その心をば恋と呼べ(小竜さに)
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小竜とお酒を飲むことになったのは、5日後の夜のことだった。それまでの間も小竜の様子はおかしかったが、そのままずっと放っておくわけにもいかない。長船の面々が何度か気づかわしげに声をかけてくれたことも、この事態をなんとかしなければという思いを強くした。主として、いつまでも刀たちに心配をかけるわけにはいかなかった。
「とりあえず乾杯でもしておく?」
「そ、そうだね」
今朝、急に誘ったにもかかわらず、小竜はしっかりとお酒を準備してくれていた。お盆に乗せられたいくつかのリキュールや日本酒、ワインやジュースに驚くと、小竜は少し照れくさそうにしながら「あの日すぐ買いに行ったんだ」と明後日の方を見る。リクエストがないならばと作ってくれたカクテルはスクリュードライバー。口当たりがいい、飲みやすいカクテルだった。
執務室の前の縁側で肩を並べ、グラスをぶつける。ガラスがぶつかる小さな音は、遠くから聞こえる他の刀たちの笑い声にかき消されることなく鼓膜を揺らした。
(どういうふうに切り出そう)
一口、二口とカクテルを煽りながら、いかにして本題を切り出そうか頭をひねる。いきなり「最近様子おかしいよね?」などと聞けるわけがない。かと言って、遠回しに聞いてもはぐらかされるのが関の山だ。まずは雑談から入るべきだろうか。アルコールとともに思考をぐるぐると回していると、小竜の方が先に口を開いた。
「強いの?」
「え?」
「アルコール。ずいぶん飛ばしてるから」
「あ、ああ。これくらいじゃ酔わないかな」
アルコール度数が高いカクテルだが、この量では酔うには至らない。そもそもこのスクリュードライバーは、店で出されるよりもウォッカの量が少ない。きっと小竜が気を利かせてくれたのだろう。当の小竜はほっとしながらも、どこかおもしろくなさそうに庭を見た。
「大般若に聞いたよ。長船の連中とは、たまに飲んでるんだって」
「たまにだよ。本当に、たまに。別に小竜を仲間外れにしてたわけでもないし」
「分かってるよ、タイミングの問題だ。俺も、自分からそういう場に行こうとはしなかったしね」
「……でも、今日は来てくれたよね」
「前だって、誘われたら行ってたさ」
「そうなの?」
「俺のことなんだと思ってるんだい?」
「……真面目で……清廉潔白……?」
「はあ? 俺が?」
虚を突かれたような小竜に、こちらも驚いて肩を揺らす。清廉潔白な主を求める小竜だ、当然彼自身もそうなのだろうと思い込んでいた。しかし本人にしてみれば的外れだったようで、私のことを見る目がないなどと言い出す。ずきりと胸の辺りが痛んだ気がしたが、知らないふりで謝罪を口にした。
「……この間も言ったけど、責めてるわけじゃない。謝らないでいいよ」
「う、うん」
「それで、俺のどこを見てそんなこと思ったわけ?」
「どこって……小竜は真面目でしょう? 口ではいろいろ言うけど仕事はきっちりやるし」
「そんなの他のやつらも同じじゃないか」
「そうかな……それに、ほら。私に気をつかって、ウォッカは少ししか入れない」
「……」
グラスを揺らして見せると、小竜はバツが悪そうにそっぽを向いてこの話題を打ち切った。彼の珍しい表情に、緊張がわずかに和らぐ。自分から誘っておきながら、やはり小竜と2人きりの時間は妙に緊張した。下手なことを言ってはいけない、幻滅されるような振る舞いをしてはいけない。そんな思いが常に頭の片隅に浮いている。そうすると自然と言動はぎこちなくなり、他の刀といるときよりも緊張感は増す。一言一言を選びながらの会話は、あまり長続きはしなかった。
ぽつぽつと言葉を交わしながらも、お互いに無駄話はしなかった。私の方はできなかったというのが正しい。雑談は続かず、本題を切り出すにも至らない。小竜は小竜で何か考えごとをしているらしく、時折ぼんやりと暗闇にのまれた庭を無言で眺めていた。
「……小豆と燭台切に叱られたんだ」
何度目かの気まずい無言の後。だいぶ涼しくなった夜風にまぎれて、小竜がぽつりとつぶやくように言った。紫の瞳は未だ庭の方を向いており、私の視線に気が付いた様子はない。やはりバツが悪そうな、ともすればぶすくれた子どもにも見える横顔が意外で、咄嗟に言葉が出てこない。けれど返答を待たずに彼は続けた。
