春の湊

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とある大学生の女の子
ある日突然時を遡ってしまった女の子が室町時代を必死に生き抜くお話
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灰色の雲が空を覆っているせいか、忍術学園は薄暗くなっている。
日差しがあるのとないのとでは全く空気が異なる。にとっては古めかしいこの学園は影があるとどんより重苦しく見えて物陰から何かが飛び出してきそうな気がする。陰った昼間でこれだけ薄気味悪いのに、真夜中は一体どんな顔を見せるのだろうと想像してゾクゾク鳥肌が立った。
…知りたくないな。すごく、怖そう。

さん、こちらの書物や資料を図書室に届けてもらいたいのですが…頼んでもよろしいですか?」
「っ!はいっ」

変なことを考えていたせいで吉野の声かけにすらビクッとしてしまった。吉野が不思議そうに首を傾げたが愛想笑いを浮かべて吉野が指すそれに視線を移した。巻物と紐で縛られた本と、まとまった紙。巻物ってなんだかすごく、昔!って感じ…としげしげ見つめるが辺りを見渡せば事務室のそこらに普通に置いてある。シュルシュルって、開けてみたいよねえ…と子供のような願望がちらつくがそんな思考を追い払う。

「あの、でも…今小松田さんがなさっていることを私がやった方が…」

そう言ってチラリと小松田に視線を向ける。彼は今、生徒に配るお知らせや宿題などを一枚一枚手に取り、それぞれの封筒に仕舞い込んでいる。至って単純な仕分け作業だ。
は決して楽な仕事の方を選びたいわけではなく、正規の事務員とただのお手伝いとでは出来ることに雲泥の差があるわけで。もったいなくないですか…?と純粋に思った。
彼女が言わんとしていることを察した吉野は「いいですか」と少し身を屈めての目を見た。

「貴女の仕事は丁寧で、確実です。」

「よって、私はさんを信頼しています。」

おどおどしながらたった二日しかお手伝いしていないのに…と困惑するが、それを読み取ったのか吉野は念押しするように「たったの二日でも、です」と言い切る。

「頼まれてくれますか」
「あ…、し、承知いたしました…」
「ありがとうございます。それを届け終えたら今日の事務の手伝いはおしまいです。」

小さく頭を下げたは緊張した面持ちでそっと書物を抱えて歩き出した。事務室の出口はほんの数歩先で、特段難しい仕事でもないが子供の初めてのお使いを見守るような感覚でそこまで着いていき、いつもより恐々とした足取りで廊下を歩くの背を静かに見守った。

***

信頼、かあ…
は吉野の言葉と、以前シナに言われたことを思い出していた。
私のことをよく思わない人に私はどう接し、なんと言ったら良いのだろう。もし私が通っている学校に突然素性の知れない人がやって来て、家に帰れる日までここでお世話になるよと言われたら?
何それすごく怖い…
寝食まで共にして、日中はお手伝いだと校内をうろちょろしたら?
やだ、すっごい不審者…

立ち止まって思わず顔を顰める。ずっと自分のことばかりで精一杯だった。
疑われて当然というか警察に突き出されたって当然じゃない、こんなの。
足や手の指先が冷たくなっていき軽く眩暈がした。ズキズキと痛み出す頭をちょっとでも叩けたなら思考がスッキリしそうだが生憎手が塞がっている。
まずはちゃんと仕事をこなさなきゃ…とよろめくように足を踏み出した。

「ああ…まずった…」

あれから重い足をなんとか動かしていたのだが余計なことに気を取られていたせいかどこかで道を間違い完全に方向感覚を失っていた。
「どこも似たような作りでよく迷っちゃうんだよねぇ」と小松田が言っていたことを思い出す。ここで働いている彼でさえ迷うというのにどうして私が迷わずに辿り着くことができようか。『信頼しています』と吉野の言葉がリフレインする。鈍く痛む頭がひどく重くて、思わず壁に肩をついた。
迷路って確か左手の法則があったよなあ…雨降り出すのかなあ…なんか廊下の先の影怖いなあ…お化けでそう…とどうでもいいことばかりがぼんやり頭に浮かんでは消え、思考を鈍らす。

「あのー…」
「ひぃえぇえ…!!」

唐突に背後から聞こえた声にとんでもなく情けない悲鳴をあげてしゃがみ込んだ。お化けとか考えるんじゃなかった。ぎゅっと目を瞑ってさらに襲ってきた頭痛に耐えていると今度は前から声がかかり、片目を薄く開いた。

