目で大般若を見上げていた。
「主はいるか!」
事の真相は、厨房に飛び込んできた大包平によって判明した。どうやら鶯丸がうっかり執務室に入れてしまった猫が暴れ回ってパソコンを誤操作し、呼び戻し鳩を飛ばしてしまったらしい。鶯丸はそれに気が付かず、大包平が倉庫の物品整理のついでに鳩の数を数えているときに発覚したそうだ。大包平は涙を浮かべて笑い続ける大般若に気がつくと深く謝罪し、犯人に説教をすると言って慌ただしく来た道を戻っていった。
「はあ、よく笑わせてもらったよ。これでこの本丸の門にも福来るってわけだ」
「……どういうことか説明してくれる?」
「説明も何も、大包平が言っていた通りさ。あと数時間で愛しの我が家かというところで愛くるしい鳩がお迎えに来てくれてね。あんたが待ちきれなくなったのかと喜び勇んで戻ってきたのに、誰も出迎えに来やしない。大方誰かが間違って鳩を送っちまったんだろうとはすぐに気がついたんだが、手ぶらで帰還ってのも野暮だろう? だからそのまま万屋街に行ってきたってわけだ」
「素直に入ってきて声かけてよ……小竜もすごい顔してるから……」
「それは気付かなかった。どうにも今は、あんたの顔しか目に映らなくってなぁ」
「またそんなことを……」
冗談もほどほどにしておいてほしい。床に転がる菜箸を拾い上げ、水道の方に向き直る。しかしその途中、両頬をふわりと包まれ、ゆるやかに斜め上へと誘われた。されるがままにそちらを向けば、血管を透かしたような赤い瞳が私を見下ろしている。横からガタリと音が聞こえたが、視線を外すことができなかった。
「……大般若?」
溢れ出る感情を抑えるように三日月の形をとった赤色が、しかしその奥に灯す熱を隠しきれずに、あたたかな炎を揺らめかせている。大般若長光というのはもともと愛情を隠さない刀だ。美しいと思えば飾らない言葉でそれを伝える。愛しいと思えば思いをそのまま視線に乗せる。そこにいやらしさなど微塵もなく、あるのは彼の本心だけ。大般若は今もまた露骨すぎるほどに、心底から愛おしくて仕方がないとでも言いたげに――けれど少しだけ困ったように笑っていた。思わず息をのんで、動きを止める。
「うん、そうか、なるほどなぁ」
「な、なに……?」
「いや、なに、再確認してるだけさ。俺の主人は、本気で口説き落としたくなるほどに……美しいってな」
「え」
「ちょっと!?」
小竜が声を荒げて立ち上がるのとほぼ同時。流れるような動作で距離を詰めてきた赤色が一瞬だけ視界から外れた。その直後、額にやわらかい感触が落とされる。覚えのある感覚。消えてしまいそうなほど小さなリップ音が、再び取り落とした菜箸が床にぶつかる乾いた音にまぎれて、確かに鼓膜を揺らす。目を丸くして立ちすくむ私に、大般若はやはり眉尻を下げて笑い――そのまま後方に引き倒されるようにして私から離れていった。代わるように視界に現れたのは小竜で、彼愛用のマントの端をつかむと問答無用でごしごしと私の額をこすり始めた。
「ほんっとうに油断ならないやつだよ! これだから長光は……!」
「こ、小竜。痛い」
「キミもあんな怪しいおっさんの前で無防備にぽけっとしない!」
「ええ……?」
「おいおい、小竜。俺が帰ってきたのがうれしいからってそんなにはしゃぐな。主人の額の皮がなくなっちまうだろ?」
「はしゃいでんのはそっちだろ!」
ひとしきり私の額をこすって満足したのか、あからさまにいらだった声音でぶつくさと言いながら、小竜は大般若の襟首を躊躇なくつかんだ。そのまま大般若を引きずるようにして、ずんずんと厨房を横切っていく。
「小竜、遊びたいならあとで相手してやるから一度離さないか? あそこに並んでる唐揚げは絶対に今食べるのが正しいと思うんだ」
「忘れてしまったようだから教えてあげるよ。修行から戻ったらまず荷解きと風呂。違ったかな?」
「確かに、ホコリを落とすのが先か。そのあとで唐揚げをつまみにゆっくり口説いても遅くはない」
「いいや、遅いね、遅すぎる。遅すぎるからもう今後一切そんなことしなくていいよ。ていうか自分で歩いてくれる?」
「修行帰りに重たい発泡酒まで抱えてきたものだから満身創痍でね。このまま風呂まで運んでくれると助かるなぁ」
「なおのこと主のことは放っておいておとなしく床につくべきだな」
「あっ……待って、大般若」
両腕を組み、長い足を投げ出した体勢でずるずると小竜に引きずられていく大般若を、ハッとして引き留める。大般若とは視線がかちあったが、何故か小竜は止まってはくれない。慌てて廊下まで追いかけ、遠ざかっていく彼に「おかえり!」と声を張り上げた。大般若は一瞬だけきょとんとしたあと、はにかむように笑って片手を上げる。その途中で小竜によって何度か肩や頭が壁にぶつかっていたが、本人に気にする様子はない。角を曲がって姿が見えなくなるまで、大般若は頬を緩ませていた。
(……大般若にまでキスされてしまった)
少しひりつく額を、そっと手のひらで覆う。刀からキスをされたのはこれで2度目だ。初めては数週間前。小竜景光が同じように、私の額に唇を寄せた。あのときは全身の血液が沸騰しているのではないかと思うほど心拍数が跳ね上がって動転したが、今は不思議と、心は凪いで穏やかだ。この感覚はどちらかといえば、微笑ましさや安心感に近い。
(たぶん、大般若が特別なんじゃない。特別なのは、小竜の方)
もしかして嫉妬してくれたのだろうか。そう考えるだけでじわじわと耳の辺りが熱くなり、鼓動が早くなっていく。小竜が嫉妬してくれたのなら、うれしい。やはり彼も私に特別な好意を向けてくれているのではないかと、期待してしまう。
(……でも、その先が分からない。自分の感情の置き場所も、これからどうしたいのかも……審神者と刀が、そういう関係になっていいのかも。全然、答えが見つからない)
もしこの思いが突き動かすままに、体裁も道理も何もなく走り出していいのならば、それはどれほど幸福なことだろう。けれど実際のところ、そう簡単な話ではない。だって私と小竜は、人と刀だ。人と、ものだ。もし思いが通じ合ったとして、その先はどうなる。一時の幸福の先に待つ別れは、人同士のそれとは異なるのではないだろうか。そのときに傷つくのは、きっと私ではなく、小竜の方だ。好きだと思う相手が傷つくと分かっていながら押し通すべき感情など、あっていいはずがない。
(……それが、独りよがりな考え方だっていうのも分かってる。でも考えずにはいられない)
期待に膨らんだ胸が、穴をあけた風船のようにみるみるしぼんでいく。吐き出したため息は誰かの耳に届くこともなく、反響もせずに廊下の床に吸い込まれていった。