「自分の気持ちを押しつける前にちゃんと話せってね、くどいくらい言われた」
「……話すって?」
「……俺が、キミを委縮させてるから」
「え」
「薄々は自分でも気づいてたんだ」
「ご、ごめん、何の話……?」
「……キミがあんまり笑わないのも、よく謝るのも、リラックスできないのも、全部俺の前でだけだってこと。気づいてた」
「!」
「でも原因までは分かってなくて……そしたら小豆が教えてくれたんだ。君は、俺の主にふさわしい人間になるためにがんばってるんだって」
顔は庭の方に向けたまま、紫の双眸だけがこちらを見た。アルコールによって多少は上昇したはずの体温が急激に下がる。何を返せばいいのか分からない。だって小竜が気が付いているなんて――私がちゃんとした人間になろうと必死になっていることを知ってしまったなんて。そう考えると、整然としていた頭のなかがぐちゃぐちゃとこんがらがってくる。
けれど小竜は私を置き去りに、さらに話を進めていく。
「キミの知らないところで、勝手に聞いていい話じゃなかったのは分かってる。ごめん。それに……俺がちゃんと言葉にしてれば、キミをそんなに困らせることもなかった。本当にごめん」
「ま、待って、別に小竜は何も悪くないよ」
「いいや、これは譲れない。俺の気が済まない。頼むから、全部俺が悪いことにしてほしい。それで代わりに……これだけは信じてほしい」
グラスをお盆の上に戻し、小竜は上半身ごとこちらを向いてまっすぐに私を見下ろした。伸びた背筋と真剣みを帯びた双眸から、決して煙に巻いたり茶化そうとしているわけでないのが分かる。
(何を言うつもりなんだろう)
緊張から、ごくりとのどが鳴った。グラスを持つ手がほんの少し震えている。それを隠すように両手でグラスを握りしめ、せめて表面上だけは平静を装って視線を返す。小竜は少し迷うように唇を上下させ、それから意を決した様子で口を開いた。
「俺はキミのこと、認めているよ」
「……え?」
「俺が主と呼ぶのにふさわしい人間だって、とっくに……修行に行くずっと前から、そう思ってる」
「……」
一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れた。吸い込んだ空気が行き場をなくし、喉元が苦しくなる。目を開き、呼吸を止め、ただただ無言で、小竜景光を見上げる。それ以外のことができない。口どころか思考まで、うまく回すことができない。
(認めてるって、言った? 小竜が、私のことを?)
まさか、そんなこと、あるわけがない。彼の言葉を否定しかけて、しかしぬくもった紫色の瞳がうそを言っているようにも見えず、口を閉ざす。そもそも小竜景光という真面目な刀が、こういう場面でうそを吐くわけがない。ならば彼は本心から、そう言っている。
私を主として認めていると、小竜は確かにそう言ったのだ。
「俺はこういう性分だから、あまりそうは見えてなかったかもしれないけど、でも本当だ。キミはすごく能力があるわけじゃないけれど、いつも一生懸命だったし……苦手な俺に対しても、精一杯、主として誠実に接してくれた」
「ちっ、違う! 苦手とかじゃない……!」
「うれしいこと言ってくれるね。……うん、苦手とかじゃなかったんだな。ただ、背伸びしようとしてくれてただけだ」
背伸び。私の状態を正しく言い当てた表現だった。本当にその通りだ。認められたいからといって身の丈に合わない振る舞いをして、自分を大きく見せようとしていた。改めて思い返すとなんて幼稚な行動だろう。恥ずかしさから俯くと、小竜は笑うような声を漏らして、再び庭の方へと向き直った。
「……修行に行っている間、前の主を見ながら何度もキミのことを思い出したよ。俺はキミのために何ができるのか、何がしたいのか、何度も考えた」
「……」
「それでキミと共に歩むことを決めて、本丸に戻ってきて……玄関先で待っていてくれたキミを見て、なんだか気持ちが全部、あふれ出してしまった」
「気持ち……?」
「キミという人間を、愛おしいと思う気持ち」