「は…」

青紫の着物にふわふわと癖のある茶髪。目が合った瞬間にああまた醜態を晒してしまったと口元が引き攣った。

「大丈夫ですか?」
「はぃ…ほんと、なんともありません…」

顔を逸らして消え入りそうな声で返事をする。立ち上がるために足に力を入れると、座り込んだことで書物のバランスが崩れてしまったのか腕の中から巻物が滑り落ちた。やってしまった、と巻物がスローモーション再生で落ちていくのを見つめていたらパシッと掴まれ空中で静止した。

「すみません、驚かせちゃって」と申し訳なさそうに頭を下げる彼の様子に怪訝な目を向ける。一昨日はあんなにケラケラ笑ってたのに。
ありがとうございますと頭を下げれば荷物持ちますよなんて返ってきて、私はまた揶揄われているんだろうか…とおっかなびっくり彼の様子を伺う。
手元に残ったのは資料の束だけで、重いものは全て彼が持ってくれている。

「あのぅ…申し訳ないので、その、」
「気にしないでください、怖がらせてしまったお詫びなんで…」

「これどこに運ぶんですか?」とニコニコ笑う彼がなんかもう、ちょっと怖い。ただ迷っていたため道を知ることができるのは嬉しいなと行き先を伝えた。すると「僕と一緒だ」と笑いかけてくる。

こんなに物腰柔らかな人だったっけ…?

冷え切った指先をさすりながらおずおずと彼の後ろをついて行った。
そうしてたどり着いた図書室を前にホッと息を吐く。

「ところでこれって…」
「あ…事務室からの、お届け物なんです。
あの、ここまで本当にありがとうございました」
「あっ!さんだっ」

図書室の方からひょっこり顔を覗かせたきり丸がの元に駆け寄る。「雷蔵先輩と一緒にきたんですか?」と言われて小さく声を上げた。

「らいぞう先輩…?」

きり丸から視線を戻して癖毛の彼を見ると「はい、不破雷蔵です」とニッコリ笑顔を浮かべた。えぇ…ええ…?と頭を傾げて資料の束で口元を隠しながら囁くように尋ねる。

「えぇ、と…き、記憶違いでなければ、鉢屋三郎さん?では…?」

キョトンとしたのち何か納得したようにフッと笑い声を上げる雷蔵。

「貴女の記憶の中の鉢屋三郎とは別の、不破雷蔵です」
「鉢屋先輩は変装の達人で、普段はこちらの雷蔵先輩の顔を借りているんです」
「えぇ…変装…?忍者みたい…」

「忍者ですよ。忍たまだけど」となんだか聞き覚えのある言い回しにビクついてしまったが雷蔵は純粋そうな笑みを浮かべて揶揄うような素振りは全くない。

「ごめんなさい、変な態度をとってしまって…私てっきり…」
「俺もよく見間違えちゃうんスよね〜」
「私は、んん…間違えなさそう、だなぁ…」
「本当ですか?ちょっと嬉しいな」

だって性格が全然違うもの…と心の中でつぶやいてしまう。

「ところでさんは何しにきたんすか?」
「この、荷物を図書室に届けるようにって頼まれてきたんです。実は迷っていたから…不破さんに途中で会えて本当によかった…」

「ありがとうございます」と改めて頭を下げるにいえいえと笑いかける雷蔵はやっぱり穏やかで、絶対間違えやしないな…と思った。
結局図書委員だという雷蔵に資料の束まで受け取ってもらい、は興味深げに図書室を目で追う。薄暗くて少し怖いけど背の高い棚にいろんな書物が積まれている様子は見知った空気を醸し出していて懐かしさを感じられる。きり丸くんと不破さんは図書委員なんだ。この学園にも図書委員会があるんだ。と親近感を覚えた。
頭痛に意識を引き戻されてパチリと一つ瞬きをする。そろそろ戻ろうと一歩足を引きかけるもきり丸が「待ってさん」と図書室の中へ入っていくためそのまま静止した。数秒の後きり丸は図書委員会の面々でーす!と生徒を引き連れてきた。そりゃそうか、図書委員が二人だけなはずないよね…と突然増えた生徒たちにビビりながら肩をすくませる。
きり丸が「こちらは今忍術学園で話題になっているお姉さんの、月ヶ瀬さん!」だなんて紹介するから目を見開いて固まってしまう。そういえば一年は組の生徒たちと話をしてあの場ではいろんな誤解を解いたけどもしかしてあの噂は他の生徒たちも知っているのだろうか。そうだとしたらもう、恥ずかしすぎて顔を合わせられない。
冷や汗がたらりとこめかみを流れ落ちる。肩身の狭い思いでなんとか自己紹介を終え改めて彼らの顔をそうっと見つめる。しかし、きり丸から雷蔵までたどった視線はそのまま先の深緑の着物の彼に行き着くことができず、頬の傷跡より上を向けなくて唇を噛み締めた。

