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幻寂SS

神宮寺先生は、勉強熱心だ。
毎朝出勤時間より早く診察室に入り、珈琲を入れて腰掛ける。時には文献を読み、時にはカルテを見返し、時には私たち看護師にも最新医療のことを話してくれる。
私を含め、スタッフの憧れの的だ。
背が高く、顔だちも男性にこう言う表現はおかしいと本人は笑っていたが、誰から見ても『美人』だ。それでいて、仕事熱心で、真摯で。
結婚されていないのが不思議だが、おそらくずっと高嶺の花だったんじゃ無いだろうか。その証拠に彼に言い寄ろうなんて不届き者は今もいない。
みんな彼をカミサマか何かだと思ってるのだ。
老若男女が彼を遠巻きに崇拝する。それは私も同じで。
(素敵なんだけど、生身って感じがしないのよね)

ある朝、いつもの珈琲の香りがしないと気付いた。それとは違う、芳ばしい香り。
「おはよう、栗原くん」
「おはようございます、神宮寺先生。今日は珈琲じゃないんですか?」
「あぁ、頂き物でね。たまにはお茶も良いものだね」
「なんだかちょっと懐かしい感じの、素敵な香りですね」
「ありがとう」
はにかむ先生の手元には、小さな文庫本。本が小さいのではなく先生の手が全てを包み込めるほど、誰でも救えるほどに大きいことに気付き、やっぱりカミサマみたいだな、と思う。
私の視線に気付いた先生が顔を上げた。
「すまない、職場で医療に関すること以外の本を読むのは不謹慎だったかな」
「い、いえ、そんなことは・・・まだ先生は勤務時間外ですし。小説ですか?」
「あぁ、とても美しい文章でね。ストーリーは勿論だけど、こう、向こう側が透き通って見える様な、儚げな美しさがあるんだ。それでいてちょっと薄暗い影があって、そのバランスが、実に興味深いよ」
診察中の様な真剣な眼差しで本の内容を思い出しながら説明してくれる先生はやっぱり真面目だと思う。それでいてちょっとプライベートな一面を垣間見た気がした私は、なんだか嬉しくなった。
「先生、その本面白いですか?」
「うん、とっても」
そう言ってふわりと笑った先生の顔は見たことのない顔で。もしかしたら、この人は。
「さぁ、そろそろ準備をしようか」
「は、はい」
診察開始まであと十分、私は慌ててカルテに手を伸ばした。
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