顔を上げるも、小竜はこちらを見てはいなかった。いつの間にか手にしていたグラスを傾けて、何もない暗闇をじっと見つめている。けれど紫色の中に見えた体温は、大般若が私を見るときのそれとよく似ていた。
「本当は修行に行く前からそういう気持ちはあったんだろうね。それ以外の、よこしまな気持ちも。それが戻ってきてから……ガラにもなく浮かれてしまって。気持ちばかりが前へ前へと進んでいってしまった」
「それ、は……愛おしいっていうのは、神様目線の、大般若がよく言ってる……そういうようなこと……?」
「……キミ、存外鈍いんだね。……とにかく俺はキミのことが知りたくなったんだ。修行に行く前は何も知らなかったから。好きなこと、嫌いなこと、なんだって知りたくなった。そうやってそばにいたら、もっと知りたくなって……でも俺の新発見は他の連中にとってはそうじゃないってことも多かったから、そこは正直おもしろくなかったな。でもキミのそばにいるのは、やっぱり楽しい。今も……かっこ悪いことしゃべってるからちょっとだけ気まずいけど、それ以上に一緒にこの時間を過ごせることがうれしい」
「……」
「主。……俺の主。他のどの気持ちを疑ってもいいけれど、これだけは信じてほしい。俺の主はキミだ。ここに顕現した小竜景光は、キミ以外の主なんて認められそうにない。これから共に行く道も……死出の旅路だって、キミとなら待ち遠しいくらいだ」
どうかこの思いだけは信じてほしい。
そう繰り返して、小竜はそっと口を閉ざした。
(何か、返さなくちゃ)
そう思いはするものの、やはりうまく言葉が出てこない。手は相変わらず震えていたし、のどの奥がひりつく感覚がする。呼吸が正常に動き出せば、きっとそこから何かが溢れてしまう。それはいやだ。小竜には、ちゃんとした姿を見ていてほしい。
(ああ、でも、小竜は私を認めてくれてるって言ったんだ。背伸びしてるって分かってもそれでいいって……ちゃんとしてない私でもいいって、そう言ってくれたんだ)
なら、いいのだろうか。
情けないところを見せても。
声が震えて、きちんと言葉を紡げなくても。
涙で顔がぐちゃぐちゃになってしまっても。
どんなに情けなくても、ただ私の正直な思いを口にしても、いいのだろうか。
ぐっと、ひときわ強くグラスを握る。少し開いた口を閉じ、もう一度開き、何度か同じことを繰り返し、ようやく意を決して、思いを声に乗せる。
「――ありがとう、小竜」
どのくらいの時間が空いていたのかは分からない。数秒だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。黙ってじっと私を待っていてくれた小竜が、こちらを見て大きく目を見開いた。はっきりと見えたのはそこまでだ。ボロボロと溢れてくる涙が眼前を歪ませ、それをぬぐう手の甲で視界が覆われる。ほとんどしゃくりあげているような声は、きちんと言葉になって小竜に届いただろうか。確認することはできないけれど、必死になって同じ言葉を舌に乗せた。
「ありがとう、小竜。私のところに戻ってきてくれてありがとう。主って、呼んでくれてありがとう。それが、すごくうれしい」
きっと小竜にとっては、たったそれだけのことなのだと思う。特別なことは何もない、当然のこと。けれど私はその「当然」が、自分でも驚くほどうれしかった。これまでの努力が報われたようで、彼が私の思いに応えてくれたようで――こんなにうれしいことはないとすら思う。とうとう言葉も出なくなり、嗚咽を漏らしながら涙が止まるのを待つ。小竜を困らせてしまうことは分かっていたが、とうに感情のコントロール権は私の手から離れていた。
「……えやは伊吹のさしも草、か」
不意に、みっともない嗚咽以外の音が鼓膜を揺らした。それから少しの間も開けずに、頭ごと体を何かに包まれる。最初は、彼が内番着のときに羽織っているマントをかぶせられたのだと思った。違うと気が付いたのは、明確な意思を持った手のひらがそっと私の頭を引き寄せ、その先で、他人の心臓の音を聞いたたからだ。
「燭台切にあまり主を振り回してやるなって言われたけど、絶対に逆だと思うんだよなぁ……」
「こ、小竜……?」
「ん? 気にしなくていいよ。女の涙なんて、そうそう人目にさらしていいものじゃない。……それに、俺もうれしいよ。俺とは少し違う気持ちかもしれないけど、主がそこまで俺を思っていてくれて、すごくうれしい」
