春の湊 短編集

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その虚が埋まる日を夢見て



さんはたまに、時が止まってしまったかのように一心に何かを見つめるときがある。
一体何を見ているんだろうと視線の先を辿ってみる。けれどそのどれもが自分には到底、心を奪われるほどの美しさや魅力を感じられないものばかり。たとえば人の声が行き交う雑踏な町中だとか、たとえば雨上がりのぬかるんだ畦道だとか。

今日は夕日に照らされた田んぼを前にして一歩も動かなくなってしまった。
もの好きだなあと思ってふとさんに視線を移すと、一瞬。一瞬だけ彼女の瞳が揺らいだような気がした。その瞳がどこか鈍く濁ったように見えるのは、きっと長いまつ毛が落とした影のせいだろうと思うことにした。

なんとなく。ただ漠然とだけれど。こうなってしまったさんをこのまま一人ぼっちにしてはダメだと心の中の自分が叫ぶ。なんだかドクドクと嫌な感じに心臓が脈打って、手のひらにほんのり汗が滲んだ。名前を呼んでみたけれど返事はなくて。どうしたら、と忙しなく視線を彷徨わせて不意に汗が滲んだ自分の手のひらが目についた。袴に手を擦り付けて汗を拭き、それからそうっと手を伸ばす。
繊細な硝子細工みたいに、触れたら呆気なく崩れ落ちてしまうのではないかとすら思う。慎重に、壊さぬように、彼女の手に触れた。血の通った、生きた人間の手をしているのに、やっぱりさんの手はいつもどこかひやりとしている。熱を分け与えるようにその手を握ると、ようやくさんは俺に気づいた。そうしてゆっくりと握り返されるその柔らかな感触に、どこかホッとする自分がいる。

さん、そろそろ帰らないと日が暮れちゃうよ。」

そう言ってさんの手を引っ張って帰路につく。

はやく、はやく帰ろう。
皆がいる忍術学園に。
そしたらきっと、きっと___

なんだか気持ちがはやって、いつの間にか小走りになっていて。さんの上がった息の音が聞こえてようやく我に返った。立ち止まって振り返ろうとゆっくり頭を動かしたとき、一際強い力で手を握られた。少し考えて、結局振り返ることなく再びさんの手を引いて歩き出した。

道中、さんが小さな小さな声で「ありがとう」と囁いた。おどけたような口調で「なんのことっすか」と返せば、返事はなかったけど繋いだ手にゆるく力が込められるのを感じた。少し上擦ったような声も、僅かに震える手も、全部全部知らんぷりをしてなんてことないように振る舞った。

こうして二人で手を繋いで歩いていると思うことがある。さんはそう、小さな子供みたいなんだ。一回りくらい歳が離れていて、手も身長もさんの方が大きいのに、どうしてかそう思うのだ。

いつか、さんの身長を越して、この手を小さく感じるときが来るのだろうか。
そのとき、一体誰が彼女の手を繋いで、引っ張ってあげるのだろうか。

そんないつかをぼんやりと考えて、少しだけ寂しくなった。

行く宛のない、今にも泣き出しそうな子供のような。そんなさんの手を引くのはいつだって自分の役目であってほしい。今は誰にも、この役目を譲りたくないなあ、なんて。
いや、譲りたいんじゃない。こんな役目は自分っきりがいい。
俺がお役御免になるとき。
この繋いだ手が解けるとき。
迷子の少女は幸せそうに笑って、大切な、かけがえのない誰かの胸に飛び込んで行くんだ。

はやくそんな日が訪れますようにと願いながら、忍術学園に向かって歩いて行く。途中、風に乗ってふわりといい匂いが漂ってきたので「今日の夕飯は何かな」と独りごちた。さんは「私は温かいものがいいな」と呟いたので、それからちょっとだけ会話を重ねた。

もしおでんだったら土井先生ガッカリするかも。
食堂のおばちゃんに見張られて、いつまでも食堂から出られないままで。

そんなことを話しているとさんの小さな笑い声が聞こえてくる。やっと笑ってくれたことが嬉しくてちょっとだけ足取りが軽くなった。
段々と見えてきた忍術学園の門の前には人影があって、こちらに気づいたのか「おおい」と声を上げて手を振っている。噂をすれば、だ。
門の前、土井先生の元にまで辿り着くと、先生は「おかえり」と言った。「ただいまです」と返せばニコニコ笑いながら頭を撫でてきた。結った頭がぼさぼさになりそうな力加減で、今手を握っているさんのそれとはまるで違うな、なんて考えながらも甘んじて受け入れる。一頻り撫でられた後、ちょいちょいと荒れた髪の毛を整えながら足元を眺めた。一番大きな足は土井先生。次点でさん。一番小さな足は自分のもの。

そこでふと、まださんの「ただいま」が聞けていないことに気がついた。
今、さんはどんな顔をしているんだろう。
視線を上げようとしたそのとき、さんの足元にぽたりと水滴が落ちた。一粒だけ落ちた水滴が地面の色を少しだけ変える。