6年生の図書委員会委員長、中在家長次さん

図書室から出てくる時に見えた目つきが怖くて目を合わせたらなんだか、その目力だけで握りつぶされてしまいそうだと思ってしまった。両手を握りしめて気づかれないようにそろりと後ずさるときり丸に手を掴まれて肩が飛び跳ねる。

さんすんごい緊張しいなんです。土井先生も俺たちに困らせるな〜って言ってきて!」
「中在家先輩はちょっと顔怖いけど根は優しくてすんげえ頼れる先輩なんすよ!」

長次とそれぞれに向けてフォローを入れるきり丸は場を繋ぐことが上手なのだろう。意を決して恐る恐る顔を上げた。ドッと一際強く心臓が音を立ててその速度を早める。じっと見つめられて息が苦しくなり、吐く息に音をのせる。

「よ…よろしくお願いいたします……」

もはやただの息の音。そもそもよろしくお願いしますってなに、何をよろしくするの、とよくわからないツッコミを心の中で入れる。泣きそうになりながら長次を見つめているとゆっくりと口が開いた。

「……」

もそ、と小さくうごいた口と僅かな空気の振動。

「あ、ああ…いえ…」

母音のみで構成されたの返事はちょっぴり間抜けで、ただ長次が挨拶を返してくれたことは多分聞き間違いではなくて残りの息を大きく吐いた。きり丸の「やっぱり!」という声が響き、ようやく長次から視線を外すチャンスができたとこれ幸いと言わんばかりにきり丸に目を向ける

さんも声ちっせーから、おんなじくらい声がちっせー中在家先輩の声聞こえるんだろうなって思ってたんすよ!」

すごいすごいと長次を除いた図書委員に褒められるが、小心者すぎて僅かな音にもほんのちょっぴり敏感なだけなんです…と心の中で呟く。とはいえ多分、こんなこと言っているんだろうなくらいにしか聞き取れなくて、もし知らぬ間に話しかけられても気づかなかったりして、なんて考えた。ちょっとでも打ち解けられたからか、妙に気が抜けてへらりと笑みを浮かべる。次の瞬間脳の奥に響くような頭痛に襲われ、たまらず目を瞑った。きり丸たちの話し声がザワザワと耳に響く。瞬間の脱力感と振動にピクピクと震える瞼をなんとかこじ開けた。

そんなに長い間目を閉じていたのだろうか。目の前には焦ったような表情の久作が見える。あれ、彼、さっきは頭のてっぺんが見えてたはずなのに…とボンヤリ考える。唇が震えて引っ詰めた息を震えながら吐き出す間、背中に回された硬い腕の感触と全く力の入っていない自分の足に気づいた。
焦りながら身を捩って体勢を立て直そうとするも回された腕に寄りかかってしまいついには床に座り込んだ。

ごめんなさい、ほんとにすみませんと口を動かしながら耳鳴りと頭痛に耐えるように顔を覆う。何度も息を吸って吐いて、落ち着け落ち着けと心の中で唱える。

_____…

……さ…

さん!!」

きり丸は突然頽れたに動揺して何度も大きな声で呼びかけた。長次が咄嗟に手を伸ばしたおかげで床に打ち付けられずに済んだ彼女の身体はぶるぶると震えていて息を吸う毎に大きく肩が上下する。
もう一度呼びかけようと口を開いたその時、長次が片手をスッと突き出して制した。がヒューヒューと息を吸う音が響く。

「医務室へ、運びます」

長次はの耳元に口を寄せてゆっくりと呟いた。そうして力の抜けた彼女を抱き抱え立ち上がる。雷蔵に目配せをするとくるりと背を向けて足早に歩き出した。
そのあとを追おうときり丸は足を踏み出したが雷蔵に肩を掴まれてしまう。行かせてくれと振り向き目を見つめるも「任せよう」と呟く彼にそれ以上は何も言えず、ただ手のひらに残ったの指先の冷たさが消えずにいた。


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