言いながら、体に回された手がそっと背中をなでてくれる。優しい仕草と思いのほか高い体温が余計に涙腺を緩ませた。彼の優しさに甘えて額を目の前の胸元に押しつけると、少しの間をおいて、もう一方の手がためらうように、すくい上げた髪の毛をすいていった。
「とりあえず乾杯でもしておく?」
「そ、そうだね」
今朝、急に誘ったにもかかわらず、小竜はしっかりとお酒を準備してくれていた。お盆に乗せられたいくつかのリキュールや日本酒、ワインやジュースに驚くと、小竜は少し照れくさそうにしながら「あの日すぐ買いに行ったんだ」と明後日の方を見る。リクエストがないならばと作ってくれたカクテルはスクリュードライバー。口当たりがいい、飲みやすいカクテルだった。
執務室の前の縁側で肩を並べ、グラスをぶつける。ガラスがぶつかる小さな音は、遠くから聞こえる他の刀たちの笑い声にかき消されることなく鼓膜を揺らした。
(どういうふうに切り出そう)
一口、二口とカクテルを煽りながら、いかにして本題を切り出そうか頭をひねる。いきなり「最近様子おかしいよね?」などと聞けるわけがない。かと言って、遠回しに聞いてもはぐらかされるのが関の山だ。まずは雑談から入るべきだろうか。アルコールとともに思考をぐるぐると回していると、小竜の方が先に口を開いた。
「強いの?」
「え?」
「アルコール。ずいぶん飛ばしてるから」
「あ、ああ。これくらいじゃ酔わないかな」
アルコール度数が高いカクテルだが、この量では酔うには至らない。そもそもこのスクリュードライバーは、店で出されるよりもウォッカの量が少ない。きっと小竜が気を利かせてくれたのだろう。当の小竜はほっとしながらも、どこかおもしろくなさそうに庭を見た。
「大般若に聞いたよ。長船の連中とは、たまに飲んでるんだって」
「たまにだよ。本当に、たまに。別に小竜を仲間外れにしてたわけでもないし」
「分かってるよ、タイミングの問題だ。俺も、自分からそういう場に行こうとはしなかったしね」
「……でも、今日は来てくれたよね」
「前だって、誘われたら行ってたさ」
「そうなの?」
「俺のことなんだと思ってるんだい?」
「……真面目で……清廉潔白……?」
「はあ? 俺が?」
虚を突かれたような小竜に、こちらも驚いて肩を揺らす。清廉潔白な主を求める小竜だ、当然彼自身もそうなのだろうと思い込んでいた。しかし本人にしてみれば的外れだったようで、私のことを見る目がないなどと言い出す。ずきりと胸の辺りが痛んだ気がしたが、知らないふりで謝罪を口にした。
「……この間も言ったけど、責めてるわけじゃない。謝らないでいいよ」
「う、うん」
「それで、俺のどこを見てそんなこと思ったわけ?」
「どこって……小竜は真面目でしょう? 口ではいろいろ言うけど仕事はきっちりやるし」
「そんなの他のやつらも同じじゃないか」
「そうかな……それに、ほら。私に気をつかって、ウォッカは少ししか入れない」
「……」
グラスを揺らして見せると、小竜はバツが悪そうにそっぽを向いてこの話題を打ち切った。彼の珍しい表情に、緊張がわずかに和らぐ。自分から誘っておきながら、やはり小竜と2人きりの時間は妙に緊張した。下手なことを言ってはいけない、幻滅されるような振る舞いをしてはいけない。そんな思いが常に頭の片隅に浮いている。そうすると自然と言動はぎこちなくなり、他の刀といるときよりも緊張感は増す。一言一言を選びながらの会話は、あまり長続きはしなかった。
ぽつぽつと言葉を交わしながらも、お互いに無駄話はしなかった。私の方はできなかったというのが正しい。雑談は続かず、本題を切り出すにも至らない。小竜は小竜で何か考えごとをしているらしく、時折ぼんやりと暗闇にのまれた庭を無言で眺めていた。
「……小豆と燭台切に叱られたんだ」
何度目かの気まずい無言の後。だいぶ涼しくなった夜風にまぎれて、小竜がぽつりとつぶやくように言った。紫の瞳は未だ庭の方を向いており、私の視線に気が付いた様子はない。やはりバツが悪そうな、ともすればぶすくれた子どもにも見える横顔が意外で、咄嗟に言葉が出てこない。けれど返答を待たずに彼は続けた。