これは、雨じゃない。
とうとう溢れてしまったのか。いや、もしかしたらもうずっと前から溢れてしまっていたのかもしれない。
ああ、もう少し遠回りしてきたらよかった。きっと土井先生は訳が分からず慌てふためいて、そしたらさんはなんでもなかったように笑って誤魔化してしまう。

そんなふうに後悔しても時を戻すことはできなくて、さんの顔を見ることもできずただ静かに手をぎゅっと握り返した。
静寂の中、とにかく混乱しているであろう土井先生をどうにかしなきゃと頭をもたげて口を開いた。けれど見上げた先生の表情は予想していたものとは違って。土井先生は優しげな表情を浮かべてさんのことを見つめていた。さんの名前を呼んだ先生はいつも通りで、…ううん、何だかいつもよりも柔らかい雰囲気を纏っているように感じた。

「今日はきり丸とどこへ?」と問う。外出届を出したから聞かずとも行き先なんてわかっているはずなのに。
さんがすん、と鼻を啜る音が聞こえた。それからしばらくして「町へ。学園長先生のおつかいに」とさんは答えた。

道中、何もありませんでしたか
町の様子はどうでしたか
何か気になる店はありましたか

少し言葉に詰まりながらも、さんは土井先生の問いかけにゆっくりと答える間、繋いだ手がゆらゆらと揺れていた。いつの間にかあの一粒の水滴が落ちた地面は元の色に戻っていて、どこに落ちたのかもわからなくなった。

もしかして、土井先生は全部分かっていたんだろうか。だからこうして俺たちが帰ってくるのを待っていたんだろうか。

とても穏やかにさんに声をかけ続ける土井先生をじっと見つめる。土井先生は最後に一つ、「楽しかったですか?」と問いかけた。さんはきゅっと握った手に力を込めて、「はい」と噛み締めるように答えた。「きり丸くんと、一緒だったから」と小さく呟いた彼女を見て土井先生は満足そうに笑った。そして一呼吸の後、さんが自ら口を開いた。

夕日が、とても綺麗だったんです
田んぼが茜色に染まって、息を飲むくらい美しかったんです

さっきまでのさんとは打って変わって、ポツポツと言葉を紡ぐものだから驚いて、ついさんの方を振り向いた。どんな顔をしているのかと衝動的にそうしてしまったのだけれど、俯きがちな彼女の顔に髪の毛が垂れかかっていて表情はよく見えなかった。
そんな自分とは裏腹に土井先生はまるでこうなることが分かっていたかのように落ち着き払っており、優しく相槌を打っている。

自分は、ただ手を握って引っ張ることしかできなかった。
けれど土井先生は言葉のみでさんの心を優しく解きほぐして、その心の内に触れて見せたのだ。

土井先生って、すごいなぁ

純粋にそう思わずにはいられなかった。

「あんな景色、今まで見たことなくて。見惚れちゃって。」
「はい」
「だけど、ちょっと。ほんのちょっとだけ、…」

さんの言葉が途切れる。ひくっと喉を震わすような音が聞こえた。髪の毛の隙間からさんが唇を噛み締めているのが見えて、この先を言ってしまってはいけないと自分に言い聞かせているような、そんな気がした。再び繋がれた手が揺れ出す。
何か掛ける言葉を探したけれどやっぱり出てこなくて、助けを求めるように土井先生に視線を向けた。先生は目が合うとフッと笑って、そして俺と繋がれた方とは逆の、さんのもう片方の手をそっと掬った。僅かに腰を曲げて控えめに彼女の顔を覗き込んだ先生は「さん」とまるで小さい子供に諭すかのような慈愛に満ちた声音で名前を呼んだ。
土井先生の手に重なったさんの手がピクリと震えて、ついにはゆっくりと頭を上げる。

「寂しく、なっちゃいました」

困ったように眉を下げて笑うさんに、土井先生は慰めの言葉をかけたりはせず、ただ一言、「ええ」と頷いた。

「……はやく、帰りたいなあ、って、」

どこへ、だなんてそんなことは聞けるはずもなくて。さんの一言にチクリと胸が痛んだ。

「私は、さんが帰ってくるのを待っていました。」

土井先生の言葉にさんが目を丸くする。パチパチと瞬きを繰り返す彼女の目尻は濡れていた。

「いや、私だけじゃないな。一年は組の良い子達や他にもたくさん、さんの帰りを待ち望んでいる人が、ここにはいますよ。」
「そう、ですか…」

さんは土井先生の言葉を噛み締めるように頷く。
そして「嬉しいなぁ…」と少し掠れた声で呟き、へにゃりと頬を緩めて笑って見せた。

「土井さん」
「はい」

さんは俺の手と、そしてきっと土井先生の手も。優しく握って深呼吸をすると、

「ただいま、帰りました」

と照れたように笑って言った。





それから三人で学園の門をくぐって、さんは食堂のおばちゃんのお手伝いをしたいから、と先に行ってしまった。それは一人になるための単なる言い訳かもしれないけれど、引き止めることはなくさんの背中を静かに見送った。

「…僕、土井先生になら譲ってもいいかもって思っちゃいました」

不意にポロリと口からこぼれた言葉。すると隣の土井先生が信じられないものを見るかのような目つきでこちらを見ており、かと思えば慌てふためきながら身体のあちこちを触って何か確かめ始める。

「あのドケチのきり丸が“譲る”だと…!?い、一体どうしたんだ?どこか具合でも悪いのか!?」

そう言われてあっと自分の口を覆った。

確かに、俺ってば何を言っているんだろう…!?
“譲る”だなんて俺の信念が許さない!許すはずがないじゃんか!!