「自分の気持ちを押しつける前にちゃんと話せってね、くどいくらい言われた」
「……話すって?」
「……俺が、キミを委縮させてるから」
「え」
「薄々は自分でも気づいてたんだ」
「ご、ごめん、何の話……?」
「……キミがあんまり笑わないのも、よく謝るのも、リラックスできないのも、全部俺の前でだけだってこと。気づいてた」
「!」
「でも原因までは分かってなくて……そしたら小豆が教えてくれたんだ。君は、俺の主にふさわしい人間になるためにがんばってるんだって」
顔は庭の方に向けたまま、紫の双眸だけがこちらを見た。アルコールによって多少は上昇したはずの体温が急激に下がる。何を返せばいいのか分からない。だって小竜が気が付いているなんて――私がちゃんとした人間になろうと必死になっていることを知ってしまったなんて。そう考えると、整然としていた頭のなかがぐちゃぐちゃとこんがらがってくる。
けれど小竜は私を置き去りに、さらに話を進めていく。
「キミの知らないところで、勝手に聞いていい話じゃなかったのは分かってる。ごめん。それに……俺がちゃんと言葉にしてれば、キミをそんなに困らせることもなかった。本当にごめん」
「ま、待って、別に小竜は何も悪くないよ」
「いいや、これは譲れない。俺の気が済まない。頼むから、全部俺が悪いことにしてほしい。それで代わりに……これだけは信じてほしい」
グラスをお盆の上に戻し、小竜は上半身ごとこちらを向いてまっすぐに私を見下ろした。伸びた背筋と真剣みを帯びた双眸から、決して煙に巻いたり茶化そうとしているわけでないのが分かる。
(何を言うつもりなんだろう)
緊張から、ごくりとのどが鳴った。グラスを持つ手がほんの少し震えている。それを隠すように両手でグラスを握りしめ、せめて表面上だけは平静を装って視線を返す。小竜は少し迷うように唇を上下させ、それから意を決した様子で口を開いた。
「俺はキミのこと、認めているよ」
「……え?」
「俺が主と呼ぶのにふさわしい人間だって、とっくに……修行に行くずっと前から、そう思ってる」
「……」
一瞬だけ、呼吸の仕方を忘れた。吸い込んだ空気が行き場をなくし、喉元が苦しくなる。目を開き、呼吸を止め、ただただ無言で、小竜景光を見上げる。それ以外のことができない。口どころか思考まで、うまく回すことができない。
(認めてるって、言った? 小竜が、私のことを?)
まさか、そんなこと、あるわけがない。彼の言葉を否定しかけて、しかしぬくもった紫色の瞳がうそを言っているようにも見えず、口を閉ざす。そもそも小竜景光という真面目な刀が、こういう場面でうそを吐くわけがない。ならば彼は本心から、そう言っている。
私を主として認めていると、小竜は確かにそう言ったのだ。
「俺はこういう性分だから、あまりそうは見えてなかったかもしれないけど、でも本当だ。キミはすごく能力があるわけじゃないけれど、いつも一生懸命だったし……苦手な俺に対しても、精一杯、主として誠実に接してくれた」
「ちっ、違う! 苦手とかじゃない……!」
「うれしいこと言ってくれるね。……うん、苦手とかじゃなかったんだな。ただ、背伸びしようとしてくれてただけだ」
背伸び。私の状態を正しく言い当てた表現だった。本当にその通りだ。認められたいからといって身の丈に合わない振る舞いをして、自分を大きく見せようとしていた。改めて思い返すとなんて幼稚な行動だろう。恥ずかしさから俯くと、小竜は笑うような声を漏らして、再び庭の方へと向き直った。
「……修行に行っている間、前の主を見ながら何度もキミのことを思い出したよ。俺はキミのために何ができるのか、何がしたいのか、何度も考えた」
「……」
「それでキミと共に歩むことを決めて、本丸に戻ってきて……玄関先で待っていてくれたキミを見て、なんだか気持ちが全部、あふれ出してしまった」
「気持ち……?」
「キミという人間を、愛おしいと思う気持ち」
顔を上げるも、小竜はこちらを見てはいなかった。いつの間にか手にしていたグラスを傾けて、何もない暗闇をじっと見つめている。けれど紫色の中に見えた体温は、大般若が私を見るときのそれとよく似ていた。
「本当は修行に行く前からそういう気持ちはあったんだろうね。それ以外の、よこしまな気持ちも。それが戻ってきてから……ガラにもなく浮かれてしまって。気持ちばかりが前へ前へと進んでいってしまった」
「それ、は……愛おしいっていうのは、神様目線の、大般若がよく言ってる……そういうようなこと……?」
「……キミ、存外鈍いんだね。……とにかく俺はキミのことが知りたくなったんだ。修行に行く前は何も知らなかったから。好きなこと、嫌いなこと、なんだって知りたくなった。そうやってそばにいたら、もっと知りたくなって……でも俺の新発見は他の連中にとってはそうじゃないってことも多かったから、そこは正直おもしろくなかったな。でもキミのそばにいるのは、やっぱり楽しい。今も……かっこ悪いことしゃべってるからちょっとだけ気まずいけど、それ以上に一緒にこの時間を過ごせることがうれしい」
「……」
「主。……俺の主。他のどの気持ちを疑ってもいいけれど、これだけは信じてほしい。俺の主はキミだ。ここに顕現した小竜景光は、キミ以外の主なんて認められそうにない。これから共に行く道も……死出の旅路だって、キミとなら待ち遠しいくらいだ」
どうかこの思いだけは信じてほしい。
そう繰り返して、小竜はそっと口を閉ざした。
(何か、返さなくちゃ)
そう思いはするものの、やはりうまく言葉が出てこない。手は相変わらず震えていたし、のどの奥がひりつく感覚がする。呼吸が正常に動き出せば、きっとそこから何かが溢れてしまう。それはいやだ。小竜には、ちゃんとした姿を見ていてほしい。
(ああ、でも、小竜は私を認めてくれてるって言ったんだ。背伸びしてるって分かってもそれでいいって……ちゃんとしてない私でもいいって、そう言ってくれたんだ)
なら、いいのだろうか。
情けないところを見せても。
声が震えて、きちんと言葉を紡げなくても。
涙で顔がぐちゃぐちゃになってしまっても。
どんなに情けなくても、ただ私の正直な思いを口にしても、いいのだろうか。
ぐっと、ひときわ強くグラスを握る。少し開いた口を閉じ、もう一度開き、何度か同じことを繰り返し、ようやく意を決して、思いを声に乗せる。
「――ありがとう、小竜」
どのくらいの時間が空いていたのかは分からない。数秒だったのかもしれないし、数分だったのかもしれない。黙ってじっと私を待っていてくれた小竜が、こちらを見て大きく目を見開いた。はっきりと見えたのはそこまでだ。ボロボロと溢れてくる涙が眼前を歪ませ、それをぬぐう手の甲で視界が覆われる。ほとんどしゃくりあげているような声は、きちんと言葉になって小竜に届いただろうか。確認することはできないけれど、必死になって同じ言葉を舌に乗せた。
「ありがとう、小竜。私のところに戻ってきてくれてありがとう。主って、呼んでくれてありがとう。それが、すごくうれしい」
きっと小竜にとっては、たったそれだけのことなのだと思う。特別なことは何もない、当然のこと。けれど私はその「当然」が、自分でも驚くほどうれしかった。これまでの努力が報われたようで、彼が私の思いに応えてくれたようで――こんなにうれしいことはないとすら思う。とうとう言葉も出なくなり、嗚咽を漏らしながら涙が止まるのを待つ。小竜を困らせてしまうことは分かっていたが、とうに感情のコントロール権は私の手から離れていた。
「……えやは伊吹のさしも草、か」
不意に、みっともない嗚咽以外の音が鼓膜を揺らした。それから少しの間も開けずに、頭ごと体を何かに包まれる。最初は、彼が内番着のときに羽織っているマントをかぶせられたのだと思った。違うと気が付いたのは、明確な意思を持った手のひらがそっと私の頭を引き寄せ、その先で、他人の心臓の音を聞いたたからだ。
「燭台切にあまり主を振り回してやるなって言われたけど、絶対に逆だと思うんだよなぁ……」
「こ、小竜……?」
「ん? 気にしなくていいよ。女の涙なんて、そうそう人目にさらしていいものじゃない。……それに、俺もうれしいよ。俺とは少し違う気持ちかもしれないけど、主がそこまで俺を思っていてくれて、すごくうれしい」
言いながら、体に回された手がそっと背中をなでてくれる。優しい仕草と思いのほか高い体温が余計に涙腺を緩ませた。彼の優しさに甘えて額を目の前の胸元に押しつけると、少しの間をおいて、もう一方の手がためらうように、すくい上げた髪の毛をすいていった。