「やっぱり嘘です!今のナシ!!譲るのはやっぱ駄目だ!」
「何を…?」
「うーーーんでも…半分…いやっ七三くらいの割合ならっ!」

「だから何のことだ!」と不審がる土井先生を他所にうんうんと唸りながら頭を掻きむしる。

だって、土井先生みたいにさんの心の蓋にそっと手を添えて、キツくしまったそれを優しく開くなんて俺にはできない。あれは土井先生だから、土井先生にしか、できないことだ。
きっとさんはこれからもふとした瞬間に望郷の念に駆られては一人立ち止まってじっと涙を堪えるのだ。そんなさんの手をいつでも握れるとは限らない。自分一人じゃ到底補いきれないのだ。
それが無性に悔しくて悔しくて、やるせなくて。でもどうすることもできなくて、土井先生の懐に飛び込んでドンドンと胸を叩いた。

「どうしたんだきり丸。なんだか今日は変だぞ」
「どうもこうもないっすよぉ…」

バカみたいな八つ当たりをする俺の拳を先生は嫌な顔一つせず受け入れる。

俺もこうして、土井先生のように全部全部受け入れられるようになりたい。悲しさも寂しさも、丸ごと全部受け止めて。そしたらさんは楽になるんだろうか。

さんの手のひんやりとした温度がまだこの手のひらに残っている。
グッと手を握りしめた手をダラリと力なく下ろす。油断したら土井先生の服か地面を濡らしてしまいそうで。ただ頭をグリグリと先生のお腹に押し付けた。

「俺…大きくなりたい…」
「ああ」
「早く、早く大人になりたいです」
「うん」
「そしたら、きっと、」

蚊の鳴くような、ほとんど消え入りそうな小さな声で呟いているのに、土井先生は全部聞き取ってさんにしたように相槌を打ってくれる。

きっと、___

その言葉の続きは言うことができなかった。幼子をあやすようにトントンと背中をさする振動を、不覚にも心地良いと思ってしまう自分はやっぱりまだ子供なのだ。

「きり丸は…さんの心の支えに、なりたいんだね」

「お前は立派だよ」
「全然、そんなことないじゃないですか」

土井先生がいなかったらさんがあんな風に笑うことはなかったのに。

思わず眉間に皺が寄る。鼻を啜って顔を上げ、土井先生の顔をギッと睨めば安らかに微笑む先生と目が合う。

「きり丸。他人を、心の底から信頼するのは容易なことじゃないんだ。」

「でもな、お前が真摯に、さんと向き合えば、さんは必ずそれに応えてくれる。」

彼女はそういう誠実な人だよ、と土井先生は言い切った。

「焦らなくていい。等身大のお前でいい。」

土井先生はその大きな手でゆっくりと俺の頭を撫でながら続けて言う。

「もっとも、お前は既にさんに信頼されているがなぁ」
「全然、まだまだじゃないすか…」
「言うねえ。お前がそんなことを言うんじゃあ、この学園の誰も敵わないよ。」

参ってしまうなあと声を上げて笑う土井先生を見ていると、重苦しかった心が軽くなった。

やっぱり土井先生はすごいや。

そう思って、でもさっきまでの弱気な自分を見られて、挙句慰めてもらったことが恥ずかしくて。心の中に渦巻くいろんな感情に整理をつけたくて、訳も分からず先生のお腹にドンっと拳を突いた。

「ふぐっ…!な、なんだ急に…!?」
「別に!!!」

「土井先生も、もっと頑張ってくれないと困ります!!」
「え?何を?」
「何でも、ですっ!!」

イーッと歯を剥き出して顔を顰める。そしてお腹を抑えて首を傾げる先生を置いてすぐさま駆け出した。
「何を頑張ればいいんだー?!」なんて先生の叫び声が聞こえるけど、教えてなんかやらない。きっと土井先生はさんに向ける自分の眼差しが、一体どんなものか知らないんだ。先生も俺や誰かに譲ってばかりいないで、ちゃんとさんと向き合ってもらわないと。

走って走って。土井先生の声が聞こえなくなって。
乱太郎達が待っているであろう長屋が見えてきて。
さらに速度を上げて自分の部屋へと向かう。


俺は、自分の居場所の作り方を知っている。
無くしてしまったそれを、そっくりそのまま取り戻すことはできないけれど。それでも帰りたいと思える場所は何度だって新しく作ることができるのだ。
だから、きっとさんもそんな居場所を作ることができるはず。
どうかここが、さんにとっての寄辺となりますように。

そんなことを願いながら、淡い光が灯る温かな根城へと飛び込んだ。

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